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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第七章 旧都に潜む影と朱に染まる新婚旅行
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第47話

 嵐山の奥深く、旅館の離れに朝の清冽な光が差し込み始めていた。

 旧都の空が淡い真珠色から少しずつ透明感のある薄青色へと染まり、遠くの山々を覆っていた深い朝靄がゆっくりと晴れていく。ひんやりとした秋の空気が障子の隙間から滑り込み、部屋を満たしていた甘く濃密な熱気をほんのわずかに冷ましていく。

 最高級の絹が使われた柔らかい寝具の中。

 鈴は自らをすっぽりと包み込んでいる圧倒的な“熱”と鼻腔をくすぐる白檀の香りに包まれてゆっくりと重い瞼を押し上げた。

(……朝……)

 視界が少しずつ鮮明になっていく。すぐ目の前には彫刻のように端正な美貌を持つ景明の寝顔があった。

 長く美しい睫毛が透き通るような白い肌に柔らかな影を落としている。昨夜の露天風呂での甘く蕩けるような時間、そしてその後、この離れの密室で交わされた熱に浮かされたような重すぎる愛の言葉の数々が脳裏に蘇り、鈴の顔は瞬く間に熟れた林檎のように真っ赤に染まった。

(か、景明様……。寝ている時までこんなに力強く抱きしめなくても……)

 身じろぎをして少しだけ距離を取ろうとした瞬間、景明の逞しい腕がさらに強く鈴を引き寄せた。

「……おはよう、鈴」

 寝起き特有の低く微かに掠れた色気のある声が耳元で響いた。

 鈴の肩が跳ねる。見上げると景明の瞳が至近距離で鈴を真っ直ぐに見つめ下ろしていた。

「お、おはようございます、景明様……」

「ああ。朝の光に照らされた君の恥じらう顔はどんな名画よりも美しい。……このまま旧都の視察など放り出して、一日中この布団の中で君を抱きしめていたい衝動に駆られるな」

 景明はそう囁くと鈴の額、目尻、そして頬へと愛おしそうに何度も何度も熱い口付けを落とした。触れる唇の熱さと少し荒れた大きな手のひらが背中を撫でる感触に鈴の全身の感覚が甘く痺れていく。

「だ、ダメですよ、景明様っ。今日は……旧都の伝統工芸の体験とその間に景明様は大切な隠密調査があるのでしょう?氷室様にも、くれぐれも油断なきようと念を押されたばかりではありませんか」

 鈴が小さな両手で景明の厚い胸板を押し返すようにして諭すと景明は微かに眉をひそめ、心底不愉快そうに舌打ちをした。

「……あの男の胃痛など知ったことか。私の最優先事項は常に君だ。君と離れる時間など一秒たりとも作りたくはない」

 不満げに喉を鳴らす景明をなんとか宥めすかし、二人は朝の支度を整えた。

◇

 朝食を済ませ、旅館の玄関を出た二人の前には昨日と同じ自動車が重厚なエンジン音を響かせて待機していた。

 今回の目的地は旧都の北西に位置する西陣と呼ばれる地域である。そこは千年の長きにわたり、極彩色の美しい絹糸を使い、精緻で華麗な紋様を織り上げる西陣織の中心地であった。機織りの音が絶え間なく響くその町の一角にある体験工房へ鈴は向かうことになっていたのだ。

 車に乗り込むと景明は当然のように鈴の腰を抱き寄せ、自身の膝の上に座らせる勢いで密着してきた。

 ガソリンの匂いと真新しい本革のシートの匂い、そして景明の白檀の香りが混ざり合う車内。 石畳を蹴る車輪の振動が伝わってくるたび、景明の腕の力が強くなる。

「……」

 しかし、今の景明の横顔には昨日の甘味処で見せていたような蕩けるような甘さはなく、どこか不機嫌で冷たい殺気すら微かに漏れ出していた。

 彼の周囲の温度が物理的に下がり、窓ガラスの端には薄っすらと白い霜のようなものが張り付き始めている。

(……景明様、ご機嫌斜めね。やっぱり、私が一人で体験工房に行くのがご不満なのかな……)

 鈴は景明の胸に寄りかかりながら出発前の帝都での出来事を思い出していた。

 数日前。帝都・帝国陸軍司令部の隊長執務室。

「少佐。旧都での赫夜の拠点調査ですがあくまで“新婚旅行”というカモフラージュを完璧に成立させつつ、少佐が単独で動ける時間を作る必要があります」

 山積みの書類の前で氷室が青白い顔で進言していた。

「小鳥遊嬢は裁縫や刺繍がプロ顔負けの腕前です。そこで旧都の誇る伝統工芸“西陣織”の体験工房を貸し切り、数時間ほど彼女に機織りを学んでいただくというのはいかがでしょうか」

「……ほう」

 景明は冷徹な眼差しで氷室を見据えていた。

「小鳥遊嬢が安全な工房の中で機織りに没頭しているその数時間を利用すれば、少佐が赫夜の隠密調査をする完璧な口実になります」

 氷室の提案は軍人として、そして作戦参謀として極めて理にかなったものだった。

 赫夜が旧都に潜伏している可能性が高い以上、非戦闘員である鈴を危険な調査の最前線に連れ歩くのはリスクが高すぎる。鈴が安全な場所で大好きな布や糸に触れている間に帝都最強の異能者である景明が圧倒的な暴力で敵の拠点を叩き潰し、情報を引き出す。完璧な分業である。

