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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第七章 旧都に潜む影と朱に染まる新婚旅行
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第50話

 冷たいコンクリートの床に座り込んでいた鈴の視界に映ったのは、まるで真冬の夜空から静かに舞い降りるダイヤモンドダストのような幻想的で美しい粉雪の舞いであった。

 そして、その煌めく氷の粉雪と空間を焼き尽くさんばかりの黄金色の雷光の残滓を纏いながらぽっかりと空いた天井の大穴からひとつの影が音もなく降臨した。

「景明、様……ッ!!」

 鈴の目から安堵と歓喜の涙が堰を切ったように溢れ出した。

 舞い降りたのは彫刻のように端正な輪郭、極限の怒りと焦燥によって氷の面のように冷たく引き締まっていた。だがその視線が床に座り込む鈴を捉えた瞬間だけは、まるで春の陽射しが分厚い雪を溶かすように痛ましいほどの安堵と狂おしいほどの愛情に歪んだのだ。

「……鈴ッ!」

 景明は音もなく冷たい水たまりの床に降り立つと一瞬で鈴の目の前へと膝をついた。

 そして、両腕で鈴の華奢な身体を強く抱きしめた。

「ああ……ッ、良かった。怪我はないか?どこか痛むところは?……すまない、私が傍にいながら君をこんな薄汚い泥の中へ……」

 景明の微かに震える大きな手が鈴の背中を何度も何度も撫でる。そして彼女の柔らかな髪に深く顔を埋め、まるで酸素を求めるように狂ったように肺の奥深くまで吸い込んだ。

「大丈夫です……ッ、私、平気です。景明様が来てくださるって、ずっと信じていましたから……」

 鈴は景明の広い背中に腕を回し、強く握りしめて泣きじゃくった。

 自分がどれほど彼を愛しているか。そして彼がどれほど自分を愛してくれているか。

「……ツ、き、貴様ら……。わらわの前で見せつけてくれるではないか……ッ!」

 その時、瓦礫と氷の中で血反吐を吐きながら絡新婦が怨嗟に満ちた声を絞り出した。

 地脈の核を破壊されたことで結界が崩壊し、自らの内臓と精神に致命的な痛手を負った絡新婦の豪奢な着物は自らが吐き出した黒い血と泥に塗れ、見る影もなく汚れていた。

 彼女は残された最後の力を振り絞り、鋭い刃のように硬質化した蜘蛛の脚を鈴を抱きしめる景明の無防備な背中へ向けて突き出そうとした。だが、その瞬間、鈴を抱きしめる景明の優しい手が止まった。

 鈴を自らのコートの中にすっぽりと隠すようにして庇いながら景明がゆっくりと背後の絡新婦へと首を巡らせる。

 その直後、絶対零度の殺意が完全に解放された。

「……五月蝿い蟲だ。誰が貴様に口を開く許可を与えた」

 景明の双眸に宿っていたのは人間としての感情を完全に捨て去った、純粋な破壊と殺戮を司る鬼神の眼光であった。

 空気が凍り、呼吸をするだけで肺が内側から裂けそうになるほどの物理的な冷気が空間全体を容赦なく蹂躙し始める。天井の大穴から入り込んでいた夜風さえもが凍りつき、重力に逆らうようにして不気味に空中で静止した。

「ひぃッ……!?」

 絡新婦の喉から本能的な死の恐怖による短い悲鳴が漏れた。突き出そうとしていた蜘蛛の脚は景明から放たれた冷気に触れた瞬間、音を立てて霜に覆われ、完全に動作を停止してしまった。

「私の妻がどれほど純粋で、どれほど恐がりか知っているか。……その瞳から一滴でも恐怖の涙を流させた罪がどれほどの重さか教えてやろう」

 景明はゆっくりと立ち上がった。その際、彼は自身が羽織っていたコートを脱ぎ、床に座り込む鈴の肩に優しく掛けた。

「鈴、目を閉じて、耳を塞いでいなさい」

 極上の甘さを帯びた声で妻にそう告げた直後、振り返った景明の右手がゆっくりと持ち上がった。

 その指先に世界を終わらせるかのような青白い冷気と目を焼くような黄金の雷光が狂暴な渦を巻いて収束していく。極寒と灼熱という相反する二つのエネルギーが手の中で完全に制御され、ひとつの絶対的な破壊の塊として練り上げられていく。

