第43話
帝都の中心部に広大な鎮守の森を構え、千年の長きにわたってこの国と人々を見守り続けてきた由緒正しき大神社。
どこまでも高く、澄み切った群青色の空が広がっていた。帝都の空を覆っていた分厚い暗雲はすっかり姿を消し、まるでこの日を祝福するかのように柔らかな秋の陽光が地上へと惜しみなく降り注いでいる。季節は残暑を抜け、ようやく本格的な秋の気配を纏い始めていた。頬を撫でる風に、微かに冷たい空気が混じり、肺の奥まで深く吸い込めば樹齢数百年の巨大な御神木が放つ清々しい青葉の香りと湿った土の匂いが胸いっぱいに広がっていく。
木漏れ日が幾筋もの黄金色の光の帯となって薄暗い森の中に差し込み、苔生した石灯籠を美しく照らし出していた。心地よい葉擦れの音が波のように押し寄せては引き、小鳥たちが枝から枝へと飛び移りながら、朗らかなさえずりを朝の空気に溶け込ませている。遠くからは手水舎の竹の筧を伝って、清らかな水が石の鉢へと零れ落ちる澄んだ音が微かに響いていた。
この日、大神社は一般の参拝客の立ち入りを固く禁じ、完全なる貸切状態となっていた。
周囲には目立たないように配置された軍の精鋭たちが厳重な警備を敷いており、風の音一つすら逃さないほどの張り詰めた空気が漂っている。それも当然のことだ。今日は帝国陸軍の若き英雄であり帝都最強の異能者たる西園寺景明と彼が己の命に代えても守り抜くと誓った愛する少女、小鳥遊鈴の婚礼の日なのだから。
そんな厳粛な空気に包まれた大神社の一角。その最も奥に位置する広大な控室棟の中は夜明け前から静かで熱を帯びた活気に満ちていた。
花嫁専用に用意された広い和室は、障子越しに差し込む柔らかな朝の光に満たされている。張り替えられたばかりの青々とした井草の匂いが神社特有の古い木材と清らかなお香の香りに混じり合い、そこにいるだけで心が洗われるような神聖な空間を作り出していた。
部屋の上座には今日のために特別に運び込まれた見事な金屏風が立てられ、隅には紅白の梅と松をあしらった豪奢な生け花が飾られている。
その部屋の中央に置かれた鏡台の前に鈴が静かに座っていた。
彼女は今、何重にも重なる真っ白な襦袢を身に纏い、目を閉じてじっと顔を上げている。彼女の背後や周囲では神社が手配した熟練の髪結いや化粧師たちが音もなく、無駄のない正確な動きで立ち働いていた。
「少し、冷たくなりますよ」
年嵩の化粧師が優しく声をかけ、水を含ませた刷毛で鈴の首筋から顔にかけて冷たい白粉を引いていく。
その冷たい感触に鈴の華奢な肩がわずかに揺れた。刷毛が滑るたびに甘く粉っぽい白粉の匂いが鼻腔をくすぐる。鈴の本来の血色の良い肌が陶器のように滑らかで一点の曇りもない純白へと染め上げられていく。
(……なんだか、本当に夢みたい)
目を閉じながら鈴はそっと心の中でつぶやいた。
絹の布地が擦れ合う優雅な衣擦れの音。周囲の人間たちが立てる微かな足音すらも今の鈴にはひどく現実離れして感じられた。
(西園寺様……)
その名を心の中で呼ぶだけで胸の奥がじんわりと温かくなり、泣きたくなるほどの幸福感が込み上げてくる。
「鈴様、紅を差しますね」
化粧師の声にハッとして鈴はゆっくりと目を開けた。鏡の中に映っているのは見慣れた自分自身の顔でありながら、どこか見知らぬ大人の女性のように艶やかな姿だった。
真っ白な肌に切れ長に引かれた紅の目尻。そして今、彼女の少し震えるぽってりとした唇に鮮やかな赤い紅が筆でそっと乗せられていく。艶やかな深紅に染まった唇はまるで雪景色の中に一輪の寒椿が咲いたような、はっとするほどの美しさを鏡の中に完成させていた。
(若菜さんやばあやさんは今頃どうしているんだろう……)
鈴はふと、西園寺家の別邸に残してきた大切な専属女中と老女中の顔を思い浮かべ、小さく微笑んだ。
儀式である神前式はこの大神社で行われるがその後の盛大な披露宴は二人のホームである西園寺別邸で行われることになっている。そのため、若菜とトメは朝から別邸に残り、帝都中から招かれた要人たちを迎えるための準備やお色直しの手配で目の回るような忙しさの中にいるはずだ。
「鈴様、私、別邸の準備を完璧に整えてお待ちしておりますから!絶対、絶対に世界一綺麗なお姿で帰ってきてくださいね!」
今朝、別邸を出発する前に涙ぐみながら両手を握ってくれた若菜の声を思い出し、鈴は胸が温かくなるのを感じた。
「さあ、お支度を急ぎましょう。お着付けに入ります」
着付け師の声で部屋の空気が再び引き締まった。
用意されていたのは西園寺家がこの日のために特別に誂えた純白の白無垢である。目も眩むような真っ白な絹地に光の加減で浮かび上がるのは縁起の良い鶴と松竹梅の見事な地紋だ。指先でそっと生地に触れると絹特有の滑らかさとしっかりとした織りの重厚感が伝わってくる。
(こんなに重厚で美しい白無垢……)
絹の重みが着付け師たちの手によって鈴の両肩に乗せられる。それは単なる布の重さではない。西園寺家という名門の重みであり、帝都最強の異能者の妻となるという覚悟の重みでもあった。
帯が幾重にも締め上げられていく。息が詰まるほどの締め付けだが不思議と苦しくはなかった。むしろ、その確かな圧迫感がこれから待ち受ける神聖な儀式への緊張感を高め、鈴の背筋を伸ばしてくれるようだった。
打掛が羽織られ、最後に胸元に懐剣と筥迫がそっと納められる。
鏡の前に立ち上がった鈴の姿はまさしく純真無垢な花嫁そのものだった。一点の曇りもない純白の装束が鈴の凛とした美しさを引き立て、和室の空気を浄化するような神々しさすら放っていた。
「見事です……」
着付け師たちが思わずといった様子で感嘆の溜め息を漏らしたその時だった。
控えめな、けれど確かな足音が廊下に響き、襖の向こう側で止まった。
「鈴。……入ってもよろしいかしら?」
