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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第六章 幸せな花嫁と嘘が真に変わるふたりの幕開け
37/42

第37話

 透き通るような秋晴れの空。

 どこまでも高く澄み切った群青色の天蓋から午前中の清々しく柔らかな陽光が帝都の街並みへと惜しみなく降り注いでいた。

 帝都の中心部に広大な鎮守の森を構え、千年の長きにわたって国を見守り続けてきた由緒正しき大神社。その厳粛な境内には何百年もの時を刻んだ巨大な御神木が立ち並び、涼やかな秋風が吹き抜けるたびに心地よい葉擦れの音を響かせている。

 一般の参拝客が完全に遠ざけられ、静寂に包まれた神聖な本殿。そこに満ちていたのは白粉の甘く凛とした香りと仄かな白檀の匂い。そして永遠の愛を誓い合う二人の静かで熱を帯びた吐息だけだった。

「……愛している。私の命に代えても君のこの笑顔を永遠に守り抜く」

 漆黒の第一礼装に身を包んだ西園寺景明がその無骨で大きな手で純白の白無垢を纏った小鳥遊鈴の華奢な手をそっと包み込む。

 白手袋越しに伝わってくる、互いの確かな体温。冷たい運命に翻弄されてきた二人がどれほどの困難を乗り越えてこの日を迎え、魂を深く結び合わせたのか。重なり合う手と手の熱がそれを雄弁に物語っていた。

「私もお慕いしております、西園寺様。……貴方の帰る場所はこの先どんな困難があろうとも、私が必ず守りますから」

 綿帽子の奥で鈴が花のように微笑む。彼女はもう、何かに怯えて泣くだけの少女ではない。愛する人のために、不器用な彼と共に運命を切り拓く覚悟を決めた強くて気高い一人の女性であった。

 朝の眩い光に包まれたその光景は一枚の完璧な絵画のように美しく、神聖で一点の曇りもない絶対的な幸福に満ちていた。

 だが、この完璧で甘美な朝に辿り着くために彼らがどれほどの暗く冷たい死線を潜り抜け、血みどろの泥濘(でいねい)を這い進んできたか。それを知る者は極めて少ない。

 時計の針はこの祝福の日から遡ること、およそ半年。まだ冷たい風の中に柔らかな春の気配が混じり始めた三月の終わりへと巻き戻る。

 帝都の喧騒から遠く離れた、郊外に位置する西園寺本邸。

 その広大な庭園では満開を過ぎた桜が春の風に煽られて美しい花霞を作り出していた。淡い薄紅色の花びらが雪のように舞い散る中、本邸の豪奢な玄関先に漆黒の軍服に身を包んだ景明が立っていた。しかし、その足は大地に深く根を張ったように止まり、全く動こうとしない。

 無理もない。彼の太く逞しい腕の中にはこれから長期間離れ離れになる最愛の婚約者、鈴がすっぽりと抱き込まれていたからだ。

「……西園寺様。あの、そろそろ……息が苦しいです……っ」

 景明の分厚い胸板に顔を埋められた状態の鈴が軍服の背中に回した手を動かしながら蚊の鳴くような声で訴えた。

 敵組織、赫夜の残党による大規模な本邸襲撃を退けてから、数日が経過した春の朝。

 襲撃の事後処理、そして何より、軍内部や政界にまで根深く張られた敵の全貌を暴き出し、完全に殲滅するため、景明は異能特殊部隊の指揮官として、帝都の中心部にある別邸へと一人で帰還せねばならなかった。

 しかし、命を狙われたばかりの鈴を帝都の危険な空気に晒すわけにはいかない。祖父母の庇護下にあるこの堅牢な郊外の西園寺本邸に彼女を残し、同時に祖母であるタキからの本格的な花嫁修業を受けさせるという苦渋の決断を下したのだ。

「……嫌だ。君をこの腕から離せば、また恐ろしい闇が君を攫っていってしまいそうで……。ああ、いっそ君をこの軍服のポケットに隠して、帝都に連れて行けたらどんなに良いか……」

 帝都最強と恐れられる氷と雷の異能者が今はただの迷子のように悲痛な声を上げ、鈴の華奢な肩に額を押し付けている。

 彼の纏う、冬の夜気のような清潔な匂いに包まれながら、鈴は自身の顔が熱くなるのを感じた。

(西園寺様ったら使用人の方々も見ていらっしゃるのに……っ)

「景明さん。いい加減になさい。これから出征するわけでもあるまいにみっともないですよ」

 玄関の奥から呆れ果てたようなタキの厳しい声が飛んだ。その傍らでは軍人を引退し、今は西園寺家の専属執事として仕える権藤が燕尾服姿で穏やかな苦笑いを浮かべている。

「坊っちゃん。鈴様の護衛はこの権藤と部隊の優秀な者たちにどうか安心してお任せください。坊っちゃんが帝都でのお役目を終え、無事に秋の良き日を迎えられるよう、この本邸は我々が死守いたします」