「よくも私の妻を泣かせたな」

 地獄の底から響くような絶対の死の宣告。

「ま、待て……ッ!わらわは赫夜の幹部ぞ!わらわを殺せば、組織が黙ってはおらぬ!帝都ごと貴様らを……ッ!」

 絡新婦は顔を青ざめさせ、残された無傷の腕を振り回して自身の最大の武器である極彩色の幻惑の糸と強靭な捕縛の糸を同時に無数に放った。

 毒液を滴らせ、空間を切り裂くような風切り音を立てて迫り来る漆黒と紫の糸の群れ。それは鋼鉄すらも容易く切断し、触れた者の精神を瞬時に汚染する必殺の一撃であるはずだった。

 しかし、景明は微動だにしない。避ける素振りすら見せず、ただ冷酷な瞳でその糸の束を見据えていた。

「……無意味だ」

 景明の薄い唇から零れ落ちた言葉と共に彼の周囲に展開され、絡新婦が全妖力を注ぎ込んだ無数の呪詛の糸は景明の身体に触れる遥か手前でまるで目に見えない分厚いガラスの壁に激突したかのように停止した。

「な、なんじゃと……!?」

 絡新婦の絶望の叫びが響く中、停止した呪詛の糸の先端から恐るべき速度で青白い氷が侵食を始めた。鋼の強度を誇るはずの糸が次々と硝子細工のように凍りつき、乾いた音を立てて空中で粉々に砕け散っていく。

「馬鹿な……ッ! わらわの糸が、防御すら許されずに……ッ!」

「防御だと?貴様のような薄汚い泥の吐瀉物がこの私に届くとでも思ったか。己の身の程を弁えろ」

 景明の右手が微かに前方へ押し出された。

 その瞬間、極限まで圧縮されていた黄金の雷光が巨大な龍のような咆哮を上げて解き放たれた。

「ギャアアアアアッ!!」

 網膜を焼き尽くすほどの閃光が地下室を真昼のように照らし出し、雷撃が絡新婦の身体を容赦なく貫いた。

 豪奢な着物が一瞬にして炭化し、肉の焦げる悍ましい匂いが爆風と共に巻き起こる。その激痛に絡新婦は眼球が飛び出さんばかりに目を見開き、声にならない絶叫を上げた。

 だが、景明の雷撃は一度では終わらない。

「私の妻が流した涙の数だけ、その身に絶望を刻み込んでやる」

 雷撃によって空中に跳ね上げられた絡新婦の身体に向け、今度は景明の左手から絶対零度の冷気が放射された。

「ヒッ……ァ……」

 全身に大火傷を負い、火だるまになっていた絡新婦の身体が一瞬にして極低温の氷の棺に閉じ込められた。

 熱と冷気。破壊と凍結。

 その二つの極端な暴力が交互に、そして同時に絡新婦を襲い続ける。

「許さ……ひぃッ、助け……ッ」

 もはや言葉の体をなしていない命乞いが漏れるが景明の表情には一片の慈悲も存在しない。彼の瞳にあるのは愛する者を傷つけた害虫をただ機械的に徹底的に駆除するという冷徹な意志だけであった。

「消えろ」

 景明が両手を鋭く振り下ろした。その動作に呼応するように空中に生み出された無数の巨大な氷の槍が黄金の雷光を纏いながら、絡新婦の凍りついた身体へと一斉に降り注いだ。

 地下室の床が爆発したかのように弾け飛び、凄まじい衝撃波が空間を激しく揺さぶる。

 氷と雷の槍に串刺しにされた絡新婦の身体は分厚いコンクリートの壁へと力任せに叩きつけられた。

「カッ……、ガァ……ッ」

 壁に縫い付けられたまま、絡新婦の口から大量の黒い血が吐き出された。

 四肢はあらぬ方向へ折れ曲がり、かつての妖艶な面影など微塵も残っていない。

 赫夜の幹部であり、旧都の裏社会を支配しようと企んでいた絡新婦。その強大な力も、狡猾な呪詛も、手も足も出ない、反撃の糸口すら掴めない、あまりにもあっけなく、そして凄惨な敗北。

