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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第五章 覇王の承認と気高き白梅の覚悟
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第34話

 三月初旬の帝都は昼間こそ柔らかな春の陽射しに包まれ、ほのかな梅の香りが風に乗って漂う季節となったがひとたび太陽が沈み夜の帳が下りれば、まるで真冬の亡霊が戻ってきたかのような刺すような冷気、いわゆる“花冷え”の寒さに支配される。

 特に今宵は冷たい夜風が赤煉瓦の建物の間を縫うように吹き抜け、石畳を凍らせんばかりの低い唸り声を上げていた。

 数時間前までこの帝都の空を覆い尽くさんばかりの異形、無数の蜂が融合して生まれた巨大な女王蜂の怪異との死闘が繰り広げられていたとは到底思えないほど、現在の街は不気味なほどの静寂を取り戻している。

 怪異の残骸は景明が放った絶対零度の吹雪と天を割るような灼熱の雷霆によって粉々に砕け散り、微細な光の塵となって夜風に溶け、すでに跡形もなく消え去っていた。しかし、大気中にはまだオゾンの焦げたような鋭い匂いと微かな血の鉄錆の匂いが薄い膜のように張り付いており、この場が凄惨な戦場であったことを無言で物語っていた。

 帝国陸軍・異能特殊部隊の屯所。その裏手に広がる修練場の真ん中で景明は独り、静かに夜空を見上げていた。

 雲の切れ間から顔を出した青白い月光が彼の長身を鋭く照らし出している。身を包むのは実戦の場にふさわしく、一切の無駄を削ぎ落とした軍装。微塵の乱れもなく着こなされたその服は引き締まった身体に沿うように完璧に仕立てられており、帯革や軍靴の革が月光を反射して冷たく鈍い光を放っていた。

 それはまるで鞘から抜かれたばかりの日本刀のようだった。春先の冷たい夜風を受けて硬質な衣擦れの音を立てるその全身からは一切の容赦を持たない“鬼少佐”としての凄絶な覇気と、氷と雷の気配が立ち昇っている。

 その完璧な立ち姿には激戦を潜り抜けた直後特有の疲労感や息の乱れなど、ただの一欠片も見当たらない。まさに帝都最強の鬼神としての威厳と冷徹さがそこに具現化していた。

(……鈴)

 景明は自身の呼気から生まれる白い息が夜気の中へ溶けていくのを見つめながら、心の中でただ一人、愛してやまない少女の名を呼んだ。

 どんなに血生臭い戦場に身を置いていようと、どれほど強大な怪異を跡形もなく殲滅しようと、彼の胸の奥底を占めているのは常に陽だまりのように温かく、そしてひどく危うい婚約者の存在だけであった。背後から規則正しい硬質な足音が近づいてくる。足音の主が数歩手前で立ち止まる気配を感じ、景明はゆっくりと振り返った。

「……掃討作業および、周囲の被害状況の確認が完了しました」

 そこに立っていたのは氷室だった。

 氷室は手にした報告書の束を脇に抱え、銀縁の眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、淡々とした、しかしどこか疲労の滲む声で報告を始めた。

「ご苦労。……それで被害の程度は?」

「人的被害は隊員に軽傷者が数名出たのみで、一般市民への被害は皆無です。少佐が怪異を空中で氷結させ、一瞬にして雷で消滅させたおかげで、建物の倒壊などの物的損害も最小限に抑えられました。……とはいえ、少佐の雷の余波で街灯がいくつか吹き飛びましたが、それらは通常の事故として処理させておきました」

 氷室の言葉に景明はわずかに顎を引き、冷ややかな瞳を伏せた。

「そうか。……だが、腑に落ちないことがある」

「ええ。私も同じ見解です」

 氷室は眼鏡の奥の理知的な目を鋭く細め、報告書の一枚を指で弾いた。

「あの巨大女王蜂……そして、それに先立って現れた無数の蜂の群れですが奴らの動きには明確な“意図”がありました。ただ無差別に人間を襲い、帝都を混乱に陥れるための暴走状態ではなかった。まるで何か特定のものを探し出そうとするかのような、統率された奇妙な動きです」

 景明は手袋に包まれた指先で自身の顎を撫でながら、氷室の言葉に同意するように低く重みのある声を発した。

「ああ。奴らは市街地で暴れるよりも帝都の地下深くに張り巡らされた霊脈の結節点、特に皇居からみて鬼門と裏鬼門にあたる方角へと向かおうとしていた。あれは明らかに手当たり次第の破壊活動ではない。奴らを操っている赫夜の連中の真の狙いは……」

「帝都の霊的結界を支える“要石”の破壊、あるいは奪取でしょう」

 氷室が静かに確信に満ちた声で結論を口にした。

 “要石”。それは古来よりこの帝都を魔や怪異から守り続けてきた霊的な防衛網の核である。帝都の地下に幾重にも張り巡らされた霊脈の中心に位置し、巨大なエネルギーを安定させるための楔としての役割を果たしている。もし、その要石が破壊されれば帝都を覆う防護結界は脆くも崩れ去り、地下に封じられたおぞましい瘴気やさらなる強大な怪異たちが一斉に地上へと溢れ出すことになる。

「赫夜の連中は我々異能部隊の戦力を分散させ、陽動としてあの蜂の群れを放った。その隙に要石に近づくつもりだったのだろう。……だが、連中の計算違いは私が奴らの陽動に時間をかけず、一撃で群れ全体を消し炭にしたことだ」

 景明の声音には一切の驕りもなければ、感情の起伏すらなかった。ただ、圧倒的な事実を述べているに過ぎない。氷と雷という、相反する極大の破壊の異能を同時に操る彼にとって、数百数千の有象無象など、路傍の石を蹴り飛ばすのとなんら変わらないのだ。

