第49話
旧都の空から秋の柔らかな陽光が完全に失われ逢魔が時特有の禍々しい赤紫色が空を覆い尽くした頃。山の中腹にひっそりと佇む見捨てられた廃堂の周囲には鳥の鳴き声はおろか虫の音すら一切聞こえない不気味なほどの死の静寂が降り降りていた。
隙間風が吹き込む堂内には長年放置されたことによるカビと埃の入り混じった古い木の匂いが立ち込めている。だが、その淀んだ空気を上書きするように身を切るような物理的な冷気が空間全体を支配していた。
堂内の片隅。苔生した板張りの壁に背を預け、彫刻のように端正な顔立ちを深い絶望と凄まじい怒りで歪ませている景明がいた。
その大柄な体躯からはコントロールを失いかけた青白い絶対零度の冷気がとめどなく漏れ出している。
彼が深く、長く息を吐き出すたびに真っ白な呼気が空中で凍りつき、微細な氷の結晶となって床へ舞い落ちる。景明の足元から放射状に広がった霜は床板の木目を完全に覆い尽くし、壁を伝って天井の梁にまで達しようとしていた。
景明はつい数十分前まで最愛の妻の小さな手を握りしめていた自らの右手を強く握りしめた。
彼女が隣で歩くたびにふわりと漂ってきた清潔な石鹸の匂い。見上げる瞳に浮かんでいた彼への一点の曇りもない信頼と深い愛情。
そのすべてがたった一瞬の死角を突いたことで彼の手のひらからすり抜けてしまったのだ。
「……殺してやる。私の妻を奪った蟲共を一匹残らず氷河の底で粉々に砕き散らしてやる……!」
地鳴りのように低く呪詛のように重い景明の呟きが廃堂の冷たい空気を震わせる。
理性の檻をぶち破らんと暴れ狂う暗黒の殺意によって赤く血走り、今にも黄金色の雷をその身から爆ぜさせようとしていた。彼から放たれる圧倒的な威圧感はこの場所を完全なる“死の空間”へと変貌させていた。
そんな景明から数歩離れた場所で氷室が静かにしかし極めて迅速に動いていた。
彼は今、野中みのるの変装を解く最中だ。
「……少佐。焦燥に駆られるお気持ちは痛いほど分かりますが今はその無駄な冷気を少しでも収めてください。作戦を完遂する前に少佐の異能が暴走すれば、旧都の地脈そのものが凍りつき、我々の動きまで封じられてしまいます」
氷室は景明の脳内で渦巻く暴風雨のような絶望と怒りの叫びを異能によって直接浴びながらも決して顔色を変えることなく冷徹な声で告げた。
彼は肩から羽織っていた着古した絣の着物を脱ぎ捨て、袴の紐を手早く解いていく。衣擦れの乾いた音が冷え切った堂内に静かに響く。
足元に置かれた地味な唐草模様の風呂敷。その結び目を解くと中からは見慣れた軍服が姿を現した。
氷室は埃っぽい空気を一度深く吸い込み、乱れのない動作で軍服の袖に腕を通した。
ボタンを首元まで一つ一つ、寸分の隙もなく留めていく。その指先の動きには迷いも恐怖も一切ない。
最後に革製の軍帯を腰に固く締め上げ、その左腰に冷たい鋼の輝きを秘めた軍刀を帯びる。
眼鏡の位置を中指でわずかに押し上げた瞬間、彼の纏う空気が完全に切り替わった。
つい先ほどまで気弱で人畜無害な笑みを浮かべていた“貧乏書生の野中みのる”の気配は微塵も残っていない。
「……準備は整いました。行きましょう、少佐」
氷室が静かに、だが確固たる意志を込めて促すと景明は壁に預けていた背を離した。
その顔には先ほどまでの荒れ狂う狂気は完全に隠蔽され、代わりに一片の感情も読み取れない極低温の“鬼”の仮面が張り付いていた。だが彼から放たれる殺気は収まるどころか、むしろ極限まで濃縮され、刃のように研ぎ澄まされている。
「案内しろ、氷室。私の歩みを一秒でも遅らせる障害はすべて塵にして進む」
「承知しております。目指すはこの旧都における帝国陸軍・異能部隊支部です」
氷室の言葉に景明は微かに眉を動かした。
「旧都支部だと? 赫夜の拠点である廃工場ではなく、なぜ軍の支部に立ち寄る必要がある」
「旧都の東に広がる絡新婦の呪詛の結界は広範囲の地脈から力を吸い上げて維持されています。その結界の網の目を構成する呪詛の核は私の見立てでは旧都内に少なくとも五箇所存在します。これを“同時刻”にかつ“一斉に”破壊しなければ結界は瞬時に自己修復を行い、小鳥遊嬢の捕らえられている空間の歪みを解くことは不可能です」
氷室は軍服の懐から先ほど床几に広げていた旧都の地図を取り出し、指で数箇所の赤い印を叩いた。
「少佐お一人で五箇所を同時に回ることは不可能です。ですから旧都に駐留している異能部隊の全戦力を強制的に徴用し、彼らに他の核を破壊させます。我々が直接叩くのは最も防衛が強固なメインの地脈の核。……これならば結界を確実にかつ最速で崩壊させることができます」
「……なるほど。旧都の連中でも数合わせの駒程度にはなるというわけか」
景明の声は冷酷そのものだった。
愛する妻を救い出すためならば軍の正規の手続きなどという悠長なものを踏むつもりは毛頭ない。必要とあらば旧都支部そのものを物理的に制圧してでも兵を動かす。
「行こう。鈴があの忌まわしい泥の底で恐怖に震える時間を一秒たりとも延ばすわけにはいかない」
二人は夜の帳が完全に下りた旧都の街へと足を踏み出した。
◇
旧都の中心部から少し離れた、官庁街の一角。
ガス灯の琥珀色の光が石畳を照らし出す中、周囲を重厚な赤煉瓦の壁と高い鉄柵で囲まれた壮麗な洋館が建っていた。それが帝国陸軍・旧都異能部隊支部である。