 静寂が戻りつつある地下室には壁に深々と突き刺さった氷の槍が立てる軋み音と焦げた肉の匂い、そして血の悪臭だけが漂っていた。

 景明は壁に磔にされ、もはや虫の息となった絡新婦を一瞥すると興味を失ったように踵を返した。

 彼の意識はすでに背後で待っている鈴へと完全に向いていた。

「終わったぞ、鈴。もう目を開けても大丈夫だ。さあ、帰ろう……」

 鈴は景明が自身の肩に掛けてくれたコートの裾を小さな両手で握りしめたまま、恐る恐る目を開いた。

 視界に飛び込んできたのは自分と同じ目の高さまで膝をつき、彫刻のように端正な顔立ちを安堵で歪ませている景明の姿だった。

「景明、様……」

 鈴の唇から安堵の吐息と共にその名が零れ落ちる。

 無意識のうちに強張っていた全身の筋肉からふっと力が抜け、鈴の瞳からは再び、大粒の涙が溢れ出した。

「鈴!?どうした!!どこか痛むのか!?」

 景明は慌てふためきながら手袋をはめた大きな手をそっと伸ばし、鈴の滑らかな頬を伝う涙の雫を壊れ物を扱うような繊細な手つきで掬い取った。

「ごめんなさい、景明様。……私、ちっとも泣くつもりなんてなかったのに景明様のお顔を見たら、なんだか安心してしまって……」

「謝る必要がどこにある。君はたった一人であの悍ましい蟲の呪詛に耐え抜いたのだ。……私の到着が遅れたばかりに君にどれほどの恐怖を味わわせたか。私の方こそ、君にどう詫びればいいのか分からない」

 景明の深く濡れた瞳には自らを責め払うような色濃い後悔と底なしの情愛が渦巻いていた。彼は鈴の肩を優しく抱き寄せると、そのまま彼女の身体を持ち上げるようにして立ち上がった。

「きゃっ……」

 鈴の口から小さな驚きの声が漏れる。

 景明の逞しい腕に抱き上げられ、彼の厚い胸板にぴったりと頬を押し付けられる形になった。  スーツの布地越しに彼の力強く、規則正しい心音が直接に鼓膜へと伝わってくる。

「このまま君を抱いて帰る。……帰ったら、すぐに温かい湯を沸かせよう。そして君が落ち着くまで一秒たりとも君の傍を離れないと誓う」

「はい……。景明様と一緒なら、もう何も怖くありません」

 鈴は景明の首にそっと腕を回し、その広い胸に顔を埋めた。

◇

「…………、……ガァ……」

 壁面に深く突き刺さった巨大な氷の槍。

 その切っ先に四肢を縫い止められ、胸部から腹部にかけて内臓を完全に破壊されていた絡新婦の身体はもはや生物としての機能を完全に停止していた。

 美しいと自負していた妖艶な顔の半分は氷結し、もう半分は落雷の熱によって黒焦げに爛れている。

 彼女の焼け焦げた眼窩の奥に残されたたった一つの瞳孔だけが不気味などす黒い光を放ち、瓦礫の向こう側で愛しい妻を抱きかかえて歩み去ろうとしている帝都の鬼の背中を、じっと、ただじっと見据えていた。

(……おのれ、おのれ、おのれ……ッ!!)

 肉体の苦痛はもはや感じない。あるのは自らの誇りを、野望を、そして命を、路傍の石ころのように無慈悲に踏み撃った西園寺景明という存在に対する無限の憎悪と純粋な悪意だけ。

(わらわを……赫夜の幹部であるこのわらわを、虫ケラのように見下しおって……ッ!この屈辱、この怨み、決して……決してタダで終わらせるものか……ッ!!)

 彼女は自らの死を完全に悟っていた。

 どれほど妖力を振り絞ろうとも傷ついた肉体が再生することはない。逃げ延びることもあの鬼を倒すことも不可能だ。

 ならば、どうするか。答えはただ一つ。

(あの男から、すべてを奪ってやる。あの男が己の命よりも重く執着しておる、あの小鳥の命を……わらわの命と引き換えにあの世へ連れて行ってやるわ……ッ!!)

 絡新婦は崩れゆく肉体の内側で残された全生命力、全妖力のすべてが心臓の残骸の一点へと凄まじい密度で収束し始めた。

 それはもはや防御のための糸でも、幻惑のための糸でもない。

 触れた者の生命そのものを内側から腐らせ、精神を永遠の苦痛の底へと引きずり込む、必殺の呪詛。

 機能しているはずのない心臓が黒い妖力によって一度だけ、異様な音を立てて脈打った。その瞬間、絡新婦の焼け焦げた指先から光すらも吸い込むような、一筋の漆黒の糸が音もなく生み出された。

 細さは髪の毛ほど。だが、そこに込められた質量と怨念は巨大な鉄球にも等しい。

 絡新婦は最後の力を振り絞り、瞳孔の焦点を鈴の無防備な“脳天”へと定めた。

(……死ねェェェェェッ!!!)

