第41話
西園寺本邸の大広間。普段ならば磨き上げられた黒檀の床がシャンデリアの柔らかな光を反射し、豪奢なペルシャ絨毯の上で穏やかな語らいの時間が流れるその場所は今まさに鼻を突くような焦げ臭さと微かな血の匂いが入り混じる異様な空気に包まれていた。
「……ふぅ……っ」
鈴は手の中で淡い光を放っていた白鞘の薙刀をゆっくりと下ろし、深い安堵の息を吐き出した。
赫夜が放った刺客たちによる、狂気に満ちた呪いの自爆テロ。鼓膜を破るような轟音と全てを真っ赤に染め上げるような爆炎が本邸を飲み込もうとした瞬間、鈴は一歩も退くことなく、その細腕で薙刀を振るった。
すさまじい爆風によって、西園寺家の誇る瀟洒な洋館の窓ガラスは悲鳴を上げて粉々に砕け散り、豪奢な絨毯や壁には無残な焦げ跡が刻まれてしまった。しかし、その場にいた源五郎やタキ、そして若菜の命は誰一人として損なわれることはなかった。
鈴の強い祈りが紡ぎ出した金と銀の魔力の結界が迫り来る炎と衝撃から完璧な状態で守り抜いていたのだ。
張り巡らされていた金と銀の魔力の糸が、役目を終えた春の淡雪のように光の粒子となって空中に溶け落ちていく。
硝子片の散乱する無残な洋館の惨状とそれを優しく包み込む美しい光の対比の中央で鈴はどっと押し寄せてきた疲労感に小さくよろけた。
(……終わった……。誰も、怪我をせずに……)
額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、鈴はゆっくりと周囲を見渡した。
彼女の背後では源五郎と彼に寄り添うように立つタキが微かな驚きと深い感銘の入り混じった瞳で鈴を見つめている。鈴が身を挺して紡ぎ出した強靭な結界の光を二人は間近で目の当たりにしていたのだ。
「大旦那様、大奥様……。お怪我はございませんか……?」
息を整えながら鈴が振り返り、気丈に微笑みかける。
タキは小さく息を呑み、それから目元を和らげた。普段の厳しい花嫁修業の折に見せる峻烈な表情とは打って変わり、そこにあるのは一人の娘の無事と成長を喜ぶ、深い愛情に満ちた眼差しだった。
鈴が再び前を向こうとしたまさにその時だった。洋館の重厚な両開きの玄関扉が蝶番を引きちぎらんばかりの凄まじい勢いで蹴り開けられた。
大広間にまで響き渡ったその暴力的な音に鈴は肩を震わせ、咄嗟に薙刀を握り直した。まだ敵の残党が残っていたのか。そう考えながら警鐘を鳴らすよりも早く、大股で廊下を踏み鳴らし、大広間へと飛び込んできた黒い影があった。
「鈴ッ……!!」
血を吐くような悲痛なまでの叫び声。その声の主を見た瞬間、鈴の体から力が抜け、手から滑り落ちた薙刀が乾いた音を立てて絨毯の上に転がった。
「西園寺、様……?」
そこに立っていたのは鈴の愛する婚約者である景明だった。
しかし、その姿は普段の彼からは想像もつかないほど乱れていた。常に一寸の隙もなく着こなされているはずの軍服は激しい戦闘の余波で所々が焦げ、微かに破れ目すら見えている。整えられた黒髪は乱風に煽られたように散らばり、肩で激しく息をするたびに彼の体から青白い雷の残滓が火花を散らしていた。
何よりも彼の表情が異様だった。
冷徹な“鬼少佐”として恐れられているとは到底想像も出来ない焦燥と心臓を鷲掴みにされたような恐怖が露わになっていた。
その鋭く美しい切れ長の双眸は大広間の中央で無傷で立ち尽くす鈴の姿を捉えた瞬間、大きく見開かれた。
「ああ……っ、鈴……!!」
次の瞬間、景明は文字通り疾風のごとき速さで床を蹴った。
軍靴が黒檀の床を激しく叩く音はほんの数歩分しか響かなかった。あっという間に鈴の目の前まで迫った景明は勢い余るほどにその大きな腕を伸ばし、鈴の華奢な体をひったくるようにして自身の胸の中に強く、ひどく強く抱き寄せた。
「きゃっ……!?」
突然の強い力に鈴は小さく声を上げた。視界が彼の広い胸板によって完全に塞がれる。鼻腔を突いたのは激戦を物語る硝煙とオゾンの焦げたような匂い、そして、それらを覆い隠すように微かに漂う、彼特有の冷たくも落ち着く白檀の香りだった。
「西園寺、様……あの……っ、苦し……」
「……無事か。どこか痛むところはないか。血は……これは君の血ではないな?本当にどこも怪我はないのだな……?」
鈴の小さな抗議の声など全く耳に入っていないかのように景明は震える声で早口にまくしたてた。
彼に抱きしめられる腕の力が限界まで強まっていく。まるで少しでも力を緩めれば腕の中の鈴が幻のように消えてしまうと思い込んでいるかのような必死で縋るような抱擁だった。
彼の胸に押し付けられた鈴の耳には景明の心臓の音が嫌というほどはっきりと聞こえていた。
早鐘のように狂った速度で打ち鳴らされるその鼓動は、彼がどれほどの恐怖と絶望の淵を覗き込み、そしてどれほどの速度でこの本邸まで駆け戻ってきたのかを雄弁に物語っていた。
天牛との死闘。敵の口から告げられた本邸への自爆テロの報せ。
