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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第五章 覇王の承認と気高き白梅の覚悟
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第33話

 つい数刻前まで鈴は景明と共にまだ肌寒さの残る春先の公園で束の間の穏やかな時間を過ごしていたはずだった。

 花冷えの風が頬を優しく撫でる中、彼の隣を歩く満ち足りた幸せ。微かに触れ合う肩から伝わってくる、彼特有の力強い熱。しかし、その平和な風景は突如として飛来した一匹の“幾何学の蜂”、そして彼らを追って駆けつけてきた氷室の緊迫した報告によって足元から粉々に打ち砕かれてしまったのだ。

 触れるものすべてを無機質なガラスへと変質させる生命に対する悍ましい冒涜。

 氷室の血相を変えた顔と声が今も鈴の耳の奥で不吉な羽音の残響となってこびりついている。

 それはつまり、あの恐ろしい赫夜(かぐや)の呪いが数十、数百という規模でようやく春めいてきたこの大勢の人々が暮らす帝都の空へ放たれたということを意味していた。

「鈴、急ごう。屋敷へ戻る」

 景明の大きな手に庇われるようにして公園から急ぎ乗り込んだ車の車内は息が詰まるような絶対零度の緊張感に支配されていた。

 氷室は公園から直接、帝国陸軍・異能特殊部隊の屯所へと急行している。一刻も早く本部の部隊を再編成し、迎撃態勢を整えるためだ。

 規則正しいエンジンの駆動音と石畳を擦るタイヤの音だけが不気味なほど鮮明に鼓膜を打つ。車窓の向こうに流れる文明開化の象徴である赤煉瓦の街並みはすでに遠くで鳴り響き始めた軍の警戒警報のサイレンによって人々の笑顔や春の色彩を失い、まるで古い幻灯機のように色褪せて見えた。

 隣の座席からは鋭く冷ややかな空気が張り詰めた糸のように発せられている。

 鈴がそっと視線を横に向けるとそこには帝国陸軍少佐にして最強の異能部隊を率いる指揮官、西園寺景明が座っていた。

 軍服に身を包み、肩から羽織ったマントの真紅の裏地が車内の薄暗がりの中でも鮮烈な色彩を放っている。彫刻のように整った精悍な横顔は、先ほど春の公園で鈴に向けていた甘く柔らかなものとは完全に切り替わっていた。

 眉間には深い皺が刻まれ、夜の闇を凝縮したような漆黒の瞳には護るべき帝都を脅かした赫夜への底知れぬ怒りと研ぎ澄まされた殺意が宿っている。彼の身体から漂うのはいつもの深く静かな白檀の香りだ。しかし今はその香りの奥にこれから彼が身を投じるであろう血と硝煙の修羅の匂いが幻影のように混じって感じられた。

 彼から無意識に漏れ出す雷の異能が微かな静電気となって空気を爆ぜさせる音が聞こえる。

(西園寺様……)

 鈴は膝の上で白手袋に包まれた自分の手を握りしめた。彼の思考の邪魔をしたくない。けれど、張り詰めた彼の心に少しでも寄り添いたい。あの恐ろしいガラスの怪異が帝都を覆い尽くそうとしている今、彼がどれほどの重圧を背負っているのか、想像するだけで胸が締め付けられるようだった。

「……すまない、鈴。君を怖がらせてしまったな」

 鈴が躊躇いがちに自らの小さな手を彼の大きな手に重ねようとした瞬間、景明がふっと深く息を吐き、纏っていた鋭い冷気と雷の気配を無理矢理に押さえ込んだ。

 彼がゆっくりと顔を向けるとそこには冷徹な戦士の色はなく、ただ愛する女を案じる、春の陽だまりのような甘い光が宿っていた。

 景明は手袋を外した大きな手で鈴の手をすっぽりと包み込む。彼の手は不思議なほどに熱く、鈴の冷え切った指先から芯まで温めてくれるようだった。

 さらに彼は自らの厚いマントの片側を大きく広げ、鈴の小さな肩を覆い隠すように引き寄せた。真紅の裏地が鈴の身体を温かく守り、彼女は彼に抱き込まれるような形になる。

「いえ……私は大丈夫です。ただ、帝都の皆様がどうなってしまうのかと……。それに西園寺様がまた危険な目に遭われるのではないかと思うと……」

 鈴が震える声で呟くと景明は痛ましいものを見るような目で彼女を見つめ、その柔らかな髪にそっと額を押し当てた。彼から漂う白檀の香りが鈴の鼻腔を優しく満たしていく。硝煙や血の匂いとは無縁の途方もなく安心できる彼だけの匂い。

「安心しろ。帝都は私が護る。……だが、それ以上に、私にとって最も優先して護らなければならないのは君だ」

 景明の低い声が耳元を震わせる。その声には有無を言わせぬ絶対的な独占欲と失うことへの微かな怯えが入り混じっていた。

「氷室は今頃、屯所に戻り全軍の再編成を行っているはずだ。私もこのまま屯所へ入り、陣頭指揮を執らねばならない。……だから鈴。君には郊外の西園寺家の本邸へ避難してもらう」

