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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第七章 旧都に潜む影と朱に染まる新婚旅行
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第48話

 秋の日は釣瓶落とす。旧都の空が薄紅から深い藍色へと染まりゆく中、西陣の路地を冷たい風よりも速く駆け抜ける景明の影があった。

 赫夜の怪魔を氷と雷で蹂躙し、絡新婦と交戦したばかりの彼は血に飢えた狂刃のごとく凄惨な殺気を纏っていた。

(鈴……。待っていてくれ、今すぐ君の元へ帰る!)

 コートの裾を夜風に翻し、景明は全速力で駆け抜ける。彼の大柄な体躯が風を切るたびに周囲の空気が急激に冷え込み、路地の水たまりの表面が音を立てて凍りついていく。

 赫夜の拠点の情報を掴んだという軍としての大きな成果など今の彼の頭の中には塵芥ほどの価値もなかった。あるのはただ一つ、自分を狙う絡新婦の毒牙が愛する鈴へと向けられたという底なしの恐怖とそれを許した自分への凄まじい怒りだけだ。

 彫刻のように端正な輪郭は氷のように強張っていたが長く美しい睫毛に縁取られた瞳の奥底には愛する者を失うことへの狂おしいほどの焦燥が渦巻いていた。

 やがて見覚えのある古い町家の前にたどり着く。

 景明は乱暴に引き戸を開け放ち、体験工房の中へと滑り込んだ。

「鈴ッ!」

 薄暗くなった工房内に景明の切羽詰まった低い声が響き渡る。古い油灯の柔らかな明かりに照らされた空間。そこには数時間前と何一つ変わらない光景が広がっていた。

 巨大な木製の機織り機の前で丸椅子に座る愛しい妻の背中。彼女の周囲には景明が残していった青白い絶対零度の結界がドーム状の完璧な防壁として静かに雪の結晶の紋様を瞬かせている。外敵の侵入を許した痕跡は微塵もない。

「あ……。景明様、お帰りなさいませ!」

 景明の声に驚いて振り返った鈴の顔には恐怖も不安の影もなく、ただ純粋な歓喜の花が咲き誇っていた。

 秋の冷え込みでほんのりと桜色に染まった柔らかな頬。そして景明の姿を認めて星のように輝き出す澄んだ瞳。

「…………ああ」

 その可憐で無防備な笑顔を見た瞬間、景明の全身から凄まじい殺気と冷気が、まるで春の陽射しに溶ける雪のように一瞬にして霧散していった。

 張り詰めていた緊張の糸が千切れ、景明は大きく、深く息を吐き出す。肺の奥深くに残っていた冷たい戦場の空気をすべて吐き出し、代わりに工房に漂う古い木の匂いと微かに混じる彼女特有の甘く清潔な石鹸の匂いを吸い込む。

 景明は長い脚で迷うことなく歩み寄ると自身が展開した結界を指先一つで解除し、そのまま鈴の細い身体を丸椅子から浮き上がらせるほどの勢いで抱き寄せた。

「きゃっ……!?か、景明様……っ」

「無事でよかった……。本当に、誰にも触れられず私の待つこの場所で無事にいてくれて……」

 景明の逞しい腕が壊れ物を包み込むように、けれど絶対に逃がさないという圧倒的な力強さで鈴の背中を掻き抱く。

 普段の彼ならあり得ないほどに微かに震えているその腕の力に鈴は目を丸くした。スーツ越しにも景明の力強く早い心音が鈴の胸板へと直接伝わってくる。

「景明様?どうされたんですか……?まるですごく怖い夢でも見ていたかのような、お顔をされて……」

 鈴は戸惑いながらも自分を抱きしめる景明の広い背中にそっと両腕を回し、優しく撫でた。彼女の小さな手のひらから伝わる温もりが景明の凍てついていた心臓をゆっくりと溶かしていく。

「……いや。何でもない。ただ、たった数時間でも君と離れていたことが私にとっては百年にも感じられるほどの苦痛だったというだけだ」

 景明は鈴の肩口に顔を埋め、髪に何度も何度も口付けを落とした。高貴な白檀の香りが工房の空気を甘く塗り替えていく。

 周囲にいた工房の主人や職人たちがあまりの熱烈な夫婦の再会劇に顔を真っ赤にしてそそくさと奥の部屋へ退散していくのなど景明の意識には全く入っていなかった。

「もう……景明様ったら。大げさすぎます。私はずっと安全に楽しく機織りを学んでいただけですよ?」

 鈴が恥ずかしそうに頬を染め、景明の胸板を小さな両手でそっと押し返す。

 ようやく少しだけ身体を離した景明の視線が鈴の後ろにある機織り機へと向けられた。

「……これは」

 景明が僅かに目を見張る。

 機織り機の上に広げられていたのは数寸ほど見事に織り上がった美しい帯地だった。

 ベースとなっているのはまるで夜空よりも深く、海底よりも静かな群青色の絹糸。そこに月明かりのように鋭く澄んだ銀糸と時折激しく瞬く稲妻のような鮮やかな金糸が複雑かつ精緻な紋様を描き出しながら織り込まれている。

 それは西園寺景明という存在そのものを表現した極上の芸術品であった。

「……君が私のいない間にこれを織り上げたのか?」

 景明の低い声が、感嘆と信じられないほどの甘い熱を帯びて震えた。

「はい」

 鈴は恥ずかしそうに長い睫毛を伏せながらもはっきりと頷いた。

「あのね、景明様。私、布がどうやって作られるのか、その構造が少しだけ分かった気がするんです。経糸と緯糸が交差して、どれくらいの力で打ち込めば決して解けない強い結び目になるのか……」

 鈴は自らの小さな両手を見つめ、そして再び真っ直ぐに景明の瞳を見上げた。

「私、絶対に景明様をお守りする力を手に入れます。貴方がいつも私を全力で守ってくださるように。……だからこれはその第一歩の練習です。景明様をイメージして織ってみました」

 “貴方を守りたい”。

 そのあまりにも真っ直ぐで、純粋で、深く海のような愛情の言葉。

「…………ッ」

 景明は雷に打たれたように完全に硬直した。

 次の瞬間、彼は耐えきれないというように天を仰ぎ、片手で自らの顔を覆った。指の隙間から漏れる吐息は熱く震え、限界まで高まった感情が行き場を失って暴走しそうになっているのがありありと伝わってくる。