 声なき絶叫と共に絡新婦の指先から漆黒の糸が放たれた。

 音を立てず、糸は物理法則を無視したかのような凄まじい速度で空間を切り裂いた。周囲の光を歪めながら、ただ一直線に、ただ純粋な殺意の塊として鈴の頭部へと向かって飛翔した。

 その瞬間、すべてがスローモーションへと変わった。

◇

「……!」

 鈴を腕に抱き、出口へ向かって歩みを進めようとしていた景明の足が背後から迫り来る“異質な何か”を感知し、寸前で止まった。

 それは音も、風の乱れも、明確な殺気さえも伴わない完全な真空のような暗殺の一撃。

 しかし、景明の研ぎ澄まされた神経は空間そのものが微かに歪むその不吉な気配をコンマ数秒の世界で正確に捉えていた。

 景明の脳内で様々な情報が処理された。

 振り向いて氷の防壁を張るか。否、間に合わない。糸の速度と呪詛の密度の方が速度を上回っていた。

 左腕を解放し、雷光で背後を広範囲に焼き払うか。

 それも不可能だ。腕の中には鈴がいる。彼女に至近距離で雷の熱量と衝撃波を浴びせることになる。

 そして景明は気づいてしまった。

 背後から迫るその漆黒の殺意が自身の広大な背中ではなく、その腕の中で無防備に顔を覗かせている鈴を一点に狙っているという残酷な事実に。

(……狙いは鈴か)

 その瞬間、景明の脳内からすべての戦術的思考、すべての異能の行使という選択肢が完全に消え去った。

 もし、景明が振り向こうとしたその一瞬に糸が鈴の頭部を貫いたら。

 もし、自分の防壁が呪詛を弾ききれず、彼女に傷がついたら。

 景明は一切の躊躇もなく、己の持つ全ての異能を放棄した。

 氷も、雷も、何一つ使わない。

 彼が選んだのはただ純粋な“肉の盾”となること。

「……景明、様?」

 腕の中で鈴が不思議そうに目を瞬かせた。

 歩みを止めた景明が突如として彼女の身体を強く抱きしめ、そして凄まじい力で自身の身体を強引に反転させたからだ。

 鈴の視界がぐるりと回り、景明のコートが大きく翻る。

 何が起きているのか、鈴には全く理解できなかった。ただ、自分を抱きしめる景明の腕の力がかつてないほどに強く、そして彼の彫刻のような顔立ちが自分を庇い隠すように覆い被さってきたことだけが分かった。

 次の瞬間、地下室の静寂を切り裂いて、鈍く、そしてひどく生々しい音が響き渡った。

「…………ッ」

 景明の身体が巨大な鉄球で背中を殴りつけられたかのように大きく、激しく跳ねた。

 鈴の脳天を正確に狙って飛来した漆黒の呪詛の糸。反転した景明の心臓の真裏から深々と容赦なく突き刺さった。

「え……?」

 鈴の口から間の抜けたような声が漏れる。

 何が起きたのか分からない。ただ、彼の上質なスーツ越しに早鐘のように打っていた心音が不自然なほど激しく乱れたことだけが伝わってくる。

「か、景明様……?」

 鈴が不安げに声をかけた。だが、景明からの返事はない。

 漆黒の糸は景明の背中を貫き、心臓のど真ん中に突き刺さった。絡新婦の怨念である呪詛が鼓動と共に黒い毒となって全身へ回り始める。

(……が、はッ……!!)