景明は鈴の力を誰よりも信じていた。彼女の心が、そして彼女の紡ぐ“修復”の異能が、決してひ弱なものではないと確信していたからこそ、その場に踏みとどまり天牛を打ち倒すことができた。
だが、それはそれとして愛する女が命の危機に晒されているかもしれないという事実は彼の理性を根底から焼き尽くすには十分すぎたのだ。
「西園寺様……大丈夫です。私は無事です。どこも怪我などしておりませんから……」
鈴は痛む肋骨に耐えながらも景明の背中に両手を回した。軍服越しの彼の背中は強大な力を持つ成人男性のものとは思えないほど、小刻みに震えていた。その震えから伝わってくる彼の深い愛情と恐怖に触れ、鈴の胸の奥が締め付けられるように熱くなる。
「ほら、見てください。この通り、ぴんぴんしておりますよ。西園寺様の方こそ、お怪我は……」
鈴がどうにか顔を上げ、彼を安心させようと微笑みかけた瞬間だった。
「こほんっ」
大広間の静寂を切り裂くようにひときわ大きく、わざとらしい咳払いが響き渡った。我に返った鈴が景明の腕の中で身を強張らせると、すぐ数歩先でタキが目を吊り上げているのが見えた。
「……景明さん。お前が急ぎ戻ってきた事情は察しますが、使用人たちもいる前でいくら婚約者とはいえ未婚の娘にそのように強くしなだれかかるなど……西園寺の当主として、はしたないですよ。少しは時と場所というものを弁えなさい」
タキの鋭い叱責の言葉が飛ぶ。
普段の景明であれば、すぐさま姿勢を正し、氷のような表情を取り繕って謝罪の言葉を口にするだろう。だが、今の景明は完全に理性のタガが外れてしまっていた。
タキの言葉を聞いても景明は鈴の腰に回した腕の力を微塵も緩めることなく、ただ祖母の方を振り返っただけだった。
その瞳には「今、この腕から鈴を離すことなど天地がひっくり返っても不可能だ」という絶対的な拒絶の光が宿っており、タキは思わず毒気を抜かれたように言葉を詰まらせた。
「……まあ、よいではないか、タキ」
険悪になりかけた空気を和らげたのは源五郎の、穏やかで温かみのある低い声だった。
「大旦那様……」
鈴が申し訳なさそうに視線を向けると源五郎は目尻に深いシワを刻んで静かに笑い声を漏らした。
彼は車椅子の車輪を僅かに動かし、抱き合う二人の様子を慈しむように見つめた。
「つい先程まで血で血を洗う死線を潜り抜けてきたばかりなのだ。魂の半身が無事であったと知って、理性を保てという方が酷であろう」
「それは……確かに…」
タキは気まずそうに視線を逸らした。厳しい花嫁修業を課してきたのは他でもないタキ自身だ。不器用で家事もろくにできない鈴を厳しく指導してきたが、今日の戦いで見せた姿は特別だった。誰一人傷つけさせまいと身を挺して家族を完璧に護り抜いたその気高く逞しい姿はタキの胸に改めて深く、鮮烈に刻み込まれていた。
「……ふん。全く、仕方のない孫ですね。今日だけはその見苦しい姿に目を瞑ってあげます。鈴さんもよくぞこの本邸を護り抜いてくれました。感謝しますよ」
タキは呆れたように小さくため息をつきながらもその口元には隠しきれない柔らかな微笑みが浮かんでいた。タキからの不器用な労いの言葉に鈴の目頭が熱くなる。
「大奥様……もったいないお言葉、ありがとうございます」
鈴が景明の胸に顔を埋めたまま小さな声で応えると景明はようやく我に返ったように長く熱い呼気を吐き出した。
彼を取り巻いていた青白い雷の残滓が完全に霧散し、狂っていた心音が少しずつ、本来の落ち着きを取り戻していく。
「……すまない、鈴。私は……君を失うかもしれないと想像しただけでどうにかなってしまいそうだった」
景明は鈴の耳元で誰にも聞こえないような掠れた声でそう囁いた。
彼の手が鈴の背中を撫でるように動き、その感触は先程までの乱暴なものから壊れやすい硝子細工を扱うような極めて優しいものへと変わっていた。
「私はここにいます。西園寺様が信じてくださったから私は戦えました」
鈴は景明の首元に顔をすり寄せ、その温かい体温と生きている証である匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
硝煙の匂いに混じる、微かな白檀の香り。恐ろしい死闘の爪痕を残しながらも、こうして自分の元へ生きて帰ってきてくれた最強で不器用な婚約者の存在が鈴の五感を優しく、そして確かに満たしていく。
大広間の窓から差し込む午後の傾いた陽光が抱き合う二人の姿を黄金色に縁取り、静かに、ただ静かに包み込んでいた。理性を投げ捨てた帰還の果てに訪れたこの濃密な抱擁の時間はまだ終わらぬ戦いの渦中において、二人に与えられた束の間の、しかし絶対的な安らぎの証明であった。
やがて激情に身を任せた激しい鼓動と凄惨な戦闘の余波が互いの温もりの中で微かな落ち着きを見せ始めた頃。
二人は源五郎たちの配慮のもと、硝子片の散乱する大広間から奥に位置する豪奢な応接室へと場所を移していた。
