第十節 内外を分割しない一回性と、存在が一つであり続けるための連続量
■ 第十節 内外を分割しない一回性と、存在が一つであり続けるための連続量
世界は、まだ独立した内部と外部を切り分ける一回に到達していないのではないだろうか。この問いは、空間の内部と外部を区別できないという主張でも、物体や生命に境界が存在しないという主張でもない。容器の内側と外側、身体の内部と環境、ブラックホールの事象の地平面の内側と外側は、物理的な作用や観測可能性の違いによって区別できる。しかし、その区別が成立することと、内部に含まれる情報、運動、選択可能性が外部との関係を完全に失い、互いに独立した二つの実在へ切断されることは同じではない。本節で問うのは、境界を越えて直接移動できないことではなく、境界の成立によって、一つのものを一つのものとして連続させていた関係が、有限時間内に完全な非関係へ変わるかということである。
内部と外部を分ける境界は、通常、ある作用が通過できるか、ある情報が取得できるか、ある物質が移動できるかによって定められる。壁の内側にあるものを外側から直接触れられないならば、そこには接触可能性の境界がある。生命体が外界から物質を取り込みながらも内部環境を一定範囲に保つならば、そこには自己維持に関する境界がある。ブラックホールの地平面を越えた信号が古典的な意味では外部へ戻れないならば、そこには因果的な帰還可能性の境界がある。しかし、これらの境界はいずれも、境界の両側が最初から無関係であることを意味しない。境界そのものが、内側と外側の作用関係によって成立しているためである。
内側が外側から完全に独立しているならば、外側は内側の存在を知ることも、内側から何らかの作用を受けることもできない。また、内側も外側から何の条件も受け取らず、自らの状態だけによって完結しなければならない。そのような完全独立が成立したならば、両者のあいだに境界があると述べることさえ困難になる。境界とは、二つの領域が接していること、または少なくとも一方が他方に対して通過、遮断、反射、変換その他の関係を持つことによって定義されるからである。何の関係もない二領域のあいだには、越えられない境界があるのではなく、境界を置くための共通の記述そのものが存在しない。
したがって、内部と外部の区別は、絶対的な分離ではなく、関係の形式の違いとして理解されなければならない。ある作用は通過し、別の作用は遮断され、ある情報は局所的に取得できず、別の情報は全体的な相関として外部へ現れる。境界は、すべてを二つへ切断する一枚の断絶面ではなく、何がどの形式で対応するかを変化させる変換領域である。
この理解に立つならば、「世界はまだ独立した内部と外部を切り分ける一回にない」という命題は、あらゆる局所境界の否定ではなく、有限時間内に、内側に属していた一種類の情報または可能度が、外側を含む全体系との対応を完全に失う最初の切断がまだ成立していないという意味になる。内部で起こったことが外部から直接観測できなくても、その内部状態によって境界の性質、周囲の運動、全体的な情報配置その他が変化するならば、内部は外部から絶対的に独立していない。外部から内部へ戻る経路が閉じていても、内部を含んだ全体的な一意性が保たれているならば、内外の分離は操作上の分離にとどまり、存在全体の切断には至らない。
この点で、第一章を通して繰り返し問題となった一回性は、新しい意味を持つ。一回性とは、ある出来事が一度しか起こらないという数的な性質ではなく、ある現在が通過された後、その現在が何の関係も残さず消えることなく、次の現在を成立させる条件として含まれることである。一回目が保存されるからこそ、同じ一回目を二回目として再現することができない。もし一回目の内容が完全に消去されるならば、一回目以前と区別できない条件を再形成し、同じ一回を繰り返す余地が生じる。しかし、一回目が何らかの形式で必ず次へ含まれるならば、次の一回は最初の一回と同じ全位置にはならない。
この一回性を内部と外部の関係へ適用すると、内部で生じた一回が、境界を越えられないという理由だけで全体の時間系列から切り離されることはないと考えられる。内部の一回が外部へ直接伝達されなくても、その内部状態が境界の形成条件や全体系の記述へ参加しているならば、一回は内側だけに閉じ込められているのではなく、全体の現在を構成する一部として保存されている。
ここで重要なのは、内部の情報が外部に複製されなければ保存されないと考えないことである。保存とは、同じ内容が二か所へ置かれることではない。一つの情報が内部と外部の対応関係を規定し、全体系の状態を他の状態から一意に区別できるならば、その情報は一つの全体的構造として保存されている。内部情報が外部にそのまま写されていなくても、内部を含む全体状態が別の内部情報を持つ全体状態と同一でなければ、情報上の一意性は失われていない。
