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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第七章 旧都に潜む影と朱に染まる新婚旅行
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第45話

 秋の深まりが冬の足音へと変わり始める頃。

 帝都の空が深い藍色に沈み、ターミナル駅のアーチ状の天井に並ぶガス灯が淡くロマンチックな琥珀色の光を灯し始める頃合いだった。

 高く広大なドーム型の天井にはいくつもの豪奢なシャンデリアが吊るされ、柔らかな光が行き交う人々の顔を照らし出している。旅立ちの夜特有の熱気とどこか浮き足立ったような喧騒。

 プラットホームにはこれから西へと向かう巨大な黒鉄の塊、夜行の特別急行列車がその巨体を休めていた。機関車の吐き出す白く熱い蒸気が秋の冷たい夜気の中に溶けていく。腹の底に響くような重低音と共に石炭が燃える独特の匂いが鼻腔をくすぐった。

「……痛い。なんで見送りに来ただけの私の胃がこんなに痛まなければならないんだ……」

 ホームの片隅で氷室は眼鏡を押し上げながら青白い顔で胃のあたりをきつく押さえていた。

 普段の隙のない帝国陸軍の制服姿ではなく、今日の彼は“名家の当主の私設秘書”という設定に合わせ、仕立ての良いグレーのスーツに身を包んでいる。しかし、その額には十一月の夜冷えにも関わらず滝のような汗が浮かび、眼鏡はずり落ちかけていた。

 氷室が胃を痛めている原因は彼の足元に置かれた“異常に重いトランク”と彼の異能、読心術に容赦なく流れ込んでくる上司の破廉恥極まりない思考のせいだった。

 氷室の足元には二つの革製トランクが置かれている。一つは鈴が片手でも軽々と持てるような小ぶりで可愛らしいトランク。中には彼女の着替えと絶対に手放さない裁縫道具といった最低限の必需品しか入っていない。

 問題はもう一つのトランクだった。氷室が両手で持ち上げようとしても腰の骨が軋むほどの異常な重量を誇る特大の最高級レザートランクである。

「……少佐。本当にこのトランクには何が入っているのですか……ッ」

 蒸気機関車の轟音と人々のざわめきに負けじと悲鳴のような声を上げる氷室。

「文句を言うな、氷室。我が愛しの妻が初めての長旅で少しでも不便な思いをしないようにと私が厳選した必需品だ」

 氷室の前で堂々と胸を張る景明はいつもの冷徹な軍服姿ではない。隠密調査という名目を完璧にするため、仕立ての良い濃紺のスリーピーススーツの上に上質なカシミヤのインバネスコートを羽織っていた。

 上質な生地が彼の大柄で逞しい体躯に恐ろしいほど似合っており、軍人としての威圧感を消し去ってもなお、莫大な富と権力を持つ名家の若き当主としての圧倒的な色香と美貌を放っている。当然、その端正な顔に眼鏡などという野暮ったいものは乗っていない。

「必需品って……!数日間の旅行ですよね!?鉛の塊でも入っているんですか!」

「鈴が車内で退屈しないための双六や美しい絵柄の百人一首、旧都の夜冷えから彼女の柔らかな肌を守るための最高級の絹の毛布。それから万が一、現地で彼女の口に合う甘味がなかった時のための老舗の竹皮包みの羊羹、美しい切子硝子の瓶に入った金平糖、そして乾燥から喉を守るための最高級の蜂蜜の瓶詰めに……」

「完全に旅行気分じゃないですか!ここは戦地に向かう出征の場ですよ!?テロ組織の掃討任務に木箱入りの羊羹と双六を持っていく軍人がどこにいますか!」

 氷室が胃のあたりを押さえてツッコミを入れるが景明は全く意に介さない。それどころか景明は呆れる氷室を一瞥すらせず、少し離れた場所で特別急行の巨大な車体を見上げて目を輝かせている愛しい妻だけを熱を帯びた眼差しで見つめていた。