壁一面に設えられた豪奢な本棚には革張りの洋書が整然と並び、天井からは精巧な意匠が施されたシャンデリアが温かな琥珀色の光を落としている。深紅のベルベット生地で覆われた長椅子は腰を下ろせば体が沈み込むほどに柔らかい。
その長椅子の中央で鈴は淹れたての紅茶が注がれたティーカップを両手で包み込むように持ち、小さく息を吐き出した。
(……温かい……)
立ち上る湯気と共にベルガモットの爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
琥珀色の液体を一口含めば、上品な渋みと深いコクが恐怖と極度の緊張で乾ききっていた喉の奥を優しく潤していった。五感がようやく正常な働きを取り戻し、自分が無事に生きて、この安全な場所にいるのだという実感が胸の奥に広がっていく。
だが、鈴の隣には先程から片時も離れようとしない景明が身を寄せていた。
彼は自身のティーカップには目もくれず、長椅子の上で鈴の肩を抱き寄せるようにして座り、その鋭く美しい切れ長の双眸でただひたすらに愛しい鈴の横顔を見つめ続けていた。彼の大きな掌からは軍服越しであってもはっきりと伝わってくるほどの強い熱が放たれ、鈴の華奢な肩を温め続けている。
「西園寺様……あの、紅茶、冷めてしまいますよ?」
あまりの密着具合と注がれ続ける熱烈な視線に耐えきれず、鈴が頬を朱に染めて上目遣いに尋ねる。
しかし景明は微塵も気にした様子もなく、低く、どこか切実な声音で囁き返した。
「構わない。今はただ、こうして君の無事をこの目で、この手で、確かめさせてくれ」
彼の言葉には帝都最強と謳われる“鬼少佐”の威厳など欠片もなかった。あるのは愛する者を失う恐怖を味わい、ようやく確かな安堵を得た、ただの不器用な男の素顔だけだ。
鈴は困ったように眉を下げながらも彼を安心させるためにそっと自分の小さな手を彼の手の上に重ねた。途端に景明の喉の奥から深く静かな吐息が漏れる
その時、応接室の穏やかな空気を切り裂くように重厚なマホガニーの扉が控えめだが規則正しい軍隊式の作法でノックされた。
「……入れ」
景明の声がたった一瞬で“愛しい婚約者を愛でる男”のものから絶対零度の冷気を纏った“帝国陸軍少佐”のものへと切り替わる。そのあまりの変貌ぶりに鈴は何度経験しても内心で小さく驚いてしまう。
「失礼いたします、少佐。それに小鳥遊嬢も」
扉を開けて入ってきたのは氷室だった。軍服には土埃がつき、彼もまた郊外での過酷な任務から急ぎ帰還したばかりであることが一目でわかった。
だが、氷室の顔色を悪くさせている原因はどうやら戦闘の疲労だけではないようだった。
氷室は応接室に足を踏み入れた瞬間、肩を震わせ、すかさず右手を自身の胃のあたりに当てて、小さく、ひどく重いため息を吐いた。
(ああ、私の鈴はなんて愛おしいのだ。あの小さな手で恐ろしい敵から本邸を護り抜くなど、なんと誇り高く美しい魂を持っているのか。今すぐこの場から全員を追い出して、彼女を寝室に閉じ込めてしまいたい……)
氷室の脳内に一切の容赦なく流れ込んでくる強烈な“声”が響いた。
「……氷室様、お疲れ様です。お怪我はございませんか?」
何も知らない鈴が心底心配そうな瞳で氷室を見上げる。その純真無垢な労いの言葉に氷室は胃の痛みを堪えながら、銀縁眼鏡の位置を中指で押し上げた。
「お気遣い痛み入ります、小鳥遊嬢。私は無傷です。それよりも貴女が無事で本当によかった。……色々な意味で」
氷室は景明の方へ視線を向けた。
景明の表情は氷の彫刻のように冷徹で隙がない。一切の感情を排したような鋭い眼差しで氷室を見据えている。
だが、氷室の耳には理不尽極まりない上官の嫉妬の声が鳴り響いている。
(……本当に、この人は……)
氷室は内心で血の涙を流しながらも軍人としての規律を保ち、踵を鳴らして敬礼した。
「少佐。郊外での事後処理、および本邸へ侵入した敵残党の確認が完了いたしました」
「報告しろ」
景明の短く鋭い命令に氷室は表情を引き締め、手元の革張りの報告書を開いた。
「はっ。郊外で少佐が撃退した赫夜の部隊はほぼ壊滅状態にあります。また本邸へ差し向けられた刺客たちですが……彼らは小鳥遊嬢の絶対的な結界を破ることができず、結果として、彼らの体に刻まれていた“任務失敗時に発動する呪いの自爆”によって自滅の道を辿りました。西園寺家の敷地内への被害は驚くべきことに皆無です」
氷室の報告を聞き、鈴は胸を撫で下ろした。自分の紡いだ刺繍の結界が正しく家族を護り抜いたのだという事実が強張っていた心を解きほぐしていく。
「それで敵の幹部……『天牛』と名乗ったあの異形の男の行方はどうなった」
景明の口から放たれたその名前に室内の温度が急激に下がったように錯覚した。
鈴は思わず身震いしそうになるのを堪え、景明の横顔を見つめた。彼の瞳には純粋な殺意と自身の領域を脅かした者に対する底知れぬ怒りが青白い炎のようにゆらゆらと揺らめいている。
