第44話
帝都の空が深い藍色から薄紅色の朝焼けへと染まり、街全体が冷たい朝霧に包まれる頃。西園寺別邸の主寝室にはまだ夜の残滓のような静謐な時間がゆったりと流れていた。
最高級の絹が肌を優しく撫でる感触と共に西園寺家の若奥様となったばかりの鈴はゆっくりと重いまぶたを押し上げた。
(……朝……)
視界に飛び込んできたのは磨き上げられた上質な窓ガラス越しに差し込む、白み始めたばかりの柔らかな朝の光。秋の冷え込みは日に日に厳しさを増し、窓の外からは枯れ葉が石畳を転がる乾いた音が凛とした空気を通じて伝わってくる。
鈴が布団の中で身じろぎをすると隣から伝わってくる圧倒的な“熱”が彼女の意識を急速に現実へと引き戻した。
すぐ隣。自分を壊れ物のように優しく、けれど逃がさないという確固たる意志を持って抱き締めているのは最愛の夫となった西園寺景明だ。
普段、帝国陸軍の制服に身を包み、冷徹な鬼少佐として異能者を統率する彼の姿はここにはない。少し乱れた髪。長く美しい睫毛が影を落とす彫刻のように端正な横顔。そして時折甘えるように鈴の肩口に顔を寄せるその無防備な仕草。
(景明、様……)
心の中でその名を呼んでみる。
結婚式を挙げて数日、ずっと“西園寺様”と呼んでいた彼を今こうして名前で呼ぶこと。それは鈴にとって指先が震えるほど気恥ずかしく、それでいて胸の奥がじんわりと熱くなる特別な響きだった。
(まだ、西園寺様って呼ぶ方がしっくりきちゃう。でも練習しなきゃ。いつまでも他人行儀じゃ、景明様が寂しがるもの)
鈴は寝返りを打ち、枕元のサイドテーブルに視線を向けた。
そこには深い紺色のビロードに包まれた小さな宝飾箱が置かれている。
そっと手を伸ばして箱の蓋を開けると中には大粒のダイヤモンドが眩いばかりの輝きを放つ婚約指輪。それは数日前、夢心地のまま指にはめていたものだ。けれど、家事や刺繍をこなす今の鈴にとって、この至宝のような指輪をつけたままでいるのはあまりに恐れ多かった。何より、傷一つつけたくないという愛着が彼女に“箱へ大切にしまう”という選択をさせたのだ。
(守られてばかりの子供じゃない。私は西園寺景明という人の妻になったの。今日こそ、旦那様を支える立派な奥様として第一歩を踏み出さなきゃ!)
まずは朝食だ。
景明は毎日、軍の激務に身を削っている。そんな彼のために温かくて美味しい食事を用意し、活力に満ちた状態で送り出してあげること。それこそが今の自分にできる精一杯の献身だと鈴は考えた。
景明の腕からすり抜けるのは至難の業だったが鈴は慎重に数ミリずつ体を動かした。彼が微かな声を漏らして抱き締める力を強めるたびに心臓が口から飛び出しそうになる。
どうにかベッドを抜け出すと鈴は寝室の隅で手早く身支度を整えた。
選んだのは秋らしい桔梗色の着物に清潔な白い割烹着。髪は邪魔にならないよう、リボンできっちりと纏め上げる。
(よし。待っていてくださいね、西園寺様……!)
足音を殺して廊下を進み、厨房へと向かう。
別邸の厨房は日の出前ということもあり、まだひんやりとした静寂に包まれていた。けれど、そこにはすでに二人の先客がいた。
「あら。奥様、おはようございます。まあ、そんな格好をしてどうされたんですか?」
竈に火を入れようとしていた若菜が驚きに目を丸くした。その傍らで野菜を洗っていたトメも鈴の姿を見て慌てて手を止める。
「若菜さん、ばあやさんおはようございます」
「おはようございます、奥様。ですが、そのお姿……まさか、お台所に立たれるおつもりですか?」
トメが心配そうに眉の端を下げる。彼女たちは知っている。鈴がどれほど裁縫に長け、どれほど刺繍に命を吹き込むことができても“炊事”に関しては異能どころか一般常識さえ通じないほどの破壊力を秘めていることを。
「ええ。今日は私が西園寺様の朝食を作りたいの。あ…違う……景明様。ふふ、まだ少し照れるわ」
名前を呼ぶ練習を兼ねてそう告げるとトメと若菜は顔を見合わせた。
「奥様、お気持ちは大変嬉しいのですが……旦那様に知られたら、私たちはどんなお叱りを受けるか」
「そうですよ、若菜の言う通りです。包丁で指でも切られたら坊っちゃんは帝都を凍らせてしまいます」
「大丈夫よ、気をつけるから。二人とも少しだけ私に任せてみて?西園寺家の妻としてちゃんとやり遂げたいの」
鈴の瞳に宿る真剣な光。それは敵対組織に立ち向かった時と同じ、折れない強さを持っていた。こうなると誰も彼女を止めることはできない。
「……承知いたしました。では、私たちは隣で火の番をいたしますから無理だけはなさらないでくださいね」
折れたのはトメの方だった。
鈴は「ありがとう!」と花が咲くような笑顔を見せるとさっそく調理台の前に立った。
まず取り掛かるのは朝食の定番である焼き魚とだし巻き卵。
そして炊きたてのご飯とお味噌汁だ。
(まずはお魚ね。丁寧に愛情を込めて……)
鈴はまな板の上に置かれた鮭を見つめた。裁縫で培った集中力を研ぎ澄ませ、包丁を握る。
「……奥様?お魚を捌く音というよりは薪を割るような音がしておりますが……」
「大丈夫よ、若菜さん。ちょっと骨が硬いだけ」
鈴の額には大粒の汗が浮かんでいる。刺繍針なら絹の隙間を滑るように通せるのに包丁という鉄の塊はどうしてこうも重く扱いづらいのだろうか。
どうにか切り分けた鮭の身を次は網の上で焼いていく。
トメが調整してくれた竈の火は絶好の加減だったはずだ。けれど鈴が網を乗せた途端、なぜか火柱が高く上がった。
「きゃっ!?ひ、火が!」
「奥様、下がって!油が跳ねております!」
「だ、大丈夫!これくらい、平気よ!」
鈴は果敢にも燃え盛る火の中に手を伸ばした。
しかし、その努力も虚しく厨房には香ばしい匂いを通り越して鼻を突く嫌な煙が立ち込め始める。
(おかしい。レシピ通りにお塩もたっぷり振ったし……。ああっ、次は卵焼きも焼かなきゃ!)