(ああ……駄目だ。この子はどこまで私を狂わせれば気が済むのだろうか)

 自分が彼女を守っているつもりだった。彼女を鳥籠に閉じ込め、絶対に傷つかないように庇護することこそが自分の役目だと思っていた。

 だが、彼女はそんな鳥籠などとうの昔にすり抜けて自らの足で立ち、自らの力でこの凄惨な血の匂いにまみれた自分を守ろうとしてくれている。

「鈴……」

 景明は顔を覆っていた手を離すと限界突破した溺愛と情動で濡れた瞳で鈴を見つめ、再び彼女を強く、強く掻き抱いた。

「っ……か、景明様……?」

「ありがとう、君が私のために紡いでくれたその想いはどんな無敵の防壁よりも私の魂を救い、私を強くしてくれる。……愛している。君の全てを永遠に」

 囁かれる重すぎるほどの愛の言葉の奔流。

 景明は鈴の柔らかな唇を自らの熱い唇で塞いだ。先ほどの再会の時よりもさらに深く、長く、そして甘く蕩けるような口付け。

 絹糸の匂いと白檀の香りが混ざり合い、二人の五感を激しく揺さぶる。

 外の暗がりで蠢く赫夜の怪魔たちも、絡新婦の禍々しい呪诅の糸も、この完璧に幸福で甘い二人だけの世界には決して立ち入ることなど許されなかった。

◇

 旧都の夜は帝都のそれとは違う、深く静寂に満ちた闇を落としていた。

 旅館での夕食を堪能し、名湯で身体の芯まで温まった後、二人は浴衣に身を包み、縁側の傍らに設えられた座椅子に腰を下ろして静かな夜の時間を過ごしていた。

 部屋の中央には真新しい畳の匂いと微かに漂う硫黄の残り香。そして景明が淹れた温かい玉露の青々しい香りが満ちている。

「……ふふっ。今日一日、本当にあっという間でした」

 鈴は両手で湯呑みを包み込むように持ちながらほころぶような笑顔を景明に向けた。

 湯上がりの彼女の肌は雪のように白く、頬は上気してほんのりと桜色に染まっている。結い上げていた髪は下ろされ、肩口に滑らかな髪が流れる様は景明の理性を著しく削り取るほどの無防備な色気を放っていた。

「ああ。君が楽しんでくれたのなら西陣まで足を運んだ甲斐があったというものだ」

 景明は自身の湯呑みを置き、鈴の傍らへと身を寄せるとその濡れた髪の毛先を長い指で愛おしそうに梳いた。

「景明様が買ってくださったお洋服、本当に素敵でしたし、機織りの体験もすごく勉強になりました。……でも景明様はお仕事の調査、大丈夫だったのですか?私ばかり楽しんでしまって……」

 鈴が少しだけ申し訳なさそうに上目遣いになると景明は微塵の揺らぎもない完璧な微笑みを返した。

「案ずるな。赫夜の下水ネズミ共の掃討など君が機織りに夢中になっている間に片手間で終わらせてきた。有益な情報も引き出せたしな」

(絡新婦の件は彼女に言う必要はない。無駄な不安を与えたくはないからな。私が全て彼女の気付かぬうちに氷漬けにして終わらせる)

 景明は心の奥底にどす黒い殺意を沈めながら表面上はどこまでも甘く優しい夫の顔を崩さない。

「それよりも鈴。明日は君に旧都のもう一つの素晴らしい絶景を見せてあげよう」

「絶景、ですか?」

 鈴の大きな瞳が期待で星のように輝き出す。

「ああ。ここから南に下った場所にある、山全体が神域となっている壮大な神社だ。そこには朱色に塗られた美しい鳥居が山頂に向かって延々とまるで朱のトンネルのように幾千も連なっている場所があるらしい。君の好奇心を必ずや満たしてくれるはずだ」

「朱色の鳥居のトンネル……!絵草子で見たことがあります!とっても神秘的で綺麗な場所なんですよね!」

 鈴は湯呑みをテーブルに置き、両手を合わせて嬉しそうにはしゃいだ。そのあまりにも愛らしい仕草に景明は喉の奥で低く笑い鈴の細い身体を自らの膝の上へと引き寄せた。

「ひゃっ……!か、景明様……っ」

「そんなに喜んでくれるなら今夜はしっかりと休まねばならないな。明日は少し山道を歩くことになるから体力を温存しておいてくれ」

 景明の厚い胸板に背中を押し付けられる形となり鈴の顔が一気に朱に染まる。

 耳元で囁かれる低く甘い声と浴衣越しにも伝わってくる景明の圧倒的な体温と力強い心音。

「はい……。景明様と一緒ならどこへでも……」

「……ああ。愛しているよ、鈴」

 秋の虫の音が響く静かな夜。

 二人の影は重なり合い、甘く蕩けるような時間だけがゆっくりと流れていった。

◇

 同じ頃、旧都から遥か東に離れた大日本帝国の中枢・帝都。

 冷ややかな夜気が石造りの建物を包み込む中、帝国陸軍司令部の中に位置する厳重な暗号通信室にただ一人、青白い顔で通信機の受話器を握りしめている男がいた。氷室である。

 普段は隙のない軍服を完璧に着こなしている氷室だが今の彼の額には脂汗が浮かび、眼鏡の奥の瞳は絶望的な色に染まっていた。

 彼の耳に押し当てられた受話器からは旧都の嵐山の宿から発信されている景明からの“暗号による定期報告”が機械的な音声変換を経て無機質に流れてきている。

『現在ノ時刻ヲモッテ、対象“カグヤ”ノ拠点ニ関スル重要情報ヲ取得セリ。明日ハ彼女ヲ連レテ朱ノ鳥居ガ連ナル名所へ向カウ予定ダ。通信ヲ終了スル』

 無慈悲な切断音と共に通信は一方的に途絶えた。

「…………」

 静まり返った地下通信室で氷室はゆっくりと受話器を置いた。

 彼の眼鏡の奥の瞳はもはや怒りや呆れを通り越し、研ぎ澄まされた軍の参謀としての冷徹な光を帯びていた。

(……おかしい。少佐の小鳥遊嬢への溺愛ぶりは今に始まったことではないが今の通信の端々に滲み出ていたのはただのノロケではない。“強烈な焦燥”と“攻撃的なまでの囲い込み”だ)