その声を聞いた瞬間、鈴の肩が震えた。聞き間違えるはずのない、世界で一番優しくて、大好きな声。
「お母様……!」
鈴の声が微かに裏返る。
静かに襖が開けられ、そこへ入ってきたのは黒留袖を上品に着こなした鈴の母親だった。そしてその隣には豪奢な黒留袖を威風堂々と纏い、背筋を真っ直ぐに伸ばしたタキが立っていた。
「お母様……大奥様……」
鈴は思わず駆け寄りそうになったが重たい白無垢の裾と着付け師たちの手前、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
部屋に入ってきた二人は金屏風の前に立つ純白の鈴の姿を見た瞬間、まるで雷に打たれたように足を止めた。
「ああ……鈴……」
母親の口から掠れた声が漏れる。彼女の目は瞬く間に大粒の涙で溢れ、両手で口元を覆って言葉にならない嗚咽を漏らした。
最愛の娘が今、こんなにも美しく、愛に満たされた花嫁姿で立っている。その事実が母親の心を激しく揺さぶっていた。
「お母様……泣かないでください。せっかくのお化粧が崩れてしまうわ……」
鈴自身も視界が熱い涙で滲むのを感じながら震える声でそう言った。母親にこうして晴れ姿を見せることができる。その奇跡に胸がいっぱいで張り裂けそうだった。
母親は鈴に歩み寄るとその華奢な肩を震える両手でそっと包み込んだ。
「綺麗よ、鈴。本当に……世界で一番、綺麗な花嫁さんだわ」
母の手の温もりが何重にも重なる冷たい絹の着物越しに鈴の心へ伝わってくる。ほんのりと香る母の昔から変わらない懐かしく優しい匂い。それに包まれると鈴はまるで幼い子供に戻ったように声を上げて泣き出してしまいそうだった。
「今まで本当に……よく頑張ったわね。これからはあの素晴らしい殿方と一緒にうんと幸せになるのよ」
「……はい、お母様。私、絶対に幸せになります」
鈴は涙をこらえ、紅を引いた唇を噛み締めながら大きくしっかりと頷いた。
その親子の情愛に満ちたやり取りをタキは少し離れた場所から目を細めて静かに見守っていた。
タキが静かに鈴の前へと歩み出た。凛とした空気を持つタキが近づくと部屋の空気が引き締まる。鈴は背筋をさらに伸ばし、深く頭を下げた。
「大奥様。本日はこのような素晴らしいお召し物をご用意いただき、本当にありがとうございます」
「顔を上げなさい、鈴さん」
タキの声はいつもの厳格な響きを潜め、驚くほど優しく、温かな響きを持っていた。
鈴が顔を上げるとタキの厳しい目元が和らいでいるのが見えた。タキは皺の刻まれた手で鈴の白無垢の袖をそっと撫でた。
「ええ、とてもよく似合っています。小鳥遊の奥様がおっしゃる通り、世界で一番美しい花嫁ですよ」
「大奥様……もったいないお言葉です」
「いいえ、事実です。……景明さんは本当に素晴らしい伴侶を見つけましたね。あの子があなたを愛し、あなたが彼を愛してくれたこと。これ以上の喜びはありません」
タキの言葉には深い深い愛情が込められていた。
「あなたには、厳しいこともたくさん言いました。けれど、あなたは逃げずに立派に応えてくれた。今日からあなたは正式に西園寺家の人間となります。私たちの愛しい孫娘です」
「っ……はい……!」
鈴の目からついに堪えきれなくなった涙が一粒、陶器のような頬を伝って落ちた。化粧師が慌てて絹のちり紙を差し出し、涙を拭い取る。
「泣いては駄目ですよ、鈴さん。今日はあなたにとって最高に晴れやかな日なのですから。……それにお楽しみはこれからです」
タキは悪戯っぽく微笑み、鈴の耳元でそっと囁いた。
「この白無垢での神前式が終われば披露宴が待っています。そこでは西園寺家が総力を挙げて仕立てた極上の黒引き振袖、そして西洋のドレスも用意してあります。当代随一の職人たちに無理を言って作らせた、とびきりの品ですよ。存分に楽しみにしなさい」
その言葉に裁縫を愛する鈴の胸が大きく高鳴った。“西園寺家が総力を挙げて仕立てた極上”。それがどれほど凄まじい代物であるか、想像するだけで指先が震えそうだった。
「はい……!大奥様、大旦那様のお心遣い、一生忘れません」
「さあ、お時間です。綿帽子を」
着付け師の静かな声がかかり、いよいよ出発の時が告げられた。
鈴の頭の上に純白の綿帽子が被せられた。視界が白い布で覆われ、世界が一段と静かになる。綿帽子の中に広がるのは甘い白粉の匂いと自分自身のわずかに早い呼吸の音だけ。
この綿帽子を次に取るのは神前で誓いを立てた後。愛する彼の前でだけだ。
(西園寺様……)
いよいよだ。
これからあの厳格で、不器用で、誰よりも優しい彼の元へ行く。彼と並んで歩き、神様の前で永遠の愛を誓い合うのだ。
「ご準備が整いました。参進の儀へ向かいます」
鈴は深く息を吸い込み、ゆっくりと立ち上がった。重い白無垢の裾を引きながら愛する母とタキに見守られ、鈴は控室の扉へと向かう。
廊下に出ると神社の澄み切った秋の風が通り抜け、森の木々の香りが全身を包み込んだ。
前を向き、一歩を踏み出す。白足袋が畳を擦る音が静かな空間に響いた。
◇
その頃。大神社の一角に設けられた新郎ならびに親族が待機するための広々とした和室の控室には、まるで極寒の雪山の中腹にでも放り出されたかのような重苦しく冷え切った沈黙が満ちていた。
「…………」
部屋の上座に彫像のように微動だにせず座す一人の男がいた。
本日の主役たる新郎、景明である。
普段、軍の執務室や凄惨な戦場で見せる、あの隙のない漆黒の軍服姿ではない。今日、彼が身に纏っているのは日本の伝統的な最高礼装である五つ紋の黒紋付羽織袴だった。
最高級の羽二重で仕立てられた漆黒の生地は鈍く、深く、光を吸い込むような独特の艶を放っている。袴は極上の仙台平であり、彼がわずかに呼吸をするたびに鋭くも品格のある絹の擦れる音が静寂の部屋に響き渡る。