帝都の中枢で日々血で血を洗うような激戦を繰り広げている西園寺部隊とは異なり、千年の都に駐留する彼らの日常はどこか平和ボケした弛緩した空気に包まれていた。
時刻は午後九時を回ろうとしていた。
支部の司令室では数名の将校と隊員たちが熱い茶をすすりながら書類整理や取り留めのない雑談に興じていた。秋の夜長を暖炉の火が優しく温め、部屋の中には安らかな空気が満ちている。
「おい、聞いたか? 帝都の“鬼少佐”が新婚旅行でこの旧都に来ているらしいぞ」
「ああ、聞いた聞いた。あの冷血漢が妻帯したってだけでも驚きだがわざわざこんな時期に旅行とはな。帝都の連中も大げさなんだよ。赫夜の残党がどうとか言っているがこの旧都は千年守られた神仏の加護がある。そう易々と怪魔が入り込めるわけがねえさ」
隊員の一人が椅子にふんぞり返りながら笑い声を上げた、まさにその瞬間であった。
突如として司令室の分厚いオーク材の扉からガラスが砕けるような異様な音が鳴り響いた。
隊員たちが何事かと視線を向けた直後。彼らの目に信じられない光景が飛び込んできた。頑強なはずのオーク材の扉が外側から急速に白く凍りつき始めたのだ。
霜は瞬く間に扉全体を覆い尽くし、真鍮のドアノブすらも青白い氷塊へと変えていく。
暖炉の火が燃えていたはずの室内の温度が数秒の間に物理的に数十度も急降下した。隊員たちの吐く息が突如として真っ白に染まり、机の上に置かれていた茶の入った湯呑みが音を立てて凍結して割れた。
「な、なんだ!?敵襲か!?」
「ひ、冷たいッ!暖炉の火が……消えたぞ!?」
パニックに陥り、慌てて腰の軍刀や拳銃に手を伸ばそうとした隊員たちの前で完全に凍りついた分厚い扉がまるで薄い飴細工のように爆散した。
「ヒィィッ!?」
無数の鋭利な氷の破片が室内を凄まじい速度で飛び交い、壁や天井の石膏に深く突き刺さる。
粉々に砕け散った扉の向こう側、漆黒の夜の闇を背負って二つの影が立っていた。
一人は隙のない帝国陸軍の軍服に身を包み、冷徹な丸眼鏡の奥から感情のない視線を向ける氷室。
そしてもう一人。大柄で屈強な体躯からこの世のものとは思えないほどの絶対零度の殺気をとめどなく垂れ流していた。
「遅い。敵襲の判断から武器を取るまでの動作があまりにも鈍すぎる。貴様らのような無能な豚の集まりにこの街の防衛を任せていたとはな」
地を這うような深く、冷たく、そして脳髄を直接凍らせるような男の低い声。その男から放たれる規格外の威圧感に旧都の隊員たちは全身の血の気を失い、恐怖で歯の根を鳴らしてへたり込んだ。
「き、貴様ら……何者だッ!ここを帝国陸軍の支部と知っての狼藉か!」
旧都支部の司令官である中佐が腰を抜かしそうになりながらも必死に虚勢を張って怒鳴り声を上げた。
しかし、その言葉に答えたのは景明ではなく、静かに前へと歩み出た氷室であった。
氷室は手袋をはめた手で自らの階級章を示し、冷徹に言い放った。
「帝都・異能特殊部隊、西園寺部隊副官、氷室大尉です。そしてこちらにおられるのが我が部隊の指揮官にして帝国陸軍少佐、西園寺景明少佐殿である。……現在より、この旧都支部の全指揮権は我々西園寺部隊が掌握する」
「な……ッ!? さ、西園寺だと……!?」
隊員たちの間に絶望的な戦慄が走った。彼らは理解したのだ。目の前にいるのは、逆らえば間違いなく自分たちを氷の彫像に変えて叩き割る、本物の化け物なのだと。
「バ、馬鹿な!いかに帝都のエリートであろうと管轄外の支部を強引に掌握するなど軍規違反だ!上層部の許可は取っているのか!」
中佐が青ざめた顔で抗議するが景明はゆっくりと室内に足を踏み入れながらコートの裾を冷風と共に翻した。
彼が歩くたびに床の絨毯が音を立てて凍りついていく。
「軍規だと?許可だと?……笑わせるな」
景明の周囲に青白い氷の結晶と共に黄金色の雷の火花が弾け始めた。
室内の空気が電気を帯び、隊員たちの髪の毛が静電気で逆立つ。極寒の冷気と数万ボルトの雷の熱。相反する二つの異能が景明の凄まじい怒りによって完全に制御を失いかけていた。
「私の妻が赫夜の蟲共に掠われた。その事実の前では軍規も貴様らの管轄も、すべては路傍の石ころ以下の価値しかない」
景明は司令官の目の前まで歩み寄るとただ極低温の視線を見下ろすように突き刺した。
「今すぐ、旧都支部に所属する全戦闘員を叩き起こせ。これは要請ではない。絶対の『命令』だ。……私に少しでも口答えをする者、行動が遅れた者は赫夜の連中より先にこの私が貴様らを氷漬けにして砕いてやる」
「ヒィィッ……!!わ、分かった!分かりましたッ!!全員、直ちに出撃の準備をしろ!!」
絶対的な死の宣告を前に旧都支部の司令官は白目を剥きかけながら絶叫した。
それを合図に弛緩しきっていた司令室は一瞬にして戦場の修羅場へと変貌した。隊員たちは転がるようにして立ち上がり、泣き叫びそうな顔で装備を整え、各小隊へ伝令に走っていく。
その狂騒の中で氷室は冷静に司令官の机の上にあった不要な書類を払い落とし、懐から旧都の地脈図を広げた。
「よく聞け、旧都の諸君。作戦は極めてシンプルかつ、一秒の狂いも許されない精密なものだ」
氷室の通る冷徹な声がパニックに陥る隊員たちの意識を強制的に引き戻す。
「目標は旧都の東に位置する廃工場を中心とした呪詛の結界網の崩壊。そのために結界を支えている四箇所の『呪詛の核』を我々が指定する時刻に全小隊の火力を集中して“同時に”破壊しろ」