焦りに拍車がかかる。器の中でかき混ぜた卵を熱したフライパンに流し込む。耳を刺すような激しい音。返そうと箸を入れるが卵は無残にも形を崩し、底の方からどす黒い色へと変色していく。
「あわわ……っ、待って、待って!」
(異能がお料理にも使えたらいいのに!でも、これは壊れたんじゃなくて焦げているだけ……つまり、これが今の完成形……!? そんなの嫌!)
鈴の必死の格闘は三十分ほど続いた。
やがて煙が薄れた厨房のテーブルに並べられたのは見るも無残で非常に独創的な料理の数々だった。
表面が炭のように真っ黒になり、もはや魚の原型を留めていない鮭の塩焼き。
黄色というよりは暗褐色で岩のように硬く固まっただし巻き卵の残骸。そして、なぜか紫色に変色した味噌汁。
「…………」
「…………」
若菜とトメは絶句した。
これこそが鈴という少女が持つ、神に愛された刺繍の才能と引き換えに失った“暗黒の家事能力”の結晶だった。
「うぅ……っ。やっぱり私には向いてないのかしら……」
割烹着の袖で涙を拭う鈴。
せっかく「景明様」と呼ぶ練習までして気合を入れたのに出来上がったのは食卓に並べるのも憚られるような代物だ。
「朝から……随分と賑やかだな」
その時、低いけれど心地よい振動を伴う声が厨房の入り口から響いた。振り返れば、そこには着流しを緩く羽織った景明が立っていた。
眠気など微塵も感じさせない冷厳で端正な美貌。けれどその瞳は厨房に漂う異様な匂いと泣きべそをかいている愛しい妻の姿を捉えた瞬間、とろけるような熱を帯びた。
「さ、西園寺様……!」
鈴は慌てて料理を隠そうとしたが時すでに遅し。
景明は悠然とした足取りで歩み寄り、テーブルの上の作品をじっと見つめた。
若菜とトメは主人の怒りを予想して縮こまった。しかし、景明の反応は彼女たちの想像を遥かに超えていた。
「……これは鈴が作ってくれたのか?」
「ごめんなさい……!一生懸命やったんだけど、どうしても真っ黒になっちゃって。すぐに作り直させますから!」
鈴が皿を下げようとしたその時、景明の大きな手が鈴の手首を優しく、けれど強く制した。
「なぜ下げる?私がどれほどこの時間を待ち侘びていたか君は知らないのか」
「え……?」
景明は迷うことなく椅子に腰を下ろすと箸を手に取った。そして焦げた鮭の身を器用にほぐし、口へと運ぶ。
厨房に魚を食べているとは思えない硬質な音が響く。
若菜とトメが悲鳴を上げそうになるのを必死に堪える中、景明は表情一つ変えず、むしろ深く味わうように目を閉じた。
「……ああ。美味いな」
「えっ!?本当に……?」
「ああ。君の愛情という、どんな名料理人にも出せない最高の出汁が効いている。……こんなに心が満たされる食事は人生で初めてだ」
景明は嘘偽りのない笑顔でそう言った。その瞳には鈴に対する盲目的なまでの溺愛と狂おしいほどの情愛が溢れている。彼にとって味の良し悪しなど鈴が自分のために包丁を握ってくれたという事実の前では塵芥に等しいのだ。
景明は次々と黒焦げの卵焼きや紫色の味噌汁を口にしていく。その姿はまるで最高級の晩餐を楽しんでいる貴族のように優雅でそれでいて凄まじい執念さえ感じさせた。
「無理しないで西園寺様……!お腹を壊してしまう」
「君が作ったものだ。一欠片たりとも無駄にはせん。……それに鈴」
景明は箸を置くと鈴を自分の方へ引き寄せ、その膝の上に彼女を座らせた。
「ひゃっ!?西園寺様……っ。若菜さんたちが見て……」
「構わん。それより呼び方が戻っているぞ。私事はなんて呼ぶんだ?」
至近距離で見つめる氷の欠片のように鋭く、けれど自分にだけは熱く濡れた瞳。
鈴は顔を真っ赤に染めながら唇を動かした。
「……景明……様」
「……もう一度」
「か、景明様……っ」
「……ああ。たまらないな。西園寺様と呼ばれていた時間も愛おしいが君にその名で呼ばれると脳の芯まで痺れるようだ。……愛している鈴。君は世界で一番の、私の自慢の妻だ」
景明はそう囁くと若菜やトメの視線など意にも介さず、鈴の首筋に顔を埋めて深く吸い込んだ。
彼女から漂う石鹸の清潔な香りと微かに混じる焦げ臭い匂い。それら全てが今の景明にとっては極上の芳香だった。
「ごちそうさま。……これ以上食べると仕事に行きたくなくなってしまうな。このまま君を寝室へ連れ戻して一日中愛でていたい」
「もうっ、景明様ったら!お仕事に行かないと氷室様が困ってしまいます」
鈴が困ったように笑うと景明は「あいつの胃痛など知ったことか」と鼻で笑い、最後にもう一度だけ名残惜しそうに鈴の唇を奪った。
こうして、西園寺別邸の騒々しくも甘すぎる朝は幕を開けた。
料理は大失敗だったけれど鈴の心には彼に名前を呼んだ時の高鳴りとそれを全身で受け止めてくれた彼の温もりが確かな幸せとして刻まれていた。
◇
帝都の中心地から少し離れた一角。周囲を厳重な鉄柵と高い石壁に囲まれた広大な敷地の中に帝国陸軍・異能特殊部隊の駐屯地は存在している。
秋も深まりを見せる十一月。澄み切った群青色の空からは冷やりとした風が吹き下ろし、敷地内に植えられた銀杏の木々から黄金色の葉を音を立てて散らしていた。無骨で堅牢な赤煉瓦造りの司令部庁舎はどこか威圧的な空気を纏い、帝都の平和を裏から支える武骨な砦としての重厚感を放っている。
時刻は午前八時半。駐屯地の裏手に広がる広大な第二訓練場では朝の冷気を切り裂くような怒号と異能がぶつかり合う凄まじい爆音が鳴り響いていた。