「はい。少佐の極大の雷撃をまともに受けた天牛は致命傷に近い深手を負い、戦線を離脱しました。現場に残された血痕の量と逃走の痕跡から推測するに……手負いの天牛はこれ以上の戦闘は不可能と判断し、彼らの本拠地である旧都へと逃げ帰ったと推測されます。現在、旧都方面への監視網を強化するよう各部隊に通達を出しておりますが……」
氷室が論理的に導き出した推測を述べる。しかし、景明は微かに目を伏せ、それからゆっくりと首を横に振った。
「いや、それは違うな、氷室」
「……違う、とは?」
景明はティーカップをテーブルに置き、長い脚を組み替えた。その所作一つ一つに王者のような揺るぎない自信と威圧感が漂っている。
「奴らが自身の部下に刻んでいるあの不気味な刺青の機能を思い出せ。あれはただの強化術式ではない。『任務に失敗した瞬間、宿主の肉体を食い殺して自爆する』という、極めて悪趣味で残酷な呪いだ。それは末端の兵士だけでなく、幹部である天牛自身にも等しく適用されているはずだ」
景明の低く響く声が応接室の静寂を満たしていく。
鈴は息を呑んで彼の言葉に耳を傾けた。敵が自らの体を犠牲にする狂気の掟。それを冷静に分析する景明の姿は冷徹な軍人そのものだった。
「天牛に与えられた任務は帝都への進軍、そして私……西園寺景明(私)の抹殺とこの本邸の破壊だったはずだ。だが、奴は私に敗れ、本邸は鈴の力によって傷一つなく護り抜かれた。完全なる“任務失敗”だ」
「……っ! では天牛もすでに自爆して……?」
氷室が目を見開くが景明の鋭い視線はそれを否定した。
「いや、奴の持つ常軌を逸した肉体強化と無尽蔵のスタミナが呪いの進行を無理やり抑え込んでいるのだろう。私の雷撃で負った致命傷を再生させながら、同時に内側から自身を食い破ろうとする呪いとも戦っている状態だ」
景明は冷酷な笑みを口元に浮かべた。
「旧都の本拠地へ帰還したところで待っているのは組織からの粛清だ。手負いで、しかも任務に失敗した状態の奴がのこのこと本拠地へ戻るはずがない。奴は今、文字通り退路を断たれた手負いの獣だ」
「退路がないとすれば……奴はどこへ?」
氷室の問いに景明は窓の外、広大な帝都の空の遠く離れた方角へと視線を向けた。
「傷を癒やし、呪いの進行を遅らせるためには膨大な魔力が澱む場所が必要だ。……帝都と旧都の中間。人目を避けられ、かつ自然の魔力が鬱蒼と渦巻く場所」
「……富士湖、周辺の深い森……!」
氷室が息を呑み、正解を口にした。
景明は無言のまま、深く頷いた。
「間違いない。奴はあの深い森の奥底に身を潜め、肉体を再生させながら私への……いや、我々への復讐の機会を虎視眈々と狙っているはずだ。放置すれば、必ず再び牙を剥く」
その言葉に含まれた確固たる殺意と決断に応接室の空気が再び張り詰めた。
手負いの獣を森の奥深くへ追い詰めて確実に息の根を止める。それが景明が下した次なる一手だった。
「直ちに富士湖周辺の地形図と近隣の魔力反応の観測記録を用意しろ。数日以内に討伐作戦を立案し、私が自ら奴の首を狩る」
「はっ!ただちに手配いたします」
氷室は深く一礼し、足早に応接室を後にした。 重たい扉が閉まる音が響き、再び部屋には景明と鈴の二人きりの時間が戻ってきた。
足音が完全に遠ざかったのを確認した瞬間、景明の纏っていた氷のように張り詰めた空気がふっと解けた。
「……はあ」
景明は深く重いため息を吐くと、まるで拗ねた子供のように鈴の肩に額を預けた。部下の前で見せていた威厳に満ちた軍人の顔はどこへやら、そこにあるのは愛する者を残して再び前線へ赴かねばならない、ただの不器用で未練がましい男の姿だった。
「……すまない、鈴。君を恐ろしい目に遭わせたばかりだというのに私はまたすぐに君の側を離れなければならない」
景明は顔を上げ、鈴の頬に優しく手を伸ばした。親指の腹で柔らかな肌を愛おしむように撫でるその手は先程まで敵の首を狩ると冷酷に言い放っていた男のものとは思えないほど、ただただ優しく温かかった。
「謝らないでください、西園寺様」
鈴は小さく首を横に振り、自身の頬に添えられた彼の手の甲に自分の手を重ねた。
彼が冷酷なまでに敵を排除しようとするのはひとえに鈴を、そしてこの西園寺家を護るためだ。共に過ごしてきた月日の中で彼の不器用な言葉の裏にある深い愛情を痛いほど理解している鈴にとって、彼の苛烈な物言いを怖いと思うことなどとうの昔になくなっていた。
(西園寺様はまた私のために危険な戦場へと赴いてしまう……)
鈴の胸の奥で痛みが走る。自分はただ待っているだけでいいのだろうか。彼に護られ、安全な場所で祈るだけでいいのだろうか。否、と鈴の魂が強く叫んでいた。自分には自分にしかできないことがある。彼を護るための“力”が。
「西園寺様、一つ提案があるのですが……」
鈴は重なる手と手を通じて自分の決意の熱を伝えるように彼をまっすぐに見つめ返した。