「ええ。奴らも、まさか少佐がたった一人であれほどの規模の怪異を数分で殲滅するとは予測していなかったはずです。……しかし、少佐」

 氷室の表情が一段と険しいものに変わった。

「要石の存在、そして正確な位置は軍の上層部でもごく一部の人間しか把握していないはずの最重要機密です。それが赫夜側に漏れているとすれば……。やはり、敵は単なるテロリストの集団ではなく、我が軍の内部、あるいは華族の深枢にまで根を張っている可能性が極めて高い」

「……獅子身中の虫、というわけか」

 景明の双眸に氷のような冷たい殺意が閃いた。

「調査を進めろ、氷室。軍の内部記録、不自然な金の流れ、さらには過去の異能に関する研究資料への接続履歴……徹底的に洗い出せ。どんなに微細な綻びでも構わん。必ず尻尾を掴み出せ」

「承知いたしました」

 氷室は深く一礼すると踵を返して屯所の奥へと消えていった。再び、冷たい夜風の吹く修練場に一人残された景明はふと天を仰いだ。冴え冴えとした月光が彼の端正な顔立ちに冷たい陰影を落とす。

 景明は軍服の胸元、心臓の最も近くにある内ポケットへと右手をゆっくりと差し入れた。そこから取り出したのは麻の葉文様の刺繍が施された一枚のハンカチ。

 景明は手袋を外し、素手でそのハンカチにそっと触れた。指先から伝わってくる、絹糸でふっくらと縫い上げられた幾何学模様の微かな凹凸。その一つ一つの針目に彼女が自分を想い、自分の無事を祈りながら費やしてくれた時間と愛情が込められているのが痛いほどに伝わってくる。

 鼻を近づけると激しい戦闘の硝煙や血の匂いなどとは対極にある、春の陽だまりのような、どこか甘く清潔な香りが微かに漂ってきた。それは紛れもなく、鈴自身の移り香だった。

(……鈴。私の愛しい鈴)

 景明はそのハンカチを両手で包み込むようにして、自らの唇に押し当てた。目を閉じると彼女の姿が鮮明に脳裏に浮かび上がる。着物の裾を揺らし、花が綻ぶように無防備に笑う顔。自身の不甲斐なさに怯えながらも、必死に前を向こうとする健気な瞳。「西園寺様」と自分を呼ぶ、その鈴を転がすような愛らしい声。

 そのすべてが景明の凍てついた心を溶かし、狂おしいほどの熱を持った愛執となって胸を締め付ける。先ほどの女王蜂との戦闘において、敵の放った毒針の雨が景明の死角を突いて急襲してきた瞬間があった。通常の軍人であれば蜂の巣にされ、全身を猛毒に侵されて即死していたであろう絶体絶命の危機。だが、その毒針が景明の身体を貫く直前、胸元に忍ばせていたこのハンカチが淡い光を放ったのだ。それは鈴の持つ“修復”の異能が持ち主である景明を守ろうと無意識に発動した結果だった。光の波動が毒針の軌道を僅かに逸らし、彼に反撃のための零コンマ数秒の猶予を与えた。

 その瞬間の出来事を思い返すたび、景明は背筋が凍るような安堵と彼女への底知れぬ独占欲が入り混じった激しい感情の奔流に呑み込まれそうになる。彼女の力に救われた。彼女の愛が自分を生かした。その事実が彼に無上の喜びを与えると同時に彼の中に眠るある“根源的な恐怖”を呼び覚ますのだった。

 ハンカチから伝わる温もりは奇しくも景明の意識をとうの昔に封印したはずの深く冷たい記憶の底へと引きずり込んでいった。それは現在のこの凍てつくような三月の夜風よりもさらに冷たく、暗く、救いのない過去の幻影。

 冷たい雨の降る日だった。幼い景明の鼓膜に蘇るのは鉛色の空から絶え間なく降り注ぐ雨の音と重苦しい軍靴の足音。そして母の張り裂けんばかりの慟哭だった。

 景明の父は名門西園寺家の当主として、そして誇り高き帝国陸軍の軍人として、戦地へと赴き、二度と生きてこの帝都の土を踏むことはなかった。立派な白木の箱に納められて帰ってきたのは遺髪と血に染まった階級章だけだった。

 知らせを受けた母は玄関先でその箱を受け取った瞬間、まるで糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、喉から血が出るのではないかというほどの悲鳴を上げて泣き崩れた。

 まだ幼かった景明は軍服を着た大人たちが重苦しい顔で俯く中、床に這いつくばって泣き叫ぶ母の背中をただ茫然と見つめることしかできなかった。

(……お父様は死んだ。もう帰ってこない)

 その事実を理解するには彼はまだ幼すぎた。しかし、母の異常なまでの悲しみの深さが幼い景明の心に“死”というものの絶対的な絶望を深く刻み込んだ。それからの母の姿は幼い景明にとって凄惨な緩やかな地獄だった。

 夫の死を受け入れることができなかった母は次第に精神の均衡を崩していった。毎日毎日、来るはずのない夫の帰りを待ち続け、玄関の上がり框に座り込んで外の道を虚ろな目で眺め続ける日々。

「今日はあの方の好物の鮭を焼きましょう」

「お着物の綻びを直しておかなくては」

 そう譫言のように呟きながら母は徐々に食事をとらなくなり、豊かだった髪は艶を失い、ふくよかだった頬は見る影もなく痩せこけていった。

 家の中に立ち込めていた優雅な白粉や香の匂いはいつしか淀んだ空気とむせ返るような強い薬の匂いへと変わっていった。純和風の母屋の奥、日が落ちて薄暗くなった寝所に布団が敷きっぱなしにされ、母はそこで一日中咳き込むようになった。