「わあ……っ!氷室様、見てください!あの列車、すごく大きくて格好いいです!」

 鈴は先日景明に買ってもらったばかりのワインレッドの新しい外套の裾を翻しながら頬を林檎のように赤く染めて駆け寄ってきた。

 純白のカシミヤの帽子と手袋が彼女の可憐な美しさをより一層引き立てている。周囲を歩く乗客たちが足を止めて「なんて美しいお嬢さんだ」とため息をつくほどだ。

「走ると危ないぞ、鈴。転んだらどうする」

 景明は周囲の目など全く気にすることなく腕を伸ばして鈴の華奢な腰を抱き止め、そのまま自身の胸へと引き寄せた。

「ひゃっ……!か、景明様、駅のホームです。皆さんが見ています……っ」

「見せておけばいい。私がどれほど君を愛しているか、そして君が私の妻であるという事実を帝都中の人間に知らしめる良い機会だ。……それよりも鈴。夜風が冷えてきたな、私の外套の中にお入り」

 景明はそう言うと自らのインバネスコートの中に鈴をすっぽりと包み込んだ。

 鈴の恥じらいに満ちた上目遣いを受け、景明の顔にはとろけるような極上の微笑みが浮かぶ。

 この世において人前で男女が堂々と触れ合うのははしたないこととされるが景明の辞書に“遠慮”という文字はない。

「あ、あの……氷室様、お荷物、私も半分、持ちます!そんなに重いなんて……」

 鈴が景明の腕の中から顔を出して気遣うと氷室は息を切らしながら首を横に振った。

「お気持ちだけで十分です、小鳥遊嬢……っ。私があなたに荷物を持たせたと知れたら隣の鬼が私の首を物理的にへし折るでしょうから……」

 氷室はスーツの懐から白い紙に包まれた特効の粉胃薬を震える手で取り出すと水も飲まずに口の中に放り込み、むせ返りながら飲み込んだ。

「何を一人で騒いでいる氷室。見送りはここまででいい。荷物をそこへ置いたらさっさと軍司令部へ戻れ。私が不在の間、帝都の防衛はお前に任せる」

 景明は氷室の悲痛な叫びなど全く聞こえていないかのように冷たく言い放った。部下に向ける顔と妻に向ける顔の温度差が凄まじい。

「……もう完全に私の存在など見えていないようですね」

 氷室は胃を押さえながら深々とため息をつき、真剣な眼差しで二人を見た。

「少佐。くれぐれも旧都での任務を忘れないでくださいよ。新婚旅行はあくまで建前なのですからね。敵の組織は強大です。赫夜の連中が何を企んでいるか分かりません。甘い旅行気分も結構ですがくれぐれも油断なきよう」

 氷室の忠告に景明は鈴を外套の中に抱き寄せたまま鋭い視線を向けた。

「案ずるな、氷室。赫夜の掃討など、愛しい妻が寝ている間に片手間で終わらせてくる。……私の背中は私の愛しい妻が守ってくれる。指先一つ、髪の毛一本たりとも赫夜のゴミ共には触れさせんさ」