「……よかろう。鈴が私の帰りを待つ間、退屈しないための配慮としては悪くない。その提案、採用してやる」

 そして現在。

 黒塗りの自動車が西陣の町に近づくにつれ、車窓の外からは幾千もの機織り機が奏でるリズミカルな音が微かに聞こえ始めていた。

「わあ……。景明様、聞こえますか?機織りの音です……!」

 鈴が期待に胸を膨らませ、瞳を星のように輝かせて身を乗り出そうとした、その瞬間だった。

「……やはり、却下だ」

 地を這うような、恐ろしく低い声が車内に響き渡った。同時に車内の空気が一瞬にして凍りつき、窓ガラスにびっしりと霜の華が咲き乱れた。吐く息が白くなるほどの急激な温度低下に運転席と後部座席を仕切るガラスの向こうでお抱え運転手が肩を震わせるのが見えた。

「え……?景明様?」

「却下だと言ったのだ。数時間も君と離れ離れになるなど絶対にあり得ない。……調査など後回しにする。いや、いっそ夜中に私一人で旧都を火の海……いや、氷河期にして赫夜の連中を虱潰しにしてやれば済む話だ」

 土壇場での、帝国陸軍少佐による職務放棄宣言であった。

 景明は鈴の腰に回していた腕にさらに力を込め、彼女を自身の胸の奥深くに隠すように強く抱きしめた。

「か、景明様っ!?突然何を言い出すんですか!氷室様が一生懸命考えてくださった計画なんですよ!?」

「あんな眼鏡の苦労人の計画など、この私の君への愛の深さに比べれば塵芥に等しい!……いいか鈴、この旧都には赫夜の残党が蠢いているのだぞ。そんな不浄な土地で私が君から目を離すなど……想像しただけで正気を失いそうになる。君は一歩も私の傍から離れるな」

 景明の目は本気だった。

 彫刻のような端正な顔立ちに狂おしいほどの独占欲と過保護な愛護欲を張り付かせ、駄々をこねる子供のように。

 しかしその実態は帝都を凍りつかせるほどの絶対的な力を持った化け物が鈴を離そうとしない。

(も、もうっ……!景明様は一度こうと思い込んだら絶対に引かないんだから……!)

 鈴は困り果てたがここで引くわけにはいかなかった。彼女は景明の胸に押し付けられていた顔を少しだけ上げ、真っ直ぐに彼を宥めるようにその大きな手の上に自分の小さな手を重ねた。

「景明様。私をそこまで大切に想ってくださるのは本当に、本当に嬉しいです。胸がいっぱいになります」

「鈴……」

「でも、お聞きください。私が一緒にいると景明様は私を守ることに気を取られて敵の拠点の調査に集中できません。それではいつまで経っても景明様が危険に晒されたままになってしまいます」

 鈴の凛とした、しかしどこまでも優しく温かい声が凍りついた車内の空気をわずかに和らげていく。

「それに……私はただ守られているだけの、鳥籠の中の小鳥ではありません!」

 鈴は重ねた手に力を込めた。

「私の異能は祈りを込めた針と糸がなければ発動しません。でも、だからこそ、私は布が織られる仕組みそのもの――経糸と緯糸がどう交わり、どうやって一枚の強靭な布になるのかをこの手で、この目で、どうしても学びたいのです」

 景明はハッとして僅かに目を見開いた。

「布の構造を根底から理解できれば私の異能はもっと強くなるはずです。傷ついた物を元通りにするだけでなく、より強固なものへと作り変えることができるかもしれない。……それがいつか、危険な戦地の最前線に立つ景明様の背中を守る力になると思うから」

 真っ直ぐな一点の曇りもない鈴の決意。それはどれほど強力な異能者であろうとも決して打ち砕くことのできない愛する者を守りたいという純粋な魂の輝きだった。

「私に景明様をお守りする力をつけさせてください。……お願いいたします」

 鈴が真っ赤になりながらも逃げることなく景明の目をじっと見つめ返す。

「…………っ」

 景明は雷に打たれたかのように硬直した。彼の脳内で先ほどまでの「絶対に離れない」という執拗な独占欲が鈴の「貴方を守る力になりたい」というあまりにも健気で深い愛情の言葉によって凄まじい勢いで上書きされていく。

(ああ……ああ、鈴。君という子は本当に……どこまで私を狂わせれば気が済むのだ……)