(お母様……)

 幼い景明は毎日、母の枕元に座り、小さな両手で母の骨と皮ばかりになった冷たい手を握りしめていた。

「お母様、僕がここにいます。だから、泣かないで」

 そう必死に語りかけても、母の虚ろな瞳は景明を通り越し、虚空に浮かぶ夫の幻影だけを見つめていた。

 帰らない男をただひたすらに待ち続けること。それがどれほど人間の魂をすり減らし、肉体を蝕み、狂気へと追いやるのか。

 母は夫への愛の深さゆえに自らの命を削り、削り、ついには削り尽くしてしまった。

 最期の夜。ひときわ激しい咳の発作の後、母は虫の息で景明の手を弱々しく握り返した。

「……あなたも、いつか……お父様のように、立派な……」

 それが母が最後に残した言葉だった。母の手から完全に力が抜け、その体温が急速に失われていくのを幼い景明はただ呆然と見つめていた。指先から伝わってくる、絶対的な死の冷たさ。

 どんなに泣き叫んでも、どんなに自分の体温を分け与えようと強く握りしめても、母の命の火が再び灯ることはなかった。その時、幼い景明の絶望は彼の中に眠っていた異能を凄まじい形で暴走させた。

(どうして……!)

 彼の中から爆発的に膨れ上がった悲しみと怒りは瞬く間に周囲の温度を絶対零度へと急降下させた。寝所の障子が、襖が、畳が、一瞬にして分厚い氷柱に覆われる。さらに彼の小さな身体から無数の紫電が走り、轟音と共に天井を突き破って夜空へと駆け抜けた。

(僕には……僕には、壊す力しかないのか……っ!)

 氷と雷。彼に与えられたのは敵を殲滅し、命を奪い、全てを灰燼に帰すための極大の「破壊」の力だけだった。母の病を癒やす力もなければ、失われゆく命を繋ぎ止める温かな力も、彼の手には与えられていなかったのだ。

 強大すぎる己の力を呪い、癒やしの力を持たない己の無力さを呪い、そして愛する妻をこれほどまでに悲しませ、壊してしまった死んだ父という存在へのやり場のない憎悪。

 それらが複雑に絡み合い、幼い景明の心を分厚く、決して溶けることのない絶対零度の氷で覆い尽くしてしまった。周囲の人間は異能を暴走させる幼い彼を“西園寺の血が産み落とした化け物”と呼び、恐怖の目を向けた。誰も彼に近づこうとはしなかった。ただ遠巻きに畏怖と嫌悪の入り混じった視線を投げかけるだけ。

 愛とは悲劇の引き金に過ぎない。深く愛せば愛するほど、失った時の絶望は人を狂気に駆り立て殺す。それが幼い景明が両親の死から学んだ、冷酷で残酷な世界の真理だった。

(……だからこそ、私は)

 景明は我に返り、手の中にある麻の葉文様のハンカチを千切れてしまうのではないかというほどの力で強く、強く握りしめた。

 現在に戻った彼の呼吸はいつになく荒く、そして胸の奥底で重苦しい動悸が打ち鳴らされていた。軍靴の底で屯所の石畳を強く踏みしめる。春先の冷たい風が彼の火照った頭を冷やすように吹き抜けていく。

 景明は自身が戦場に立つことなど微塵も恐れていない。肉体が傷つくことも、怪異の牙に引き裂かれることも、毒に侵されることも、彼にとっては他愛のない日常の延長に過ぎない。彼がこの世で唯一、強迫観念のように恐れ、夜も眠れなくなるほどに怯えているもの。それは愛する鈴がかつての母と同じように“帰らぬ男を待つだけの悲しみ”に囚われ、心身を壊してしまうことだ。

(私は絶対に死なない。どんな手段を使ってでも這い戻る。……彼女をあの母と同じ絶望の淵に立たせることだけは絶対に、絶対に許されない)

 鈴の顔を思い浮かべるたび、彼の内側から湧き上がるのは純粋な愛情というよりも、もはや狂気に近い執着と過保護であった。

 彼女を誰の目にも触れない安全な場所に閉じ込めたい。硝子細工のように壊れやすい彼女の身体を自分の腕の中に永遠に縛り付けておきたい。少しの怪我も、少しの悲しみも、彼女に与えたくない。

「……私の命はとうの昔に君のものだ、鈴。だからこそ……君の運命も、君の命も、すべて私の腕の中にあるべきなのだ」

 月明かりの下、漆黒の軍服に真紅のマントを翻した帝都最強の鬼神は誰に聞かせるでもなく、狂おしいほどに低く甘い声でそう誓った。彼がこれほどまでに鈴に執着し、異常なまでの過保護を強いる理由。

 それは彼女の“修復”の力に救われたからだけではない。“愛する女を悲しみで壊したくない”という、彼の心の最深部に刻み込まれた、血を吐くようなトラウマとエゴイズムの裏返しなのだ。

 景明はハンカチを再び胸の最も奥、心臓に触れる場所へと丁寧にしまい込んだ。そして、鋭い眼光で帝都の闇を見据える。赫夜の狙いがなんであれ、鈴に仇なす者はすべて、氷結地獄と雷霆の雨をもって一匹残らずこの世から消し去る。

 冷徹なる破壊の化身は愛するただ一人の少女を守るため、今夜もまた深く冷たい闇の中へと歩みを進めるのだった。

 西園寺本邸。広大な敷地に建つ邸宅の庭では見事に咲き誇る白梅と紅梅が真上から降り注ぐ柔らかな春の陽射しを浴びて眩しく輝いている。

 その一角にある、鈴に与えられた広々とした客間。磨き上げられた鏡台の前に座る鈴の背後で若菜が手慣れた様子で艶やかな髪を梳いていた。ほんのりと漂う甘い石鹸の香りがこれからの厳しい修業を控えた鈴の緊張を少しだけ和らげてくれる。

