第36話
かつて豪奢なシャンデリアが吊るされていた大広間の天井には景明が愛する少女を護るために突き破って降臨した巨大な風穴が空いていた。
そこから吹き込む身を切るような冷たい春の夜風が広間を満たしていた異様な熱と濃密な血の匂い雷撃によるオゾンの焦げた臭いを静かに攫っていく。
しかし、どれほど冷たい風が吹き込もうとも瓦礫が散乱する広間の中央で抱きしめ合う二人から、その絶対的な温もりを奪うことはできなかった。
景明の背中に腕を回し、絶対に離れまいとしがみつく鈴。彼女の頬が景明の冷たい胸板にぴたりと押し当てられ、そこから伝わる力強い心音だけが鈴にとっての世界のすべてだった。
ふと、広間の床や壁面を覆っていた銀色の光の粒子が淡雪のように空中に舞い上がり、消えていくのが見えた。
それは鈴が自らの異能である“修復”の力を込めた結界の残滓だった。
“護りたい”という彼女の強烈な祈りが尽き、役割を終えた光の糸が主の無事を見届けて霧散していくのだ。その儚くも美しい銀色の残光を見つめながら景明の中で己を縛り付けていた最後の理性という名の鎖が音を立てて砕け散った。
(……ああ。私はこのぬくもりを失ったら、今度こそ本当に生きてはいけない)
「……鈴っ!」
切羽詰まったような低く甘い吐息とともに景明の大きく分厚い両腕が鈴の華奢な背中をさらに強く、深く抱きしめ込んだ。
凍え切っていた景明の体に鈴の放つ陽だまりのような熱が流れ込んでくる。血やオゾンの匂いばかりだった彼自身の世界が鈴の髪から香る石鹸と微かな白梅の甘い匂いに塗り替えられていく。
「本当によく……無事でいてくれた。遅くなって、すまない……っ」
泣く子も黙る鬼少佐であり、軍部から兵器と恐れられる男の顔はそこにはなかった。
景明は縋るように鈴の肩口に顔を埋め、その柔らかな髪や額、こめかみに何度も唇を落とした。まるで彼女が本当に存在しているのかを五感のすべてを使って確かめるかのように。
「西園寺様……私、ちっとも怖くありませんでした」
鈴は景明の首元に腕を絡ませながら優しく微笑んだ。彼女の手のひらには柄を固く握りしめ続けた白鞘の薙刀によるマメが擦り切れ、痛々しく赤く腫れ上がっている。景明はその小さな両手をそっと自身の大きな手で包み込むと彼女の痛みを散らすように赤い手のひらに一つずつ、祈るような口づけを落とした。
唇の感触がくすぐったく、鈴は小さく肩を揺らす。
「ここは貴方が帰ってくる大切な場所です。だから私が絶対に護り抜くと決めていたんです」
「……馬鹿なことを言うな。私の命など、君の髪の毛一本にも劣るというのに」
愛おしさとどうしようもない庇護欲が限界を突破し、景明は鈴の顎を長い指で優しくすくい上げた。
月光に照らされた鈴の大きな瞳が景明を真っ直ぐに見つめ返す。不器用なまでの優しさを持つ彼を深く愛し、共に運命を歩むことを決めた凛とした女主人の覚悟が宿っていた。
「愛している……鈴」
重なる唇は燃えるように熱かった。
景明の強引でいて、どこまでも甘やかな口づけに鈴は小さく喘ぎながら身を委ねる。
互いの吐息が混ざり合い、戦いの緊張から解放された涙のしょっぱい味が唇の端で甘く溶けていく。景明の舌が鈴の唇をそっと割り、その内側の柔らかな粘膜を愛おしむように撫でるたび、鈴の背筋に甘い痺れが走った。
何度も角度を変え、息継ぎの隙間さえも惜しむように貪り合う。大広間の凄惨な状況など完全に意識の外へ追いやられ、ただ互いの存在だけが二人の世界のすべてだった。
やがて、長い長い口づけの果てにようやく唇が離れると限界まで張り詰めていた鈴の緊張の糸が切れた。
帝都最強の男と白梅のように気高き女主人。彼らの絆はこの凄絶な時間を経て、もはやいかなる呪いも引き裂けないほどの絶対的な愛へと昇華されたのである。
安堵と極度の疲労感が一気に押し寄せ、鈴の膝から力が抜ける。
「あっ……」
「おっと、……無理もない。君は今日、信じられないほど勇敢だった。あとはこの私にすべてを預けなさい」
崩れ落ちそうになった鈴の体を景明はいとも容易く軽々と抱き上げた。
軍服の硬い生地越しでもわかる、彼の力強い腕の感触。胸に耳を押し当てると景明の心臓もまた、鈴と同じように早鐘を打っているのがわかった。
「西園寺、様……」
心地よい微睡みに引きずり込まれそうになりながらも鈴の脳裏にふと重大な懸念がよぎった。赫夜の襲撃はこの西園寺本邸だけではないはずだ。
「あの……帝都は、どうなっているのですか?屯所の皆様は……氷室様は、ご無事なのでしょうか……?」
鈴が潤んだ瞳で景明を見上げて尋ねる。
景明がそれに答えようと微かに口を開きかけたその時だった。
権藤と幹部との死闘によって既に半壊し、無残にひしゃげていた大広間の入り口から舞い上がる砂埃と外の冷たい夜風とともに一人の若い男が文字通り転がり込んできた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……っ!小鳥遊嬢!御無事です……かッ!?」
