第35話
帝国陸軍・異能特殊部隊の屯所。分厚い赤煉瓦とコンクリートで覆われた堅牢な建物の奥深く、隊長執務室の窓辺に西園寺景明は独り静かに佇んでいた。
時刻は午後を回り、鉄格子の嵌まった窓の外には三月特有の柔らかな春の陽射しが降り注いでいる。しかし、一切の無駄を削ぎ落とした漆黒の軍装に身を包む景明の周囲には、彼自身の微かな冷気が満ち、重々しく張り詰めた空気を纏って動かなかった。
磨き上げられた黒檀の机の上には、副官である氷室がまとめ上げた分厚い報告書の束が積まれている。昨夜の巨大女王蜂の襲撃に関する調査記録、そして“要石”を狙う赫夜の動向についての推察。
それらに目を通しながらも、景明の意識の半分は、常に窓の向こう、遠く離れた本邸にいるはずのただ一人の少女へと向けられていた。
彼が愛おしげに想いを馳せるその遥か先。
西園寺本邸の広大な敷地の中央に位置する中庭では樹齢数百年とも言われる見事な白梅の木が雪の結晶のように純白の小さな花々を無数に咲かせていた。甘く、それでいて凛とした気高い香りが、冷たい風に乗って周囲に漂っている。
鈴はその白梅の木の下で静かに立ち尽くしていた。着物が冷たい春先の風に揺れる。足袋を履いた足先から深々と冷え込んでくるような気候だったが、今の鈴はその寒さすら心地よく感じていた。熱を持った心を少しだけ冷ましてくれるような気がしたからだ。
「大旦那様、少し風が出てまいりました。お身体に障ります、そろそろ中へ」
「うむ……。鈴さん、景明のことをどうか頼んだよ」
「はい、大旦那様。……私の方こそ、あの方の過去を教えていただき、本当にありがとうございます」
源五郎がゆっくりと本邸の奥へと消えていく。車輪が石畳を擦る微かな音が完全に聞こえなくなるまで、鈴は深く頭を下げて見送っていた。
二人の姿が見えなくなると鈴はゆっくりと顔を上げ、再び白梅の枝先を見つめた。
先ほどまで源五郎の口から語られていた景明の過去。それは鈴の胸を鋭い刃で抉るかのように、あまりにも重く、悲しい響きを持っていた。
(西園寺様……)
鈴は冷たくなった両手を自身の胸元でぎゅっと組み合わせた。着物の胸元を握りしめる指先に微かに力がこもる。
“帝国最強の異能者。氷と雷を操る、帝都の鬼少佐”。
それが世間が彼に向ける畏怖の混じった称号だ。しかし、先ほど源五郎の口から語られたのは両親を亡くした彼がその圧倒的な力ゆえに他の親族や軍の上層部から“危険な兵器”あるいは“家の道具”として利用されそうになったという凄絶な過去だった。
祖父母である源五郎とタキは彼に深い愛情を注ぎ、そうした外の悪意から必死に守り抜いてくれた。だが、心優しい彼自身は自らの持つ力の恐ろしさと西園寺家当主としての重責を誰よりも深く受け止め、どれほど傷ついても大切な人たちを巻き込まないよう、一人で暗闇の中を歩み続けようとしていたのだ。
(あんなにも強くて、大きくて……誰よりも厳しいお顔をしているのに。本当は誰よりも温かくて不器用な人)
鈴の脳裏にかつて貧乏長屋で共に過ごした“野中みのる”の姿が鮮明に蘇る。無造作の髪に分厚い丸眼鏡。いつも自信なさそうにして頼りなくて、少しでも鈴が怪我をしようものなら、この世の終わりのような顔をして慌てふためいていた青年。
だが、彼が鈴の前でその仮面を被り続けたのはただの一人の少女に恐怖を与えないための、悲しいほどに優しい嘘だった。西園寺景明という、誰もが恐れる“鬼少佐”の裏側で彼自身の芯の部分は誰かに嫌われ、怖がられることに酷く怯えていたのだ。
(西園寺様……貴方は私に恐れられるのが怖くて、ご自分の本当の心を隠しておられたのですね。私の笑顔を守るために孤独も恐れも……全部、一人で背負い込んで)
鼻の奥が痛み、鈴の大きな瞳にじわりと熱い涙が滲む。だが、鈴はその涙を零すまいと大きく深呼吸をして春の冷気を肺の奥深くまで吸い込んだ。白梅の高貴な香りが彼女の心を静かに落ち着かせていく。
泣いている場合ではない。私が愛したのはただ優しく庇護してくれるだけの“野中みのる”ではない。本当は誰よりも傷つきやすく、恐れを抱きながらも、私のために血を流して戦ってくれる“西園寺景明”という一人の殿方なのだから。自分はもう、ただ彼に助けられるのを待つだけの無力な少女ではないのだ。
タキから西園寺家の女主人としての過酷な花嫁修業を受け始めた時から鈴の覚悟は決まっていた。
(私は守られるだけのお人形にはならない。西園寺様が私の帰る場所を守るために血を流して戦ってくださるのなら……私はあの方が安心して帰ってこられる“絶対の居場所”をこの手で作る。……ううん、守るだけじゃない。いつか必ず、あの方と肩を並べて歩けるような、強い女主人になってみせる)
胸の奥で確かな熱が燃え上がるのを感じた。裁縫の天才と称される彼女の指先には“修復”という稀有な異能が宿っている。壊れたものを直す力。それはただ物理的な布や糸を縫い合わせるだけのものではないと、今の鈴には分かっていた。
傷ついた彼の心を血塗られた彼の運命をこの手で少しずつ、丁寧に縫い合わせていく。それが小鳥遊鈴という女性の、彼に対する愛の形なのだ。
鈴が瞳を閉じ、彼への愛おしさを全身で噛み締めていた、その時だった。微かな、本当に微かな音が鼓膜の奥を叩いた。それは春の朝に分厚い氷の張った池に小石を投げ入れた時に鳴るような、硬質で不吉な亀裂の音だった。
「……え?」
鈴が目を開け、不思議そうに空を見上げた瞬間。
世界からあらゆる音が消失した。
