第46話
夜の帳が静かに下り、東の空が深い藍色から淡い真珠色へとグラデーションを描き始める頃。
帝都から遥か西に位置する千年の歴史を誇る古き都、旧都のターミナル駅は深い朝靄にすっぽりと包み込まれていた。
白く濃密な蒸気が秋の鋭い冷気の中に吐き出され、瞬く間に溶けていく。
腹の底にまで響き渡るような重低音を響かせ、一晩をかけて帝都から走り続けてきた黒鉄の巨体が長く尾を引く金属的な軋み音と共にプラットホームへと滑り込んだ。
石炭が燃える独特の焦げた匂いと朝の清冽で少し湿り気を帯びた空気が混ざり合い、旅の終着地を告げる独特の郷愁を誘う匂いとなって鼻腔をくすぐる。
「……着いたな、鈴」
一等寝台車の重厚なマホガニー材の扉が開き、プラットホームの石畳に最初に降り立ったのは景明だった。
「はい、景明様」
鈴は景明から差し出された大きくて力強い手を取り、小鳥のように軽やかに列車のステップを降りた。その瞬間、プラットホームにいた駅員や早朝の列車を待っていた少数の乗客たちの動きがまるで時が止まったかのように静止した。
彼らの視線を釘付けにしたのは景明が放つ常軌を逸した圧倒的な美丈夫ぶりと隠しきれない名家の当主としての威圧感だった。
彫刻のように端正な輪郭、長く美しい睫毛に縁取られた冷ややかで鋭い双眸、そして一切の乱れもない完璧な髪並み。当然ながらその完璧な素顔を隠す野暮ったい眼鏡など乗ってはいない。
冷酷なまでの美しさと莫大な富と権力を持つ者特有の絶対的なオーラ。それは行き交う人々が思わず息を呑み、道を譲ってしまうほどの凄まじい引力を持っていた。
しかし、その帝都最強の異能者であり、誰もが恐れる冷徹な男の瞳は今この瞬間、たった一人の少女にのみ、とろけるような極上の熱を注いでいた。
「足元が滑る。私の腕にしっかりとしがみついていなさい」
景明は降り立ったばかりの鈴の腰に当然のように太い腕を回し、自身の胸へと強く引き寄せた。
「か、景明様、大丈夫です、転んだりしませんから」
鈴は恥ずかしさから頬を淡い桜色に染め、手を振って抗議の声を上げる。
「転ぶかどうかなど問題ではない。この見知らぬ土地で君のような美しく愛らしい花が誰かの目に留まり、不埒な輩が近づいてくる可能性を私は危惧しているのだ。……誰の目にも君が私の妻であると分かるよう、こうして密着しているのが一番の防衛策だろう」
景明は悪びれる様子など微塵もなく、むしろ鈴の反応を楽しむかのように低く甘い声で囁いた。その声の振動が密着した胸板越しに鈴の全身へと伝わってくる。高く、深く、そして甘く脳を痺れさせるような白檀の香りが秋の冷たい朝靄の匂いを打ち消し、鈴の呼吸を支配していく。
(もう……景明様ったら、相変わらず理由をつけては私を甘やかそうとする……)
鈴は内心で小さくため息をつきながらも、その広い胸にそっと寄り添い、彼の手の温もりをしっかりと握り返した。
二人がプラットホームを歩き出すと周囲の空気が自然と二つに割れるように道ができた。
誰もがこの世のものとは思えないほど美しい男女の姿に目を奪われ、ため息をつきながら振り返る。
しかし景明は周囲の視線など路傍の石ころ程度にしか思っていない。彼の視界に存在するのは初めての長旅に目を輝かせ、キョロキョロと周囲を見渡している愛しい妻の横顔だけだった。
「わあ……。空気がとっても澄んでいますね。帝都の空気とは少し違うみたい」
「ああ。四方を山に囲まれた盆地特有の冷え込みだ。君が風邪を引かないようにすぐに宿へ向かおう」
改札を抜け、朝靄が立ち込める駅の正面広場へと出た二人の前にはすでに完璧な手配がなされていた。
この世においてまだ街中で見かけることの少ない大きな真鍮の前照灯を備えた外国製の高級自動車である。箱型の武骨さと優雅さを併せ持つ漆黒の車体が朝の光を反射して鈍い艶を放ち、腹の底に響くような重厚なエンジン音を立てて待機していた。
革手袋をはめたお抱えの運転手が景明の姿を認めるなり弾かれたように背筋を伸ばし、深く頭を下げて後部座席の重厚な扉を開ける。
「お待ちしておりました、西園寺様。お荷物は先にお宿の方へお運びいたしますか?」
「ああ。あの重いトランクはすべて別便で嵐山の離れの客室へ運んでおけ。私たちはこれから清水の方面へ向かう」