 その言葉に鈴もまた強く唇を引き結んで力強く頷いた。

「はい。景明様のことは私が必ずお守りします。氷室様もお仕事が大変でしょうけれど、お腹のお薬ばかり飲まないでちゃんとお食事を摂ってくださいね」

「……小鳥遊嬢のそのお言葉だけで私の胃痛も少しは和らぐというものです。どうか、ご無事で」

 出発の時刻を告げる長く甲高い汽笛の音が夜のターミナル駅のドームに反響した。

「さあ、行くぞ、鈴。私たちの新婚旅行の始まりだ」

「はい、景明様!」

 二人は氷室に見送られながら特別急行列車の後方部に連結されている一等寝台車へと乗り込んだ。

 車内に一歩足を踏み入れた瞬間、駅の喧騒は嘘のように遠ざかった。

 足元には厚みのある絨毯が敷き詰められ、通路の壁は磨き上げられた艶やかなマホガニー材で統一されている。ほのかに香る真新しい木と高級な葉巻の残り香。

 案内された自分たちのためだけに貸し切られた個室の重厚な扉を開けるとそこには別世界のような静寂と贅沢な空間が二人を包み込んだ。

「わあ……っ!」

 鈴の口から感嘆の吐息が漏れる。

 壁には美しい絹の壁紙が貼られ、向かい合うようにして配置された二人がけの深い緑色のビロードの長椅子は座ればそのまま沈み込んでしまいそうなほど柔らかそうだ。

 中央の小さなテーブルの上には真新しいランプとウェルカムドリンクとして用意された芳醇な香りのする紅茶のポットが置かれている。

「すごい……まるで動く高級宿みたい。これが列車の個室なんですね」

 鈴が目をキラキラと輝かせて室内を見渡していると、重々しい振動と共に列車がゆっくりと動き始めた。

「あっ……」

 車体が大きく揺れ、鈴がバランスを崩しかけた瞬間、景明の力強い腕が鈴の腰を引き寄せた。

「ほら、危ないだろう。しっかりと私に掴まっていなさい」

「す、すみません、景明様。初めての列車で少し足元が……」

 鈴がホッとして顔を上げた時、景明の瞳の奥に獲物を捕らえた肉食獣のような熱く甘い光が宿っていることに気がついた。

 完全に閉ざされた誰の目もない豪華な密室。

 景明の手によって個室の鍵が内側から掛けられる音がやけに大きく室内に響いた。

「さて……誰の目もない密室になったことだし君に窮屈な思いをさせるわけにはいかない。長旅になる、外套を脱いでこちらへおいで」

 景明は自分が長椅子に腰を下ろすと隣ではなく、当然のように自身の膝の上を叩いたのである。

 その言葉に室内の装飾に目を奪われていた鈴は弾かれたように身体を強張らせた。

 帝都ターミナル駅の喧騒を完全に遮断したこの個室は外界から切り離された二人だけの聖域と化していた。

 天井には精緻な唐草模様が施された磨りガラスのランプが秋の午後の日差しを透かし、柔らかな琥珀色の光を落としている。足元には一歩踏み出すごとに沈み込むような熟練の職人が手織りした厚手のペルシャ絨毯。壁は鏡面のように磨き上げられた最高級のマホガニー材で設えられ、窓枠の真鍮は鈍い黄金色の輝きを放っている。

 まさに帝都の超高級ホテルの最上階をそのまま鉄の箱に押し込めたかのような常軌を逸した贅沢な空間。けれど今の鈴にとって、その豪華な内装を堪能する心の余裕は一瞬で霧散してしまった。

 早鐘を打つ心臓の音が列車の規則正しい走行音すらかき消してしまいそうなほどうるさく耳の奥で鳴り響く。

 視線を向ければ深い緑色のビロードが張られた長椅子に景明が悠然と腰を下ろしていた。

 帝国陸軍の軍服を隙なく着こなしたその姿は、本来なら冷徹な“鬼少佐”としての威圧感を纏っているはずだ。けれど、景明の双眸に宿っているのはとろけるような熱を帯びた底なしの情熱と執着。

 彼から漂ってくるのは高く、深く、そして甘く脳を痺れさせるような白檀の香り。その香りが密室内で濃縮され、鈴の呼吸を狂わせていく。

「どうした、鈴。立ったままでは疲れてしまうだろう? ……ほら、ここだ」

 景明が再び自分の膝を叩く。その仕草はあまりにも自然でまるで「ここが君の定位置だ」と言わんばかりの迷いのなさだ。

 その瞬間、鈴の脳内で警報が鳴り響いた。

(だ、ダメ……!このままあそこに行ったら旧都に着く前に私が恥ずかしさで溶けてなくなっちゃう!)

 景明の膝の上、そこは甘く熱い記憶が蘇る場所でもある。彼の逞しい太ももの熱、腰を抱き寄せる大きな手のひらの強さ、耳元で囁かれる重すぎる愛の言葉。

 それらが一気に脳内を駆け巡り、鈴の顔面は一瞬にして熟れた林檎のように真っ赤に染まった。

「か、景明様っ、ここは、ここは公共の場ですっ!!」

 鈴は叫ぶやいなや、弾かれたように景明から距離を取った。ペルシャ絨毯の上を滑るように移動し、景明が座る長椅子のちょうど真向かいにある、もう一台のビロードの椅子へと飛び込むように座り込んだのである。

「……鈴?」

 膝を叩いていた景明の手が空中で静止した。

 僅かに目を見開き、思いがけない妻の拒絶に景明は彫刻のような端正な顔を呆然とさせた。

「ダメです!ここは列車の中なんです!もし、もし車掌さんが切符の確認に来たらどうするんですか!返事をしなかったら怪しまれてしまいます!」

 鈴は長椅子の背もたれに背中を押し付け、身を守るようにして両手で真っ赤になった頬を押さえた。

 指先から伝わってくる自分の熱が恐ろしい。ワインレッドの外套の裾が膝の上で小刻みに震えている。

「公共の場、だと?鈴、私はこの一等車両をまるごと買い占めようとしたのだが氷室に必死に止められてな。妥協してこの個室を貸し切ったのだ。つまり、ここは法的に認められた西園寺家の領土も同然……誰に文句を言われる筋合いもない」