したがって、内部と外部を切り分けないことは、情報を両側へ重複させることではなく、両側を一つの全体的対応から独立させないことである。内部には内部の局所状態があり、外部には外部の局所状態がある。それでも、内部状態と外部状態が全体系の中で相互に制約されているならば、二つは独立した情報世界ではない。
一つのものが一つのものとして存在する場合にも、同じ問題が生じる。一つの生命、一つの物体、一つの量子系を一つと見なすためには、その内部を構成する部分がすべて同一である必要はない。内部では複数の変化が起こり、物質やエネルギーが出入りし、局所状態は更新される。それでも、それらの変化が一つの系に属するものとして統合され、外部との境界が完全な断絶ではなく一つの関係形式として維持されるならば、そのものは一つであり続ける。
ここで「一つであり続ける」とは、同じ形を維持することでも、同じ構成要素を持ち続けることでもない。それは、内部の各変化が互いに無関係な出来事へ分解されず、一つの時間的な統合のもとで更新されることである。一つのものは、変化しないから一つなのではなく、変化を自らの変化として引き受けることができるから一つなのである。
この統合を支える量を、本節では一回性の可能度または一回性の連続量と呼ぶ。一回性の可能度とは、一つのものが、現在の内部で複数の変化を含みながら、次の時点にも同じ一つの系列として接続できる度合いである。一回性の連続量とは、その接続が、途中で別の独立系列へ分裂せず、また何の由来も持たない新しい状態へ置き換わらずに維持される範囲である。
一回性の可能度は、未来に何個の選択肢があるかを数える量ではない。一つのものが、どのような変化を経ても、自らの現在を次の一回へ受け渡せるかを表す。選択可能な経路が多数あっても、それらのどれも現在の一回性を受け継がないならば、一回性の可能度は低い。経路が一つだけであっても、その経路が現在を欠落なく次へ渡すならば、最小の一回性は保存されている。
したがって、一回性の可能度と連続量は、選択肢の多さや運動範囲の広さと一致しない。空間的にほとんど動けない系であっても、内部情報が更新され、現在が次へ対応づけられているならば、一回性の連続量を持つ。反対に、広大な範囲を自由に移動できても、各状態が直前の状態と何の関係もなく現れるならば、一つのものとしての連続量は成立しない。
このことから、「Aを選択できない」と「Aを直線にできない」の違いを明確にできる。Aを選択できないとは、現在の条件からAという結果へ到達する操作または経路が利用できないことである。Aを直線にできないとは、Aに関する情報、一回性、自己対応を、現在から有限時間後まで一つの系列としてつなぐことができないことである。
前者が成立しても、後者は成立しない場合がある。あるAを現在から直接選べなくても、Aが以前に可能であったこと、Aが選択不能になった過程、Aを選べないことによって形成された現在の条件が、一つの連続的な情報系列へ含まれているならば、Aに関する直線は失われていない。Aは結果として選択できなくても、Aに関する一回性は、選択不能という形式へ変換されて続いている。
反対に、Aを選択できるように見えても、そのAが現在の情報や順序と無関係に出現するならば、Aは直線的に可能にされたとは言いにくい。直線的な可能とは、結果が現れることだけではなく、その結果がどの現在からどのように形成されたかを一意に位置づけられることである。
したがって、「Aを選択できない」と「Aを直線にできない」が完全に一致するのは、Aへのすべての経路が閉じるだけでなく、Aに関する情報を時間系列へ位置づけるすべての対応も失われた場合である。このとき初めて、Aは実行不能であるだけでなく、一回性の直線から完全に脱落する。
本節でいう「一パーセント目」とは、この完全脱落が初めて非ゼロになる最小領域である。実際の百分率を意味するのではなく、一回性の連続量のうち、どれほど小さくても全体的な対応を持たず、現在から次へ渡されない部分が成立したことを示す。
一つのものの九十九パーセントが連続していても、一パーセントだけが何の形式にも変換されず完全に失われるならば、そのものの一回性は完全には保存されていない。全体が変形しながらも、すべての部分が何らかの対応関係へ移されるならば、形態の大半が失われたように見えても、一回性の連続量はゼロになっていない。