 氷室は長年景明の副官を務めてきた経験から上官の精神状態の微かなブレを察知していた。

(赫夜の拠点の情報を得たと言いながらその詳細を全く報告してこない。そして明日も危険な旧都を連れ歩くという。……少佐は何か決定的な“敵の脅威”に直面し、冷静さを欠いているのではないか)

 景明の異能は帝国最強だ。正面からの戦闘で彼が遅れをとることなど万に一つもあり得ない。

 しかし、敵が陰湿で呪術的な手口を使う相手だった場合、そしてその標的が景明自身ではなく、彼が命よりも大切にしている“小鳥遊嬢”であった場合。あの過保護な化け物は愛する者を守ることに執着するあまり、敵の罠の全容を見誤る可能性がある。

「……駄目だ。このまま新婚旅行というカモフラージュに任せておくのは危険すぎる」

 氷室は椅子から立ち上がり、決意に満ちた表情で軍服の襟を正した。

「直接的な戦闘力のない私が行ったところで足手まといになるだけかもしれないが少佐の暴走を論理的に押し留め、敵の罠の構造を第三者の視点から分析する“目”が今のあの二人には絶対に必要だ」

 氷室は時計を見た。時刻は午後八時を回ろうとしている。今から帝都ターミナル駅へ向かえば深夜発の旧都行き特別夜行列車に間に合うはずだ。

「帝国陸軍の軍服のままでは目立ちすぎるな……」

 氷室が向かったのは司令部の私物ロッカーだった。

 そこから取り出したのは軍服ではなく、少し着古したような素朴な絣の着物と使い込まれた袴。そして丸型の眼鏡だ。

 裏社会の情報を探る際や隠密行動をとるために氷室が自ら作り上げた変装。

 帝都の片隅でその日暮らしをしている貧乏な書生、“野中みのる”の衣装である。

 氷室は手早く書生の姿に着替えると鏡の前で少し猫背になり、気弱で人の良さそうな青年の表情を作った。

「……よし。これで旧都の裏社会に紛れ込んでも怪しまれないだろう。待っていてくださいよ、少佐」

 野中みのるの姿となった氷室が足早に司令部の廊下を歩き出し、玄関へと向かおうとしたその時だった。

「ひ、氷室大尉ィィィィッ!!」

 夜の静寂を切り裂くような悲痛極まりない絶叫が廊下の奥から響き渡った。

 慌ただしい足音を立てて駆け寄ってきたのは、赫夜襲撃事件の功績により晴れて少尉へと昇進したばかりの若き部下、桜木であった。

 桜木の肩には真新しい少尉の階級章が誇らしげに輝いているはずが、今の彼の顔色は土気色を通り越して死人のように青ざめていた。

「どうした桜木。夜分に騒々しいぞ」

 変装した氷室が冷ややかに振り返る。

「氷室大尉!あ、あの、私の机の上に置かれた天井まで届きそうなこの書類の山は一体何事でしょうか!?『西園寺少佐不在の間の全小隊の編成見直し』、『来月分の弾薬予算申請』、『兵器廠への特注装備発注書』……これ、大尉殿が処理されるはずの案件ですよね!?」

 桜木は両手に抱えきれないほどの決裁書類の束を持ち、膝を震わせていた。

「ああ。それか。実は今から少佐の後を追って旧都へ極秘の任務に向かうことになった。したがって私が不在の間の司令部の留守とそれらの通常業務の処理は全て君に一任する」

 氷室は冷徹な声色で一切の慈悲もなくそう言い放った。

「えええええええッ!?全責任を私に丸投げですか!?私、まだ昇進して三日目ですよ!?昇進した途端にこの業務量は物理的に死にます!!過労死します!!」

「少佐は常にこれの五倍の速度で仕事を処理しているのだ。君も西園寺小隊の幹部となったからにはこれくらいの激務は涼しい顔でこなしてもらわねば困る。……ああ、そうだ。私の机の引き出しに特注の粉胃薬が大量に入っている。好きに使っていいぞ」

「胃薬で解決する問題じゃありませんッ!!」

 桜木が書類の束を抱えたまま、廊下に崩れ落ちて号泣するのを背中で聞きながら氷室は夜の闇へと溶け込んでいった。

「頼んだぞ、桜木。君の尊い犠牲は無駄にはせん」

 帝都の司令部で悲鳴を上げる新米少尉の絶望を置き去りにして、氷室が乗った夜行列車は不吉な予感と焦燥を乗せて漆黒の闇の中を西へ、西へと走り出した。

◇

 嵐山の宿で甘く静かな夜を過ごした翌朝。旧都を囲む山々の稜線から秋の清々しい朝日が金糸のように差し込み、千年の歴史を持つ街並みを眩く照らし出していた。

「わあ……っ!景明様、見てください!空がこんなに青く澄み渡っていますよ!」

 宿を出て自動車に乗り込む前、鈴は純白の帽子を風に飛ばされないように手で押さえながら雲一つない秋空を見上げて花のように微笑んだ。

 彼女が身に纏っているのは深く鮮やかなワインレッドの外套だ。上質なウールの生地が朝の冷たい風を遮り、ほんのりと桜色に染まった頬の美しさをこの上なく引き立てていた。

「ああ、そうだな」

 そんな鈴の無邪気な姿を景明は自動車の扉の傍らに立ち、とろけるような極上の熱を帯びた瞳で見つめ下ろしていた。

 完璧な仕立ての濃紺のスリーピーススーツの上に上質なインバネスコートを羽織った彼は、ただそこに立っているだけで周囲の空気を圧倒するような威圧感と色気を放っている。

「だが、私の目にはこの見事な秋晴れの空よりもその外套を着こなして喜んでいる君の愛らしい笑顔の方が何万倍も美しく眩しく映っているがな」

「も、もうっ……!景明様ったら朝からそんな破廉恥なことを……っ」

「破廉恥?心外だな。私はこの世で最も美しい真実を口にしたまでだ」

 景明は悪びれる様子など微塵もなく、優雅な動作で鈴の細い腰を抱き寄せるとそのまま彼女をエスコートして自動車の後部座席へと押し込んだ。

 景明は当然のように鈴のすぐ隣に密着して腰を下ろし、彼女の華奢な肩を自らの厚い胸板へと引き寄せる。

「出発してくれ。目指すは南の神域だ」

 景明の低い声を合図に重厚なエンジン音を響かせて自動車が走り出す。

 石畳を蹴る微かな振動が伝わってくるたび、景明の太い腕が鈴を逃がさないようにホールドし、高く深く、脳の芯を痺れさせるような白檀の香りが彼女の五感を甘く支配していく。