「甘いッ!その程度の反応速度と貧弱な異能で組織の連中と戦えると思っているのか!死にたくなければ足の裏から血を流してでも動け!次!」
「ぐああああっ!」
「ひぃぃっ、少佐、お、お許しを……!」
土煙が舞う訓練場の中央。軍服を隙なく着こなし、一切の乱れを見せない景明が文字通り“鬼”の形相で部下たちを次々と氷結地獄へと叩き落としていた。
彼が手袋をはめた指先を軽く振るだけで大気中の水分が瞬時に凍結し、鋭利な氷の槍となって容赦なく隊員たちを襲う。数人がかりで炎や風の異能を使って飛びかかろうとしても景明から放たれる絶対零度の壁に阻まれ、手も足も出ないまま氷の彫像へと変えられていく。
「ちぃっ……!少佐、新婚だっていうのになんであんなに機嫌が……いや、殺気が増してるんだよ!?」
「普通、新婚の朝ってもっとフワフワしてて部下にも優しくなるもんじゃないのか!?」
悲鳴を上げながら逃げ惑う隊員たちのボヤキを聞きながら訓練場の端でストップウォッチを握りしめている氷室がいた。
彼は今、猛烈な胃痛に襲われ制服の上から胃のあたりを押さえていた。
氷室の異能は読心術。本来なら景明のような強大な精神力を持つ者の心は読めないのだが今の景明は精神の防壁を完全に解き放ち、凄まじい大音量で鈴への愛情を垂れ流していたからだ。
「…………ッ!!」
氷室は白目を剥きそうになるのを必死に堪えた。
訓練場の中央では鬼神のごとき冷酷さで部下を氷漬けにしているというのにその脳内はピンク色の花畑を通り越し、もはや破廉恥な妄想と極甘の重すぎる溺愛で満たされていたのだ。
「少佐……頭の中が完全に新婚の浮かれポンチなのにやっていることが極寒の虐殺ショーですよ……。情緒が……私の情緒と胃壁が壊れます……ッ!」
誰にも聞こえない声で呟き、氷室はそっと特注の胃薬を飲み干した。
二時間に及ぶ地獄の戦闘訓練を終えた後、氷の彫像と化した部下たちを医療班に丸投げし、景明は司令部の隊長執務室へと戻っていた。
「……よし、これで今週分の予算申請と各小隊の編成見直し、ならびに兵器廠への弾薬補充要請の承認は終わった。次はなんだ」
執務机に向かった景明のペン先は目にも留まらぬ速さで書類の上を滑っていた。
凄まじい音と共に山のように積まれていた決裁書類が瞬く間に処理されていく。その事務処理速度は平時の五倍……いや、十倍近い恐ろしいスピードだった。
「しょ、少佐。お疲れ様です……。いくらなんでも仕事のペースが異常です。まだ午前中ですよ?」
温かいお茶を淹れて執務室に入ってきた氷室がドン引きしたように目を丸くする。
「当然だろう。私の愛しい妻が屋敷で私の帰りを首を長くして待っているのだ。こんなむさ苦しい部屋で紙切れの処理に時間を割いている暇など一秒たりともない。今日中に終わらせるべき仕事は午前中で全て終わらせ、午後には帰還する」
景明はペンを走らせたまま、悪びれもせずに堂々と職務放棄宣言をした。
「……相変わらずの公私混同ぶりですね。ですが奥様……いや、西園寺夫人も少佐がこんなに早く帰宅されるとは思っていないのでは?」
氷室が呆れながらそう口にした、その瞬間だった。景明のペンが止まった。同時に執務室の空気が一瞬にして凍りつき、窓ガラスに白い霜の華が咲き乱れた。
「……氷室」
地を這うような凄まじい殺気を帯びた低い声。
氷室は背筋に冷たい汗が伝うのを感じ、思わず一歩後ずさった。
「な、なんでしょうか……私、何か地雷を踏みましたか?」
「誰が君に彼女を“西園寺夫人”と呼ぶ許可を与えた?」
景明の氷のように鋭い瞳が氷室を真っ直ぐに射抜いた。その眼光には敵に向けるものと何ら変わらない本気の怒りと執着が渦巻いている。
「はい?いや、あの……法的にご結婚されたのですから奥様や夫人と呼ぶのが一般的な筋であり、部下としての礼儀かと……」
「却下だ。絶対に許さん」
景明は立ち上がると執務机に両手をつき、氷室を睨み下ろした。
「彼女が『西園寺』の姓で呼ばれ、自分が私の妻になったのだという事実に初々しく頬を染める姿。それはこの私にのみ与えられた至高の特権だ!君のようなむさ苦しい部下がその名で呼び、彼女の純情な反応を引き出すなど……想像しただけで腹立たしい。万死に値する!」
「理不尽すぎるッ!!!」
氷室はたまらず叫んだ。
「これからは今まで通り『小鳥遊嬢』と呼べ。君の口から彼女と私が夫婦であることを連想させるような親しい呼び名を聞きたくない。私の妻は私だけのものだ。他の誰にも言葉の上でさえも触れさせはしない」
「いやいや、ご結婚されたのに旧姓で呼び続ける方がよっぽど不自然で無礼ですよ!?」
「私の命令が聞けないというなら今すぐ君の舌を絶対零度で凍らせて一生喋れないようにしてやろうか?」
景明の周囲に鋭い氷の結晶が舞い始める。
氷室は「この男、本気だ」と悟り、即座に両手を挙げて降参した。
「わ、わかりました!小鳥遊嬢ですね!今後も小鳥遊嬢と呼ばせていただきます!!」
(ああ……少佐の独占欲と過保護は結婚して治まるどころか悪化の一途を辿っている……。小鳥遊嬢、こんな重すぎる男の妻になって本当に大丈夫なのだろうか……)
氷室が心の中で鈴の安否を本気で案じていた、ちょうどその時だった。執務室の分厚いオーク材の扉が控えめにノックされた。
「少佐、軍上層部からの特命の通達をお持ちしました」
