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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第六章 幸せな花嫁と嘘が真に変わるふたりの幕開け
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第42話

 帝都の喧騒を遠く離れ、軍用車は舗装の甘い山道を力強く突き進んでいた。

 窓の外を流れる景色は残暑の熱気を孕み、木々はむせ返るような深い緑に染まっている。行く手にそびえる富士の嶺は夏の終わりを思わせる荒々しい青黒い山肌を晒し、これから向かう戦場の過酷さを予見させるかのように沈黙を守っていた。 車内に満ちているのは重苦しいまでの緊張感、であるはずだった。

 運転席に座る部下は前方の悪路に全神経を集中させ、助手席に座る氷室は膝の上に広げた地図と報告書を厳しい目で見つめている。

 そして後部座席。そこに鎮座する景明。

 今日の彼はいつにも増して近づきがたい覇気を纏っていた。

 軍服の襟元まで隙なく整えられ、膝の上に置かれた革手袋を嵌めた手は微動だにしない。その鋭い眼光は獲物を屠る直前の猛禽類のような冷ややかさを湛え、車内の空気さえも彼の異能に呼応するように氷点下へと引きずり込んでいる。

 だが、その鉄面皮の内側で渦巻く“思考”は外見からは想像もつかないほどに狂おしいまでの熱を帯びていた。

(……ああ。温かいな)

 景明は軍服の心臓に最も近い位置にあるポケットにそっと意識を向けた。

 そこには愛しい婚約者である鈴が縫い上げた一枚のハンカチが納められている。

 指先で触れずとも布地を通して伝わってくる鈴の力、そして彼女がひと針ひと針に込めた「無事に帰ってきてほしい」という切実なまでの祈りが景明の魂を優しく包み込んでいた。

 鮮やかなオレンジ色の花車の刺繍。

 彼女のプロ並みの腕前で仕上げられたその花びらは今にも芳香を放ちそうなほど生き生きとしており、暗い戦場へ赴く景明の行く先を照らす灯火のようでもあった。

(鈴……。君は今頃、本邸で私の帰りを待ってくれているのだろうか。不安にさせてしまっただろうか。……いや、今の彼女は強い。私を信じ、背中を押してくれた。ならば私はその信頼に全力で応えなければならない)

 ここまでは至極まともで高潔な軍人としての決意であった。

 しかし景明という男の愛は一度堰を切れば止まるところを知らない。

(天牛ごとき、数分で片付ける。あのような醜悪な獣に私の大切な時間を一秒たりとも奪わせるわけにはいかない。……この戦いが終われば、いよいよ本格的な祝言の準備だ)

 景明の脳裏に鮮明な映像が浮かび上がる。それはまだ見ぬ未来、自分との祝言を挙げる鈴の姿だった。

(白無垢に身を包んだ鈴はどれほど美しいことだろう。一点の曇りもない純白の絹が彼女の透き通るような肌を引き立てる。角隠しの下から覗く、はにかんだような紅い唇。緊張で少しだけ震える指先を私が取り、永遠の誓いを立てるのだ。……ああ、想像しただけで胸が苦しい。あの可憐な花嫁を世界中の誰にも見せたくない。いや、自慢したい気持ちもあるがやはり私の手の中にだけ閉じ込めておきたい……!)

 景明の思考はもはや止まらなかった。白無垢から色打掛への掛け替え、披露宴での彼女の笑顔、そして、その後に訪れる二人きりの夜。

(……夜。西園寺の正妻として、彼女を完全に私のものにする夜だ。あの細い腰を引き寄せ、耳元で愛を囁けば、彼女はどんな顔をして泣くのだろうか。私の名前を呼んでくれるだろうか。……いかん。これ以上は戦いの前に理性を失いかねない)

 景明の顔は外から見れば「敵を殲滅せんとする冷徹な鬼」そのものだったがその周囲に漂う氷の力はどこか甘やかで狂信的なまでの独占欲を孕んで膨れ上がっていた。

 そして、その“重すぎる愛の奔流”をまともに食らっている人物が一人。

「…………っ」

 助手席の氷室が突如として激しくむせ込んだ。彼は震える手で眼鏡を押し上げると胃のあたりを押さえ、真っ青な顔で天を仰いだ。

(……少佐。勘弁してください。いくらなんでも筒抜けすぎます……)