(景明様……。すごく機嫌がいいみたい。よかった)

 昨夜、工房へ迎えに来てくれた時の、あの世界の終わりを見たかのような凄まじく強張った表情はすっかり鳴りを潜め、今の景明は“愛する妻との新婚旅行を心の底から楽しむ、極甘な旦那様”の顔に戻っていた。

 その事実に安堵しながら鈴は景明の温かい胸に寄りかかり、これから向かう未知の絶景への期待に胸を膨らませた。

◇

 旧都の中心から南へ下ったその場所は山そのものが古くから信仰の対象となっている壮大な神域であった。

「わあ…………っ!」

 自動車を降り、参道の入り口に立った瞬間、鈴の口から感嘆の吐息が零れ落ちた。

 秋の群青色の空を背景にして燃えるような朱色に塗られた巨大な鳥居が威風堂々とそびえ立っている。そして、その奥へと続く山の斜面には大小無数の朱色の鳥居がまるで山全体を覆い尽くす巨大な赤い竜の鱗のように延々と連なっているのだ。

「すごい……!これが全部、鳥居なんですか……!?」

「ああ。古くから願いが“通る”あるいは“通った”ことへの感謝の印として奉納されてきたものらしい。その数が幾千、幾万と重なり、今ではこの山を山頂まで覆う巨大な朱のトンネルを形成している」

 景明が鈴の背後に立ち、肩を背後から包み込むようにして見下ろしながら説明する。

 周囲は大勢の観光客や参拝客でごった返していた。

 行き交う人々のざわめき。砂利を踏みしめる下駄や革靴の乾いた音。風に揺れる木々の葉擦れの音と遠くから聞こえてくる神社の鈴の音。

「本当に絵草子で見た世界に迷い込んだみたいです!あ、景明様、あちらに狐様の石像がいらっしゃいますよ!お口に何か咥えています!」

 好奇心を刺激された鈴が外套の裾を翻して一歩前へ踏み出そうとした、その瞬間だった。

「待て、鈴」

 景明の大きくて力強い手が鈴の手首を掴み、強引に自らの胸元へと引き戻した。

「ひゃっ……!?」

 背中にぶつかる分厚い胸板の感触。見上げると景明の顔立ちには先ほどまでの甘やかな微笑みはなく、周囲の群衆を冷ややかに、そして極めて警戒に満ちた鋭い双眸で睨みつける“鬼少佐”の顔が浮かんでいた。

「人が多すぎる。有象無象の輩がひしめき合っているこんな場所で君が一人でふらふらと歩き回るなど絶対に許さん。……もし、誰かの薄汚れた手が君の衣服に触れでもしたら私はこの神域ごと、連中を絶対零度の氷河期に沈めてしまうかもしれないからな」

「こ、氷河期って……!景明様、神様の前でなんて物騒なことを仰るんですか!」

「神仏よりも私にとっては君の安全が最優先だ。いいな、鈴」

 景明は掴んでいた鈴の手首から手を滑らせ、彼女の手袋に包まれた小さな手を自らの大きな手で骨が軋まない程度の絶妙な力加減できつく握りしめた。

「この迷宮の中では絶対に私の傍から離れるな。一寸たりとも、だ。……君の視界の端には常に私を置いておきなさい」

 その重すぎるほどの独占欲と過保護な愛情の塊のような命令。

 普通であれば息苦しさを感じるほどの束縛だが、景明の真っ直ぐで嘘偽りのない愛情を知っている鈴にとってはその強い手の温もりがたまらなく心地よかった。

「……はい、景明様。私、ずっと景明様の手を握っていますから」

 鈴がほんのりと頬を染め、しっかりと手を握り返すと景明の表情にようやく安堵の色の混じった極上の笑みが戻った。

「よろしい。では、行こうか。君が望む場所なら山頂まででもどこまででもお供しよう」

 二人はしっかりと手を繋いだまま、ついに幾千の鳥居が連なる朱のトンネルの中へと足を踏み入れた。

 一歩、その内側に入った瞬間、外界の喧騒が嘘のように遠ざかった。

 頭上を覆い尽くす朱色の柱と柱の隙間から秋の柔らかな陽光が幾筋もの光の帯となって差し込み、足元の石畳に幾何学的な縞模様を描き出している。

 光と影が織りなす、圧倒的な非日常の空間。

 朱色という色が持つ、生命力と魔を払う神聖な力が空間そのものを濃密に染め上げているかのようだった。

「わあ…………!」

 鈴は言葉を失い、ただただ頭上の朱色の天井を見上げながら歩みを進めた。

 光が差し込む場所は明るく鮮やかな朱色に輝き、木々の影が落ちる場所は血のように暗く深い赤色へと沈み込む。その明暗の連続がまるで永遠に続く万華鏡の中を歩いているかのような錯覚を引き起こす。

(すごく綺麗!…だけど、なんだか少し不思議な感覚。ずっと奥まで吸い込まれてしまいそう……)

 山の冷んやりとした空気に線香の微かな匂いと古い木の匂いが混ざり合う。

 すれ違う参拝客たちの話し声も朱色の柱に反響して、どこか遠くの世界の出来事のように聞こえた。

「どうした、鈴。疲れたか?それとも、この異界のような空気に当てられたか?」

 景明が心配そうに身を屈め、鈴の顔を覗き込んでくる。彼の白檀の香りが鼻腔をくすぐると鈴は我に返り、首を横に振った。

「いえ、大丈夫です。ただ、あまりにも神秘的で圧倒されてしまって……。景明様と一緒にこの景色を見られて私、本当に幸せです」

「……君は本当に私の理性を壊すのが上手いな。こんな人目のある場所でなければ今すぐ君を抱きしめて、その愛らしい唇を塞いでいるところだ」

 景明が低く掠れた声で囁き、繋いでいる手にさらに力がこもる。そのまま二人は緩やかな石段の続く朱の迷宮をゆっくりと登っていった。

 だが、名高い信仰の場である以上、完全に二人きりの空間というわけにはいかない。

 途中で道が交差する少し開けた場所に出るとそこには修学旅行と思しき詰襟や絣姿の学生の集団や熱心に祈りを捧げる白装束の参拝客、さらには日傘を差したハイカラな洋装の見物客などがどっと押し寄せてきて、一時的に人の波が膨れ上がった。