血相を変えて飛び込んできたのは桜木だった。彼の軍服は至る所が引き裂かれ、頬には一筋の血が流れ落ちている。息は絶え絶えで立っているのがやっとというほどの消耗ぶりだった。
桜木は大広間の惨状、ひび割れた床、吹き飛んだ天井、そして完全に沈黙した敵の残骸を目の当たりにして目を丸くした。
そして、その視線の中央。血に塗れた軍服姿で大事な宝物でも抱くかのように鈴を腕の中に抱き抱えている、見慣れた上官の姿を捉えた瞬間、桜木の口から素っ頓狂な叫び声が漏れた。
「しょ……少佐ッ!?な、なぜここにいらっしゃるんですか!?」
桜木の顔に浮かんだのは救世主を見たというよりは信じられない幽霊でも見たかのような驚愕だった。
それもそのはずである。本来、景明は帝都全体を襲撃している赫夜の大規模な怪異討伐の総指揮を執るため、駐屯地の最前線で部隊を率いているはずだったのだから。
桜木は自身の異能である催眠を駆使し、敷地外周になだれ込んできた怪異の大群を相手に同士討ちをさせたり眠らせたりと単機で奮闘していた。しかし、次から次へと湧き出る無数の敵に徐々に押され、万が一にも鈴に危険が及ばないよう、やむを得ず屋敷の中へと後退してきたところだったのだ。
まさか、その最も安全であるべき場所で最高司令官が婚約者を抱きしめながら甘い空気を撒き散らしているなど、誰が想像できただろうか。
目を白黒させる桜木に対し、景明は微塵も悪びれる様子を見せず、むしろ当然というような顔で堂々と胸を張った。
「決まっているだろう。私の帰るべき場所は鈴のそばをおいて他にはない」
景明はそこで言葉を区切ると氷のように冷徹な、それでいてどこか清々しささえ感じさせるドヤ顔で言い放った。
「それに帝都の防衛ならびに残存部隊の指揮の一切は我が隊の極めて優秀な副官である、氷室に“一任”してきた」
「…………はい?」
桜木の声が間抜けに裏返った。“一任”。響きはいいがそれは要するに“指揮から報告から後始末まですべての面倒な仕事を副官に丸投げして、自分は愛する婚約者のもとへ飛んできた”という、職権乱用の極みに他ならない。
(あ、ああ……氷室大尉……っ!!)
桜木の脳裏に屯所の司令室で山積みの報告書と鳴り止まない黒電話の狂騒に取り囲まれ、胃を押さえながら死んだ魚のような目をしている眼鏡の副官の姿が鮮明な幻視となって浮かび上がった。
読心の異能を持つ氷室ならば、今頃、遠く離れたこの場所で上官がどのような思考回路で動いているかなど、手に取るようにわかっているはずだ。
桜木はもはや怪異に対する恐怖よりも哀れな副官の胃壁の安否を気遣い、心底からの同情と悲哀に満ちた涙をこぼした、まさにその時だった、西園寺本邸の広大な前庭の方角から地鳴りのような重低音が響き渡ってきた。
それは単なる物理的な振動ではない。数多の悪意と飢餓感が混ざり合った、おぞましい呪詛の塊が押し寄せてくるような、不気味な気配のうねりだった。
月明かりに照らされた前庭の木々のシルエットが、異形の影たちによって次々と塗り潰されていく。
先刻、景明が放った規格外の雷撃によって幹部は完全に消滅したが主を失ったことで統制を失い、凶暴化した赫夜の怪異の残党たちが桜木の張っていた防衛線を突破して屋敷の目前にまで雪崩れ込んできたのだ。
「……チッ、しつこい連中だ」
景明は短く舌打ちをすると、それまで愛しい宝物を抱いていた甘やかな空気を一瞬にして掻き消した。
彼の纏う空気が絶対零度の殺気へと変貌する。広間の温度が急激に下がり、吐く息が真っ白な霧となって輪郭を帯びた。砕け散った大広間のステンドグラスの破片に薄っすらと霜が降りていく。
「鈴」
景明は腕の中に抱いていた鈴をひどく名残惜しそうに、だが極めて優しく、大理石の床へと下ろした。彼の大きな手が鈴の頬についた埃を愛おしむようにそっと拭う。
「ここから先は少しばかり血生臭くなる。君は私の背中でただ目を閉じていなさい。一瞬で終わらせる」
それは帝都最強と謳われる彼にとっての事実であり、揺るぎない自信の表れだった。彼一人が本気で異能を解放すれば、前庭を埋め尽くす怪異の群れなど数秒で氷の彫像と化すだろう。だが鈴は景明の言葉に静かに首を横に振った。
「いいえ、西園寺様」
鈴は側に落ちていた白鞘の薙刀を拾い上げた。擦り切れてマメが潰れた手のひらに硬い木の感触が食い込む。痛みが走るが、それ以上に自身の内に宿る熱い決意が彼女の背筋を真っ直ぐに伸ばさせた。
着物の裾が冷たい夜風に揺れる。彼女の瞳には西園寺景明という男を愛し、彼の隣に立ち、彼が帰るべきこの場所を共に護り抜くと決めた、強き女主人の覚悟が宿っていた。
「私は貴方の背中に隠れているだけの子供ではありません」
鈴の凛とした声が静まり返った広間に響き渡る。彼の夜の闇を凝縮したような漆黒の瞳が見開かれ、やがて、どうしようもないほどの愛おしさと誇らしさに満ちた柔らかな光を帯びていく。
「……ああ。そうだったな」