 氷室は普段は強力な精神防壁を張り、周囲の雑音を遮断しているが今の景明の思考はもはや防壁などという概念を物理的に粉砕して突き進んでくる“暴君のそれ”だった。

 氷室の脳内には高画質・高解像度で「白無垢姿の鈴」や「その後の甘美な想像」が強制的に流し込まれている。それも景明の尋常ではない力が乗った、極めて純度の高い執着心と共に。

「氷室、どうした。体調でも悪いのか。……作戦前に弛んでいるぞ」

 後部座席から氷を削り出したような冷徹な声が降ってくる。

 景明の瞳は鋭く、一切の隙もない。その態度は先ほどまで鈴の寝顔を想像して悶絶していた男と同一人物とは到底思えない。

(……誰のせいで胃に穴が開きそうだと思っているんですか。あなたの『小鳥遊嬢大好き光線』が私の防壁を貫通して直接脳細胞を焼きに来ているんですよ!)

 氷室は喉元まで出かかった叫びを意地で飲み込んだ。

 彼は震える手で内ポケットから瓶を取り出すと軍用車が大きく揺れた拍子に数錠の胃薬を口の中に放り込んだ。

「……いえ。少々、空気があまりにも“甘すぎる”もので。少佐の、その……溢れんばかりの“やる気”に当てられたようです」

 皮肉を込めて答えた氷室だったが景明はそれを真っ向から受け止めた。

「そうか。ならば良い。……この護り布がある限り、私の力は無限だ。天牛の首を撥ね、日の暮れる前には本邸へ戻る。鈴が待っているからな」

 景明は左胸のハンカチを布越しに愛おしそうに力強く圧し当てた。

 その瞬間、車内の温度がさらに数度下がったような気がして氷室は「もういっそ、このまま気絶してしまいたい」と心から願わずにはいられなかった。

 車は富士湖周辺を覆う鬱蒼とした樹海、“死の森”の入り口へと差し掛かっていた。

 前方の空は不吉なまでの闇色に染まり、天牛が放つ悍ましい呪いの気配が霧となって立ち込めている。

 しかし景明の瞳に映っているのは眼前の敵ではない。この地獄を焼き払い、愛する人の待つ温かな家へと帰るための、一点の曇りもない勝利の道筋だけだった。

「行くぞ。……長居は無用だ」

 景明がドアを開け、軍靴を泥濘んだ土へと下ろした。

 彼の背中からは帝都最強の守護神としての圧倒的な破壊の予兆だけが立ち昇っていた。

 景明たちが発った後の西園寺本邸は、まるで深い水の底に沈んだかのような静寂に包まれていた。

 冬の柔らかな陽光が縁側に差し込み、磨き上げられた廊下を琥珀色に染めている。時折、庭の蹲から響く乾いた音がかえって家人の不在を強調しているようだった。

 鈴は部屋で針を動かしていた。景明に渡したハンカチに込めた祈りは今も彼女の胸の奥で温かな微熱となって灯っている。けれど彼が戦地へ向かったという事実はどれほど自分を律しようとも心の隅に細い影を落とさずにはいられない。

(西園寺様……どうか、ご無事で……必ず、笑顔で戻ってきて)

 自分に言い聞かせるように小さく息を吐いたその時、襖の向こうから凛としているものの、どこか悪戯っぽい響きを含んだ声が聞こえた。

「鈴さん、少しよろしいかしら」

 鈴は姿勢を正した。

「はい、大奥様。ただいま」

 急いで針箱を片付け、廊下へ出るとそこには端然と佇むタキの姿があった。

 いつも通りの厳しいまとめ髪に落ち着いた濃い紫の着物。だが、その瞳の奥には景明がいない今だからこそ、何かを企んでいるような独特の光が宿っているのを鈴は見逃さなかった。