景明が短い指示を出すと別の作業員たちがあの“異常に重い”革製の特大トランクを顔を真っ赤にして別の荷物車へと運び出し始めた。
「さあ、鈴。乗りなさい」
景明は自動車の高いステップを上る鈴を優しくエスコートし、車内へと導いた。
深紅のビロードが張られた座席は冷え切った身体を優しく包み込んでくれる。
そして景明は当然のように鈴のすぐ隣に腰を下ろし、重みのある音を立てて車の扉を閉ざした。
その瞬間、ガソリンの微かな匂いと真新しい布地の香りが混ざり合い、二人だけの完全な密室が完成した。
「か、景明様?あの、座席は広いのにどうしてこんなに……」
景明は鈴の華奢な肩を抱き寄せ、自分の胸の中へと完全に閉じ込めるように密着してきたのだ。
「旧都の道はまだ舗装が行き届いていない場所も多い。この自動車は馬車よりは速いがかなり揺れるからな。君が転がってしまわないよう私がしっかりと支えておかなければならない」
もっともらしい理由を並べているがその瞳には一切の遠慮がない。
「……出発してくれ」
景明の低い声を合図に黒塗りの自動車がガタンッと大きく揺れて走り出した。
石畳を車輪が蹴る独特の振動が下から伝わってくる。そのたびに鈴の身体は景明の厚い胸板へとさらに深く押し付けられた。
ワインレッドの外套越しにも伝わってくる景明の圧倒的な体温。彼の大腿部と鈴の膝がぴったりと重なり合い、列車の寝台で過ごした甘い夜の記憶がフラッシュバックして鈴の顔はみるみるうちに朱に染まっていく。
「どうだ、鈴。寒くはないか?」
「は、はい……。景明様がすごく……暖かいですから………」
鈴が恥ずかしそうにしながらも景明は満足げに目を細め、彼女の頭を包み込むようにして自身の顎をそっと乗せた。
朝靄が少しずつ晴れていく中、車窓からは千年の時を刻んできた歴史的な街並みが次々と流れていく。
瓦屋根の連なり、格子戸の続く古い町家。そして、その向こうに見え隠れする山々の木々は秋の深まりを告げるように燃えるような赤や鮮やかな黄金色へと見事に色づき始めていた。
「わあ……。見てください、景明様。あの川沿いの木々、真っ赤に染まっていて本当に綺麗です……!」
自動車の揺れに慣れてきた鈴が身を乗り出すようにして窓の外を指差す。すると景明はその細い腰に回した腕にさらに力を込め、絶対に自分の腕の中から逃がさないようにホールドした。
「ああ、美しいな。……だが、私の目にはその紅葉よりも目を輝かせてはしゃいでいる君の横顔の方が一万倍も美しく愛おしく映るがな」
「も、もうっ!景明様ったらすぐそうやってからかうんですから……!」
鈴が小さく肩を叩いて抗議すると景明は喉の奥で低く甘い笑い声を漏らした。
重厚なエンジン音を響かせていた漆黒の最高級自動車は千年の歴史の重みを感じさせる石畳の坂道の中腹、清水の舞台へと続く参道の入り口で静かに停車した。
「さあ、着いたぞ。ここからは歩きだ。足元に気をつけて降りなさい」
運転手が外から恭しく開けた扉の向こうへ景明が先に降り立つ。逞しい腕がエスコートのために優雅に差し出された。
鈴はその大きく温かい手を取り、外套の裾をふわりと翻しながら艶やかな石畳の上へと舞い降りた。
秋の涼やかな風が吹き抜け、純白の帽子から零れた髪が陽光を受けて微かにきらめく。
「わあ……!すごい人ですね。お土産屋さんがたくさん並んでいてまるでお祭りのようです」
鈴の大きな瞳が驚きと歓喜に星のように輝いた。
なだらかな上り坂となっている参道の両脇にはいぶし銀の瓦屋根を連ねた歴史ある土産物屋や風情ある茶屋、伝統工芸品を扱う店が隙間なくひしめき合っている。
人々のざわめき、楽しげな笑い声。石畳を叩く下駄の乾いた音や革靴の重い足音が重層的な音楽のように響き渡る。
店先で湯気を上げる熱々の饅頭の甘い香り、香ばしく焦げた醤油の匂い、そして優しく漂ってくる伽羅や沈香といった高貴なお香の匂い。
帝都の洗練された銀座通りとは全く違う、古き良き日本の熱気と情緒が混ざり合った独特の空気が鈴の五感を心地よく、そして激しく刺激する。
(すごい……! これが歴史ある旧都の活気……!なんだか胸の奥がソワソワして、ワクワクしてきちゃった!)
