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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第六章 幸せな花嫁と嘘が真に変わるふたりの幕開け
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第38話

 郊外に建つ西園寺本邸の夜は帝都の中心部とは比べ物にならないほど静謐で濃密な闇と静寂に包まれている。薄絹のカーテンを幽霊のように揺らしていた。微かに鼻腔をくすぐるのは庭園に咲き誇る夜桜の甘い匂いと春特有の湿気を帯びた土の香りである。

 広々とした豪奢なゲストルームの中央に鎮座する天蓋付きのベッドで鈴は羽毛の布団に深く沈み込み、泥のような疲労に身を任せていた。

(……ああ、今日も生き延びた……)

 頭の奥で優しく痺れるような疲労感を感じながら鈴は小さく息を吐き出す。

 明が帝都の闇に蠢く害虫たちを駆除するため本邸を離れてから数週間。安全なこの郊外の邸宅に残された鈴を待っていたのはタキによる、血を吐くような“花嫁修業”の日々であった。

 午前中は華道、茶道、そして西園寺家に伝わる膨大な歴史と礼儀作法の暗記。午後になれば息つく暇もなく薙刀の稽古が待っている。鈴の武器である白鞘の薙刀は西園寺家の家宝であり、それを振るう以上、決して無様な真似は許されないのだとタキは容赦なく鈴をしごき抜いた。

 全身の筋肉が悲鳴を上げ、足の裏は畳との摩擦で熱を持ち、指先は微かに震えている。

 けれど、鈴の心は決して折れてはいなかった。薄暗い月明かりの中、鈴は布団の下でそっと自分の右手を見つめた。人差し指の腹にはほんの小さな赤い点がある。針を刺してしまった痕だった。

 枕の裏側に隠すようにして忍ばせているのは手のひらサイズの純白の布。そこには鈴が毎晩少しずつ、こっそりと縫い進めているサギソウの花の刺繍があった。

 銀糸と白糸を複雑に絡み合わせ、まるで本物の鳥が羽ばたいているかのような精巧な意匠。鈴の持つ異能は彼女の強い祈りとこの刺繍という行為を媒体にして初めて強大な力を発揮する。

(西園寺様は今頃どうしていらっしゃるのだろう……。お怪我など、していないといいのだけれど)

 血と泥に塗れながら自分のために帝都で修羅となっているはずの愛しい人の顔を思い浮かべる。

 夜の闇をそのまま切り取ったかのような瞳。一切の遮蔽物を持たない鋭くも澄み切った彼の眼差しが鈴を捉える時のひどく甘く、熱い温度。彼特有の冬の夜気と白檀の清潔な香り。

 彼に会いたい。あの大きな手できつく抱きしめられたい。

 そんな切ない渇望を胸に抱きながら、鈴がようやく甘い微睡みの底へと意識を手放しかけた、まさにその時だった。

 重厚な真鍮のドアノブが油の切れたような低い音を立てて回った。続いて分厚いマホガニーの扉がまるで地獄の釜が開くかのような重々しい音を立てて内側へと押し開かれる。

「……ひっ!?」

 鈴の肩が大きく跳ねた。春の夜の甘い空気を一瞬にして塗り潰すように廊下から流れ込んできたのはひどく威厳のある古雅な香りだった。

 暗がりの中、音もなく滑るようにして入室してきたのはきっちりと着付けられた夜着を纏い、背筋を定規で測ったかのように伸ばしたタキであった。

「……起きていますね、鈴さん」

「お、大奥様……!?そ、その、今はもう、草木も眠る丑三つ時では……」

 鈴は弾かれたように起き上がり、羽毛布団を胸元まで引き寄せた。心臓がまるで早鐘のように警鐘を鳴らしている。

 暗闇に目が慣れてくるとタキの腕の中に抱えられた“それ”の輪郭がはっきりと浮かび上がってきた。

 鈍い光沢を放つ、重厚な桐の箱。それを見た瞬間、鈴の全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出した。昼間の過酷な稽古による筋肉痛など、一瞬で吹き飛ぶほどの戦慄が背筋を駆け上がる。