富士湖での決戦。その恐ろしい死地へと向かう彼の背中を絶対に護り抜いてみせる。彼女の十八番である裁縫の技術と祈りを込めた異能。それらを全て注ぎ込み、彼のための“無敵の加護”を紡ぎ出すのだと鈴は心の中で静かに強く誓いを立てていた。
◇
襲撃の爪痕も生々しいあの一日から静かに夜が明け、屋敷に再び穏やかな朝の光が差し込んでいた。
庭園の木々の葉先からは朝露が宝石のようにきらきらと零れ落ち、澄み切った空気が開け放たれた窓から吹き込んでくる。昨日、この場所が狂気と炎に包まれかけたことなど嘘のように鳥たちの囀りが優しく響き渡っていた。
あの後、景明は富士湖周辺に潜伏していると推測される天牛の討伐作戦を練るため、そして何より愛する婚約者の側から片時も離れないため、「本邸を作戦会議の臨時拠点とする」という強引極まりない名目で数日間この屋敷に滞在することとなった。
本来であれば、帝国陸軍の異能特殊部隊を率いる彼が前線を離れて本邸に居座るなど異例中の異例である。しかし敵の標的がこの西園寺家の本邸と鈴であった以上、表向きの理屈としては十分に通ったのだ。
もっとも、その裏で氷室が胃薬を片手に各所への根回しと情報収集に奔走させられていることは想像に難くないが今の景明にとって、自身の視界の端に常に鈴の姿を留めておくこと以上に優先される事項など存在しなかった。
「……ふふっ」
豪奢な天蓋付きのベッドが置かれた、鈴に与えられている広々とした私室。
その窓際に置かれたマホガニー材の丸テーブルで鈴は小さく微笑みをこぼした。向かいの席には分厚い作戦書や報告書を広げている景明が座っている。
一見すると景明は極めて冷静かつ冷徹に書類へ目を通しているように見える。しかし、その視線は文字の上を滑るだけで頻繁に顔を上げ、窓越しに庭園の景色を眺めるふりをしながら向かいに座る鈴の方を食い入るように見つめてくるのだ。
「西園寺様。そんなに私のことばかり見ていては作戦の立案が進みませんよ?」
鈴が周囲に聞こえないほどの小さな声で問いかけながら小首を傾げると景明は微かに肩を揺らし、気まずそうに低く咳払いをした。クールな仮面を取り繕おうとしているものの、その切れ長で美しい双眸はほんのりと熱を帯びている。
「……仕方がないだろう。作戦書に目を落とすたびに君がまた私の手の届かない場所へ消えてしまうのではないかと、どうしようもない不安に駆られるのだ」
静かで低く、誰にも聞こえない二人だけの密やかな囁き声。けれど、そこに込められた愛情はあまりにも甘く、重い。
表向きは冷徹な軍人を保っている彼がすぐ目の前でだけ見せる偽らざる本心。鈴は頬を染めながらテーブルの上にあった景明の大きな手に自分の小さな手をそっと重ねた。
「私はどこにも行きません。西園寺様が護ってくださるこの場所でずっと貴方をお待ちしていますから」
「ああ……鈴。私の愛しい君……」
景明は堪えきれないというように目を伏せ、誰にも見られないよう、重ねられた鈴の手をそっと持ち上げると、その白い手の甲に自身の唇を熱く、長く押し当てた。
微かな水音が静かな室内にだけ落ちる。彼特有の冷たくも落ち着く白檀の香りが鼻腔をくすぐり、唇から伝わる彼の熱い体温が鈴の全身の血の巡りを甘く痺れさせていく。
「こほんっ」
その時、開け放たれた私室の扉の向こうからわざとらしい咳払いが聞こえた。
肩を震わせて手を離した鈴が視線を向けると、そこには厳しい表情を作ろうとしながらも、どこか呆れたような、それでいて柔らかな眼差しを向けているタキの姿があった。
「景明さん。作戦会議という名目で滞在している以上、あまり鈴さんの邪魔ばかりしていてはいけませんよ。部下の方が先程から第一応接室で貴方の決済を待ちわびて胃を押さえていましたよ」
「……チッ。あの男、わざわざお祖母様に泣きついたか」
景明は心底忌々しそうに舌打ちをするもタキはそれを扇子で制した。
「それから、鈴さん」
「は、はいっ!」
タキに名指しされ、鈴は背筋を伸ばした。普段であればこれは厳しい花嫁修業の時間が始まる合図だ。「歩き方がなっていない」「お茶の温度が違う」と、容赦のない指導が飛んでくるはずの時間帯である。
しかし、タキは扇子を口元に当て、優しく目を細めた。
「今日から数日間、景明さんがこの本邸で討伐作戦を練り上げるまでの間……貴女の花嫁修業は全てお休みにします」
「え……?お休み、ですか?」
鈴が目を丸くして聞き返すとタキは静かに頷いた。
「ええ。昨日の敵の襲撃……貴女は自身の力でこの西園寺の家を、そして私たち家族を立派に護り抜きました。異能とはいえ、相当な精神力をすり減らしたはず。西園寺の当主夫人となる者に必要なのは作法だけではありません。いざという時に家を護る強さです。貴女はそれをすでに証明してくれました」
タキからのこれ以上ないほどの最大級の賛辞。
鈴の胸の奥が温かい感動で満たされていく。
「ですから、今は心身を休めることに専念しなさい。景明さんとの束の間の時間をゆっくりと過ごすといいでしょう。……ただし、景明さん。いくら婚約者とはいえ、白昼堂々からあまり破廉恥な真似は控えるように」