「チッ……。五月蝿い羽虫共が」

 景明は極めて不機嫌に舌打ちをし、自身の長身と広い肩幅を盾にするようにして人の波から鈴を庇い隠した。

「か、景明様、冷気を漏らさないでください。皆さんが怯えていますよ……っ」

「知ったことか。私の妻にぶつかって怪我でもさせられたら万死に値する。……鈴、少しの間だけ私の背中に隠れていなさい」

 景明は鈴を自らの背後へと引き寄せ、迫り来る人の波を完全にブロックする体勢をとった。その瞬間、鈴は景明の背中に庇われる形で彼と繋いでいた手が自身の身体の側面へと移動した。

(景明様の背中、広くて温かい……。絶対に私を守ってくれる最強の盾)

 鈴は景明のインバネスコートの裾をもう片方の手で軽く握りしめ、彼の背中越しに周囲の景色を見渡した。

 その時だった。鈴の視界の端、群衆の足元や人々の肩越しをすり抜けるようにして風に舞う“一本の糸”が飛び込んできた。

(……え?)

 鈴は思わず目を瞬かせた。それは蜘蛛の糸のように極めて細いにも関わらず、秋の陽光を反射して銀色とも紫色ともつかない“妖しく鈍い光”を放っていたのだ。

(……なんて細くて美しい糸)

 鈴の意識が一瞬だけ、景明の背中からその妖しく光る糸へと完全に吸い寄せられた。その鈍く光る糸がまるで意思を持っているかのように空中を舞い、人の波をすり抜けて朱色の鳥居が連なる本道から僅かに逸れた、古い狐の石像がある脇道の死角へと吸い込まれていく。

(あ、待って……)

 目で追った次の瞬間。

 死角の暗がりから先ほどとは別の、黒く濁った細い糸が毒蛇のように音もなく飛び出してきたかと思うと鈴の手首の素肌を鋭く刺したのだ。

「……っ」

 声を上げる間もなかった。刺された箇所から焼け焦げるような痛みと同時に脳を直接麻痺させるような甘ったるい毒の香りが一気に全身へと回る。

(だめ、意識が……手、離れちゃう……景明、様……!)

 必死に繋いだ手に力を込めようとしたが強烈な睡魔と痺れに襲われた鈴の身体から急速に力が抜け落ちていく。

 焼け焦げるような痛みと脳の髄まで麻痺させる甘ったるくも腐臭を帯びた毒の匂い。

 景明のインバネスコートの裾から指先が滑り落ちた瞬間、狐の石像の暗がりから無数に這い出してきた黒く濁った糸が力なく垂れ下がった鈴の手首に、足首に、そして胴体へと蛇のように巻きついた。

「あ……、かげあき、さま……っ」

 最後の力を振り絞ってその名を呼ぼうとした瞬間、冷たく粘着質な糸が彼女の口元を無慈悲に塞ぎ、悲鳴すらも完全に封じ込めた。

(嫌……っ、助けて……!景明様ッ!)

 声にならない悲痛な叫びは誰の耳にも届かない。

 強烈な力で背後の暗闇へと引きずり込まれ、空間そのものが水面のように反転する悍ましい感覚。参道を歩く人々のざわめきが遠い異界の音のように急速に遠ざかっていった。

 秋の陽光が途絶え、完全な漆黒が鈴の視界を覆い尽くした、ほんの数秒。誰にも気づかれない、誰の目にも留まらない、朱の迷宮の僅かな死角。鈴の存在は文字通り“神隠し”に遭ったかのごとく、この世界から一片の痕跡も残さずに消え去ったのである。

◇

「……ん?」

 背後から伝わってくるわずかな体重の移動とコートの裾から離れた小さな感触。

「……鈴?」

 まるで春の雪が手のひらで溶けて消えてしまったかのように完全にすり抜けていた。

「鈴ッ!?」

 景明が弾かれたように振り返る。しかし、彼のすぐ背後には見知らぬ観光客の背中があるばかりで鈴の姿はどこにも見当たらなかった。

「鈴……!どこだ、どこに行った……!」

 景明は血相を変え、群衆を乱暴に掻き分けて周囲を見渡した。

 先ほどまで確かに自分の手を握っていた。彼女が自らの意思で自分から離れていくはずがない。ならば、はぐれたのか?人の波に押されて数歩後ろに取り残されただけなのか?

(違う……!)

 景明の極限まで研ぎ澄まされた五感が残酷な事実を彼に突きつける。

 彼女の足音。彼女の呼吸。彼女の高く澄んだ声。すべてがこの空間から完全に一片の欠片も残さずに“消失”しているのだ。

(消えた……?私の傍からたった一瞬目を離した隙に……?)

 それは景明の人生において最も恐れていた悪夢の具現化であった。

 敵の拠点がある旧都で、しかも絡新婦が明確に彼女を標的にすると宣言していたというのに。

(私が手を離したから……?)

 その絶望的な後悔は次の瞬間、世界そのものを焼き尽くさんばかりの、底なしの、どす黒く狂おしい“怒り”へと変換された。

 景明の喉の奥から傷ついた獣の咆哮のような凄絶な叫び声が響き渡った。

 同時に景明の中にある理性のタガが音を立てて完全に吹き飛んだ。

「ヒッ……!?」

「な、なんだ!?急に……!」

 周囲を歩いていた観光客たちが一斉に悲鳴を上げて足を止めた。

 秋の穏やかな陽光が降り注いでいたはずの参道が一瞬にして極寒の真冬へと変貌したのだ。

 景明の足元から青白い絶対零度の冷気が爆発的に放射され、石畳が悲鳴を上げて白く凍りついていく。

 神聖な朱色の鳥居の柱に鋭い氷の棘が次々と生え出し、周囲の木々の葉が瞬時に凍結してガラスのように砕け散る。

 吐く息が白くなるどころではない。大気中の水分が瞬時に凍りつき、巨大な氷の結晶となって空から降り注ぎ始めたのだ。

 景明の瞳からは一切の光が失われ、その彫刻のように端正な顔は殺戮を司る鬼神のごとく歪んでいた。

 絶対零度の冷気に加え、彼の周囲に黄金色の雷光が弾け始め、氷と雷の暴風が巻き起こり、このままでは数分以内にこの歴史ある神域とここにいる数百人の無辜の民が景明の異能の巻き添えとなって全滅することは誰の目にも明らかだった。