「鈴様、ここ数日の厳しいお作法や所作の修業に耐え抜かれた上、昨夜の修繕の試練、本当にお見事でしたよ。あの大奥様が鈴様の縫い上げた着物をご覧になって、完全にぐうの音も出ないといったご様子でしたから」

 若菜が鼈甲の櫛を滑らせながら、誇らしげな声で囁いた。

 昨夜、数時間かけて鈴が修復を終えた古い着物を広げた瞬間、常に厳しい表情を崩さなかったタキは文字通り絶句した。

『……信じられない。完全に元の姿に……いいえ、生地の艶や柄の鮮やかさまで、まるで命を吹き込まれたかのように蘇っているなんて……』

 震える手で絹布に触れたタキの、あの驚愕と微かな称賛が入り混じった瞳を思い出し、鈴は鏡越しの若菜と視線を交わして照れくさそうに微笑んだ。

「ありがとう、若菜さん。……でも、少しだけ意地を張ってしまったかもしれない。私には“修復”の異能があるけれど、ただ力任せに直したわけじゃないって、大奥様に分かっていただきたかったから」

 鈴は膝の上でそっと自身の両手を重ねた。真っ白で滑らかな彼女の指先には針で突いたような傷跡や糸で擦れたような赤みはただの一欠片も存在しない。

 厳格な父のもとで体裁を重んじて育ち、女学校の座学は苦手だった鈴だが針と糸を握る裁縫においてだけは誰にも追いつけない圧倒的な天才的腕前を持っていた。その鍛え抜かれた技術と想いの結晶こそが彼女の異能を最大限に引き出すのだ。

「それにしても、鈴様は本当に強くなられましたね。数日前にこの本邸にいらしたばかりの頃は大奥様の威圧感に当てられて、借りてきた猫のようにガチガチになっておいででしたのに」

 若菜が優雅に笑いながら言うと鈴は「もう、それを言わないで」と小さく頬を膨らませた。「だって、怖かったんですもの。……でも、今は違う。ただ怯えて泣いているだけじゃ、西園寺様の隣には立てないって分かったから」

 鈴は鏡の中の自身を強い意志の宿る瞳で見つめ返した。

 今日彼女が纏っているのは落ち着いた藤色の地に光の加減で細やかな地紋が浮かび上がる上質なお召の着物である。これから西園寺という名門の女主人となるべく厳しい教育を受けるにふさわしい、凛とした品格と動きやすさを兼ね備えた出で立ちだった。

 帯の締め具合一つとっても若菜の気遣いが隅々まで行き届いているのがわかる。

(……西園寺様は昨夜の死闘の後も本邸には戻らず、そのまま屯所に泊まり込んで警戒を続けておられると聞いたわ。氷室様からの通信でご無事は確認できたけれど……どうか、ご無理だけはなさらないで)

 昨夜、帝都の空を覆った禍々しい気配とそれを打ち払った雷鳴。鈴はそれが景明の力であることを直感し、彼のために贈った“千鳥”のハンカチの刺繍を指先でなぞりながら、ひたすらに無事を祈り続けていたのだ。

「さあ、鈴様。お仕度が整いました。今日はどのような修業が待ち受けているか分かりませんが……鈴様なら、絶対に大丈夫です」

「はい、行ってまいります、若菜さん」

 凛と背筋を伸ばし、鈴は部屋を後にした。廊下に出ると磨き上げられた木の床が冷たく足袋越しに伝わってくる。微かなお香の匂いが漂う邸内は静寂に包まれているようでいて見えない無数の歯車が完璧な精度で噛み合い、稼働しているような特有の重厚な緊張感に満ちていた。

 向かった先は本邸の最も奥に位置する、タキの私室も兼ねた広い和室である。襖の前に立ち、鈴は小さく息を吐いてから、作法通りに両手をついて声をかけた。

「小鳥遊鈴です。大奥様、お呼びでしょうか」

「……入りなさい」

 襖の向こうから、静かだが鋼のように芯の通った凛とした声が返ってくる。

 鈴はゆっくりと襖を開け、畳の上を滑るようにして室内に進み出た。室内には白檀の香りが満ちていた。床の間には見事な掛け軸が飾られ、その前には季節の梅の枝が凛とした姿で活けられている。

 部屋の中央、上座に正座して鈴を待ち受けていたのはタキであった。年齢を感じさせないほど背筋を真っ直ぐに伸ばし、黒地に流水と菊の文様が描かれた格調高い着物を隙一つなく着こなしたタキの姿はまるでこの邸の空気をその身一つで支配しているかのようだった。

 髪は完璧に結い上げられ、鋭くも知的な双眸が射抜くような光を放って鈴を見据えている。

 鈴はタキの三歩手前で深く手をつき、丁寧にお辞儀をした。

「本日もよろしくお願いします、大奥様」

 鈴の挨拶に対し、タキは表情一つ変えることなく、冷ややかな視線を鈴の全身へとはわせた。着物の着付け、帯の結び目、髪の乱れがないか、そして何より、鈴が纏う“空気”が西園寺の女としてふさわしいものかどうかを瞬時にして推し量るような目だ。

「……この数日の厳しい修業に弱音一つ吐かなかった忍耐力、そして昨日の裁縫の試練。見事な手際でした。布の扱い、糸の選び方、そして何よりその速さと正確さ。あなたが小鳥遊の家でただ守られていただけの娘ではないということは十分に理解しました」

