第39話
季節は若葉の青々とした香りが色濃く漂い始める初夏へと移り変わっていた。
帝都の中心部、その喧騒から遠く離れた郊外の丘陵地にそびえ立つ、豪奢で荘厳な西園寺家本邸。鬱蒼と生い茂る深い緑の木々に囲まれた広大な敷地内には柔らかな初夏の陽光が葉の隙間から燦々と降り注いでいる。庭園の片隅で色とりどりに咲き誇る大輪の紫陽花は、明け方に降り注いだ朝露に濡れてまるで砕けた宝石のようにきらきらと乱反射していた。
どこか遠くの枝先で名も知らぬ小鳥たちの軽やかなさえずりが初夏の生温かい風に乗って響き渡り、どこまでも平和で外界の争いなど嘘のような穏やかな時間が流れていた。
しかし、その優雅な静寂を幾度となく切り裂くように中庭の白い石畳の上では鋭く空気を打ち据える風切り音が連続して鼓膜を震わせていた。
「やあっ……!たあっ……!」
玉のような汗を白い額に幾重にも浮かべ、喉の奥から懸命に声を張り上げている鈴。
彼女の細く、まだどこか頼りなさの残る両手には西園寺家に代々伝わる家宝の一つ、白鞘の薙刀がしっかりと握りしめられていた。職人の手によって滑らかに磨き上げられた白木の柄は小柄な彼女にとってはひどく重く、長く、そして手のひらの熱を奪っていくほどに冷たい。
海老茶色の袴の裾を大きく翻し、足袋を履いた足で力強く石畳を蹴り上げるたびに上質な布地が擦れる衣擦れの音が小気味よく響き渡る。
秋に控えた神前式。そこに向けて彼女は今、西園寺景明の正妻となるための熾烈な花嫁修業の真っ最中であった。そしてそれと同時に自らの身を守るための武術の鍛錬も決して欠かすことなく毎日の日課として己に課していた。
(……もっと。もっと速く、そして鋭く……!)
薙刀の鋭利な刃先が初夏の眩しい陽光を反射し、銀色の冷たい軌跡を虚空に幾つも描いていく。胸が焼き切れるほどに肺の奥まで初夏の空気を吸い込み、熱い呼気として吐き出す。手や足の裏から伝わってくる微かな痺れや使い慣れない筋肉が悲鳴を上げるような軋む痛みさえも、今の鈴にとっては自分が少しずつでも前へ進み、確かな力を手に入れているという頼もしい証拠に思えた。
何度目かの素振りを終え、肩で大きく息を吐き出して薙刀の切っ先を下ろした、まさにその時だった。
「鈴様。お見事な太刀筋でございます。少し、ご休憩なさいませ」
背後から静かでひんやりとした、しかしどこか温かみのある声がかけられた。
振り返るとそこには若菜が冷たい飲み物を載せた銀の盆を両手に持ち、恭しく頭を下げていた。糊のパリッと効いた真っ白なエプロンが初夏の風に微かに揺れている。
「ありがとう、若菜さん……ふうっ、少し夢中になりすぎちゃった」
鈴は手渡された清潔な純白のタオルで額や首筋に浮かんだ汗を丁寧に拭うと冷やされた檸檬水が入った切子グラスを両手で受け取った。
涼しげな耳に心地よい音を立てて氷が揺れる。グラスの表面にびっしりと結露した水滴が熱を持った指先をひんやりと冷やしていく。一口含むと弾けるような檸檬の酸味と蜜のほのかな甘みが混ざり合い、乾ききって張り付いた喉の奥へと滑らかに流れ込んでいった。その心地よい冷たさと爽快感に鈴は深い安堵のため息を漏らす。
「……少しは様になってきたようだな、鈴さん。だが、刃を振るうにはまだ腰が浮いておる。いざという時に己を守り抜くためだ、決して気を抜くではないぞ」
ふいに背後から重厚な声が響いた。
振り返ると車椅子の車輪が石畳を静かに転がる特有のゴムの摩擦音が近づいてくる。
厳格でありながらもどこか深く静かな海の底を思わせるような、腹に響く、源五郎の声だった。
彼は上等な革張りの車椅子に深く腰掛け、不自由な足元には初夏とはいえ肌触りの良い薄手のブランケットを掛けている。
決して甘やかさない威厳に満ちた口調の中にも目尻に刻まれた深い皺の奥には鈴に対する揺るぎない思いやりと慈愛の色が確かに滲んでいた。
「大旦那様……!はい。この薙刀も最初は重くて持ち上げるのすらやっとだったのですが……最近はほんの少しだけ手に馴染んできたような気がしております」
「ふん。景明の奴め、この期に及んで貴女を危険から遠ざけようと必死に囲い込んでおる。あやつの度を越した過保護には辟易するが……貴女がそうして決して逃げず、立ち向かう姿勢を見せていることだけが今のあやつの支えであろうな」
源五郎の厳格な響きを持った言葉に鈴は照れくささと申し訳なさが入り混じったように頬を染め、海老茶色の袴の裾を強く握りしめた。