軍人としての過酷な鍛錬によって引き締められた無駄のない体躯。その鍛え上げられた身体に和装の礼装は恐ろしいほどに似合っていた。ただそこに座っているだけで周囲の空気を圧するような覇王の風格と有無を言わせぬ威圧感。そして何より彼特有の冷気を孕んだ鋭利な美貌が黒一色の装束によって一層引き立てられ、息を呑むほどの男の艶を放っている。
だが、その顔つきはいつにも増して厳格であった。
眉間には刀で刻んだような深い皺が寄り、氷のように冷たく鋭い双眸は一点の虚空を射抜いたまま瞬きすらしない。薄い唇は一文字に固く結ばれ、その全身から立ち上る凄まじいまでの緊張感はまるでこれから単騎で敵の大軍へと突撃する修羅のようだった。
もしもここが血と硝煙に塗れた戦場であり、天牛のような恐ろしい化け物との死闘の直前であるならば、この張り詰めた空気も理解できるだろう。
だが、ここは神聖な神社の控室である。
「……少佐」
部屋の隅でその凄まじい冷気と威圧感の直撃を真正面から受け続けていた氷室がたまらず声をかけた。
彼は丸眼鏡を中指で押し上げると痛み始めた胃の辺りをそっと軍服の上から押さえながら深々と息を吐き出した。
「少佐。いくらなんでも、顔が怖すぎます。先ほどお茶を運んできた若い巫女が少佐の顔を見た瞬間に悲鳴を上げそうになって盆を取り落としかけていたのをご存じですか。今日は危険な討伐任務ではありません。あなたの人生で最も幸福な結婚式なのですよ」
氷室の呆れたような声に景明は眉を動かしたがその厳格な表情は全く崩さなかった。
「……わかっている。だが、氷室。私の身なりは本当におかしくないか。羽織の紐の結び目は歪んでいないか?袴の折り目は正確か?先ほどお茶を飲んだ時、微小な水滴が飛んで生地に染みになっていないか?」
「一時間前から、もうこれで十回目の確認です。完璧です。どこからどう見ても非の打ち所のない立派な花婿姿です。ですから、どうかその殺気立つような冷気を収めてください。控室の空気が物理的に冷え切って床の間の掛け軸に霜が降りかけています」
氷室が指摘した通り、景明の極度の緊張から無意識に漏れ出た異能の冷気によって部屋の温度は真冬のように下がり切っていた。景明はハッとして慌てて己の異能の制御を強め、部屋の温度を常温へと戻す。
「……すまない。だが、無理もないだろう」
景明は膝の上に置いた大きな両手を袴の生地が皺にならない程度に握りしめた。
「私があの鈴と永遠の愛を誓うのだ。神の御前で彼女を生涯の伴侶として迎え入れる……。夢ではないかと何度も自分の頬をつねりたくなる衝動を抑えるのに必死なのだ。もしこれがまた何者かが見せている悪夢の類だとしたら私は今度こそ狂ってしまうかもしれない」
その言葉には“鬼少佐”と恐れられる彼からは想像もつかないほどの切実でどこか脆さを孕んだ響きが含まれていた。
氷室は眼鏡の奥の目を細めた。
「……悪夢などではありませんよ、少佐」
氷室はいつになく優しい声で言った。
「これは現実です。あなたが命を懸けて守り抜いた正真正銘の現実です。小鳥遊嬢はあなたを深く愛しています。そして今日、あなたの妻となる。堂々と胸を張って彼女を迎え入れてあげてください」
氷室の言葉に、景明の固く結ばれた唇がわずかに緩んだ。
「……ああ。そうだな。……氷室、お前には苦労をかけた。私の副官としてだけでなく私と鈴の仲を取り持つために多大な迷惑をかけたことは自覚している。感謝している」
「……本当に自覚しているなら、どうか私の胃痛をこれ以上増やさないでいただきたいものですがね」
氷室は苦笑しながら懐から胃薬の包みを取り出し、飲み込んだ。苦い味が口いっぱいに広がるが今の氷室にとってはこれが一番の精神安定剤だった。
「ご新郎様。お時間でございます。参進の儀へご案内いたします」
襖の向こうから神職の静かな声が響いた。
景明はゆっくりと立ち上がった。その動きには一切の迷いも淀みもない。覚悟を決めた男の力強く、そして気高い立ち姿だった。
神職に案内され、景明と氷室は控室を出て、神社の境内へと通じる回廊へと歩みを進めた。
外の空気は冷たく、秋晴れの高い空から降り注ぐ陽光が境内の玉砂利を白く輝かせている。
「……来るぞ」
景明が低く震える声で呟いた。
回廊の先、御神木の間を縫うようにして続く長い参道。その向こうから雅楽の静かで厳かな調べが風に乗って流れてきた。笙の天から降り注ぐような高い音色と、篳篥の地を這うような深い音色が重なり合い、神の領域にふさわしい清浄な音楽を奏でている。
そして、その雅楽の調べと共にゆっくりと、ゆっくりと花嫁行列が進んできた。
先頭を歩く朱色の袴を穿いた巫女たち。その後ろに朱塗りの大きな和傘を差しかけられた、鈴の姿があった。
その姿を見た瞬間、景明の心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく跳ねた。
純白。まさにその一言に尽きた。
目も眩むような真っ白な白無垢。西園寺家の財力と権力を結集し、当代一の職人たちが魂を込めて織り上げた最高級の絹地は秋の陽光を浴びて、まるで彼女自身が発光しているかのように神々しく輝いていた。
布地に織り込まれた鶴と松竹梅の地紋が彼女が静かに一歩を踏み出すたびに微かな衣擦れの音を立てて波打つ。頭を覆う純白の綿帽子は彼女の小さな顔をすっぽりと隠しているが、うつむき加減のその輪郭からだけでも彼女がどれほど美しく化粧を施されているかが痛いほどに伝わってきた。
透き通るような白い肌に一筋の紅。
伏せられた長い睫毛が落とす影すらもが芸術品のように美しい。
景明はただ一点、ゆっくりと近づいてくる鈴の姿だけを見つめていた。やがて、花嫁行列が景明の前で静かに止まる。
綿帽子の下から鈴がそっと顔を上げた。視線が絡み合う。