「買い占めようとしたなんて、そんな無茶苦茶な話じゃありませんっ!それに領土って何ですか!ああもう……景明様の破廉恥っ!」

「……破廉恥?心外だな。私はただ、愛しい妻を長旅の疲れから守るために最も座り心地の良い場所を提供しようとしただけなのだが」

 景明はゆっくりと背もたれに寄りかかると長い脚を組み、顎に手を当てて鈴をじっと見つめた。

 その仕草一つをとっても、軍人としての冷徹なオーラは消し去られ、どこからどう見ても莫大な富を持つ名家の若き当主そのものである。

 窓から差し込む秋の柔らかな光が彼の整った鼻筋や、長く美しい睫毛が落とす影を鮮明に浮き上がらせている。その視線があまりにも熱く、執拗で鈴は逃げ場を失った小動物のように身を竦ませるしかなかった。

「……ねえ、景明様。そんなに見つめられると、私、穴が開いてしまいそうです……」

「不可能だな。君の全てを目に焼き付けたいのにいくら見ても見足りないのだから。……しかし、そうか。向かい合わせか……。なるほど、これならば君の愛らしい戸惑う表情を一寸の死角もなく正面から堪能できるというわけか」

 景明は納得したように低く笑った。その声音に含まれる甘い振動が足元の床を通じて鈴の体内にまで伝わってくるようだ。

「……君は本当にどうしてこうも私の嗜虐心と愛護欲を同時に掻き立てるんだろうな。そんなに真っ赤になって外套の裾を握りしめて……。まるでこれから恐ろしい獣に食べられるのを待つ小鹿のようだ」

「景明様がその獣じゃないですか……っ。もう、いじわるをおっしゃらないでください」

 鈴は顔を背けた。けれど窓ガラスに映る自分の顔はどうしようもないほど幸福そうに上気している。

 規則正しい走行音と微かなレールの継ぎ目を越える振動。

 豪華な個室の中に白檀の香りと二人の少し乱れた呼吸だけが溶け合っていく。

「鈴。……手くらいは繋いでもいいだろう?」

 ふいに景明の声から悪戯な響きが消え、しっとりとした真剣な熱が混じった。

 彼は組んでいた脚を解き、テーブル越しにそっと大きな手を差し出した。

「お膝の上は……我慢してやる。だが、旧都に着くまでの数時間、私の愛が不足して君が枯れてしまわないよう栄養を送らなければならないからな」

「……景明様って本当にお口が上手なんですから」

 鈴は小さく溜息をつきながらも磁石に引き寄せられるようにその大きな手のひらへと自分の手を重ねた。

 触れた瞬間、景明の逞しい掌の熱がダイレクトに伝わってくる。指を絡められ、握りしめられるとそれだけで全身の力が抜けてしまいそうになる。

「……暖かいですね」

「ああ。君の体温を感じているとようやくこの旅が現実なのだという実感が湧いてくる。……鈴。この密室で誰にも邪魔されず、君とこうして手を繋ぎ、車窓の景色を眺める。……これ以上の贅沢がこの世にあるだろうか」

 景明は繋いだ手に愛おしそうに唇を寄せた。

 窓の外では帝都の街並みがいつしか遠ざかり、燃えるような紅葉に彩られた山々が次々と後方へ流れ去っていく。

 景明は鈴の小さな手を自らの手のひらで包み込んだまま満足そうに目を細めた。

 先ほどまでの“膝の上攻防戦”は鈴の必死の抵抗と奥ゆかしい譲歩によって幕を閉じたが彼にとってはこうして指先から彼女の柔らかな体温と刻まれる確かな鼓動を感じられるだけでも脳の芯が痺れるほどの至福であった。