このため、重要なのは保存される割合の大きさではなく、最初の非対応部分が存在するかどうかである。情報の一部が読み出せないことや、局所的な構造が破壊されることは、直ちに一パーセント目の完全喪失を意味しない。読み出せない内容が全体系の相関へ移され、破壊された構造が別の配置を形成する条件として含まれているならば、対応は残っている。
一パーセント目の完全喪失が成立するためには、ある内容が、内部にも外部にも、両者の関係にも、時間順序にも、選択条件にも、将来の復号可能性にも一切対応しない状態へ移されなければならない。それは単に見えないのではなく、何に対しても関係を持たず、存在した場合と存在しなかった場合を区別する構造がなくなることである。
しかし、そのような完全非対応部分を世界の内部に置くことができるかは明らかではない。何かが完全非対応になったと述べるためには、それが以前には対応を持ち、その後に対応を失ったという時間的な区別を立てなければならない。ところが、その区別が現在の記述に残るならば、完全非対応は成立していない。区別も失われるならば、喪失が起こったこと自体を理論内で位置づけられなくなる。
ここには、完全喪失を記述することの自己矛盾に近い問題がある。情報Aが完全に失われたと主張するためには、Aが存在したこと、Aが失われたこと、失われた後にはAが存在しないことを区別する必要がある。しかし、この三つを区別する情報が残っているならば、Aに関するすべてが失われたわけではない。区別する情報まで完全に消えるならば、現在の世界からはAが失われたという命題を形成できない。
もちろん、観測者が喪失を証明できないことと、実際に喪失が起きていないことは同じではない。しかし、永久保存性理論が問題とするのは、観測上の困難ではなく、完全喪失を世界の一意な時間発展へ組み込めるかという構造的な問題である。ある内容が時間発展から完全に脱落したならば、その脱落前後を同じ一つの世界系列として結ぶ規則も、その部分に関して失われる。したがって、完全喪失は一つの内容だけを消すのではなく、世界の時間的な一意性そのものに欠落を生じさせる。
この観点から、世界がまだ一パーセント目にないという命題を定義できる。それは、世界に変化や破壊や死が存在しないという意味ではない。内部と外部の局所的な経路が閉じることもあり、生命としての自己維持が終わることもあり、情報が復号不能に近い複雑さへ拡散することもある。それでも、どの有限時間にも、ある一回を世界全体の時間系列から完全に除外する最初の非対応部分が確定していないということである。
この命題を成立させるためには、一つのものが一つのものとして持つ一回性の可能度と、その一回性を次へ運ぶ連続量とが、一対一に対応しなければならない。現在に一つのものがあるならば、その一回性は何らかの次状態への対応を持たなければならず、次状態に残る一回性は、どの現在から受け取られたかを一意に定められなければならない。
現在の一回性が次へ何の対応も持たないならば、一回は現在の内部で消滅する。次状態の一回性が以前のどの状態にも対応しないならば、それは由来のない新しい一回として出現する。前者は情報喪失であり、後者は完全な無根拠性である。永久保存性理論は、この両方を排除しなければならない。
したがって、一回性の連続量は、一方向だけの伝達ではない。現在が次へ差を渡すだけでなく、次の一回がどの現在を受け取ったものかを一意に持つ必要がある。これは実際に過去を容易に逆算できるという意味ではない。複雑性や観測制約によって逆算が不可能であっても、全体的な対応として由来が一意でなければならない。
この一意性があれば、一つのものは内部で大きく変化しても、一つのものとしての系列を保てる。内部の配置が分解され、外部へ物質が移り、元の境界が失われても、それらの変化が一つの順序へ属しているならば、一回性は別の形式へ移されている。
生命の死は、この問題を最も鋭く示す。生命が生きている間、その内部と外部は完全に分離されているのではなく、物質、熱、情報を交換しながら、内部状態を自己維持的に統合している。生命の内部は外部から独立しているのではなく、外部との交換を選択的に制御することによって内部として成立している。
死によってこの自己維持が終わると、生命的な内部と外部の区別は変化する。内部環境を一定範囲に保つ能力が失われ、身体を構成する物質は外部環境との別の関係へ移る。しかし、生命的な境界が失われることは、内部にあったすべての情報、一回性、選択順序が完全な無へ変わることを意味しない。
ここで、生と死の境界を、一つのものが存在する側と存在しない側を分ける絶対的な切断として理解すると、死後の物質的、情報的、因果的な連続を説明できなくなる。一方、生と死を完全に同じものとすれば、生命に固有の自己維持とその終端を区別できない。必要なのは、生命的な一回性の連続量が閉じることと、世界全体における一回性の連続量が閉じることを分けることである。