枝を揺らしていた春先の冷たい風が不自然なほど止む。小鳥たちの囀りも、遠くから聞こえていた帝都の喧騒も、すべてが分厚い泥の底に沈められたかのように聞こえなくなった。
代わりに鼻腔を強烈に刺激する、悍ましい腐臭が漂ってきた。それは白梅の高貴な香りなど一瞬で塗り潰してしまう、ヘドロと鉄錆、そして古びた墓地を掘り返したかのような、甘ったるくも鼻をつく死の匂いだった。
次の瞬間、耳をつんざくような凄まじい高周波の悲鳴が西園寺本邸の空から鳴り響いた。
鈴の視界の上空で見えないはずの“空”そのものがまるで巨大なステンドグラスのように幾何学的な模様を描いてひび割れていく。
それは帝都最高峰の術者たちが幾重にも張り巡らせていた、この邸を守護護護する不可視の絶対結界。それが今、圧倒的な外からの悪意と暴力によって、無惨にも砕け散ろうとしている光景だった。
「嘘……結界が……!?」
鈴の血の気が一瞬にして引き、桜色の唇がわななく。硝子を粉砕したような豪音と共に空を覆っていた霊的な防壁が完全に決壊した。崩れ落ちた空の穴からどす黒い灰色の風がまるで生きた大蛇のようにうねりを上げて中庭へと雪崩れ込んでくる。
それはただの風ではない。“赫夜”という帝都の破壊を目論む狂気の組織、その幹部が放った灰化の猛毒、触れたものすべての生命力を瞬時に奪い、枯死させて塵へと変える、呪われた死の灰の吹雪だった。
「ひっ……!」
鈴の目の前で信じられない光景が広がる。灰色の風が撫でた瞬間、先ほどまで美しく咲き誇り、芳醇な香りを放っていた白梅の花弁が一瞬にしてどす黒く変色した。水分を奪われ、干からび、次の瞬間には崩れ落ちて、灰色の塵となって風に溶けてしまったのだ。
梅の木だけではない。中庭に敷き詰められた芝生も、美しい苔も、灰が触れた端から茶色く変色し、死の世界へと姿を変えていく。
(命が……死んでいく……)
鈴の足が恐怖ですくみ、全身の産毛が総毛立つ。
かつて赫夜の怪異に襲われた時の恐怖が冷たい手となって鈴の足首を掴み、泥の底へと引きずり込もうとする。逃げなければ。この灰に触れれば、自分もあの花のように塵となって死んでしまう。
だが、恐怖に支配されかけた鈴の脳裏に夜叉のように厳しいタキの顔と、彼女の声が雷鳴のように響き渡った。
『西園寺の女主人たるもの、いかなる絶望の淵に立たされようとも、決して取り乱してはなりません!当主が不在の時、この屋敷とそこに仕える者たちの命を預かるのはお前なのです!』
(そうだ……!)
鈴は震える奥歯を力一杯噛み締めた。口の中に微かな鉄の味が広がり、その痛みが恐怖の麻痺を強引に打ち破る。
(私は西園寺景明の妻になる女だ。彼が戦場で命を懸けている間、彼の大切な帰る場所を守り抜くのが私の戦いだ!)
「鈴様ッ!!」
本邸の重厚な扉が内側から勢いよく開かれ、スカートを翻しながら若菜が血相を変えて飛び出してきた。
どんな時でも完璧な淑女の微笑みを崩さない彼女の美しい顔が今は蒼白に染まっている。
「早く、早く中へお入りください……!」
若菜が鈴を庇うように腕を伸ばす。その瞬間、鈴は自分でも驚くほど冷徹で透き通った声を張り上げた。
「若菜さん!本邸内にいる、戦闘力を持たない使用人たちを全員集めて!急いで!」
「え……?」
「この灰は触れたものを全て死の塵に変える猛毒です!木造の建物の中ではすぐに侵食されてしまう。地下の特別避難壕へ全員を誘導するの!あと、窓や通気口は完全に閉鎖して!」
その指示は迷いのない矢のように真っ直ぐだった。あまりの事態にパニックに陥りかけていた若菜は普段の可憐で大人しい鈴とは打って変わった、その威厳に満ちた声に息を呑んだ。
それはまさに何十人もの命を背負う“女主人”の顔だったのだ。
「……っ!畏まりました!ただちに全員を地下へ!」
若菜が踵を返し、屋敷の中へ向かってメイドや料理人たちへ大声で指示を飛ばし始める。
鈴もまた着物の裾を強く握りしめ、灰色の風が吹き荒れる中庭から本邸の廊下へと駆け込んだ。屋敷内はすでに恐慌状態に陥りかけていた。窓の外で木々が枯れ落ちる異様な光景に女中たちが悲鳴を上げ、腰を抜かしている。
「落ち着いて!絶対に外の空気を吸わないように手ぬぐいで口と鼻を覆って!」
鈴は廊下を走りながら、怯える女中たちの肩を抱き、背中を押し、的確に地下への階段へと導いていく。彼女の視界の端で窓ガラスにへばりついた灰が硝子の表面を不気味な音を立てて白く濁らせ、腐食させ始めているのが見えた。
時間はもう、残されていない。
「急いで!一人も残さず、地下へ!」
重厚な石造りの階段を駆け下り、屋敷の最下層に位置する特別避難壕の前へと辿り着く。分厚い鉛と鋼鉄で造られたその扉は西園寺の歴代当主が万が一の事態に備えて作り上げた、絶対の防空壕だ。
若菜の誘導により、震える使用人たちが次々とその中へ逃げ込んでいく。
「鈴様、全員の避難が完了いたしました!さあ、鈴様も早く中へ!」
息を切らした若菜が鋼鉄の扉の内側から鈴に向かって手を差し伸べる。だが、鈴はその手を取らなかった。彼女は避難壕の入り口から半歩下がり、首を横に振った。
「鈴、様……?」
「私はここに入れません」
「何を仰っているのですか!結界が破られた以上、この屋敷の中に安全な場所など……敵が、敵がすぐそこまで来ております!」
「分かっています。だからこそ、です」
鈴の視線は若菜から逸れ、避難壕の入り口のすぐ脇に飾られていた、一つの武具へと向けられた。それは黒檀の飾り台の上に静かに鎮座する“白鞘の薙刀”。西園寺家に代々伝わる業物。