「本邸、ですか……?」

 鈴は驚いて顔を上げた。郊外の西園寺家の本邸。そこは景明の祖父母である源五郎とタキが暮らす和風建築の母屋と広大な洋館を組み合わせた場所である。かつて景明が深すぎる愛情を受けて育った場所であり、何重もの強固な防護結界が張られているため、帝都の中心部よりも遥かに安全な場所であることは間違いない。

「ああ。あそこならば、権藤が目を光らせているし、結界の強度もこの邸とは比べ物にならない。……何より、あの幾何学の蜂の群れが飛び交う戦場に君を置いておくわけにはいかない」

 景明の大きな手が鈴の頬を優しく撫でる。その指先は酷く熱を帯びていた。

「ですが、西園寺様……!私の“修復”の力があれば少しでも皆様のお役に立てるかもしれません。足手まといにはならないように努力します。どうか、私を置いていかないで……!」

 鈴は必死に訴えかけた。彼女の異能は針と糸を媒体として、壊れたものを元通りにする力。かつては己の無力さに絶望することもあったが幾つもの恐ろしい危機を彼と共に乗り越えてきた今、彼女はただ守られるだけの存在でいたくなかった。

 しかし、景明は静かだけれど絶対に揺るがない意志で首を横に振った。その漆黒の瞳には血を吐くような悲痛な色が浮かんでいた。

「駄目だ。あの怪異は有機物を無機物へと変質させる。君の修復の力をも飲み込もうとする、恐ろしい呪いの塊だ。……君を最前線に立たせることなど、絶対にできない」

 景明は鈴をさらに強く、己の胸の奥底へ閉じ込めるように抱き寄せた。彼の厚い軍服越しに伝わってくる力強い鼓動が早鐘のように激しく打っている。

 帝都最強と謳われる男がこれほどまでに怯えている。鈴という存在を失うことを世界の終わりよりも恐れているのだ。

「あの洋館には眼光鋭い祖父もいる。君を不遇には扱わない。それに祖母も……私には昔から甘いからな。深い愛情を持って私を育ててくれた、優しい祖母だ。少々旧弊なところはあるが私が選んだ君をきっと大切にしてくれるはずだ」

 景明は自身が大切に育まれた記憶を辿るように穏やかな声で祖父母のことを語った。確かな温もりの中で育ったからこそ、今の彼には人間らしい優しさがあるのだ。それを聞いて鈴の胸の内にあった本邸への微かな不安は少しだけ和らいだ。

「……お願いだ鈴。私にこれ以上君を失う恐怖を味わわせないでくれ。君が安全な場所で待っていてくれるという事実だけが私が戦場で剣を振るうための唯一の拠り所なんだ」

「西園寺様……」

 その切実すぎる懇願に鈴の心は締め付けられた。一刻も早く、彼と共に平穏な暮らしを送りたい。そのためにこれほどまでに過酷な運命を二人で乗り越えてきたというのに。

 悔しさと焦燥感が鈴の胸を焦がすが彼の震える腕の力を感じれば、頷く以外の選択肢はなかった。

「……分かりました。私は本邸へ参ります」

 鈴が観念したように小さく息を吐き、彼の胸板にそっと頭を預けると景明は深い安堵の吐息を漏らし、彼女の額へ幾度も熱い口づけを落とした。

 車が西園寺邸の車寄せに滑り込むとそこにはすでに不穏な空気が漂っていた。

 エントランスの重厚な扉が開かれた瞬間、冬の残滓のような冷たい夜気とともに中から慌ただしい足音が響いてきた。

「旦那様!鈴様!お戻りをお待ちしておりました!」

 荷造りを終え、スカートの裾を翻しながら、若菜が血相を変えて駆け寄ってきた。鈴を心から慕う若菜は息を弾ませている。

「若菜さん……」

「氷室様からの急報を受け、鈴様のお荷物はすでにまとめ終わっております!すぐにでも本邸へ向かう手はずが整っております!」

 若菜が報告した直後、開け放たれたエントランスの扉から一枚の白い紙が鳥の形に折られた式神が羽ばたきながら飛び込んできた。

 式神は景明の目の前で停止するとそこから屯所にいる氷室の張り詰めた声が再生された。

「少佐。氷室です。すでに全小隊の再編成を完了し、第一種警戒態勢を発令しました。しかし市街地の一部ではすでに結界が破られかけており、多勢に無勢です。至急、屯所への帰還と陣頭指揮をお願いいたします。……なお、小鳥遊嬢の絶対護衛として、当隊より桜木をそちらの邸へ向かわせました」

 式神の声が途切れると同時に紙の鳥は青い炎を上げて燃え尽き、灰となって消えた。その直後、邸の門を潜り抜け、一人の軍人が足早にエントランスへと姿を現した。

「失礼いたします!」

 氷室が選抜した若手隊員、桜木だった。彼は催眠の異能を持ち、いざという時の戦闘力は部隊でも随一の実力者だ。普段はサボり癖のある飄々とした男だが、今は直属の上官である景明の前に立ち、軍人としての厳しい面持ちを一切崩さずにいる。