初めての遠出、初めての旧都。見るもの、聞こえるもの、香るもの、その全てが目新しく鈴の心はまるで籠から放たれた小鳥のように弾んでいた。
しかし、その隣を歩く景明の纏う空気は鈴のそれとは全く対照的だった。
「……五月蝿い虫が多いな」
景明は冷ややかに周囲を見回しながら地を這うような低い声で呟いた。
彼の鋭く冷酷な双眸が捉えているのは観光名所の美しい景色や活気ある街並みではない。すれ違う男たちが口を半開きにして鈴の可憐な姿を盗み見ているという彼にとって不愉快極まりない事実だった。
頬を秋の冷気と興奮でほんのりと桜色に染め、瞳を輝かせて歩く鈴の姿はどう控えめに言っても道行く人々の目を強烈に惹きつけていた。
“なんて可愛らしいお嬢さんだ”、“どこかのお姫様だろうか”というさざ波のような囁きが異能者である景明の優れた聴覚には痛いほどはっきりと届いてくるのだ。
(これだから人の多い場所へ連れ出すのは気が進まなかったのだ。私の愛しい妻の美しさを有象無象の輩の目に晒すなど……万死に値する)
景明の胸の奥底で暗く重い独占欲と嫉妬の炎が燃え上がり始めた。
彼は常人には感知できないほどの冷気が微かに漏れ出し、景明の周囲だけが物理的に数度下がったような錯覚を覚えさせる。
「鈴。人が多くて危ない。私の傍を離れるな」
景明は少し前を歩こうとする鈴の細い腰に自らの太い腕を回し、自分の胸にぴったりと引き寄せて絶対に誰にも触れさせまいとガードを固めようとした。
愛する妻の柔らかい感触と高貴な白檀の香りに混じる彼女特有の甘く清潔な石鹸の匂いを自らの腕の中に囲い込み、周囲の男たちに見せつけるように“この女は私の妻だ”と誇示する、過保護な夫としての完璧な算段だった。
しかし、その景明の差し出した腕は空しくも秋の空気を斬ることとなった。
「わあ、景明様!あれ、見てください!すごく綺麗な組み紐です!」
「……え?」
鈴は景明の腕が腰に回るよりも一瞬早く、店先に飾られた色鮮やかな絹の組み紐に目を奪われ、するりと無邪気にその手をすり抜けて前へ飛び出してしまったのだ。
色とりどりの絹糸が複雑な幾何学模様を描き出す伝統工芸の組み紐はまさに宝の山に見えた。
朱色、瑠璃色、若草色、そして金糸。美しく染め上げられた絹糸が束ねられ、艶やかな光沢を放っている。彼女は外套の裾を揺らしながら小走りでその店先へと向かってしまう。
「あ、鈴……」
行き場を失い、空中で彷徨うことになった景明の大きな手。
帝国陸軍において最強の異能者であり、敵対組織の幹部でさえ恐怖に凍りつく "鬼少佐”が観光地で妻の無邪気な好奇心に置いてけぼりにされ、ぽつんと立ち尽くしている。
「…………」
景明は宙に浮いたままの自分の手をじっと見つめ、そして深く、深く、少しだけ寂しそうなため息をついた。
(……仕方がない。今日ばかりは彼女の好奇心を優先してやるとしよう)
景明は空振った手をズボンのポケットに静かに突っ込み、店先で目を輝かせている愛しい妻の背中をほんの少し離れた場所から見守ることにした。
「景明様、これ、お裁縫の飾りに使えそうですよ!触り心地もすごく滑らかで……あ、こっちの扇子の刺繍も素敵です!」
次から次へと興味の対象が移り変わる鈴は振り返っては景明に向かって花が咲くような極上の笑顔を向ける。
その無邪気で幸せそうな笑顔を向けられるたびに景明の胸の奥で燻っていた重い嫉妬の炎は瞬く間に甘く蕩けるような愛情の海へと飲み込まれていった。
(ああ……。なんて愛らしいのだ。あの輝くような笑顔を引き出せるのはこの世で私ただ一人。……そうだ、あのように自由に飛び回る彼女を後ろから愛でるのも悪くない)
景明の視線はもはや周囲の観光客など一切捉えていなかった。
彼の視界の全ては愛する妻の一挙手一投足にのみ注がれている。
鈴が簪の店で足を止めれば景明も立ち止まり、彼女が少しでも何かにぶつかりそうになれば瞬時にポケットから手を出して助けられるよう全身の筋肉を微かに緊張させている。
それはもはや、新婚旅行を楽しむ夫というよりも国宝級の美術品を不届き者から死守する過保護な親鳥のような姿であった。
「……ふふっ。景明様、どうしたんですか?そんなに真剣な顔で私を見つめて。お顔が怖いですよ?」
小走りで戻ってきた鈴が小首を傾げて景明を見上げる。
「怖い?心外だな。私はただ、この世の何よりも美しい芸術品を一寸の死角もなく目に焼き付けていただけなのだが」
「も、もう……っ!またそうやって恥ずかしいことを平気で……!」