鈴は迷うことなくその薙刀へと歩み寄った。冷たい白木で出来た鞘に手をかける。冷たい感触と重さが掌から全身へと伝わっていく。
命を奪い、命を守るための鋼の重さ。だが、その長柄をしっかりと握りしめた瞬間、景明が実戦向けの厳しい特訓をつけてくれた記憶が鮮烈に蘇る。容赦のない指導の奥にあった“絶対に死なせない”という不器用なまでの熱。それが今の鈴の腕に恐怖の震えを止める確かな力を与えていた。
鈴は着物の長い袖を襷掛けにするように素早く結び上げると澄んだ金属音を響かせて、白鞘から抜き放った。薄暗い地下の廊下に青白い鋼の刃が冷徹な光を放って煌めく。
その顔にもう恐怖や迷いは一切なかった。ただ、背後にある扉の中にいる、彼の大切な家族である使用人たちを守り抜くという、凄絶なまでの決意が宿っている。
「鈴様……本気で、戦うおつもりですか……!?」
若菜の声が震えていた。異能の戦闘など素人である小柄な令嬢が単身で敵の幹部を迎え撃つなど、自殺行為に等しい。
だが、鈴は振り返り、若菜に向かってこの上なく優しく、そして気高い微笑みを向けた。
「若菜さん。扉を閉めて内側からしっかりと鍵をかけてください。何があっても私が合図をするまで絶対に開けてはなりません」
「そんな……鈴様を一人置いてなど……!」
「これは命令です。若菜さん」
鈴の言葉は静かでありながら、有無を言わせぬ絶対の響きを持っていた。
「あの方は……西園寺様はいつだってご自分の命を削って、帝都の平和と私たちを守ってくださっています。……なら、あの方の帰る場所であるこの家はあの方の妻となる私が守らなくて、誰が守るというのですか」
鈴は薙刀を両手でしっかりと握りしめ、切先を静かに廊下の奥、死の灰が忍び寄る階段の方へと向けた。
冷たい床を踏みしめる足袋の裏から、屋敷が悲鳴を上げるような微振動が伝わってくる。敵はもうそこまで来ている。
鈴の大きな瞳が暗闇を真っ直ぐに射抜いた。その声は震えることもなく、凛として地下の空間に響き渡った。
「私は西園寺の女主人になる女です。この扉の先には、指一本触れさせない」
それはただ守られるだけだった可憐な少女が修羅の道を歩む男の隣に立つにふさわしい、誇り高き“伴侶”へと完全に羽化した瞬間だった。
◇
重厚な錬鉄製の門扉は目に見えない巨大な掌で押し潰されたかのようにひしゃげ、無惨にも敷石の上に倒れ伏している。
そこから西園寺本邸の前庭へと足を踏み入れたのは帝都の闇に蠢く狂気の組織“赫夜”の幹部とその背後に付き従う異形の怪異たちだった。
先頭を歩く幹部の男は豪奢だがどこか時代錯誤な黒い外套を身に纏い、その顔の半分を不気味な骸骨を模した仮面で隠していた。むき出しになった口元には三日月のように歪んだ薄気味悪い笑みが張り付いている。
彼の足元からは絶え間なくどす黒い灰色の霧が湧き出していた。それが灰化の毒の風。
男が一歩足を踏み出すごとに丹精込めて手入れされていた前庭の芝生がまるで焼けた鉄板に落とされた水滴のように音を立てて茶色く変色し、瞬く間に崩れ去っていく。立派に枝を張っていた松の木も灰の風が撫でた瞬間に水分を失い、枯れ木になってひび割れた。
「ククク……ハハハハハ!見ろ、これが帝都最強と謳われた西園寺本邸の庭か。なんとも脆く、儚いものよ。戦場では無敵を誇る絶対零度の鬼少佐とて、その要石とも言える愛しい弱点をここに置いて留守にすれば、ただの的も同然よ。あの男を絶望の底に叩き落とすための最高の人質……。この程度の結界、我らが“赫夜”の悲願の前では薄紙のようなものだ」
骸骨仮面の幹部が陶酔したような声で前庭に響き渡る高笑いを上げた。彼の背後には泥と肉塊を無造作に捏ね合わせたような、おぞましい姿をした十数体の怪異たちが粘着質な音を立てながら這い進んでいる。腐乱した獣のような死臭が春の風に乗って邸宅全体を包み込み、まるでこの空間だけが地獄の底へと切り取られてしまったかのようだった。
「さあ、行け。我が愛しき死の軍勢よ。この広大な屋敷の隅から隅まで死の灰で満たしてやれ。鬼少佐がどれほど絶望に顔を歪めるか……帰ってきた時、愛する家族も使用人も、そして何より、彼が執着しているというあの小娘が一握りの塵に変わっているのを見た時の顔が今から楽しみでたまらないぞ!」
幹部の残忍な命令を受け、怪異たちが獣のような咆哮を上げて洋館の正面玄関へと雪崩れ込もうとした。その時である。重厚なマホガニー材で造られた扉が内側からゆっくりと静かに開かれた。その場にいた怪異たちの動きが止まる。幹部の笑い声もまるで喉に骨が刺さったかのように途切れた。
開かれた扉の向こう、薄暗い玄関ホールの入り口に立っていたのは権藤だった。普段は源五郎やタキの傍らに影のように控え、鈴に対しても温かくも厳しい目で見守るこの老執事が今はただ一人、圧倒的な死の軍勢の前に立ち塞がっていた。
「……おや。誰かと思えば、老いぼれ執事か。逃げ遅れた哀れな生贄がわざわざ自ら死に直行してくるとはな。それとも主人の家を守るために命を投げ出す忠犬のつもりか?」
幹部が心底可笑しそうに肩を揺らして嘲笑う。しかし、権藤の表情には微塵の恐怖も焦燥も浮かんでいなかった。深く刻まれた顔の皺の奥にある鋭い眼光はまるで獲物を前にした老獪な猛禽類のように冷徹に幹部と怪異たちを見据えている。
「西園寺公爵邸へようこそ、招かれざる客人よ」
権藤の声は吹き荒れる死の灰の風の中にあっても驚くほど澄み渡り、静かに響いた。それは上流階級の夜会で来客を告げる時と何ら変わらぬ、完璧な執事の声音だった。