 タキの口から出たのは微かな称賛の言葉だった。しかし、その声色には温かみは一切なく、あくまで事実を淡々と評価しているに過ぎない響きだった。

「もったいないお言葉でございます、大奥様」

「ですが」

 鈴が頭を下げた瞬間、タキの言葉が鋭い刃のように空気を切り裂いた。

「針仕事が人より少しばかり優れているからといって、それだけで西園寺の当主の妻が務まるほど、この家は甘くはありません。……あなたはまだ、西園寺の“女”が背負うべき本当の重圧というものを何一つ理解していない」

 タキの言葉に鈴は肩を震わせた。タキはゆっくりと立ち上がり、鈴の目の前へと歩み寄る。足袋が畳を擦る微かな音さえもが鈴の鼓膜には雷鳴のように重く響いた。

「いいですか、西園寺家は代々帝国陸軍の要職に就き、この帝都を怪異から守護する要としての役割を担ってきました。当主である景明さんは常に死と隣り合わせの最前線に立っています。彼が邸を空けている間、この広大な本邸の差配、領民の保護、そして何より“西園寺家の威信”を保ち続けるのは残された妻の役目なのです」

 タキは鈴を見下ろし、その鋭い目をさらに細めた。

「今日の修業は針も糸も使いません。あなたに問うのは精神の力。そして、いかなる絶望的な状況下においても決して揺らぐことのない、“当主代行としての冷徹な判断力”です」

 その言葉の重みに鈴は思わず息を呑んだ。座学や実技の試験とは違う。それは実際に血が流れ、命が失われるかもしれない極限状態を想定した、魂の試練だった。

「……はい。どのような問いにも、私なりに精一杯お答えいたします」

 鈴は膝の上で両手を強く握りしめ、タキの目を真っ直ぐに見返した。その瞳に怯えがないことを確認したタキはゆっくりと頷き、自らの席へと戻った。

「では、想定しなさい。……今、時刻は深夜。景明さんは極秘任務で帝都のさらに奥深くへと向かっており、三日間、一切の連絡が途絶えている状態だとします」

 タキの低く静かな声が室内の空気を急速に冷やしていく。鈴はごくりと唾を飲み込み、タキの言葉が描き出す絶望的な状況を脳内に構築し始めた。

「そこへ本邸の結界を破り、数十体もの強力な怪異が奇襲を仕掛けてきました。邸の警護にあたっていた部隊の半数がすでに戦闘不能に陥り、防衛線は崩壊寸前。さらに悪いことに怪異の持つ毒が敷地内に蔓延し始め、使用人たちの中にも倒れる者が出始めました。……あなたを守るために残されているのは、老齢の執事である権藤とあなたの護衛である桜木、そして若菜たち女中のみ」

 タキはそこで言葉を区切り、鈴の瞳の奥底まで射抜くような鋭い視線を突き刺した。

「さあ、お答えなさい。西園寺の当主代行たるあなたはこの状況下で誰にどのような指示を出し、この邸を、そして家名を守り抜きますか?」

 沈黙が和室に重くのしかかった。

 鈴の脳裏に凄惨な光景が鮮明に浮かび上がる。血を流して倒れる護衛たち。毒に苦しむ使用人。暗闇から迫り来る無数の怪異の咆哮。そして、どこにいるのかも、生きているのかもわからない景明の不在という、最も恐ろしい事実。

(……私が指示を出す。この命のやり取りの最前線で)

 鈴の心臓が早鐘のように打ち始めた。女学校で習った道徳や華族の令嬢としての作法など、今の状況下では何の役にも立たない。必要なのは誰の命を優先し、何を切り捨てるかという、血を吐くような決断だ。

「……まずは」

 鈴は震えそうになる声を必死に押し殺し、乾いた唇を開いた。

「まずは戦闘能力のない使用人たちを邸内で最も防御結界の強固な地下の避難所へと即座に誘導します。その際、パニックを防ぐため、若菜さんら冷静な女中たちをリーダーに据え、少人数の班に分けて移動させます」

「それだけですか?毒はすでに蔓延し始めているのですよ。避難所へ向かう途中で倒れる者もいるはずです」

 タキの容赦のない追及が飛ぶ。

「……毒に侵された者が出た場合は私の“修復”の力で最低限の応急処置を施し……」

「愚か者!!」

 タキの烈火の如き一喝が部屋の空気を震わせた。

 鈴は肩を跳ねさせ、目を見開いた。

「あなたが前線に出るなど、言語道断です!!」

 タキは立ち上がり、怒りで肩を震わせながら鈴を見下ろした。

「あなたは自分が何者であるか、まるで理解していない。あなたはただの小鳥遊の娘ではない。西園寺景明の妻であり、この家の未来を紡ぐ唯一の存在なのです!あなたが怪異の毒に触れ、万が一にも命を落とすようなことがあれば、それは西園寺家の“完全なる敗北”を意味する!」

「ですが……!目の前で苦しんでいる人たちを見捨てることなんて……私にはできません!」

 鈴も負けじと声を上げた。彼女の根底にあるのは他者を放っておけないという純粋すぎるほどの優しさだ。しかし、タキの瞳にはそんな鈴の優しさを“致命的な弱さ”として切り捨てる冷酷な光が宿っていた。

「その甘さが家を滅ぼすのです!!」

 タキの言葉はただの説教ではなかった。そこには血を吐くような悲痛な響きが混じっていた。

「権藤を、桜木を、護衛たちを使い捨てにしなさい!彼らはそのために西園寺から俸禄を得ているのです。彼らに死守命令を下し、その壁の後ろであなたは一歩も動かずに状況を把握し、冷静に次の一手を打ち続けなければならない。誰かが死ぬたびに心を痛め、涙を流している暇などないのです!」