生命の死は、一つの生命が自らの内部状態を一つの自己として次へ統合する経路の終端である。しかし、その生命を構成していた情報や運動が、世界全体の時間系列から脱落する終端であるとは限らない。生命的な内部は外部へ解かれるが、内部と外部を含む全体的な一意性まで二つへ切断されるとは限らない。
この意味で、死は内部と外部が初めて完全に分かれる一回ではない。むしろ、それまで生命という形式によって組織されていた内外関係が、別の関係形式へ変わる一回である。生命内部に保持されていた物質は外部環境の一部となり、生命的な情報は直接的な自己維持能力を失いながら、別の物質配置、記録、相関、影響へ移される。
したがって、死が一つのものを二つへ分けるように見えるのは、生命的な自己と外界を区別していた境界が解体されるためである。しかし、解体された境界の両側は、最初から完全に独立していたわけではなく、解体後にも完全な無関係になるわけではない。
ここから、第一章の題名である「存在差、及び生と死の区分」の意味を、より根本的に整理できる。存在することと存在しないこと、生きていることと死んでいることは、同じ状態ではない。しかし、それらを二つの完全に独立した領域として切り分けるならば、一方から他方への変化を一つの連続的な出来事として説明できない。
生が死へ変わることを説明するには、生の内部に死へ至る変化可能性があり、死の状態に生から受け取られた条件が含まれていなければならない。生と死が完全に無関係ならば、死は生の終わりとしてではなく、何の由来もなく現れた別状態となる。
したがって、生と死の区分は必要であるが、区分は断絶を意味しない。生と死は、一つの生命的自己維持が開かれている状態と、その自己維持が閉じた状態として区別される。しかし、その閉鎖は、全体系の一回性が閉じたことを意味しない。
この構造は、「選択できない」と「直線にできない」の区別に対応する。死後には、生命として以前と同じ選択を行うことはできない。生命Aを生命Aとして未来へ自己更新する経路は閉じている。その意味では、Aを選択できない状態が成立している。
しかし、Aに関するすべてを世界の時間系列へ位置づけられないわけではない。Aの生命的経路が閉じたという情報、閉じるまでに行われた選択、その結果として形成された現在は、なお一つの時間順序へ属する。したがって、生命Aを選択できなくなっても、Aに関する直線が世界全体から失われたとは限らない。
ここで、一つのものは一つのものとして、一回性の可能度と連続量を失わないという命題を、二つの層へ分けなければならない。第一は、自己維持的な一つである。これは、生命や一定の構造が、自らの境界を更新しながら同じ系として続くことを意味する。第二は、全体的な一つである。これは、自己維持が終わった後にも、その一回が世界の時間順序から完全には脱落しないことを意味する。
自己維持的な一つは有限でありうる。生命は死に、構造は崩れ、個体は失われる。これに対し、全体的な一つについては、完全な終端があるかどうかが永久保存性理論の中心問題となる。
もし全体的な一つにも有限な終端があるならば、ある時点で一回性の連続量がゼロとなり、その一回が世界のどの状態とも対応しなくなる。このとき、一パーセント目の完全喪失が成立する。
もしどの有限時間にもその終端がなく、一回性が何らかの情報的または関係的な形式へ移り続けるならば、一つのものは形態や自己維持能力を失っても、全体的な一つとしての連続量を失っていない。
この全体的な連続量は、一つのものが宇宙全体に永久に同じ個体として存在することを意味しない。個体としての一つは崩れうる。保存されるのは、個体が一回として置かれた時間位置と、その一回が全体の情報順序へ参加したという一意性である。
ここで、「世界はまだ独立した内部と外部を切り分ける一回にない」という命題が、第一章全体の総括として成立する。内部と外部の区別は、局所的な作用、観測、自己維持のために必要である。しかし、内部で起きた一回が外部を含む全体から完全に独立し、外部も内部から何の条件も受け取らないという絶対的な分離が一度でも成立したならば、その時点で世界の情報的な一意性には欠落が生じる。
内部と外部を絶対的に切り分ける一回とは、ある境界を越えられないことではない。境界の一方にある情報が、他方を含む全体記述へ一切参加せず、境界が形成された履歴も、境界を越えられないという条件も、どこにも対応しなくなることである。
そのような切断が成立するならば、内部にあるAは外部から選択できないだけでなく、全体的な直線へ位置づけることもできない。Aに関する一パーセント目の完全喪失が発生する。