「ま、また来られたのですか……!?」

「また、とは何ですか、鈴さん。聞き捨てなりませんね」

 タキは静かな、しかし有無を言わさぬ足取りでベッドの傍らまで近づくと枕元にある豪奢な燭台に火を灯した。

 オレンジ色の炎が揺らめき、タキの厳格な顔立ちとその腕にある禍々しい桐箱を照らし出す。

「以前も申し上げたはずです。由緒正しき西園寺家の当主夫人となるからには家事手伝いや武芸だけでなく、“寝室での作法”を完璧に習得することこそが最も重要かつ急務であると。景明さんのような強大な異能の血を絶やさず、次代へと繋ぐこと。それこそが貴女の最大の責務なのですから」

「わ、分かっております! 分かっておりますが、その、昨夜も夜明け近くまでその箱の中身を……!」

「昨夜までは『基礎編』です。今夜からはより実践的な『応用と体位の図解』に入ります」

「図解!?」

 鈴の口から、もはや令嬢らしからぬ素っ頓狂な悲鳴が漏れた。

 タキは鈴の悲鳴など全く気にも留めず、ベッドの端に腰を下ろすと恭しく桐箱の蓋に手をかけた。

 重い木の蓋が外される音は鈴にとって死刑宣告にも等しかった。箱の中から取り出したのは何百年も前から西園寺家の蔵の奥深くで厳重に保管されてきたという、秘伝の絵巻物、すなわち、極彩色で描かれた生々しすぎる春画の束であった。

 古びた和紙の擦れる音が静かな室内に響く。燭台の炎に照らし出されたのは江戸から明治にかけての最高峰の絵師が己の技術と情熱を注ぎ込んで描き出した男女の交わりの図。

 鮮烈な朱色、艶めかしい肌の白さ、そして、あり得ないほど克明にかつ誇張されて描かれた“秘め事”の数々。

「ひゃあああっ!?」

「目を逸らしてはいけません、鈴さん。よく見なさい」

 真っ赤になって両手で顔を覆おうとした鈴の手首を扇子で叩く。

「景明さんは帝都最強と謳われる類稀なる異能者。その生命力たるや、常人の比ではありません。彼がひとたび理性を手放し、貴女を求めた時、貴女がその圧倒的な熱量と力に怯え、受け止めきれなければどうなるか。……最悪の場合、彼の力である氷や雷が暴走し、寝室ごと消し飛ぶ可能性すらあるのですよ」

「し、寝室ごと消し飛ぶ……!?」

「そうです。だからこそ、貴女は彼を宥め、いなし、そして安全に、かつ極上の悦びと共に彼を受け入れる技術を学ばねばならないのです。さあ、この図の、女性の足の角度と指先の這わせ方に注目しなさい。ここは非常に重要な……」

 タキの解説はどこまでも学術的で極めて真面目で一切の照れや淀みがなかった。それが余計に鈴の純情を容赦なく抉っていく。

(西園寺様が……私に、こんな、こんな恐ろしいほど激しいことを……!?)

 鈴の脳内で景明の顔がフラッシュバックする。あの凛々しい彼が自分を組み敷き、こんな風に衣を剥ぎ取り、そして。

 そこまで想像した瞬間、鈴の顔面は沸騰した薬缶のように熱を持ち、耳の奥で限界を知らせる音が鳴り響いた。視覚から飛び込んでくる極彩色の衝撃と聴覚から注ぎ込まれるタキの生々しい解説が鈴の五感を完全にショートさせる。

「大奥様、もう、もう許してください……っ! 私、息が、息ができません……っ!」

「何を軟弱なことを言っているのです!まだ序盤までしか説明していませんよ!景明さんの熱情はこんな小手先の技術では到底……」

 夜の屋敷にタキの厳格な講義の声と鈴の涙声の悲鳴が夜明けまで延々と響き渡ることとなった。 鈴の握りしめた純白のシーツは手汗と緊張で濡れ、枕の下のサギソウの刺繍だけが彼女の唯一の心の拠り所であった。

 帝都の繁栄の象徴である赤煉瓦の立ち並ぶ表通りから、迷路のように入り組んだ暗い路地裏へと足を踏み入れるとそこは光の届かない全く別の世界であった。

 ドブネズミが這い回り、生活排水とヘドロの混じった酷い腐臭が鼻をつく。春の夜特有の生温かい湿気がその悪臭をさらに濃密なものにして淀ませていた。

 だが今、その泥濘に塗れた裏路地を支配しているのは腐臭などではない。鼻の奥を突くような、濃密で鉄錆びた血の匂いとオゾンが焦げたような鋭利な空気。そして絶対零度の冷気であった。