氷室は地図上の赤いポイントを次々と指し示していく。
「相手は呪詛の糸を操る赫夜の怪魔だ。近づけば精神を汚染される危険がある。ゆえに遠距離からの異能攻撃、あるいは重火器による物理的な爆撃のみで核を粉砕しろ。……一箇所でも破壊が遅れれば結界は連鎖的に修復され作戦は失敗する」
「ま、待ってください、準備の時間が少なすぎます!それに東のメインの地脈はどうするんですか!」
「東のメイン地脈……最も防衛が厚い本丸には私と少佐が直接乗り込む」
氷室がそう言い放った瞬間、景明の体から黄金の雷がひときわ大きく爆ぜ、室内の照明のガラスが音を立ててすべて割れた。
完全な闇に包まれた室内を景明の放つ雷光と氷の青白い光だけが不気味に照らし出している。
「準備が整い次第、だと?……甘えるな」
景明の地獄の底から響くような声が隊員たちの鼓膜を直接殴りつけた。
「今すぐ出撃し、最短で核を砕け。……これ以上、私の妻を闇の中で待たせることは私の魂が許さん。予定時刻より一秒でも遅れた部隊の隊長は私が直々に始末してやる」
規格外の殺気と理不尽極まりない暴力の気配。旧都の隊員たちは敵である赫夜への恐怖よりも背後に立つ味方の化け物への圧倒的な恐怖によって完全にリミッターを外され、文字通り死に物狂いで飛び出していった。
軍用車両のエンジンが次々と咆哮を上げ、静かだった旧都の夜の街に凄まじい出撃の足音と怒号が響き渡っていく。
誰もいなくなった司令室で氷室は地脈図を正確に折りたたみ、再び懐へとしまった。
「……さすがは少佐。恐怖による部隊の掌握と行動の強制、完璧な手腕です。旧都の連中も自らの命がかかっていれば物理的な限界を超えた最短最速で配置につき、一秒の狂いもない同時破壊を絶対にやってのけるでしょう」
氷室が眼鏡のブリッジを押し上げながら言うと景明は割れた窓ガラスの向こう、鈴が捕らえられているであろう薄汚い闇の方向を狂おしいほどに熱く、そして冷たい瞳で睨み据えた。
「行くぞ、氷室。……鈴を泣かせた罪がどれほど重く、どれほど残酷な対価を支払うことになるか。あの蜘蛛女に身の程を教え込んでやる」
コートの裾が大きく翻り、二人の男は夜の闇へと飛び出していった。
◇
旧都の東に位置する見捨てられた廃工場の地下深く。
分厚いコンクリートの壁に囲まれたその空間は外界の光も音も完全に遮断され、まさに墓所のような静寂と暗闇に支配されていた。
天井のどこかから、粘り気のある水滴が一定のリズムで冷たい床に滴り落ちている。その音が閉ざされた空間に不気味に反響し、微かな鉄の錆びた匂いと長年澱んだカビの臭いが鼻腔を突く。
そして何よりこの地下室の空気を最も異様で息苦しいものにしているのは空間を這い回る、むせ返るような甘ったるい香水の匂いであった。
「……生意気な小娘じゃ。わらわの支配の糸を自らの精神の力だけで弾き返すとはな」
暗がりの奥から硬いヒールの音が響き渡る。
闇の中に浮かび上がったのは血のように赤い口紅を三日月のように歪めた絡新婦だった。彼女は手にした長いキセルから紫色の煙を吐き出し、忌々しげに目を細めて冷たい床を見下ろした。
彼女の華奢な手首や足首には目に見えない強靭な呪詛の糸が何重にも絡みついている。しかし鈴の瞳には先ほどまでのようなパニックに陥った恐怖の色はなかった。
(景明様は必ず助けに来てくださる。……だから私はそれまで絶対にこの心を守り抜く!)
鈴は冷たいコンクリートの床から上体を起こし、絡新婦の禍々しい視線を真っ直ぐに見つめ返した。
「あなたの糸はただ人を傷つけて縛り付けるだけの冷たくて醜いものです。……誰かを想って紡がれたわけではないそんな糸に私の心が縛られるはずがありません」
鈴の声が湿った地下室の空気を浄化するように響いた。その気高くも純粋な反抗の言葉に絡新婦の眉が跳ね上がり、次いで喉の奥から転がるような低く濁った嗤い声が漏れた。
「クククッ……アハハハハッ!随分と威勢のよい小鳥よのう。帝都の鬼少佐殿に溺愛されて、自分まで強くなったつもりでおるのか?……愛だの想いだの、虫唾が走るわ」
絡新婦はキセルを乱暴に放り捨てると豪奢な着物の袖を大きく翻した。
その瞬間、彼女の十本の指先から、先ほどの目に見えない捕縛の糸とは全く違う、極彩色に毒々しく輝く“別の糸”が音もなく伸びた。
それはまるで血管のように赤紫から青黒い色へと不気味にその色を変容させながら空中で蠢いている。
「わらわの“幻惑の糸”の恐ろしさをお主のその小綺麗な心臓に直接刻み込んでやろう。……お主がすがっておるそのちっぽけな希望がどれほど無惨に打ち砕かれるかその目でとくと味わうがよい!」
「ッ……!」
鈴が身構えるよりも早く、“幻惑の糸”は空間を歪めながら凄まじい速度で襲いかかった。
糸は瞬く間に霧のように形を無くし、鈴の皮膚の毛穴から、呼吸の隙間から、そして瞳の奥から脳髄へと直接染み込んでいったのだ。
「あ、ぁ……ッ!?」
脳を直接鋭い針で貫かれたような激痛が走り、鈴の視界がぐにゃりと歪んだ。
三半規管が狂い、上下の感覚が消失する。冷たいコンクリートの床の感触もむせ返るような香水の匂いも、絡新婦の嘲笑う声も、すべてが深い泥の底へ沈むように遠ざかっていった。
◇
(……ここは、どこ……?)