景明は小さく息を吐き出すと低く喉を鳴らして笑った。戦場において彼がこれほどまでに無防備で穏やかな笑みを見せることなど、かつての彼を知る者からすれば信じられない光景だっただろう。
「ならば、私の隣で君の望むように舞いなさい。……私の美しく気高き婚約者殿」
「はいっ……!」
二人の心が完全に一つに重なり合った瞬間、前庭と玄関ホールを繋ぐ大階段に夥しい数の怪異たちが姿を現した。
泥と肉片を捏ね合わせたような醜悪な巨躯。複数の赤い複眼を蠢かせる異形。腐臭と鉄の匂いを撒き散らしながら飢えた獣の咆哮を上げて、彼らは一斉に本邸の中へと雪崩れ込んできた。
「少佐と小鳥遊嬢に近づくなァァッ!!」
血相を変えて叫んだのは満身創痍の桜木だった。彼は疲労で千切れそうな両足に鞭を打ち、立ち上がると両手を前方に突き出した。彼の瞳の奥で異能の光が渦を巻く。
「……同士討ち(ハレーション)ッ!!」
桜木の口から紡がれた言霊が不可視の波紋となって怪異の群れに襲い掛かる。大気を震わす特殊な波長が怪異たちの脆弱な脳髄に直接干渉し、敵味方の認識を強制的に書き換えた。
先頭を走っていた巨大な四足歩行の怪異が突如として奇声を上げながら、隣を走っていた爬虫類型の怪異の喉笛に噛み付く。それを合図に前列の怪異たちが次々と狂乱状態に陥り、互いの肉を引き裂き、血肉を喰らい合い始めた。
凄惨な同士討ちの光景。だが、敵の数はあまりにも多すぎた。後続の怪異たちが味方の死骸を踏み越えて、怒涛の勢いで階段を駆け上がってくる。
「くっ……!抑えきれませんッ!」
「お待たせいたしました、旦那様。鈴様」
桜木が血を吐くような悲鳴を上げた、その刹那。月を背にして大広間の吹き飛んだ屋根の梁の上から一筋の黒い影が舞い降りた。
音もなく広間の床に降り立ったのは権藤だった。
権藤は景明が天井を突き破って幹部を瞬殺した直後、大広間にいたが愛する主君と未来の女主人が血塗れのまま熱い抱擁を交わし、極甘な空気を撒き散らしているのを目の当たりにし、忠実にして“空気を読む”ことに長けた老執事は若い二人の邪魔をせぬよう、あえて気配を完全に絶って梁の上に身を潜めていた。
権藤の白髪混じりの髪が夜風に乱れる。先刻まで二人を温かく見守っていた好々爺の顔立ちは消え失せ、そこにあるのは主の敵を容赦無く殲滅する冷酷な処刑人の姿だった。
「私の不在の間に随分と埃が舞い込んでしまったようですな。……すぐに清掃をいたします」
権藤が右手の白手袋をゆっくりと外しながら、左手を軽く振るい、異能を発動させた。
真空の刃が目にも留まらぬ速さで広間から前庭へと駆け抜けた。空気が極限まで圧縮されて弾けるような甲高い風切り音。
次の瞬間、桜木の催眠をすり抜けて迫ってきていた十数体の怪異の首が一斉に宙を舞った。切断面は鏡のように滑らかで一拍遅れてから噴水のようにどす黒い血が夜空に吹き上がる。
老執事の放つ、洗練の極致とも言える一撃。それはただ力任せに風を操るのではなく、敵の急所のみを正確に削ぎ落とす、熟練の暗殺者の技だった。
「さすがは爺だ。だが、私と鈴の御前だ。あまり屋敷を汚してくれるなよ」
「御意に」
景明の冗談めかした言葉に権藤が優雅に一礼する。四人が陣形を組む。前衛には景明と桜木。後衛に鈴。そして遊撃として空間を駆け巡る権藤。
西園寺家の防衛戦、そのフルメンバーによる共闘がここに始まった。
「ギァァァァァァッ!!」
仲間を殺された怒りに狂った怪異の大群が巨大な波となって四人に襲いかかる。
「鈴、君の背後は私が守る。君は前だけを見ていなさい!」
景明が叫ぶと同時に彼の足元から凄まじい冷気が爆発的に放射された。
大理石の床を這うように広がる霜が瞬く間に分厚い氷の層へと変化していく。最前列に到達した怪異たちの足が、床と一体化するように凍りつき、彼らの動きが完全に停止した。
そこに桜木の催眠による追撃が重なる。足止めされた怪異たちの意識を撹乱し、自らの腕を噛み千切らせ、隣の怪異の眼球を抉り出させる。
地獄絵図と化した前庭にさらなる絶望をもたらしたのは景明だった。
「消え失せろ」
景明が右手を高く天へと掲げる。凍りついた怪異たちの足元から鋭利な氷の槍が無数に突き出し、彼らの胴体を串刺しにした。だが、景明の攻撃はそれだけでは終わらない。
夜空を覆う雲の切れ間から、紫電の雷光が走った。鼓膜を劈くような轟音と共に天から降り注いだ落雷が景明の生み出した氷の槍を伝導体として、怪異たちの体内へと直接流れ込む。
絶対零度の氷で細胞を凍結させられ、そこに数万ボルトの雷撃を内側から叩き込まれる。怪異たちは悲鳴を上げる間もなく、細胞レベルで破裂し、跡形もなく消滅していった。オゾンの焦げた臭いと氷の砕ける乾いた音が凄惨な戦闘の余韻として残るのみだ。
景明は一切の容赦を見せなかった。己に近づく虫けらどもは物理的にも、概念的にも、この世から完全に隠滅する。その圧倒的なまでの蹂躙劇は敵に対する冷酷さと背後に立つ鈴への深すぎる溺愛の裏返しでもあった。