「あいにくと、当主である景明様は公務にてご不在でございます。また、皆様のような“泥に塗れた獣”を本邸の中にお通しするわけにはまいりません。お引き取り願えますかな」
「ほざけ、老いぼれが!その減らず口ごと灰と化して消え失せろ!」
幹部が激昂し、大きく腕を振り下ろした。その動きに呼応して、足元から湧き出していた死の灰の霧が巨大な津波のようにうねりを上げて権藤へと襲いかかった。触れれば一瞬にして肉体を枯死させる猛毒の波。
さらに三体の巨大な怪異が灰の霧に紛れて権藤へと跳躍する。鋭い爪と牙が老執事の華奢な肉体を八つ裂きにせんと迫った。だが、権藤は一歩も引かなかった。
彼は白手袋に包まれた右手をただ静かにそして流れるような優雅さで自身の胸の前から横へと薙ぎ払った。その瞬間、世界を切り裂くような凄まじい風切り音が勃発した。
権藤の振るった右手から目に見えない巨大な暴風の塊が生み出されたのだ。それはただの突風ではない。極限まで圧縮され、刃のように研ぎ澄まされた“真空の嵐”。
権藤を中心に巻き起こったその暴風は襲い来る死の灰の津波を、まるで薄い靄を吹き飛ばすかのように一瞬にして天空へと弾き飛ばした。毒の灰は権藤の燕尾服に触れることすら叶わず、空の彼方へと霧散した。
「なっ……!?」
幹部の仮面の奥の瞳が驚愕に見開かれた。驚きはそれだけでは終わらない。灰の霧と共に権藤に飛びかかっていた三体の怪異たちが空中で静止したかのように見えた。
次の瞬間、おぞましい肉の裂ける音と共に三体の怪異の巨体が空中で無数のサイコロ状の肉片へと細切れに解体された。
赤黒い体液が雨のように降り注ぐがそれすらも権藤の周囲を取り巻く風の壁によって完全に弾き飛ばされ、彼の白い手袋には一滴の汚れも付着していない。
「馬鹿な……!風の、異能……!?ただの執事ではなかったのか!」
幹部が狼狽したように後ずさる。その言葉に権藤はひどく冷酷で血の匂いのする笑みを口元に浮かべた。それはもはや、温厚な老執事の顔ではない。かつて戦場で数多の敵を切り刻み、血の海を歩んできた修羅の顔だった。
「ただの執事、でございますよ。……現在は、ですがね」
権藤は白手袋の指先で自身の燕尾服の襟を軽く整えながら静かに歩みを進めた。
彼の正体。それは帝国陸軍・異能特殊部隊において、かつて“夜叉”と恐れられた元・特務少佐。空気を意のままに操り、無数の真空の刃を生み出す“烈風”の異能を持つ、歴戦の猛者である。
「若い頃は少々血の気が多くて苦労いたしました。大旦那様が軍を退かれた折、私も共に第一線を退き、こうして平穏な執事の真似事をさせていただいておりますが……。どうやら、私の刃はまだ錆びついてはいなかったようですな」
権藤が革靴で石畳を叩きながら、前庭へと進み出る。彼が一歩進むたびに周囲の大気が悲鳴を上げるように渦を巻き、足元の小石が小さく震え出した。その圧倒的なプレッシャーに知性を持たないはずの怪異たちでさえ、恐怖に身をすくめて後退りをする。
「おのれ……!たかが時代遅れのロートルが、図に乗るな!全機、一斉に喰い殺せ!」
幹部の怒号と共に残っていた十体以上の怪異たちが一斉に権藤を取り囲むようにして襲いかかった。全方位からの同時攻撃。逃げ場などどこにもない。だが、権藤は深く息を吸い込むと両手を指揮者のように優雅にそして力強く振り上げた。
「狂い咲き、乱れ風」
老執事の口から紡がれた静かな詠唱と共に爆発的な暴風が権藤の足元から竜巻となって天に向かって立ち昇った。それは無数の見えない刃の集合体だった。竜巻に触れた瞬間、怪異たちの肉体は悲鳴を上げる間もなく、文字通り千切りにされていく。
肉を断つ不気味な音が連続して響き渡り、前庭は一瞬にして赤黒い血の海と化した。暴風は怪異の肉片だけでなく、周囲に漂っていた死の灰の風をも完全に巻き込み、遥か上空へと吹き飛ばして浄化していく。
ほんの数秒。竜巻が収まり、土埃が晴れた後には燕尾服の裾一つ乱していない権藤と彼を取り囲むように散乱する怪異たちの無惨な残骸だけが残されていた。
「……あ、ああ……」
幹部は信じられないものを見るような目でその光景を呆然と見つめていた。自慢の死の軍勢がたった一人の老人の手によって、文字通り一瞬で壊滅させられたのだ。彼が操る死の灰すらも、権藤の絶対的な風の結界の前では触れることすら叶わない。
「さて」
権藤は懐から純白のハンカチを取り出し、手を拭くような仕草を見せた。
「不作法な客人たちの清掃は終わりました。次はゴミを散らかした元凶の番でございますな。……命乞いをする時間くらいは与えて差し上げましょう」
その言葉は極寒の氷刃のように冷たく、殺意に満ちていた。だが幹部は後ずさりを止め、突如として奇妙な哄笑を漏らし始めた。
「クク……ハハハ!なるほど、西園寺の番犬は思いのほか狂犬だったというわけか。だが、勘違いするなよ老いぼれ。俺の本当の目的はこんな前座の怪異どもでお前たちを全滅させることではない」
幹部が骸骨の仮面の奥で爛々と目を輝かせ、本邸の奥、広間の方角を指差した。
「俺たちの目的はこの屋敷に隠された『要石』の破壊だ。我らが大願の成就を阻む、目障りな異能の核……ここにあることは分かっている!」
その言葉に権藤の眉が微かに動いた。
「西園寺の鬼少佐が帝都で必死に蜂と戯れている間に留守を預かるこの本邸を火の海にし、要石を木端微塵に砕いてやる。己の足元にある最大の急所を失ったと知れば、あの傲慢な氷の男もさぞ無様な絶望を顔に浮かべるだろうな!」