その時である。

「少佐!!!」

 凍てつく吹雪と観光客の絶叫を切り裂くように切羽詰まった男の怒声が響き渡った。

 景明の放つ絶対零度の防壁を顔を真っ青にしながらも必死に掻き分けて飛び込んできたのは使い込まれた絣の着物に袴姿、そして丸型の眼鏡をかけた男。貧乏書生、野中みのるの姿へと変装した氷室だった。

 氷室は凍りつく石畳で下駄の歯を滑らせそうになりながらも雷光が弾ける景明の懐へと文字通り命がけで飛び込み、その振り上げられた太い腕に両手でしがみついた。

「離せ!!私を止める者は誰であろうと万死に値する!」

「止まりなさい、西園寺景明!!」

 氷室は自身の両手が景明の冷気によって凍傷を負い始めているのも構わず、目を見開いて上官を怒鳴りつけた。

「ここで一般人を凍らせても小鳥遊嬢は戻りません!!」

「…………ッ!!」

 “小鳥遊嬢”という単語。それが狂乱の渦の中にあった景明の脳髄に微かな、しかし確かな楔を打ち込んだ。

「よく見てください!!彼女の外套の切れ端も血の一滴もここには落ちていない。つまり敵は彼女を害したのではなく“連れ去った”のです!」

 氷室の瞳が必死の論理を景明にぶつける。

「ここで少佐が力任せに空間ごと破壊してしまえば敵が残したかもしれない微かな痕跡や空間の歪みといった“手掛かり”まで全て粉砕してしまうことになります!それは敵の思う壺だ!!」

「敵の、思う壺……」

 景明の唇から掠れた声が漏れた。雷光が微かに弱まり、吹き荒れていた絶対零度の吹雪がほんの少しだけその勢いを緩める。

 氷室はそのまま言葉を畳み掛けた。

「少佐の圧倒的な武力は敵も重々承知のはず。だからこそ正面から奪うのではなく少佐の目を盗んで搦め手を使った。少佐を怒りで我を忘れさせ、冷静な判断力を奪うことこそが奴らの狙いなのです!……小鳥遊嬢を救い出したいのなら今すぐその無駄な冷気を収めて私に状況を説明してください!!」

 副官としての命を懸けた決死の説得。直接的な戦闘力を持たない氷室だからこそ発せられる冷徹なまでの事実。

「…………ッ、アァアアアアッ!!」

 景明は顔を天に仰ぎ、自らの喉を掻き毟るような絶望の叫びをもう一度だけ上げた。

 自分が愛する者を守りきれなかったという事実が彼の心を引き裂いていた。

 しかし、景明はゆっくりと震える拳を下ろした。周囲を覆っていた冷気と雷光が彼の体内に急速に収束していく。

 凍りついていた鳥居から氷が溶け落ち、凍え上がっていた参拝客たちが何が起きたのか分からないまま、へたり込んで荒い息を吐いている。

「……私の、私の手から……鈴がすり抜けた……」

 景明の目はいまだに狂気を孕んだまま真っ赤に充血していたがそこには確かに理性の光が戻っていた。

「氷室……いや、野中。……必ず、見つけ出す。私から彼女を奪った蟲共を一人残らずこの手で八つ裂きにしてやる」

「ええ。そのための準備は私が道中に済ませてきました。……さあ場所を変えましょう。ここでは目立ちすぎます」

 氷室は凍りついた自らの両手を素朴な着物の袂に隠し、冷や汗を拭いながら景明を促した。

◇

 朱の鳥居が連なる神域の喧騒から遠く離れた山の中腹にひっそりと佇む寂れた廃堂。

 参拝客の足も完全に途絶え、秋の柔らかな日の光すら届かないその場所は冷気と相まってまるで地下の霊廟のように重苦しく澱んだ空気に満ちていた。

「……ここなら人目にはつきません。ひとまず状況の整理と説明をさせてください」

 野中みのるの姿に扮した氷室が周囲の気配を慎重に探りながら言うと景明は湿った板張りの壁に背を預け、荒い息を深く、長く吐き出した。

 彫刻のように端正な顔立ちは極限の怒りと焦燥を必死に理性の檻へ押さえ込もうと白く引き攣っている。長く美しい睫毛に縁取られた瞳の奥にはいまだ血の滲むような暗く凄惨な殺意が渦巻いていた。

「……手短に話せ、氷室。一秒でも長く愛する妻をあのような薄汚い闇の中に置いていると想像するだけで私の精神が崩壊しそうだ」

 地鳴りのような低く唸る声で急かす景明に対し、氷室は懐から手描きの旧都の地図と裏社会のネットワークを駆使して集めた数枚のメモを取り出し、埃を被った古い床几の上に広げた。

「昨夜、少佐があの廃寺で下水ネズミから吐かせた情報……絡新婦の拠点が旧都の東に位置する廃工場に繋がる地下道であることは私の情報網とも完全に一致しました。間違いなく小鳥遊嬢の気配はそこへ引きずり込まれています」

「ならば話は早い。今すぐ私をあの廃工場へ向かわせろ」

 景明は壁から背を離し、氷のように冷酷な眼光を東の空へと向けた。

「一秒でも早く私が駆けつけ、あの蟲共を氷河の底へ沈めなければ彼女がどんな目に遭うか……!」

 景明が猛然と踏み出そうとしたその足を氷室が自らの身体を壁のようにして塞いだ。

「だからこそ、待てと言っているのです、少佐……」

 氷室は眼鏡の奥から鋭い視線を真っ直ぐに景明へとぶつけた。

 普段の“眼鏡の苦労人”としての顔ではなく、冷徹な参謀としての本気の眼光だった。使い込まれた絣の着物の袖が景明から漏れ出す冷気によって白く凍りつき始めているのも構わず、氷室は一歩も引かない。

「奴らは少佐の圧倒的な武力を知っている。昨夜、少佐ご自身が絡新婦と対峙し、その出鱈目な実力を見せつけたのでしょう?ならば奴らが少佐の正面突破を予測していないはずがない。……怒りに任せて突っ込むのは敵の思う壺だと言っているのです」