景明の整った顔立ちを脳裏に思い浮かべるだけで鈴の胸の奥は甘く締め付けられ、同時に針で刺されたような痛みが走る。
今、景明は秋の神前式までに帝都の暗がりに巣食う害虫どもを完全に殲滅すべく、不眠不休の修羅と化して最前線に立ち続けている。彼自身の持つ、世界を凍らせ、雷鳴で焼き尽くす強力な氷と雷の異能を振るい、昼夜を問わず血みどろの残党狩りに明け暮れているのだ。
「……西園寺様、お怪我などされていないでしょうか。私、毎日心配で夜も……」
グラスを握る鈴の華奢な手が微かに震えた。冷たい水面が波立ち、小さな波紋が広がる。
そんな鈴の不安に染まった震えを見るに見かねたように源五郎は車椅子から少しだけ身を乗り出し、節くれだった大きな手で鈴の頭を不器用ながらも優しく撫でた。
「案ずるな。あやつの懐には貴女が縫い上げたサギソウのハンカチがある。あれほどの清浄な祈り……あやつの命を繋ぎ止めるには十分すぎるほどの枷となろう」
源五郎の言葉に鈴は顔を上げた。
まだ肌寒かった春の夜。眠気と戦い、鈴が景明の無事だけをひたすらに祈り、絹糸で縫い上げた純白のサギソウ。
あれが今、戦場に立つ景明の胸元にあり、彼をありとあらゆる悪意から守る絶対の盾となっている。
「……はい。私の力が少しでも西園寺様のお役に立てているのなら……これほど嬉しいことはありません」
鈴が安堵の笑みを浮かべ、初夏の陽光の下でふわりと花が咲いたような表情を見せた、まさにその直後だった。
「鈴さん。武術の鍛錬も結構ですが貴女にはまだまだ学んでいただかねばならないことが山ほどあります。いつまでも庭で涼んでいる暇はありません」
背筋が凍りつくような、凛冽たる氷の刃のような声が中庭に響き渡った。
肩を震わせて振り向くとそこには和服姿で立つタキが立っていた。彼女の背後には権藤がまるで地獄の底から這い出た夜叉のような無表情で控えている。
「お、大奥様……!も、申し訳ありません、すぐに向かいます!」
鈴は慌てて残りの檸檬水を飲み干し、薙刀を若菜に預けると、居住まいを正して深く頭を下げた。
そう、鈴にとっての本当の“戦場”は中庭での薙刀の稽古などではない。本邸の厨房であり、広間であり、和室で行われるありとあらゆる花嫁修業こそが彼女にとって命を削るような最大の試練なのである。
◇
屋敷の広大で清潔な厨房。
磨き上げられた分厚い木のまな板の上でどこか危なっかしくリズムの一定しない包丁の音が響いている。
まな板の上には形も厚さも不揃いな大根の輪切りが無惨に転がっていた。
「……鈴さん。私は先ほど、面取りを角が立たないように丁寧にするようにと申し上げたはずですが?これでは煮崩れを起こして、せっかくの出汁の風味が濁ってしまいます。このようなもの、西園寺の当主の食卓に出せる代物ではありませんよ」
タキの容赦のない冷ややかな指摘に鈴は肩を跳ねさせ、俯いた。鼻先には上質な昆布と鰹節が織りなす、えも言われぬ豊かな出汁の香りが漂っているというのに鈴の心の中には焦燥感と自己嫌悪ばかりが黒い雲のように募っていく。
鈴は針と糸を持たせれば、ずば抜けた技術を発揮し、美しい世界を布の上に描き出すことができる。しかし、料理や掃除、巨大な西園寺家を切り盛りする上での複雑な家事全般に関してはお世辞にも得意とは言えなかった。
手先は器用なはずなのになぜか包丁を持つとうまく力が入らない。火加減を間違えて鍋底を焦がしてしまったり、味付けの塩梅が分からずに濃くなりすぎたりと失敗の連続である。
「申し訳ありません、大奥様……。私、どうしてもお料理だけは手際が悪くて……」
「言い訳は無用です。裁縫が得意なのは大いに結構。ですが、それだけで西園寺家の嫁が務まるほど、華族の世界は甘くありませんよ。景明さんは今、文字通り命を削って外で泥に塗れて戦っているのです。貴女は内側から彼を支え、いかなる時も彼が安らげる完璧な場所を作らねばならない。それができないのなら秋の神前式など夢のまた夢です」
タキの言葉はまるで鋭い針のように鈴の胸に突き刺さる。
春画を使った寝所作法のような、顔から火が出るほど恥ずかしい教育から、こうした日常の細々とした家事までタキの指導は一切の妥協を許さなかった。
しかし、鈴はその氷のような厳しさの裏側にタキの底知れぬ深い愛情が隠されていることを知っている。タキもまた、孫である景明の幸せと無事を誰よりも強く願っているのだ。だからこそ、鈴をただの“守られるだけのお姫様”ではなく、これから先、どんな激しい嵐が吹き荒れようとも耐えうる“西園寺家の揺るぎない女主人”として鍛え上げようとしているのである。