 景明は耐えきれないというように天を仰ぎ、深く、長く息を吐き出した。

 車内を満たしていた刺すような冷気が一瞬にして真夏のような熱を帯びた甘い空気へと変貌を遂げる。

「……負けた。君のその真っ直ぐな愛情の前では私のどんな我儘も粉々に砕け散ってしまう」

 景明は観念したように低く笑うと鈴の顔を両手で優しく包み込み、その額に深い誓いのような口付けを落とした。

「よかろう。君のその尊い決意に免じて数時間だけ君を私の腕の中から解放してやろう。だが……」

 景明の瞳に再び鋭い氷の光が宿る。

「私の命と魂をかけて君の指先一つ、髪の毛一本たりとも傷つけさせはしない。……私の愛の重さを旧都の闇に刻み込んでやる」

 自動車が風情ある西陣の石畳の路地を静かに進み、やがて一軒の古びた、しかし格式の高さを感じさせる大きな町家の前で停車した。

「さあ、着いたぞ。足元に気をつけて降りなさい」

 景明が先に車を降り、磨き上げられた革靴で石畳を踏みしめると鈴のために優雅に手を差し出した。

 鈴はその大きく温かい手を取り、外套の裾を揺らして秋の澄んだ空気の中へと舞い降りた。

 周囲の家々からは幾千もの機織り機が奏でるリズミカルで心地よい音が、まるで町全体が生きているかのような鼓動となって響き渡っていた。

 空気中には古い木造建築特有の落ち着いた匂いと上質な絹糸が放つ微かな甘い香りが漂っている。

「わあ……。町中から糸の音が聞こえます。これが西陣……」

 鈴が感嘆の吐息を漏らしながら瞳を輝かせていると町家の引き戸がガラリと開き、この体験工房を営む初老の主人が数人の職人たちを伴って慌てて飛び出してきた。

「お、お待ちしておりました!西園寺様でいらっしゃいますね。本日は当工房を貸し切りでのご予約、誠にありがとうございます……っ!」

 主人は地面に頭が擦り切れんばかりの勢いで深くお辞儀をした。

「ああ。私の妻がどうしても西陣織の仕組みを学びたいと言ってな。彼女が満足するまで最高の糸と機織り機、そして熟練の指導を頼む」

「は、はいっ!もちろんでございます!奥様、どうぞこちらへ……!」

 工房の中へと案内されるとそこには帝都の洗練された洋風建築とは全く違う、太い梁が剥き出しになった高い天井と薄暗い空間に差し込む柔らかな自然光が織りなす荘厳な空間が広がっていた。

 ずらりと並んだ木製の機織り機。そして壁際には息を呑むほど色鮮やかな絹糸の束がまるで虹をそのまま切り取って吊るしたかのように整然と並べられている。

「すごい……綺麗……っ」

 鈴は裁縫を愛する者としてその極上の絹糸が放つ艶やかな輝きにすっかり心を奪われてしまった。

 朱色、瑠璃色、若草色、そして豪奢な金糸。それらがこれから一本の布へと生まれ変わるのだと思うと胸の奥から熱いものが込み上げてくる。

 しかし、鈴が純粋な感動に胸を震わせているその隣で景明の纏う空気は全く別の、ひどく冷たく重いものへと変貌していた。

「……ここか」

 景明は鈴のために特別に用意されたという工房の中央にある最も立派な機織り機の前に立つと鋭い双眸で周囲の空間を舐め回すように睨みつけた。

 天井の梁の裏、床板の隙間、そして窓の外の気配に至るまで彼の中の“帝都最強の異能者”としての感覚が一寸の死角もなく警戒網を広げていく。

(……赫夜の残党がどこに潜んでいるか分からない旧都だ。この程度の木造建築の壁など、奴らの前では障子紙のように薄い。私の愛しい妻をたった一人で残していくにはあまりにも無防備すぎる)

「……景明様?」

 鈴が不思議そうに首を傾げた、その瞬間だった。

 景明は手袋をはめた右手をそっと持ち上げ、機織り機の傍らで微かに指先を弾いた。

 すると極寒の冬の朝に霜柱が踏み砕かれたような硬質で冷たい音が工房の空気を震わせた。

「ひゃっ……!?」

 鈴の肌を刃物のように鋭く、それでいて不思議と心地よい冷気が撫でた。

 一般の職人たちにはただの「急な秋の冷え込み」程度にしか感じられないだろうが異能の気配に敏感な鈴にははっきりと分かった。

 景明の指先から放たれた目に見えない青白い絶対零度の冷気が鈴の座る機織り機を中心にドーム状の巨大な“防壁”となって何重にも張り巡らされたのだ。

 それはいかなる物理攻撃も赫夜の怪魔たちが放つ妖気すらも一瞬にして凍結させ粉砕する帝都最強の氷の異能による『絶対守護の結界』だった。結界の表面には光の反射で一瞬だけ美しい雪の結晶のような紋様が浮かび上がり、すぐに不可視の空間へと溶け込んでいく。

(……すごい。空気が景明様の気配で完全に守られている)