 景明の体内では自身の氷と雷の異能が呪詛を追い出そうと暴れ狂っていた。しかし、心臓ごと呪詛を破壊すれば己の命が終わる。

 防御の本能が皮肉にも内側からの崩壊を早めていく。血を吐き、全身を灼かれるような激痛に苛まれながら、景明の意識は急速に白濁していった。

「あ、アハハハハハッ……!!やった、やったぞ……ッ!!」

 壁の向こう側から掠れた狂喜に満ちた嗤い声が響いた。

 絡新婦だ。

 彼女の肉体はすでに限界を迎え、指先から徐々に灰となって崩れ始めていたが、その焼け爛れた顔には復讐を成し遂げたという絶頂の歓喜が浮かんでいた。

「ざまあみろ、帝都の鬼ィ……ッ!! 小娘を庇って、己の心臓を差し出すとは、なんという無様な……ッ!!」

 怨念が景明の心臓を貫いたのを見届け、絡新婦は狂喜の笑い声を上げた。

 そして次の瞬間、彼女の身体は灰となって無惨に崩れ去った。

 絡新婦がこの世から消え去っても景明の心臓に巣食う死の呪詛は消えなかった。

「景明様……ッ!?ねぇ、景明様、どうしたの!?」

 鈴の悲痛な叫び声が地下室に響き渡る。

「……え?」

 鈴が景明の背中に触れた瞬間、生温かく、ねっとりとした液体が手に絡みついた。

 震える指先を目の前にかざす。薄暗闇の中でもそれははっきりと分かった。

 指先に付着しているのは強烈な鉄の匂いを放つ、大量の鮮血だった。

「血……?うそ、 景明様、血が……!」

「ガ、ハッ……!!」

 パニックに陥り、景明の顔を覗き込もうとした鈴の目の前で景明の大きな身体が激しく痙攣し、彼の口から、信じられないほど大量の鮮血が吐き出された。

 不吉な音と共に吐き出された血は鈴の肩口から外套を真っ赤に染め上げ、冷たいコンクリートの床へと零れ落ちていく。

「いやあああああっ!?」

 血の海。その生々しい赤い色と咽せ返るような鉄の匂いが鈴の視覚と嗅覚を暴力的に支配する。

「景明様ッ!景明様ッ!!嫌、血が、血が止まらない……ッ!」

 景明の体重を支えていた足から完全に力が抜け、その巨体がぐらりと傾いた。

 鈴は必死に彼を支えようと両腕を回したが、意識を失いかけた重い身体を華奢な鈴が支えきれるはずもなかった。

「あ……ッ」

 バランスを崩し、二人は折り重なるようにして、冷たい水たまりと血の海が広がるコンクリートの床へと倒れ込んだ。

「景明様……ッ、お願い、目を開けて……ッ!!」

 鈴は這いずるようにして景明の身体の横に回り込み、彼の顔を両手で包み込んだ。その顔は今は血の気を失って蒼白になり、苦痛に歪んでいる。 長く美しい睫毛が小刻みに震え、彼の薄い唇の隙間からは絶え間なくどす黒い血が溢れ出し続けていた。

「どうして……どうしてこんなことに……ッ!」

 鈴の目から大粒の涙がとめどなく零れ落ち、景明の血に染まった頬を濡らしていく。

「……す、ず……」

 景明の薄く開いた唇が微かに震え、鈴の名前を形作った。その瞳の焦点はすでに定まっていない。光を失いかけた瞳孔がただ宙を彷徨い、懸命に愛する妻の姿を探し求めている。

「ここです! 私、ここにいます、景明様……ッ!」

 鈴は景明の血まみれの大きな手を両手で握りしめ、自らの頬に強く押し当てた。

 普段は火傷しそうなほどに熱かった彼の手のひらが今は信じられないほどに冷たい。まるで命の熱が急速に彼の肉体から抜け落ちていくようだった。

「……泣か、ないで、くれ……。……君が、無事で……よか、った……」

 それが景明の意識が最後に紡いだ言葉だった。

 己の命が尽きようとしているその瞬間でさえ、彼が口にしたのは鈴の身を案じ、彼女が無事であったことへの安堵の言葉だったのだ。

「嫌です……ッ!景明様がいないのに私だけ無事だなんて、そんなの絶対に嫌です……ッ!」

 鈴の叫びも虚しく、景明の瞳から光が失われた。

 力なく滑り落ちた彼の手が冷たい血の海に沈む。同時にその首筋から顔にかけて毒蛇のような黒い紋様が浮かび上がった。呪詛が脳髄に到達し、彼の精神を完全に喰い破った証である。

「あ……ああぁ……ッ」

 どんな敵にも膝を折らなかった帝国最強の鬼が今は血だまりの中で骸のように動かない。

 崩壊した天井から覗くのは無慈悲なほど美しい旧都の星空。

 静寂に包まれた廃工場にただ一人残された鈴の絶望の叫びだけが木霊していた。

◇

 崩落した廃工場の地下室に無数の軍靴の音が乱暴に響き渡る。

「少佐ッ!! 小鳥遊嬢ッ!!」

 完全に破壊され尽くした空間に飛び込んできたのは旧都の異能部隊を指揮して地脈の核を破壊し終えた氷室と完全武装した帝国陸軍の隊員たちだった。

 氷室の眼鏡の奥の瞳が地下室の惨状を捉えて大きく見開かれる。

 そこには壁に深々と突き刺さった氷の槍と完全に消滅した絡新婦の黒い染み。そして冷たいコンクリートの床に広がる、おびただしい血の海の中でぴくりとも動かなくなった景明と彼にすがりついて泣き叫ぶ鈴の姿があった。