「……さて。手をつなぐだけで満足してくれるような殊勝な夫ではないと言いたいところだが今の君の顔を見ているとそれも悪くないと思えてしまうから不思議だな」

「景明、様……。もう、からかわないでください。……本当にお顔が近くて……」

 鈴は恥ずかしさに耐えるように俯きながら自由な方の手で熱を帯びた自分の頬をそっと押さえた。

 景明の放つ白檀の香りが狭い個室の中で濃縮され、彼女の肺の奥まで甘く支配している。彼が呼吸をするたびにその微かな衣擦れの音さえもが鈴の鼓動を跳ね上げさせた。

「からかってなどいない。私はいつだって本気だ。……ああ、そうだ。鈴、そろそろ小腹が空いたのではないか?君のためにとっておきのものを用意してあるんだ」

 景明は名残惜しそうに鈴の滑らかな手の甲を親指でひと撫でしてからゆっくりとその手を離した。そして両手を使って足元に置かれたあの“異常に重い”トランクを持ち上げると、長椅子の隣へと重厚な音を立てて置いたのである。

 氷室が運ぶ際に顔を歪めていたあの大きな鞄だ。鈴は一体何が入っているのかと不思議そうにその様子を見守る。

 真鍮の留め具が両手で外される音が響く。

 重厚な革の蓋が開かれるとそこには驚くべき光景が広がっていた。

 最新の雑誌や美しい絵柄の百人一首、予備の絹の毛布などはほんの一部。トランクの大部分を占め、あの圧倒的な重量感を放っていた正体は立派な桐箱にぎっしりと詰められた帝都老舗の竹皮包みの羊羹、客室のランプを受けて宝石のように輝く切子硝子の瓶に入った金平糖、そして黄金色にとろける最高級の蜂蜜の分厚い瓶詰めだった。

「まあ……っ!?甘味がこんなに!!」

 鈴は驚きのあまり、目を丸くして身を乗り出した。

「旧都までの長い道中、君を退屈させるわけにはいかないからな」

 景明はまるで戦場での作戦説明でもするかのような真剣な面持ちで、重厚な鞄の中身を指差していく。

「この桐箱に入っているのが羊羹だ。最高級の小豆を使い、三日三晩かけて練り上げられた逸品らしい。そしてこちらの切子硝子には職人が手作りした色鮮やかな金平糖。さらにこの奥にある蜂蜜の瓶詰めは……」

「ま、待ちきれません、景明様!そんなにたくさん……。まるでお菓子屋さんが丸ごと鞄に入っているみたいです!」

 鈴の声が弾むように室内に響いた。

 甘いものに目がない彼女にとって、この光景は夢のような宝石箱に見えた。

 景明はそんな鈴の無邪気な反応を満足げに眺め、一番上にあった桐箱を開け、竹皮に包まれた羊羹を慣れた手付きで解いていく。

「さあ、まずはこの羊羹から試してみよう」

 景明は個室に備え付けられた美しいティーセットを鮮やかに使いこなし、小さなアルコールランプに火を灯した。

 静かな車内に水の沸き立つ音が心地よく響き始める。

 やがて琥珀色に色付いた紅茶から華やかで芳醇な香りが立ち上り、狭い密室を優雅に満たしていった。白檀の香りと紅茶の香りが混ざり合い、それだけで酔ってしまいそうなくらいに甘い空気が作られる。