しかし、いかに景明が圧倒的であろうとも敵は広大な敷地のあらゆる方向から壁をよじ登り、あるいは木々の枝を伝って、四方八方から立体的に襲いかかってくる。
景明と権藤の攻撃網の目をすり抜け、大広間の天井の風穴から数体の小型の怪異が鈴の背後へと落下してきた。
「小鳥遊嬢ッ!後ろですッ!!」
桜木が悲痛な叫びを上げる。だが、鈴が振り返るより早く漆黒の燕尾服が夜風に翻った。
「おやおや。未来の女主人のお背中を狙うとは躾のなっていない獣ですな」
権藤が冷徹な声と共に左手を下段から鋭く振り上げる。異能、烈風。不可視の真空の刃が空気を切り裂き、甲高い音と共に落下してくる怪異たちを空中で瞬時に四散させた。
しかしその暴風の網の目をすり抜け、半身を失いながらも死に物狂いで鈴へと飛びかかってくる一体の怪異がいた。
「……ッ!」
迫り来る異形の牙。だが鈴は決して慌てなかった。あらかじめ自身の着物に縫い付けていた籠目紋が彼女の“護りたい”という祈りに呼応して銀色の淡い光を帯び、自律的な防壁として彼女の背後を覆い始める。だが、その絶対の結界に頼り切ることはせず、鈴は自ら前へと踏み込んだ。
白刃が冷たい月光を浴びて鋭く閃く。小柄な彼女の体格をカバーするため、円の動きを利用して遠心力を乗せ、最小限の力で最大限の威力を生み出す実践的な剣技だった。
白鞘の薙刀が空を切る。小気味良い音と共に権藤の攻撃をすり抜けてきた怪異の胴体が見事な一太刀で両断された。
「……見事だ、鈴!」
前衛で怪異を粉砕しながら景明が歓喜に満ちた声で褒め称える。彼の瞳には怪異の群れなど全く映っていない。ただ、薙刀を構えて凜然と立つ、愛する婚約者の美しい姿だけが焼き付いていた。
返り血一つ浴びることなく、怪異を切り捨てた鈴が少しだけ照れくさそうにする。その血みどろの戦場にはあまりにも不釣り合いな、甘く微笑ましいやり取り。
権藤が「お熱いことですな」と苦笑しながら、再び烈風を放って周囲の怪異を細切れにし、桜木は「俺の胃も保たないッス……」と半泣きになりながら催眠で怪異を眠らせ続ける。
景明の氷と雷が大地を割り、空を焦がす。
権藤の風が不可視の刃となって空間を斬り刻む。
桜木の催眠が敵の知覚を狂わせ、同士討ちを誘発する。そして鈴の結界が絶対の盾となって味方を護り、薙刀の白刃が残党を刈り取っていく。
四人の異能と技が完璧なまでに噛み合い、交錯する。それは凄惨な殺戮の場でありながら、どこか優雅な舞踏会を思わせるような洗練された連携だった。
西園寺家という、彼らにとって最も護るべき場所。そこを汚す不届き者たちに慈悲など与えられるはずもない。
月光の下、藤色の裾と漆黒の軍服が交差するたび、怪異の悲鳴が夜の闇へと溶けていった。やがて最後に残った一体の巨大な怪異が景明の放った特大の雷塊によって跡形もなく消し炭にされた時。
屋敷を包み込んでいた異様な喧騒と熱狂は潮が引くように静まり返り、冷たく清らかな花冷えの夜風だけが吹き抜けていったのだった。
先刻までの耳を劈くような獣の咆哮も、肉が裂ける悍ましい音も、大気を震わせる狂乱の波動も、今はもうどこにも存在しない。
身を切るように冷たく澄んだ夜風が戦闘の爪痕が深く刻まれた庭の木々を揺らし、乾いた音を立てて通り抜けていくばかりだ。
月光に照らされた前庭はまるで巨大な硝子細工の展示場のように様変わりしていた。
景明が放った絶対零度の冷気によって地面の泥も、引き裂かれた木々の枝も、そして怪異たちの残骸がわずかに残した黒い体液すらも、すべてが分厚い霜と鋭利な氷柱に覆われている。そこに彼が落とした幾筋もの雷撃の熱が加わり、急激な温度変化によって音を立てて氷がひび割れ、砕け散っていく。
砕けた氷の欠片が月明かりを乱反射して銀色の粉雪のように宙を舞っていた。オゾンの焦げた鋭い臭いと濃密な血の匂い。この世のものとは思えないほど凄惨でそれでいてひどく幻想的な光景を作り出していた。
「……終わったようだな」
景明が低く静かな声で呟いた。彼の纏っていた周囲の空気さえも凍りつかせるような絶対零度の殺気が春の雪解けのように霧散していく。
張り詰めていた空気が緩んだのを感じ取り、鈴は大きく深呼吸をした。冷たい空気が肺の奥まで入り込み、内側から体を冷やしていく。同時に極度の緊張と異能の連続使用による凄まじい疲労感が鉛のように重くなって全身にのしかかってきた。
「ふぅぅ……っ」
鈴は小さく息を吐き出すと、両手で固く握りしめていた白鞘の薙刀をゆっくりと身体の横へと下ろした。すると鈴の背後で空間の裂け目を縫い合わせるように展開していた籠目紋の銀色の結界が再び、役目を終え、光の粒子となって、夜空へと溶けて消えていった。
護りたいという彼女の強烈な祈りの糸が解け、ようやくただの小鳥遊鈴という一人の少女へと戻った瞬間だった。
「っ、鈴!」
鈴の体がわずかにふらついたのを景明は見逃さなかった。彼は瞬きする間もないほどの速さで鈴の傍へと歩み寄り、その大きな両手で彼女の華奢な肩をしっかりと支えた。