 桜木は景明と鈴に向かって、軍隊式の完璧で美しい敬礼をして見せた。

「桜木と申します。氷室大尉の命により、小鳥遊嬢の護衛として参上いたしました。道中の安全はこの命に代えましてもお守りいたします。……どうぞ、ご安心を」

 その真剣な眼差しと頼もしい言葉に張り詰めていた鈴の心が少しだけ解けた。彼と若菜が一緒ならば初めて訪れる本邸でも、きっと乗り越えられる気がした。

「桜木。それに若菜。……鈴を頼む。彼女の身に万が一のことがあれば、お前たちを氷漬けにして帝都湾に沈める」

 景明が絶対零度の声で言い放つと、桜木は背筋をさらに伸ばし、若菜も深く頭を下げた。

「承知いたしました、旦那様。鈴様は私の命に代えてもお守りいたします!」

 出撃の準備が整い、ついに別れの時が来た。エントランスホールに吹き込む花冷えの風が景明の服の裾を激しく揺らしている。

 景明は鈴の前に進み出ると周囲の目など一切気にすることなく、彼女を力強く抱きしめた。

「西園寺様……」

「……本邸の爺にはすでに連絡を入れてある。何不自由なく過ごせるはずだ。……君には寂しい思いをさせるが、どうか待っていてくれ」

 景明の大きな手が鈴の後頭部を包み込み、自らの肩へと押し付ける。鈴の鼻腔いっぱいに再びあの白檀の香りが広がった。甘く優しいその香りはこれから彼が赴く死と隣り合わせの戦場とはあまりにもかけ離れている。

「はい。……私、足手まといにはなりません。西園寺様にふさわしい妻になるためなら、どんなことでもやってみせます。ですから……」

 鈴は彼の背中に腕を回し、彼の感触を全身に刻み込むようにしがみついた。本当は行かないでほしいと叫び出したい気持ちをぐっと堪え、彼女は気丈に微笑んでみせた。

「どうか、ご無事で。無茶だけはなさらないでください」

「ああ。約束する」

 景明は鈴の耳元で熱を帯びた声で囁いた。

「私はこれから着替えて屯所へ向かい、帝都の闇を切り裂いてくる。……必ず迎えに行く。それまで祖父の結界の中でいい子にして待っていてくれ」

「……待っています」

 鈴の力強い返事を聞くと景明は目元を緩め、最後に彼女の唇へ、深々と、熱い口づけを落とした。それはまるで互いの魂を繋ぎ止めるような、切なくも力強い刻印だった。

 名残惜しそうに唇を離した景明は、エントランスの車寄せで待機している車へと鈴を促した。

「鈴様、参りましょう」

 若菜の声に支えられ、鈴は桜木に護衛されながら郊外の本邸へと向かう車に乗り込んだ。

 重厚なドアが閉まり、車がゆっくりと動き出す。車窓から振り返ると、これから戦地へ向かう身支度を整えるため、屋敷の奥へと振り返らずに歩みを進めていく景明の大きく頼もしい背中が見えた。彼が見えなくなるまで、鈴はただ静かに見送ることしかできなかった。

 やがて、春の夜空が微かに不吉な赤紫色に染まり始めているのが視界に入る。それは春の花霞などではなく、無数の怪異が放つ光と燃え上がる戦火の予兆。

 鈴は膝の上で祈るように手を組んだ。

(待っています。……必ず迎えに来てくださるその時まで)

 帝都の中心部から離れるにつれ、車窓から見える景色は赤煉瓦の立ち並ぶ近代的な街並みから芽吹きを待つ寒々しい木立が続く寂寞とした風景へと変わっていった。

 車の規則正しいエンジンの駆動音と砂利道をタイヤが踏みしめる音が車内の重苦しい沈黙を際立たせている。

 鈴は後部座席で膝の上に置いた自分の両手をきゅっと握りしめていた。彼女の視線の先には車の後方の窓ガラス越しに見える帝都の空がある。 本来ならば春霞のたなびく穏やかな夜空が広がっているはずのその方角は今や不吉な赤黒い光に染まり、時折、遠雷のような鈍い爆発音が地響きを伴って伝わってきた。あの燃え盛る空の下で彼女が誰よりも愛する景明が命を懸けて戦っているのだ。

(西園寺様……)

 鈴の脳裏に西園寺邸での別れ際に彼が見せた、切実な瞳と力強い抱擁の感触が蘇る。彼の身体から伝わってきた熱と鼓膜を震わせた力強い鼓動。そして、鼻腔をくすぐった静かで深い白檀の香り。