「景明様ッ! 景明様ッ! お願い、目を開けて……ッ!」

 鈴の悲痛な絶叫が雨音の入り込む地下室に木霊する。

「衛生兵ッ!何をしている、早く少佐を止血しろッ!!」

 氷室の、普段の冷静さを完全に失った怒号が飛び交う。

 軍医たちは景明の身体を見るなり、絶望的な表情を浮かべた。

 背中から胸へと這い回る、不吉などす黒い“呪詛の紋様”。それは脈打つたびに体内を犯す死の刻印だった。

「駄目です……ッ!出血は止まっても、この呪詛の侵食はどうすることも……ッ!」

「馬鹿を言うな!直ちに搬送しろ!全力で命を繋ぎ止めろッ!」

 激しい怒号と金属の担架が擦れる音。鈴は血まみれの手で景明の軍服の裾を力の限り握りしめた。

「私も……私も行きます!」

 虚ろで必死なその懇願に氷室はただ無念そうに頷くことしかできなかった。

◇

 事件から数日後。冷たい秋雨が降る軍病院の特別室。蒼白な景明の胸元には黒い呪詛の紋様が不気味に脈打っていた。

 傍らでは憔悴しきった鈴が自責の念に苛まれながら景明の寝巻きに祈りを込めて麻の葉の刺繍を施し続けていた。指から血が滲んでも、己の異能で少しでも呪詛を縛り付けようと必死に抗う。

 そこへ疲労の色を濃くした氷室が現れ、休むよう促すが鈴は頑なに首を振った。

「外傷はご自身の治癒力で塞がっています。ですが……」

 氷室は苦渋の表情で告げた。呪詛が景明の精神を完全に凍らせていること。そして氷室の異能を使っても氷の壁に阻まれ、何も聞こえないという事実を。

 絶望的な宣告に鈴はしゃくり上げて泣き崩れ、氷室はただ無力に立ち尽くした。

 だが運命の瞬間は前触れもなく訪れた。

 病室の温度が異常な速度で下がり始め、窓ガラスには霜が咲き、花瓶の秋桜が一瞬で凍りつく。

「少佐の冷気が漏れ出している……!?」

 驚愕する氷室の横で鈴の手の中にある景明の指先が小さく動いた。

「景明、様……?」

 ゆっくりと重い瞼が開いた。

「景明様ッ!」

 歓喜の涙を溢れさせ、鈴は丸椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで彼に縋り付こうとした。いつものように蕩けるような瞳で抱きしめてくれると信じて疑わなかった。

 しかし鈴と交わったその瞳にはかつての愛情も優しさも微塵もない。あったのは路傍の石を見下すような、極寒の“帝都最強の鬼”の眼光のみだった。

 彼は自らに触れる鈴の温かい手を汚らわしい虫でも払うかのように冷酷に振り払った。

「え……?」

 歓喜から一転、鈴の表情が凍りつく。ゆっくりと上体を起こした景明は胸元に施された刺繍を忌々しげに一瞥し、氷の刃のような声で言い放った。

「……気安く触れるな。貴様は誰だ。なぜ私はこんな場所で寝かされている」

 その言葉は凄まじい破壊力で病室に響いた。

 冷酷に払い落とされた手の甲の痛み以上に鈴の思考は完全に停止していた。

(え……?)

 最愛の夫が自分を「貴様」と呼び、「誰だ」と問うた。まるで汚物でも払うかのように、あの温かかった手で打ち据えられた現実が理解できない。

「か、景明様……?何を、仰っているのですか……?」

 声が震える。悪い冗談だと言って抱き寄せてほしかったが景明の顔に慈愛の欠片もなく、放たれるのは圧倒的な“死と拒絶の冷気”だけだった。

 急激に降下する室温の中、花瓶の氷が不気味に膨張していく。

「質問をしているのは私だ。耳が聞こえないのか、それとも知能が足りないのか」

 かつて鈴を蕩けさせた愛は一滴もなく、その瞳は極寒の刃となって鈴を射抜く。そこにあるのは見知らぬ不審者を尋問する血も涙もない帝国陸軍少佐としての、明確な敵意のみだった。

「答えろ。ここはどこだ。なぜ私が無防備な格好で寝台にいる。……私の部下たちはどこへ行った」

 景明は自らが身に纏っている寝巻きを忌々しげに見下ろし、次いで病室の隅で顔面を蒼白にしている氷室へとその鋭利な視線を向けた。

「……おい、そこの眼鏡の男。貴様の顔には見覚えがあるな。たしか、私の部隊に配属されたばかりの……氷室、だったか。貴様、なぜ突っ立っている。状況を報告しろ」

「な……ッ!?」

 氷室の口から、信じられないというような絶句の息が漏れた。

「配属されたばかり……? 少佐、何を仰っているのですか。私が少佐の副官となってから、すでに何年も経過しております。……それに小鳥遊嬢のことも、本当に……覚えていらっしゃらないのですか!?」

 氷室の悲痛な問いかけに対し、景明は微かに眉をひそめ、極めて不愉快そうに舌打ちをした。

「何年経過している?馬鹿なことを言うな。私は昨日まで反逆者の異能集団を氷河の底へ沈めていたはずだ。……それに小鳥遊嬢とは誰だ。この目の前で泣きそうな顔をしている、貧相な小娘のことか?」