「がああああっ!?」

「ひ、ひぃぃ……!ば、化物め……っ!」

 月明かりすら届かない深い闇の中、鼓膜を劈くような断末魔の悲鳴が響き渡る。しかし、その声は長くは続かない。悲鳴の主である男たちの体は足元から急速に這い上がってくる“氷の呪縛”によって、瞬く間に白く凍りついていくのだから。

「……五月蠅い。貴様らのような害虫を帝都に一匹たりとも残しておくわけにはいかないのだ。音を立てるな、目障りだ」

 暗闇の奥から地獄の底から響いてくるような低く冷酷な声が落ちた。軍靴の踵が凍りついた石畳を踏み鳴らす。

 現れたのは漆黒の軍服に身を包んだ景明だった。

 彼の右腕からは青白い冷気が立ち昇り、周囲の湿気を瞬時に氷の結晶へと変えていく。そして左手には紫電を纏う雷の球体が握られていた。帝都最強と謳われる、氷と雷の双属性の異能。

 彼の端正な顔立ちは一切の感情を削ぎ落とした能面のように冷え切っていた。眼鏡などという遮蔽物を持たない、切れ長で鋭い漆黒の瞳は足元に這いつくばる敵組織の末端構成員たちを文字通り“虫けら”を見るような温度で見下ろしている。

「た、助けて……っ!俺たちはただ、言われた通りに金で雇われて……!」

「命乞いをする暇があるなら、貴様らの組織の幹部がどこに潜んでいるか吐け。……まあ、言わなくとも無理やり聞き出すがな」

 景明の左手から放たれた一条の雷撃が命乞いをする男のすぐ横の煉瓦の壁を粉砕した。爆音と共に土煙が舞い上がり、焦げた石の匂いが周囲に立ち込める。

「ひぃぃっ!?」

「……少佐。やりすぎです。これでは尋問前に彼らの精神が崩壊してしまいますよ」

 暗闇の中から呆れたようなため息と共に歩み出てきたのは氷室だ。彼は泥だらけの路地を嫌悪するように眉間に皺を寄せながら懐から手帳を取り出す。

 その後ろからはどこかのんびりとした足取りで桜木がついてきていた。

「氷室大尉の言う通りっスよぉ、少佐。俺の異能を使う前にみんな泡吹いて気絶しちゃってますもん」

「桜木、お前は少し黙っていろ」

 氷室が桜木をたしなめる。氷室の異能は読心。相手の心を読み取る力であり、嘘を見抜く尋問において彼の右に出る者はいない。

「氷室、桜木、残党の処理と尋問は任せる。……私は少し休憩をとる」

「はっ。……少佐、お顔の色がひどく悪いですが。もしかして、ここ数日、一睡もされていないのでは?」

 氷室が眼鏡を中指で押し上げながら、鋭い視線を景明に向けた。

 氷室の視線の先にある景明の顔には濃い疲労の影が落ちていた。泥と返り血で汚れ、完璧に整えられていたはずの軍服にはいくつもの裂け目がある。彼は赫夜の残党を狩り尽くすため、数週間前から休むことなく帝都の裏社会を駆け回っていたのだ。

 喫煙の習慣もない彼が唯一の安らぎである“愛する婚約者”を郊外の本邸に残したまま、ただひたすらに血の池地獄のような戦いに身を投じている。その精神的、肉体的な負担は計り知れない。

「……問題ない」

 景明は短く吐き捨てるように答えると踵を返し、足早に待機させていた軍用車へと向かった。

(……問題ない、だと?少佐の心の声、今、信じられないほどのノイズが走っていたぞ。あれは限界を超えている……)

 氷室は読心で読み取った上官の凄まじい精神状態に思わず胃の辺りを押さえた。

 駐屯地にある隊長執務室に戻った景明は泥だらけの軍服も脱がず、重い足取りで革張りの長椅子に腰を下ろした。スプリングが悲鳴を上げる。

「…………っ、はあ」

 誰もいない薄暗い室内で景明の口からひどく熱を帯びた、ひび割れたようなため息が漏れた。

 疲労で視界が明滅する。全身の筋肉が軋みを上げ、異能を酷使しすぎたせいで指先が勝手に痙攣していた。口の中は血の味がし、自身の体から漂う硝煙と泥の匂いに吐き気がする。