「……分かっている。頭では分かっているが……」

 景明は忌々しげに舌打ちをすると鈴の柔らかい髪に深く、何度も名残惜しそうに口づけを落としてから、ようやくその腕の力を緩めた。

「鈴。……寂しい思いをさせてすまない。だが、必ず君を迎えに来る。どんなに時間がかかっても秋の結婚式までには全てを終わらせて、君に一点の曇りもない未来を捧げると誓おう」

 景明の瞳が強い決意の光を放って鈴を真っ直ぐに射抜いた。

 鈴は小さく頷き、彼から贈られた白梅の意匠の婚約指輪が光る両手で景明の大きな手を握り返した。

「はい。私はここで、大奥様のもとで立派な西園寺の女主人になれるよう、一生懸命に勉強いたします。……どうかお怪我などなさいませんよう、ご無事で帰ってきてくださいね」

「ああ。……愛している」

 景明は鈴の額に最後の優しい口づけを落とすと軍靴の踵を鳴らし、翻る漆黒の外套と共に待機していた軍用車へと乗り込んだ。

「……少佐。お別れは済みましたか?」

 運転席でハンドルを握っていた氷室がルームミラー越しに後部座席の景明を見て、やれやれと眼鏡の位置を中指で押し上げた。

 彼は読心の異能を持つ。直接的な念話はできないが上官の頭の中から延々と流れ込んでくる“鈴と離れたくない”“鈴が可愛すぎる”“本邸の周囲五キロを氷の壁で覆ってから出発したい”という重すぎる思念の波を浴び続け、すでに胃の辺りが痛み始めていた。

「氷室様……西園寺様のこと、どうかよろしくお願いいたします」

 車の窓に駆け寄ってきた鈴が心配そうに氷室に頭を下げた。

「ええ、お任せください、小鳥遊嬢。少佐が暴走しないよう、私がしっかりと手綱を握っておきますから。……貴女も花嫁修業、頑張ってくださいね」

 氷室が優しく微笑み返すと横から絶対零度の冷気を纏った景明の視線が突き刺さった。

「氷室。私の婚約者に気安く微笑みかけるな。凍らせるぞ」

「……理不尽極まりないですね。さあ、出発しますよ」

 エンジンが低く唸りを上げ、軍用車がゆっくりと本邸の敷地を出て行く。

 鈴の姿が小さくなり、やがて春霞の中に完全に溶けて見えなくなるまで景明は後部座席の窓から一度も視線を外すことはなかった。だが、本邸の正門を抜け、帝都へと続く埃っぽい街道に出た瞬間、景明の纏う空気が一変した。

 甘く不器用な婚約者の顔は完全に消え去り、そこにあったのは冷酷無比な“鬼少佐”としての修羅の(かんばせ)であった。

「……氷室。事後処理の報告と例の残党の痕跡について聞こう」

 車内の温度が急激に下がり、窓ガラスの端に薄い霜が張り始める。景明の冷たい声に氷室もまた表情を引き締め、眼鏡の奥の知的な瞳を鋭く光らせた。

「はい。先日の本邸襲撃で捕らえた赫夜の下級構成員たちの思念を読み取りましたが……事態は我々の想像以上に深刻です」

「どういうことだ」

「連中は単なるテロリストの集まりではありません。軍の上層部、さらには政界の重鎮の中に資金と情報を提供している“黒幕”が複数存在しています。相手の全貌を掴み、中枢を腐らせている根を完全に焼き切るには途方もない時間と労力がかかるかと」

 氷室の報告を聞き、景明は車窓から流れる帝都の遠景を静かに見つめた。

 両親を亡くし、孤独な戦場を生き抜いてきた彼にとって血と泥に塗れた争いは日常だった。だが今の彼には絶対に守り抜かなければならない“光”がある。

「……秋だ」

 景明が絞り出すような低い声で呟いた。

「秋の、結婚式の前日。それが期限だ。それまでに鈴の命を脅かす可能性のある害虫どもを全てこの手で引きずり出し、塵一つ残さず氷漬けにしてやる」

 景明が春霞の向こう側へと姿を消してから数時間後。郊外に位置する西園寺本邸の静寂に包まれた広大な和室には小気味良い扇子の音が響き渡っていた。

「……違います、鈴さん。歩幅が広すぎます。足裏を畳から離さず、しかし擦る音は立てず、絹の衣擦れだけを微かに響かせるように歩きなさい。西園寺の女は決してドタバタと踵を鳴らしてはなりません」

「は、はいっ……!」

 白檀の香りが深く染み付いた和室の中央。

 鈴は額に玉のような汗を滲ませながら自身の足元へと極限まで意識を集中させていた。彼女が纏っているのは所々に絞りのある小紋。

 滑らかな正絹の重み。何重にもきつく締められた帯が容赦なく鈴の華奢な胴体を締め付けている。少しでも気を抜けば呼吸すら浅くなってしまいそうなほどの圧迫感だ。

 上座に正座し、鋭い鷹のような瞳で指導にあたっているのは景明の祖母であり、西園寺家の先代当主夫人であるタキだった。

 彼女の膝の上には美しく装飾された扇子が置かれている。鈴の姿勢が少しでも崩れれば、その扇子が容赦なく畳を叩き、厳しい指摘が飛んできた。

「背筋を伸ばし、顎を引いて。視線は常に伏し目がちに、しかし前方の景色はしっかりと捉えなさい。貴女がこれから立つ場所はただの家庭ではありません。帝都の政財界の重鎮たち、そして腹に一物抱えた華族たちが集う、華やかで恐ろしい社交界のど真ん中なのです」