 結界の内側にいる鈴だけがその氷の防壁がどれほど分厚く、どれほど狂おしいまでの過保護な愛情で編み上げられているかを感じ取ることができた。

「……よし。これで何があってもこの座席だけは無傷で残る」

 景明は極めて真剣な顔で物騒極まりない安全確認を口にした。

「か、景明様、ここは旧都の伝統的な工房ですよ……?」

「何が起こるか分からないのが戦場であり、敵の拠点だ。……鈴」

 景明は機織り機の前に立つ鈴の細い腰に腕を回し、工房の主人や職人たちが唖然として見守っているのなど完全に無視して彼女の身体を力強く自身の厚い胸板へと引き寄せた。

「きゃっ……!か、景明、様っ。皆さんが、皆さんが見ていますっ……!」

 鈴の顔が一瞬にして熟れた林檎のように真っ赤に染まる。

 周囲の職人たちはあまりにも堂々とした男女の密着ぶりに目を丸くし、慌てて咳払いをしながら顔を背けたり、天井の梁の木目を熱心に数え始めたりしている。

 しかし、景明の瞳には愛する妻以外のものは一切映っていなかった。

「鈴。いいか、私の言葉をよく聞くんだ」

 景明の低く、熱を帯びた声が白檀の深く高貴な香りと共に鈴の耳元に注ぎ込まれる。

「私が視察を終えて戻るまで少しでも異常を感じたら、この結界の中から一歩も動くな。……もし、誰かが君に危害を加えようと近づいてくれば、この防壁が自動的に相手を氷の彫像に変えて砕き散らす設定にしてある。君はただ、安心して糸と遊んでいればいい」

「人を氷の彫像にして砕き散らす設定をこんな平和な工房に置いていかないでください……っ!」

 鈴は涙目になりながら抗議したが景明は酷薄な軍人としての笑みを浮かべた後、すぐに蕩けるような極甘の表情へと切り替わった。

「……ああ、ダメだ。やはり君を置いていくなど無理だ。今すぐこの任務を放棄して君を抱き抱えて宿へ帰りたくなってきた」

「景明様!さっき、車の中で納得してくださったばかりではありませんか。私、景明様をお守りする力をつけるためにここで学びたいんです」

 鈴が小さな両手で景明の胸元をぎゅっと掴み、潤んだ瞳で上目遣いに見上げると景明は観念したように長く深い溜息をついた。

「……君のその真っ直ぐな瞳にはどうしても抗えないな」

 景明はそう呟くと鈴の顎を長い指先でそっとすくい上げた。そして周囲に何人がいようと、ここが由緒ある伝統工房であろうとお構いなしに鈴の小さな唇を自らの熱い唇で塞いだのである。

「っ……!?」

 艶っぽい水音が静寂に包まれた工房の中に無慈悲にも響き渡った。

 職人たちの息を呑む音や顔から火を出して後ろを向く気配が鈴にも伝わってくる。だが、景明の口付けは一度では終わらなかった。

 触れるだけの軽いものから角度を変え、鈴の甘い吐息を完全に奪い尽くすような深く、長く、そして狂おしいほどの執着に満ちた口付けへと変わっていく。

 鈴の背中を抱きしめる腕の力が強くなり、景明の圧倒的な体温が秋の冷え込みを完全に吹き飛ばして鈴の全身を熱く溶かしていく。

(あ、頭が真っ白に……っ。景明様、お願い、人が、人が……っ)