それらが今も鈴の五感に鮮明に残っているからこそ、彼が不在となった今の冷え切った空気がどうしようもなく不安で寂しかった。

「鈴様、お身体は冷えておりませんか?膝掛けをもう一枚……」

 隣に座る若菜が鈴の青ざめた横顔を心配そうに覗き込みながら、厚手の毛布をかけ直してくれた。若菜は過去の経験から人の細やかな感情の機微に聡い。鈴が今、どれほど心を痛め、不安に押しつぶされそうになっているかを痛いほど理解していた。

「ありがとう、若菜さん。私は大丈夫。それよりも……」

 鈴は無理に口角を上げ、安心させるように微笑もうとしたがその声は微かに震えていた。

「小鳥遊嬢。少佐のことは心配無用ッスよ」

 助手席から顔を出したのは桜木だった。彼は飄々とした笑みを浮かべる。

「俺たちの隊長は帝国陸軍が誇る“最強”ですからね。あの程度の怪異の群れ、少佐の氷と雷の異能にかかれば、あっという間に片付いちまいますって。俺たちが心配すべきは少佐の安否じゃなくて、むしろ……」

 桜木はそこで言葉を切り、進行方向へと視線を向けた。車は鬱蒼とした深い森の入り口に差し掛かっていた。鉄柵で囲まれた広大な敷地。その奥に目指す場所がある。

「……あの、とんでもなく分厚い“結界”の主たちのことッスよ」

 桜木が指差した先。目に見える壁があるわけではないが森の入り口には空気を歪ませるほどの強大な魔術的障壁が張られていた。

 車がその境界線を越えた瞬間、鈴は肌を刺すような微かな静電気の感触と水面を通り抜けるような不思議な抵抗感を感じた。直後、車内を満たしていた焦燥感や遠くから響いていた爆発音が嘘のように消え去り、森の木々が発する清浄で冷たい空気だけが鼻腔を満たした。外界のあらゆる悪意を遮断する絶対的な安全圏。

「すごい……。空気がまるで違う」

 鈴が驚きの声を漏らすと桜木も感心したように口笛を吹いた。

「いやはや、噂には聞いてましたけど、西園寺本邸の防護結界は桁違いッスね。これだけの規模を常時展開しているなんて、大旦那様と大奥様は一体どれほどの力を持ってるんだか……」

 深い森の木立を抜けると不意に視界が開けた。そこにそびえ立っていたのは江戸時代から続く純和風の瓦屋根を持つ巨大な母屋とその奥に増築された異質な赤煉瓦の洋館が融合した、奇妙な威容を誇る屋敷だった。

 それは足の自由を失った源五郎が車椅子で生活できるようにと設けられた歪なバリアフリー建築なのだが和と洋が入り混じるその独特の威圧感は西園寺家という一族が持つ圧倒的な財力と歴史の深さを無言で物語っていた。

 洋館部分に設けられた車寄せに車が滑り込むと重厚なマホガニーの玄関扉が音もなく開き、一人の初老の男が姿を現した。

「お待ちしておりました、鈴様。若菜さん。そして桜木殿」

 男は仕立ての良い漆黒の燕尾服を身に纏い、完璧な角度で深く一礼をした。西園寺家本邸の専属執事、権藤。通称、爺である。しかし、その丁寧な所作とは裏腹に彼の外見は極めて威圧的だった。筋骨隆々とした巨躯、鋭い眼光、そして何より目を引くのは額から頬にかけて走る刀傷の痕。どこからどう見ても裏社会の顔役か歴戦の猛者のような風貌である。

(権藤さん……。先日の祝賀舞踏会でご挨拶したけれど、やはり何度お会いしても凄い迫力だわ)

 鈴は内心で小さく息を吐いた。以前、景明が祖父の源五郎に呼び出された際に一度顔を合わせていたため、彼の外見と内面の温かなギャップを鈴は知っている。しかし、初対面である桜木や若菜に至っては、その凄まじい威圧感に完全に気圧されたように言葉を失っていた。

 それでも、顔を上げた権藤の瞳の奥には猛禽類のような鋭さの中に深い慈愛と心配性の色が滲み出ていた。

「道中、危険な目に遭われませんでしたか?帝都の空がひどく荒れていると報告を受けております。景明様は……いえ、大旦那様と大奥様がお待ちかねです。ささ、外は冷えます。中へどうぞ」

 権藤の野太くも驚くほど優しい声に鈴たちは安堵の息を吐き、車を降りた。

 エントランスホールに足を踏み入れると柔らかな暖色のガス灯の光と暖炉で爆ぜる薪の香ばしい匂いが一行を包み込んだ。床には足音が沈み込むほど分厚く毛足の長いペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁には歴史を感じさせる絵画やアンティークの調度品が整然と飾られている。外の寒さと緊迫した状況が嘘のようにここには豊かで穏やかな時間が流れていた。

 緊張がふっと解けたのか桜木がいつもの飄々とした調子を取り戻し、豪奢な花瓶を指先でツンツンと突いた。

「いやー、すんげえお屋敷ッスね!若菜さん、こんな高そうな壺、うっかり割ったりしないでくださいよ?もし割ったら、一生タダ働きでこき使われるッスよ」

「誰が割るっていうんですか!アナタこそ、そんなだらしない口を開けたまま歩いて、よだれを垂らさないようにしなさいよね!旦那様や鈴様に泥を塗ったら、私が承知しませんから!」