入ってきた使官の顔はなぜか青ざめ、非常に言いにくそうに視線を泳がせている。
景明は舌打ちをすると大雑把に椅子へ座り直した。
「特命?私は今、午後からの超速退勤に向けて分単位で動いている。面倒事なら他の部隊に回せ」
「そ、それが……陸軍省ならびに参謀本部からの絶対の命令でありまして。上層部の方々も『西園寺少佐には新婚早々、本当にすまないが……どうか帝都の平和のために頼む』と頭を抱えておられました」
震える手で差し出された極秘印の押された薄茶色の封筒を景明は冷ややかに奪い取った。封を切り、中の書類に目を通す。その内容を読み進めるにつれ、景明の周囲の温度が先ほどの理不尽な嫉妬の時とは比べ物にならないほど急激に低下し始めた。
書類に書かれていたのは非情な任務の通達だった。先日、撃退した敵対組織“赫夜”の幹部・天牛。その残骸や戦闘痕跡を軍の科学班が解析した結果、組織の巨大な拠点が帝都から遥か西に位置する旧都に隠されている可能性が浮上したのだ。
旧都の各地で不審な異能者の目撃情報も急増しており、事態は一刻を争う。
軍上層部は最強の異能者である景明に対し、数週間から一ヶ月に及ぶ『旧都の長期視察、および敵拠点の徹底掃討任務』を命じたのである。
「…………」
景明は一切の表情を消したまま、ただ無言でその書類を見つめていた。しかし、その静寂は嵐の前の最も恐ろしい無音だった。
(新婚早々、本当にすまない、だと?)
景明が握りしめていた万年筆が彼の無意識に発動した氷の異能によって凍りつき、粉々に砕け散った。
「ふざけるなッ!!!」
景明が白く凍りついた頑丈な軍用の机に抑えきれない怒りのままに思いっきり拳を叩きつけたのだ。その凄まじい衝撃波と爆圧に耐えきれず、執務室の窓ガラスが悲鳴を上げて一斉にひび割れ、室内に猛烈な吹雪が巻き起こった。
「あの上層部の老いぼれ共は私がどれだけの苦労と時間をかけて鈴を妻に迎え入れたかを知らんのか!初夜を終え、ようやくこれから甘く蕩けるような新婚生活を堪能しようというこの時に……数週間も愛しい妻と離れ離れになれだと!?万死では足りん、塵にしてやる!」
「さ、西園寺少佐!お怒りはごもっともですがどうか落ち着いて……ッ!」
使官は悲鳴を上げて逃げ出し、氷室は吹き荒れる冷気の中で必死に叫んだ。しかし、氷室の悲劇は物理的な寒さだけではない。景明の精神防壁が決壊したことで彼の脳内には景明のどす黒く、そして狂おしいほどの愛のポエムが濁流のように流れ込んできたのだ。
(ああ……鈴。鈴のいない夜のベッドなど氷の棺と同じだ。彼女の温もり、あの甘い匂い、私を見つめるあの潤んだ瞳……それらが欠けた世界で私が正気を保てるはずがないだろう。もし彼女に万が一のことがあれば私はこの手で帝都ごと世界を終わらせる)
「ぐっ……!?少佐、やめてください!奥……小鳥遊嬢への重すぎる愛を私の脳内に直接響かせないでくださいッ!胃が……胃壁が溶けます!」
氷室が腹部を押さえてうずくまると景明は長く冷たい息を吐き出し、ゆっくりと革張りの椅子に背中を預けた。
吹雪は収まったが彼の瞳の奥に宿る絶対零度の殺意は微塵も消えていない。
「……氷室。お前は私が鈴を帝都に残し、単身で旧都へ向かうと思っているのか?」
「そ、それは……軍の任務である以上、仕方がないことかと。小鳥遊嬢は非戦闘員ですし、赫夜の拠点があるかもしれない危険な場所に連れて行くなど……」
「却下だ」
景明は間髪を容れずに言い放った。
「鈴を私の目の届かない場所に一人残すなど絶対にあり得ない。どんな堅牢な護衛をつけようと私の手元に置いておく以上の安全はない。……それに何より私自身が彼女と離れることなど一秒たりとも耐えられん」
景明はカバンから先ほどまで見ていた軍の資料ではなく、なぜか旧都観光案内と書かれた美しい装丁のパンフレットを取り出した。
「……なるほど。旧都は今、紅葉の最盛期か。……それにこの嵐山の近くには皇族も御用達の素晴らしい温泉宿があるようだな」
「しょ、少佐……?何を読まれているのですか?」
景明は顔を上げ、氷室に向かってぞっとするほど美しく、そして狂気に満ちた完璧な微笑みを向けた。
「決まっている。妻との新婚旅行の“ついで”に旧都のゴミ共を片付けてくる」
「……はい?」
「まずは帝都駅から特別急行列車の『一等寝台車』を貸し切る。誰にも邪魔されない豪奢な密室で移りゆく秋の景色を眺め、旧都に着いたら極上の湯が湧く高級旅館の離れを貸し切る。紅葉が舞い散る露天風呂で鈴の真っ白な肌を紅く染め上げ……そして夜は赫夜の拠点に乗り込み、虫ケラ共を氷結地獄に突き落とし、跡形もなく粉砕する。……その血の匂いを洗い流してから再び愛しい妻の温かい腕の中へ帰る。完璧だ」
「完璧じゃありませんよォォォォッ!!」
景明はとんでもない旅行プランを作り、早口でそれを唱えた。そんな景明に氷室はついに理性を投げ捨てて絶叫した。
「新婚旅行のついでにテロ組織の掃討!?順番がおかしいでしょう!小鳥遊嬢と甘く過ごす時間の合間に敵を惨殺するプランを組まないでください!情緒が!情緒がめちゃくちゃです!」
「騒ぐな、氷室。赫夜の掃討など、私にかかれば片手間で終わる程度の些事だ。私の真の目的は愛する妻に美しい旧都の景色を見せ、最高のおもてなしをすること。敵の掃討はその道中のちょっとした害虫駆除に過ぎない」