「景明さんがいない今しか、できないことがあります。……ちょっと私の私室へ来なさい。旦那様にも今は近づかないように言ってありますから」

「えっ……?はい、分かりました」

 極秘事項であるかのようなタキの物言いに鈴は首を傾げながらもその後に続いた。

 案内されたタキの私室には白檀の香りが仄かに漂っていた。

 タキは鈴を座らせると自分も対面に腰を下ろした。そして脇に置かれた文箱から大切そうに包まれた一冊の冊子を取り出したのである。

「大奥様、それはまさか…」

「景明さんのいない今だからこそ、復習をするには最適な機会、だとは思いませんか」

 タキの言葉に鈴の破廉恥な記憶が蘇った。

 鈴の顔が一瞬にして林檎のように赤く染まる。

「こ、これ以上の知識は……」

「何をおしゃいますか、あなたはこのあと西園寺の女主人となるのです、知識は幾つあっても無駄にはなりません」

 タキは真剣な表情で古い和紙に美しい色彩で描かれた春画を開いた。

「っ……!!」

 何度みても慣れない光景に鈴は思わず両手で顔を覆った。

「いいですか、鈴さん。これは単なる淫らな絵ではありませんよ、魂と魂を肉体を通じて一つに溶け合わせる儀式の記録なのです」

 タキの声は厳格でありながらも慈愛に満ちていた。

 彼女は頁をめくりながら一つ一つの所作の意味、そして男が何を求め、女がそれに対しどう応えるべきかを一から淡々と丁寧に説いていく。

 古い紙の匂い。タキが指し示す、絡み合う指先の描写。そして自分と景明がこのような形で行き交う姿を想像してしまい、鈴の耳たぶまでが燃えるように熱くなる。

(西園寺様と……私が………)

 心臓が早鐘のように胸を打つ。

 景明のあの大きくて温かな手が自分の肌に触れる。

 彼の低い声が名前を呼びながら耳元で囁かれる。その光景があまりにも鮮明に脳裏に描かれ、鈴は眩暈にも似た高揚感に包まれた。

「恥ずかしがることはありません。貴女が彼を受け入れ、愛で包み込むことで景明さんは初めて“人間”としての安らぎを得るのです。……鈴さん。貴女にはその覚悟がありますか?彼の全てをその身で受け止める勇気が」

 タキの問いかけに鈴は顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。頬の赤みは引かない。羞恥心で胸が張り裂けそうだ。

 景明がどれほど孤独な戦いを続けてきたか。彼がどれほど自分を慈しみ、守ってくれているか。

 それに対し、自分ができる事は彼の魂の欠片を愛という糸で繋ぎ止め、欠けることのない安らぎを与えることなのだ。

「……はい、大奥様」

 鈴は声を震わせるもはっきりと答えた。

 彼女はタキが広げた春画を今度は背筋を伸ばして真っ直ぐに見つめた。

「西園寺様の妻として、あの方の全てを……。心も、身体も、余すところなくお守りしたい。……そのための教えなら私は何一つ逃さず、この目に焼き付けます」

 その言葉を聞き、タキは満足げに目を細めた。

「よろしい。その意気です。……では次は“ここ”の作法について詳しく説明しますからね。景明さんが戻ってくるまでに完璧に頭に叩き込みなさい」

「……は、はいっ!」

 静かな和室で新妻としての、そして一人の女としての秘めやかなる夜の修練は日が傾くまで続けられた。

 鈴の心に刻まれたのは単なる知識ではない。

 愛する男と真に一つになるための甘く、切なく、そして強固な決意。

 富士湖へ向かった景明がもしこの光景を知れば天牛を倒す前に卒倒してしまうかもしれない。

 そんな予感さえも今の鈴にとっては彼を愛で圧倒するための密かな武器のように感じられた。

(待っていてください、西園寺様。……私が貴方を誰よりも幸せにしてみせます)

 心の中でそう呟いた鈴の瞳は春画の極彩色にも負けないほど、熱く、艶やかに輝いていた。

 富士の広大な樹海、富士湖の森。

 かつては清らかな湧水と手付かずの自然が織りなす、神秘的で美しい場所であったはずのその森は今や見る影もなく変れ果てていた。

 一歩足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような粘着質で不快な冷気がまとわりついてくる。それは生き物の生気を根こそぎ奪い取ろうとするような“呪い”の気配であった。