軍服の分厚い生地越しでも伝わってくる、彼の手のひらの力強さと信じられないほどの優しい体温。
「西園寺、様……」
「無茶をしすぎだ。君は今日、自分の限界を遥かに超える力を使いすぎた。……立っているのもやっとだろう」
景明の声には深い労わりと彼女を危険な目に遭わせてしまったことへの痛切な後悔が滲んでいた。彼は己の軍服の血汚れなどもう気にする様子もなく、ただ愛しい宝物を確かめるように鈴の華奢な肩をしっかりと、それでいて優しく腕の中に抱き込んでいる。その不器用ながらも深く熱い愛情が鈴の胸の奥を温かくさせた。
「大丈夫、です……。貴方がこうして傍にいてくださいますから」
鈴は彼の腕の中で見上げて、花が咲くように微笑んだ。月光に照らされた彼女の顔色は抜けるように白く、ひどく疲労しているのは一目瞭然だった。だが、その瞳だけは深い愛情と安堵に満ちて夜空の星のように輝いている。
「まったく……君という娘は」
景明は愛おしさを堪えきれないというように低く喉を鳴らして笑い、そっと鈴の額に自身の額をすり寄せた。
傍から見れば血生臭い修羅場のど真ん中である。散乱する氷の破片と無残に砕け散った広間の瓦礫に囲まれながら、帝都最強の異能者と凛とした女主人が完全に二人の世界に浸りきって甘い空気を撒き散らしているのだ。
その光景を数歩離れた場所で見守っていた権藤は白手袋の汚れを優雅に払いながら目尻に深い皺を寄せて「ほっほ」と人の良さそうな笑い声を漏らした。
一方、限界まで異能を使い続け、立っているのも不思議なほど満身創痍の桜木は膝に手をついて肩で息をしながら呆れたような、それでいて深い安堵の混じったため息を吐いていた。
「……少佐のあんな顔、屯所の連中が見たら、絶対に集団幻覚を疑って医務室に駆け込みますよ……」
桜木のぼやきは幸か不幸か景明の耳には届いていなかった。
その時、広間の奥、通常は使用人たちが通る裏通路の方角から重々しい金属の扉が軋む音が聞こえてきた。屋敷の地下に設けられた頑強な避難壕への扉だ。
恐る恐るという様子で扉の隙間から顔を出したのは若菜だった。
「す、鈴様……っ!? 旦那様も……!」
若菜は大広間の惨状、吹き飛んだ扉、壁に刻まれた巨大な亀裂、そして前庭に広がる氷の地獄絵図を目の当たりにして言葉を失って立ち尽くした。
無理もない。彼女たちが避難壕に隠れていたわずかな間に地上では人知を超えた異能者たちによる想像を絶する死闘が繰り広げられていたのだから。
だが、若菜の視線が瓦礫の中央で景明に寄り添うようにして立つ鈴の姿を捉えた瞬間、彼女の大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「鈴様ァァァッ!!」
若菜はスカートの裾を握りしめ、転がるようにして鈴の元へと駆け寄ってきた。そして主である鈴の前で膝をつき、彼女の着物の裾にすがりつくようにして子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「あああ、鈴様……!ご無事で、本当にご無事でよかった……!恐ろしい音がずっと響いていて、私、鈴様にもしものことがあったらと……っ!」
「若菜さん……。ごめんなさい、心配をかけてしまって」
鈴は空いた手で若菜の背中を優しく撫でた。
若菜の肩が嗚咽と共に大きく震えている。
鈴の小さな手が若菜の服越しの温かい背中を何度も往復する。
「もう大丈夫ですよ。西園寺様が私たちを護ってくださいましたから」
「ううっ、ずずさまぁ……!」
若菜の後ろからは西園寺家に仕える料理長や他のメイドたち、そして老齢の使用人たちも次々と姿を現し、主である景明と鈴の無事な姿を見て、次々に安堵の涙を流し、深く頭を下げていた。
「いや、若菜さん。小鳥遊嬢の無事は少佐の力だけじゃありませんよ」
ふらついた足取りで歩み寄ってきた桜木が口元の血を手の甲で拭いながら言った。彼の顔には極度の疲労が刻まれていたが、その瞳には鈴に対する純粋な驚嘆と深い敬意の色がはっきりと浮かんでいた。
「俺が外周で防衛線を突破された時、小鳥遊嬢は皆さんのいる地下への通路を護るため、最前線に立ってくれたんです。そこへ、権藤さんも参戦してくれて……」
桜木の言葉に避難壕から出てきた使用人たちが一斉にどよめいた。鈴がこの地獄のような状況下で巨大な怪異の群れから己の身を挺してこの屋敷を護り抜いたという事実は彼らの想像を遥かに超えていたのだ。
若菜は涙に濡れた顔を上げ、信じられないものを見るような、それでいて最高に誇らしいものを見るような目で鈴を見つめている。
他の使用人たちからも「おお……」、「なんと見事な……」と感嘆の吐息が漏れ聞こえてきた。権藤すらも「まったく、我が西園寺家の未来の女主人は末恐ろしいほどの器であらせられる」と深く頷いている。
「あ、あの……桜木様、そんな、大袈裟です……っ」