「害虫駆除の規模が違いすぎます……!相手は軍を脅かす巨大組織ですよ!?」
「だからこそ、私の傍から一歩も離さないと言っているのだ」
景明の声が一瞬にして冷酷な響きを帯びる。
「……どんな強力な異能者が現れようと、どんな卑劣な罠が張られていようと。私に近づく前に全て塵に変えてみせる。この西園寺景明の命と魂にかけて彼女の指先一本、髪の毛一本たりとも傷つけさせはしない」
その揺るぎない圧倒的なまでの強さと愛の重さを前にしては氷室はもう反論の言葉を見つけることができなかった。
「……わかりました。ですが上層部への説明はどうされるおつもりですか?」
「『旧都における敵組織の隠密調査において名家の子息とその妻による観光旅行を装うことは最も効果的なカモフラージュである』と報告書に書けばいい。……氷室、お前がな」
「私にその破天荒な言い訳をでっち上げろと!?ああ……もう胃に穴が開く……ッ!」
再び胃薬の瓶を取り出し、勢いよく口に放り込む氷室を冷ややかに見下ろしながら景明は立ち上がった。
「さて、方針が決まったからにはこれ以上ここで油を売っている暇はない。豪華列車の切符の手配、最高級の旅館の予約……やるべきことは山積みだ。あとは頼んだぞ、氷室。私はこれより帰宅する!愛しい妻が待っている屋敷へとな!」
景明はそう高らかに宣言すると氷室の制止の声を完全に無視して、風のような速さで執務室から消えていった。そこには非常識な事後処理を全て丸投げされ、一人静かに崩れ落ちる氷室の姿だけだった。
「……この世にあの重すぎる愛を封じる異能はないものだろうか……」
氷室の切実なつぶやきは冷たい空気に虚しく溶けていった。
一方、軍司令部を後にした景明の顔には鬼少佐の仮面など微塵もなく、誰も見たことのないような微笑みが浮かんでいた。
◇
秋の柔らかな陽光が西園寺別邸の広大な庭園に降り注いでいる。赤や黄色に色づき始めた木々の葉が風に揺れるたびに心地よい葉擦れの音を響かせ、幾千もの金貨のように輝いていた。
時刻は正午を少し回ったばかりの頃合いだった。
屋敷の豪奢な居間では鈴が一人、静かな時間を過ごしていた。朝の“黒焦げ朝食事件”の後、彼女は気を取り直して得意の裁縫道具を広げ、私室で使うための新しいクッションカバーに丁寧な刺繍を施していた。
絹の糸を引く微かな音と共に鈴はふう、と小さく息をついた。
彼が軍司令部へ向かってから、まだ数時間しか経っていないというのにすでに胸の奥が切なく痛む。彼の大きな手のひらの熱、深く静かな白檀の香り、そして自分を「鈴」と呼ぶ時の、あのとろけるように甘い声。それら全てが恋しくてたまらない。
鈴がそっと窓の外へ視線を向けた、その時だった。
「鈴。今帰った」
「えっ……!?」
居間の分厚いオーク材の扉が音もなく開き、そこについ先ほどまで鈴が思い描いていた愛しい夫の姿が現れた。その彫刻のように端正な顔立ちには軍司令部で部下たちに見せていた冷酷な“鬼少佐”の仮面など微塵もなく、ただ真っ直ぐに愛する妻を求める情熱だけが浮かんでいる。
「景明様……!?まだお昼を少し過ぎたばかりですけれど、何か忘れ物でもされたのですか?」
鈴は驚きのあまり刺繍枠をテーブルに置き、目を丸くして立ち上がった。軍の特務部隊の隊長がこんな時間に帰宅するなどあり得ないことだ。
「違う。君に会いたくて、今日の分の仕事を全て終わらせてきた」
景明は長い脚を優雅に進め、あっという間に鈴の目の前まで歩み寄ると彼女の細い腰を強く引き寄せた。
「きゃっ……」
「ああ……。たった数時間離れていただけで狂いそうだった。私の帰りを待つ君のこの愛らしい姿を見られただけで全てを投げ打って帰還した甲斐があったというものだ」
軍服の硬い布地越しにも伝わってくる、景明の圧倒的な体温と力強い心音。そして鼻腔をくすぐる高貴な白檀の香りと外の冷たい秋の風の匂い。 鈴の五感は一瞬にして彼の存在で満たされ、先ほどまでの寂しさが嘘のように溶けていく。
「も、もう……景明様ったら。氷室様がまたお腹を痛めてしまいます」
鈴が恥ずかしさから頬を染め、彼の広い胸元に顔を埋めながら小言を言うと景明は低く甘い声で笑った。
「あの男の胃痛など知ったことか。私の最優先事項はいついかなる時も君だ」
景明はそう囁くと鈴の柔らかな髪に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。
彼が発する強烈な溺愛のオーラに包まれ、鈴もまた、そっと彼の背中に腕を回し、その温もりを分かち合った。
しばらくの甘い抱擁の後、鈴が淹れた温かい玉露の香りが居間に優しく漂い始めた。
最高級の茶葉が放つ、甘みと渋みが絶妙に調和した青々しい香り。景明は美しい有田焼の湯呑みを手に取り、一口飲んで深く息を吐き出した。
「……美味い。君が淹れてくれる茶はどうしてこうも心が安らぐのだろうな」
「ふふ、お茶を淹れるのとお裁縫だけは得意なんです。……でも景明様がこんなに早くお帰りになるなんて本当に珍しいですね。何か特別なことでもあったのですか?」
鈴が不思議そうに小首を傾げると景明は湯呑みを静かに置き、表情を引き締めた。その瞬間、居間に漂っていた甘い空気がわずかに冷たく、そして重いものへと変化したのを感じ、鈴は背筋を伸ばした。
「……実は軍上層部から特命が下ってな。少し厄介なことになった」