 木々は枯れ果て、黒ずんだ樹皮からはどす黒い瘴気が立ち昇っている。足元の泥濘は腐敗した落ち葉と得体の知れない汚泥が混ざり合い、鼻をつく酷い悪臭を放っていた。まるで森全体が巨大な死骸となって腐り落ちていく過程を見せつけられているかのようだ。

 その死の森の深部へと景明は音もなく歩を進めていた。

 革の軍靴が泥を踏みしめる度に微かな水音が響く。だが、彼が歩いた後の地面は瞬く間に白く凍りつき、氷の華を咲かせていく。彼から無意識に漏れ出す異能が周囲の悍ましい呪いの瘴気を強引に凍結し、浄化の道を切り拓いていた。

(……酷い有様だ。帝都の誇る美しい霊峰の麓をよくもここまで汚してくれたものだ。だが、それも今日で終わる)

 景明の研ぎ澄まされた聴覚が森の奥深くから響く地鳴りのような重低音を捉えた。

 それは複数の巨木がへし折られ、大地が削られる音。そして獣とも人間ともつかない、おぞましい咆哮。

 前方の鬱蒼とした茂みがまるで爆発でも起きたかのように吹き飛び、土煙と瘴気が渦巻く中から巨大な影が姿を現す。

「……グオオオオオオオッ!!」

 鼓膜を破らんばかりの咆哮と共に現れたのは、もはや人間の原型を留めていない異形の化け物だった。

 かつて天牛と呼ばれていた男。常軌を逸した肉体強化の異能を持っていた彼は死の淵に追い詰められたことで森に満ちていた呪いを己の肉体に取り込み、喰らい尽くしたのだろう。

 その体躯は三メートルを優に超え、全身の筋肉は赤黒く膨張し、皮膚を突き破って禍々しい骨の棘が幾本も生え揃っていた。両腕は丸太のように太く、指先は鋭い鉤爪へと変貌している。脈打つ血管は毒々しい紫色に発光し、口からは灼熱の蒸気を含んだ涎が滴り落ち、地面を溶かしていた。

「……サイオン、ジィィィィッ!!」

 理性を失ったはずの化け物が怨嗟に塗れた声で景明の名を呼ぶ。その声には圧倒的な力への渇望と自分をここまで追い詰めた帝都最強の男に対する底なしの憎悪が込められていた。

 だが、そのおぞましい巨躯と圧倒的な殺意を前にしても景明の表情は欠片も動かない。

 彼の鋭い双眸はただ冷徹に害虫を観察するような無機質な光を宿していた。

「……随分と醜悪な姿に成り下がったな、天牛。自らの部下を本邸へ差し向け、卑劣な自爆テロを企てた報いとしてはまだ生ぬるいが」

 景明は黒革の手袋を嵌めた右手をゆっくりと天へ向けた。

「貴様のような汚物が這い回るにはこの世界は少しばかり美しすぎる。……まずは逃げ道を塞いでおこう。ネズミ一匹、ここから生きては出さん」

 景明の瞳が閃いた瞬間、彼を中心に絶対零度の吹雪が爆発的に吹き荒れた。

「“氷結地獄”」

 静かだが森のどこまでも響き渡るような声。次の瞬間、景明の足元から放射状に放たれた極低温の魔力が瞬く間に周囲の地形を塗り替えていった。

 枯れた巨木が悲鳴を上げて凍りつき、腐敗した泥の地面が分厚い永久凍土へと変わる。空間そのものが凍りつくような猛烈な冷気が森全体を包み込み、天牛の背後に広がっていた鬱蒼とした樹海が巨大な氷の壁となって完全に封鎖された。