「貧相な……小娘……」

 鈴の口から絶望に染まった呟きが零れ落ちた。

 景明の記憶は呪詛の凄まじい侵食によって、鈴と出会うよりもさらに前、彼が感情を殺し、ただただ敵を氷漬けにして粉砕し続けるだけの、血も涙もない“帝都最強の鬼”と恐れられていた頃にまで完全に後退していた。

 当然、そこには小鳥遊鈴という少女との出会いも、不器用ながらも命懸けで紡いだ愛の日々も、甘く蕩けるような新婚生活の記憶も、すべてがすっぽりと抜け落ちてしまっていた。

「か、景明様……嘘です、嘘ですよね……? 私です、鈴です……ッ!貴方の、妻の……ッ!」

 鈴は耐えきれずに再びベッドへと歩み寄り、必死に訴えかけた。

 瞳からは涙がとめどなく溢れ出し、頬を濡らし続けている。

 しかし、景明はそんな彼女の悲痛な涙を見ても眉一つ動かさなかった。いや、むしろその涙を煩わしいものとして、さらに冷酷な視線を突き刺した。

「妻、だと?」

 景明の薄い唇が三日月のように冷ややかに歪む。

「……狂人の戯言か、それとも敵の放った質の悪い幻覚か。この私が泣き喚くしか能のない、脆弱で無価値な女を妻に迎えるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない」

「ああ……あああ……ッ」

 鈴の喉の奥から声にならない嗚咽が漏れた。

 幻覚の中で偽物が吐き捨てた拒絶の言葉が現実となって本物の夫の口から放たれた。

 幻ではない。確かな声と体温を持つ最愛の人に「無価値な女」と切り捨てられ、鈴の心臓を砕け散るような激痛が貫く。

「少佐ッ!! いい加減になさってください!!」

 見かねた氷室が激昂し、ベッドの傍らで怒鳴り声を上げた。あの冷徹な彼がこれほど感情を露わにして上官に牙を剥くのは初めてのことだった。

「貴方は呪詛で記憶が混濁しているだけです!彼女は貴方が命を懸けて闇から救い出した世界中の何よりも大切にしている、かけがえのない奥様なのです!!」

「……五月蝿い男だ。貴様が私の副官だと言うなら、直ちにこの不愉快な女をつまみ出せ。私の視界に入れるな」

 景明は氷室に一切の感情を交えずにそう命じた。

 そして彼はふと、自らの襟元に視線を落とした。

 そこには鈴がこの数日間、寝食を忘れて、自らの指を血に染めながら一針一針祈りを込めて縫い上げた麻の葉の刺繍が施されていた。

 呪詛の進行を少しでも食い止めようと彼女の命と魂が込められた愛の結晶。

「……なんだ、これは」

 景明はその美しい幾何学模様の刺繍を忌々しげに指先でなぞった。

 彼にはそれが妻の愛と祈りの証であることなど理解できなかった。彼の中の冷酷な軍人としての認識がそれを異質なもの、不気味なものとして判断したのだ。

「小娘、私が眠っている間にこのような気味の悪い呪術の類いを私の衣服に縫い付けたのか」

「か、景明様……違います、それは……貴方の身体を守るための、祈りで……ッ」

 鈴の悲鳴のような弁明など、彼の耳には全く届かなかった。

「不愉快極まりない。このような薄気味悪い布切れを身に纏っているなど、反吐が出る」

 布が容赦なく引き裂かれる、残酷な音が病室に響き渡った。

「あっ……!!」

 鈴の目が見開かれ、絶望の叫びが喉の奥で凍りついた。

 刺繍糸が断ち切られ、無惨に引き裂かれていく。

 景明は引きちぎった布切れをまるで汚物でも捨てるかのように鈴の足元へと冷酷に投げ捨てた。

 冷たい床に落ちたその布切れは鈴の心臓そのものが引きちぎられ、踏みにじられた姿そのものであった。

「直ちにこの部屋から消えろ。二度と私の前にその汚らしい顔を見せるな」

 絶対零度の声。それはいかなる物理的な暴力よりも深く、鋭く、鈴の魂を真っ二つに切り裂いた。

 鈴の足から完全に力が抜け、彼女は力なく冷たい床へと崩れ落ちた。

 足元に投げ捨てられた、引き裂かれた刺繍の布切れを震える両手で拾い上げる。

(私の愛が、祈りが景明様の中から、消えてしまった……)