幹部の声は風に乗って本邸の奥深く、大広間から地下へと続く階段の付近まで不気味なほど鮮明に響き渡った。それは権藤に対する挑発であると同時に屋敷のどこかに隠れているであろう“要石”、鈴に向けられた呪いの言葉だった。
「景明様が無様な絶望を浮かべるだと……?」
権藤の声が地を這うような低さになった。その周囲の大気が主の静かな激怒に呼応して悲鳴を上げる。
「貴様のような浅薄な輩にあの方の何が分かるというのか。あの方の強靭な魂は貴様らが何を砕こうと決して揺らぐことなどない」
権藤が幹部を真空の刃で真っ二つに引き裂こうと右手に力を込めたその瞬間だった。
「……ええ。権藤さんの仰る通りです」
澄み渡るような、それでいて決して折れることのない強靭な鋼のような声が本邸の広間の奥から響いてきた。
権藤が驚いて振り返ると広間の奥、地下避難壕へと続く階段の入り口の前に自身の背丈よりも長い白鞘の薙刀を携えた鈴がいた。
彼女は地下避難壕の扉の前に立っていたはずだった。だが、愛する人の家を泥に塗れた獣たちに少しでも踏み荒らされるまいと、自ら防衛線を押し上げるべく一階の広間へと上がってきたのだ。そしてその時、たまたま響いてきた幹部の嘲笑の言葉をその耳に捉えたのである。
「鈴様! いけません、お下がりください!」
権藤が鋭く叫ぶが鈴は一歩も引かなかった。彼女は前庭からこちらを嘲笑うように見ている幹部を真っ直ぐに大きな瞳で射抜いた。
「貴方はあの方の“急所”を壊せば、無様な絶望を浮かべるだろうと言いましたね。……それは絶対に違います」
鈴の声は震えていなかった。広間の冷たい空気の中に彼女の言葉が一つ一つ、真珠を転がすようにだが確かな重量を持って響き渡る。
「あの方は一人で暗闇の中を歩いてこられました。誰にも理解されず、恐れられ、それでも帝都を守るためにご自分の心を氷で閉ざして戦ってこられたのです。……それを“絶望に屈する脆さ”だと呼ぶのなら、あまりにも悲しすぎます」
鈴の脳裏に景明の不器用で優しい笑顔が浮かぶ。彼がどれほど深く自分を愛し、その大きな手で自分を抱きしめてくれたか。その温もりが今も鈴の胸の奥で熱く燃えている。
「守るべきものがあるからといって、あの方は脆くなったりはしない。いいえ、守るべきものがあるからこそ、人は本当に強くなれるのです! 西園寺様はご自身の命に代えてでも守り抜きたいと願う、確かな絆を得られた。だからこそ、あの方の力はただ破壊するためだけの呪いから大切なものを守り抜くための気高い剣へと変わったのです!」
鈴は薙刀の柄を握りしめる手にさらに力を込め、床を力強く叩いた。その音は彼女の揺るぎない覚悟の証明だった。
「あの方の魂は決して砕けない。愛を知り、守るべきものを得た彼は……この世界で誰よりも最強の御方です!!」
鈴の口上が凛と、そして誇り高く、屋敷中に響き渡った。それは愛する男の名誉を守るための、女主人としての絶対の宣言だった。その言葉を聞いた瞬間、権藤の強面の目元が微かに潤み、彼は静かに深く頭を下げた。
(……ああ。大旦那様、大奥様。景明様は本当に……本当に素晴らしい伴侶を見つけられましたな)
老執事の胸にかつてないほどの熱い感情が込み上げていた。しかし、その美しい主従の絆の光景は『赫夜』の幹部にとっては、自身の存在を根底から否定される最も不快な劇でしかなかった。
「……黙れ」
幹部の骸骨仮面の奥で歯軋りする音が響いた。
「黙れ黙れ黙れ!虫唾が走る!愛だの絆だの、反吐が出るような戯言を!……なるほど、貴様があの氷の男の“要石”というわけか!ならば貴様もろともこの屋敷を塵に変えてくれるわ!!」
幹部の全身から先ほどまでとは比べ物にならないほど濃密でどす黒い死の毒霧が爆発的な勢いで噴き出し始めた。それは権藤の操る暴風の壁すらも侵食し、飲み込んでいくほどの超高濃度の致死の呪いだった。
「死ね……!要石も、希望も、すべてこの俺の吐息でどす黒い塵に変えてやる!!」
黒い霧はまるで意思を持った巨大な大蛇のようにのたうち回り、周囲の大気を物理的に削り取るような悍ましい腐食音を立てながら膨張していく。
鼻腔を殴りつけるのは先ほどまでの比ではない、むせ返るような濃密な死臭だった。何百という死骸を真夏の太陽の下で腐らせ、そこに錆びた鉄とヘドロを混ぜ合わせたような、一度吸い込めば肺の奥から腐り落ちてしまいそうなほどの絶望の匂い。
「おのれ……!これほどの瘴気を隠し持っていたとは……!」
前庭に立ち塞がる権藤の強面がかつてないほどの険しい焦燥に歪んだ。彼は即座に自身の異能の出力を限界まで引き上げ、両手から凄まじい烈風を放ち続けた。目に見えない何千、何万という真空の刃が暴風の壁を作り出し、襲い来る漆黒の毒霧を空の彼方へと弾き飛ばそうとする。
風の刃と超高濃度の死の霧が正面から激突し、まるで鋼鉄同士が削り合うような凄惨な音を立てて火花を散らした。しかし、権藤の額から脂汗が滝のように流れ落ちる。先ほどまではいとも容易く霧を吹き飛ばしていたはずの風の結界が押し負け始めているのだ。漆黒の毒霧は権藤の放つ真空の刃に触れた途端、その“大気の流れ”そのものを侵食し、腐らせ、風の威力を中和していく。
圧倒的な質量と呪いの濃さ。それは一個人の異能で完全に押し留められる限界を遥かに超えていた。
(いかん……!このままでは突破される!私一人が死ぬのは構わんがこの背後には景明様が何よりも大切になさっている鈴様が……!)