 文字通り、地形を変えるほどの圧倒的な力の行使。この場は逃げ場のない完全な檻となった。

「ガアアアアアッ!!」

 退路を絶たれた天牛はその巨体から想像もつかないほどの尋常ではないスピードで跳躍した。

 強靭な脚力が大地を粉砕し、砲弾のような勢いで景明へと迫る。空中で振り上げられた丸太のような右腕の鉤爪が空気を切り裂き、景明の頭上へと振り下ろされる。

 常人であれば、その風圧だけで全身の骨が砕け散るほどの圧倒的な質量攻撃。

 しかし景明はその場から一歩も動かなかった。

「遅い」

 冷淡な一言と共に景明の周囲に展開されていた氷の異能が一瞬にして硬質な防壁を形成する。

 硬い金属同士が激突したような、甲高い轟音が森に響き渡った。

 天牛の渾身の一撃は景明の頭上わずか数十センチのところに展開された、分厚い氷の盾に完全に阻まれていた。

 氷の盾には細かい亀裂が走ったものの、粉砕するには至らない。

「グガァァッ!?」

 予想外の硬さに天牛の動きがほんの一瞬、止まる。その隙を帝都最強の男が見逃すはずがなかった。

 景明が氷の盾を解除すると同時に腰に提げた軍刀の鯉口を親指で静かに弾いた。

 冷徹な金属音が森に響く。直後、鞘から滑り出た鋼の白刃に青白い火花が走り始めた。冷気とは対極にある、もう一つの異能、雷。

「その醜い腕は、もう必要ないだろう」

 景明の莫大な魔力が注ぎ込まれた軍刀は瞬く間に眩い雷光を纏った“雷刃”へと姿を変える。

 凄まじい雷鳴と共に景明の姿がブレた。神速の踏み込みから放たれた一閃が天牛の丸太のような右腕へ深々と喰らいつく。

「ギィヤアアアアアアッ!?」

 肉を焦がし、骨を焼き切る異様な臭いが周囲に立ち込める。ただの物理的な斬撃ではない。刃から直接流し込まれた超高圧の電流が天牛の常軌を逸した肉体防御すらも容易く貫通し、その右腕の細胞を内側から容赦なく破壊しながら断ち斬ったのだ。激痛にのたうち回りながら天牛は距離を取ろうと後方へと跳躍する。斬り落とされかけ、黒焦げになってだらりと垂れ下がった右腕からは彼の異常な再生能力によって紫色の肉芽が蠢きながら再生を試みていた。

 激痛にのたうち回りながら天牛は距離を取ろうと後方へと跳躍する。右腕は黒焦げになり垂れ下がっているがそれでも彼の異常な再生能力が働き始め、傷口から紫色の肉芽が蠢きながら再生を試みていた。

「しぶといな。だが、それが貴様の限界だ」

 景明は服の裾を翻し、ゆっくりと天牛へと歩み寄る。その足取りには微塵の焦りもない。ただ、絶対的な力で蹂躙し、排除するだけの作業。

(……鈴。今頃、君は何をしているだろうか。私がいない間、お祖母様にいじめられてはいないだろうか。いや、あの二人は案外仲良くやっているようだったが……それでも私の目の届かないところで君が無理をしているのではないかと気が気ではないのだ)

 過酷な戦場、しかも己の命を狙う異形の化け物を前にしながら景明の脳裏を占めているのは愛しい婚約者の姿ばかりであった。

 左胸のポケットに収められた鈴の祈りが込められた花車のハンカチ。そこから伝わる確かな温もりが彼の冷え切った心を優しく解きほぐしていく。

 景明の瞳に先ほどまでの無機質な冷酷さとは違う狂気じみた情熱の炎が宿る。それは愛する者の元へ一秒でも早く帰還するためだけに眼前の敵を徹底的に破壊し尽くすという、ある種の執着の現れであった。

「……さあ、終わりにしようか。天牛」

 景明の全身からこれまでとは比べ物にならないほどの凄まじい密度の魔力が立ち昇り始めた。

 大地を凍らせる絶対零度の冷気と空間を焼き焦がす極大の雷撃。相反する二つの力が彼の中で一つの破壊の奔流となって渦を巻き始める。

 天牛もまた、眼前の男から放たれる圧倒的な死の気配を悟り、残された全生命力と呪いを一点に集中させようとしていた。

 だが、どれほど呪いを喰らい、肉体を強化しようとも眼前に立つ景明には指一本触れることすら叶わない。その絶望的なまでの事実が理性を失いかけていた天牛の脳髄にドス黒い凶行の炎を点火した。