 タキは鈴の目の前まで歩み寄り、その華奢な肩を両手で強く掴んだ。タキの手の震えが着物越しに鈴に伝わってくる。

「……西園寺の男はいつ帰らぬ人となるか分からない。それが我々の背負う呪いであり、宿命です」

 タキの声がふと、ひび割れたように掠れた。その瞬間、タキの背後に重く暗い過去の幻影が立ち上るのを鈴は確かに感じ取った。

「愛する夫が戦地へ赴き、三日、一週間、一ヶ月と連絡が途絶える。……その間、残された妻がただ玄関先で泣き崩れ、夫の無事だけを祈り続けるような脆弱な女であれば……この家は、そして景明さんの心は完全に崩壊してしまうのです」

(大奥様……)

 鈴は息を呑んだ。タキの言葉の端々に滲む、隠しきれない慟哭。それは昨日まで鈴が感じていた単なる“嫁いびり”や“格式へのこだわり”などといった生易しいものではなかった。

 タキの目にはかつてこの邸の玄関先で夫の戦死の報を受け取り、絶望のあまりに狂気へと堕ちていった一人の女性の姿が映っていたのだ。

 戦死した夫を待ち続け、心労で病死した、景明の母。その悲劇が幼い景明の心をどれほど深く傷つけ、彼の異能を暴走させ、今もなお彼を冷たい氷の檻に閉じ込めているのか。タキは誰よりも間近でそれを見てきたのだ。

「景明さんは強大すぎる力を持っています。しかし、その心は硝子のように脆く、危うい。彼がどれほど凄惨な戦場にあろうとも、『邸には自分が帰るべき確固たる場所がある。自分を信じ、家を護り抜いている強い妻がいる』……そう信じられるからこそ、彼は理性を保ち、生きて帰ってこられるのです」

 タキの掴む手にさらに力がこもる。

「だからこそ、あなたは強くならなければならない。景明さんの母の悲劇を二度と繰り返してはならない。彼に“愛する者を失うかもしれない”という恐怖を二度と味わわせてはならないのです!……それができないというのなら、今すぐこの家から出て行きなさい!!」

 部屋中にタキの激しい息遣いだけが響き渡った。

 鈴はタキの瞳の奥で揺れる、深すぎる悲哀と不器用なまでの景明への親心を痛いほどに受け止めていた。

 タキが鈴に課した厳しい試練の数々。それは鈴を追い出すためではない。むしろ、鈴がこの西園寺という巨大で過酷な家の中で決して折れることなく、景明の魂を繋ぎ止める“絶対的な錨”となれるよう、文字通り血反吐を吐く思いで鍛え上げようとしていたのだ。

 鈴の目から不意に一粒の涙がこぼれ落ちた。それは叱られる恐怖からでも、悲しみからでもない。景明が背負っている過去の絶望の深さと彼を愛し、守ろうとしてきたタキたちの計り知れない覚悟の重さに心が激しく震えたからだ。

「……大奥様」

 鈴は自身の肩を掴むタキの手の上にそっと自分の手を重ねた。

 タキが驚いたように息を呑む。

 鈴の瞳にはもう一片の迷いも、怯えもなかった。そこにあるのは静かだが決して消えることのない烈火のような決意の光だった。

「私を甘やかさないでくださって、本当にありがとうございます」

 鈴の声は震えてはいなかった。タキを見据えるその眼差しは小鳥遊家の下級華族の娘のものではなく、すでに西園寺を背負う女の顔へと変わり始めていた。

「大奥様の仰る通りです。私は景明様に守られるだけの、脆弱なお荷物になりたくはありません。……景明様がどれほど冷たく暗い戦場に立とうとも、振り返れば必ずそこには私がいる。どんな怪異が襲いこようとも、この家を、使用人たちを、そして景明様の帰る場所を、絶対に守り抜いてみせます」

 鈴は一歩も引かず、タキの目を見つめ返した。

「有事の際、私は決して前線で無駄死にはいたしません。権藤や桜木様に背中を預け、冷酷と言われようとも、一番生き残る確率の高い最善の指示を下します。……そして、たとえ景明様からの連絡が途絶えようとも、私は絶対に泣き崩れたりはしません」

 鈴の言葉が部屋の空気を浄化していくように響き渡る。

「景明様は必ず生きて帰ってくる。そう信じて、私はこの本邸のど真ん中で笑って彼を待ち続ける……“西園寺の女主人”になります」

 その力強い宣言にタキの目が見開かれた。しばらくの間、タキは鈴の顔をまじまじと見つめ、やがて、その張り詰めていた肩の力を抜いた。

 鈴の肩から手が離れる。

 タキはゆっくりと背を向け、元の座布団へと戻りながら、小さく、本当に小さく息を吐いた。その表情は相変わらず厳しいままだったが、鈴にはタキの背中が先ほどよりもほんの少しだけ、安堵に包まれているように見えた。

「……口で言うのは簡単です。その覚悟が本物かどうか、これから毎日、骨の髄まで叩き込みますよ。覚悟しておきなさい」

「はい。望むところです」

 鈴が深く、美しい作法で一礼をした時、廊下の方から控えめな足音が近づいてきた。

「大奥様、鈴様。失礼いたします」

 襖の向こうから聞こえたのは執事である権藤の重低音の渋い声だった。

「お茶のお代わりをお持ちいたしました。それと……大旦那様が鈴様に少し中庭を散歩しないかとお誘いでございます」

「……分かりました。入りなさい」

 タキの許可を得て、権藤が静かに襖を開ける。

その表情はいつも通りの強面であったが、その視線は鈴の無事を確かめるようにほんの一瞬だけ優しく和らいだ。

「小鳥遊の…いいえ、鈴さん。今日の修業はここまでとします。源五郎の相手をしてきなさい」

「はい。ありがとうございました、大奥様」

 鈴は再び深く一礼し、立ち上がった。足の痺れは全くない。心の中には疲労よりも遥かに大きな、確かな充実感と景明への愛しさが満ち溢れていた。

(西園寺様……私は絶対にあなたを一人にはしない。あなたがどんな過去を背負っていようと、私が全てを受け止めてみせます)