「痛っ!ちょ、若菜さん、ここで足を踏むのは反則ッスよ!」

 早速始まった二人の小競り合いに、鈴は思わず吹き出してしまった。彼らの賑やかなやり取りは鈴の強張っていた心を優しく解きほぐしてくれる。

「コホン。……こちらです」

 権藤が微かに咳払いをして案内した先は一階の奥にある広々とした応接室だった。部屋の中央には見事な細工が施されたアンティークのソファセットが置かれ、その奥、暖炉の火が最も暖かく届く場所に車椅子に座った源五郎がいた。

「よく顔を見せられたものだな、小鳥遊の娘」

 深い年輪を刻んだ顔に厳格で人を寄せ付けない冷ややかな表情を浮かべて鈴を迎えたのは景明の祖父、西園寺源五郎だった。

 銀に染まった髪は隙なく撫でつけられ、車椅子での生活を余儀なくされているとはいえ、その広い肩幅と背筋の伸びた姿勢からはかつて帝都の軍部を牛耳った強者としての凄まじい重圧が漂っている。

「や、夜分遅くに失礼いたします……」

 鈴は袴の裾を固く握りしめ、深く頭を下げた。

 源五郎は小鳥遊家に投資話で五萬圓もの負債を負わせ、自分を景明から強引に引き離そうとした張本人だ。その圧倒的な威圧感に足がすくみそうになるが鈴は決して逃げ出さず、凛と顔を上げて彼の瞳を見つめ返した。

 源五郎は車椅子の肘掛けを指先で叩き、鼻を鳴らす。

「……まったく、景明の奴も度し難い。帝都が未曾有の危機にあるというのに軍の指揮よりもたかが一人の女の安全を優先して、この私のもとへ強引に匿うよう手配するとは」

 言葉こそ冷たく刺々しいが鈴を真っ直ぐに見据える源五郎の瞳の奥には以前のような絶対的な拒絶の氷はなかった。

(……ふん。あの感情に乏しかった景明が私に牙を剥いてまで一人の女を守り抜こうとするとはな)

 源五郎の胸中に去来するのは孫への異常なまでの溺愛と己の庇護下から巣立とうとする寂しさだ。しかし同時にかつてないほど人間らしく、力強い意志を持って自分の前に立ちはだかった孫の成長を、その“変化”をもたらした目の前の少女の強さを、心の底では認めざるを得なかった。

「だが、ここが外界から遮断された最も安全な場所であることだけは確かだ。化け物共とて、この西園寺の結界は容易には破れまい」

 源五郎は険しい眉間をわずかに緩め、鷹のような鋭い視線を鈴から逸らした。

「……せいぜい、これ以上景明の気を揉ませぬよう、大人しくここで無事を祈っていることだな。我が孫が己の命を懸けて選んだ女ならば、その程度の覚悟はあるのだろう?」

 突き放すような物言いの中に隠された、不器用で遠回しな“身内の庇護”のニュアンス。

 冷たいと思っていた言葉の裏に景明と同じ不器用な優しさと愛情が微かに透けて見え、鈴は思わず小さく目を見開いた。そして張り詰めていた肩の力を抜き、深く、敬意を込めてお辞儀をした。

「……はい。ありがとうございます」

 鈴が不安に揺れる瞳で俯くと源五郎は車椅子の車輪を自ら回し、彼女の目の前まで進み出た。

「景明は強い。私や妻のタキが手塩にかけて鍛え上げた自慢の孫だ。あいつは必ず、帝都の闇を祓って君の元へ帰ってくる。だから君はここで堂々とあいつの帰りを待っていなさい」

 力強く、温かいその言葉に鈴の目頭が熱くなる。

 景明が言っていた通りだ。彼を育て上げた祖父は厳格な中にも海のように深い愛情を持った素晴らしい人物だった。

(……大奥様もきっとお優しい方に違いない)

「ええ、その通りですわ。景明は西園寺の次期…いいえもう当主権限を完全に与えたのでしたね。ならばあの程度の有象無象に後れを取るような柔な育て方はしておりません」

 鈴がそう確信して安堵の息を吐きかけた、まさにその時だった。応接室の重厚な扉が開き、凛とし、それでいて氷のように冷たく澄んだ声が室内に響き渡った。そこに立っていたのは一人の老婦人だった。

 源五郎よりも一回り近く年下である彼女は背筋を定規を当てたように真っ直ぐに伸ばし、隙のない完璧な着付けの和服を身に纏っている。白髪交じりの髪は美しく結い上げられ、顔には薄く上品な白粉が引かれていた。彼女から漂うのは高価な伽羅の香木の匂い。