気がつくと鈴は一面を深い霧に覆われた見知らぬ空間に立っていた。
先ほどまでの地下室ではない。足元はひどくぬかるんでおり、冷たい泥の感触が靴底から伝わってくる。
周囲は静まり返り、自分の心臓の音だけが耳の奥で早鐘のように異常な大きさで鳴り響いていた。
(幻覚……? 絡新婦の異能が見せている世界……?)
鈴が恐怖で身体を強張らせながら周囲を見回した、その時であった。
霧の向こう側から重く、引きずるような足音が聞こえてきた。
「……鈴……。どこだ、鈴……」
「え……?」
その声に鈴の心臓が大きく跳ねた。
低く、深く、世界中の誰よりも安心を与えてくれる大好きな声。
「景明、様……? 景明様ッ!!」
鈴は泥に足を取られそうになりながらも声のする方へと無我夢中で駆け出した。
彼が来てくれた。この恐ろしい闇の中から私を助け出してくれたのだ。その希望の光が鈴の顔に歓喜の涙を浮かび上がらせる。
だが、霧が晴れ、その姿が完全に視界に飛び込んできた瞬間、鈴の喉から息を呑む音が漏れ、全身の血液が完全に凍りついた。
「あ……、あぁ……嘘……」
そこに立っていたのは確かに西園寺景明であった。しかし、彼がいつも隙なく着こなしている帝国陸軍の軍服は見るも無残に引き裂かれ、どす黒い赤色で染まりきっていた。
大柄で屈強な体躯は至る所から鮮血を吹き出し、彫刻のように端正な顔立ちには苦悶の表情が深く刻まれている。彼が足を引きずるたびに足元の泥が血の海へと変わっていく。
「景明様ッ!!嫌、どうしてこんなに血が……ッ!」
鈴は悲鳴を上げながら駆け寄り、倒れ込もうとする彼を必死に支えようとその腕を伸ばした。
だが、鈴の手が景明の軍服に触れた瞬間、生暖かい感触と共に強烈で濃密な鉄の錆びたような“血の悪臭”が鼻腔を暴力的に犯した。幻覚であるはずなのに指先にこびりつく粘着質な血の感触、咽せ返るような生臭さ、そして景明の身体から急速に失われていく熱が狂おしいほどの現実感を持って鈴の五感を破壊していく。
「私のせいで……!」
「……鈴……」
景明が血を吐きながら力なく鈴の顔を見下ろした。
長く美しい睫毛が血に濡れて重く垂れ下がり、その瞳には光がない。
「どうして……お前は私の手を、離したんだ……」
「ッ!!」
「お前を……お前を探すために、私は……。……なぜ、逃げなかった。なぜ、無力なまま……私の足を、引っ張る……」
その言葉はどんな鋭利な刃物よりも深く、残虐に鈴の心臓をえぐり取った。
彼が傷ついたのは自分のせいだ。自分が弱かったから、彼はこんなにも無残な姿になってしまった。凄まじい自責の念と罪悪感が呪いの鎖となって鈴の首を締め上げる。
「違う……ごめんなさい、ごめんなさい景明様ッ!死なないで、お願いッ!!」
大粒の涙をこぼし、血まみれの景明の身体にすがりついて絶叫する鈴。
だが次の瞬間、景明の身体は崩れるように泥の中へ溶け落ち、鈴の腕の中にはただのどす黒い血の塊だけが残された。
「あああああぁぁぁぁッ!!」
鈴の絶叫が霧の世界に木霊する。完全に心がへし折れ、絶望のどん底へと突き落とされたその直後、不意に周囲の泥と血の匂いが嘘のように消え去った。
視界が急激に晴れ渡り、空気の質が切り替わる。
鈴が呆然と顔を上げるとそこは血の海ではなく、見覚えのある場所、西園寺邸の、あの美しい客間へと変貌していた。
しかし、空間の色はどこか灰色がかっており、一切の温もりを感じさせない冷たさに満ちている。
そして、部屋の中央の革張りのソファに一人の男が深く腰掛けていた。
軍服に一滴の血の汚れもなく、髪の一筋すら乱れていない、完璧で美しい状態の景明である。
「……かげあき、さま……?」
幻覚の変容に思考が追いつかないまま、鈴は縋るように彼へと歩み寄ろうとした。
しかし、ソファに座る景明がゆっくりと顔を上げ、鈴を捉えたその“眼差し”を見た瞬間、鈴の足は床に縫い付けられたように止まってしまった。
それは絶対零度の氷よりも冷たく、路傍の汚い石ころを見下ろすような完全なる“軽蔑”の瞳だった。
「気安く私に近づくな、小鳥遊の娘」
地を這うような、冷酷で感情の一切こもっていない低い声。
いつも自分を「鈴」と甘く蕩けるような声で呼んでくれた彼が信じられないほど冷たい声で自分を呼んだ。
「え……?」
「お前のような、家事一つまともにこなせず、敵に狙われて喚くしか能のない女が私の妻だと? ……反吐が出る」
景明の薄い唇から紡がれる言葉が見えない氷の槍となって鈴の胸に次々と突き刺さっていく。
「私はただ、お前の持つ異能が軍の戦略上、有益だと判断したから手元に置いただけだ。……愛しているなどという言葉を本気で信じていたのか? おめでたい頭だな」
「うそ……嘘です、景明様……。だって、あんなに私を……」
鈴は首を激しく横に振り、両手で耳を塞ごうとした。