鈴は顔から火が出るほど赤くなり、両手で顔を仰いだ。彼女自身はただ必死だっただけだ。護りたいという祈りに無我夢中で応え、景明に教わった薙刀の型を体が勝手に思い出したに過ぎない。こんな風に大勢の人々の前で英雄のように讃えられるなど、恥ずかしくて穴があったら入りたい気分だった。
「私はただ、自分にできることをしただけで……」
鈴がしどろもどろになりながら謙遜の言葉を並べる。その初々しくも愛らしい姿に周囲の空気が温かくなった、その時だった。
「……何を恥じ入ることがある、鈴」
それまで黙って部下や使用人たちの称賛を聞いていた景明が信じられないほど晴れやかな、そしてこの上なく誇らしげな声で言い放った。
彼は鈴の肩を抱き寄せると大広間に集まった全員を見渡し、まるで帝都の広場での大演説でもぶつかのような堂々たる態度で胸を張った。
「桜木の言う通りだ。君のその“護りたい”という強き祈りから生まれた結界は私の氷の防壁をも凌ぐ、世界で最も美しく、最も堅牢な絶対の盾だ」
「さ、西園寺様……っ!?」
あまりの直球な大絶賛に鈴の顔が今度は茹でダコのように真っ赤に沸騰した。
だが景明のドヤ顔は止まらない。彼は自分のことなど棚に上げ、愛する婚約者の武勇伝を語ることが楽しくて仕方がないといった様子で雄弁に言葉を紡ぎ続ける。
「見ただろう、諸君!この血みどろの激戦にあって私の背中を任せられるのはこの世でただ一人、私の美しき婚約者である小鳥遊鈴だけだ!彼女の裁縫の腕は帝都一だが、その心根の強さと気高さは世界一と言っていい!ああ、なんということだ。こんなに素晴らしい女性がやがて私の妻となり、この西園寺家を取り仕切ってくれるのだ!私は世界で一番の果報者であると、ここに声高らかに宣言しよう!!」
景明が力強く拳を握りしめ、天を仰いで高らかに宣言する。大広間に響き渡る、帝都最強の男による全開の愛妻(予定)自慢。
周囲の使用人たちは一瞬あっけに取られたがすぐに温かい笑い声を漏らし始め、やがてそれは広間全体を包み込む穏やかな拍手へと変わっていった。若菜は「その通りです!鈴様は世界一です!」と鼻息を荒くして同調している。
「も、もう!西園寺様ったら、お願いですからそれ以上言わないでください……っ!」
限界まで恥ずかしくなった鈴が景明の血に濡れた軍服の胸元に顔を埋め、小さな拳で彼の胸を叩く。
景明は「痛い、痛いぞ鈴」とわざとらしく言いながらも、その顔は緩みきっており、彼から発せられる甘ったるい幸福のオーラは先刻までの凄惨な戦闘の記憶を完全に上書きしていくほどだった。
一方その頃。西園寺本邸から遠く離れた、帝都にある、帝国陸軍・異能特殊部隊の駐屯地にある司令室は戦場とはまた違った種類の地獄と化していた。
「はい、こちら司令室!……ええ、第参小隊はそのまま第二防衛線で待機!……なんだと西区画で怪異の増援!?第伍小隊を至急そちらに回せ!」
四方八方から鳴り止まない黒電話のベル。血相を変えて飛び込んでくる伝令の隊員たち。インクの匂いと男たちの怒声と熱気が混ざり合う密室の中で一人の中肉中背の男が書類の山に埋もれるようにして氷室が指揮を執っていた。
「報告書は後回しだ!まずは被害状況の把握と市民の避難誘導を最優先しろ!……おい、そこの通信兵!関東司令部への定時連絡はどうなっている!」
氷室は銀縁眼鏡の奥の切れ長な目を血走らせながら、両手に持った二つの受話器を器用に使い分け、さらに机の上に広げられた帝都の地図に次々と赤鉛筆で印をつけていく。
彼の処理能力は極めて高く、部隊の指揮から上層部への報告、果ては事後処理の手配に至るまで文字通り一人で数人分の激務を完璧にこなしていた。
だが、彼がどれほど優秀であろうとも物理的な限界というものは存在する。
(……痛い。胃が千切れそうだ……)
氷室は錐で揉みくちゃにされるような胃の痛みに顔をしかめ、空いた手で自身の腹をきつく押さえた。彼がこれほどまでに苦しんでいる理由は決して仕事の量だけではない。
彼の異能である読心。対象の強い感情や思考の波を読み取るその力は良くも悪くも彼にある事実を正確に伝達してしまっていた。
つい先刻、本邸の外周で防衛に当たっていた桜木から途切れ途切れの電話連絡が入ったのだ。
『ひ、氷室大尉……っ!しょ、少佐が……少佐が本邸にいらっしゃいますッ!』という、絶望的な報告。
帝都全体の防衛指揮を執るべき最高司令官が職務を完全に放棄し、自分の婚約者を助けるために単騎で本邸に飛んでいった。その事実を知った瞬間、氷室の胃壁は悲鳴を上げた。
(……あー。間違いない。あの人、今絶対に小鳥遊嬢を抱きしめてるな。……いや、むしろ周囲に人がいるのにお構いなしで彼女のことを世界一だと自慢して、ドヤ顔をしているに違いない……)
長年、景明の腹心として彼を支え続けてきた氷室だからこそわかる。あの鬼少佐は一度タガが外れると周囲の目など一切気にせず、婚約者に対する溺愛をフルスロットルで爆発させるのだ。
戦火に包まれた帝都で部下たちが血反吐を吐きながら怪異と戦い、自分がこうして過労死寸前で書類の山と格闘しているというのに。
(……やってられるか、チクショウ……っ!)