「……善処します」
不満げに眉を寄せる景明を残し、タキは静かに踵を返して廊下の奥へと消えていった。
「……というわけだ。鈴、君は疲労が溜まっているのだからベッドで横になって」
「西園寺様。氷室様がお待ちなのでしょう?」
鈴が笑って指摘すると景明は「あいつめ……」と再び小さな舌打ちを漏らした。そして諦めたように深く息を吐いた。どれほど鈴の側にいようとも、彼には帝都を脅かす赫夜の残党を完全に殲滅するという軍人としての重大な責務があるのだ。
「……すぐ戻る。だから必ずこの部屋で安全に過ごしていてくれ」
名残惜しそうに何度も振り返りながら景明はようやく私室を出て行った。彼の足音が遠ざかり、部屋に再び静寂が降りてくる。
一人きりになった私室で鈴は大きく深呼吸をした。
タキの配慮によって与えられた束の間の休息。だが、鈴の心に「休む」という選択肢は微塵も存在しなかった。むしろ一人になれるこの時間こそを彼女は待ち望んでいたのだ。
「……よし」
鈴は立ち上がり、部屋の隅に置かれた美しい螺鈿細工の施された木箱の前に跪いた。
そっと蓋を開けると中には色とりどりの絹糸、幾種類もの太さの縫い針、そして裁ち鋏など、最高級の裁縫道具が整然と並べられている。
鈴は木箱の奥からあらかじめ用意しておいた一切の汚れもない純白の絹のハンカチを取り出した。
触れれば指先から溶けてしまいそうなほど滑らかで上質な光沢を放つその布地を鈴は慈しむように両手で包み込んだ。
(西園寺様は数日後には必ずあの恐ろしい森へ……天牛の元へと向かってしまう)
手負いの獣となった天牛がどれほどの狂気と殺意を煮えたぎらせているか。想像するだけで背筋が凍りつきそうになる。
景明は帝都最強と呼ばれるほど無類の強さを誇るがそれでも相手は呪いの自爆すら厭わない狂人だ。万が一、億が一にも彼の身に何かがあれば。
(そんなこと、絶対にさせない。私が彼を護る。どんな凶刃からも、どんな呪いからも、彼を絶対に傷つけさせない!)
鈴は決意の瞳で顔を上げ、針山から最も細い針を抜き取った。
鈴が精神を集中させると針の先に通された糸が彼女の体内から溢れ出す力に呼応して蛍のような淡い光を放ち始めた。
鈴は純白のハンカチを張り、その右下隅に針を落とした。微かな音が響き、絹の布地に糸が通る。
図案はすでに決まっていた。女学生時代、西洋の花々について学んだ授業で鈴が最も心を惹かれた花。
“花車”。
太陽に向かって真っ直ぐに花びらを広げるその花の姿は暗闇の中で塞ぎ込んでいたかつての鈴に顔を上げて歩き出す勇気をくれた花だった。
そして、その花に込められた花言葉は“希望”と“常に前進”。
(西園寺様。貴方はいつでも私の前を歩き、私を光の射す方へと導いてくれました。だから……どうか前を向いて。必ず私の元へと無事に帰ってきてください)
一針、また一針。
鈴は祈りを込めるように、丁寧に糸を縫い進めていく。
「……っ、ふぅ……っ」
それは尋常な作業ではなかった。ただの美しい刺繍を施すのとは訳が違う。彼女の持つ生命力の限りを物質である布と糸に定着させるという途方もない集中力を要する儀式だ。
一針縫い込むたびに鈴の額には玉のような汗が滲み、指先が微かに震える。布地の上で糸が交差し、重なり合い、徐々に美しい大輪の花車の輪郭を形作っていく。
花びらの一枚一枚に「彼が傷つきませんように」という願いを。
葉の一脈一脈に「彼の心が闇に飲まれませんように」という祈りを込めて。
窓の外では陽の光が少しずつオレンジ色に傾き、やがて紫苑色の夕闇へと変わっていった。
時間の感覚すら失い、ただひたすらに針を動かし続ける。
彼女の脳裏に浮かぶのは先程自身を抱きしめてくれた景明の、あの不器用だけれど誰よりも温かい腕の感触と白檀の香りだった。
「愛しています、西園寺様……どうか、どうかご無事で……」
震える唇で何度もそう呟きながら鈴は自身の魂を削るようにして最後の一針を布地へと通した。
糸を引き抜き、玉留めを作って鋏を入れる。
完成した花車の刺繍は部屋の薄闇の中でも思わず目を奪われるほどの不思議で神々しい存在感が宿っていた。
精緻に縫い上げられたその大輪の花はまるで本物の生命を得て静かに呼吸をしているかのような圧倒的な瑞々しさを放っているのだ。
指先でそっと布地を撫でれば、冷たいはずの絹の表面から鈴の鼓動のような温もりが伝わってくる。極限まで練り上げられた“修復”の力と彼を想う強い祈りが確かな質量となって糸の一本一本に深く溶け込んでいる証だった。
完成したそれはもはやただのハンカチではない。
帝都最強の男を愛する一人の少女が自身の命を燃やして紡ぎ出した世界で最も強固で最も美しい護り布であった。
「……できた……。これなら、きっと……」
鈴は完成した花車のハンカチを両手で大切に包み込み、自身の胸元、心臓の上にそっと押し当てた。