聞きたくない。そんなことを言うはずがない。彼は自分を壊れ物のように抱きしめ、熱い体温を与え、世界で一番大切だと言ってくれた。
しかし、耳を塞いでも景明の冷酷な声は脳内に直接響き渡る。
幻覚は残酷なまでにリアルだった。彼から漂ってくるのはいつもの安らぐ香りではない。それは嗅ぐだけで肺が凍りつき、呼吸ができなくなるほどの“死と拒絶の冷気”だった。
自分を見つめる瞳にはかつて見たことのあるような熱は微塵も存在しない。ただひたすらに「お前など足手まといだ」「鬱陶しい」「消えろ」という明確な嫌悪だけが濁流のように鈴の精神へと流れ込んでくる。
「……無能な女め。お前の存在そのものが私の人生における最大の汚点だ」
(嫌……ッ!嘘よ、景明様はそんなこと言わない……!でも、もし……)
鈴の心に一滴のどす黒いインクが落とされたように“疑念”が広がっていく。
“もし、彼がずっと無理をして私に合わせてくれていたのだとしたら?”
“もし、この冷酷な言葉こそが、彼が心の底で本当に思っていた本音だとしたら?”
“私はただの足手まといで、彼の重荷でしかなかったのではないか?”
精神の防壁が音を立てて崩れ去っていく。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚……すべての五感が最愛の人からの“完全なる拒絶”という地獄の苦しみを受け、脳を焼き切ろうとしていた。
「ああ……っ、うあぁぁ……ッ……」
鈴の膝から力が抜け、床に崩れ落ちた。
息ができない。喉の奥が引きつり、嗚咽すらも形にならない。
大粒の涙が次から次へと溢れ出し、床にシミを作っていく。全身が小刻みに震え、両腕で自分自身を抱きしめても、心の奥底から湧き上がる極寒の絶望を止めることはできなかった。
「景明様……ごめんなさい……私、何もできなくて……ごめんなさい……ッ」
心が、壊れる。
彼に愛されていないのなら、彼に疎まれているのなら、自分が生きている意味などどこにもない。
絡新婦の放った“幻惑の糸”は鈴の精神の最も脆く、最も愛に溢れた柔らかい部分を的確に串刺しにし、そこからどす黒い絶望の毒を注入し続けていた。
鈴の心は悲鳴を上げ、血を流し、今まさに完全に折れようとしていた。
◇
一方、現実世界。
冷たいコンクリートの地下室で絡新婦は歓喜の笑みを浮かべていた。
「クハハハハッ!アハハハハハハッ!!」
彼女の目の前で鈴は完全に意識を失ったように床へ崩れ落ちていた。その瞳孔は焦点を結ばず虚ろに開き、頬には絶え間なく涙が流れ続けている。口からは「ごめんなさい」と細い声が漏れ、全身は小動物のように哀れに震えていた。
「素晴らしい……!やはり愛などという脆い幻想にすがっておる小鳥の心など、いとも容易くへし折れるものじゃ!」
絡新婦は自らの勝利を完全に確信した。
彼女の精神は最愛の男からの幻影の拒絶によって引き裂かれ、もはや一片の抵抗する意志も残っていないのだ。
「さて、完全に心が壊れたところでわらわの忠実な人形として新しい記憶を縫い付けてやろうかの。……あの鬼少佐がどれほど強かろうとお主を盾にされれば手も足も出まい」
絡新婦は高笑いを上げながら完全に油断しきった足取りで鈴へと歩み寄った。
足元に倒れ伏す哀れな少女から反撃の芽など永遠に失われたと思い込んでいる。だが絡新婦は気づいていなかった。完全に精神の闇に沈みかけていた鈴の左手。その薬指にはめられた指輪が絶望の底で持ち主の魂を呼び覚ますかのように微かな熱と光を放ち始めていることに。
◇
果てしなく続く灰色の精神世界の中で鈴の意識は完全に冷たい泥の底へと沈み込もうとしていた。
視覚を塞ぎ、聴覚を犯し、嗅覚すらも歪める絡新婦の“幻惑の糸”。その最悪の呪詛は鈴の心に最も深く根を下ろしている景明への愛を逆手に取り、彼からの冷酷な拒絶という形で鈴の精神を内側から食い破っていた。
(もう、何も見たくない……。何も聞きたくない……)
床にうずくまり、両手で耳を塞ぐ鈴の頬をとめどなく涙が流れ落ちる。
見上げれば氷のように冷たい瞳でこちらを見下ろす景明の幻影が立っている。
「お前など足手まといだ」「私の人生の汚点だ」という、彼が絶対に口にするはずのない呪いの言葉が絶対的な真実として鈴の脳髄に叩き込まれていく。
呼吸をするたびに肺が凍りつき、心臓が握り潰されるような激痛。五感すべてが最愛の男からの拒絶という地獄の苦しみを味わい続け、鈴の自我は今にも完全に消滅しようとしていた。その時だった。
「…………あっ」
完全な闇に呑まれかけた鈴の身体が微かに震えた。
床の上で泥のように重くなっていた彼女の左手。その薬指に突如として火傷しそうなほどの熱が灯ったのだ。
それは景明が鈴に贈ったプラチナの結婚指輪だった。
(熱い……。指輪が熱を……?)