「……はい。必ず、立派にこなせるようになってみせます。何度でも、やり直します」
鈴は唇を噛み締め、再び不器用な手つきだが決して逃げ出さない強さを瞳に宿して包丁を握り直した。その健気な横顔をタキはわずかに目を細めて、静かに見つめていた。
息の詰まるような厳しい修業を終え、全身が泥のように疲労しきった夕刻。
鈴は自室である、天蓋付きのベッドが置かれた豪奢な洋室に倒れ込み、シーツに顔を埋めて大きく息を吐き出した。
窓の外では燃えるような茜色の夕陽が帝都の街並みを美しく染め上げ、徐々に群青色の夜の帳が下りようとしている。初夏の生ぬるい風が開け放たれた窓から入り込み、繊細なレースのカーテンを優しく、波のように揺らしていた。
疲労で指先一つ動かすのも億劫なほどだったが鈴の胸の奥は不思議と温かな高揚感で満たされていた。自分自身の心臓の鼓動が秒針よりも早く時を刻んでいくのを感じる。
(……もうすぐ、夜になる)
実は鈴がこの過酷な日々の修業を涙をこらえて笑顔で乗り越えられるのには大きな理由があった。
それは源五郎の、不器用ながらも深い愛情に満ちた粋な計らいによるものだ。
当初、タキは「秋の神前式を無事に迎えるまで決して二人は顔を合わせてはならない」という古いしきたりを絶対の掟として掲げていた。限界を迎えて夜な夜な本邸に押し掛けてくる景明を分厚いオーク材の扉の向こう側へと冷酷に追い返し、鈴のすすり泣く声すらも遮断していたのだ。
しかし、身を粉にして血の海を歩む孫の姿と毎日健気に厳しい修業に耐えながらも景明を想って密かに枕を濡らす鈴の姿を見かねた源五郎がタキを根気強く説得してくれたのである。
「タキよ。若い二人にこれ以上の試練を課すのはいささか酷というものだ。景明の奴も、鈴さんの声すら奪われては立ち行かなくなるであろう。……週に一度だけ。決して姿を見せず、分厚い扉を隔てた逢瀬ならば西園寺のしきたりにも反しはすまい」
源五郎の厳格だが慈悲深い説得にさすがのタキも最後には深くため息をついて折れるしかなかったのだ。
かくして週に一度、決して姿を見せない扉越しならばという厳格な条件付きで二人の密会が特例として認められることになったのである。
アンティークの置時計の針が待ち焦がれた約束の時間を告げようとしている。
鈴は弾かれたようにベッドから起き上がると三面鏡の前に立ち、乱れた髪を櫛で丁寧に梳かし、衣服の皺を慌てて手で伸ばした。
姿が見えないと分かっていても、扉越しに彼の気配を感じるだけで少しでも綺麗な自分でありたかったのだ。ほんのりと紅を差し、深呼吸をする。
廊下に続く、重厚なオーク材で作られた分厚い扉。その向こう側に愛しい彼があの血なまぐさい戦場から帰ってくる。
◇
すっかりと陽が落ち、群青から漆黒へと塗り替えられた帝都の空には銀屑を散りばめたような満天の星が冷たい瞬きを放っていた。
屋敷は夜の静寂の中に深く沈み込んでいる。広大な庭園の木々は夜風に吹かれてざわめき、まるで古い秘密を囁き合っているかのような葉擦れの音を暗闇に響かせていた。
豪奢な洋風建築である屋敷の内部は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。長く続く廊下には一定の間隔で壁に据え付けられたアンティークのガス燈がオレンジ色の温かでどこか心細い光を落としていた。分厚い絨毯が敷かれた床は足音を完全に吸い込み、磨き上げられた壁の木目には揺らめく炎の影が生き物のように這わされている。
その仄暗い廊下を重く、引きずるような足どりで歩いてくる景明の影があった。
軍服に身を包んだ彼の出で立ちは昼間まで繰り広げられていた壮絶な死闘の痕跡を色濃く残していた。軍服の裾には微かに泥が跳ね、本来ならば乱れ一つないはずの黒髪も今は疲労でわずかに額に張り付いている。
秋の神前式までに帝都の暗がりに巣食う赫夜の残党を完全に殲滅するため、彼は文字通り不眠不休で最前線に立ち続けていた。その強大すぎる異能は行使するたびに彼自身の体力と精神力を削り取っていく。彼はただひたすらに血と硝煙に塗れた凄惨な戦場を駆け抜けてきたのだ。
(……限界が近いな)
景明は内心で自嘲気味に呟きながら重い瞼を擦った。
全身の筋肉は悲鳴を上げ、血管の中を泥が流れているかのようなひどい倦怠感が彼を苛んでいる。耳の奥ではいまだに敵の断末魔や雷鳴が空気を引き裂く轟音が幻聴のように木霊していた。心が冷たく硬い氷の塊のように凍てついていくのを感じる。