 タキの言葉は厳しいがその響きの中には鈴を本気で守り、立派な女主人へと育て上げようとする深い愛情と覚悟が満ちていた。

 鈴は小さく息を吸い込み、帯の窮屈さに耐えながらすり足でゆっくりと前へ進む。

 足の裏から伝わってくる、冷たくも滑らかな畳の感触。重たい絹の袖が動くたびに雅な音が耳をくすぐる。全身の筋肉がかつてないほどに緊張し、悲鳴を上げていた。だが、鈴は決して泣き言を漏らさなかった。

(……負けられない。ここで私が泣きべそをかいて逃げ出してしまったら、西園寺様に合わせる顔がない)

 鈴の脳裏に浮かぶのは今朝、玄関先で自分を力強く抱きしめてくれた景明の姿だ。分厚い胸板の硬さ。彼から漂う、冬の夜気のような清潔で安心する匂い。そして「必ず君を迎えに来る」と告げた、あの強い瞳。

 彼は今、帝都という恐ろしい戦場で見えない敵と命懸けで戦っている。自分の純白の未来を守るために自ら進んで泥濘へと足を踏み入れてくれたのだ。

 ならば、安全な場所で守られているだけの自分に何ができるのか。それは彼が心から安らげる“帰る場所”を完璧に守り抜き、彼の隣に立つにふさわしい、強くて美しい妻になることだけだ。

「……ふぅ。歩き方は随分と形になってきましたね。次は茶の湯の作法に移りましょう」

 タキが口元を綻ばせ、扇子を閉じた。

 その瞬間、鈴は全身の力が抜けそうになるのを必死に堪え「はい、大奥様」と深く頭を下げた。

 舞台はそのまま、庭園に面した茶室へと移る。

 開け放たれた障子の向こうには春の柔らかな陽射しを浴びて、名残惜しそうに散っていく桜の花びらが舞っていた。

 茶釜の中で湯が松風のような心地よい音を立てて沸いている。

「お茶はただ喉の渇きを潤すためのものではありません。一期一会。その場にいる相手の心に寄り添い、五感を研ぎ澄ませて、究極の安らぎを提供する“おもてなし”の極意です。景明さんが戦場から疲れて帰ってきた時、貴女が点てる一杯のお茶があの子の凍てついた心を溶かすのです」

 タキの言葉に鈴は唇を引き締めた。ただ純粋に自分の淹れたお茶で彼を癒やしたい、その一心だった。

 鈴は震える手で柄杓を取り、音を立てぬよう細心の注意を払いながら、茶釜から熱い湯をすくい上げる。

 湯気とともに立ち昇る、鉄瓶特有の微かな匂い。濃緑の抹茶が入った茶碗に湯を注ぎ、竹でできた茶筅を静かに、そして素早く振るう。リズミカルな音が茶室に響き、次第に抹茶の芳醇でほろ苦い香りが春の空気と混ざり合って広がっていった。

「……手首が硬いですよ、鈴さん。もっと力を抜いて、円を描くように。そう、お茶の表面に美しい細かな泡が立つまで……」

 タキの指導を受けながら、鈴は無心で茶筅を振るい続けた。正座による足の痺れはとうに限界を超え、感覚がなくなってきている。手首は痛み、背中は汗でじっとりと濡れていた。それでも彼女の瞳に宿る光は少しも曇ることはなかった。

(美味しくなぁれ。……西園寺様の、心の傷が癒えますように。冷たい身体がぽかぽかに温まるように……っ)

 鈴は祈るような気持ちで最後の一振りを終えた。

「……できました。大奥様、どうぞお召し上がりください」

 鈴は両手で茶碗を包み込み、恭しくタキの正面へと滑らせた。

 タキは静かに茶碗を手に取るとその深い緑色の水面を見つめ、ゆっくりと口に運ぶ。喉が鳴る微かな音。数秒の沈黙の後、タキは長く息を吐き出し、深く、優しく微笑んだ。

「……ええ。大変結構なお点前でした。まだ粗削りではありますが……貴女の点てるお茶には人の心をじんわりと温める、不思議な優しさがありますね」

「本当ですか……っ!」

 鈴の顔が輝く。

 タキは茶碗を置き、目尻の皺を深くして鈴を見つめた。

「景明さんは昔から本当に不器用な子でした。両親を早くに亡くし、あの子を包んでいたのは己の異能である冷たい氷と、周囲からの恐れの視線ばかり……。あの子はずっと、凍えるような孤独の中で生きてきたのです」