鈴の瞳が景明の黒紋付姿を捉えた瞬間、彼女の美しい紅を引いた唇が微かに「あ……」と開いた。
(西園寺様……)
鈴もまた景明の姿に心を奪われていた。
いつも見慣れていた軍服姿の彼も恐ろしいほどに格好良かった。だが、この日本の伝統的な最高礼装に身を包んだ彼はそれとは全く違う、底知れぬ魅力と色気を放っていた。
広い肩幅に深く鈍い光を放つ漆黒の羽織。凛々しく、力強い立ち姿。そして何より、自分を見つめるその瞳の、どれほど深く、甘く、熱いことか。
(なんて素敵なの……。この方が私の旦那様になるだなんて)
鈴の胸の奥が締め付けられるように甘く痛んだ。白粉の下で頬が熱くなるのがわかる。彼に見つめられているというだけで手足の先からじんわりと体温が上がり、白無垢の重さすら忘れてしまいそうだった。
「……鈴」
景明は掠れた、けれどひどく甘い声で彼女の名を呼んだ。
彼はゆっくりと右手を差し出す。
無骨で大きく、いくつもの傷が刻まれたその手。戦場で何十人もの命を奪い、そして何百人もの命を救ってきたその手が今はただ、一人の少女を愛し、守り抜くためだけに差し出されている。
鈴は震える自分の小さな右手をゆっくりと彼の手の上に重ねた。
触れ合った瞬間、静電気のような心地よい熱が二人の間を駆け抜けた。景明の体温は氷の異能者とは思えないほどに熱く、力強かった。その手が鈴の手をそっと包み込むとそれだけで、これまでの全ての苦労や悲しみが秋の空の彼方へと消え去っていくようだった。
「行こう。私たちの未来へ」
「……はい」
二人は手を重ねたまま、神職に導かれて拝殿へと歩みを進めた。
氷室は胃薬の効き目を祈りながら這うようにしてその後ろへと続いた。
拝殿の中は外の明るさとは打って変わり、幾つもの燭台の炎が揺らめく幽玄で神秘的な空間だった。
正面の祭壇には山の海の幸が豊富に供えられ、神聖な御幣が静かに立てられている。張り詰めた空気の中、神職による祝詞の奏上が始まった。
低く、地を這うような神職の祝詞が静かな拝殿に朗々と響き渡る。
鈴は景明と並んで正座し、目を閉じてその声に耳を傾けていた。膝の上で重ねられた彼女の手に景明の手がそっと添えられている。誰の目にも触れない袖の下で彼はずっと鈴の手を力強く握りしめていてくれた。
やがて三三九度の盃の儀が始まった。
巫女が朱塗りの美しい盃を静かに運び、そこに冷たいお神酒を注ぐ。澄んだ水の音が異常なほど耳に鋭く響いた。
まずは景明から。彼は盃を両手で丁寧に持ち上げ、三度でそのお神酒を飲み干した。
次いで鈴の番となった。
巫女から盃を受け取る鈴の手は緊張で微かに震えていた。盃を口元へ運ぶとひんやりとしたお神酒の冷たさが唇に触れ、独特の酒の香りが鼻腔をくすぐる。
鈴は息を詰め、そっと口をつけた。
冷たい液体が喉の奥を滑り落ちていく。それは神仏の力を体内に取り込み、二人の魂を強固に結びつけるための神聖な儀式。この冷たい一滴一滴が景明との繋がりを永遠のものにしていくのだと実感し、鈴の胸は熱い感動で満たされた。
三度、盃を交わし合う。
その間、景明の視線はずっと、一瞬たりとも鈴から離れることはなかった。綿帽子の奥で揺れる彼の眼差しは火傷しそうなほどの熱を帯びており、鈴は恥ずかしさのあまり俯きそうになるのを必死に堪えていた。
儀式のクライマックス。誓詞奏上の時が来た。
景明が静かに立ち上がり、祭壇の前に進み出た。彼はあらかじめ用意された誓詞の巻物を広げると深く息を吸い込んだ。
そして静寂に包まれた拝殿に彼の低く、よく通る声が響き渡った。
「今日の吉き日、大神の御前にて私たちは夫婦の契りを結びます……」
その声は軍の部下たちに命令を下す時の冷徹な鬼少佐の声ではなかった。
ただ一人の女を愛し、命を懸けて守り抜くと誓う一人の男としての誠実で深く温かい声だった。
嘘つきな書生として出会ったあの日。
不器用さ故にすれ違った日もあった。
それでも互いを想う気持ちだけは決して嘘ではなかった。
「……幾久しく、苦楽を共にし、生涯変わることなく、愛し、敬い、互いを助け合うことをここに固く誓います」
景明の言葉が言霊となって鈴の心に真っ直ぐに突き刺さる。その瞬間、鈴の目から大粒の涙が零れ落ちた。
嬉しい。幸せだ。この世界に生まれてきて彼と出会うことができて本当に良かった。
涙は頬の白粉を濡らし、紅を引いた唇へと伝わっていく。鈴は泣き顔を見られまいと必死に俯いて涙をこらえた。
すると誓詞を読み終えた景明が振り返り、鈴の元へと歩み寄ってきた。彼は誰もが見ている前で躊躇うことなく手を伸ばし、自らの大きな親指で鈴の頬を伝う涙をそっと拭い取った。
「……泣かないでくれ、私の美しい花嫁。君の涙を見ると私の胸が張り裂けそうになる」
極めて小さく、鈴にしか聞こえない声での囁き。その甘すぎる言葉と頬に触れる彼の指先の熱さに鈴は今度こそ顔を真っ赤にして小さく頷くことしかできなかった。
「はい……西園寺様……。私、本当に……幸せです」
二人は見つめ合い、そして静かに微笑みを交わした。
秋の涼風が拝殿を通り抜け、御幣が静かに揺れる。
帝都最強の異能者と彼を救った小さな修復の異能者。
神の御前で永遠の愛を誓い合った二人は今、紛れもなく帝都で一番幸せな夫婦であった。
◇
厳かな神前式が終わり、舞台は静寂に包まれた西園寺家別邸へと移された。
普段は景明と鈴、そして限られた使用人たちだけで暮らしているこの別邸も今日ばかりは全く別の顔を見せていた。
披露宴の会場として選ばれたのは邸宅の裏に広がる広大な庭園。帝国陸軍の将官たちや政財界の重鎮など、数百人にも上る招待客を収容するため、西園寺家が誇る見事な和洋折衷の庭園が華やかで開放的なガーデンパーティーの舞台へと変貌を遂げている。
雲一つない、高く澄み切った秋晴れの空。色づき始めた庭園の木々は柔らかな午後の陽光を浴びて黄金色に輝き、吹き抜ける爽やかな風が葉擦れの音を軽やかに鳴らしている。