しかし、彼の足は決して止まることなく廊下の奥にある一室へと向かっていた。
鈴のあてがわれた豪奢な洋室。その入り口を塞ぐように重厚なオーク材で作られた分厚い扉が立ちはだかっている。表面に見事な彫刻が施されたその扉はまるで難攻不落の城門のように今の景明と鈴の世界を無情にも分断していた。
そして、その扉のすぐ横に、壁に背を預けるようにして直立不動の姿勢を保ってる権藤がいた。
彼は仕立ての良い燕尾服を身に纏い、彫像のように微動だにしない。鋭い眼光だけが暗闇の中で光を放っている。
「……権藤」
景明が掠れた低い声で名を呼ぶと権藤は音もなく深く一礼した。
「お待ちしておりました、坊っちゃん。本日の作戦も大層な激戦であったご様子。まずはご無事のお帰還、何よりでございます」
「……ああ。だが、まだ片付いてはいない。根深い連中だ」
「大奥様より厳命が下されております。『週に一度、決して姿を見せない扉越しならば』というお約束。……時間は厳守していただきますぞ」
権藤の声はいかなる感情も交えない、冷徹な事務連絡のようであった。しかし、その厳つい顔の奥底に主人である景明への深い労わりと、若い二人の過酷な運命に対する同情が隠されていることを景明はよく知っていた。
本来ならば婚前交渉はおろか顔を合わせることすら禁じられている。この逢瀬の場を黙認してくれている源五郎と折れてくれたタキ、そしてこうして見張りに立ちながらも時間を割いてくれる権藤には感謝してもしきれなかった。
「……分かっている。少しだけ、声を聞かせてくれればいい」
景明は静かに頷くと重厚なオーク材の扉へゆっくり近づいた。
扉の表面に触れる。木肌の感触が革手袋を外した大きな掌から伝わってくる。ほんの数センチ先、この分厚い板の向こう側に愛しい彼女がいる。そう思うだけで凍りついていた景明の心が温かな血の巡りを取り戻していくのが分かった。
景明は扉に背中を預けるようにして、音を立てて床に腰を下ろした。長い脚を投げ出し、重い頭を扉にぶつけるようにして預ける。
そして震える指先で軍服の胸元のポケットを探り、そこからまるで壊れやすい宝物を扱うようにハンカチを取り出した。
鈴が徹夜で縫い上げてくれたサギソウのハンカチ。
絹の滑らかな手触り。そして布の隅にサギソウの刺繍の僅かな凹凸。景明はその刺繍部分を指の腹でそっと撫でるとハンカチを両手で包み込むようにして顔を埋めた。
ハンカチから匂い立つのは血と泥の匂いなどではない。
日向で干したての清潔な綿の匂い。微かに混じる鈴が愛用している石鹸の甘い香り。そして彼女自身の体温を思わせる、柔らかくて優しい、心安らぐ匂いだった。
「……っ、すず……」
景明の喉の奥から獣の呻き声のような切実な吐息が漏れた。
肺の底まで鈴の匂いを深く、深く吸い込む。その時、背中の預けている扉の向こう側で微かな衣擦れの音と可愛らしい足音が近づいてくるのが伝わってきた。
「……西園寺、様……?」
扉の向こうから鈴を転がしたような、高く澄んだ、それでいてどこか不安げに震える声が響いた。
分厚い木材に遮られているため、声はくぐもっている。しかし静まり返った夜の廊下においてはその微かな声の震えすらも景明の鋭敏な聴覚は正確に拾い上げていた。
姿が見えない。だからこそ、聴覚と嗅覚が限界まで研ぎ澄まされ、相手の存在をこれ以上ないほど強烈に意識してしまう。
「……ああ。私だ、鈴。遅くなってすまない。起こしてしまったか?」
景明は扉に頭を預けたまま、低い、熱を帯びた声で応えた。
自分の声が愛しい少女に向けて発せられた途端、ひどく甘く、そして情けないほどに縋るような響きを帯びていることに気づき、景明は小さく苦笑した。
「いいえ!私、起きていました。ずっと……ずっと西園寺様のお声が聞きたくて、待っていたんですから」
内側から小さな両手で扉を叩くような音がした。おそらく、鈴も扉の向こう側でこちらと同じように木の板に顔を寄せているのだろう。彼女の熱を帯びた吐息が扉越しに伝わってくるような錯覚さえ覚える。
「……そうか。待たせて悪かったな。……君の声を聞くと本当に生きた心地がする」
景明は目を閉じ、再びハンカチに顔を擦り寄せながら心底からの安堵の息を吐き出した。
「お怪我はありませんか……?どこか痛むところは……冷たい思いや怖い思いはしていませんか?」
鈴の声は弾むような喜びの中にも溢れんばかりの心配と慈愛の色を滲ませていた。まるで迷子になった子供を案じる母親のような無償の愛。