 タキの口から語られる景明の過去に鈴は胸が締め付けられる思いがした。

「でもね、鈴さん。貴女があの子の前に現れてから、景明さんは変わりました。あの子の瞳にあたたかな春の光が宿るようになったのです。……鈴さん。どうか、あの子の傍でずっとその光を絶やさないでやってくださいね」

「大奥様……」

 鈴の大きな瞳から大粒の涙が零れ落ちた。悲しい涙ではない。彼をもっと愛したい、もっと深く知りたいという、温かくて尊い涙だった。

「はい。……私、西園寺様が何度迷子になっても、必ず見つけ出せるような、明るい道標になります。絶対にあの人の手を離したりはいたしません」

 鈴が強い覚悟を口にした、その時だった。

「……大奥様、鈴様。休憩のお時間でございます」

 茶室の入り口で若菜が服の裾を揺らしながら恭しくお辞儀をした。彼女の横には執事の権藤が黒いお盆を手に、穏やかな微笑みを浮かべて控えている。

「あら、もうそんな時間ですか。……さあ鈴さん、足を崩して楽になさい。若菜、今日のお菓子は何ですか?」

「はい!今日は鈴様のお疲れが吹き飛ぶよう、帝都で一番人気の甘味処からお取り寄せした、特製の『桜餅』と冷たく冷やした煎茶でございます!」

 若菜が嬉しそうに告げると権藤が手際よくお盆の上から美しい漆塗りの小皿を並べていく。

 そこに乗せられていたのは春の香りをたっぷりと含んだ塩漬けの桜の葉に包まれた、淡い薄紅色の桜餅だった。

「わぁ……っ!すごく、いい匂い……!」

 鈴の疲労しきった五感が一気に歓喜の声を上げた。桜の葉の爽やかな香りともっちりとした道明寺粉の甘い匂い。鈴はタキの許可を得て、小さな菓子切りで桜餅を一口分切り分け、口へと運んだ。

「んんっ……!」

 瞬間、口いっぱいに広がる上品な餡の甘さと、桜の葉の絶妙な塩気が疲労した身体の細胞一つ一つに染み渡っていく。冷たく冷やされた上質な煎茶が喉の渇きをすっきりと潤し、甘さと苦さの完璧な調和が口の中で踊った。

「美味しいです……!ほっぺたが落ちてしまいそう……」

「ふふっ。たくさん召し上がれ、鈴様。午後からは華道と夜会のダンスのステップ練習が待っておりますからね!」

「だ、ダンス……っ」

 若菜の無邪気な宣告に鈴は一瞬だけ遠い目をしたものの、すぐに気を取り直して二口目の桜餅を頬張った。

 美味しいものを食べれば力が湧いてくる。それにダンスの練習をしておけば、いつか彼が帰ってきた時、あの美しいステップで彼と踊ることができるかもしれない。

「坊っちゃんも今頃帝都で鈴様の淹れたお茶を飲みたがっていることでしょうな」

 権藤が庭園の桜を見つめながら呟いた。その言葉に鈴は頬をほんのりと薔薇色に染めながら手の中の湯呑みを握りしめる。

(西園寺様。……私、ここで頑張っています。だから貴方もどうかご無事で……)

 春の柔らかな陽射しに包まれた郊外の邸宅で少女は一歩ずつ、確実に強く美しい女主人への階段を上り始めていた。

 春のうららかな陽射しが降り注ぐ郊外の陽だまりから、遠く離れた帝都の中心部。

 華やかな赤煉瓦の駅舎や西洋建築が立ち並ぶ美しい表通りの地下深くにその“闇”は口を開けていた。

 帝国陸軍・異能特殊部隊の駐屯地。その最下層に位置する地下特別尋問室は光の届かない完全な密室であった。

 分厚いコンクリートの壁に囲まれた空間にはむせ返るようなカビの匂いと鉄錆の()えた臭いが充満している。天井から吊るされた裸電球が不規則な音を立てて明滅し、石の床に落ちた冷たい水滴の音が異様に大きく鼓膜を叩く。

「……ひっ、あ、あぁ……っ!」

 部屋の中央に置かれた無骨な鉄の椅子。そこに何重もの鎖で縛り付けられ、恐怖に顔を歪めているのは帝国陸軍の上層部に名を連ねるはずの初老の将官であった。でっぷりと肥え太った体には立派な勲章のついた軍服が着せられているが今は冷や汗と脂でひどく汚れ、見る影もない。

「……無駄ですよ、閣下。貴方の精神の防壁はすでに私の異能で完全に剥がれ落ちています。嘘を吐こうとしたり、記憶に蓋をしようとしたりすればするほど、脳髄が焼け焦げるような痛みに襲われるはずです」

 椅子の傍らに立ち、軽薄さすら感じる穏やかな声で語りかけているのは部隊の若手隊員である桜木だった。彼の持つ異能は催眠。対象の視覚や聴覚から脳内に直接干渉し、精神の最も奥底にある恐怖を増幅させたり、意志の力を強制的に奪い取ったりすることができる。