「ガ、アアア……ッ、サイ……オン、ジィィィ……!!」

 天牛の巨躯が異様な痙攣を始めた。全身の血管が限界まで膨張し、皮膚を突き破っていた骨の棘が自らの肉を裂きながらさらに禍々しく伸びていく。彼が足を踏みしめている永久凍土がその凄まじい熱量と瘴気によって音を立てて溶け始めた。

(……自爆、か)

 景明は一切の感情を排した冷徹な双眸でその変化を静かに見下ろしていた。

 本邸を襲撃した部下たちと同じ手口。否、強大な異能とこの森に蓄積された莫大な呪いを全て己の命ごと圧縮している天牛のそれは部下たちの自爆テロとは比較にならないほどの破壊力を秘めている。

「オオオオオオオオオオオオオオッ!!」

 天牛の口からこの世のものとは思えない断末魔のような絶叫がほとばしった。同時に彼を中心にして周囲の空間そのものがどす黒い紫色に染まり上がる。それは純粋な“死”と“腐敗”のエネルギーだった。あらゆる物質をドロドロに溶かし、魂すらも汚染し尽くす猛毒の濁流。

 爆発的な勢いで膨れ上がったその呪いの津波は逃げ場のない氷のドームの中を埋め尽くし、全方位から景明を呑み込もうと迫り来る。

 それは帝都最強の男であっても物理的な回避が絶対に不可能な文字通りの“必殺の一撃”だった。

 圧倒的な質量を持った死の波が音を置き去りにして景明へと襲いかかる。

 視界が悍ましい紫色に染まり、鼻腔を突く強烈な腐臭が空気を奪う。だが、景明の顔には微塵の焦りも恐怖も浮かんでいなかった。

 彼の意識は迫り来る死の波ではなく、ただ一点、己の左胸にのみ向けられていた。

(……鈴)

 心臓が大きく高鳴った瞬間、景明の軍服の胸ポケットから眩いばかりの黄金色にも似た温かな光が溢れ出した。

 それは、分厚い布地を透過し、暗黒に染まりかけた氷の空間を一瞬にして鮮やかなオレンジ色に染め上げる。

『どうか、ご無事で。必ず、帰ってきてくださいね』

 極限の静寂の中、景明の鼓膜に愛しい少女の祈るような声がはっきりと響いた。

 それは幻聴ではない。鈴が縫い上げた花車の刺繍。そこに込められた彼女の莫大な力と彼女自身の異能である修復の力が愛する男に迫る絶対的な理不尽を拒絶すべく、完全なる防壁となって顕現した。

 凄まじい衝撃音が響き渡る。

 天牛が放った必殺の呪いの濁流が景明の肉体に触れる直前、彼の周囲を包み込んだオレンジ色の花びらを象った光の結界に激突したのだ。

「……な、に……!?」

 自我を失っていたはずの天牛の口から驚愕のうめき声が漏れた。万物を腐敗させるはずの猛毒の呪いが、光の結界に触れた端からまるで春の陽光に溶ける淡雪のように音を立てて浄化され、無害な光の粒子となって消え去っていくのだ。

 結界の内側に立つ景明は無傷だ。軍服の裾ひとつ、髪の毛一本すら汚れていない。彼を取り巻く空気は凄惨な戦場にあってもなお、日向に干した清潔な布のような温かく甘い香りに満ちていた。

 それは紛れもなく彼がこの世で最も愛する少女の匂いだった。

「……ああ。温かいな」

 景明は左胸にそっと右手を当てた。手袋越しでもはっきりと伝わってくる、護り布の熱。彼女の魂が今この瞬間、確かに自分に寄り添い、共に戦ってくれている。

 その事実が景明の胸の奥底に眠る、狂おしいほどの愛と独占欲を無限の力へと変換していく。

「貴様程度の薄汚い呪いで私の歩みを止められるとでも思ったか。……私には帰る場所がある。私を信じ、私の無事を世界で一番強く祈ってくれている愛しい花嫁が待っているのだ」