「何もない。君が縫ってくれたこのハンカチがありとあらゆる悪意から私を守ってくれている。君の祈りが私の絶対の盾だ。……だから泣きそうな声を出さないでくれ、鈴。君を泣かせるのは私にとって何よりも耐え難い苦痛だ」
「な、泣いてなんていません……っ。ただ、安心しただけで……」
鼻をすする微かな音が聞こえ、景明は愛おしさのあまり、扉を突き破ってしまいたい衝動に駆られた。
どんな激戦をくぐり抜けてもこの少女のたった一言、たった一粒の涙の気配だけで帝都最強の男はいとも簡単に武装を解除されてしまう。
「……今日はどう過ごしていた?お祖母様の修業は厳しかったか?」
景明は自らの血生臭い日常を悟られまいと努めて穏やかに彼女の日常を尋ねた。すると扉の向こうの鈴は少しだけ言い淀むように沈黙した後、恥ずかしそうに小さな声を上げた。
「……はい。今日は、厨房でお料理の修業だったのですけれど……また、大奥様に叱られてしまって。私、お裁縫なら何時間でもできるのにどうしてお包丁を持つとうまく切れないのかしら……。お大根の面取りをしたら、小さなおはじきみたいになっちゃって……」
肩を落とす彼女の姿が鮮明に脳裏に浮かぶ。
景明はたまらず喉の奥で低く笑い声を立てた。
「ふっ……くくっ。そうか、おはじきか。それは随分と可愛らしい大根だな。……私なら君が一生懸命に切ってくれたものならそれが炭の塊であっても喜んで平らげるがね」
「もうっ!西園寺様、からかわないでください!私、真剣に悩んでいるんですからね!これでは秋になっても西園寺様の隣に立てなくなってしまいます……」
怒る気配すらも愛おしくてたまらない。姿が見えないからこそ、扉越しに交わされる他愛のない会話がどんな贅沢な娯楽よりも甘く、景明の干からびた心を潤していく。
鈴の弾むような声のトーン、言葉の端々に滲む自分への深い愛情。
分厚いオーク材の扉に遮られているというのに二人の魂は確かに触れ合い、溶け合っていた。
夜の廊下には静かに見守る権藤の気配と甘く熱を帯びた二人の話し声だけがいつまでも優しく響き続けていた。
「……今日も大奥様にたくさん叱られてしまって、少しだけ泣きそうになりました。でも西園寺様がこうしてお声を届けてくださるから……私、明日も頑張れそうです」
「そうか。お祖母様も君への期待が大きいのだろう。だが、あまり無理はしないでくれ。君が傷つくくらいなら、西園寺の女主人としての完璧さなど、私は一向に構わないのだから」
「ふふっ、駄目ですよ、そんなことおっしゃっては。大奥様に聞かれたら西園寺様までお説教されてしまいます」
扉の向こうで笑う鈴の気配に景明の唇にも自然と柔らかな弧が描かれる。
しかし、会話が弾めば弾むほど、そして彼女の甘い匂いを帯びた空気を吸い込めば吸い込むほど、景明の胸の奥底で燻っていた黒い炎が次第にその熱を増していくのを感じていた。
足りない。声を聞くだけで満たされると思っていた。彼女が無事でこの強固な結界に守られた本邸で笑っているという事実だけで自分は戦場を生き抜くことができると信じていた。
だが、現実は違った。分厚い木の板一枚。ほんの数センチ先にある彼女の温もり。それが今はひどく遠く、途方もない壁のように思えてならない。
(……私は、自分が思っている以上に底知れぬ強欲さを抱えた男らしい)
景明は、扉に預けていた背中をゆっくりと離し、立ち上がった。
革靴の踵が分厚い絨毯の上で重い音を立てる。その微かな気配の変化に気づいたのか、扉の向こうの鈴の弾んでいた声が途切れた。
「……西園寺様?」
「……鈴」
景明は両手を分厚いオーク材の扉に押し当てた。微かに木が軋む音が鳴る。その両腕の筋肉は限界まで張り詰め、軍服の生地越しにも彼の体温が異常なほど上昇しているのが分かる。
彼の中に眠る、強すぎる異能。帝都中の敵対者を震え上がらせるその絶大な暴力が今、愛しい少女を閉じ込めているこの忌々しい扉を破壊したくてたまらないと血の底から咆哮を上げていた。
「声を聞けば心が安らぐと思っていた。……だが、駄目だ。こうして君の声を聞き、君の匂いを感じていると……どうしようもないほどに君に触れたくなる」
「っ……」
「今すぐ、この分厚い扉を粉砕してでも……君をめちゃくちゃに抱きしめたい。誰の目にも触れさせず、私だけの腕の中に閉じ込めて、二度と離したくなくなる。……君を想うほどに私の理性は限界を迎えそうだ」
それは帝都最強の鬼少佐が吐き出した、あまりにも生々しく、切実で獣のような独占欲の露呈だった。