幻惑の糸が作り出した絶対零度の冷気の中でその指輪だけがまるで太陽の欠片を閉じ込めたかのように眩い光と熱を放ち始めたのだ。
微かな瞬きは一呼吸のうちに強く、太い光の脈動へと変わっていく。
指輪から発せられた熱は鈴の凍えきった指先から手のひらへ腕を伝い、やがて氷漬けにされかけていた心臓の奥底へと温かい血液のように一気に流れ込んできた。
『……愛しているよ、鈴。君は私の自慢の妻だ』
鈴の鼻腔を甘い香りが撫でた。
それは幻覚の空間に充満していた血の生臭さや絡新婦のむせ返るような香水の匂いを一瞬にして浄化し、完全に塗り替えてしまうほどに強く、深い香り。
鈴の五感の最も深い部分に刻み込まれている景明の匂いだった。
(景明様の、匂い……。景明様の熱……!)
指輪の光が灰色の精神世界を内側から強烈に照らし出す。その温もりに触れた瞬間、鈴の脳裏に偽物の冷酷な言葉をすべて薙ぎ払うように、本物の景明の記憶が鮮烈な色彩を伴って蘇ってきた。
自分が火傷しそうなほどに強く抱きしめる感触。
鈴の作った黒焦げの朝食でさえ、至上の晩餐のように愛おしそうに食べてくれた、あの呆れるほどに真っ直ぐな瞳。
(そうだ……。私の旦那様は、私の前であんな冷たい顔なんて一度だってしたことがない)
指輪が放つ圧倒的な熱量と白檀の香りが鈴の精神を縛り付けていたどす黒い絶望の霧を文字通り“蒸発”させていく。
鈴はゆっくりと顔を上げた。目の前に立つ“景明の幻影”を真っ直ぐに見据える。
「……あなたは誰?」
鈴の口から紡がれたのは先ほどまでの絶望に咽び泣く声ではなく、静かで、冷ややかな問いかけだった。
幻影の景明が忌々しげに顔を歪める。
『何を言っている、小鳥遊の娘。狂ったか?私はお前の……』
「景明様は私を小鳥遊の娘でなんて呼ばない」
鈴は床に手をつき、自らの足でしっかりと立ち上がった。
彼女の左手の薬指から光が溢れ出し、薄暗い精神世界を煌々と照らし出している。
「景明様は私を足手まといだなんて絶対に言わない。不器用で重たくて……でも誰よりも優しくて温かい人なの」
幻影から放たれる死の冷気が鈴の周囲を取り巻く指輪の光の防壁に触れた途端、音を立てて無害な水蒸気へと変わっていく。
自我を完全に取り戻した鈴の瞳には、もはや一片の迷いも恐怖もなかった。
「あなたは偽物よ。私の大好きな景明様の姿を騙るなんて……絶対に許さない」
鈴が真っ直ぐに指を突きつけ、凜とした声で宣告したその瞬間、硬質な音と共に目の前に立っていた冷酷な景明の幻影がまるでハンマーで叩き割られた粗悪なガラス細工のように無数の破片となって空間に散り、どす黒い泥へと崩れ落ちた。
鈴は再び、絡新婦の呪詛の糸が縦横無尽に張り巡らされた、真っ暗な精神空間の底へと引き戻された。
外界と繋がる意識の奥底から信じられないものを見たというような絡新婦の驚愕の声が響いてくる。
『馬鹿な……!?わらわの幻惑の糸が完全に食い破られたじゃと!?ただの小娘がどうやって……!』
「私は無力なんかじゃない。私には景明様がくれた“愛”という一番強いお守りがあるもの!」
精神世界の中で鈴は自らの左手を強く握りしめた。
指輪の光は鈴の生命力そのものと呼応するようにさらにその輝きを増していく。
だが、幻覚を打ち破ったとはいえ、ここは依然として絡新婦の張った呪詛の結界のど真ん中である。
暗闇の四方八方から怒り狂った絡新婦の意思を受けた無数の黒い呪詛の糸が、今度こそ鈴の精神を物理的に縛り上げ、完全に破壊しようと大蛇のようにうねりながら迫ってきていた。
(このままじゃ、また捕まってしまう。……どうすればいい?景明様が助けに来てくれるまで、この心を守り抜くためには……)
鈴は両手を見つめた。
彼女の異能は祈りを込めた“針と糸”という物理的な媒体を通してのみ発動する。だが、この精神の世界に裁縫箱はない。
だが、極限の集中力の中で鈴の脳裏に電撃のような閃きが走った。
(待って。……ここは現実じゃない)
絡新婦の呪詛が幻覚を作り出し、心を縛り付けることができる世界。
ならば、ここでなら“強烈な想像”と“揺るぎない意志”こそが何よりも確かな物理法則になるのではないか。
(物理的な針も糸も必要ない。……私の“心”が針になり、私の“祈り”が糸になる!)