 桜木の瞳の奥で妖しい光が揺らめくたび、椅子に縛り付けられた将官は「ひぃぃっ!」と喉を引き攣らせ全身を震わせた。

「さあ、氷室大尉。下ごしらえは完璧です。あとは貴方がこの豚……おっと失礼、将官殿の頭の中を覗き込むだけですよ」

「……お前のその、悪びれない態度もどうかと思うがな」

 桜木と入れ替わるようにして冷ややかな靴音を響かせながら前に進み出たのは副官である、氷室であった。

 彼は神経質そうに中指で眼鏡の位置を押し上げると手元の分厚い革張りの手帳を開き、万年筆のキャップを外した。

「さて。貴方が裏で糸を引き、過激派組織、赫夜に西園寺本邸の図面や警備の情報を横流ししたことはすでに我々の調べで確定しています。……知りたいのは貴方の背後にいる更なる“大物”の顔ぶれと連中の真の狙いです」

 氷室の眼鏡の奥で知的な瞳が氷のように冷たく光った。彼の異能は読心。直接的な念話はできないが対象の頭の中に浮かんだ思考や情景、隠し立てしようとする秘密のすべてを無断で読み取ることができる。

 将官の脳内は氷室にとって、文字通り“見開かれた本”も同然であった。

「わ、私は何も知らんッ!赫夜などという薄汚いテロリストどもと、この私が繋がっているはずが」

「……なるほど。大蔵省の郷田次官と、海軍の鮫島少将も一枚噛んでいるのですね。資金の出どころは、帝都湾岸にある蒼波貿易会社の裏帳簿、と」

 将官が必死に口から出まかせを叫ぶ一方で氷室は手帳に万年筆を走らせ、彼が絶対に隠さなければと脳裏に思い浮かべた固有名詞を読み上げていく。だが、その名前を口にした瞬間。氷室の万年筆の動きが止まり、彼の表情が険しいものへと変わった。

「……どうしました、氷室大尉?」

「……少佐」

 氷室は尋問室の奥、完全な闇と同化している場所に向かって、苦々しい声で呼びかけた。

「今、この男の脳内から読み取った三名の協力者ですが……今朝方、私が確認した帝都警察の非公式な報告書に彼らの名前がありました」

「……ほう」

 闇の奥から地獄の底を這うような低く冷たい声が響いた。景明がゆっくりと姿を現す。彼が一歩足を踏み出すごとに周囲の空気が急速に凍りつき、壁に薄い霜が張っていく。極限まで冷たく澄んだ空気が満ちる。

「三名とも、昨夜のうちに急性心不全および首吊り自殺で死亡が確認されています。……つまり、この男は」

「……完全な、トカゲの尻尾というわけだ」

 景明の夜の闇を凝縮したような瞳が椅子に縛り付けられた将官を氷のように見下ろした。

 将官は「し、死んだ……? あの三人が……?」と己の置かれた絶望的な状況をようやく理解し、白目を剥いて震え出した。

「連中は我々がこの男に辿り着くことなどとうの昔に計算済みだった。情報を抜かれる前に本命に繋がる糸をすべて自ら断ち切ったのだ。……虫けらの分際で小賢しい真似を」

 景明の右手に青白い稲妻が凝縮していく。圧倒的な暴力の予感に室内の温度がさらに急降下した。

「お待ちください、少佐!まだ一つだけ、この男の脳の最深部に黒幕たちから直接植え付けられた“強烈な執着の記憶”が残っています。……これは」

 氷室が眼鏡の奥の瞳を険しく細め、戦慄したように息を呑む。

「……連中にとって小鳥遊嬢の優先度が我々の想定を遥かに超える危険な段階へと引き上げられています」

「……どういうことだ」

 景明の纏う冷気が一瞬にして殺気を帯びた鋭い氷の刃へと変貌した。鈴がこれまで何度も狙われてきたことは彼も承知の上だ。だが、氷室の顔に浮かんだ焦燥はこれまでの暗殺や誘拐の危機とは次元の違う(おぞ)ましさを孕んでいた。

「先日の本邸襲撃で彼女が修復の力で結界を破ってみせたことで……連中は彼女を単なる足手まといや人質ではなく、組織の目的に直結する特異点として確信したようです。……連中は彼女を生け捕りにし、精神を徹底的に壊して、自分たちの都合の良い“道具”として利用しようと企んでいます」

 氷室の報告を聞き終えた景明は動かなかった。ただ、彼の足元から広がる氷が分厚いコンクリートの壁を音を立てて砕き始めている。

「……私の鈴を殺す?精神を壊して操り人形にする、だと?」

 地獄の底から響いてくるような低く、重く、そして一切の感情を剥ぎ取られた凄絶な声だった。

 彼女はもう、何かに怯えて泣くだけの少女ではない。己の力に目覚め、自分と共に戦場に立つ覚悟を決めてくれた、気高く美しい伴侶だ。だからこそ、その純真な覚悟を利用し、穢そうとする連中の企みは景明の魂の逆鱗を完全に触れさせていた。