自身のどす黒い本音をぶつけてしまったことに気づき、景明は息を呑んだ。純真な彼女をこんな身勝手な欲望で怯えさせてしまったのではないか。だが、扉の向こうからは悲鳴も、拒絶の言葉も返ってはこなかった。
扉の内側から衣擦れの音が近づいてくる。そして景明が押し当てている手のひらのちょうど裏側あたり。そこに小さく確かな熱が重ねられる気配がした。
「……私も、同じ気持ちです」
震えているが真っ直ぐな鈴の声だった。扉の向こうで彼女もまた、この冷たい木の板に両手を押し当て顔を寄せているのだろう。
「西園寺様のお声を聞くだけで胸が苦しくなります。姿が見えないことがこんなにも切ないなんて……。私も西園寺様に……触れたいです」
その言葉は景明の中で張り詰めていた理性の糸をいとも容易く断ち切るには十分すぎるほどの威力を持っていた。
景明の大きな手が震えながらドアノブへと伸びる。
真鍮製の冷たいノブを握りしめ、ゆっくりと音を立てないように回した。
微かな金属音が夜の廊下に響く。背後に控える権藤がその音に反応して鋭い視線を向けたのが分かった。しかし権藤は動かない。ただ無言で主人の葛藤を彫像のように見守っていた。
蝶番が微かな悲鳴を上げる。開かれたのはほんの数センチほど微かな隙間。
だが、その一筋の隙間から鈴の部屋を照らすランプの温かな黄金色の光が仄暗い廊下へと一条の線となって零れ落ちた。
光と共に甘い石鹸の匂いとハンカチと同じ、日向のような彼女の匂いが押し寄せてくる。
「……顔は見ない。約束は守る」
景明は掠れた声でひねり出すようにそう呟くとその僅かに開いた扉の隙間へ己の大きな右手をゆっくりと差し入れた。
手袋を外した無骨な手。過酷な戦いにより、その指先はひどく冷え切っている。
数秒の永遠にも似た沈黙の後。暗がりの中から差し出された景明の大きな掌に温かく、柔らかな鈴の指先がそっと触れた。
「あっ……」
鈴の小さな口から甘い吐息が漏れる。
景明はその柔らかな指先を確かめるようにゆっくりと、そして逃がさないように深く絡め取った。
氷のように冷たかった景明の手を鈴の小さな両手が大切に、まるで凍えた小鳥を温めるように包み込む。
(……温かい。これが鈴の……)
肌と肌が直接触れ合った、その瞬間、ただそれだけのことなのに景明の脳髄を甘く痺れるような多幸感が一気に突き抜けていった。
愛する者がそこにいて自分に触れてくれているという事実そのものが戦場で乾ききっていた彼の心をひたひたと満たしていく。
繋がれた指と指の間から鈴の柔らかな体温が直接流れ込んでくる。互いの脈打つ鼓動が重なり合い溶け合っていくのが分かった。
「西園寺、様……」
「……ああ。君の熱だ。君が私の中に流れ込んでくる……。たまらないほど、甘い」
景明は繋いだ鈴の手を引き寄せ、その白く滑らかな手の甲に熱を帯びた唇を深く、這わせるように押し当てた。
微かな水音が夜の廊下に響く。隙間から差し込まれた互いの腕だけが今の二人を繋ぐ全てだった。姿は見えない。けれど目を閉じれば鈴がどんなに頬を赤らめ、潤んだ瞳で自分の手を受け入れてくれているのか手に取るように分かった。
手の甲から指先、そして手のひらへと景明の唇が吸い付くように移動するたび、扉の向こうから鈴の甘く震える声が零れ落ちる。
その艶やかな吐息は景明の理性を真っ向から焼き尽くしていく。ただ触れ合っているだけなのにまるで魂の奥底まで抱きしめ合っているかのような濃密で甘美な時間。
このまま彼女の腕を強く引き寄せ、忌々しい扉を蹴り破り、その華奢な身体をベッドに押し倒して、二度と離れられないように自分だけの印を刻み込んでしまいたい。
理性が快楽と独占欲の濁流に完全に呑み込まれそうになった、まさにその時だった。
「……坊っちゃん。お時間です」
甘い夢の世界を切り裂くように背後から権藤の低く地を這うような声が響いた。
それはいかなる感情も挟まない絶対の通告だった。これ以上の接触は特例として許された境界線を越えるという、彼なりの警告でもあった。
景明は魔法が解けたように目を見開いた。ギリギリのところで理性の手綱を握り直し、景明は深く、身を切るような痛みに堪えるように、息を吐き出した。
「……すまない、鈴。私は行かなくてはならない」
絡めていた指を名残惜しそうに一つ一つ解いていく。
鈴の温もりが離れていく瞬間、景明の心臓がちぎれるような喪失感が襲った。
「……はい。どうか、ご無事で。私、いつでもここでお待ちしておりますから……っ」
鈴の声は微かに鼻声になっていた。泣くまいと必死に堪えているのが分かり、景明は扉の隙間から差し込んでいた手を引き抜くと再び真鍮のノブを握りしめた。