鈴は顔を真っ赤にして両手で自らの頬を仰いだ。その仕草がたまらなく愛おしくて景明はスーツのポケットから手を出して鈴の頭の上の帽子をそっと撫でた。
「さあ、先へ進もう。目指す本堂はもう少し先だ。……今度こそ、はぐれないように手を出してごらん」
景明が優しく甘く微笑みかけると鈴は照れくさそうに頷き、今度は自分から景明の大きな手へと自らの小さな手を重ねた。
手袋越しでも伝わってくる景明の確かな温もりと力強さ。指を絡められ、しっかりと握り締められると鈴の心に絶対的な安堵と幸福感が広がっていく。
二人は手を繋ぎ、寄り添うようにして賑やかな参道をゆっくりと登っていった。
周囲の喧騒すらも二人だけの甘い空間を彩る背景音に過ぎない。
やがて、急な石段を登り切り、朱塗りの壮麗な仁王門をくぐり抜けると視界が一気に開けた。
旧都の象徴とも言える巨大な木造建築。釘を一本も使わずに組み上げられたという圧倒的なスケールの清水の舞台が二人の目の前に威風堂々と姿を現した。
「わあ…………っ!」
舞台の先端に歩み寄った瞬間、鈴の口から感嘆の吐息が零れ落ちた。眼下に広がっていたのはまさに言葉を失うほどの絶景だった。
秋の深い空の群青色を背景に山肌を埋め尽くす幾千、幾万もの紅葉。
燃えるような真紅、鮮やかな黄金色、そして常緑樹の深い緑。それらが複雑に絡み合い、まるで山全体が色鮮やかな極彩色の錦糸で緻密に織り上げられた巨大なタペストリーのようだった。
谷底から吹き上げてくる冷たくも清々しい秋風が木々の葉を揺らすたびに波打つような音が響き、赤い葉が宙を舞って深い谷底へと吸い込まれていく。
「すごい……。こんな景色、見たことがありません。まるで世界中が赤と金色の魔法にかけられたみたい……」
鈴は舞台の古い欄干にそっと両手を置き、眼下に広がる紅葉の海に完全に心を奪われていた。
冷たい風に煽られて、ワインレッドの外套がふわりと広がり、純白の帽子の下から零れた髪が美しく揺れる。
圧倒的な自然の美しさを前にして鈴の瞳は子供のように純粋な感動に潤み、秋の冷気を感じて小さく息を吸い込んだ。しかし、景明はそんな絶景を一切見ようとはしなかった。
彼は欄干から身を乗り出すようにして景色に見入る鈴の背後に立つとその細い腰に両腕を回し、自分の厚い胸板にすっぽりと閉じ込めるようにして背後から強く抱きしめたのだ。
「きゃっ……!か、景明様……っ。皆さんが見ています……」
「構わん。君が落ちてしまわないように支えているだけだ」
景明は鈴の耳元に唇を寄せて低く甘い声で囁いた。その腕の力は絶対に逃がさないという強い独占欲に満ちており、それでいて壊れ物を扱うかのように限りなく優しい。
背中から伝わってくる景明の逞しい胸板の感触、脈打つ強い心音、そして秋の冷気を完全に遮断してしまうほどの圧倒的な熱。
「……紅葉など、私にはどうでもいい。私の眼前に広がる紅潮した君の美しい横顔こそがこの世で最も尊い絶景なのだからな」
「景明様……っ」
景明の深く、重く、そして狂おしいほどの愛の言葉が白檀の香りと共に鈴の聴覚と嗅覚を支配する。
眼下には千年変わらぬ古都の絶景が広がっているというのに今の鈴にとって世界で最も鮮烈で最も甘いのは自分を背後から抱きしめているこの男の存在そのものだった。
「……ありがとうございます、景明様。私をこんな素敵な場所に連れてきてくれて」
鈴は自分の腰に回された景明の大きな手に自らの手をそっと重ねた。
冷たい秋風が吹き抜ける清水の舞台の上で二人だけは真夏のように熱く蕩けるような甘い空気に包まれていた。
景明は鈴の肩口に深く顔を埋め、彼女の清潔な髪の匂いを肺の奥深くまで吸い込むと満足げに目を閉じ、愛しい妻を抱きしめる腕の力をもう一段階、密かに強めたのだった。
◇
清水の舞台から見下ろす圧倒的で荘厳な絶景を心ゆくまで堪能した後、二人は秋の冷たい風が吹き抜ける石畳の坂道をゆっくりと下り始めた。
時刻は午後三時を回ろうとする頃合い。景明が事前に手配していた旧都屈指の豪奢な料亭で季節の松茸や湯豆腐など贅を尽くした昼食をたっぷりと味わい、その後も古都の街並みをゆっくりと散策し続けていた二人の頭上には少しずつ傾き始めた秋の太陽が柔らかな光を落としていた。
「……少し、風が冷たくなってきたな。鈴、身体は冷えていないか?」
景明はスーツのポケットから出した自身の大きな手で手袋に包まれた鈴の小さな手を手袋越しでもその熱が伝わるほどに力強く握り直した。
「大丈夫です、景明様。でも……あの、実を言うと……」
鈴は恥ずかしそうに長い睫毛を伏せ、視線を足元の石畳へと泳がせながら消え入るような小さな声で呟いた。