 次の瞬間、景明は一切の容赦なく右手に凝縮させていた青白い雷を椅子に縛り付けられた将官の足元へと放った。

「ぎ、が、あぁぁぁぁぁッ!!」

 雷撃による凄まじい痛みと一瞬にして全身を覆い尽くした氷の冷たさに将官が言語を絶する悲鳴を上げ、白目を剥いて意識を失った。

 景明は氷漬けになった男を一瞥することもなく、ゆっくりと踵を返した。

「……桜木。このゴミを特別監房へ放り込んでおけ。脳が焼き切れるまで連中の痕跡を絞り出させろ」

「は、はいっ!」

「氷室。部隊の警戒レベルを最大まで引き上げろ。帝都の裏社会のドブ泥をすべてさらい、連中のアジトを一つ残らず見つけ出す」

 景明の瞳にかつてないほどの激しい怒りと狂気にも似た深い愛の炎が燃え盛る。

「……秋だ」

 景明は、誰もいない闇の奥を見据え、自分自身に課す絶対の誓いとして、その季節を口にした。

「秋の良き日に鈴は私の妻となる。……己の力で運命を切り拓こうとする気高い彼女に再び絶望の涙を流させるわけにはいかない。あの日までにあの忌まわしい害虫どもを私自身の手で一匹残らず氷漬けにして砕き割ってやる」

 春の柔らかな光の中で微笑む少女の未来を守るため。帝都最強の鬼少佐は自ら泥濘と血の海を掻き分け、姿なき敵との凄惨な戦いへと身を投じていく。

 同時刻。華やかな帝都から遠く離れた、旧都の深山。鬱蒼と生い茂る千年杉の森の奥深くに地図から完全に消し去られた退廃的で豪奢な洋館がひっそりと佇んでいた。

 かつては名門華族の別荘であったのだろうその建物は今は毒々しい赤黒い蔦に這い回られ、生きた心地のしない異様な妖気を放っている。カビと古書、そして得体の知れない香の匂いが充満する大広間。

 色褪せたベルベットの絨毯が敷かれた円卓ではステンドグラス越しに差し込む不気味な赤い月光に照らされながら、赫夜の最高幹部たちが静かに言葉を交わしていた。

 彼らの顔は精巧な陶器の仮面で隠されている。

「……先日の西園寺本邸への襲撃。やはり、あの小鳥遊の娘が完全に己の異能を自覚し、我々の“腐食”の結界を意図的に破ったとみて間違いない」

 ひび割れた能面を被った男が忌々しげに吐き捨てた。

「ただ守られているだけの小娘かと思いきや思いを込めた刺繍という形のないものを通して己の意志を紡ぎ、結界を物理的に食い破りおった。あの娘の放つ修復の力は我々の“破壊”と“混沌”の教義を根底から覆す極めて厄介な異能だ。力がこれ以上増幅し、我々の脅威となる前に喉を掻き切って殺すべきだ」

「馬鹿を言え」

 能面の男の言葉を遮ったのは美しい狐の面を被った女だった。彼女は扇子で口元を隠し、妖しく艶めいた声で嗤う。

「壊れたものを直し、歪められた運命さえも元の形へと“修復”する力。……もしあの娘を我々の手中に収めることができれば、我々の朽ちゆく肉体もあるいは過去の失敗さえも完全に“修復”できるやもしれん。……殺すなどという勿体ないことは許されません」

 女の言葉に旧都の冷たい空気がねっとりとした欲望の熱を帯びた。

「あの西園寺の鬼少佐の庇護下から引き剥がし、自我を徹底的に壊して我々の都合の良い操り人形にすればよいのです。……想像するだけで身震いがする。自ら戦う覚悟を決めたあの気高い少女が我々の祭壇で手足を縛られ、泥のような絶望に染まる姿が」

「……ならば、どう引き剥がす。あの鬼少佐は今頃、帝都で我々の尻尾を追って狂犬のように血眼になっているはずだ。あの男が傍にいる限り、容易には手を出せんぞ」

 円卓の奥で沈黙を守っていた不気味な翁の面を被った男が地を這うような声で尋ねた。

 狐の面の女は扇子を閉じ、赫く爛々と輝く瞳を細めた。

「ええ……ですが、それで良いのでは?我々の大儀のための準備が完全に整うまで今はあの娘を愛というぬるま湯の中で泳がせておいてやればよい」

「……どういうことだ」

「光が眩く輝き、彼女が己の幸福を完全に信じ切ったその瞬間……私たちがすべてを無残に叩き壊し、絶望の底へと引き摺り下ろすのです。それこそがあの気高い精神を最も容易く粉砕し、完璧な人形へと作り変える極上の手段となります」

 狐の面の女の言葉に円卓を囲む幹部たちが納得したように低く喉を鳴らした。

「……我々の準備が整い、帝都を完全に掌握できるのは紅葉が街を血の色に染める頃……秋か」

「ええ。秋の満月の夜。……それをあの娘が絶望の泥に塗れる、我々の新たな祝祭の日にいたしましょう」

 仮面の奥で三つの赫い瞳が歪な弧を描いた。彼らは郊外の西園寺本邸で鈴が花嫁修業をしていることも秋に結婚式を控えていることも知らない。ただ、己の野望と狂気のために秋という季節を襲撃の目標に定めたのだ。