景明の低く落ち着いた声が静まり返った居間に響く。彼は先日の富士湖での激戦、敵対組織「赫夜」の幹部である天牛を撃破した一件から話を始めた。
「天牛の残骸や痕跡を科学班が解析した結果、赫夜の巨大な拠点が帝都から遥か西に位置する旧都に隠されている可能性が高いことが判明した。さらに旧都の各地で不審な異能者の暗躍も急増しているらしい。上層部は私に旧都の長期視察と敵拠点の徹底掃討を命じてきた」
「旧都、ですか……。そして赫夜の掃討……」
鈴の顔色から血の気が引いた。
「期間は数週間から長ければ一ヶ月…いや、それ以上にに及ぶ。……新婚早々、君をこの帝都に一人残して私だけが遠く離れた戦地に赴くなど……そんな理不尽な命令、本来ならばこの手で司令部ごと氷漬けにして拒否してやるところだ」
景明の瞳の奥に青白い氷の炎が揺らめく。彼の周囲の温度が物理的に下がり、鈴の肌にも冷気が伝わってきた。彼がどれほど自分と離れることを嫌悪し、この任務に対して激しい怒りを抱いているかが痛いほどに伝わってくる。
「景明、様……」
鈴はテーブルの上で固く握り締められていた景明の大きな手を自分の両手でそっと包み込んだ。氷のように冷たくなりかけていた彼の手が鈴の体温に触れてわずかに震える。
「……だが、私は絶対に君を帝都に置いてはいかない」
景明は鈴の手を握り返し、その手の甲に熱い口付けを落とした。
「どんなに強固な護衛をつけようとも私の目の届かない場所に君を置くことなどできない。赫夜がどこに潜んでいるかわからない以上、最も安全なのはこの帝都最強の異能者である私の腕の中だ」
「それはつまり……」
「ああ。私は君を旧都へ連れて行く。軍には『旧都における敵組織の隠密調査のため、名家の子息とその妻による観光旅行を装う』と報告させてある。……つまり鈴、私たちはこれから新婚旅行へ出発する」
「……えっ!?」
あまりにも飛躍した結論に鈴は言葉を失った。
敵の拠点掃討という危険極まりない任務と新婚旅行という人生で最も甘く幸せなイベントが彼の脳内で完全に直結してしまっている。普通の令嬢であれば「そんな危険な場所へ行くなんて恐ろしい!」と怯え、泣いて止めるか、あるいは帝都での留守番を懇願するところだろう。
鈴は驚きで開いていた唇を静かに結び、真っ直ぐに景明の瞳を見つめ返した。その瞳には恐怖も迷いも一切なく、ただ純粋な決意の光だけが星のように瞬いていた。
「……わかりました。私も行きます。西園寺様……ううん、景明様と共に」
「鈴……」
「観光旅行の偽装だなんて、そんな建前は必要ありません。私は景明様の妻です。旦那様が危険な戦地に赴くというのなら私も共に参ります。赫夜がどれほど恐ろしい組織であろうと私はもう怯えません」
鈴はテーブルの上に置かれていた自分の裁縫箱に視線を落とし、そして再び力強く景明を見上げた。
「私の異能は魔法のように指先一つで何でも治せるような便利な力ではありません。祈りを込め、針と糸を使って一針一針縫い上げるという物理的な媒体が絶対に必要です。……でも、だからこそ、私はその一針に私の命と魂の全てを込めることができる」
鈴の凛とした声が居間の空気を浄化していくように響き渡る。
「景明様が敵を討つために前に進むなら私はその後ろで景明様が傷つかないように、もし傷ついてもすぐに治せるように針と糸で貴方の背中を守ります。……絶対に景明様を一人にはしませんから」
そのあまりにも気高く、美しく、そして深い愛情に満ちた宣言。
景明は雷に打たれたかのように大きく目を見開き、そして耐えきれないというように鈴の体を抱き寄せ、そのまま床に押し倒さんばかりの勢いで強く、激しく抱き締めた。
「っ……か、景明様……っ」
「ああ……ああ、鈴。私の愛しい。君という人は本当にどうしてここまで私を狂わせるのだ……」
景明の声は歓喜と情動に打ち震え、ほとんど泣いているようにすら聞こえた。
彼から発せられる熱が先ほどまでの冷気を完全に吹き飛ばし、居間の中が真夏のように熱く、甘く蕩けるような空気に満たされていく。
景明の大きな手が鈴の背中を壊れるほど強く掻き抱き、もう片方の手が鈴の後頭部を支え、そのうなじや髪に狂ったように何度も何度も口付けを落とす。
「君のその強さが、私への真っ直ぐな愛が、私の心を底なしの沼へと引きずり込んでいく」
耳元で囁かれる、重すぎるほどの愛の言葉の奔流。
鈴は彼の圧倒的な愛情に溺れそうになりながらもその広い背中にそっと手を回し、彼を優しく受け止めた。
「はい、景明様。……私も愛しています。ずっと一緒にいさせてくださいね」
その言葉が引き金となり、景明は鈴の顔を両手で包み込むと息をする隙も与えないほど深く、熱い口付けを交わした。
白檀の香りと玉露の仄かな甘みが混ざり合い、二人の五感を激しく揺さぶる。窓から差し込む秋の陽光が重なり合う二人の影を美しく床に描き出していた。
長い、長い抱擁と口付けの後、ようやく景明が体を離すと鈴の顔は熟れた林檎のように真っ赤に染まり、瞳は熱を帯びて潤んでいた。景明は満足げにその美しい顔を見つめ、彼女の乱れた髪をそっと指先で梳く。
「……さて。君の素晴らしい覚悟も聞けたことだし、ここからが本題だ」
景明はどこからともなく色鮮やかな冊子や紙の束を取り出し、テーブルの上に広げた。
「え……これは?」