 限界だった。

 彼を突き動かしているのは秋に行われる鈴との結婚式を一分一秒の遅れもなく、何の脅威もなく執り行うという、狂気じみた執念ただ一つ。

 だが、その愛しい鈴に何週間も会えていないという事実が彼の精神を内側から猛毒のように蝕んでいた。

 景明は震える右手をゆっくりと軍服の胸ポケットへと差し込んだ。

 そしてまるで壊れやすい硝子細工でも扱うかのような、ひどく慎重で優しい手つきで一枚の純白の布を取り出した。

 景明はそのハンカチを両手で大切に包み込むとゆっくりと自身の鼻先に近づけ、深く、深く、肺の底まで届かせるように息を吸い込んだ。

「あ、あ……」

 瞬間、景明の喉の奥から獣が喉を鳴らすような切なく甘い吐息が漏れた。

 ハンカチから漂ってくるのは上質な石鹸の匂いと、そして何より、鈴自身の春の陽だまりのように柔らかく、甘く、無防備な彼女の匂いだった。

 血と泥と冷気にまみれた地獄のような世界から一瞬にして、彼女のいる温かな楽園へと魂が引き上げられる。

(……鈴。私の、愛しい鈴……)

 鈴の匂いを摂取した瞬間、景明の脳内に彼女の恥じらうような笑顔、あの甘く震える声、そして華奢な身体を抱きしめた時の、あの狂おしいほどの熱が鮮明にフラッシュバックした。

 足りない。こんな布切れ一枚の残り香では到底足りない。本物の彼女の熱に触れたい。あの白い首筋に鼻を埋め、彼女の匂いを直接この胸いっぱいに吸い込みたい。あの小さな唇を塞ぎ、彼女のすべてをこの腕の中に閉じ込めてしまいたい。

 強烈な渇望が理性の堤防を音を立てて決壊させていく。

「……もう、限界だ」

 景明は血走った漆黒の瞳を見開き、乱暴な音を立てて長椅子から立ち上がった。

「鈴の気配を……本物を摂取しなければ、私が、私ではなくなる……!」

 執務室の扉が勢いよく開け放たれる。

「少佐、尋問の報告書を……って、少佐!?どちらへ行かれるのですか!?」

 廊下を歩いていた氷室が飛び出してきた景明の異常な剣幕に驚き、報告書の束を抱えたまま慌てて声をかけた。だが、景明の耳にはもう、氷室の声など届いてはいなかった。彼の意識はただ一人の少女へと完全にロックオンされていた。

「車を出せ!今すぐ本邸へ向かう!!」

「はあ!?今からですか!?時刻はもう深夜ですよ!それに少佐のそのお姿……泥と血に塗れたままで本邸に戻られるおつもりですか!?小鳥遊嬢が驚かれます!」

 氷室は必死に食い下がった。彼の異能が景明の脳内に渦巻く、およそ帝都の治安を守る軍人とは思えない危険すぎる思考の嵐を読み取り、激しい頭痛を引き起こしていた。

「構わん!!車を出せと言っているのが聞こえないのか、氷室!!」

「聞こえてます!聞こえてますが、大奥様から『式が終わるまでは絶対に顔を合わせるな』と厳命されているではありませんか!少佐が今戻られれば、大奥様の逆鱗に触れます!」

「……祖母など知ったことか。私が鈴に会いたいと言っているのだ。邪魔をするならお前ごと凍らせて帝都の堀に沈めるぞ」

 景明の右腕から恐ろしい音を立てて冷気が溢れ出した。廊下の壁や床が瞬く間に白い霜で覆われていく。その眼光は完全に理性を失った狂鬼のそれであった。

「わ、分かりました!すぐに車を手配しますから軍の施設を凍らせるのだけはやめてください!!」

 もはや言葉での説得は不可能だと悟った氷室は涙目で敬礼すると脱兎のごとく配車係へと走った。

 深夜の帝都。街灯の光もまばらな暗い街道を一台の軍用車がエンジンを限界まで唸らせながら狂ったような速度で郊外へと爆走していく。

 後部座席で腕を組み、前方を睨みつける景明の全身からは隠しきれない情欲と狂おしいほどの愛執が吹雪のように吹き荒れていた。

「さあ、鈴さん。両手で顔を覆って現実から逃避しても無駄ですよ。次は図解の参、より実践的な体位と呼吸の合わせ方に入ります。景明さんのような並外れた体躯と膂力を持つ殿方を受け入れるには貴女自身の柔軟性と何より“気構え”が必要不可欠なのですから」