鈴はゆっくりと目を閉じ、自らの内側へと意識を深く沈め込んだ。
思い描いたのは布の構造。
経糸と緯糸がどのように交わり、どのように打ち込まれれば、決して解けない強靭な結び目となるのか。その構造が鈴の頭の中で完璧な幾何学模様となって展開されていく。
「……悪い虫を寄せ付けない、麻の葉文様」
鈴が閉じた目のまま、空中に向かってそっと右手の指先を滑らせた。
すると彼女の指の軌跡から光の糸が生み出され、空中に六角形の美しい幾何学模様を描き出した。
「……魔を退け、邪悪を閉じ込める籠目紋」
鈴の両手が見えない精緻な刺繍を施すように暗闇の中で滑らかに舞い踊る。
彼女の指先から次々と紡ぎ出される光の糸はあっという間に鈴の周囲を覆う巨大なドーム状の編み目となっていった。
『な、なんじゃ、その光は……!?貴様、何をしておる!!』
迫り来る絡新婦の黒い呪詛の糸が鈴の紡いだ光の文様に触れた瞬間、激しい火花と共に黒い糸はまるで聖なる炎に焼かれたかのように悲鳴を上げて灰と化し、霧散した。
「布も、糸も……誰かを想い、祈りを込めて紡ぐからこそ強くなるの」
鈴は目を開き、暗闇を睨み据えた。
彼女の周囲には無数の光の糸で精緻に編み上げられた破邪の結界が完成していた。
「あなたの憎しみだけで編まれた糸に私と景明様を結ぶ絆の糸が切られるはずがありません!」
鈴の力強い宣言と共に光の結界はさらにその範囲を広げ、迫り来る絡新婦の呪詛の糸を一網打尽に弾き返し、燃やし尽くした。
◇
鈴が深い精神の暗闇の中で景明への真っ直ぐな愛と祈りを込めた純白の光の結界を織り上げた、まさに一秒の狂いもない同時刻。
旧都の夜の街でも大規模な反撃の狼煙が凄まじい火柱となって上がろうとしていた。
冷たい夜風が吹き抜ける旧都の四方の要所、古びた石橋の下、廃れかけた神社の裏手、打ち捨てられた煉瓦造りの倉庫群。その各所に恐怖によって限界まで統率された旧都異能部隊の隊員たちが息を殺して重火器や己の異能を構え、漆黒の闇を睨み据えていた。
彼らの脳裏に焼き付いているのは先ほど司令部を物理的に氷漬けにして粉砕した、あの帝都の“鬼”の姿とその口から放たれた絶対の死の宣告。
(遅れた者は脳髄まで氷漬けにして砕く)
その理不尽極まりない恐怖が平和ボケしていた彼らの神経を極限まで研ぎ澄ませていた。
旧都の東側、目標である廃工場を見下ろす小高い丘の上。
景明の傍らで氷室は銀色の懐中時計の蓋を開けた。
ガラスの盤面を滑る秒針の音が静まり返った夜の空気の中に異常なほど大きく響き渡る。氷室の冷徹な丸眼鏡の奥の瞳が、正確に時を刻むその針の動きを追う。
「……五、四、三……」
氷室の口から冷たいカウントダウンが紡がれる。
「……二、一。――今だ。全隊、撃てッ!!」
氷室の号令が異能の通信網を通じて全小隊の隊長たちの脳内へ直接響き渡った。
次の瞬間、旧都の東西南北の空が爆炎と閃光によって真昼のように白く染まり上がった。
地脈の淀みに隠されていた四箇所の“呪詛の核”へ向け、旧都支部の全火力が一斉に叩き込まれた。
重火器の爆音と炎や風、土の異能がぶつかり合う凄まじい衝撃波が千年の都の夜空を激しく揺るがす。大地が悲鳴を上げ、足元から重い地鳴りが伝わってくる。
四つの核の同時破壊。
それは蜘蛛の巣を支えていた四隅の杭を力任せに根こそぎ引き抜くのと同じことであった。
◇
一方、廃工場の地下深く。
絡新婦は信じられない光景を前に完全に言葉を失っていた。
「な、なんじゃ……!?わらわの糸が燃えていく……!?」
彼女が絶対の自信を持っていた精神支配の呪詛。その黒い糸が灰のように消えていった。
「馬鹿な……!ただの無力な小娘がわらわの“幻惑”を打ち破るなど……あり得ぬ!あり得ぬ!!」
絡新婦は血走った目で絶叫し、着物の両袖からさらに何十本もの太く禍々しい呪詛の糸を放とうとした。
しかし、彼女がその妖気を極限まで練り上げようとしたまさにその瞬間、地下室の分厚いコンクリートの壁と空間そのものに見えない巨大な亀裂が走る音が響き渡った。
「が、はッ……!?」
突如として絡新婦の喉の奥から鮮血が噴き出した。
「あ……、あぁ……ッ!?地脈の力が……抜けていく……!?核が同時に四つも……馬鹿なッ!?」
内と外からの完璧な挟み撃ちであった。
内側では鈴の強靭な精神力が放つ光の結界が、そして外側では氷室の指揮する部隊が地脈の“呪詛の核”を物理的に完全破壊したことでこの空間を維持していたエネルギーの供給源が完全に断ち切られた。
呪詛の術者にとって己の張った結界が内と外から同時に粉砕されるということは自らの内臓と精神を同時に引き裂かれるに等しい致命傷となる。
「 わらわの、わらわの結界がァッ!!」
絡新婦は胸を掻き毟りながら水たまりの冷たい床に無惨に転げ回った。彼女の豪奢な着物は自らが吐き出した黒い血で汚れ、むせ返るような香水の匂いは錆びた鉄のような強烈な血の悪臭に完全に塗り潰されていく。
そして巨大なガラスが粉々に砕け散るような轟音と共に地下室を覆っていた空間の歪みが完全に消失した。
偽りの静寂が破れ、外界の夜風が換気口からどっと流れ込んでくる。
(……あっ、世界が……戻った……!)