「どうした?慣れない土地を歩き回ったせいで足が痛むのか?それなら私が君を抱き上げて、このまま宿まで運んでやろうか」
「違いますっ!えっと……その、お腹が少し空いてきちゃったな、と……」
まるで叱られるのを待つ子供のように恐る恐る告白した愛しい妻の言葉に景明は微かに目を丸くした後、こらえきれないというように肩を揺らして低く甘い笑い声を漏らした。
「……ふっ、ははは。そうか、腹が減ったか。それは大変だ。ならば急がねばならないな。私の愛しい小鳥が空腹で倒れてしまっては旧都の神仏すら許さないだろう」
「も、もうっ……!景明様ったら大げさすぎます!私はただ、少し小腹が空いただけですっ」
顔を真っ赤にして抗議する鈴の柔らかな頬を景明は立ち止まって愛おしそうに撫でた。軍での厳しい鍛錬によって微かに荒れた指の腹が冷たい風に晒された鈴の頬に火傷しそうなほどの熱を与えていく。
「案ずるな。こんなこともあろうかと最高の手配を済ませてある。君が旧都に来る前から目を輝かせて楽しみにしていた老舗の甘味処だ。ここから歩いてすぐの場所にある」
「本当ですか……っ!? あの栗金団と白玉ぜんざいの……!」
先ほどまでの恥じらいも寒さも一瞬で忘れ去り、鈴の大きな瞳が期待で星のように輝き始めた。そのあまりにも現金で無邪気すぎる反応が景明の心をさらに深く、甘く、底なしの沼のように満たしていく。
「ああ。君のその顔を見るためだけに特等席を予約しておいた。さあ、行こう。君の舌を満足させる極上の時間が待っている」
二人が向かったのは清水寺の喧騒から少し離れた閑静な通りにひっそりと佇む創業数百年を誇るという老舗の甘味処だった。
立派な黒塗りの門をくぐるとそこには外の賑わいが嘘のような凛とした静寂に包まれた広大な日本庭園が広がっていた。
美しく手入れされた青々とした苔の上に真っ赤なモミジの葉が舞い落ちる。
静まり返った空間に竹筒に水が満ちては石を叩く“鹿威し”の澄んだ音が秋の冷気に溶け込むように心地よく響き渡った。
「わあ……。すごく風情のあるお庭ですね。空気がとっても美味しいです」
「君にはこの景色を誰にも邪魔されずに堪能してもらうために庭園に最も近い離れの茶室を貸し切った。さあ、中へお入り」
仲居に恭しく案内され、二人が通されたのは真新しい井草の香りが清々しい純和風の茶室だった。
しかし、ここは列車の寝台や自動車のような完全な密室ではない。美しい襖の向こうには磨き上げられた廊下が続き、遠くからは他のお客の静かな話し声や茶器の触れ合う音、そして店員が廊下を行き来する足音や衣擦れのかすかな音が絶え間なく聞こえてくるのだ。
景明は羽織っていたインバネスコートを脱ぎ、スーツ姿のまま優雅な動作で畳の上に腰を下ろした。
大柄で逞しい彼が狭い茶室にいるとそれだけで空間が圧倒的な威圧感と色気で満たされるようだが彼から放たれるのは冷酷な軍人の気配ではなく、どこまでも甘く、脳の芯を痺れさせるような白檀の香りだった。
鈴も外套と帽子、手袋を丁寧に外し、景明の向かい側に正座する。
やがて静かなすり足の音と共に待ちに待った瞬間が訪れた。
「お待たせいたしました。当店の名物、秋季限定の特製栗金団と温かい白玉ぜんざいでございます。どうぞ、ごゆっくり」
漆塗りの美しいお盆に乗せられて運ばれてきたのはまさに秋の豊穣をそのまま形にしたかのような芸術品のような甘味の数々だった。
高級な桐箱から恭しく取り出されたばかりのような、しっとりとした黄金色の栗金団。それは表面に微かな艶を帯び、栗そのものが持つ香ばしさと奥深い甘さを予感させる濃厚な香りを放っている。
そして、その隣には鮮やかな模様が描かれた器にたっぷりとよそわれた白玉ぜんざい。ふっくらと煮上がった小豆の暗赤色の中から雪のように真っ白でつやつやとした丸い白玉が幾つも顔を覗かせ、甘く温かい湯気を立ち昇らせていた。
「わあ…………っ!」
鈴の瞳はもはや清水の舞台から紅葉の絶景を見ていた時以上の凄まじい輝きを放っていた。
小豆の甘い匂いと栗の香ばしい匂いが茶室いっぱいに広がり、秋風で冷えた鈴の身体を優しく包み込んでいく。
「……君のその顔を見ていると、たかが甘味にさえ激しく嫉妬してしまいそうになるな」
向かいに座る景明が鈴のあまりにも幸せそうで今にも涎を垂らしそうな顔を見て呆れたような、それでいて深い愛情に満ちた声で呟いた。
「えへへ……。だって、本当に美味しそうなんですもの。景明様、いただいてもよろしいですか?」
「ああ、もちろん構わない。……だが、鈴」