 愛する少女の秋の祝祭を守るため、血塗られた粛清を誓う鬼。秋の夜にすべての光を奪い、絶望の儀式を行おうと企む闇の眷属たち。

 奇しくも一致してしまった秋という破滅へのカウントダウンは静かに、そして確実に刻まれ始めていた。

 春の夜。昼間の柔らかな陽射しが嘘のように郊外の夜気はまだ肌寒く、凛とした静寂に包まれていた。

 雲一つない夜空には真珠のような輝きを放つ満月がぽっかりと浮かび、西園寺本邸の広大な庭園に青白い光のベールを落としている。

 洋館の二階、鈴の私室として与えられた豪奢な部屋では琥珀色のガス灯が淡く温かな光を放っていた。床に敷き詰められた分厚い真紅の絨毯の上を若菜が軽やかな足音を立てて歩き回っている。

「……はい、鈴様。ふくらはぎの凝りも、随分とほぐれましたよ。今日は本当にお疲れ様でございました」

「ありがとう、若菜さん。……魔法みたいに温かくて、とっても気持ちよかった」

 透かし彫りの天蓋が付いた広大なベッドの上、上質な絹のネグリジェに身を包んだ鈴は落ち着いた様ないじってや長い息を吐き出した。

 タキの花嫁修業は想像を絶する過酷さだった。午前中の歩き方と茶の湯に始まり、午後からは華道、そして夜会のためのダンスのステップ練習。普段使わない筋肉を限界まで酷使した鈴の足は夕食の席につく頃には生まれたての小鹿のように震え、自室に戻るなりベッドに倒れ込んでしまったのだ。

 そんな彼女を見かねて、若菜が特製の香油を使って丹念に足を揉みほぐしてくれたのである。

「ふふっ、魔法だなんて。でも鈴様が一生懸命に頑張っていらっしゃるお姿を見ていたら、私まで力が入ってしまいまして……。大奥様も裏では『あの子は本当に筋が良い』と目を細めておいででしたよ」

「本当……?」

「ええ! ……さあ、夜も更けました。冷えないようにお布団をしっかり被って、ゆっくりとおやすみくださいませ」

 若菜は鈴の肩まで羽毛布団を掛けると、ランプの火を少しだけ絞り、恭しく一礼して部屋を後にした。重厚なオーク材の扉が閉まり、部屋に完全な静寂が訪れた。遠くで柱時計が時を刻む音と窓の外から微かに聞こえる春の風の音だけが鈴の鼓膜を優しく打つ。

 鈴は仰向けのまま、じっと天井の豪奢なシャンデリアを見つめていた。

 身体は泥のように重く、今すぐにでも微睡みの淵に沈んでしまいそうなのに胸の奥底では小さな炎が燃え続けていて、どうしても眠りにつくことができない。

(……西園寺様。今頃、どうしているのかな。冷たい夜風に吹かれて、風邪などひいてないと良いのだけれど……)

 鈴はそっと身を起こすと、ベッドのサイドテーブルに置かれた小さな木箱に手を伸ばした。中に入っているのは美しい色とりどりの絹糸と真っ白な上質のハンカチの布地。“サギソウ”が縫いかけの刺繍だった。鈴は針に糸を通した。一針、また一針と布に糸を縫い込んでいく。そのひと針ごとに彼女の純粋で強烈な“祈り”が込められていく。

(壊れたものを直し、傷ついた心を癒やす。……私のこの力は西園寺様を守るためにある。あの方が背負う冷たくて暗い運命を私がこの手で温かい光へと“修復”してみせる)

 指先に微かな痛みを感じ、鈴は手を止めた。窓の外を見れば青白い月光が彼女の部屋を静かに照らし出している。

 鈴は縫いかけのハンカチを胸に抱きしめ、遠く離れた帝都の空に向かって、そっと目を閉じた。

「……どうか、ご無事で。私の一番大切な、不器用な鬼さん」

 少女の祈りは春の夜風に乗って、月明かりの下をどこまでも飛んでいった。

 同時刻。郊外の静寂とは対極にある、帝都の中心部。帝国陸軍・異能特殊部隊の駐屯地、その最奥に位置する隊長執務室はまるで真冬のシベリアの永久凍土に放り出されたかのような致死量の冷気に支配されていた。

「……少佐。頼みますから、もう少しだけ冷気を抑えていただけませんか。インク瓶の中身が凍りついて報告書が書けません」

 執務机の前に立つ副官の氷室が震える手で眼鏡の位置を押し上げながら、深い溜息を吐いた。

 彼の吐く息は室内であるにも関わらず真っ白な結晶となって空中に漂っている。

 執務机の奥。背もたれの高い革張りの椅子に深く身を沈めているのは漆黒の軍服を纏った西園寺景明であった。

 地下の尋問室で赫夜の将官を氷漬けにし、敵が己の最愛の妻である鈴を標的にしているという最悪の事実を知ってから数時間。

 景明の内側で暴れ狂う殺意と鈴への狂気的なまでの愛情と執着は物理的な“氷の異能”となって室内にダダ漏れになっていた。窓ガラスには分厚い霜が張り巡らされ、部屋の隅の観葉植物は哀れな氷のオブジェと化している。冷たく澄み切り、息苦しいほどの重圧が満ちる空間。