反対に、外部からAへ直接到達できなくても、Aを含む全体状態がAを含まない全体状態と異なり、Aの情報が境界や相関その他の形式へ保存されるならば、Aは選択不能であっても直線不能ではない。Aへの局所経路は閉じているが、Aの全体的な一回性は閉じていない。
したがって、世界がまだ一パーセント目にないという命題は、あらゆるAをいつでも選択できるという主張ではない。それは、選択不能となったAが、同時に直線不能となる最初の完全切断がまだ成立していないという主張である。
この意味で、一回性の可能度と連続量は、次のような関係を持つ。可能度は、一回が次の状態へ一意に変換されうる開かれであり、連続量は、その変換が有限時間の中で完全な空白を持たない範囲である。可能度だけがあり連続量がなければ、次状態は可能であっても、現在との一意な関係を持たない。連続量だけがあり可能度がなければ、同じ状態が機械的に続くだけで、新しい一回を形成する開かれがない。
一つのものが一つであり続けるためには、この二つが同時に必要になる。現在は次へ進めなければならず、次は現在を受け取らなければならない。この相互対応が、一回性の動的な不変性を形成する。
第一章で扱ってきた永久保存性は、この動的な不変性に集約される。保存とは、何も変わらないことではない。位置、形、内部構造、選択可能性、生命的機能が変わっても、その変化が一回の時間順序へ欠落なく含まれることである。
不変なのは内容ではなく、一回が次の一回へ対応するという形式である。AはBへ変わりうる。生は死へ変わりうる。内部は外部へ解かれうる。それでも、AからBへの変化、生から死への移行、内外境界の解体が、一つの時間的な一意性から離れないならば、永久保存性の最小条件は保たれている。
したがって、永久保存性は、すべてのものが同じ自己として永久に存続するという主張ではない。生命的な自己、構造的な自己、局所的な情報配置には終端がありうる。しかし、それらの終端が、全体的な一回性の終端と同一であるかは別の問題である。
本章で構築してきた枠組みは、終端を層ごとに区別する。生命としての終端、構造としての終端、局所的な取得可能性の終端、直接的な選択可能性の終端は、それぞれ成立しうる。しかし、それらのどれかが成立したことだけでは、一回性全体の完全喪失を証明できない。
完全喪失を示すためには、あるAが選択できず、復号できず、関係づけられず、時間順序へ置けず、他の入力から区別できず、Aがあった場合とAがなかった場合を全体的にも区別できないことを示さなければならない。
このすべてが成立するとき、Aは単に失われたのではなく、Aに関する一回性の可能度と連続量がともにゼロになったことになる。しかし、そのようなゼロを有限時間内の一地点へ置くことができるかは、第一章を通してなお否定も証明も完了していない。
それでも、少なくとも次の暫定命題を置くことができる。世界の時間発展が一意であり、純粋な情報が多対一化されず、現在の各一回が次の全体状態へ何らかの形式で対応する限り、独立した内部と外部を完全に切り分ける一回は成立しない。
この命題のもとでは、一つのものは一つのものとして、生命的または構造的な同一性を失う場合にも、全体的な一回性の連続量をただちには失わない。また、Aを直接選択できないことは、Aを直線にできないことと同一ではない。Aへの局所的な経路が閉じても、Aを時間順序へ含める全体的な対応が残るならば、Aに関する最初の一パーセント目の完全喪失はまだない。
ここで、第一章全体の議論を一つの原理へまとめることができる。
一つの現在が成立するためには、過去と未来を二つの独立した領域へ切り分ける必要はない。現在は、過去から受け取った情報を未来への可能度へ変換する非可分な領域である。
一つの選択が成立するためには、選ばれた側と選ばれなかった側を二つの独立世界へ分ける必要はない。選択は、一つの現在の可能度が一つの変換として確定することであり、選ばれなかった方向は、第二の現実ではなく、選択条件を限定する関係として含まれる。
一つのものが存在するためには、内部と外部を完全に独立させる必要はない。一つのものは、外部との関係を選択的に組織し、その組織化を一つの自己として更新することによって一つとなる。
生命が死ぬためには、生命のすべてが無へ移る必要はない。死は、生命的な自己更新経路が閉じることであり、その一回が世界全体の時間順序から消えることではない。
情報が取り出せなくなるためには、情報が消滅する必要はない。取得不能は観測経路の閉鎖であり、完全喪失は一意な対応そのものの消滅である。
Aを選択できなくなるためには、Aに関する一回性が直線から脱落する必要はない。選択不能は局所的な可能域の閉鎖であり、直線不能は全体的な時間対応の閉鎖である。