権藤は老いた筋肉が悲鳴を上げ、血管が張り裂けんばかりの力を込めて風を繰り出し続けた。燕尾服の袖が暴風で引き裂かれ、自身の手首から血が滲み出しても、彼は決して一歩も引こうとはしなかった。
「無駄だ、老いぼれェ!俺の呪いは貴様の矮小な風など喰い破る!」
だが無情にも幹部が両腕を大きく振りかざした瞬間、漆黒の毒霧が爆発的に体積を増した。見えない防壁が叩き割られるような音と共に権藤の暴風の壁の中央にぽっかりと致命的な大穴が開いた。
「なっ……!」
「鈴様ッ!逃げてくださいッ!!」
権藤が血を吐くような悲鳴を上げた時にはすでに遅かった。決壊した風の壁の隙間を縫うようにして、大蛇のごとき漆黒の毒霧の濁流が権藤の頭上を飛び越え、本邸の開け放たれた玄関ホールから奥の広間へと一気に雪崩れ込んだのである。
それは文字通り死の津波だった。玄関ホールに敷かれていた最高級のペルシャ絨毯が黒い霧に触れた瞬間に泡を吹いて溶け、黒い染みとなって消滅していく。磨き上げられた黒檀の柱が悲鳴を上げるようにひび割れ、表面から崩れ落ちていく。
屋敷の美しい調度品たちが次々と死の灰の餌食となっていく中、その毒霧は真っ直ぐに広間の奥、地下避難壕へと続く扉の前に立つ、鈴の華奢な身体へと殺到した。
鈴は迫り来る漆黒の死神を前にしても決して背を向けなかった。着物の裾が毒霧の放つ不吉な風圧に激しく煽られる。呼吸をするだけで肺が焼け焦げそうになるほどの瘴気が彼女の白く滑らかな頬を撫でようとしていた。
(……怖い。……怖い!)
鈴の心臓は早鐘のように激しく脈打っていた。足の裏から頭のてっぺんまで氷水を浴びせられたような恐怖が駆け巡る。
触れれば死ぬ。その確信が本能に“逃げろ”と叫ばせている。だが鈴の足は床に根を張ったように動かない。否、動かさないのだ。彼女の背後には分厚い鋼鉄の扉がある。その奥には若菜をはじめとする、西園寺家を支える大切な非戦闘員の使用人たちが身を寄せ合い、震えている。
自分がここを退けば彼らは確実に死の灰に飲み込まれてしまう。そして何より、愛する景明が血を流して守ろうとしている帰る場所が永遠に失われてしまう。
「私は……西園寺の女主人です!ここは絶対に譲らない……!」
鈴は震える唇を強く噛み締め、両手に構えた白鞘の薙刀を迫り来る毒霧の波に向かって真っ直ぐに突き出した。青白い鋼の刃が絶望の闇の中で一筋の光のように煌めく。
しかし、物理的な刃で霧を斬り裂くことなどできない。漆黒の毒霧は薙刀の刃を嘲笑うかのように左右に分かれ、鈴の全身を完全に飲み込もうと大蛇の顎のように大きく開いた。
幹部の狂気に満ちた哄笑が遠く前庭から響いてくる。すべてが死の灰に沈む。誰もがそう確信した、絶体絶命の瞬間だった。突如として鈴の背後にある分厚い鋼鉄の扉の向こう側から、そして鈴自身が身に纏う着物の懐から、まるで分厚い冬の雲の隙間から差し込む一筋の月光のような、ひどく優しく、温かく、淡い銀色の光が溢れ出したのだ。
「……え?」
鈴が思わず目を見張る。鋼鉄の扉の向こう、薄暗い地下避難壕の中では使用人たちが恐怖に身を寄せ合い、祈りを捧げていた。
若菜は両手を胸の前で固く組み、景明の帰還と鈴の無事を、涙を流しながら祈っていた。
「どうか……どうか、鈴様をお守りください……!」
その時、若菜が身に纏っているメイド服の白いエプロンの裏側から眩い銀色の光が漏れ出し始めた。
「これは……?」
驚いた若菜がエプロンをめくるとそこには“小さな紋様”が縫い付けられていた。それはまるで命を宿したかのように脈打ち、光を放った。さらに紋様は若菜だけではない。避難壕にいるすべての使用人たちの衣服の裏地や襟ぐりから、同じように淡い銀色の光が溢れ出していたのだ。
その光の正体。それは鈴がこの本邸にやって来てからのこの数日間に密かに紡がれていた、ささやかな積み重ねだった。
タキからの厳しい花嫁修業が始まってからの数日、鈴は夜のわずかな休息の時間に自室で裁縫箱を開き、権藤や若菜たち使用人が日々の過酷な仕事でほつれさせた衣服の修繕を「修業の息抜きですから」と微笑んで、少しずつ引き受けていたのだ。
そして、破れを直した衣服の目立たない裏側に、一針、また一針と丁寧に絹の糸を縫い込んでいた。
“みんながどうか無事でありますように。西園寺様が命懸けで守ってくださっているこの家で誰一人欠けることなく、明日も一緒に笑い合えますように……”
鈴の持つ“修復”の異能は本来は戦闘に不向きな力だった。だが、景明と共に歩む覚悟を決めた彼女の強い願いと、この数日間に渡って他者を思いやり縫い込んだ密やかな祈りの糸はただ物を直すだけだったその力を“空間そのものを縫い合わせ、致命の呪いから守り抜く強靭な結界”へと昇華させていたのだ。
「……っ!」
鈴の懐にある手ぬぐいの籠目紋からも眩い光が溢れ出す。その瞬間、鈴の中に澄み切った確信が生まれた。今ならできる。ただ守られるだけだった鈴が愛する人の帰る場所を守るための、絶対の盾となることが。
「“縫い合わせる”!」
鈴が凜とした声を広間に響かせた。その言葉を合図にしたかのように若菜たち使用人の衣服から放たれていた銀色の光が分厚い鋼鉄の扉をすり抜け、無数の細い光の糸となって鈴の足元へと集束してきた。