鈴が目を瞬かせるとそこにあったのは大日本帝国・旧都観光名所案内や複雑な路線が描かれた豪華寝台列車・路線図、そして高級旅館の案内状の数々だった。
「先ほども言っただろう?私たちは“新婚旅行”に行くのだ。ならば最高の計画を立てなければならない」
景明は軍の作戦会議の時よりも遥かに真剣な、そして輝くような瞳で鈴を見た。あの恐ろしい鬼少佐がまるで遠足の計画を立てる少年のように目を輝かせているのだ。
「旧都の掃討任務は夜の間に私一人で片付ける。だが昼間は完全に君と私の時間だ。君には旧都の素晴らしい景色、美味しい食事、そして最高の温泉を堪能してもらう」
「まあ……っ!」
鈴はテーブルの上に広げられた美しいパンフレットの数々に顔を輝かせた。
古の都、色づく山々、見たこともないような豪華な列車、胸の奥から期待が泉のように湧き上がってくる。
「まずは移動手段だ。帝都ターミナル駅から旧都まで特別急行列車の一等寝台車を一部屋、完全に貸し切りで手配した。誰の目も気にすることなく、移りゆく秋の車窓を眺めながら二人きりの甘い密室を楽しむことができる」
景明が指差した列車のパンフレットにはビロード張りの豪華な長椅子やマホガニー材で設えられた気品ある個室の写真が載っていた。
「豪華な寝台列車……!私、列車に乗るのも初めて!窓からほどんな景色が見えるのかしら!」
「それは乗ってからのお楽しみだな!……だが、私にとっては外の景色よりも君の横顔の方が一万倍美しいがな」
「も、もうっ、景明様……真面目に計画を立ててください!」
照れ隠しに鈴が優しく彼の肩を叩くと景明は嬉しそうに目を細めた。
「それから旧都での宿だ。嵐山の麓にある皇族も御用達だという最高級の温泉旅館の離れを予約しようと思う。客室には専用の露天風呂がついていて見事な紅葉を眺めながら湯に浸かることができるらしい。……もちろん君の背中は私が流してやろう」
「ひゃっ……!そ、それは自分でするから大丈夫ですっ!」
鈴が顔から火が出そうなほど赤くなって抗議するが景明は全く聞く耳を持たない。
「さらに観光ルートだ。君は甘いものが好きだろ?旧都で歴史があるという老舗の甘味処で極上の抹茶と栗金団、そして白玉ぜんざいを提供する店を見繕っておいた。清水の舞台から見下ろす紅葉の絶景を堪能した後、そこでゆっくりとお茶にしよう」
「栗金団に白玉ぜんざい……っ!」
鈴の頭の中に艶やかな栗の黄色ととろけるような餡子の甘い匂いがふわりと広がり、思わず喉が鳴る。
「ふふっ、本当に楽しみです!ねえ、景明様。この渡月橋という場所もすごく綺麗……。あっ、ここのお寺の庭園も素敵ですね!」
「ああ。君が行きたい場所があればどこへでも連れて行こう。赫夜の掃討など私にかかればほんの数時間で終わる。残りの時間は全て君の笑顔を見るために使うと誓おう」
二人は肩を寄せ合い、美しい旅行地図に顔を近づけて、あちこちを指差しながら語り合った。
景明の指先が鈴の指に触れ、その度に微かな熱が伝わってくる。地図のインクの匂い、紙が擦れる音、そして景明の深く心地よい声。
これから向かう先には血で血を洗うような恐ろしい敵の拠点が待ち構えているというのに屋敷の居間にはそんな不穏な影など微塵も感じさせない、ただひたすらに甘く、幸福でワクワクするような新婚夫婦の時間がゆったりと流れていた。
数日後の午後。屋敷の広々とした玄関ホールに鈴の戸惑う声が響き渡っていた。
「あの、本当に宛先はお間違えではないですか……?私、このような大きなお買い物はしておりませんけれど」
鈴の目の前には帝都一の格式を誇る高級百貨店の紋章が入った真新しい純白の化粧箱がまるで小さな山のようにうず高く積み上げられていた。
届けに来た百貨店の外商員は揉み手をして満面の笑みを浮かべている。
「滅相もございません!確かに『西園寺景明様より奥様へ』とのご指定で当店が総力を挙げてご用意させていただいた最高級の品々でございます」
「旦那様が……?」
目を瞬かせる鈴。そんな彼女の背後から不意に規則正しい足音が近づいてきた。
「どうやら出発前に無事に届いたようだな」
「か……景明様!」
振り返るとそこには帰還したばかりの景明の姿があった。軍服に身を包んだ彼は冷たい秋の風の匂いと、深く静かな白檀の香りを漂わせながら歩み寄り、当然のように鈴の華奢な腰を抱き寄せた。
「お帰りなさい。あの、このお荷物は一体……?」
「数日後に私たちは旧都へ旅行に行くのだろう?着物では少々、不便だと思ってな。洋装を見繕ってここに届けるよう百貨店の支配人に命じておいたんだ」
景明は外商員を下がらせると自らの手で一番大きな化粧箱の純白のリボンを解き、薄紙が上品な音を立てて開かれる。
「わあ……っ!」
箱の中に収められていたのはハッとするほど美しいワインレッドの外套だった。秋の紅葉にも負けない深く鮮やかな赤色。その下には滑らかな絹のブラウスや上品なプリーツが施されたウールのスカート、そしてそれに合わせた真っ白なカシミヤの帽子と手袋までもが完璧な揃いとして用意されていた。
「すごい……!縫い目の一つ一つが芸術品みたい!」
裁縫が十八番である鈴は真っ先に生地の手触りや裏地の縫製の素晴らしさに気付き、うっとりと指を滑らせると同時に素晴らしいサプライズがむず痒くもたまらなく嬉しかった。
「ありがとうございます、景明様。私、お洋服をもらったのは初めてです。全部、宝物にします!」