景明は自身の前にも置かれた香ばしいほうじ茶を一口飲むと漆塗りの細い箸を優雅に手に取った。
そして鈴の器から最も美しく形作られた黄金色の栗金団を一つ摘まみ上げるとそれを自分の方へ引き寄せたのではなく、そのまま真っ直ぐに鈴の小さな唇の目の前へと突き出したのだ。
「え……?」
「さあ、口を開けなさい。あーん、だ」
景明の氷の欠片のように鋭く、けれど今はとろけるような熱を帯びた真剣な瞳が鈴を真っ直ぐに射抜く。その整いすぎた美貌には一片の照れも迷いもなく、ただ“愛する妻に自分が食べさせるのは当然の権利である”という絶対的な自信だけが満ち溢れていた。
「か、かかか、景明様っ!?」
鈴の顔は一瞬にして先ほど見た紅葉よりも真っ赤に染まった。
列車の密室の中での“あーん”の記憶が鮮明に蘇る。あの時は誰の目もない完全な密室だったからまだ耐えられたものの、ここは違う。
「だ、ダメですっ!ここは公共の場です!襖の向こうには仲居さんもいらっしゃいますし、他のお客さんの声も聞こえるじゃないですか!」
鈴は両手で自らの真っ赤になった頬を強く押さえ、必死に首を横に振った。誰かが不意に襖を開けたらどうするつもりなのだと心臓が口から飛び出しそうなほど早鐘を打っている。
「それがどうした?私の妻に私が愛を込めて甘味を食べさせて一体何が悪いというのだ。法に触れるわけでもなし、誰かに迷惑をかけているわけでもないだろう」
「そういう問題じゃありませんっ!は、恥ずかしすぎます……っ」
「君が恥じらい、身をよじって赤面する姿もまた、絶品だがな。……さあ、早くしないとせっかくの職人手作りの栗金団の風味が落ちてしまうぞ。それとも私がこのまま君の唇を塞いで直接口移しで食べさせてほしいのか?」
「む、無茶苦茶なことを言わないでくださいっ!!」
景明の限界突破した破廉恥な脅し文句に鈴は涙目になりながら抗議した。
しかし、差し出された漆の箸は空中で微塵も揺らがず、景明の「絶対に引かない」という鋼の意志と底なしの執着心が伝わってくる。
(この人、本当に私が口を開けるまで何時間でも……下手したら日が暮れるまでこのまま待つつもりだわ……っ!)
帝国最強の異能者の、恐ろしいほどの執念と重すぎる愛。
鈴は周囲の気配を気にしながら襖の向こうから誰も入ってこないことを心の中で神仏に必死に祈りつつ、ついに観念して小さな口を微かに開いた。
「……あ、あーん……っ」
震える唇の隙間に景明の手によって黄金色の栗金団が滑り込んでくる。その瞬間、鈴の味覚を襲ったのはこれまでに味わったことのないほどの濃厚でそれでいて後を引かない上品な甘みだった。
丁寧に裏ごしされた栗の滑らか極まりない舌触りが口の内の熱でゆっくりと溶け出し、秋の森の豊かな風味が鼻腔へとふわりと抜けていく。
「んんっ……!お、おいしい……っ!」
羞恥心すらも一瞬吹き飛ぶほどの絶品。鈴は両手で頬を押さえたまま熱い吐息を漏らし、うっとりと目を閉じた。
「そうか、それは良かった。……君が美味しそうに食べる姿はどんな高級な美酒よりも私の心を酔わせる」
景明は満足げに微笑むと今度は器から白玉とたっぷりの小豆を一つ掬い上げた。
「次はこれだ、熱いから私が冷ましてやろう」
「か、景明様っ、自分で食べられますから!お願いですから箸を返しください……っ!」
「却下だ。君の世話を焼き、君を甘やかすのは私の至高の娯楽なのだからな」
もはや誰も彼を止めることはできない。
景明は適度に息を吹きかけて冷ました白玉を再び鈴の口元へと運んだ。柔らかな白玉の食感と小豆の上品な甘さが絶妙に絡み合い鈴の口の中で熱くとろけていく。
甘くて、温かくて、そして目の前にいる夫の視線が火傷しそうなほどに熱く甘い。
「……ん、口の端に少し小豆の皮がついているな」
「えっ?ど、どこですか……?」
鈴が慌てて自分の指で拭おうとした瞬間、それよりも遥かに早く景明の長い指先が鈴の口角に触れた。
ほんの少し荒れた指の腹の感触が鈴の柔らかな唇の端を撫でる。
景明は鈴の口元から拭い取った小豆の粒と甘い汁をそのまま自らの唇へと運び艶やかな動作で舐め取ったのである。
「っっっ!!??」
「ああ、確かに美味い。……だが、君の唇の甘さには到底及ばないがな」
鈴の頭の中で何かが爆発する音がした。全身の血液が一気に顔へと集中し、耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まる。手足の先まで一瞬で沸騰したような凄まじい熱量だった。
「か……っ、景明様っの……っ、破廉恥っ!!」