 景明の瞳がこれまでにないほど強く、そして恐ろしいほどの覇気を帯びて光り輝いた。鋭く美しいその双眸に青白い雷光が反射する。

「天牛。貴様に絶対の真理を教えてやろう」

 景明は胸に当てていた右手をゆっくりと天高く掲げた。その瞬間、氷のドームの天井部分が内側から吹き飛び、分厚い鉛色の暗雲が渦を巻き始める。大気が悲鳴を上げ、鼓膜を圧迫するような超高密度の力が景明の掌に向かって収束していく。

「彼女の愛がある限り、今の私は無敵だと」

 視界の全てを白く塗り潰す規格外の閃光。直後、天地を引き裂くような轟音と共に天から極太の雷柱が振り下ろされた。

「“建御雷神”」

 それはもはや異能の域を超えた“神の裁き”だった。

 純白と蒼が混じり合った極大の雷撃は天牛の巨体を、そして彼が放ち続けていた呪いの残滓を一切の慈悲なく呑み込んだ。

「ア、ア、ガアアアアアアアアアアアアッ……!!」

 断末魔の叫びすらも圧倒的な雷鳴の前に掻き消される。常軌を逸した再生能力も、莫大な生命力も、一瞬にして細胞レベルから分子単位へと分解され、炭化し、文字通り“消滅”していく。

 強烈なオゾンの匂いが森を吹き抜け、腐敗した呪いの瘴気を完全に焼き尽くした。

 数秒後。

 光の奔流が収まるとそこには何も残されていなかった。天牛の姿はおろか、灰すらも残らない、完全なる浄化と殲滅。

 景明の周囲を取り囲んでいた氷の防壁も役目を終えたかのように砕け散り、風に吹かれて光の粉となって消えていく。

「…………終わったな」

 景明は静かに右手を下ろした。空を覆っていた不吉な暗雲は晴れ、雲の切れ間からまだ熱を孕んだ残暑の夕陽が焼け焦げた森の跡地を黄金色に照らし出している。

 ふと、景明の視線が足元に向けられた。

 そこには戦いの余波で芽吹くはずのない小さな草花がほんのわずかだが顔を出していた。鈴の修復の魔力が呪いによって死に絶えていた大地に微かな生命の息吹をもたらしたのだ。

 景明の冷徹な鉄面皮が少し崩れる。誰にも見せることのない、ただ一人の少女のためだけに存在する、ひどく甘く、優しい微笑みだ。

「……鈴。君は本当に私の光だ」

 もう一度、胸のハンカチの上から優しく触れると景明は踵を返した。

 森の出口へ向かって歩き出すと遠くの木陰に停められた軍用車の傍らで氷室が待機していた。

 氷室は森の奥から放たれた規格外の雷撃とそれに伴う凄まじい力の余波を浴びたせいかひどく疲労困憊した様子で車のボンネットに手をついている。彼の手にはまたしても胃薬の瓶が握られていた。

「……お疲れ様です、少佐。その……天牛は」

 眼鏡の奥の目を細め、ふらつきながら歩み寄ってくる氷室に対し、景明はいつもの冷ややかな上官の顔に戻って短く告げた。

「完全に消し飛ばした。もはやこの森に赫夜の呪いは微塵も残っていない」

「……左様ですか。それは重畳です」

 氷室は深く息を吐き出し、眼鏡を中指で押し上げた。

「ですが、少佐。……敵を倒した瞬間に『さあ、愛しの鈴が待つ本邸へ帰ろう!たとえ彼女が料理に失敗して台所を黒焦げにしていようと、あの愛らしい笑顔で出迎えてくれれば他には何もいらない!』などという思考を最大出力で撒き散らすのは勘弁してください。防壁が……防壁が保ちません」

 恨めしそうな氷室の言葉に景明は悪びれる様子もなく、むしろ堂々と胸を張った。

「事実だから仕方がない。私をこれ以上待たせるな、氷室。帝都へ帰還する。……私の愛しい花嫁が待っている本邸へ」

 冬の夕暮れが迫る中、軍用車は来た時よりもずっと軽やかなエンジン音を響かせ、帝都への帰途についた。

 後部座席で目を閉じる景明の胸元にはオレンジ色の花車が勝利の勲章のように誇らしく、そして温かく咲き誇っていた。


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