花が咲くような鈴の極上の笑顔を見下ろし、景明は心底眩しそうに目を細めた。
屋敷の玄関ホール。使用人たちは気を利かせてすでに姿を消しており、今は完全に二人きりの空間だ。
景明は鈴の腰に回していた腕にさらに力を込め、彼女の体を軽々と持ち上げるようにして自分の胸に密着させた。
「ひゃっ……景明様?」
「私にとって君を美しく飾ること以上に価値のある金の使い道はない。それに……」
景明は驚いて顔を赤くする鈴の耳元に唇を寄せ、低く熱を帯びた声で囁いた。
「誰の目もない豪華列車の密室でこの新しい服に着替えた君と二人きりになるのが今から楽しみで仕方がないのだ。……その一つ一つのボタンを外していく過程を想像するだけで早く出発の日にならないかと気が狂いそうになる」
「な、何を破廉恥なことを……っ!」
「ははっ。冗談だと言いたいところだが生憎と本気だ」
限界突破の甘やかしと隠しきれない独占欲。
真っ赤になって抗議する鈴の小さな唇を景明は愛おしそうに塞ぎ、深く長い口付けを落とした。
甘く、幸せな旅行の準備が進む西園寺別邸の午後。しかし、その光り輝く時間の裏側で帝都の闇は確実に蠢き始めていた。
同時刻。帝都・帝国陸軍司令部。
「……痛い。胃が痛い。隊長が超速退勤して旅行の準備に浮かれているせいで残された私の業務量が普段の三倍に跳ね上がっている……」
執務室の机に積み上げられた書類の山を前に氷室は青白い顔でうめき声を上げた。
彼は引き出しから白い紙に包まれた粉薬を取り出す。紙を開き、苦味の強い粉末を口の中に放り込むと水で一気に流し込んだ。
「ぐっ……苦い……。だが、これで少しはマシになるはずだ」
氷室が深いため息をつきながらペンを握り直した頃、彼が不在の会議室や重苦しい灰色のコンクリートの廊下の奥深く、軍上層部の者たちが密かに集う薄暗い部屋ではどす黒く腐臭を放つような密談が交わされていた。
「……西園寺の小僧め。まさかあの小鳥遊の娘まで連れて旧都へ向かうとはな」
「好都合ではないか。厄介な“鬼少佐”を帝都から遠ざけることができたのだ。赫夜の拠点は相当な規模らしい。あの化け物がいかに強大であろうと女連れで無事に帰還できる保証はない」
肩に星を乗せた将校たちが葉巻の煙を燻らせながら低く嗤う。
「あいつさえ消えれば我々が異能部隊の全権を掌握し、予算を好きに動かせる。万が一生き残ったとしても赫夜との戦闘で多大な被害を出した責任を問えば失脚させるのは容易い」
「いっそ旧都で赫夜と共倒れになってくれれば御の字というものだ」
新婚旅行というカモフラージュの裏に隠された軍内部の醜い裏切りと陰謀。
帝都の平和を守るべき者たちが自らの利益のために最強の盾を死地へと追いやってほくそ笑んでいた。
その夜。帝都から遥か西。千年の歴史を誇る旧都。
美しい月明かりに照らされた嵐山の奥深く。
色づき始めた紅葉の木々に隠されるようにしてひっそりと建つ古びた洋館。かつて外国人の別荘として建てられ、今は見捨てられたその洋館の広間には異様な妖気と血の錆びたような腐臭が充満していた。
ステンドグラスから差し込む冷たい月光の下、どす黒い靄のような影が幾つも蠢いている。
「……聞いたか。天牛の奴が富士湖で無様に散ったらしいぞ」
赫夜の幹部たちの地の底から響くような不気味な声が交錯する。
「愚かだな。あの小娘と鬼少佐の結婚を阻止すると息巻いて出向いた挙句、返り討ちに遭うとはな」
「天牛は組織の中でも武闘派だった。それを失った痛手は小さくないぞ」
影たちは苛立ちを隠せない様子で歯軋りのような音を立てた。
「だが、我々が真に手に入れるべきはあの小鳥遊鈴という娘が持つ修復の力だ」
「左様。以前からの計画通り、あの娘の精神を徹底的に破壊し、永遠に我らのために針を動かすだけの美しい人形へと作り変える。……どんなものでも元の形に縫い直す奇跡の異能。あの力さえあれば、我らは無敵となる」
目的は一致している。しかし影たちの間に重苦しい沈黙が落ちた。
「問題はどうやって帝都からあの小娘を引きずり出すかだ」
「西園寺景明の奴は今や片時も小娘の傍を離れようとせんらしい。あの帝都最強の異能者の防壁を破り、娘を引き剥がすなど……至難の業だぞ」
どうやってあの過保護な鬼少佐の腕から獲物を奪い取るか。幹部たちが打開策を見出せず低く唸り声を上げていた、その時だった。
静まり返った広間に硬いヒールの足音が響き渡った。闇の中から濃密で甘ったるい香水の匂いと共に豪奢な着物に西洋の毛皮を羽織った妖艶なシルエットが姿を現す。
赫夜幹部の一人、絡新婦だ。
「……フフフッ。殿方たちは随分と頭が固いようじゃのう」
真紅の口紅を引いた唇を三日月のように歪め、彼女は気怠げにキセルをふかした。紫色の煙が月明かりの中でゆらゆらと蛇のように舞い上がる。
「絡新婦……何か策があるというのか?」
「力押しで奪えないのなら自ら罠に飛び込ませればよいだけのこと。……わらわに策がある。極上の甘い毒であの鬼少佐から小娘を引き剥がしてやろうぞ。……しばし待たれよ」
絡新婦の禍々しくも艶やかな笑い声が古びた洋館の闇の中に響き渡る。
新しい外套を抱きしめて幸せそうに微笑む鈴とそれを愛おしそうに見つめる景明。
帝都の司令部で胃を痛めながら戦う氷室。
裏切りを企む軍上層部と旧都の暗闇で「修復の娘」を狙う怪魔たち。
それぞれの運命を乗せた歯車が音を立てて回り始めた。