極限まで異能を使い果たした反動で視界が揺れ、強烈な睡魔と疲労感が全身を襲う。
しかし彼女の口元には安堵と達成感に満ちた、この上なく幸福な微笑みが浮かんでいた。
(西園寺様が出撃される時にこれをお渡ししよう……)
彼の最も心臓に近い、軍服の胸ポケットに忍ばせてもらうのだ。
そうすればこの花車の祈りが絶対の盾となって彼をあらゆる災厄から護ってくれる。
窓の外では完全に夜の帳が下り、庭園の虫たちが秋の深まりを告げるように鳴き始めていた。
静寂に包まれた私室で鈴は愛する人の無事を祈りながら、その尊い護り布を抱きしめたまま、泥のような酷く温かい微睡みの中へと深く、深く落ちていった。
夜明け前の帝都は静謐という名の薄青いヴェールにすっぽりと包み込まれていた。
東の空の際がほんのりと白み始める頃。西園寺本邸の豪奢なエントランスには夏の終わりの名残を思わせる気だるい熱気が満ち、湿気を帯びた土と濃緑の匂いが漂っていた。
早朝から肌に纏わりつくような残暑の中、磨き上げられた黒大理石の床を硬質な軍靴の音が規則正しく、そして重々しく叩く。
「……各部隊の配置は完了しているな、氷室」
「はっ。旧都と帝都を結ぶ主要街道、および富士湖へと続く山道は我が特殊部隊の精鋭たちが完全に封鎖しております。手負いの獣一匹たりとも包囲網から逃すことはありません」
軍服に身を包んだ景明は低く冷徹な声で最終確認を行った。
彼の傍らで直立不動の姿勢をとる副官の氷室は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、手元の分厚い報告書を閉じながら力強く頷く。彼ら二人を取り巻く空気はこれから赴く凄惨な死地への覚悟と張り詰めた殺意によって触れれば切れるほどに研ぎ澄まされていた。
景明の切れ長で美しい双眸には一切の迷いはない。
数日前、己の部下を呪いの刺客としてこの本邸へ差し向け、愛する婚約者の命を理不尽に奪おうとした赫夜の幹部、天牛。
手負いのまま富士湖の深い森へと逃げ込んだあの異形の獣の息の根を確実に止める。その決意だけが青白い雷の残滓のように彼の瞳の奥で静かに、苛烈に燃え盛っていた。
「……少佐」
氷室が声を潜めて景明を呼んだ。
景明が視線だけで先を促すと氷室はほんの少しだけ口元を緩め、エントランスの奥へと続く大階段の方へと視線を向けた。
「お見送りがいらっしゃったようですよ」
氷室の言葉に景明の纏っていた絶対零度の空気が嘘のように一瞬で霧散した。
景明が大階段を見上げるとそこには寝間着にショールを羽織った状態の鈴の姿があった。
「鈴……」
景明の口から先程までの冷徹な軍人のそれとは全く違う、甘くとろけるような熱を帯びた声が漏れた。
彼は階段を駆け下りてくる鈴を迎え入れるように大きく長い両腕を広げた。鈴は可愛らしい足音を立てて最後の段を飛び降りるとそのまま勢いよく景明の広い胸の中へと飛び込んだ。
「西園寺様……っ、おはようございます。出撃の前に間に合ってよかったです……!」
「ああ……おはよう、私の愛しい鈴。わざわざ見送りに来させてしまってすまない」
景明は鈴の華奢な背中に腕を回し、その柔らかな髪に自身の頬をすり寄せた。
鼻腔をくすぐる鈴特有の甘く優しい香り。それだけでこれから血みどろの戦場へ向かおうとしていた景明の心が春の陽だまりの中にいるように温められていく。
「こほんっ」
数歩離れた場所で、氷室がわざとらしく咳払いをした。
彼女は景明の胸から顔を上げると少しだけ緊張した面持ちで一枚の純白のハンカチを差し出した。
「あの、西園寺様。これ……受け取ってください」
それはエントランスのシャンデリアの光を反射して、真珠のように滑らかな光沢を放っている。だが、何よりも目を引くのはその右下隅に施された見事な刺繍だった。
「これは……」
景明が目を瞠る。そこには息を呑むほどに美しく縫い上げられた一輪の花が咲き誇っていた。
太陽に向かって真っ直ぐに花びらを広げる大輪の花車。
「修復の祈りを限界まで込めて縫い上げました」
鈴は景明の大きな掌の上にその花車のハンカチを両手でそっと乗せた。
「花車の花言葉は“希望”、そして“常に前進”です。西園寺様がどんな暗闇の中にあっても決して希望を見失わず、無事に私の元へ……前を向いて帰ってきてくださるようにと願いを込めました」
「鈴……君は私のためにこれほどのものを……」
景明の声が微かに震えていた。彼には痛いほどわかっていた。彼女がどれほどの夜を徹して、この護り布を縫い上げてくれたのか。
「これがきっと西園寺様を……あらゆる敵の刃から、そして恐ろしい呪いから護ってくれるはずです」
鈴が真っ直ぐに景明を見上げて微笑む。その無垢でけれど決して揺るがない強さを持った瞳を見つめ返し、景明は深く、熱い呼気を吐き出した。
彼は受け取った花車のハンカチをまるでこの世で最も尊い宝物でもあるかのように両手で包み込むと恭しくそれに口付けを落とした。