「ふっ。私の愛に限界などない。君が照れて真っ赤になるたびに私はさらに君を深く愛おしく思うだけだ」
静寂に包まれた日本庭園の奥深く。鹿威しの澄んだ音が時折響く中、老舗の茶室は最高級の甘味の匂いとそれすらも凌駕するほどの景明の重く蕩けるような溺愛の空気に完全に支配されていた。
◇
旧都の空を覆っていた夕暮れの茜色が完全に漆黒の闇へと溶け込み、身を切るような冷たい夜気が古都全体を包み込む頃。
景明と鈴は嵐山にひっそりと佇む皇族も御用達だという最高級温泉旅館の離れへと案内されていた。
目にも鮮やかな秋の味覚をふんだんに使った極上の懐石料理の夕食を終え、旅館が用意した肌に吸い付くような滑らかな手触りの上質な絹の浴衣に着替えた二人の間には夜の静寂と共にどこか甘く、そして濃密な緊張感が漂い始めていた。
「……さて。食事も心ゆくまで堪能したことだし、長旅の疲れを名湯で癒やすとしよう」
景明が低く、深い声でそう告げながら視線を向けた先には客室専用の壮麗な露天風呂があった。
美しく配置された天然の巨大な岩風呂。その周囲には見事に色づいた紅葉の木々が植え込まれており、精巧な細工が施された石灯籠の柔らかな琥珀色の光が暗闇の中に浮かび上がる真っ赤な葉と湧き出す乳白色の湯気を幻想的に照らし出している。
ガラス戸のわずかな隙間からはかすかに鼻をくすぐる独特の硫黄の匂いと岩肌を打つ湯の心地よい水音が絶え間なく室内に流れ込んでいた。
「わあ……。本当に立派な露天風呂ですね。私、着替えの用意をしてきます。……景明様は先にお入りになりますか?」
鈴が控えめに小首を傾げて尋ねた、その直後だった。
景明は音もなく距離を詰め、鈴の細い手首を優しく、けれど絶対に逃がさないという圧倒的な強さで掴み、自身の胸元へと引き寄せた。
「何を言っているんだ、鈴。……一緒に入るに決まっているだろう」
「えっ……!?」
鈴の口から間の抜けた、ひっくり返ったような声が漏れる。
「い、一緒って……!か、景明様と私が……ですか!?」
「当たり前だ。新婚旅行の夜に夫婦が別々に湯に浸かるなどという無粋な真似ができるものか。美しい紅葉と体の芯まで温まる名湯を肌を直接寄せ合いながら二人で堪能する。……それこそが新婚旅行の最大の醍醐味というものだ」
景明の彫刻のように整いすぎた顔には一片の迷いも恥じらいもなかった。
むしろ夫としての当然の権利を行使する帝王のような威風堂々たる態度である。
「む、無理ですっ!こんなに明るいお風呂でその……お、お互いの……っ、破廉恥ですっ!!」
顔を両手で覆い、首を激しく横に振る鈴。
しかし景明はそんな愛らしい抵抗を躱し、鈴を抱き寄せたまま、彼女の体温を確かめるようにその耳元に熱い唇を落とした。
「何も恥ずかしがることはない。君の雪のように美しい肌の隅々まで私はすでに知っているのだからな。……それに外の冷え込みは厳しい。君一人を先に行かせて万が一にも湯冷めでもしたら私の心が永久に凍りついてしまう。さあ、行くぞ」
有無を言わさぬ景明の言葉と強引でありながらも羽毛のように優しいエスコートにより鈴はついに抵抗を諦めるしかなかった。
脱衣所で湯着の代わりとなる清潔な白い手ぬぐいを身に纏い、鈴は小鹿のように震える足で露天風呂への重いガラス戸を開けた。
「ひゃっ……」
一歩外へ出た瞬間、十一月の嵐山の夜を支配する刃物のように鋭い冷気が火照った肌を容赦なく刺す。
しかし、それと同時に岩風呂から立ち昇る白く濃密な湯気が柔らかな熱を帯びて鈴の全身を優しく包み込んだ。
かすかな硫黄の香りと濡れた石の匂い。山から吹き降ろす風が通るたびに頭上の紅葉が葉擦れの音を響かせる。
「か、景明様、私、先に入っていますから……っ」
鈴は逃げるように岩風呂の縁に手をつき、乳白色の湯の中へと身を縮めるようにして身体を沈めた。心地よい音が鳴り、なめらかなとろみのある熱い湯が冷え切った肌の表面から毛穴の奥深くへと染み込んでいく。
「はあぁ……」
思わず感嘆の吐息が漏れる。湯の温もりが芯から身体を解きほぐし、旅の疲労を溶かしていくような極上の心地よさだった。
しかし、その安堵も束の間。
「……ああ。確かに素晴らしい湯だ」
背後から聞こえた深い声に鈴の肩が大きく跳ねた。
恐る恐る振り返るとそこにはスーツを完全に脱ぎ捨て、一切の布を纏わない景明の姿があった。
普段、軍服やスーツの厚い生地に隠されている彼の大柄な体躯はまさに神が手掛けた完璧な彫刻そのものだった。
均整の取れた広い肩幅、岩のように厚い胸板、そして無駄な肉の一切ない、引き締まった腹筋。その屈強な肉体には彼がこれまで帝都の闇と最前線で戦い抜いてきた証である無数の名誉の傷跡が刻まれている。