 涙が、止まらない。呼吸の仕方を忘れたように胸の奥が激しく痙攣し、ひどい過呼吸に陥っていく。

「か、景明……様……お願い……思い出して……ッ。私です……鈴です……ッ」

 床に這いつくばり、鈴は血の滲むような声で懇願した。だが、景明は彼女の姿を一瞥すらすることなく、真新しい寝巻きに着替え、襟元を正した。

「まだ居たのか。……氷室。三秒数える間にこの女を部屋から叩き出さねば、貴様ごと氷の彫像に変えて砕き散らすぞ。……三」

 景明の右手が持ち上がり、その指先には青白い絶対零度の冷気が収束し始める。

 冗談でも脅しでもない。彼の中では命令に背く者はすべて敵であり、排除の対象でしかないのだ。

「二」

「……ッ!小鳥遊嬢!いけません、今は退きましょう!!殺されます!!」

 氷室が悲痛な顔で鈴の腕を掴み、強引に床から引き起こした。

「嫌…い、や!!」

「一」

「失礼しますッ!!」

 氷室は抵抗する鈴の細い身体を半ば抱き抱えるようにして扉へと向かって駆け出した。

 彼らが扉をくぐり抜けた直後、景明の指先から放たれた冷気が扉の内側を凄まじい速度で完全に凍結させた。

 分厚い扉が氷の結界によって完全に封鎖され、鈴と景明を隔てる、決して越えることのできない物理的、そして精神的な“絶望の壁”となったのだ。

 廊下に放り出された鈴は凍りついた扉にすがりつき、両手で激しく叩いた。

「景明様ッ!開けてください!お願いです、私を一人にしないで……ッ! 景明様!!」

 硬く凍りついた扉は鈴の悲痛な叫びに何一つ応えることはない。

 叩きつける両手が赤く腫れ上がり、指先から血が滲んでも鈴は扉を叩くのをやめられなかった。

 扉の向こう側からは圧倒的な冷気と他者を一切寄せ付けない完全なる拒絶の気配だけが無慈悲に漂い続けている。

「小鳥遊嬢……もう、やめてください……」

 氷室が鈴の肩に手を置き、宥める。

 彼の眼鏡の奥からも悔しさと無力感に満ちた涙が滲んでいた。

「あ……ッ、開け、て……ひゅっ……!」

 幾度目かの叫びを上げようとした瞬間、鈴の喉が突如として引きつった。

(息が……できない……ッ)

 最愛の夫に完全に忘れ去られ、「無価値」と切り捨てられた絶対的な絶望。極限まで張り詰めていた鈴の精神が悲鳴を上げたのだ。

「はぁッ、ひゅっ、あ、ああっ……!」

 空気を求めて口を大きく開けても、浅く速い呼吸が空回りするばかりで酸素が全く肺に届かない。激しい過呼吸の発作が鈴の華奢な身体を暴力的に波打たせる。

 胸の奥を鷲掴みにされたような激痛。心臓が肋骨を突き破らんばかりに狂ったように脈打ち、指先から急速に血の気が引いていく。

「小鳥遊嬢ッ!?しっかりしてください、息をゆっくりと吐いて……!」

 氷室が血相を変えて駆け寄り、鈴の肩を支えようとするが鈴の耳にはもはや水底にいるかのようにくぐもった音しか届いていなかった。

 手の中には無惨に引き裂かれた刺繍の布切れがただ空しく握りしめられていた。

 どれほど愛を叫んでも今の彼には届かない。どれほど祈りを込めても、彼の凍てついた心は溶けない。

 外の冷たい秋雨は激しい豪雨へと変わり、雷鳴が病院の窓ガラスを白く照らし出す。その光はかつて景明が鈴を守るために放った黄金の雷光の温もりとは全く違う、冷たく、無慈悲な閃光であった。

「かげ、あき……さま……ッ」

 震える青白い唇から最後に零れ落ちたのは掠れきった愛しい人の名。

 愛する人を守るための力を手に入れたと信じた矢先に訪れた完全なる愛の喪失。二人の絆を繋いでいた糸が最も残酷な形で断ち切られたという現実に鈴の意識は限界を迎え、視界が急速に真っ暗に塗り潰されていく。

 絶望という名の極寒の氷河の底へ突き落とされた少女は引き裂かれた布切れを胸に抱いたまま、深い暗闇の中へと完全に気を失った。

 冷え切った軍病院の暗い廊下に、ただ凄惨な静寂だけが落ちた。


いつも「婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生でした」を閲覧していただき、誠にありがとうございます!


私事で申し訳けございませんが10月12日の更新をもって再び更新を止めさせていただきます。

現在、頑張って8章の執筆を頑張っておりますのでしばしお待ちください…


更新再開の際はこちらでお知らせいたします。


アカツキ千夏

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