「……氷室。あのクズどものアジトの特定はまだか」

 景明の口から紡がれたのは地を這うような低く、ひどく掠れた声だった。その瞳の奥には血に飢えた獣のような暗い炎が揺らめいている。

「現在、部隊の総力を挙げて帝都の地下網を洗い出しています。……ですが少佐、貴方ご自身が少し休息を取らなければ部下たちが凍死する前に貴方の精神が焼き切れますよ」

 氷室はそう言うと持参した盆の上から、湯気を立てるマグカップを景明の机に置いた。

 泥のように黒く、ひどく苦そうなブラックコーヒーだ。

「……こんな泥水のようなもので私の渇きが癒えると思っているのか」

「ええ、小鳥遊嬢の淹れる絶品のお茶に比べれば、ただの苦い泥水でしょうね。ですがこれは脳を覚醒させます。飲んでください」

 氷室の皮肉めいた言葉に景明は忌々しげに舌打ちをするとマグカップには手を付けず、代わりに自身の軍服の胸ポケットへと手を入れた。

 そして、ひどく大事そうに壊れ物を扱うような手つきで一枚の布を取り出した。

 それは鈴が以前彼のために刺繍を施してくれた白いハンカチだった。

 景明はそのハンカチを両手で包み込むとゆっくりと自身の顔に近づけ、深く、深く息を吸い込んだ。

「…………ッ」

 瞬間、景明の強ばっていた肩の力が抜け、室内に吹き荒れていた致死量の冷気が和らいだ。

 ハンカチから漂ってくるのは石鹸の匂いとそして何より鈴自身から発せられる、春の陽だまりのような、甘く優しい匂いだった。

 たったそれだけの匂いが。彼女の存在の欠片が。帝都最強の修羅の心を一瞬にして縛り付け、安らぎの底へと引き摺り下ろす。

(……鈴。私の、鈴)

 まだ今朝、別れたばかりだというのに。彼女の体温が。彼女の甘い声が。彼女のすべてが気が狂うほどに恋しかった。今すぐここから飛び出して本邸の彼女のベッドに潜り込み、あの華奢な身体をこの腕の中に閉じ込めてしまいたい。

 そんな重すぎる衝動を景明はハンカチを握りしめることで必死に抑え込んでいた。

「……小鳥遊嬢の力は偉大ですね」

 室内の温度がわずかに上昇したのを感じ取り、氷室が少しだけ安堵したように呟いた。

「ああ。彼女は私の光だ。……だからこそ」

 景明はハンカチを再び胸ポケットの、心臓の一番近い場所へと大切にしまい込むとゆっくりと目を開けた。その瞳にはもう迷いも抑えきれない怒りもない。あるのは透き通るような絶対零度の殺意と氷の刃のような冷酷な知性だった。

「連中の狙いが鈴の修復の力だとわかった以上、私は一歩も引く気はない。……あいつの世界に連中の汚れた血を一滴たりとも飛ばさせはしない」

 景明は立ち上がり、軍靴の踵を鳴らした。

「秋のあの日にあいつに純白の白無垢を着せる。……その完璧な未来を邪魔する輩は全員私がこの手で細切れにして永久凍土の底に沈めてやる」

 夜の闇よりも深い決意が執務室に静かに響き渡った。

 一方、その頃。

 西園寺本邸のさらに奥深く、タキの私室ではひっそりと、しかし極めて重大な“準備”が進められていた。

「……ふふっ。茶の湯も華道も鈴さんは見事にこなして見せました。ならば明日からは……いよいよ“本番”ですね」

 タキは紫色の艶やかな袱紗(ふくさ)に包まれた重厚な桐の箱を愛おしそうに撫でていた。その箱の中に入っているのは西園寺家に代々伝わる秘伝の書。極彩色で描かれた、恐ろしく生々しい春画の巻物である。

「景明さんは不器用で加減を知りませんからね。純真な鈴さんが怪我をしないよう、私が手取り足取り、みっちりと夜伽の心得を教え込んでさしあげませんと……」

 タキの口元にどこか悪戯っぽい、しかし凄まじい熱意を秘めた笑みが浮かんだ。明日、この恐ろしい巻物を前にしてあの純真な少女がどれほど限界まで赤面し、悲鳴を上げることになるのか。その微笑ましくも過激な特訓の足音は、すぐそこまで迫っていた。

 月は遠く離れた帝都の闇と郊外の静寂を等しく照らし出している。血と氷に塗れた粛清の道を行く男と愛する者のために己の力を信じて過酷な花嫁修業に挑む少女。

 嘘から始まった二人の物語は秋の誓いという究極の光に向けて、いよいよその激動の半年間を歩み始めたのである。


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