綺麗に刈り込まれた広大な芝生の上には純白のテーブルクロスが掛けられたいくつもの丸テーブルが配置され、中央の巨大な天幕の下では帝都中から呼び寄せられた一流の料理人たちが腕を振るっていた。
優雅な弦楽四重奏の生演奏が澄んだ秋空へと溶けるように響き渡り、招待客たちの華やいだ笑い声やシャンパングラスが太陽の光を反射して煌めきながら触れ合う澄んだ音が絶え間なく重なり合っていた。
その光の海の中心。一段高くなった白亜のガゼボに設けられたメインテーブルで鈴は息を呑むような美しさを放ちながら静かに座っていた。
神前式での純真無垢な白無垢から一転、今、彼女が身に纏っているのは西園寺家が総力を挙げて仕立てたという伝統的な黒引き振袖であった。
最高級の縮緬で仕立てられた漆黒の生地は、まるで夜空そのものを切り取ってきたかのように深く、しっとりとした艶を帯びている。その漆黒の海に金糸と銀糸、そして鮮やかな絹糸を惜しみなく使って手刺繍されたのは天に向かって羽ばたく百羽の鶴と咲き誇る大輪の牡丹の花々だった。
白無垢が“相手の家の色に染まる”という純真さを示すなら、この黒引き振袖は“他の誰の色にも染まらない”という、西園寺家の妻としての強烈な覚悟と誇りを示すものだ。艶やかな黒の生地が明るい陽光を受けて深く輝き、鈴の透き通るような白い肌をより一層引き立てていた。
隣には同じく黒紋付羽織袴姿の景明が座っている。彼は先ほどから微動だにせず鈴の横顔を見つめ続けていた。
「……西園寺様?あの皆様がこちらを見ていらっしゃいますよ……」
鈴が頬を赤らめて囁く。だが景明の視線は熱を帯びたまま、微塵も動かない。
「見させておけばいい。彼らが見ているのは西園寺家の当主と夫人という幻影に過ぎない。……だが、私の目にはこの世界でただ一人、私の愛する女しか映っていない。この美しい黒の振袖も君自身の輝きの前ではただの飾りに等しいな」
「も、もう……っ、西園寺様ったら、またそんな恥ずかしいことを……」
秋の心地よい風の中で呼吸をするように甘い言葉を紡ぐ夫に鈴は胸の奥が甘く痺れるのを感じていた。彼の低く響く声が耳元を掠めるたび、心臓が跳ね上がり、全身の血が沸き立つような熱情を覚える。
そんな二人を少し離れた席から目を細めて見守っている者たちがいた。
景明の祖父である源五郎と祖母のタキだ。
源五郎上質なフロックコートに身を包み、貫禄のある白い髭を撫でながら手にしたグラスのシャンパンを美味そうに呷った。
「かっかっか!全くだ。あの恐ろしい顔つきで周囲を凍りつかせていた景明があんなにも腑抜けた顔をするようになるとはな。タキよ、お前の孫はとんでもない嫁を貰ったものだ」
「ええ、本当に……」
タキもまた豪華な黒留袖姿で深く頷いた。彼女の厳しい眼差しは今日ばかりは完全に鳴りを潜め、ただ深い愛情と安堵に満ちている。
「あの子は強すぎる力を持ったせいで心を閉ざして生きてきました。けれど鈴さんが……あの小さく華奢な少女があの子の凍てついた心を溶かし、人間としての温かさを教えてくれたのです。私たちがどれだけ愛情を注いでも届かなかった一番深い場所に彼女は寄り添ってくれた。……西園寺家にとって、これ以上の僥倖はありません」
タキの隣では鈴の母親が娘の立派な姿を見てまたしてもハンカチを濡らして泣き崩れており、タキが優しくその背中をさすっていた。
宴もたけなわとなった頃。
「鈴様、お色直しのお時間でございます」
邸内から小走りで駆け寄ってきた若菜が鈴にそっと耳打ちをした。鈴は景明と目を合わせ、静かに頷くと参列者たちの盛大な拍手に見送られながら一旦別邸の中へと戻っていった。
別邸の奥に用意された控室に戻った鈴を待っていたのは本日最大の“お楽しみ”であった。
「鈴様!いよいよこちらのドレスのお出ましですよ!」
若菜が興奮冷めやらぬ様子で部屋の中央に飾られたトルソーを指差した。
そこにあったのは純白の総レースで仕立てられた西洋のウェディングドレスであった。
「……っ!」
鈴は思わず両手で口元を覆い、感嘆の声を漏らした。
それはまさに芸術品と呼ぶにふさわしい代物だった。コルセットで極限まで細く絞られたウエストから、幾重にも重なるチュールとシルクのペチコートによって、ふわりと大きく広がるベルラインのスカート。
そして何より鈴の目を釘付けにしたのはドレス全体を覆い尽くすレースの緻密さだった。
近づいて生地に触れてみると極細の絹糸が擦れる微かな音。
裁縫を愛し、針と糸に命を吹き込む異能を持つ鈴だからこそ、このドレスが放つ圧倒的な美への執念に震えた。間違いなく、西園寺家の財力と権力を使い、世界中の最高の素材と職人を集めて作らせた特注品だ。
「さあ鈴様、早くお着替えを!旦那様の腰を今度こそ抜かさせてやりましょう!」
若菜とトメ、そして数人の着付け師たちの手によって重たい黒引き振袖が手早く脱がされ、コルセットの紐が締め上げられていく。息が詰まるほどの締め付けだが不思議と苦痛はない。むしろ背筋が伸び、怒涛の一日を駆け抜けて新しい自分へと生まれ変わっていくような高揚感が鈴を包み込んでいた。
最後に透けるような純白のベールが髪に固定され、長い裾が床に広げられる。
同じ頃、景明もまた別の控室で衣装を替えていた。
彼が纏ったのは帝国陸軍における最高位の礼装、大礼服である。
限りなく黒に近い最高級の羅紗で仕立てられた軍服。その肩には黄金の糸で編み込まれた豪奢な肩章が輝き、胸元には彼がこれまでの数々の死線を潜り抜け、国を救ってきた証である幾つもの勲章が誇り高く輝いている。
軍人としての鍛え上げられた肉体を持つ景明にこの大礼服は恐ろしいほどに似合っていた。その威風堂々たる立ち姿は戦場を支配する覇王そのものだ。
「旦那様。奥様のご準備が整いました」