 西園寺タキ。景明の祖母であり、この西園寺家を取り仕切る“大奥様”である。

「まあ、鈴さん。よくいらっしゃいました。長旅でさぞお疲れでしょう」

 タキは口元に上品な笑みを浮かべ、ゆっくりとした足取りで鈴に近づいてきた。その所作の一つ一つが絵画から抜け出してきたように洗練されている。

「お、お初にお目にかかります。小鳥遊鈴と申します。この度は……」

「ええ、挨拶は結構です。それよりも……」

 タキは鈴の言葉を遮ると応接室の入り口から廊下の奥へと鋭い視線を這わせた。

「景明さんは一緒ではないのですね?」

「はい、か、景明様は帝都の民を護るため、現地で陣頭指揮を執っておられます。私だけがこちらへ避難させていただく形となり……」

 鈴が申し訳なさそうに答えた瞬間だった。タキの纏っていた“上品で優しい貴婦人”の空気が、まるで熱湯が瞬時に凍りつくように一変した。

 彼女の背後から目に見えない般若の面が浮かび上がったかのような、凄まじいプレッシャーが放たれたのだ。

「ヒッ……!?」

 背後に控えていた桜木と若菜がたまらず息を呑んで一歩後ずさった。歴戦の猛者であるはずの権藤でさえ、冷や汗を流して視線を泳がせている。

「……そう。景明さんは帝都に残ったのですね」

 タキの声は先ほどまでの甘い響きを完全に失い、絶対零度の吹雪のように冷え切っていた。

 彼女は目を細め、上から下まで値踏みするように鈴の姿を舐め回す。その鋭い眼光は鈴が着ている衣服の質、立ち姿の重心、微かな指先の震えに至るまで全てを透かして見ているかのようだった。

「景明さんの前では嫌われたくない一心で口うるさい姑にはなりたくありませんでしたけれど、あの子がいないのなら遠慮はいりませんわね」

(えっ……?)

 鈴は我が耳を疑った。景明は車の中で「祖母のタキも私には昔から甘いから君を大切にしてくれるはずだ」と言っていたではないか。

「小鳥遊の令嬢。あなたが景明さんの心を支え、あの子に人間らしい温もりを与えてくれたことには西園寺の身内として感謝しております。……ですが、それとこれとは話が別です。今のあなたは我が西園寺の当主を支える伴侶としてはあまりにも未熟。軟弱。そして……世間知らずの箱入り娘です」

 伽羅の香りと共に放たれたタキの容赦のない言葉の刃が鈴の胸に鋭く突き刺さる。

「西園寺の女はただ夫の背中に隠れて守られているだけの存在であってはなりません。いかなる非常時においても、揺るがず、家を守り、夫を支える強さが必要です。……大方、料理一つ満足に作ったこともなく、屋敷の掃除や帳簿の計算なども使用人任せで生きてきたのでしょう?」

 図星だった。下級華族とはいえ、小鳥遊家は厳格な父のもとで体裁を重んじてきた子爵家である。卒業したとは言え、女学生だった鈴。“修復”の異能を乗せた刺繍や裁縫においてこそ達人級の腕前を持っていたが、それ以外の実務的な家事全般については完全に未知の領域だった。

「景明さんが命を懸けて戦っているこの時間……ただ部屋で泣いて無事を祈るだけの妻など、我が西園寺家には不要です。あなたが本当に景明さんの隣に立つ覚悟があるというのなら……私が直々に“西園寺の嫁”としてふさわしく、骨の髄まで鍛え直して差し上げます。……逃げ出したいのなら今のうちですよ?」

 タキの言葉は挑発的であり、暗に“あなたには無理だから諦めなさい”と告げていた。

 若菜が怒りに顔を赤くして一歩前に出ようとした。しかし、それよりも早く、鈴は真っ直ぐに顔を上げ、タキの鋭い視線を正面から受け止めた。

「逃げ出すつもりなど、毛頭ございません」

 鈴の声は震えていなかった。帝都で戦う彼に恥じない自分でありたい。ただ守られるだけの少女から共に運命を歩む伴侶になりたい。その決意が彼女の瞳の奥に確かな炎となって宿っていた。

「料理でも、掃除でも、なんであろうとやってみせます。景明様にふさわしい妻になるためなら、何度でも立ち上がり、どんな厳しいお教えにも食らいついてみせます。……ですから、どうか私をご指導ください!」

 鈴は床に手をつかんばかりの勢いで深く、深く頭を下げた。その迷いのない言葉と真っ直ぐな覚悟にタキはわずかに目を丸くし、やがて口元に面白そうな、しかし極めてサディスティックな笑みを浮かべた。