立ち込める白い湯気越しに見る景明は凄絶な戦いの記憶と男としての圧倒的な色気を同時に放つ軍神のように恐ろしいほどの美しさだった。
「か……っ、景明様っ……!」
鈴は慌てて両手で顔を覆い、湯面ギリギリまで身体を沈めて、まさに“茹でダコ”のように顔だけでなく首から耳の先まで全身を真っ赤に染め上げた。
「そんなに身を隠さなくてもいいだろう。……君の背中は私が流してやる」
景明は木製の手桶に湯をたっぷりと汲むと鈴の後ろへと静かに回り込み、岩風呂の縁に腰を下ろした。
「そ、そんな、旦那様に背中を流していただくなんて……!絶対にバチが当たってしまいます!」
「西園寺家の掟では私が愛しい妻を甘やかすのが宇宙の何よりも最優先事項だ。おとなしくしていなさい」
湯がかけられ、景明の大きく少し荒れた手のひらが湯に濡れた鈴の華奢な肩口にそっと触れた。
鈴の身体が震える。逞しい指先と絹のように滑らかで白い鈴の肌。そのあまりにも対照的な感触が触れ合うたびに鈴の脳髄を甘く痺れさせる。
「……美しいな、鈴。君の肌はこの湯の滑らかさすらも容易く霞ませてしまう」
景明の指先が鈴の首筋から背骨のラインをなぞるようにゆっくりと、撫でるように滑っていく。
その手つきはこの世で最も脆い壊れ物を扱うように繊細で狂おしいほどの慈愛に満ちていた。
背中を這う景明の指先の熱が温泉の熱を遥かに上回って鈴の全身を焼き尽くしそうだ。
「あっ……、か、景明様、もう、十分です……っ。これ以上は私が溶けてなくなってしまいますから……っ」
恥ずかしさのあまり涙目になった鈴が懇願すると景明は小さく喉の奥で満足げに笑い、手桶を置いた。
「では、私も入るとしよう」
大量の湯が溢れ出す豪快な音と共に景明が岩風呂の中へと足を踏み入れた。
湯の嵩が一気に増し、波打つ水面が鈴の鎖骨を優しく叩く。
景明は鈴のすぐ隣、肌と肌が直接触れ合うほどの至近距離に腰を下ろすと長い腕を伸ばして、湯の中で鈴の細い腰をぐいっと自分の方へと引き寄せた。
「ひゃうっ……!?」
「こうして君を私の腕の中に閉じ込め、体温を分かち合っていると……私が生きているという実感が体の底から湧いてくる」
湯の浮力も手伝って、鈴の身体はふわりと浮き上がり、景明の厚い胸板に張り付くような体勢になってしまった。
冷たい夜風が頭上の紅葉を揺らして吹き抜けていくが湯の中は完全に二人だけの甘く、そして逃げ場のない熱い密室となっていた。
「……景明様。お湯がすごく温かいです……」
鈴は恥ずかしさに耐えきれず、景明の引き締まった胸に額をこすりつけるようにして小さく呟いた。
胸板越しに景明の力強く早い心音が水を通じて鈴の肌へとダイレクトに伝わってくる。その可愛らしくも無防備な仕草に景明の理性は音を立てて崩れ去りそうになる。
「ああ。だが、私にとっては君の体温の方がよほど熱く、愛おしい。……鈴。君のその指先一つ、髪の毛一本に至るまで全てが私のものだ。誰にも渡さないし、誰の目にも触れさせはしない」
湯の中で景明の大きな手が鈴の背中を壊れそうなほど強く抱きしめる。
それは決して彼女を汚すことのない、どこまでも清らかで重すぎるほどの“絶対守護”の誓いだった。
「はい、景明様……。私はずっと貴方の傍にいます」
鈴がそっと景明の背中に腕を回し返すと彼は満足げに深い吐息を漏らし、鈴の濡れた髪に何度も何度も熱い口付けを落とした。
石灯籠の明かりに照らされ、舞い落ちる赤いモミジの葉が湯の表面を静かに流れていく。
二人の世界は完全な幸福と蕩けるような甘さに満たされていた。
しかし、その完全無欠の幸福な世界のほんのわずかな外側。
露天風呂の敷地を囲う、風情ある竹垣の向こう側。深く、冷たい嵐山の暗闇が広がる木々の奥底にそれは音もなく静かに潜んでいた。
「……フフフ。随分と甘く熱い夜を過ごしているようじゃのう……」
夜風に乗って漂ってきたのは大地の硫黄の匂いでも高貴な白檀の香りでもない。
ひどく甘ったるく、そしてどこか血の錆びたような腐臭の混じったむせ返るような香水の匂い。
木々の枝から銀色の細い糸のようなものが冷たい月の光を反射して怪しく煌めいた。
それは獲物を絡め取るための蜘蛛の糸。
温泉の熱気すらも一瞬にして凍りつかせるようなどす黒く禍々しい気配。
帝都最強の男の腕の中にすっぽりと抱き守られているあの小鳥をいかにしてその堅牢な鳥籠から引きずり出すか。血のように赤い口紅を引いた唇を三日月のように歪め、その毒牙を静かに研ぎ澄ませていた。