光の糸はまるで意志を持った生き物のように鈴の周囲を凄まじい速度で飛び回り、広間の床、壁、天井の空間に目に見えない巨大な結び目を作っていく。
空間に直接、銀色の糸が縫い込まれていくような、鋭くも美しい音が連続して響く。そして漆黒の毒霧が鈴の身体に触れるほんの数ミリ手前で鈴と地下避難壕の扉を完全に覆い隠すように空中に巨大で複雑な銀色の籠目紋が眩い閃光と共に浮かび上がった。
それは鈴の“修復”の異能が祈りを込めた糸を媒介にして、崩壊しかけた空間そのものを強制的に縫い合わせ、物理的かつ霊的な超強固な壁として固定化した、即席の絶対結界であった。
幹部の放った超高濃度の漆黒の毒霧が銀色の籠目紋の結界に正面から激突する。広間全体が地震のように激しく揺れ、周囲の壁紙が悲鳴を上げて剥がれ落ちる。
「……な、なんだと……!?」
前庭でその光景を見ていた幹部が骸骨の仮面の奥で目を剥いた。あらゆるものを侵食し、権藤の暴風すらも喰い破った死の毒霧がその淡く儚い銀色の光の壁をただの一ミリたりとも突破できていないのだ。
毒霧が結界に触れた瞬間、籠目紋から放たれる清浄な光の糸が音を立てて毒を浄化し、完全に弾き返している。魔術的な呪いは鈴の愛と祈りが縫い上げた女主人の絶対領域の前で完全に無力化されていた。
「防いだ……。私の、結界で……!」
鈴は目の前で毒霧が霧散していく光景を見つめながら自身の両手を見た。震えはもう止まっていた。彼女の胸の中には愛する人を守るために自分が成し遂げたという、確かな誇りと力が満ち溢れていた。
「馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿なァッ!!」
幹部が発狂したように頭を掻きむしり、絶叫を上げた。
「たかが小娘一匹に……俺の、寿命を削って放った死の呪詛が完全に遮断されただと!?ふざけるな!ならば、呪いが通じぬのなら、物理でその薄皮ごと引き裂いてやる!!」
幹部が血走った目で背後を振り返る。そこには権藤の暴風の直撃を免れ、生き残っていた数体の強靭な怪異たちが唸り声を上げて控えていた。彼らは毒霧の中でも活動できる、特別な変異体だった。
「行け!あの生意気な小娘の首を食いちぎれ!!」
幹部の命令を受け、四体の筋骨隆々な怪異が四つん這いになって地を蹴り、広間へと突進してきた。毒霧の残滓を突き破り、結界の向こう側にいる鈴に向かって、鋭い爪と牙を剥き出しにして跳躍する。
怪異たちの巨体が銀色の籠目紋に激突する。毒は完全に遮断する結界だが圧倒的な質量の物理攻撃を受けると光の糸が悲鳴を上げ、微かなヒビが入り始めた。
「結界が……!」
前庭から駆けつけようとした権藤が叫ぶが距離が遠すぎる。だが、結界の内側にいる鈴の顔には一切の焦りはなかった。彼女は結界が破られるのをただ待つような無力な姫君ではない。
「入らせませんッ!!」
鈴は結界の限界を見極めるや否や自らその銀色の光の壁から一歩、前へと踏み出したのだ。自身の意志で結界の一部を解除し、怪異の頭部が入り込んだその瞬間。
鈴は両手に握りしめた白鞘の薙刀を滑るような足運びと共に下段から猛烈な勢いで斬り上げた。青白い鋼の刃が空を切る美しい弧を描く。
赫夜の部隊はたった一人の可憐な少女の前に完全に攻めあぐね、足止めを食らうこととなったのである。しかし、人を斬ったこともない華奢な少女が己より巨大な怪異の骨肉を両断した反動は凄まじかった。
両腕の筋肉は引き裂かれそうなほど悲鳴を上げ、重い薙刀を握る手は限界を超えて小刻みに震えている。
さらに結界で遮っているとはいえ、すぐ目の前で渦巻く超高濃度の瘴気にあてられ、呼吸のたびに肺が焼け付くように痛んだ。
「ハァッ……ハァッ……!」
荒い息を吐きながらも鈴は決して膝を突かなかった。背後の若菜たちの命と愛する人の帰るべき場所を絶対に守り抜く。その一念だけが崩れ落ちそうな身体を鋼のように支えている。
一方、死の呪詛をことごとく弾き返され、物理的な突破すら一人の少女に阻まれた赫夜の幹部は完全な狂気へと陥っていた。
「認めん……!たかが女一匹が縫い付けた薄っぺらい護符ごときに俺の死の灰が阻まれるなど……絶対に認めんぞォォォッ!!」
幹部は自身の顔を覆っていた骸骨の仮面に指を突き立て音を立てて引き剥がした。素顔を露わにした彼の両目からはどす黒い血の涙が流れ落ち、口元は耳元まで裂けたように歪んでいる。
「俺の命、そのすべてを呪いに変えてやる……!西園寺の女よ、貴様もろともこの屋敷を永遠の塵にしてくれるわ!!」
幹部が自らの胸元に短剣を突き立てた瞬間、彼の肉体そのものが泥のように崩れ始め、これまでとは比較にならないほど濃密で絶望的な漆黒の怨念へと変貌を遂げた。
それは術者の命そのものを燃料にして放たれる、文字通りの“最後の一撃”。大広間の空気が一瞬にして凍りつき、周囲の壁や床が悲鳴を上げて腐り落ちていく。
凝縮された巨大な漆黒の槍となった呪いが、鈴の張った銀色の結界の中央へと鼓膜を破るような凄まじい轟音と共に突撃を開始した。
致命的な激突。銀色の光の糸が悲鳴を上げて次々と断ち切られていく。結界に亀裂が走り、そこから漏れ出した一筋の瘴気が鈴の頬を掠めた。ほんの少し触れただけで白く滑らかな肌が火傷のように赤く腫れ上がり、鋭い痛みが走る。
(……っ!でも、ここで私が倒れたら……!)