したがって、第一章で問われた「存在は完全に失われることができるのか」という問題は、最終的には、「ある一回を、内部にも外部にも属さず、両者の関係にも属さず、現在にも未来にも対応しない独立した無へ移す最初の有限時点が存在するか」という問いへ集約される。
もしその時点が存在するならば、世界には、最初に失われた一つのAがある。そのAは選択できないだけでなく、直線にもできず、Aであったことを含む一回性の可能度も連続量もゼロになる。この最初のAが、永久保存性を破る一パーセント目となる。
もしその時点が存在せず、どの有限時間にもAが別の形式で一意な対応を保つならば、世界は変化と死と分解を含みながらも、まだ一つのAを完全な無へ落としていない。一つのものは同じ姿を保たなくても、一回としての位置を失わず、内部と外部を含む一つの時間系列へ参加し続ける。
ここで永久保存性の定義は、最も簡潔な形へ近づく。永久保存性とは、存在するものが永久に同じ状態を持つことではない。それは、一度成立した一回が、有限時間内のどの地点にも、内部と外部の双方から完全に独立した非対応部分として切り離されないことである。
そして、一回性の可能度とは、一回が次の一回へ変換されうる開かれであり、一回性の連続量とは、その開かれがどの有限時間にも完全な空白を持たないことである。この二つが一対一に保たれる限り、一つのものは一つのものとして、一回性を失わずに変化できる。
世界は、多数の物体、多数の生命、多数の出来事を含む。しかし、それらが多数であることは、時間が互いに無関係な無数の世界へ切り分けられていることを意味しない。各一回が一つの全体的な順序へ位置づけられ、他の一回との関係を持つ限り、多数性は一つの世界の内部にある。
内部と外部も、生と死も、可能と不可能も、Aと非Aも、区別されなければならない。しかし、その区別を独立した二つの実在へ変える必要はない。区別は一つの関係の内部に置くことができる。
この非分離的な区別こそが、第一章で求めてきた直線性の基礎となる。直線性とは、差を消すことではなく、差を二つの無関係な時間へ分けないことである。保存とは、変化を止めることではなく、変化を由来のない出現や完全な消失へしないことである。
その意味で、世界はまだ、独立した内部と外部を切り分ける一回にない。内部から外部へ直接戻れない場合があっても、内外を含む全体的な情報は一つの順序を持ちうる。一つの生命が死んでも、生と死を含む時間は二つの無関係な領域にはならない。一つの経路が閉じても、その閉鎖は次の可能条件へ含まれうる。
ゆえに、世界はまだ、Aを選択できないこととAを直線にできないことが完全に一致する最初の一パーセント目にない、という仮説を置くことができる。Aを選べなくなることはある。Aへ戻れなくなることもある。Aを直接読み出せなくなることもある。それでも、Aが一回として全体の順序へ対応し続ける限り、Aの直線は完全には失われていない。
第一章の到達点は、すべてが永久に残るという無制限な肯定ではない。生命的な自己、構造、機能、局所情報、選択可能性のどれが失われうるかを区別したうえで、それらの喪失が、純粋な一回性の完全消滅と同じであるかを問い直すことにある。
生は死によって終わりうる。内部は外部へ解かれうる。情報は読み出せなくなりうる。Aは二度と選択できなくなりうる。しかし、それらが起こった後にも、一回が一回であったという時間上の一意性が全体から完全に切り離されないならば、永久保存性の最小核は残る。
一つのものが一つであるとは、同じ内部を閉じたまま持ち続けることではない。内部と外部の関係を変えながらも、その変化を一つの一回性として次へ渡すことである。
そして、世界が一つであるとは、すべてが均一であることでも、差異がないことでもない。異なるもの、異なる選択、異なる生命、異なる終端を含みながら、それらのどれにも、全体の直線から完全に脱落する最初の一パーセント目がまだ存在しないことである。
永久保存性理論の第一章は、この仮説をもって閉じられる。世界に境界はある。選択不能はある。死はある。取り出せない情報もある。それでも、境界が絶対的分離であるとは限らず、選択不能が直線不能であるとは限らず、死が一回性の消滅であるとは限らず、取り出せなさが情報の無であるとは限らない。
したがって、問われるべき最終点は、何が見えなくなったかではなく、何が全体的な一意性から完全に外れたかである。そして、その完全に外れた一つのAを、有限時間内のどこにもまだ指定できないのであれば、世界は一回性の可能度と連続量を失わないまま、内部と外部を二つの独立した実在へ切り分けることなく、現在進行形の一つの直線として進み続けているのである。