「……良い返事です。その意気込みがいつまで続くか見物ですね」

 タキは持っていた扇子を閉じ、高らかに宣言した。

「ならば明日から地獄の花嫁修業を開始します。……権藤、明朝四時にこの娘を起こしなさい。まずは厨房の竈門の火起こしと、邸中の床拭きからよ」

「畏まりました、大奥様」

 権藤が頭を下げる。その様子を車椅子から見守っていた源五郎は「やれやれ、タキの悪い癖が始まった」とばかりに苦笑し、微かに肩をすくめていた。

「若菜さん、桜木さん。私、頑張りますから!」

 鈴が背後を振り返って気丈に微笑むと若菜は「ああ、鈴様……なんて過酷な運命……」とハンカチを噛み締め、桜木は「……小鳥遊嬢、怪異と戦うより厄介な戦場に放り込まれちまったッスね。俺の催眠、姑にも効くッスかね?」と本気で心配そうな顔をしていた。

 案内された二階の客室は上質な羽毛布団が敷かれた豪奢な天蓋付きのベッドがあり、まるで王族の寝室のようだった。しかし、鈴の心はすでに明日の修業に向けた緊張と闘志で満ちている。彼女は窓辺に歩み寄り、冷たいガラス越しに、赤く染まる帝都の空をもう一度見つめた。

 以前、鈴が贈った麻の葉文様のお守りを今も大切に忍ばせて出撃していった景明の姿を思い出す。

 かつての過酷な戦いでも彼に寄り添い続ける、あの魔除けの文様がどうか今回も彼を凶刃から守ってくれますように。

(西園寺様。私はここで、私の戦いを始めます。ですから貴方もどうかご無事で……)

 強固な結界に守られた本邸の夜は更けていく。明日から始まる、タキによる予想だにしない過酷な洗礼を前に鈴は静かに、けれど強く両手を握りしめた。

 翌朝。東の空がまだ重苦しい闇に包まれ、三月初旬特有の身を切るような底冷えが一日の中で最も厳しくなる午前四時。

 静まり返った廊下に容赦のない硬質なノックの音が響き渡った。

「鈴様。朝でございます。大奥様がお待ちかねです」

 扉の向こうから聞こえてきたのは権藤の低く重みのある声だった。暖炉の火もとっくに消え、吐く息が白く染まるほど冷え切った客室のベッドで鈴は弾かれたように跳ね起きた。上質な羽毛布団の温もりにしがみつきたい誘惑を断ち切り、彼女はすぐに着替えを始める。

 用意されていたのは華やかな令嬢のドレスや矢絣の着物ではない。木綿の動きやすい筒袖の着物に濃紺のたすき、そして無骨な白い前掛けだった。それはこれから始まる過酷な労働、否、花嫁修業という名の洗礼を如実に物語る戦闘服だった。

(西園寺様は今頃、この冷たい空の下で戦っていらっしゃる。私が弱音を吐くわけにはいかない)

 鈴はたすきを締め上げると背筋を伸ばして部屋を出る。案内された先は一階奥にある広大な厨房だった。

 石造りの床からは底冷えする寒さが這い上がり、足の指先の感覚が麻痺しそうになる。巨大な黒光りする竈門がいくつも鎮座し、調理台にはまだ土のついた根菜や新鮮な魚が並べられていた。

「遅いですね。西園寺の朝は鶏が鳴くよりも早く始めなければなりません。当主がいついかなる任務に出立しようとも完璧な腹拵えをさせるのが妻の務めです」

 厨房の中央に隙のない着物姿で立つタキが氷のような視線で鈴を見据えていた。手には鋭い音を立てて開かれた扇子が握られており、彼女から漂う高価な伽羅の香木の匂いが冷たい厨房の空気と混じり合って異様な威圧感を放っている。

「申し訳ございません、大奥様。……本日は何から始めればよろしいでしょうか」

「まずは火起こしと朝食の支度です。……言っておきますが使用人の手は一切借りてはなりません。すべて、あなたのその手でやり遂げなさい」

 タキの言葉に鈴の後ろに控えていた若菜が息を呑んだ。

「お、大奥様!鈴様はこれまで包丁などまともに握ったことがございません!せめて火の扱いだけでも、この若菜がお手伝を!」

 若菜がたまりかねて前に出ようとする。しかしタキは扇子で若菜を制した。

「口出しは無用です、女中。ここは西園寺の厨房。甘やかしは通用しません。……それとも景明さんは戦地へ妻の女中まで連れて行くつもりだとでも?」

「うっ……それは……」

 ぐうの音も出ない正論に若菜は悔しそうに唇を噛み締めた。その横で護衛として同行している若手隊員の桜木がいつもの飄々とした態度を崩さずに肩をすくめる。

「まあまあ、若菜さん。これも愛のムチってやつッスよ。俺たちの隊長殿を射止めようってんだから、これくらいのハードルは越えてもらわねえと」

「アナタは黙ってなさい!鈴様のお美しい御手が荒れてしまったらどうするのよ!」

「いや、俺にキレられても困るんスけど……」

 小競り合いを始める二人を背に鈴は深く一礼し、竈門の前へと進み出た。

 第一の試練、料理。

 下級華族とはいえ、何不自由ない子爵令嬢として育った鈴にとって、台所仕事は完全に未知の領域だった。“修復”の異能を使った裁縫ならば目隠しをしてでも完璧にこなす自信がある。しかし目の前にあるのは布と針ではなく、薪とマッチと冷たく重い鉄の鍋だった。