氷室は内心で血涙を流しながら軍服のポケットから茶褐色の小さなガラス瓶に入った胃薬を取り出した。コルクの栓を親指で弾き飛ばし、氷室は小瓶の口をそのまま唇に押し当て、中の液体を一気に煽った。
「ぐっ……!!ニガッ……!!」
舌の根を焼くような猛烈な苦味と薬草のツンとした匂いが鼻腔を突き抜ける。だが、この強烈な刺激がなければ、もはや立っていることすらできそうになかった。
「……大尉、大丈夫ですか!?顔色が土の壁みたいになってますよ!」
心配して声をかけてきた若い通信兵に対し、氷室は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、夜叉のような凄みのある笑顔を浮かべた。
「……大丈夫だ。少佐が“私の極めて優秀な副官”にすべてを一任してくださったのだから、その期待に応えなければならないだろう?」
「ひっ……!」
通信兵があまりの恐ろしさに小さく悲鳴を上げて後ずさる。
氷室は胃の痛みを無理やり薬でねじ伏せると再び受話器を握りしめ、山積みの書類へと向かっていった。
「いいかお前ら!少佐がイチャ……いや、少佐が本邸の脅威を排除している間に残りの残党を完全に掃討するぞ!一匹たりとも逃すな!夜明けまでに終わらせて、全部隊に特別休暇とボーナスをもぎ取ってやる!!」
「「「おおおおおーーーッ!!」」」
司令室に悲壮感とヤケクソが入り混じった雄叫びが響き渡る。
景明の愛する帰る場所が護られたその裏で哀れな副官の胃壁を代償にした血の滲むような奮闘は、夜明けまで続くのであった。
◇
大広間に満ちていた温かい笑い声と和やかな空気が、ふっと水を打ったように静まり返った。地下の避難壕へと続く重厚な金属の扉が先ほど若菜が開けた時よりもさらに大きく、重々しい軋み音を立てて完全に開け放たれたからだ。
薄暗い通路の奥から、車輪が石の床を擦る静かな音が響いてくる。姿を現したのは源五郎とタキだった。
源五郎は車椅子に深く腰掛け、その顔には深い皺が刻まれているものの、かつて軍部で将官として名を馳せた威厳はいささかも失われていない。その後ろで車椅子を押すタキは襲撃という非常事態にも関わらず、乱れ一つない完璧な着物姿で背筋を定規で引いたように伸ばしていた。
「大旦那様……大奥様……っ」
鈴は姿勢を正し、足元に下ろしていた薙刀を慌てて体の後ろへと隠そうとした。だが、隠せるはずもない。彼女の纏う着物は景明を抱きしめた際についた血と汚れで無惨に染まり、その手にはマメが潰れて赤く腫れ上がった生々しい傷跡が残っている。さらに大広間を見渡せば、天井にはぽっかりと巨大な風穴が空き、美しい大理石の床はひび割れ、砕けた氷と瓦礫の山が築かれているのだ。
伝統と格式を重んじる屋敷をここまで無惨に破壊してしまった。いくら敵の襲撃から護るためとはいえ、厳格なタキがこの惨状を見て、さらに薙刀などという武具を振り回していた自分をどう思うか。
(お叱りを受けるに決まっているわ……)
鈴は強く目を瞑り、嵐が過ぎ去るのを待つように身を硬くした。冷たい夜風が大広間を吹き抜ける中、車椅子の車輪の音が静かに、そして確実に鈴の目の前へと近づいてくる。
「……景明」
沈黙を破ったのは低くしゃがれた源五郎の声だった。
景明は源五郎の前に進み出ると血に塗れた軍服のまま、深く、敬意を込めて一礼した。
「お祖父様、お祖母様。ご無事で何よりです。……邸に怪異を侵入させるなどという失態を演じてしまい、誠に申し訳ありません。ですが脅威は先刻、完全に排除いたしました」
「ふん。謝罪など無用だ。お前がこの屋敷を、そして私たちを護り抜いたことは事実なのだからな」
源五郎は短く鼻を鳴らすと鷹のように鋭い眼光を景明から外し、その背後で小さくなっている鈴へと向けた。タキもまた、車椅子から手を離し、音もなく鈴の目の前へと歩み寄ってくる。
「鈴さん」
タキの冷ややかで透き通るような声が広間に響き渡った。
鈴の肩が小さく跳ねる。顔を上げるとタキの厳しい視線が鈴の泥と血に汚れた着物、傷だらけの手、そして足元の薙刀を上から下まで舐め回すように観察していた。
「……はい、大奥様」
「この大広間の惨状。そして貴女のそのはしたない姿……」
タキの言葉に鈴は思わず下唇を噛み締めた。景明が庇うように口を開きかけたがタキは扇子を鳴らしてそれを制した。
「私が地下壕で耳にした報告によれば、貴女は己の身を挺して薙刀を振るってこの邸を護ったそうですね。……血に塗れることも、己の手が傷つくことも恐れず」
タキはそこで言葉を区切ると目を細めた。それは鈴がこれまで一度も見たことのない、驚くほど柔らかく、深い慈愛に満ちた表情だった。
「見事な、女主人の覚悟でした」
「え……っ?」
鈴は自分の耳を疑い、大きく瞬きをした。
タキは静かに手を伸ばすと鈴の傷だらけの手のひらを自身の両手で包み込んだ。彼女の手は厳格な見た目に反して、とても温かかった。
「貴女のその小さな体でよくぞこの西園寺の家を護り抜いてくれました。……誇りに思いますよ。景明さんの隣に立つにふさわしい、強くて美しい女性です」
タキのその真っ直ぐな称賛の言葉に鈴の視界が急速に歪んでいった。
タキはこれまで鈴に誰よりも厳しく接してきた。それは西園寺家という名門を背負う者としての自覚を促すための愛の鞭であったが鈴はずっと自分が本当にこの家に受け入れられているのか、心のどこかで不安を抱えていたのだ。
だが今、他でもないタキの口から“女主人の覚悟”と認められた。
「大奥様……っ」
張り詰めていた緊張の糸が温かい涙となってこぼれ落ちる。鈴は子供のようにしゃくり上げながらタキの手にすがりついて泣いた。