 景明は切り分けた美しい小豆色の羊羹を小皿に載せると当然のように自らの手で黒文字を手に取った。

「鈴、あーん、だ」

「えっ……!?あ、あの、景明様、自分でおいしくいただけます……!」

「ダメだ。これは新婚旅行の“儀式”だと思え。夫が妻に尽くすのはこの世で最も尊い行為なのだからな」

 景明の瞳には一切の妥協を許さないという強い意志が宿っている。

 鈴は周囲に誰もいないことを分かっていてもどうしても扉の向こうに誰かが立っているような気がして落ち着かなかったが景明の真っ直ぐな視線に根負けし、小さく口を開けた。

「……あ、あーん……」

 震える唇の隙間にしっとりとした羊羹が滑り込む。その瞬間、鈴の味覚を襲ったのはこれまでに体験したことのないほど濃厚でそれでいて後味の引かない上品な甘みだった。

 小豆の豊かな風味が口の中の体温でゆっくりと溶け出し、鼻に抜ける香りが心までとろけさせていく。

「……おいしい……。こんなに深みのある甘さ、初めてです……」

「そうか。それは良かった。……君の唇に少し、あんがついているな」

「えっ、どこですか……?」

 鈴が慌てて指を伸ばそうとした瞬間、景明の長い指先がそれよりも早く鈴の口角に触れた。

 指先の熱。微かに荒れた軍人らしい指の腹の感触。そのまま景明はその指を自らの唇へと運び、何事もなかったかのように微笑んだ。

「……ああ。確かに絶品だな。君の甘さと混ざり合って至高の味わいだ」

「な、ななな……っ!?景明様っ!!」

 鈴はついに顔から火を噴いた。

 羞恥心で胸がいっぱいになり心臓が爆発しそうなほどの衝撃。

 向かいの席に座る景明はそんな彼女の反応をまるで最高の娯楽を楽しむかのように眺めている。

(やっぱり、この人は“鬼少佐”なんて呼ばれているけれど、ただのいじわるな旦那様だわ……っ!)

 そんな憤りさえも彼の圧倒的な愛情の前では甘い火種となって消えていく。

 二人はゆっくりと時間をかけて帝都の銘菓を堪能した。

 琥珀色の紅茶は最後の一滴まで飲み干され、ティーセットの上で小さなアルコールランプの火が静かに消えた。

 密室を支配していた華やかな香りは微かに夜の冷気と混ざり合い、しっとりとした落ち着きを見せ始めている。

 帝都を離れて数時間。車窓の向こうは完全に夜の帳に閉ざされ、漆黒の闇の中を列車の予備灯だけが切り裂かれた流星のように孤独に流れていく。

 最高級のビロードの長椅子に身を預け、心地よい一定の揺れに身を任せているうちに鈴のまぶたには抗いがたい睡魔が忍び寄っていた。

「ふぁ……、あ……」

 小さく可愛らしい欠伸が零れる。

 鈴は慌てて自由な方の手で口元を押さえたが微睡みで潤んだ瞳までは隠しきれない。長旅の心地よい振動と何より目の前にいる最愛の夫が放つ圧倒的な安心感が彼女の意識を深い夢の淵へと誘っていた。

「……眠いのか、鈴」

 景明の低く蜜のように甘い声が鼓膜を揺らす。

 鈴がこっくりと深く首を傾けると景明はそっと鈴の手を引き寄せ、その細い指先に名残惜しそうに唇を寄せた。

「旧都までは夜を徹して走り続けねばならん。……向かい合わせに座っていては君の寝顔を特等席で眺めることも、その華奢な肩を支えてやることもできないな。……鈴、少し立っていなさい」

 景明はそう呟くと迷うことなく腰を浮かせた。彼は壁際のレバーを鮮やかな手付きで操作し、自身が座っていた深い緑色のビロードの椅子を滑らかに手前へと引き出した。

 重厚な金属音が響き、背もたれが倒れ込む。それまで優雅なソファだったものは瞬く間に白く清潔なシーツが設えられた一等寝台へと姿を変えた。

「わあ……、椅子が寝床になるなんて。不思議ですね……」

「一等車の特権だ。だが……やはり大人二人が横になるには少々幅が狭すぎるようだな」

 景明は出来上がった寝台を見下ろし、わざとらしく眉を寄せた。

 確かに最高級の寝台とはいえ列車の限られた空間内だ。一人で寝るには十分だが二人で並ぶにはあまりにも心許ない。

「景明様……。やはり、私がこちらで休ませていただきます。景明様は向かいの椅子で……」

「馬鹿なことを。新婚旅行の夜に夫が妻を一人で寝かせて自分は椅子に座っているなど、西園寺家の名が廃る。……それに私は君と一分たりとも離れるつもりはないと言っただろう」

 景明は反論を許さない力強さで鈴の腰を抱き寄せた。そのまま、彼女を先に柔らかな寝台の奥へと寝かせると自らもその極めて狭い空間へと強引に身体を滑り込ませた。

「きゃっ……! か、景明様、やっぱり狭いです……っ。これでは景明様の居場所が……」

「構わん。君をこうして腕の中に閉じ込めておけるのだからな」

 濃紺のスーツのベストを脱ぎ、シャツ一枚になった景明の逞しい胸板が鈴の背中に密着する。

 景明は長い脚を器用に曲げ、鈴の身体を後ろから包み込むようにして抱き締めた。最高級の絹の毛布が二人をまとめて覆い、密室の中のさらに小さな“密室”が作り上げられる。

(せ、狭いです……。でも景明様の心臓の音が背中から直接伝わってきて……)