鈴は唇から血が滲むほど強く噛み締め、薙刀を杖のようにして必死に踏みとどまる。だが、視界が白く明滅し、意識が遠のきかけていた。結界が完全に破られるのはもはや時間の問題だった。
すべてが死の灰に沈む。誰もがそう確信した、絶体絶命の瞬間。
突如、大広間の空気が文字通り“凍りついた”。いや、空気だけではない。暴れ狂っていた漆黒の呪いも、幹部の咆哮も、周囲の空間そのものが絶対的な冷気によって強制的に停止させられたのだ。
春先の冷気などとは次元が違う。それは肺から吸い込めば内臓までが瞬時に凍りつき、生命活動の一切を許さない、絶対零度の吹雪。
そして、屋敷の分厚い天井が落雷のような凄まじい轟音と共に内側へ向かって粉々に吹き飛んだ。
瓦礫が雨のように降り注ぐ中、天井に開いた巨大な大穴から、帝都の夜空を切り裂くような青白い雷光と猛烈な吹雪が広間へと雪崩れ込んできたのだ。
「……え?」
鈴が思わず顔を上げた、その視線の先。舞い散る粉雪と紫電のスパークを纏いながら一人の男が天から降り立った。
「……西園寺、様……?」
鈴の桜色の唇から震える声が漏れた。帝都最強の異能者であり、鈴が何よりも愛してやまない、不器用で優しい彼女の婚約者。だが、今の彼から発せられている気迫は鈴がこれまでに見たことのないほど、恐ろしく、凄絶なものだった。
いつもは冷静に伏せられている彼の双眸が、今は血走るほどに見開かれ、その奥には極限まで達した臨界点の怒りが青白い炎となって渦巻いている。
「私の……」
景明の口から紡がれた声は地響きのように低く、広間全体を震わせた。
「私の……たった一つの帰る場所に、私の、何よりも愛しい婚約者に……貴様ら、何という真似をしてくれた!!」
鬼神の咆哮。
景明が軍靴で床を踏み鳴らした瞬間、彼の足元から放射状に広がる“氷”が大広間を一瞬にして白銀の氷河へと変えた。
「ガ、ァ……!?」
自身の命を削って呪いを放っていた幹部も背後に控えていた強靭な怪異たちも、逃げる間すら与えられなかった。
彼らの足元から這い上がった絶対零度の氷が彼らの肉体、血液、そして放たれていた漆黒の毒霧すらも、すべてを一瞬にして分厚い氷柱の中に閉じ込めてしまったのだ。
呪いすら物理的に凍結させる、デタラメなまでの圧倒的暴力。
「消え失せろ。塵一つ残さん」
景明は凍りついた敵陣に向かって、黒革の手袋に包まれた右手を無造作に突き出した。彼が指を鳴らしたその刹那、大広間を満たしていた冷気が一気に圧縮され、その中心から目を開けていられないほどの眩い閃光を伴った雷霆が解き放たれた。
数万ボルトの雷撃が氷像と化した幹部と怪異たちに直撃する。断末魔の悲鳴を上げる暇すらない。氷漬けにされた彼らの肉体は内側からの爆発的な熱膨張と雷撃の破壊力によって、文字通り分子レベルまで分解され、光の中に消滅した。
あとには焦げたオゾンの匂いと静かに舞い散るダイヤモンドダストだけが残された。
圧倒的な蹂躙。戦いは景明が到着してからわずか数秒で完全な決着を迎えたのである。
「……ハァッ……ハァッ……」
大広間に景明の荒い呼吸音だけが響いていた。彼はゆっくりと右手を下ろし、惨劇の跡を見つめた。敵は完全に消滅した。屋敷への脅威は排除した。だが、彼の服には敵を粉砕した際に飛び散った怪異たちの赤黒い体液がこびりつき、彼の端正な頬にも生臭い血の飛沫が付着していた。鼻をつく血と硝煙、そしてオゾンの匂い。
それはまさに戦場を血で染め上げる“帝都の鬼少佐”そのものの姿だった。
激しい戦闘の余波が広間に渦巻く中、敵を瞬殺した景明はただ静かに立ち尽くしていた。その服には返り血と怪異の体液に汚れ、周囲にはまだ彼が放った絶対零度の冷気と紫電の残滓が音を立てている。
(……ひどく汚れているな)
ふと我に返り、己の血塗られた手を見た景明の瞳に美しい彼女に触れることへの微かな躊躇いが過ぎった。彼がゆっくりと一歩後ずさろうとした、まさにその時だった。
乾いた音が静寂に包まれた広間に響いた。鈴が握りしめていた白鞘の薙刀を床に投げ捨てた音だった。
「……え?」
景明が驚いて顔を上げた次の瞬間。藤色の影が一切の躊躇なく彼の胸元へと一直線に飛び込んできた。
柔らかい衝撃が景明の胸を打つ。
鈴が血と体液に塗れた景明の軍服も、冷え切った彼の体温も一切気にすることなく、彼の大柄な身体をその細い両腕で力強く抱きしめてきたのだ。
「す、鈴……!?駄目だ、離れなさい!私の服はひどく汚れている……君の綺麗な着物まで血で汚れてしまう!」
慌てて彼女を引き剥がそうとする景明だが、鈴は彼の背中に腕を回し、絶対に逃がさないように強く、強くしがみついた。着物の胸元が景明の服についた赤黒い汚れで瞬く間に染まっていく。だが鈴はそんなことなど全く気にも留めなかった。
「着物の汚れなど、どうでもいいのです」
鈴は彼の冷たい胸板にそっと頬を擦り寄せ、顔を上げた。
彼女の大きな瞳にあるのは限界まで張り詰めていた安堵の涙と彼に対する海のように深く狂おしいほどの愛情だけだった。
「貴方が無事にお戻りになられた。……私にとって、それ以上に大切なことなんてありません」
「鈴……」
鈴はつま先立ちになり、両手を伸ばして、景明の血で汚れた頬をまるで壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。
彼女の掌から伝わってくる確かな体温が戦闘で極限まで張り詰めていた景明の神経を静かに、だが確実に溶かしていく。
「帝都をお守りいただき、ありがとうございます。お疲れ様です。……貴方の帰る場所は私がちゃんと守りましたよ」
鈴は景明の瞳を真っ直ぐに見つめ、花の綻ぶような、この上なく美しく、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
その言葉を聞いた瞬間、景明の心の中で常に張り詰めていた“帝国最強”としての孤独な重圧が音を立てて崩れ去った。
戦場から帰るたびにすべてを包み込んでくれる絶対的な居場所。自分が命を懸けて守り抜いた少女が今度は自分を真っ直ぐに受け止め、守り抜いてくれたのだ。
「……ああ……」
景明の大きな双眸から熱い涙が一筋零れ落ちた。彼はもう、己の血の汚れを気にしてためらったりはしなかった。震える両腕をゆっくりと鈴の背中に回し、彼女の小さな身体を自身の命そのもののように力強く、そして優しく抱きしめ返す。
「ただいま……。私の愛しい鈴……」