 酸欠で目眩を感じ始めた頃、ようやく景明は名残惜しそうに唇を離した。

 銀色の糸が微かに引かれ、鈴は呼吸を乱しながら景明の胸に縋り付くことしかできなかった。

「……愛している、鈴。すぐに戻る。必ず君の元へ」

 その声は先ほどまでの甘やかしに満ちた夫のものではなく、命を懸けて愛する者を守り抜くという凄絶な覚悟を秘めた男の声だった。

「……はい。いってらっしゃいませ、景明様。お気をつけて……」

 鈴が真っ赤な顔のまま、懸命に微笑んで送り出すと景明は最後にもう一度だけ鈴の髪に深く口付けを落とし、そして振り返った。その瞬間、彼の纏う空気が完全に切り替わった。

 愛しい妻に向ける極甘のオーラは微塵も残っていない。そこにあるのは帝都の闇を氷結地獄へと突き落とし、敵を無慈悲に蹂躙する冷徹な“鬼少佐”の姿だけだった。

 景明はコートの裾を翻し、一瞥もくれることなく工房を後にした。残されたのは彼が放った圧倒的な覇気と鈴の周囲を守る絶対零度の結界だけである。

◇

 景明が去った後、工房の中にはしばらくの間、呆然としたような空白の時間が流れていた。やがて主人が我に返り、額の汗を拭いながら鈴に歩み寄ってきた。

「あー……えっと、奥様。西園寺様はなんというか、その……大変、奥様を深く愛していらっしゃるのですね……」

「ほ、本当に申し訳ありません……っ!お見苦しいところを、その……っ」

 鈴は両手で顔を覆い、今すぐ機織り機の下に穴を掘って隠れたい衝動に駆られていた。

「いやいや!仲睦まじいのはよきことでございます!さ、さあ、それでは気を取り直して西陣の機織りを体験していただきましょうか!」

 主人の明るい声に救われ、鈴はようやく機織り機の前の丸椅子に腰を下ろした。

 景明の張った氷の結界は鈴が内側から動く分には全く冷たさを感じさせず、むしろ心地よい澄んだ空気を保ってくれている。

「奥様にはこの色鮮やかな絹糸を使って小さな帯地を織っていただきます。まずは仕組みからご説明いたしますね」

 主人の指導のもと鈴は機織り機に触れた。

 縦に張られた無数の糸。これが経糸である。ピンと張られたその糸は触れると微かに琴の弦のように弾力があり、絹特有の滑らかさと冷たさを持っていた。

 そして、杼(ひ)と呼ばれる木製の舟形の道具に巻き付けられているのが緯糸だ。

「足元の踏み木を踏むと経糸が上下に分かれます。その間にこの緯糸を通した杼を滑らせ、最後に筬(おさ)を手前に引いて糸を打ち込むのです」

「足で踏んで横に通して手前に引く……」

 鈴は教えられた通りにゆっくりと身体を動かしてみた。

 踏み木を踏み込み、杼を滑らせ、筬を打ち込む。木と木がぶつかる乾いた音と絹糸が擦れ合う微かな音が工房の空気に吸い込まれていく。

 最初はぎこちなかった動きが裁縫で培われた鈴の恐ろしいほどの集中力と手先の器用さによって瞬く間に滑らかなリズムを帯び始めた。

(……すごい。一本一本はこんなに細くて切れそうな糸なのに)

 鈴は自分の手元で交差していく糸を見つめた。

 縦の糸と横の糸が隙間なく重なり合い、打ち込まれることで決して容易には破れない強靭で美しい布という面が構成されていく。そのリズミカルな音と絹糸の手触り、古い木の匂いに包まれながら鈴の意識は次第に研ぎ澄まされていった。

 彼女の異能が無意識のうちに機織り機と同調していくのを感じる。

(私の裁縫は破れた布の繊維を針と糸で繋ぎ合わせて、元の形に“戻す”力。……でも布がどうやって作られているのかその根底の構造を知れば……)

 鈴の脳裏に一本の光る糸のイメージが浮かんだ。

 経糸と緯糸の交差点。そのミクロの世界の構造。もし、自分が修復する際にただ繊維を繋ぐだけでなく、この織りの構造を異能の力でさらに密にさらに強固に再構築することができたら。

(そうすれば……ただの衣服を刃物も通さないような強靭な防刃の布に作り変えることができるかもしれない。景明様が敵の攻撃で傷つく前に……私の縫い上げた服が彼を守る鎧になる……!)

 その気づきは鈴の異能にとって革命的な目覚めだった。

 手にしている杼がまるで自分の身体の一部になったかのように感じられる。

 糸が何を求めているのかどう交われば最も美しく強くなるのかが手に取るように分かるのだ。

(景明様。私、絶対に貴方をお守りする力を手に入れます。貴方が私を全身全霊で守ってくれているように……)

 鈴は景明の温かい大きな手のひらの感触と深く甘い口付けの熱を思い出しながら祈りを込めるように機織り機を動かし続けた。

◇

 西陣の賑やかな町並みから心地よい機織りの音が少しずつ遠ざかっていく。

 秋の柔らかな陽光が降り注ぐ表通りから一本裏手へ入り、さらに迷路のように入り組んだ細い路地へと足を踏み入れた瞬間、景明の纏う空気が劇的にそして残酷なまでに変貌を遂げた。

 つい数分前まで愛しい妻の柔らかい唇を貪り、蕩けるような甘い囁きを落としていた姿はもうない。

 彫刻のように端正な輪郭は氷のように冷たく引き締まり、長く美しい睫毛に縁取られた双眸には一寸の感情も読み取れない絶対零度の殺気が宿っていた。

 帝国陸軍において最強の異能者と恐れられる“鬼少佐”。それが今の景明の真の顔であった。

(……鈴。私の愛しい妻。君のその清らかな魂を絶対にこの薄汚れた闇には触れさせない)

 革靴が湿った石畳を打つ。彼の歩みと共に周囲の空気が急速に冷え込んでいく。秋の冷気などとは比較にならない生物の本能に死を直感させるような物理的な絶対零度の冷気。路地裏の水たまりが彼が通り過ぎる端から音を立てて凍りついていく。

 目指すのは西陣の町外れ、鬱蒼とした竹林の奥深くに見捨てられた廃寺であった。

 氷室が事前に調べ上げた情報によれば、赫夜の末端の怪魔たちがこの旧都の裏側で不穏な動きを見せているという。

 竹林の影が濃く落ちる廃寺の境内に足を踏み入れるとひどく淀んだ泥と腐肉が混ざり合ったような吐き気を催す悪臭が鼻を突いた。

「……ここか。下水ネズミ共の掃討にはお誂え向きの掃き溜めだな」

 景明はコートの裾を冷たい風に翻し、微かな嫌悪を込めて低く呟いた。廃寺の朽ち果てた本堂。その暗闇の中にはすでに獲物を待ち構える幾つもの醜悪な気配が蠢いていた。

 人間の体躯に節足動物の脚が生えたような異形の姿。それは絡新婦の妖気によって生み出された下級の怪魔たちである。

「ギ、ギギッ……。来たぞ、帝都の鬼が……」

「女連れで浮かれていると聞いていたが自ら死地に飛び込んでくるとはな……ッ!」

 闇の中から無数の赤い眼光が景明を射抜く。

 怪魔たちは景明がたった一人で、しかも軍服ではなく動きを制限されそうなスーツ姿で現れたのを見て勝機があると踏んだのだろう。腐った牙を剥き出しにし、涎を垂らしながら嘲笑の声を上げた。