「……必ず、君を迎えに来る。秋の神前式には誰にも邪魔されず、君を私の妻にする。それまでは……どうか、お祖母様の修業に耐えてくれ」
「はい……っ!」
残酷な金属音と共に分厚いオーク材の扉は完全に閉ざされた。漏れ出していた黄金色の光も甘い体温も遮断され、廊下は再び元の仄暗さと静寂を取り戻した。
しかし、景明の右手に残る柔らかな感触と彼を満たした底知れぬ愛おしさだけは決して消えることはなかった。
「……感謝する、権藤」
景明は左手に握りしめたハンカチを再び軍服の胸ポケットへと大切にしまうと振り返ることなく歩き出した。
その背中は帝都最強の異能者としての覇気を取り戻し、愛する者を守り抜くという揺るぎない決意に満ちていた。
初夏の夜。分厚い扉を隔てた、ほんの数分間の逢瀬。
触れられない距離がもたらした焦燥と指先だけが触れ合った瞬間の純度百パーセントの甘い熱情は二人の絆をいっそう深く、そして狂おしいほどに強固なものへと鍛え上げていた。
◇
帝都の華やかな喧騒から遠く離れた、地図からもとうに忘れ去られた旧都の深い山奥。
鬱蒼と生い茂る樹海に飲み込まれるようにしてひっそりと佇む、苔生した巨大な廃洋館はこの世の全ての光と希望を完全に拒絶するかのように深い漆黒の闇の底に沈み込んでいた。
かつてはどこかの華族が栄華を極めて建てたであろうその豪奢な洋館も今や見る影もなく朽ち果てている。ひび割れ、煤けたステンドグラスからは冷たい月明かりすら満足に差し込まず、剥がれ落ちた豪奢な壁紙の裏側には無数の不快な羽虫や名も知らぬ黒い影が蠢いている。
空間全体を重く支配しているのは鼻の奥に絡みつくような重く湿ったカビの臭い。そして長年にわたって床板の深い木目にまで染み込んだ赤黒い錆と古い血のむせ返るような鉄の匂いであった。
ただ肺に吸い込むだけで寿命が削り取られていくような、圧倒的に禍々しく、不浄な空気。
ここが帝都の暗がりに巣食い、景明たちが血眼になって追っている赫夜の最も重要で秘匿された潜伏拠点の一つであった。
カンテラの薄暗く気味の悪い緑色の炎だけが頼りなく揺らめく地下の広間。そこに集まっていた数人の黒ずくめの構成員たちはまるで巨大な嵐に怯えるネズミのように身を寄せ合い絶望的な報告を交わし合っていた。
彼らの足元の冷たい石畳には無惨にも粉々に砕け散った黒い水晶球の破片が散乱している。それは春の夜、西園寺本邸に極秘裏に呪いを送り込もうとした斥候が使用し、サギソウのハンカチから放たれた絶対的な清浄の光によって術者もろとも一瞬にして粉砕された残骸であった。
「……駄目だ。結界は以前にも増して強固になっている。我々の放つ“呪い”や“精神操作”の類はまるで見えない巨大な壁に弾かれるように不可視の光に焼かれて消滅してしまう」
「ああ……それにあの鬼少佐の残党狩りのペースは異常だ。昼夜を問わず、一睡もせずに帝都の拠点を次々と氷漬けにし、雷で焼き払っている。あいつは人間じゃない、文字通り血に飢えた修羅だ。このままでは我々、赫夜の末端は完全に根絶やしにされてしまうぞ……!」
「一体どうすればいい。あの小娘……小鳥遊鈴の持つ力が鬼少佐の最大の弱点であり、同時に最強の盾となってしまっている。呪殺も暗殺も通じないとなれば、我々はただ、あの化け物に狩られるのを待つだけではないか……っ」
恐怖と焦燥感に駆られ、構成員たちの声が悲痛な震えを帯びた、まさにその時だった。地下広間の重厚な石の扉の向こう側からまるで局地的な地震でも起きたかのような重く腹の底を揺るがす恐ろしい地鳴りが響いた。
構成員たちが肩を跳ねさせ、一斉に声のした方へと怯えきった視線を向ける。足音だ。ただ一人の人間が歩いているだけだというのに、その一歩ごとに分厚い石畳が悲鳴を上げて軋み、天井から古い土埃が舞い落ちてくる。
足音が近づいてくるにつれて広間の空気が極限まで圧縮されたように重くなり、呼吸をすることすら困難になっていく。むせ返るような濃密な獣の脂の匂いと一切の飾り気のない、むき出しの暴力の気配が津波のように押し寄せてきた。
「チッ……うじうじ、うじうじと……反吐が出るほど陰気臭ぇ野郎どもだ。だから手前ぇらは、いつまで経ってもコソコソ隠れ歩く“日陰者”なんだよ」