「……ああ」
景明は白い手袋を嵌めた手で正装用の帽子を小脇に抱え、廊下へと出た。そこで控室から出てきた鈴と視線が交差する。
「…………っ」
景明の呼吸が完全に止まった。
純白のレースに包まれた鈴。ベールの下で少し恥ずかしそうに頬を染め、こちらを見上げる瞳。
露出した華奢な首筋やレース越しに透けて見える真っ白な腕。細く絞られた腰のライン。そのすべてが景明の理性という名の脆い防壁を木端微塵に粉砕した。
「……西園寺様?あの、おかしい、ですか……?」
鈴が不安そうに上目遣いで尋ねる。
景明は己の額に手を当てて深く天を仰いだ。
「……おかしい?ああ、おかしいとも。私の頭がおかしくなりそうだ。君が可愛すぎて、今すぐこの場で君を抱え上げて、誰の目にも触れない寝室の奥深くに閉じ込めてしまいたい衝動をどうにか理性の力でねじ伏せているところだ」
「っ〜〜〜!」
鈴の顔が音を立てて真っ赤に茹で上がった。
「さ、西園寺様!何をっ、もう、時間です!皆様が待っていらっしゃいます!」
鈴は両手で顔を扇ぎながら必死に取り繕う。景明はそんな彼女の様子すらも愛おしくてたまらないというように深く甘い溜め息を吐き、そして優しく右腕を差し出した。
「行こう、私の姫君。……だが、覚悟しておいてくれ。この長くて忙しい一日が終わった後、二人きりになったら、私はもう容赦しないからな」
耳元で囁かれた低く掠れた声に鈴の背筋が粟立つ。心臓が早鐘を打ち鳴らす中、鈴は震える手で彼の頼もしい腕にそっと手を添えた。
邸宅から庭園へと続く広い石造りのテラス。
その大きなガラス扉が開け放たれるとワルツの演奏が止み、代わりに二人を祝福する壮大で華やかな行進曲が奏でられ始めた。
眩い午後の陽光が降り注ぐ庭園へ向けて、景明と鈴がテラスの大階段をゆっくりと降りていく。
大礼服に身を包んだ覇王のような景明と純白の総レースのドレスを纏い、太陽の光を全身に浴びて発光しているかのように美しく輝く鈴。
二人の姿が現れた瞬間、広大な庭園のあちこちから「おお……っ」「なんて美しい……」という感嘆の溜め息が青空へと広がり、直後、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
だが、芝生の一角で一際大きく、そして下世話な歓声を上げている一団があった。
景明の直属の部下たちである異能特殊部隊の面々だ。
「うおおおおっ!少佐殿ぉ!おめでとうございます!」
「すっげえ……っ!小鳥遊嬢、いや、奥様!まるで天使じゃないか!?」
「あんな可愛い子がこの世に存在したのかよ……!おい、俺たちの鬼隊長にはもったいなさすぎるだろ!奥様、今からでも俺に乗り換えませんかー!?」
「バカ、お前殺されるぞ!でもマジで綺麗だ……俺もあんな嫁さんが欲しい……っ!」
血の気の多い軍人たちは昼間から酒が入っているせいで完全にタガが外れ、鈴のあまりの美しさに顔を真っ赤にして口々にやんやと騒ぎ立てた。
景明の眉間が微かに跳ねた。次の瞬間、ぽかぽかとした心地よい秋の陽気に包まれていたはずの庭園の温度が一瞬にして氷点下まで急激に低下した。
空気が物理的に凍りつき、微かな音を立てて、部下たちの足元の青々とした芝生が真っ白な霜に覆われていく。近くにあった庭園の噴水が空中で飛沫を上げたまま、見事な氷の彫刻となって動きを止めた。
騒いでいた部下たちの顔が一瞬にして青ざめる。彼らが手にしていたグラスの中のシャンパンが音を立てて凍り始め、秋晴れの空の下だというのに呼気が真っ白な霧となって視界を覆う。
「……貴様ら」
景明の口から地獄の底から響くような声が漏れた。
彼の瞳には敵を消し飛ばした時と全く同じ、純粋な殺意が宿っていた。
凍りつきかけた庭園の異変を察知し、鈴は慌てて景明の腕に両手を添え、その大きな身体に寄り添った。
「さ、西園寺様!だ、駄目ですよ、皆様を凍らせちゃ……っ」
鈴が上目遣いで必死に訴えかける。彼女から漂う甘い白粉の匂いとすがるような温かい体温が景明の腕を通して伝わってきた。
その瞬間、庭園に吹き荒れていた冷気が止んだ。噴水の氷が音を立てて溶け落ち、太陽の光を浴びて輝きながら再び水音を取り戻す。
景明はゆっくりと鈴を見下ろすと先ほどの修羅の顔が嘘のように甘く、蕩けるような優しい表情へと一変した。
「……すまない、鈴。君があまりにも美しすぎるから他の男たちの視線が君に注がれるだけで私の理性が吹き飛びそうになるんだ」
彼は大勢の客の目など一切気にすることなく、鈴の耳元に顔を寄せ、その透けるようなベール越しに愛おしげに囁いた。
「……このまま、二人きりで邸宅の奥へ抜け出してしまおうか。誰にも邪魔されない場所へ」
甘く低く、とろけるようなその声の響きに鈴の全身が跳ねる。
「む、無理ですっ!主役がいなくなったら、大旦那様や大奥様に叱られてしまいます……っ」
「構うものか。今の私には君以外の世界など何の意味も持たないのだから」
そう言って景明は鈴の腰に手を回し、さらに自分の胸へと深く引き寄せた。庭園中の視線が集まる中でのあまりに堂々とした、そして甘すぎる愛情表現に鈴は顔から火が出そうになりながらも彼に身を委ねることしかできなかった。
周囲のざわめきも、氷室の胃痛の呻き声も、今の鈴の耳には届かない。
ただ、自分を抱き寄せるこの不器用で優しくて愛の重すぎる男の温もりだけが何よりも確かな現実だった。
かつて婚約破棄したいと願った恐ろしい鬼少佐。
けれど今、彼は世界で一番優しく、甘い言葉で自分を包み込んでくれる最高の旦那様だ。
祝福の拍手とワルツの調べが鳴り響く黄金色の光の海の中、二人は寄り添いながらゆっくりと庭園の中央へと歩みを進める。
五感のすべてが幸福で満たされ、鈴の目には嬉し涙が真珠のように浮かんでいた。この別邸が、西園寺家が、そして彼の隣こそが、自分の帰るべき家なのだと鈴は心から実感していた。