「……私があんな下劣な罠に遅れをとるとでも言うのか」

「少佐ご自身が傷つくことはないでしょう。しかし相手の狙いは少佐の命ではない。……小鳥遊嬢です」

 “小鳥遊嬢”という言葉が再び景明の足を呪縛のように重く縫い留めた。

「絡新婦の異能はおそらく糸です。それはただ対象を捕縛するだけではなく精神に入り込み、心を操る呪詛の力を持っている。……もし少佐が廃工場を力任せに氷漬けにしようとした時、小鳥遊嬢が敵の糸に操られ、少佐の前に“肉の盾”として立たされたらどうしますか?」

「…………ッ!!」

 景明の喉の奥から言葉にならない呻き声が漏れた。

 愛する妻を自らの異能で傷つける可能性。それは景明にとって自身の死よりも遥かに恐ろしく耐え難い絶望であった。

「さらに言えば先ほどの“神隠し”。あれは空間そのものを歪め、対象を別次元へ引きずり込むような高度な呪術です。廃工場に直接乗り込んでも小鳥遊嬢が別の空間に隔離されていれば少佐の冷気も雷も届かない」

 氷室は懐から手描きの旧都の地図と数枚のメモを取り出した。

「直接的な戦闘力を持たない私だからこそ、冷静に盤面を見ることができます。絡新婦の呪詛の結界は強固な網のように幾重にも張り巡らされているはず。それを力任せに引き千切れば捕らえられた蝶……小鳥遊嬢の心と身体も一緒に引き裂かれてしまう危険がある」

 景明は壁に拳を叩きつけた。重い音と共に古い土壁が粉々に砕け散り、周囲に青白い氷の結晶が舞い散る。

「では、どうしろと言うのだ!ここで手をこまねいて彼女が敵の毒牙にかけられるのを待てと言うのか!無垢な子が薄暗い闇の中でどれほど怯え、どれほど私を呼んで泣いているか……!想像するだけで私の胸は内側から千切れそうだ!」

 景明の痛切な叫びに氷室はほんの少しだけ目を伏せ、すぐに力強く首を振った。

「いいえ。小鳥遊嬢を助け出すための、確実な道筋を立てるのです。……頭脳戦です、少佐」

 氷室は地図の一点を指差した。

「絡新婦の結界糸には必ず力の源となる“結び目”、すなわち呪詛の核が存在します。私の情報網で旧都の東側、廃工場を中心とした地脈の乱れを特定しました。敵は地脈の力を利用して、あの大規模な空間転移と結界を維持している」

 氷室の眼鏡が薄暗い路地で冷たく光る。

「少佐の氷と雷でその地脈の乱れの要所……呪詛の核となっている数箇所のポイントを同時に、かつ精密に破壊していただきます。結界の網の目を物理的に断ち切り、絡新婦の術式を弱体化させる。それが完了した瞬間に空間の歪みが解け、私が本丸への最短ルートを割り出します。……無策の突撃ではなく敵の罠を根底から崩す緻密な破壊工作です」

「……核を破壊し、結界を弱体化させる」

「そうです。そのためにはほんの少しだけ時間がかかります。……ですが信じてください。いえ、信じてもらわねば困ります」

 氷室は景明の狂気に満ちた瞳を真っ直ぐに見据えた。

「小鳥遊嬢は少佐が思っているような弱い小鳥ではありません。彼女はあんなにも少佐を深く愛し、少佐の背中を守ると誓った芯の強い女性です。……彼女なら必ず少佐が助けに来るまでの時間を自らの力で持ち堪えてみせるはずだ」

 景明は大きく息を吸い込んだ。

 冷たい裏路地の空気が火のように熱く焼けた彼の肺を通り抜けていく。そして再び開いた時にはその瞳から狂気の炎は消え去り、極限まで研ぎ澄まされた氷の刃のような帝都最強の男の顔に戻っていた。

「……分かった。お前の作戦に乗ろう、氷室。呪詛の核の場所を教えろ。一箇所につき十秒で粉砕してやる」

「了解しました。……行きましょう、少佐。我々の逆襲の始まりです」

◇

 どこかで水滴が冷たい石に落ちる音が響いた。

(……ここは……?)

 鈴は重い瞼をゆっくりと押し上げた。

 視界を覆っていたのは朱色の鳥居が連なる神聖な光の空間ではなく、ひどく淀んだ灰色の暗闇だった。

 冷たく固いコンクリートの感触が背中から伝わってくる。

 空気はひどく湿り気を帯びて埃っぽく、そして古い鉄が錆びたような血の匂いが鼻を突いた。

「っ……」

 身を起こそうとして鈴は自分の身体に違和感を覚えた。

 手首、足首、そして首元。

 目には見えないけれど、蜘蛛の巣のような極細の粘着質な糸が服上から何重にも絡みつき、彼女の身体を冷たい床に縫い留めるように縛り付けていた。

 手首を刺された時の焼け焦げるような痛みは引いていたが全身がひどく重い。

(糸……?そうだ、私、狐の石像の陰で急に手を刺されて……!)

 記憶がフラッシュバックし、鈴の心臓が早鐘を打ち始める。

 毒で意識が遠のく中、必死に握りしめようとした景明の手がするりと離れてしまった時の、あの絶望的な喪失感。

「か、景明様……ッ!」

 鈴が声を出そうとした瞬間、暗闇の奥から転がるような妖艶で禍々しい女の嗤い声が響いてきた。

「フフフ、アハハハハ……。無駄じゃよ、可愛い小鳥ちゃん。ここは旧都の地脈の底、わらわの張った呪詛の結界のど真ん中じゃ。お主のその愛らしい声はあの鬼少佐の耳には決して届かぬよ」

 硬いヒールの音が冷たい床を叩く。薄暗い光の中に浮かび上がったのは豪奢な着物を着崩し、肩に西洋の毛皮を羽織った女だった。

 血のように赤い口紅を引いた唇を三日月のように歪め、手にした長いキセルからむせ返るような甘ったるい紫色の煙を吐き出している。

「あ、あなたは……赫夜の……」

「いかにも。わらわは絡新婦。帝都の鬼少佐殿から、お主という極上の宝物を拝借させてもろうた」

 絡新婦は鈴を見下ろし、なめ回すような視線を向けた。その視線には純粋な悪意と獲物を品定めするような嫌悪すべき欲望が混じっていた。

「か、景明様は……景明様はどこですか!私を離してください!」

 鈴は恐怖で身を震わせながらも必死に声を張り上げた。

 これまでの彼女ならあまりの恐ろしさに涙を流し、ただ縮こまっていることしかできなかったかもしれない。しかし、今の彼女の胸の奥には景明からもらった限界突破の愛情と彼を守りたいという確固たる意志が宿っている。