 しかし、その醜悪な笑い声は次の瞬間、絶望の悲鳴へと変わることになる。

「……誰が貴様らに喋る許可を与えた?」

 地を這うような、恐ろしく低く冷酷な声。

 景明が右手を軽く持ち上げた、その一瞬だった。凄まじい轟音と共に廃寺の本堂の分厚い木製の扉が一瞬にして青白い氷柱に貫かれ、粉々に砕け散った。

 それだけではない。景明の足元から放射状に放たれた絶対零度の冷気が地面の土、腐った柱、そして天井の梁に至るまで空間そのものを一瞬で白く凍てつかせてしまったのだ。

「なっ……!?なんだ、この冷気は……ッ!」

「動けな……ぃ!?」

「愛しい妻が私のために健気に機織りを学んでいるのだ。その貴重な一秒一秒を貴様らの汚らしい顔を見るために浪費させられる私の怒りがどれほどのものか……その身で味わうがいい」

 景明の全身から青白い氷のオーラと共に黄金色に輝く雷の稲が迸り始めた。

「ヒィィッ……!や、やれッ!殺せェッ!」

 恐怖に駆られた数十匹の怪魔たちが毒の爪を振りかざし、四方八方から一斉に景明へと襲いかかった。だが、景明は表情一つ変えず、ただ静かに指を鳴らした。その瞬間、廃寺の空間が反転したかのような錯覚に陥った。

 青白い閃光が弾け、鼓膜を突き破るような凄まじい雷鳴が轟いた。

「消え失せろ、塵芥共」

 空中に飛びかかっていた怪魔たちの身体に黄金色の雷光が容赦なく直撃する。

「ギャアアアアアッ!!」

 落雷の数万ボルトの熱量によって内臓を焼き焦がされた怪魔たちは次の瞬間には絶対零度の冷気によって身体の芯まで瞬時に凍結させられ、空中で醜い氷の彫像と化した。

 地面に激突した氷の彫像たちは鮮血を一滴も流すことなく無数の氷の欠片となって粉々に砕け散っていく。

 鼻腔を突くのは焼け焦げた肉の匂いではなく強烈なオゾンの匂いと凍てついた血の微かな鉄の匂いだけだった。

「遅い。脆い。……無価値だ」

 景明はスーツに一滴の汚れも、一片の埃すらもつけることなく悠然と氷と雷の嵐の中を歩き進む。

 怪魔たちが悲鳴を上げ、逃げ惑おうとするが景明の雷は逃亡を許さない。的確に急所を貫き、氷がその存在を世界から完全に抹消していく。

 まさに、蹂躙。一方的で圧倒的な暴力の嵐。

(ああ、こんな下劣な蟲共の相手をしている暇などないというのに。……鈴、私の愛しい鈴。今頃、君はあの美しい指先で絹糸を紡いでいるのだろうか。君の柔らかい髪に触れたい。君の甘い香りを吸い込みたい……)

 脳内で最愛の妻の姿を狂おしいほどに思い描きながら景明の行使する異能の威力はさらに凶悪に、さらに残酷なものへと跳ね上がっていく。

 ほんの数分。それだけの時間で廃寺を埋め尽くしていた数十の怪魔たちはただの冷たい氷の粉へと変わり果てていた。

 静まり返った本堂の奥。ただ一匹だけ景明が意図的に生かしておいた他より少し体格の大きい蜘蛛の怪魔が両足を氷の杭で壁に縫い付けられ恐怖に顔を引き攣らせていた。

「さあ、尋問の時間だ」

 景明は凍りついた怪魔の目の前に立ち、氷のように冷酷な瞳で見下ろした。

「……貴様らを束ねている幹部はどこにいる」

「ヒィッ……!わ、私を殺せば絡新婦様が黙っていないぞ……ッ!」

「絡新婦…それが貴様らの操り手か…。だが黙っていないなら都合がいい。まとめてこの手で氷河の底に沈めてやる。……言え」

 景明が指先を僅かに動かすと怪魔を縫い付けている氷の杭が嫌な音を立てて傷口を広げ始めた。

「ギャアアアッ!痛い、痛いィィッ!」

「痛いか。だが、私の妻と離れているこの胸の痛みに比べれば貴様の痛みなど無に等しい。……十秒数える間に答えなければ貴様の脳髄に直接雷を流し込み、永遠に終わらない苦痛を与え続ける」

「い、言う!言うからやめてくれェッ!」

 あまりの恐怖に怪魔は絶叫しながら組織の情報を吐き出し始めた。

 旧都の東に位置する廃工場に絡新婦の拠点に通じる地下道が隠されていること。そして絡新婦が現在、帝都最強の男から“修復の力を持つ女”を引き剥がすために恐るべき罠を張っていること。

「絡新婦様は……もう、あの小娘のところに……見えない糸を伸ばしている……ッ!」

 その言葉を聞いた瞬間、景明の双眸がかつてないほどの恐ろしい殺意と怒りで大きく見開かれた。

「……なんだと?」

「ヒッ......!お、お前がどれだけ強固な氷の壁を作ろうと絡新婦様の糸は心の隙間に入り込む……!あの女はもう、蜘蛛の巣に……」

 怪魔がそれ以上言葉を発することはなかった。

 景明の全身から爆発的に放たれた黄金の雷が怪魔の頭部を容赦なく撃ち抜き、瞬時に黒焦げの灰へと変えたからだ。

「……下劣なゴミ共が。私の愛する妻に指一本、視線一つ触れさせるものか」

 景明は奥歯を強く噛み締め、懐から銀時計を取り出した。針は鈴を工房に残してからまだ一時間も経過していないことを示している。

 情報は手に入れた。拠点の尻尾は確実に掴んだ。だが、今の景明の頭の中には軍の任務などすでに消し飛んでいた。

(……鈴。待っていてくれ。今すぐ君の元へ帰る!)