◇
帝都の夜は深く、そして静かに更けていった。
昼間の喧騒とあの絢爛豪華な披露宴の熱狂がまるで嘘だったかのように現在の西園寺家別邸は深い静寂と安らぎのベールに包まれている。
招待客たちは皆、数時間前に用意されたハイヤーや馬車でそれぞれの帰路に就き、別邸の使用人たちも今日という大仕事を無事に終えた安堵と共に自分たちの持ち場や自室へと下がっていた。広い敷地を満たしていた弦楽の響きも、人々の華やいだ笑い声も、今はもう遠い幻のように消え去っている。
ただ、高く澄んだ秋の夜空には磨き上げられた銀貨のように美しい満月が浮かび、その青白い月光が綺麗に手入れされた庭の木々や別邸の豪奢な窓ガラスを静かに照らし出していた。秋虫たちの微かな鳴き声がリズミカルな子守唄のように夜の空気に溶け込んでいる。
別邸の二階、最も奥まった場所に位置する主寝室。
その広く、静謐な空間で鈴は一人、部屋の中央に置かれたベッドの縁にちょこんと腰を下ろしていた。
「…………っ」
鈴は自分の心臓がまるで喉から飛び出してしまいそうなほど激しく打ち鳴っているのを感じていた。
耳の奥で早鐘のように鳴り響く鼓動。その音があまりにも大きくて、鈴は思わず両手で自分の胸元を力強く押さえた。
今、彼女が身に纏っているのは白無垢でも、黒引き振袖でも、純白のウェディングドレスでもない。最高級の真珠色のシルクで仕立てられた滑らかなネグリジェのような寝間着であった。肌に触れるたびにひどく艶めかしい絹の擦れる音が鳴る。その生地は恐ろしいほどに薄く、上質であるがゆえに鈴の華奢な体の線を余すところなく拾い上げ、わずかな光の加減で肌の白さを透かして見せてしまう。
この寝間着を用意したのは他でもない、タキである。
この日を迎えるまでにタキの手によって教え込まれた夜伽の知識を思い出しては茹でダコのように顔を真っ赤にし、手で顔を覆い、ベッドの上で身をよじった。
(あんなこと……本当に西園寺様とするの……?西園寺様が私に……あんな激しいことを……っ)
想像しただけで脳の血管が焼き切れそうだった。今まで景明に抱きしめられたり、甘い言葉を囁かれたり、唇を重ねられたりしたことはある。その度に心臓が爆発しそうなほどの幸福感と照れくささを感じていたがこれからの時間はその先だ。
夫婦として心だけでなく、体も完全に一つになる。
不安がないと言えば嘘になる。痛いのだろうか、苦しいのだろうか。自分のような不器用な子供が大人の男性である景明を満足させることができるのだろうか。
けれど、それ以上に鈴の心の底から湧き上がってくるのは彼に自分のすべてを委ねたいという甘く切実な渇望だった。
(西園寺様になら、私……どうなってもいい。彼のすべてを受け入れたい……)
そう思った瞬間、寝室の重厚なマホガニーの扉が静かに開かれた。
「……っ!」
鈴の肩が大きく跳ねた。ゆっくりと部屋の中に入ってきたのは景明だった。
披露宴で纏っていたあの大礼服はすでに脱ぎ捨てており、今は仕立ての良い黒のズボンに少し胸元を開けた真っ白なシャツという、ひどく寛いだ姿だった。彼が歩みを進めるたびに上質な革靴が絨毯を踏みしめるくぐもった音が静寂の寝室に響き渡る。
部屋の明かりは壁に備え付けられた幾つかの間接照明と月明かりだけ。薄暗い光と影の中で彼の彫りの深い美貌が普段の何倍も色気を帯びて見えた。濡れたような漆黒の髪。そして彼特有の冬の夜気のような澄んだ匂いと微かな石鹸の清潔な香りが部屋の空気に混じり合う。
「……待たせたな、鈴」
景明は低く、驚くほどに甘い声でそう言うと扉を静かに閉め、鍵を掛けた。
その小さな金属音が鈴には「もうどこにも逃げられない」という甘美な宣告のように聞こえた。
「さ、西園寺様……お、お疲れ様でした……」
鈴はベッドから立ち上がろうとしたが足に力が入らず、そのまま座り込んだ状態で見上げる形になってしまった。
景明はゆっくりとベッドへと近づいてくる。彼の瞳は薄暗い部屋の中でもわかるほどに獲物を前にした獣のように鋭く、そして同時に信じられないほどに深い熱情を宿していた。
「……君こそ、疲れただろう。慣れないことばかりでよく頑張ってくれた。今日は本当に……世界で一番美しかった」
景明はベッドの縁、鈴のすぐ隣に腰を下ろした。
マットレスが彼の体重で大きく沈み込み、二人の体が触れ合いそうになるほどの距離まで近づく。彼から発せられる熱気が薄いシルクの寝間着越しに鈴の肌を焦がすように伝わってきた。
「あ、あのっ……私、全然、疲れてなんかいません……っ。西園寺様こそ、あんなにたくさんの方々と挨拶をされて……」
「私のことなどどうでもいい」
景明は震える鈴の言葉を遮るように、静かに、けれど力強く言った。
彼の手がそっと伸びてくる。
骨ばった大きな指先が鈴の頬を撫で、そして耳にかかった髪を優しくすくい上げた。その指先の熱さとほんの少しの荒々しさに鈴の背筋が震える。
「……私が今、考えているのはただ一つだけだ」
景明の顔がゆっくりと近づいてくる。
彼の瞳が鈴の姿を至近距離で捉えて離さない。
「神社で、そして披露宴の席で。……あの美しすぎる君の姿を見るたびに私が何を考えていたかわかるか?」
「な、何を……ですか……?」
「……早く、この手で君の衣を一枚残らず剥ぎ取って、私の腕の中に閉じ込めてしまいたいと。そればかりを考えて理性を保つのが死ぬほど辛かった」
あまりにも直球で破廉恥すぎる本音に鈴の顔が限界を超えて真っ赤に染まった。
だが、景明は微塵も悪びれる様子もなく、むしろその鈴の赤い頬を愛おしそうに見つめ、指先で優しくなぞった。
「……そして今、ようやく邪魔者は誰もいなくなった。ここは私と君だけの世界だ」