 夜の西園寺本邸。広大な敷地の奥深くに位置する鈴の洋室では鼓膜を打つような柱時計の音が丑三つ時を知らせてもなお、タキによる容赦のない“寝所作法の特別講義”が続いていた。

 最高級の伽羅の香りが立ち込める室内。豪奢な天蓋付きベッドの上で鈴は純白の羽毛布団を頭のてっぺんまで被り、まるで蓑虫のように丸まって震えていた。

 だが、無情にもタキの白く細い手が布団の端を捲り上げる。燭台のオレンジ色の炎が極彩色で描かれた江戸期の春画をこれでもかとばかりに照らし出した。

「ひゃあああっ!!お、大奥様!もう、もう限界ですっ!これ以上は私の頭が、頭がおかしくなってしまいます……っ!」

 鈴の口からもはや令嬢の欠片もない悲鳴が弾け飛んだ。顔面は沸騰したように赤く染まり、目はぐるぐると回り、脳内では景明の顔がとんでもなく危険な熱を帯びた表情に変換されて次々とフラッシュバックしている。

(西園寺様と、あ、あんなことやこんなことを……!?む、無理です、心臓が破裂して死んでしまいます……っ!)

 タキが「これも西園寺の血を絶やさぬための……」とさらに恐ろしい解説を続けようと口を開きかけた、まさにその時だった。

 ふいに部屋の窓ガラスが不気味な音を立てて軋んだ。春の瑞々しい夜の空気が一瞬にして“絶対零度”の殺気へと変貌する。

 部屋の中に飾られていたカサブランカの花が瞬く間に白い霜に覆われ、音を立てて凍りついた。

「……!この途方もない冷気……」

 タキが鋭い目を細め、春画の巻物を閉じた。直後、屋敷の静寂を暴力的に引き裂く、重く、切羽詰まった足音が廊下の奥から響いてきた。

 それは泥と血に塗れた重厚な軍靴が床板を叩き割らんばかりの勢いで踏み鳴らす音だった。

 足音は迷うことなく真っ直ぐにこの鈴の部屋へと向かってくる。足音が近づくにつれ、廊下の壁紙が凍りつき、空気が悲鳴を上げる音が聞こえた。

「鈴ッ!!」

 分厚いマホガニーの扉が外側から凄まじい力で殴りつけられた。あまりの衝撃に真鍮のドアノブがひしゃげ、蝶番が悲鳴を上げる。

「鈴!!どうした、なぜ悲鳴を上げている!!誰かいるのか!?無事か、鈴!!」

 扉の向こうから響いてきたのは地鳴りのような咆哮。それは間違いなく景明の声だった。だが、その声はいつもの余裕に満ちた静かな低音ではない。極度の疲労と愛する者を失うかもしれないという強烈な恐怖に支配された、ひどく掠れた、獣のような悲痛な叫びだった。

「さ、西園寺様……!?」

 鈴は弾かれたようにベッドから跳ね起きた。数週間ぶりの、愛しい人の声。彼が帝都から帰ってきたのだ。

「そこから離れなさい、鈴さん」

 鈴が扉へ駆け寄ろうとした瞬間、タキが威厳に満ちた声でそれを制止した。

 タキは小柄な体を伸ばし、凍りつき始めた扉の前に立ちはだかると、鍵がかけられたままの扉越しに外にいる孫へと冷徹な声を放った。

「何事ですか、景明さん。夜半にこのような騒ぎを起こし、淑女の寝室の扉を壊そうとするなど西園寺家当主としての品格を疑いますよ」

「……お祖母様、か……?」

 扉の向こうで景明の荒々しい息遣いが止まった。

「いかにも。私が鈴さんに西園寺の嫁としての作法を説いていたところです。悲鳴などではありません。……貴方は秋の式典までこの本邸には立ち入らない、鈴さんとは顔を合わせないという古き掟を破るおつもりですか」