景明もまた、タキが愛する婚約者を正式に認めてくれたことに胸を熱くし、深く安堵の息を吐き出した。広間にいる使用人たちも感動的な光景に目を潤ませ、ハンカチで鼻をすする音があちこちから聞こえてくる。
西園寺家という確固たる場所で彼らの絆が完全に結ばれた、この上なく美しく感動的な大団円。
誰もがそう思った、次の瞬間だった。
「ただし!」
タキの声が突如として広間の空気を震わせるほどの鋭さを取り戻した。感動の涙を流していた鈴の肩が再び大きく跳ね上がる。
「度胸と裁縫の腕前“以外”はまだまだ皆無です!あのような美しい結界を張れるというのになぜお茶の作法一つ満足に覚えられないのですか!?」
「ひぃっ、も、申し訳ありません……っ!」
タキの表情は先ほどの慈愛に満ちた祖母の顔から地獄の鬼教官の顔へと一瞬で逆戻りしていた。
彼女は手にした扇子で己の左手の中を叩きながら容赦のないダメ出しを機関銃のように連射し始めた。
「いいですか!全快したら花嫁修業は即座に再開します!礼儀作法、華道、茶道、書道、西園寺家の歴史の暗記まで寝る間も惜しんで叩き込みますからね!」
「は、はいっ……!一生懸命、お勉強いたします……っ!」
鈴は涙目で何度も首を縦に振り、直立不動の姿勢で震えた。だが、タキの爆弾発言はここで終わるほど生易しいものではなかった。
「さらに!貴女には妻として最も重要で、最も欠けている教養があります!」
タキは大きく息を吸い込むと大広間に集まった使用人たち全員の耳に届くほどの、極めて澄み渡った大声で宣言した。
「西園寺家の血を絶やさぬための“夜伽の心得”! これもこの私が直々に手取り足取り、みっちりと手ほどきしますからね!!」
「よ、よ、よとっ……!!?」
鈴の脳髄がショートした。
夜伽の心得。その言葉が持つ極めて直接的で、破廉恥で、甘美な意味を理解した瞬間、鈴の顔面は耳の先から首筋に至るまで文字通り沸騰したように真っ赤に染まった。幻の音が聞こえそうなほど鈴の頭頂部から猛烈な湯気が立ち上る。両手で顔を覆い隠しても指の隙間から見える肌は茹でダコのように真っ赤だ。
「大奥様っ!?そ、そそそ、そんな、破廉恥なこと、私……っ!ま、まだ心の準備がっ……!」
鈴の口から、もはや言語を成していない悲鳴が漏れる。戦場での凛々しい姿など見る影もなく、ただのうら若き純情な少女へと戻り、恥ずかしさのあまりその場にしゃがみ込んでしまった。
だが、この爆弾発言によって最も甚大な被害を受けたのは鈴ではなかった。
「お祖母様ッ!!?」
大広間に帝都最強の異能者、景明による鼓膜が破れんばかりの絶叫が轟いた。彼は顔面を鈴と同じくらい真っ赤に染め上げ、軍靴を乱暴に鳴らしてタキと鈴の間に割って入った。あの冷静沈着で冷徹な鬼少佐の姿は完全に崩壊し、ただ狼狽えまくった一人の男がそこにいた。
「な、何を血迷ったことをおっしゃるのですか!鈴に、あ、あ、あのような……っ、その、寝室での作法など、貴女が教える必要は全くありません!」
「何を言うのです、景明さん!鈴さんはまだ若く無知。由緒正しき西園寺家の寝所作法というものを伝統に則って先代当主夫人である私が教え込むのは当然の義務です!」
「伝統などくそ食らえです!鈴のことはその、つまり……っ、わ、私が直々に教えるので結構です!!」
景明が己の欲望と独占欲をこれ以上ないほど大声で叫んだ。
“私が教える”。その言葉の意味するところを悟った鈴は「ひゃああああっ!」と小さな悲鳴を上げて床に突っ伏し、ついに恥ずかしさの限界を突破して気絶寸前となってしまった。
「お戯れを!貴方のような不器用な男に任せておいてはせっかくの可愛い花嫁が恐怖で逃げ出してしまうかもしれません!鈴さんには私が秘伝の書物を用いて……」
「させません!鈴に妙な知識を吹き込まれてたまるものですか!そもそも、私の婚約者の肌に触れて良いのはこの私だけだ!祖母であっても断固としてお断りいたします!」
景明とタキによる極めて次元の低い、しかし本人たちにとっては死活問題の言い争い。天井に空いた大穴から冷たい花冷えの夜風が吹き込んでいるというのに大広間の中央だけは異様な熱気に包まれていた。
己の貞操と夜の作法を巡って最強の軍人と厳格な祖母が本気で大喧嘩をしているのを目の当たりにし、鈴は顔から火を噴きそうになりながら、ただただ『穴があったら入りたい……!』と心の中で絶叫し続けていた。
「ほっほっほ。……大奥様も、景明様も実にお元気ですな」
車椅子の後ろで権藤が愉快そうに腹を抱えて笑っている。若菜や使用人たちも最初は口元を手で覆っていたものの、やがてこらえきれずに肩を揺らし始め、ついには広間全体が爆笑と温かい空気に包まれた。満身創痍で壁にもたれかかっていた桜木でさえ、「……これが帝都最強の部隊の隊長の姿かよ」と呆れながらもその顔には心底楽しそうな笑みが浮かんでいる。
血と泥に塗れた凄惨な戦いの傷跡はまだ至る所に残っている。だが、この邸を満たしているのは恐怖でも絶望でもなく、どこまでも騒がしく、愛おしく、そして幸せに満ちた日常の響きだった。
「……っ、笑うな!私は至って真剣だ!鈴は私のものだ、誰にも何一つ指図は受けん!」
顔を真っ赤にして部下や使用人たちに怒鳴り散らす景明とそれに構わず小言を続けるタキ。そして恥ずかしさのあまり縮こまっている鈴。
それは帝都の闇を切り裂いた彼らが帰るべき、最強で最高の愛すべき家族の姿だった。
吹き抜ける夜風に乗って白梅の甘い香りが広間に漂う。春の訪れはもうすぐそこまで来ていた。