 景明は踵を返した。彼の背後で氷漬けになった廃寺が雷の余波を受けて轟音と共に崩れ落ちていく。その崩壊の音すらも気にかけることなく景明は鈴が待つ工房へと一陣の吹雪のように全速力で駆け出していった。

◇

 旧都の空を覆っていた秋の柔らかな陽光が時間と共に少しずつその角度を変え、西陣の歴史ある町家の窓から差し込む光の束が黄金色からほんのりと赤みを帯びた琥珀色へと移ろい始めていた。

 広大で薄暗い体験工房の中に規則正しく、そしてどこまでも心地よい機織りの音が響き渡っている。

 鈴は木製の丸椅子に背筋を伸ばして座り、目の前の巨大な機織り機と完全に一体化していた。

 両手でしっかりとそれでいて羽毛に触れるような優しさで杼(ひ)を握り、足元では複雑な踏み木をリズミカルに踏み替えていく。

 鈴の視線の先にはすでに数寸ほど織り上がった見事な帯地があった。彼女が選んだ絹糸は深く静かな群青色を基調とし、そこに月明かりを思わせる銀糸と時折鋭く瞬く稲妻のような金糸が織り込まれている。それは無意識のうちに景明の瞳の色と彼がその身に宿す絶対零度の氷、そして黄金の雷の異能を形にしようとしているかのようだった。

 鈴の指先から流れ込む微弱な、しかし極めて純粋で清らかな異能の力が機織り機の絹糸へと伝播していくのを感じた。

 それはかつてないほどに研ぎ澄まされた異能の感覚の同調だった。

 普段、傷ついた服や布を修復する時、鈴は破れた繊維の断面と断面を針と糸で繋ぎ合わせるイメージを持っていた。

 しかし今、彼女は布がゼロから生み出される過程を自らの手で体感している。

 縦に張られた経糸の張力。横に通される緯糸の柔軟さ。それらが交差し、筬(おさ)によって強く打ち込まれることでただの細い線の集合体が物理的な強度を持った一つの強靭な面へと変化していく。

(……分かる。糸がどうやって組み合わされば一番強くなるのか。どの角度でどれくらいの力で打ち込めば決して解けない結び目になるのか……)

 鈴の視界がまるで万華鏡を覗き込んだかのようにミクロの世界へと拡大していくような不思議な感覚に陥った。

 肉眼では捉えきれないはずの絹糸一本一本を構成する極細の繊維の重なり合い、その間に存在する微小な隙間、そして繊維同士が摩擦によって生み出す強固な結束力。それらが鈴の異能の波長と完全にリンクし、光り輝く幾何学模様となって脳内に直接描き出されていく。

 手にしている杼が重さを失ったかのように軽やかに舞う。糸が何を求めているのか、どう交われば最も美しく、そして最も強くなるのかが手に取るように分かるのだ。

 彼女の周囲には景明が残していった青白い絶対零度の結界がドーム状に展開されていた。光の反射によって時折、空中に美しい雪の結晶の紋様が浮かび上がっては消える。

(景明様……。私、もう少しで掴めそうです。貴方をお守りするための新しい力の形を)

 旧都に潜む赫夜の気配など微塵も感じさせない完全無欠の安全な密室。愛する夫の腕の中にいるような安心感に包まれながら鈴はただひたすらに景明を守るための布を織り上げることに夢中になっていた。

◇

 同時刻。

 鈴が機織りの真髄に触れ、穏やかで神聖な時間を過ごしているその裏側で朽ち果てた廃寺から工房へと全速力で引き返そうとしていた景明の前に不吉な影が立ち塞がっていた。

「……何の真似だ」

 景明は濡れた石畳が続く細い路地の真ん中で足を止めた。

 彼を取り囲むように路地の両脇の土塀や古い家屋の屋根から銀色に鈍く光る無数の細い糸が何重にも張り巡らされていたのだ。

 それは獲物を絡め取るために巧妙に仕掛けられた強靭で粘着性のある巨大な蜘蛛の巣だった。

 冷たい秋の風に乗ってむせ返るような甘ったるい香水の匂いと血の錆びたような微かな腐臭が漂ってくる。

「……フフフ、アハハハハハッ!随分と急いでおられるようじゃのう、帝都の鬼少佐殿」

 頭上の屋根の上から地の底から響くような妖艶で毒気を孕んだ女の嗤い声が降ってきた。

 景明が氷のように冷酷な視線を上げると逆光の中に豪奢な着物に西洋の毛皮を羽織ったシルエットが浮かび上がった。真紅の口紅を引いた唇を三日月のように歪め、手にしたキセルから紫色の煙を吐き出している女。