「……掟など、どうでもいい」

 外で歯を食いしばる音が聞こえた。同時に扉の隙間から猛烈な冷気が室内に流れ込み、床の絨毯を真っ白に染め上げていく。オゾンが焦げるような匂いと微かな血の匂いがタキの焚き染めた伽羅の香りを喰い破って鈴の鼻腔に届いた。

「どうでもいいはずがありません。貴方が自身の異能を完全に制御し、残党を狩り尽くすまでの間、鈴さんの安全はこの私が保証すると約束したはず。今ここで扉を開ければ、貴方のその血の匂いと殺気が純真な鈴さんを汚すことになります」

「……ッ!!」

 再び扉が重く叩かれた。今度は暴力的な一撃ではない。力が抜け、崩れ落ちるようにして大きな体が扉にすがりついたような音だった。

「……頼む、お祖母様……。ほんの一目でいい……。扉の隙間から彼女の無事を確認するだけでいい……ッ。声を聞くだけでも……」

「なりませぬ」

「……鈴の、鈴の気配がなければ私はもう……自分が何のために血を流しているのか、分からなくなる……ッ!」

 その痛切な声に鈴の胸が張り裂けそうになった。扉の向こうにいる彼はあの無敵の“氷の少佐”ではない。泥にまみれ、血を流し、不眠不休で帝都の闇を駆け回り、限界を迎えた一人の傷ついた男だった。

「西園寺様……っ!」

 鈴はタキの制止を振り切り、素足のまま床に降りて分厚い扉へと駆け寄った。

「西園寺様、私ならここにいます!無事です、怪我など一つもしていません!」

「……鈴……ッ!」

 鈴の声を聞いた瞬間、扉の向こうで景明が息を呑む気配がした。

「ああ……鈴……。私の、愛しい…鈴…。すまない、こんな夜中に……君を怯えさせるつもりはなかったんだ。ただ、君の匂いが、君の温もりが、どうしても……」

 狂おしいほどの熱情を含んだ掠れ声。

 鈴は両手を冷え切ったマホガニーの扉にそっと押し当てた。分厚い木材の向こう側に彼がいる。彼もまた、同じ場所に大きな手のひらを押し当てているのが伝わってくる冷気と微かな振動でわかった。

「……坊っちゃん。お気持ちは痛いほど分かりますがここはどうか、お鎮まりください。鈴様はお元気です。……大奥様の修業で少々悲鳴を上げておられただけですから」

 その時、廊下の奥から静かで確かな力を持った声が響いた。権藤だった。彼の異能が景明の無意識に漏れ出していた致死量の冷気を柔らかい春の風で中和していく。

「権藤……。お前まで私を止めるのか……」

「坊っちゃんが命を懸けて帝都を浄化してくださっているからこそ、鈴様はこの安全な場所で花嫁になるための準備を進めることができるのです。今、その血に塗れたお姿で彼女を抱きしめれば、坊っちゃんご自身が最も後悔されることになりましょう」

 権藤の言葉に景明の荒い呼吸が少しずつ、ゆっくりと落ち着いていくのがわかった。

「……西園寺様」

 鈴は扉に額を押し当て、零れ落ちそうになる涙を堪えながら愛しい人へと言葉を紡いだ。

「私、待っています。大奥様の厳しいお稽古も絶対に乗り越えてみせます。だから……西園寺様もどうかご無事で。無茶だけはなさらないでください」

「……あぁ」

 ひどく甘く、けれど切ない吐息が扉越しに響いた。

「約束する。……必ず、世界で一番美しい花嫁の君を迎えに行く。だから……その時まで君のすべては私が予約しておく」

 視覚も、聴覚も、触覚も、今は分厚い扉に阻まれている。けれど、二人の魂だけはその冷たい木材をすり抜け、確かに熱く抱きしめ合っていた。

 夜の廊下に響く、軍靴がゆっくりと遠ざかっていく音を鈴はいつまでも、いつまでも扉に耳を当てて聞き続けていた。

 翌朝。

 郊外の西園寺本邸を包み込んでいた濃密な夜の帳が静かに引き剥がされ、東の空から白み始めた柔らかな曙光が帝都の空を真珠色に染め上げていった。

 庭園の木立からは朝を告げる小鳥たちの甲高い囀りが聞こえ始め、開け放たれた窓の隙間からは朝露に濡れた若葉と湿った土の清冽な香りが流れ込んでくる。

 広々とした部屋のベッドで鈴はゆっくりと重い目蓋を開けた。

「……朝……」

 かすれた声が静寂の室内に落ちる。身体を起こそうとすると全身の筋肉が軋むような痛みを訴えた。大奥様であるタキの過酷な薙刀の稽古と深夜にまで及んだ恐ろしい“寝所作法”の講義の疲労が鉛のように身体にのしかかっている。