精神世界で光の結界を織り上げていた鈴は息を呑んでゆっくりと目を開けた。
先ほどまで彼女の視界を覆っていた深い泥と霧の幻覚は完全に消え去り、元の薄暗く埃っぽい廃工場の地下室の光景が広がっていた。手足に食い込んでいた見えない糸も、結界崩壊の余波で砂のように崩れ落ちていく。
「はぁ、はぁっ……」
鈴は肩で息をしながら冷たいコンクリートの床に両手をついた。
極限の集中力を使ったため、全身から力が抜け、指先が微かに震えている。しかし彼女の左手の薬指にはめられたプラチナの結婚指輪は今もなお、最愛の夫の体温を宿したかのように優しく、確かな熱を帯びていた。
(景明様……。私、守り抜きました。景明様からもらった、この心と、愛を……)
鈴が指輪を愛おしそうに胸に押し当てた、その時であった。
突如として廃工場全体が巨大な地震に見舞われたかのように激しく揺れ始めた。
頭上の分厚いコンクリートの天井の向こう側から生物の本能が死を直感して恐怖に凍りつくような、この世のものとは思えない凄まじい威圧感が急速に迫ってきていたのだ。
「ヒィッ……!?な、なんじゃ、この異常な冷気は……!?」
血反吐を吐きながら床を這いつくばっていた絡新婦が顔を青ざめさせて天井を見上げた。
地下室の空気が一瞬にして極低温へと急降下した。
湿気を帯びていた空気中の水分が音を立てて微細なダイヤモンドダストへと変わり、天井のコンクリートの表面に青白い氷の華が狂ったような速度で咲き乱れていく。
絡新婦の吐いた血溜まりすらも瞬く間に赤黒い氷塊へと変わった。
そして、その極寒の闇を引き裂くように鼓膜を突き破るような爆音と目も眩むような“黄金の雷光”が天井のコンクリートを直撃した。
頑強な天井が数万ボルトの雷の圧倒的な熱量と絶対零度の冷気による急激な温度変化の負荷に耐えきれず跡形もなく吹き飛んだ。
「キャアアッ!?」
「ギャアアアアアッ!?」
崩れ落ちる瓦礫の雨。しかし、その瓦礫の破片すらも地面に落ちる前に空中で青白い氷に包まれ、無害な粉雪となって舞い散っていく。
ぽっかりと空いた天井の大穴。
そこから見える旧都の夜空を背にして、舞い散る氷の粉雪と黄金の雷光の残滓を纏いながらひとつの影がゆっくりと、まるで重力を持たないかのように降臨してきた。
帝国陸軍少佐にして帝都最強の異能者。そして鈴のただひとりの最愛の夫。
「景明、様……ッ!!」
鈴の目から今度こそ安堵と歓喜の涙が堰を切ったように溢れ出した。
舞い降りた景明の姿は幻覚の中で見た血まみれの痛々しい姿でも冷たく見下ろす冷酷な姿でもなかった。
彼の彫刻のように端正な顔立ちは極限の怒りによって氷の面のように冷たく引き締まっていたがその視線が床に座り込む鈴を捉えた瞬間だけはまるで春の陽射しが雪を溶かすように痛ましいほどの安堵と狂おしいほどの愛情に歪んだのだ。
「……鈴ッ!」
景明は音もなく床に降り立つと周囲の瓦礫や倒れている絡新婦など完全に無視して一瞬で鈴の目の前へと膝をついた。
そしてその大きくて力強い両腕で鈴の小さな身体を強く抱きしめた。
「ああ……っ、良かった。怪我はないか?どこか痛むところは?……すまない、私が傍にいながら君をこんな薄汚い泥の中へ落としてしまって……ッ」
彼から発せられる絶対零度の冷気は鈴の身体に触れる寸前で完全に制御され、鈴を包み込んだのは火傷しそうなほどに熱く、力強い彼の体温と鼓動だけであった。
景明の震える手が鈴の背中を何度も撫で、その髪に深く顔を埋めて、狂ったように彼女の匂いを吸い込む。
「大丈夫です……っ、私、平気です。景明様が来てくださるって、ずっと信じていましたから……」
鈴は景明の広い背中に腕を回し、背中を握りしめて泣きじゃくった。
自分がどれほど彼を愛しているか、そして彼がどれほど自分を愛してくれているか。幻覚の毒を乗り越えた今、二人の絆はかつてないほどに強靭で決して引き裂くことのできないものへと昇華されていた。
「ッ……き、貴様ら……。わらわの前で見せつけてくれるではないか……ッ!」
その時、瓦礫と氷の中で血反吐を吐きながら絡新婦が憎悪に満ちた声を絞り出した。
彼女は残された最後の妖力を振り絞り、鋭い刃のような蜘蛛の脚を景明の背中へ向けて突き出そうとし、景明の鈴を抱きしめる優しい手が止まった。
鈴を自らのコートの中にすっぽりと隠すようにして庇いながら景明がゆっくりと背後の絡新婦へと首を巡らせる。
その瞬間、地下室の温度がさらに下がり、絶対零度の殺意が解放された。
「……五月蝿い蟲だ。誰が貴様に口を開く許可を与えた」
景明の双眸に宿っていたのは人間としての感情を完全に捨て去った、純粋な破壊と殺戮を司る鬼神の眼光であった。
「私の妻がどれほど純粋で、どれほど恐がりか知っているか。……その愛らしい瞳から一滴でも恐怖の涙を流させた罪がどれほどの重さか教えてやろう」
景明の右手がゆっくりと持ち上がる。その指先に世界を終わらせるかのような青白い冷気と目を焼くような黄金の雷光が狂暴な渦を巻いて収束していく。
「よくも私の妻を泣かせたな」
地獄の底から響くような絶対の死の宣告。
絡新婦は恐怖のあまり悲鳴を上げる暇すら与えず、帝都最強の鬼が放つ、慈悲なき裁きの鉄槌が振り下ろされた。