 西園寺本邸の敷地内に広がる、見事な和洋折衷の庭園。そこには三月初旬の柔らかな春の陽射しが降り注いでいた。

 タキによる“西園寺の女主人”としての過酷な修業を終えた鈴は執事である権藤の先導に従い、磨き上げられた木の廊下を静かに歩いていた。

 足袋越しに伝わってくる床の冷たさと微かに漂う白檀の香りが張り詰めていた鈴の神経を少しずつ現実へと引き戻していく。

 目を閉じれば、厳しい言葉の裏に隠されたタキの深い愛情と悲痛なまでの親心が胸に蘇ってきた。

(……大奥様はご自身の心を削ってでも、私を鍛え上げようとしてくださっている。西園寺様を二度とあのような悲しみに遭わせないために)

「鈴様、こちらでございます」

 権藤の低く渋い声に促され、鈴は中庭へと続くガラス戸を抜けた。外に出た瞬間、春の陽だまりの温もりが全身を包み込む。見渡せば手入れの行き届いた庭のあちこちで白梅と紅梅が見事に咲き誇り、甘く芳醇な香りを春風に乗せて運んでいた。

 しかし、吹き抜ける風にはまだ刺すような冷気、“花冷え”の寒さが潜んでおり、藤色のお召を纏った鈴の華奢な体を微かに震わせた。

「遅いぞ、小鳥遊の娘」

 庭の中央、日当たりの良い芝生の上に設けられた純白のガーデンテーブルの傍らで車椅子に乗った源五郎が冷ややかな視線を向けていた。

 膝の上には分厚いウールの膝掛けが掛けられているがその広く分厚い肩幅と底知れない鳶色の眼光は彼がかつて帝都最強の覇王として君臨した男であることを無言で証明している。

「大旦那様。お待たせいたしました」

 鈴が進み出ると源五郎は短く鼻を鳴らした。

「タキのしごきから逃げ出さなかったようだな。……座れ」

 源五郎が短く命じると背後に控えていた権藤が素早く椅子を引き、鈴を座らせた。そしてワゴンに乗せていた二つの磁器カップをテーブルへと手際よく並べる。

「権藤が用意したココアだ。……それを飲んだら、お前の覚悟を聞こう」

 源五郎の言葉に鈴は喉を鳴らしてカップを両手で包み込んだ。

 陶器越しに伝わってくる熱が冷え切っていた指先をじんわりと溶かしていく。一口含むと濃厚なカカオの香りとたっぷりのミルクの甘さが広がり、胃の腑へと温かく落ちていった。

「……タキから聞いたのだろう。景明の両親のこと、そしてタキが“待つ女”であることを恐れる理由を」

「……はい」

 鈴はカップを置き、静かに頷いた。

「景明様のお母様が戦死されたお父様を待ち続け、心労で身をすり減らして亡くなられたと……」

「ああ。そうだ」

 源五郎は車椅子の上で僅かに身をよじり、青空に浮かぶ薄い雲へと視線を向けた。

「父親の戦死を理解するよりも先に母親が狂気に蝕まれ、目の前でゆっくりと衰弱して死んでいく姿を見せつけられた。最愛の母を失った夜、絶望と激しい怒りで……幼い景明の中に眠っていた強大すぎる異能が完全に暴走したのだ」

 鈴の膝の上で無意識に震えた手が藤色のお召の生地を強く掴んだ。

「それはもう、凄まじい光景だった」

 源五郎の声が一段低く、重みを増す。

「真夏だというのに母屋の周囲数十メートルが一瞬にして絶対零度の氷柱に覆い尽くされた。空からは紫電が降り注ぎ、庭の木々を次々と粉砕していく。使用人たちは皆『化け物だ!』と泣き叫んで逃げ惑った。……軍の上層部や親戚共は私に言ったよ。『あの子は危険すぎる。地下の座敷牢に幽閉しろ』とな」

 源五郎の言葉に鈴は弾かれたように顔を上げた。

「そんな……! 大旦那様と大奥様がそんなことを許すはずがありません!」

「当然だ。するわけがないだろう」

 源五郎ははっきりと、力強く首を横に振った。その目には決して揺らぐことのない深い愛情と祖父としての凄まじい執着が宿っていた。

「愛する息子の忘れ形見だ。世界中が彼を化け物と呼ぼうとも、私たちにとっては目の中に入れても痛くない“最高傑作”だ。……私とタキは周囲の制止を振り切り、猛吹雪と落雷が荒れ狂う庭へと飛び出した。氷の刃が頬を切り裂き、落雷で着物が焼け焦げても、嵐の中心で怯えて泣きじゃくる景明のもとへ駆け寄り……ただ力強く、その体を抱きしめたのだ」

 “『景明、もう大丈夫だ。お前は化け物などではない』”

 極寒の吹雪の中で二人は凍えそうな孫の体を両腕で包み込み、嵐が収まるまでずっと抱きしめ続けたのだという。

「私たちがどれだけ傷つこうと決して手を離さないと分かった時……暴走はようやく収まった。……私はその夜、固く誓ったのだ。この外界の悪意からあの子を永遠に守り抜くと。……あの外界から遮断された“鳥籠”は私の愛と執着の結晶なのだよ」