 それでも鈴の胸の奥には昨夜からずっと灯り続けている小さな、けれど決して消えることのない温かな火種があった。

(西園寺様……)

 鈴はベッドから抜け出すと足元に用意されていた室内履きにも足を通さず、素足のまま分厚い絨毯の上を歩き出した。

 向かう先は昨夜、狂おしいほどの愛と執着を抱えた帝都最強の男がすがりついた、あの重厚なマホガニーの扉だ。

 そっと扉の前に立つ。真鍮のドアノブは昨夜の景明の凄まじい力によって無残にひしゃげ、歪な形になっていた。

 そして鈴の視線が扉の木枠の中央、大人の男の胸の高さほどの位置で止まった。

 そこには美しい氷の華が咲いていた。周囲の空気中の水分が瞬時に凍りついて形成された、極小の氷の結晶。それがまるで大きな男の掌の形を象徴するようにして、木枠の表面に薄っすらと確かに張り付いていたのだ。

 朝の柔らかな光を受けて、その微かな霜はプリズムのように七色の光を乱反射し、儚げに輝いている。

 鈴は息を呑み、震える右手をゆっくりと持ち上げるとその氷の痕跡にそっと自身の小さな掌を重ね合わせた。

「……冷たい」

 指先に触れた瞬間、刺すような冷気が肌に伝わってきた。だが、その冷たさの奥底から鈴の心に直接流れ込んでくるものがあった。それは昨夜この扉の向こう側で息を荒げていた彼の、血を吐くような孤独と狂おしいほどの渇望。

 泥にまみれ、血に汚れ、不眠不休で帝都の闇を駆け回る彼がどれほど鈴の温もりを求めていたか。かすれた声で誓ってくれた彼の不器用でひどく重たくてどうしようもなく深い愛情。

(西園寺様はお顔も見ずにまたあの危険な帝都へ戻られたのね。……私の安全を守るために)

 鈴の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。涙は重力に従って頬を滑り落ち、扉に残された氷の結晶の上に落ちる。

 鈴の体温と涙の熱に触れ、景明の残した冷たすぎる愛の痕跡はゆっくりと溶け出し、透明な水滴となって木肌を濡らしていった。その水滴を見つめながら、鈴の胸の内にかつてないほど強固な決意が炎となって燃え上がった。

(大奥様の厳しい修業をすべて乗り越えて、西園寺様が安心して帰ってこられる、最強の『帰る場所』になる)

 鈴は乱暴に目元の涙を拭うときびきびとした足取りでベッドの枕元へと戻り、そこに隠していた小さな裁縫箱と純白の布を取り出した。

 布の表面には銀糸と白糸を複雑に絡み合わせて縫い上げられたサギソウの花があと少しで完成というところまで形作られていた。

 サギソウ。花言葉は“夢でもあなたを想う”、“純潔”、”芯の強さ”。

 白鷺が天に向かって羽ばたくようなその気高い花の意匠は鈴の景明への偽りなき祈りそのものだった。

 鈴はベッドの端に腰を下ろし、細い銀の針に糸を通した。布の裏側から針先を突き立てる。糸が布と摩擦して生み出す、微かな音が朝の静寂の中にリズミカルに響き始めた。一針、一針に、己の魂を込める。

 彼がこれ以上、血を流さないように。彼の心が冷たい氷に飲み込まれてしまわないように。どんな邪悪な呪いも彼の魂を傷つけることができないように。

(西園寺様……どうか、ご無事で)

 最後のひと縫いを終え、鈴が糸を断ち切った瞬間だった。

 彼女の手の中にある純白の布から淡い、けれど直視できないほどに清らかな真珠色の光が溢れ出した。それは朝の陽光よりも柔らかく、どんなに分厚い闇をも切り裂く、絶対的な浄化の光。鈴の異能と愛情が完全に定着し、世界でただ一つの強力なお守りが完成した証であった。