そして最も心臓に近い左胸のポケットへとそのハンカチを大切に滑り込ませた。
「……確かに受け取った。ああ、不思議だな。今、この胸に君の祈りを抱いただけで……私はこの帝都で、いや、世界で一番の無敵になった気分だ」
景明はハンカチをしまった胸元に右手を当て、誇り高く微笑んだ。
それは“帝都最強の鬼少佐”としての冷徹な笑みではなく、一人の女を愛し、その愛によって無限の力を得た、一人の男としての至上の笑顔だった。
「どんな敵が待ち受けていようとも必ず君の元へ帰る。傷一つ負わずにこの足で、この腕で、再び君を抱きしめるために。……約束しよう、私のただ一人の花嫁」
「はい……!お待ちしております、西園寺様」
二人は最後にもう一度、深く、熱く抱擁を交わした。
白檀の香りと甘い花の香りが混ざり合う。エントランスの扉の向こうからは東の空に昇り始めた朝日の光が黄金色の矢のように差し込み、二人の姿を祝福するように照らし出していた。
「少佐。そろそろお時間です」
氷室の静かな声が出撃の時を告げる。
景明は名残惜しそうに鈴から体を離すと踵を返し、再びその背中に絶対零度の覇気を纏った。
「行くぞ、氷室。……我らが領分を侵した愚か者に相応の絶望を与えに行く」
「はっ!」
軍靴の音が出撃の合図となってエントランスに響き渡る。
重厚な扉が開かれ、外に待機していた黒塗りの軍用車のエンジンが野獣の唸り声のように低く轟いた。
鈴はエントランスの入り口に立ち、両手を胸の前で固く組み合わせて、遠ざかっていく車の土煙をいつまでも、いつまでも見送っていた。
◇
その頃。帝都の喧騒から遠く離れた富士湖周辺に広がる鬱蒼とした深い森の奥底。
昼間であっても陽の光を完全に遮断するほどに巨大な古樹が立ち並び、足元には腐葉土と湿った苔が絨毯のように敷き詰められている。空気は重く澱み、通常の人間であれば数歩足を踏み入れただけで精神を狂わせてしまうほどに濃密で禍々しい力が渦巻いていた。
「ガァァァ……ッ、ハァッ、ハァッ……!!」
その森の最も暗い深淵で獣の荒い喘ぎ声が響いていた。巨木に背を預け、湿った土の上に座り込んでいるのは赫夜の幹部・天牛だった。
彼の肉体は直視に堪えないほどに凄惨な有様だった。
景明が放った極大の雷撃をまともに受けた右半身は分厚い筋肉がごっそりと抉れ、黒焦げの炭のように変色している。剥き出しになった白骨の隙間からは絶えず赤黒い血が流れ出していた。
だが、それ以上に天牛を苦しめていたのは彼の全身に刻み込まれた禍々しい文様の刺青だった。
「グオォォォッ!!クソッ、クソがぁぁぁっ!!」
天牛が苦悶の叫び声を上げながら自身の左腕を掻きむしる。
任務失敗=自爆という赫夜の絶対の掟。
景明の首を取ることができなかった天牛の肉体は完全に呪いの発動条件を満たしていた。
生きている刺青がまるで無数の毒蛇のように皮膚の下で蠢き、天牛の肉を、異能を、そして生命力そのものを内側から食い破ろうと暴れ狂っているのだ。
天牛自身の骨が呪いの圧力によって軋む音が静寂の森に不気味に響き渡る。
「オレは……まだ、終わらねェ……!こんな呪いごときに食われてたまるかァァッ!!」
天牛は血走った双眸を見開き、残された左腕を地面に激しく叩きつけた。
彼自身の持つ常軌を逸した肉体強化の異能と無尽蔵のスタミナが呪いの進行と正面から激突している。抉れた右半身の肉が泡立ちながら異常な速度で再生を始めようとするがそれと同時に呪いの刺青がその新しい肉を食いちぎっていく。
再生と破壊。果てしない苦痛のループが彼の正気を削り落とし、純粋な殺意と狂気だけを残して獣へと変貌させていく。
(西園寺景明……!!)
天牛の脳裏に焼き付いているのは見下すような冷徹な眼差しで雷を放ってきた景明の姿と屈辱だった。
圧倒的な暴力で全てを蹂躙してきた自分が帝都の軍人によって、ここまで惨めな姿に成り果てたことが何よりも許せなかった。
「殺す……!次こそは絶対に……テメェの自慢の雷ごと、その四肢を引きちぎって肉団子にしてやる……!!」
天牛の口からどす黒い血の塊が土の上に零れ落ちる。
彼は強引に体を起こすと森の奥深くで渦巻く自然の力を強引に貪欲に自身の体内へと吸い込み始めた。
呪いを抑え込むためではない。呪いの力すらも自身の暴力の糧として取り込み、さらなる異形の怪物へと進化するための狂気の捕食だった。
天牛の巨躯がさらにひと回り大きく膨張していく。
黒焦げだった右半身が赤黒い筋肉の鎧となって異常な形で再構築され、彼の全身からは触れるもの全てを腐らせるような瘴気が立ち上り始めた。
「来いよ、西園寺……。この森がテメェらの墓場だ……!!」
鬱蒼とした富士湖の森の奥深く。復讐の炎に完全に正気を焼き尽くされ、手負いの獣から真の化け物へと成り果てた天牛が血に飢えた咆哮を上げる。
その恐ろしい遠吠えは帝都から向かってくる討伐部隊を待ちわびるように冷たい秋の空にどこまでも不吉に響き渡っていた。