 上質なシャツ越しに伝わってくる景明の力強くも規則正しい心音。深く甘い白檀の香りと彼の重厚な体温。

 狭い寝台ゆえに逃げ場はなく鈴は景明の腕の中に完全に収まる形となった。けれど、その拘束は決して苦しいものではなく、むしろ世界で一番安全な檻に守られているような蕩けるほどの安らぎを彼女に与えていた。

 景明の大きな手が毛布の中で鈴の小さな手をしっかりと握り締める。その心地よい重みと温もりに鈴の意識はいつしか深い闇へと溶け込んでいった。

 夜の静寂を切り裂き、豪華夜行列車は西へ、西へと走り続ける。

 窓の外に広がる不穏な闇も彼が放つ絶対的な守護の冷気の前ではその指先一つ触れることすら叶わなかった。

 そして、どれほどの時間が経っただろうか。

「……ん……」

 ふと、鈴が微かな違和感を覚えて目を覚ましたのは空が白み始め、深い藍色に染まる夜明け前のことだった。

 列車はすでに険しい山間を抜け、旧都の盆地へと滑り込もうとしている。

 夜明け前。窓ガラスにはうっすらと結露が張り付き、車内にも凛とした冷気が漂い始めていた。

 だが、鈴の眠りを妨げたのは物理的な気温の低下だけではなかった。

(……冷たい。なんだか肌の表面がざわざわする……)

 それは肌を這うような、ざらりとした不吉な気配。

 彼女が持つ異能が無意識のうちに外界の“乱れ”を察知し、微かな警鐘を鳴らしていたのだ。

「……おはよう、鈴。起こしてしまったか」

 すぐ耳元で聞こえた景明の声に鈴は大きく肩を揺らした。

 昨夜と同じ体勢のまま、景明は一度も眠っていなかったのではないかと思えるほど澄んだ瞳で鈴を見つめていた。その顔には先ほどまでのとろけるような甘さはなく、帝都最強の異能者としての鋭利な眼光が宿っている。

「景明、様……。なんだか、急に胸のあたりがザワザワして。……外の空気が少しおかしいような気がします」

 鈴が毛布を握りしめながら身じろぎすると彼女を抱き締めていた景明の腕に僅かに力がこもった。

「ああ。……旧都に巣食う不浄な泥の臭いがここまで漂ってきているな」

「不浄な……赫夜、ですか?」

 景明は鈴を自身の胸の奥へとさらに深く押しやるようにして庇うと窓の外の薄暗い景色を冷ややかに見据えた。

 列車の周囲、流れる朝靄の中にどす黒く濁った紫色の靄のようなものが探りを入れるように車体に纏わりつこうとしていたのだ。旧都で待ち構える絡新婦が放った標的を探すための斥候の気配である。

「五月蝿い虫だ。君の心地よい目覚めを邪魔するなど万死に値する」

 景明が手袋をはめた右手の指先をほんの僅かに動かした。その瞬間、分厚い窓ガラスから扉の隙間に至るまで個室全体が内側から青白い絶対零度の冷気に覆われた。

 戦闘の音すら立てない。ただ、彼から漏れ出した“帝都最強の怒気と冷気”が車体を包み込んだだけで外をうろついていた紫色の気配は「ヒッ……!」と悲鳴のような風の音を残し、恐れをなして一瞬で霧散していった。

「……一匹たりともこの部屋には近づけさせん。安心して私の温もりに寄りかかっていなさい」

「景明様……。はい……っ」

 敵の気配を跡形もなく退け、再び甘く優しい顔に戻った景明に鈴は小さく息をついてその広い胸に頬をすり寄せた。

 彼がいれば、どんな闇が近づいてきても絶対に大丈夫だという確信が鈴の心を温かく満たしていく。

 やがて朝の冷気を切り裂くように列車の長い汽笛が鳴り響いた。

 郷愁を誘う音が旅の終着地を知らせている。

 鈴がそっと窓の外へ視線を向けると遠くの朝靄の中に千年の歴史を持つ古き都の街並みが静かな光を帯びて浮かび上がり始めていた。

「……着くぞ、鈴。あれが旧都だ」

「わあ……。朝霧に包まれて、とっても幻想的ですね」

 景明が背後から鈴を包み込むようにして立ち、窓の外を指差した。

 彼の深い白檀の香りと温もりに背中を預けながら鈴はこれから待ち受ける未知の土地への期待に胸を膨らませた。



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