 その頃、西園寺本邸の広大な敷地を囲む結界の外側。朝の陽の光が届かない湿った日陰の茂みの中を黒い泥土と腐葉土を捏ね合わせたような悍ましい姿をした“何か”が這い進んでいた。

 それは無数の細かい足を持つ百足のようでもあり、蠢く黒い霧の塊のようでもあった。鼓膜を引っ掻くような微小な不快音を立てながら、その極小の呪いは結界の針の穴ほどの微かな綻びをすり抜けて敷地内への侵入を果たしていた。

 敵組織、赫夜が放った索敵と呪詛を目的とした斥候(スカウト)である。

(標的ハ、ココニイル……。西園寺ノ、一番ノ弱点……)

 呪いの塊は庭園に咲き誇る美しい春の薔薇の茎に這い上がり、その毒で花弁を一瞬にして黒く変色させながら一直線に屋敷の二階、鈴の寝室の窓へと向かって進んでいく。

 この微小な呪詛を彼女の影に潜ませ、日々少しずつ精神を蝕み、最も幸福な瞬間に自我を完全に崩壊させる。それが赫夜の幹部たちが描いた悪逆非道なシナリオであった。

 黒い泥の塊が鈴の部屋の窓枠の下へと到達した。ガラスの向こう側には無防備な少女の気配がある。呪いがその忌まわしい触覚を伸ばし、窓の隙間から室内へ滑り込もうとした、まさにその刹那だった。

 窓の向こう、部屋の内側から突如として目も眩むような純白の閃光が爆発した。

(ギ、ギィィィィィィィッ!?)

 それは鈴がたった今縫い上げたサギソウの刺繍から放たれた祈りと修復の波動であった。

 悪意や呪いという“世界のバグ”をあるべき清浄な状態へと強制的に修復する絶対的な光。

 黒い泥の塊は逃げる間も反撃する隙も与えられず、その純白の光に触れた瞬間に音を立てて蒸発し、一片の塵すら残さず、この世界から完全に消滅した。

 部屋の中で完成した刺繍を愛おしそうに胸に抱きしめている鈴は、窓の外で自身の異能が恐るべき敵の呪いを瞬殺したことなど露ほども気づいていなかった。

 帝都から遠く離れた、旧都の深い山奥。樹海に飲み込まれるようにしてひっそりと建つ、苔生した巨大な廃洋館。

 その地下深くにあるカビと古い血の匂いが充満する薄暗い広間の中央で甲高い音が響き渡った。

 空間に浮かんでいた黒い水晶球が内側から弾けるようにして粉々に砕け散ったのだ。

「……ほう?」

 暗闇の奥、豪奢だが所々が腐り落ちたビロードの椅子に深々と腰を下ろしている人影が面白そうに喉の奥を鳴らした。

 周囲には同じように闇に溶け込んだ赫夜の幹部たちが砕け散った水晶の破片を見下ろしている。

「放った斥候が結界に触れることなく完全に消滅させられたか。……西園寺の術式ではないな。あの鬼少佐の氷や雷の波動とも違う。もっと根本的な、世界そのものを書き換えるような圧倒的な光」

 闇の中から響く声はひどく耳障りで蛇が這い回るような粘着質を帯びていた。

「やはり、噂は真実だったということか。あの小鳥遊の娘に宿る力は本物だ。……世界を本来の形に縫い留める、修復の異能」

 別の影が押し殺したような笑い声を漏らす。「素晴らしい、あれほどの純度と力を持った魂……。我らが長きに渡って探し求めていた至高の器に相応しい」

「西園寺の鬼少佐め、あの小娘を郊外の本邸に囲い込んでいるという情報はあながち間違いではなかったか、ならば狙うのはあの娘が最も愛に満ち、幸福の絶頂に達するであろうその瞬間……その魂を根こそぎ喰らい尽くし、自我を完全に破壊して操り人形にしてやろう」

「ほう……それは極上の悲劇だ。あの氷のように冷酷な男が愛する花嫁を己の手で守れず、絶望に顔を歪める様が今から楽しみでならないな……」

 苔生した廃洋館の奥深くに狂気と悪意に満ちた幹部たちの嘲笑がいつまでも不気味に木霊していた。


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