暗闇の奥からぬっと現れたのは規格外と言えるほどの岩山を思わせる見事な巨躯を持つ男であった。横幅と肉の厚みが尋常ではない。丸太のように太く短い首、はち切れんばかりに前へせり出した分厚い大胸筋、そして鋼鉄のワイヤーを何重にも束ねたかのような極太の腕。上半身に無造作に纏った荒々しい着流しの隙間からは幾多の死線を潜り抜けてきたことを物語る無数の刀傷や銃創が赤黒いミミズ腫れのように深く刻み込まれているのが見えた。
立っているだけで空間を圧迫するような、その筋骨隆々たる大男こそが赫夜において新たに上位幹部としてその名を轟かせる武闘派の重鎮、天牛だった。
「て、天牛様……っ!」
「ひぃっ……!」
構成員たちはその圧倒的な質量の暴力と彼から放たれる目も開けていられないほどの凶悪な覇気に当てられ、次々とその場に膝を突き、這いつくばるようにして平伏した。
天牛は床に散らばっていた黒水晶の破片を岩のように硬い素足で無造作に踏み砕いた。硬い鉱石がまるで脆い落雁のように容易く粉砕される音が響く。
「……呪いが通じねェ?結界が硬てェだと?はんっ、笑わせるな」
天牛は太い指で自身の首の骨を猛禽類が獲物を砕くような音を立てて鳴らすと顔の半分を覆うように歪んだ獰猛な笑みを浮かべた。その濁った眼光は獲物を前にした飢えた獣そのものであった。
彼はゆっくりと歩みを進めると地下広間の天井を支えている、大人が二人掛かりでようやく抱えきれるほどの太さを持つ大理石の柱の前に立った。
「手前ぇらみたいな、呪いだの術だのといった小細工にしか頼れねェ三流どもには分からねェだろうがな。この世で一番信用できるのは己のこの“肉体”だけだ」
言うが早いか天牛は右の拳を軽く握り込み、何の予備動作もなく、ただ無造作にその極太の大理石の柱に向かって拳を突き出した。
爆発音。そう表現するしかない、凄まじい轟音と衝撃波が地下広間を荒れ狂う嵐のように吹き荒れた。
平伏していた構成員たちが突風に煽られた枯れ葉のように吹き飛ばされ、石壁に激突して苦痛のうめき声を上げる。
濛々と舞い上がった土埃が晴れた後、そこに残されていた光景に全員が言葉を失い、絶望的な恐怖に顔を引き攣らせた。
天牛の放ったただの一撃。一切の異能も不気味な呪いの気配もない、純粋な物理的な破壊力のみによる一撃によって堅牢な大理石の柱は真ん中から完全にへし折られ、無惨な粉微塵に砕け散っていたのだ。
支えを失った天井が不気味な音を立てて揺れ、今にもこの地下空間そのものが崩落しそうなほどの致命的なダメージ。
「はははっ!見ろ、どんなに硬い石だろうがこうして叩き割ってしまえばただの砂利だ。……西園寺の結界がなんだ。清浄の光がなんだ。そんな小賢しい術が及ばねェほどの圧倒的な“力”で捻り潰せばいいだけの話だろうが」
天牛は拳に付着した石の粉を吹き飛ばすと、血走った眼球を不気味に光らせて帝都の方向を睨みつけた。
「結界ごと屋敷を土台から叩き潰せば済む。悠長なもんを待ってやる必要はねェ」
その低く、地獄の底から響くような声は聞く者の鼓膜だけでなく魂までをも直接震い上がらせるほどの恐ろしい宣告であった。
これまでの赫夜の刺客たちは精神を操ったり、呪いを掛けたりといった搦め手を得意としていた。だからこそ鈴の修復という清浄の力が完璧なカウンターとして機能していたのだ。
しかし、この天牛という男は根本から違う。彼は呪いなど一切使わない。ただひたすらに己の鍛え抜かれた岩のような肉体と常軌を逸した暴力によって目に映る全てを物理的に粉砕する、純粋な破壊の権化だ。彼がその恐るべき拳を振るえば結界という目に見えない防壁ごと建物自体が瓦礫の山と化し、中にいる人間はひしゃげた肉塊に変わる。
「鬼少佐……西園寺景明。あの小生意気なガキが一丁前に女を囲って守りに入っているとはな。傑作だぜ。……奴が一番絶望する顔が見てェ。あの目障りな氷と雷ごと、俺のこの両手で大切なお姫様ごとミンチにしてやるよ」
天牛の巨大な拳が握りしめられる音が死へのカウントダウンのように不気味に広間に響き渡る。
彼の全身から立ち上る、むせ返るような暴力の熱気。それは春から初夏にかけて景明と鈴が分厚い扉越しに少しずつ、大切に育んできた甘く温かい時間を無惨にも根底から蹂躙し、叩き壊すための黒い胎動であった。
帝都に降り注ぐ初夏の生ぬるい夜風。それは間もなく血と汗と硝煙に塗れた激しく残酷な夏の終わりの激闘が幕を開けることを告げる、不吉な前触れの風でもあった。
触れられない距離に焦がれ、ようやく互いの体温を指先だけで確かめ合った景明と鈴。二人の純粋な愛と祈りを嘲笑うかのように未曾有の物理的脅威、天牛が今まさにその巨大な牙を剥き出しにし帝都へ向けて重い足取りを踏み出そうとしていた。