 源五郎は車椅子の肘掛けを強く握りしめ、苦しげに顔を歪めた。

「だが、私とタキの愛情だけではあの子の心に根付いてしまった呪いを解くことはできなかった。両親を救えなかった無力感。深く愛せば愛するほど、失った時の絶望が人を狂わせるという恐怖。それがあの子の心を分厚い氷で覆い尽くしてしまった。……帝都最強の『鬼少佐』という名は誰にも心を許さないための冷たい鎧に過ぎなかったのだ」

 源五郎の言葉を聞き、鈴の胸が痛いほどに脈打っていた。己を厳しく律し、ただ怪異の殲滅のみに命を削ってきた彼のストイックな生き方の裏にある深い孤独と恐怖。

「あの子は一生、私の用意した安全な鳥籠の中で冷たい人形のように生きていくと思っていた。……だがね、小鳥遊の娘」

 源五郎が鋭い鷹のような目で鈴を真っ直ぐに射抜いた。

「あの子はずっと、たった一人で暗闇の中で震えている、孤独な少年のままだったのだよ。……だがね、小鳥遊の娘。そんなあの子の止まっていた時間を動かしたのが四年前のお前だ」

 源五郎の言葉に鈴は弾かれたように顔を上げた。

「あの日、帝都は冷たい雨が降っていた。任務から帰還した景明は一本の華奢な女学生の“傘”を両手で大事そうに抱えて帰ってきた。……そしてその日を境にあの子は夜を徹して帝都中の令嬢たちの釣書を狂ったように漁り、その傘の持ち主を探し続けていたのだ」

 鈴の心臓が大きく跳ねた。あの雨の日、路地裏でうずくまる恐ろしい軍人に放っておけずに傘を差し出した時のことだ。

「だが、手がかりのないまま時間だけが過ぎ……やがて、親代わりである私がある有力な伯爵家との縁談をまとめた。当時のあの子は半ば諦めのように私の決めたその婚姻に仕方なしに従うつもりだったのだ」

 源五郎の口元が忌々しげに歪む。

「だが、手がかりのないまま時間だけが過ぎ……やがて、親代わりである私がある有力な伯爵家との縁談をまとめた。当時のあの子は半ば諦めのように私の決めたその婚姻に仕方なしに従うつもりだったのだ」

 源五郎の口元が忌々しげに歪む。

「しかし、あの子は偶然にも、お前と出会った。そして、あの子は気づいたのだ。目の前の娘こそが四年前の雨の日に自分を救ってくれた、あの傘の持ち主だったのだとな」

 鈴は息を呑んだ。

「親の敷いたレールに無関心だったあの子がその時初めて『この娘だけは本気で手に入れたい』と狂おしいほどの執着を見せたのだ」

 源五郎は鋭い鷹のような目で鈴を射抜いた。

「たかが下級華族の娘に私の最高傑作がたぶらかされた。だから私は久我山の投資話を利用してお前の家に五萬圓の借金を負わせ、強引に引き離そうとしたのだ。……だが、景明は私に牙を剥いてまでお前を選んだ」

 すべてを察していた源五郎からの、事実上の敗北宣言だった。

 鈴は両手で顔を覆った。

 嘘から始まった関係だった。けれど、そこに嘘偽りのない本物の愛が芽生えていたことを鈴は今、魂の底から確信していた。

 鈴はゆっくりと立ち上がり、春の陽射しを浴びて、かつて帝都を牛耳った覇王を真っ直ぐに見据えた。

「大旦那様。……私は西園寺様がどのような過去を背負い、どれほど恐ろしい力を持っていようと……絶対に彼の手を離したりはしません」

 鈴の声は春風よりも澄み切り、そして誰よりも芯が通っていた。

「私は悲しみで心を壊したりはしません。景明様が戦場から帰ってくるたびに一番に“お帰りなさい”と笑って迎える、彼の絶対的な帰る場所になります。鳥籠の中で守られるだけの存在ではなく……彼の隣で共に歩む妻になります」

 その揺るぎない誓いの言葉を聞いた瞬間、源五郎は目を大きく見開き、やがて短く、だがどこか満足げな笑みを零した。

「……口で言うのは容易いぞ、小鳥遊の娘。お前が選んだのは修羅の道を往く男の隣だ。生半可な覚悟で務まるものではない」

「はい。命に代えても、お支えいたします」

「……ならば、証明してみせろ。私の最高傑作の隣に立つにふさわしい女だと。その命ある限り、あの子を支え抜いてみせろ」

 それは源五郎が鈴を“西園寺の人間”として、そして“孫の伴侶”として正式に認めた、不器用で厳格な彼なりの最大の賛辞だった。

「はい……! ありがとうございます、大旦那様!」

 鈴は深く、深く頭を下げた。太陽の下、白梅と紅梅の咲き誇る中庭で二人の間には血の繋がりを超えた、確かな家族としての絆が結ばれていた。

 しかし、光が強ければ強いほど、その背後に落ちる影もまた、濃く深く沈んでいく。

 鈴と源五郎が中庭で深い誓いを交わし合っていたその頃。陽の光の届かない、帝都の奥深い地下の暗闇の中で、血の如く赤い赫眼を光らせる複数の影が音もなく集結しつつあった。

「……見つけたぞ。西園寺の鬼の弱点であり……我らが大願の成就を阻む、目障りな“要石”の核を」

 低く、ひび割れた声が闇に溶ける。彼らは『赫夜』の幹部たち。帝都を破壊し混沌をもたらすことを至上命題とする彼らの視線の先には、西園寺本邸で陽射しを浴びて笑う鈴の姿が、狩猟者の標的として明確に捉えられていた。


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