景明の手が鈴の頬から首筋、そして肩へと滑り落ちていく。シルクの生地越しに撫でられるたび、鈴の口から甘い吐息が漏れる。
「西園寺、様……っ」
「…鈴、私を名前で呼んでくれ。今日からは他人行儀な呼び方ではなく。……私の愛する妻として」
懇願するような、ひどく切実な声だった。
鈴は潤んだ瞳で彼を見上げた。
(私の、たった一人の、愛する旦那様……)
鈴は震える唇をゆっくりと開き、そして、その名を呼んだ。
「……景明、様」
その瞬間。
景明の理性の糸が音を立てて完全にぶち切れた。
「っ……鈴……!」
彼は鈴の体を抱き寄せると、そのままベッドの上へと静かに押し倒した。
背中がマットレスに沈み込む。視界が天井へと反転し、その上に景明の逞しい体が覆い被さってきた。
「景明様……っ」
「ああ……可愛い。どうして君はこんなにも私を狂わせるんだ」
景明の顔が鈴の首元に埋められる。
微かに水音が響き、首筋の柔らかい肌に彼の熱い唇が吸い付いた。
経験したことのない鋭い快感に鈴の背中が弓なりに反れる。タキから教わった春画の知識が頭をよぎるが、現実の彼の体温と、力強さと、押し寄せるような愛の熱量は絵などとは比べ物にならないほどの圧倒的な威力を持っていた。
「怖がらないでくれ、鈴。……私は君を傷つけない。君のすべてを愛し、君に私のすべてを捧げる」
景明の手がシルクの寝間着の裾から忍び込み、鈴の素肌に直接触れる。
大きく、少しザラついた指先が彼女の腿から腰、そして腹部へと這い上がってくる。その感触はどこまでも優しく、そして、どこまでも執拗だった。
さらに景明は鈴の唇を自らの唇で塞いだ。初めは羽のように軽い触れ合いだったのが次第に深く、熱を帯びたものへと変わっていく。舌が絡み合い、息継ぐ暇も与えられないほどの深い口づけ。
鈴の頭の中が真っ白に染まり、思考が完全に停止する。
ただ、彼に触れられるたびに全身が溶けてしまいそうなほどの熱と甘さに支配されていく。視覚も、聴覚も、触覚も、すべてが“西園寺景明”という存在で塗り潰されていく。
窓の外から差し込む青白い月光が絡み合う二人の影を壁に長く映し出している。
静寂の寝室には衣が擦れる微かな音と熱を帯びた甘い吐息、そして互いの名前を呼び合う切ない声だけがいつまでも、いつまでも響き続けていた。
やがて。深い夜の底を抜け、東の空が少しずつ白み始めていた。
群青色の空が徐々に薄紫色、そして淡い薔薇色へと染まり、新しい一日の始まりを告げる朝の光が静かに世界を包み込もうとしている。
小鳥たちのさえずりがどこからか微かに聞こえ始めていた。
寝室のベッドの上。激しく、そして甘く長い愛の交歓を終えた二人は一つの毛布に包まれながら深い安らぎの中で身を寄せ合っていた。
鈴は景明の広い胸板に顔を埋めるようにして、まだ深い眠りの中にいる。彼女の真っ白な肌には昨夜の激しさを物語るように幾つもの赤い印が花びらのように散らばっていた。長く美しい睫毛は穏やかに伏せられ、規則正しい寝息が景明の胸を規則的に上下させている。
その愛しい妻の寝顔を景明は腕枕をしながら、ただ静かに愛おしそうに見つめ続けていた。
(……本当に天使のようだ)
彼自身の体にも心地よい疲労感はあったがそれ以上に心を満たす途方もない幸福感が彼から眠りを奪っていた。
愛する女を自分の腕の中に抱き、彼女の体温を直接肌で感じている。彼女はもうどこにも行かない。自分の妻として、一生この腕の中で守り抜くことができる。
これ以上の奇跡がこの世界にあるだろうか。
景明はそっと体を起こすとベッドの脇に置いてあった小さなビロードの箱を手に取った。
箱を開けるとそこには一つの美しい指輪が収められていた。
それは婚約期間中に用意していながら幾多の事件との遭遇の連続でずっと渡す機会を逃し続けていた婚約指輪だった。
中央で圧倒的な輝きを放つのは大粒で極めて純度の高い最高級のダイヤモンド。その周りを細やかなプラチナの透かし彫りが花びらのように取り囲んでいる。それは一点の曇りもない鈴の純真さを象徴するような特別に誂えられた意匠だった。
景明は眠っている鈴の左手をそっと取った。
指先には日々の裁縫の証である、ほんの小さなマメが幾つかできている。決して着飾っただけの令嬢の手ではない。誰かのために祈りを込め、ひたむきに針を動かし続けてきた、気高く、そして愛しい手だ。
そして彼女の薬指には昨日の儀式の後に彼自身が嵌めた夫婦の証であるシンプルなプラチナの結婚指輪が朝の微かな光を受けて控えめに光っている。
景明はその結婚指輪に重ねるようにして眩いダイヤモンドの輪をゆっくりと静かに滑り込ませた。
ピッタリと収まった二つの指輪は互いの輝きを際立たせるように、静かに、そして力強く重なり合って輝きを放った。
「……鈴」
景明は二つの指輪が重なる彼女の薬指の背に自分の熱い唇をそっと押し当てた。
深く祈りのような口づけ。
「愛している。……永遠に君の嘘つきな書生で、そして君だけの夫でいると誓おう」
低く、甘い囁きが寝室の空気に溶け込んでいく。
すると指先の冷たさと彼の温かい唇の感触に反応したのか鈴が微かに身じろぎをした。
「ん……ぅ……」
彼女は目を閉じたまま、愛らしい笑みを浮かべ、景明の腕の中にさらに深く潜り込んでくる。
「……景明、様……」
寝言のように呟かれた自分の名前に景明の胸の奥がこれ以上ないほど甘く締め付けられた。
「ああ。私はここにいるよ、私の可愛い花嫁」
景明は彼女の背中に腕を回し、その小さな体を壊れ物を扱うように、けれど絶対に離さないという強い意志を込めて、力強く抱きしめ直した。
窓の外では太陽が地平線から完全に顔を出し、新しい世界の朝を黄金色に染め上げようとしていた。
それは過酷な運命を乗り越え、本物の愛を掴み取った二人の輝かしく、そして果てしなく続く幸福な未来を祝福する、始まりの光だった。