 赫夜の幹部、絡新婦である。

「……下水ネズミの親玉がわざわざ私の前に姿を現すとはな」

 景明の声は地鳴りのように低く、一切の感情を排した絶対零度の響きを持っていた。しかし、その内側では愛する妻の元へ帰る道を塞がれたことに対する活火山のような凄まじい怒りが沸点に達しようとしていた。

「ご挨拶じゃな。お主が下っ端共を氷漬けにして遊んでおる間にあの可愛い小鳥をいただこうかとも思ったのじゃが……。どうやらお主、あの小娘の周りに少々ばかり厄介な氷の防壁を張っておるようじゃな」

 絡新婦はキセルを弄びながら面白そうに目を細めた。

「わらわの見えない糸でもあの結界を外から破るには少し骨が折れそうじゃ。……じゃから予定を変更してまずは飼い主であるお主の実力をこの身で直に確かめてやろうと思うてな」

「実力を確かめる、だと?」

 景明の周囲の空気が物理的に凍りつき始めた。

 吐く息が白く染まり、足元の石畳から青白い霜が急速に広がっていく。

「貴様のような腐りきった蟲が私の妻に近づこうとした。それだけで万死に値するというのにあまつさえ私の道を塞ぎ、実力を試すなどとほざくか。……自らの身の程を地獄の底で後悔させてやる」

 景明がスーツのポケットに手を入れたまま、足で石畳を軽く踏み鳴らした瞬間、彼を取り囲んでいた無数の蜘蛛の糸が一瞬にして青白い氷に覆われ、次の瞬間にはガラス細工のように粉々に砕け散った。

「なっ……!?」

 絡新婦が僅かに目を見開いたその直後、景明の姿がかき消えるようにその場から消失した。

「消え……ッ!?」

「遅い」

 耳元で死神の宣告のような低い声が響いた。

 絡新婦が振り返るよりも早く、屋根の上に瞬動した景明の右手が容赦なく彼女の首筋へと伸ばされる。その手からは触れたものを原子レベルで凍結させる絶対零度の冷気と黄金色に爆ぜる数万ボルトの雷が同時に迸っていた。

(……この男、速すぎるッ!それにこの出鱈目な妖気の出力はなんじゃ!?)

 絡新婦は本能的な死の恐怖を感じ、着物の袖から瞬時に極太の蜘蛛の糸を盾のように展開した。

 景明の放った氷と雷の一撃が蜘蛛の糸の盾に激突する。

 鋼鉄よりも硬いはずの絡新婦の糸が雷の熱で焼け焦げ、同時に氷結させられて悲鳴を上げるように砕け散った。その凄まじい衝撃波で周囲の古い家屋の瓦が吹き飛び、強風が路地に巻き起こる。

「くっ……フフッ、ハハハハッ!素晴らしい!噂に違わぬ、いや、それ以上の化け物ぶりじゃ!」

 絡新婦は衝撃を利用して後方へ大きく跳躍し、距離を取った。

 彼女の豪奢な着物の袖は半ば焼け焦げ、凍りついていたがその顔には狂気めいた歓喜の笑みが浮かんでいた。

「逃がすと思うか」

 景明が追撃のために右手を掲げ、空中の水分を一瞬で巨大な氷の槍へと変換させようとした、その時。

「待て待て、今日はここまでじゃ!お主の実力の底なしぶりはよく分かったわい」

 絡新婦はキセルを夜空に放り投げると自身の身体を紫色の濃密な妖気の靄へと溶け込ませ始めた。

「正面からやり合えば、わらわでも分が悪い。……じゃが、お主はあの小鳥を一日中、その結界に閉じ込めておくつもりか?いつか必ず、その腕から離れる瞬間が来る。その時こそ我らが小鳥をいただくぞ」

「……貴様にその時は永遠に訪れん」

 景明の放った巨大な氷の槍が絡新婦の姿を貫いた。

 しかし、それはすでに残像に過ぎず、氷の槍は虚しく古い土壁を粉砕しただけで終わった。

「フフフ……。せいぜい、大事な宝物を抱え込んで怯えて暮らすがよい。帝都の鬼少佐殿……!」

 妖艶な嗤い声だけが路地にこだまし、やがて甘ったるい香水の匂いと共に完全に気配が消失した。

「…………チッ」

 景明は静まり返った路地に立ち尽くし、忌々しげに舌打ちをした。逃げられたことへの苛立ちよりも愛する妻を明確に標的と宣言されたことに対する底なしのどす黒い怒りが胸の内で渦巻いている。

(私の鈴をいただく、だと? ……絶対に指一本触れさせはしない。万が一にもあの結界が破られるようなことがあれば……!)

 景明は懐中時計を取り出し、時間を確認した。

調査と戦闘で予定よりも時間を食ってしまった。

「……鈴ッ!」

 景明は再びコートを翻し、最愛の妻が待つ工房へと一陣の吹雪のように全速力で駆け出した。

 日常のすぐ裏側で彼らを狙う巨大な闇が完全にその牙を剥いた。


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