「強気なことじゃ。じゃが、あの男はここへは来られぬ。わらわの結界が空間を歪めてお主の気配を完全に遮断しておるからな」

 絡新婦はキセルを口から離し、鈴の頬にひやりと冷たい指先を這わせた。

「ヒッ……!」

「良い肌じゃ。だが、わらわが欲しいのはお主の体ではない。……お主の持つ修復の力じゃ」

 絡新婦の目が蛇のように細められる。

「どんなものでも元の形に縫い直す奇跡の異能。……その力を使って我ら赫夜のための“無敵の鎧”を作れ。銃弾も、刃も、あの鬼少佐の氷さえも通さぬ完璧な呪いの防具をな」

「そ、そんなこと……するわけありません!私の力は景明様のためにあるんです!赫夜のような悪い人たちのためになんて絶対に使いません!」

 鈴の毅然とした拒絶に絡新婦は面白そうに喉の奥で笑った。

「フフフ……。今はそう言うじゃろうな。じゃがわらわの糸はただ身体を縛るだけの安物ではないぞ」

 絡新婦が指先を僅かに動かすと鈴の身体に絡みついていた見えない糸がまるで生き物のように蠢き始めた。

 それは衣服をすり抜け、肌の表面から毛穴の奥深くへと入り込んでいくような、おぞましい感覚を伴っていた。

「わらわの呪詛の糸は対象の精神の隙間に入り込み、心そのものを縫い変えてしまう力がある。……お主のその心の中から鬼少佐への愛という感情を一つ残らず引き抜き、代わりに赫夜への絶対的な忠誠心を織り込んでやる。……ただひたすらに我らのために針を動かし続けるだけの美しい人形へと作り変えてやろうぞ」

「あ……ぁっ……」

 脳の奥底に氷のように冷たい針が突き刺さるような痛みが走った。

 景明の温かい笑顔、不器用な愛情。それらの大切な記憶が黒い靄のようなものに覆い隠されそうになる。

(だめ……っ、記憶が……景明様のことが……消えちゃう……!)

 恐怖のあまり、鈴の目から涙が零れ落ちた。

 絡新婦は勝利を確信したように紫色の煙を吹き出した。

「さあ、抗うな。身を委ねれば痛みはすぐに消える。……お主は今日から、わらわの可愛い糸人形じゃ」

 侵食してくる冷たい呪詛。精神が黒く塗り潰されていく絶望感。

(……違う。これはただの恐怖じゃない。……これは糸だ)

 鈴の脳裏に、不意に、昨日の西陣での光景が鮮明に蘇った。

 薄暗い工房の中で幾千もの絹糸が放っていた艶やかな輝き。

 経糸と緯糸が交差し、木と木がぶつかる乾いた音と共に強靭な一枚の布が織り上げられていくあの感覚。

(糸がどうやって組み合わされば一番強くなるのか。……私は布の構造を知っている。糸の重なりを理解している!)

 鈴はゆっくりと目を閉じた。パニックになりかけていた呼吸を整え、裁縫箱を開ける時のように深く、静かに自らの内側へと意識を集中させる。

 彼女の異能は祈りを込めた針と糸を物理媒体として発動する。だが、今彼女の手には針も糸もない。

 それでも彼女の精神世界の中にはこれまで何万回と通してきた無数の絹糸のイメージと景明を想って織り上げたあの群青色の布の構造が確固たる光となって存在していた。

(絡新婦の呪詛も結局は“糸”で編まれた構造物。……結び目があり、交差点があるはず!)

 鈴の閉じた瞼の裏で彼女の精神を縛り付けようとしている黒く禍々しい糸の構造がまるで万華鏡のように拡大されて見え始めた。

 複雑に絡み合い、精神の繊維に食い込もうとしている呪いの糸。しかしその織り方は鈴から見ればあまりにも雑で乱暴なものだった。強引に精神を縛り付けることしか考えていない無骨な網の目。

(こんな荒い縫い目……私なら、一瞬で解ける!)

 鈴の意識の中で彼女自身の異能が一本の光り輝く針となって具現化された。その針には景明の瞳と同じ、深く澄んだ群青色の糸が通されている。

(景明様は必ず私を助けに来てくださる。だから私は……景明様が来るまで絶対にこの心を守り抜く!!)

「な、んじゃと……!?」

 余裕の笑みを浮かべていた絡新婦の顔が突如として驚愕に歪んだ。

 鈴の身体を縛っていた見えない呪詛の糸が乾いた音を立てて次々と弾け飛び始めたのだ。

「馬鹿な……!わらわの精神支配の糸が内側から弾かれているじゃと!?」

 目を開けた鈴の瞳にはもはや一片の涙も恐怖もなかった。そこにあるのは自らの愛と誇りを懸けて敵に立ち向かう気高く美しい女の決意の光だけだった。

「あなたの糸は冷たくて、痛くて……少しも美しくありません」

 鈴は見えない糸の縛りを自らの異能のイメージで解きほぐしながら冷たいコンクリートの床からゆっくりと上体を起こした。

「布も、糸も……誰かを想って祈りを込めて紡ぐからこそ強くなるんです。あなたのような人を傷つけるためだけの糸に私の心が縛られるはずがありません!」

 鈴の全身から微弱ではあるが極めて純粋で清らかな光のオーラが立ち昇る。

 それは景明が彼女の周囲に張っていた絶対零度の結界とは違う、鈴自身の魂が放つ、温かく強靭な修復の力だった。

「おのれ……ッ!ただの無力な小娘ではないと言うのか!」

 絡新婦は歯噛みし、着物の袖からさらに太く、漆黒の毒液を滴らせるような巨大な蜘蛛の糸の束を鈴に向けて放とうとした。

 しかし、鈴は引かない。彼女には直接的な戦闘力はない。この空間から自力で逃げ出すこともできない。だが、この精神の防衛戦においてだけは彼女は絶対に負けないという確信があった。

(時間を稼ぐの。景明様がこの暗闇を打ち砕いてくれる、その時まで……!)

 奪われた小鳥はただ籠の中で震えるのではなく、自らの力で羽を広げ、迫り来る闇に真っ向から立ち向かい始めた。

 その祈りのような強さが遠く離れた旧都の裏路地を疾走する景明の心に、微かな光の道標として届き始めていることなど、今はまだ誰も知る由もなかった。



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