「……やります」

 鈴は震える手でマッチ箱を手に取った。音を立てて擦るが火はつかない。何度も何度も擦り、ようやく小さな炎が灯ったと思えば薪の組み方が悪くてすぐに立ち消えてしまう。

 冷たい灰が舞い上がり、鈴の顔や真っ白な前掛けを黒く汚していく。鼻を突く煙にむせ返り、涙目で咳き込みながらも彼女は決して諦めなかった。

(西園寺様の手は……もっと、ずっと温かかった)

 景明の手の熱を思い出す。氷と雷の異能を持ちながら彼の手はいつも凍える鈴の心を溶かすように熱かった。彼が命を懸けて護ろうとしているこの日常を自分が守り支えられなくてどうするのか。

「……つ、つきました!」

 格闘すること三十分。ようやく竈門の奥で薪が燃え、力強い炎が上がり始めた。火の温もりが冷え切った厨房をじんわりと温め始める。

「火を起こしただけで満足している場合ではありません。次は米を研ぎ、魚を焼きなさい。焦がすことは許しませんよ」

 タキの容赦のない指示が飛ぶ。そこからの鈴はまさに戦場に放り込まれた新兵のようだった。氷水のように冷たい水で米を研ぎ、手は真っ赤に腫れ上がる。分厚い鰹節を削ろうとして指を切りそうになるがタキの「血を一滴でも食材に落としたら最初からやり直しです」という声に踏み留まる。重たい鉄のフライパンで卵焼きを作ろうとして、見事な黒焦げの塊を錬成してしまった。

 極めつけは魚焼きだった。火加減が分からず、立派な切り身が無惨にも炭の一歩手前まで黒焦げになっていく。厨房中を満たす焦げ臭い匂いに背後で見守っていた権藤が「ああっ……大旦那様のお好きな鮭が……」と小さな悲鳴を上げた。

「……これが、あなたの作った朝食ですか」

 一時間後。広大なダイニングテーブルの上に並べられたのはお世辞にも美味しそうとは言えない代物だった。水分が飛んで芯の残ったご飯。焦げた匂いのする出汁の薄い味噌汁。真っ黒になった魚。そして、原型を留めていない卵焼き。

 タキはそれらを一瞥すると箸をつけることすらせずに冷ややかなため息を吐いた。

「犬の餌にもなりませんね。これでは景明さんが戦地で力尽きてしまいます」

 その言葉はどんな鋭い刃よりも鈴の心を深く抉った。景明を支えるどころか、彼を死地へ追いやってしまうかもしれないという現実。自分の無力さが突きつけられ、鈴の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちそうになる。

「……申し訳ございません。私の、不徳の致すところです」

 鈴は深く頭を下げ、唇を噛み締めて涙を堪えた。ここで泣いてしまえば、本当に“役に立たない箱入り娘”として見限られてしまう。

「お言葉ですが大奥様!鈴様は今まで、一度も厨房に立たれたことがないのです!最初から完璧にできる人間などおりません!旦那様だって、最初から最強の異能者だったわけではないはずです!」

「……生意気な女中ですね。ですが戦場では“初めてだから”という言い訳は通用しません。敵は待ってくれないのです」

 たまらず若菜が前に出るものの、タキの鋭い視線が若菜を射抜く。その張り詰めた空気を打ち破ったのは車椅子の車輪の音だった。

「まあまあ、タキ。初日からそう張り詰めるな」

 車椅子の微かな駆動音と共に廊下から現れたのは源五郎だった。彼は無言のまま巧みに車輪を操り、テーブルに近づくと迷うことなく箸を取り上げた。そして鈴の作った真っ黒に焦げた魚の身を無造作に毟り、少しだけ口に運んだ。

「大旦那様!そ、そのような物を召し上がっては……!」

 権藤が慌てて止めようとするが源五郎は顔色一つ変えずにゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。

「旦那様!いくらなんでもお戯れが過ぎます。そのような得体の知れない炭の塊を……!」

 タキが柳眉を逆立てて咎めるが源五郎は短く鼻を鳴らした。

「勘違いするな、タキ。私は毒見をしてやっただけだ。……外は完全に炭だが中は辛うじて生煮えではないな。塩加減も悪くない」

 源五郎は箸を置くと鋭い猛禽類のような視線を鈴へと向けた。そこには相変わらず冷徹な評価の光が宿っている。

「小鳥遊の娘。見目も味も、到底西園寺の食卓に出せる代物ではない。だが……途中で泣き言を言って投げ出さなかった図太さだけは認めてやろう。火の粉や油跳ねを恐れて逃げ出すような軟弱者であれば、今すぐこの屋敷から叩き出そうと思っていたがな」

 それは決して優しい褒め言葉ではなかった。しかし、かつて軍の頂点に君臨した絶対者から引き出した、彼なりの不器用で遠回しな“及第点”の証だった。

「大旦那様……」

 鈴は驚きに目を丸くしながらも、その厳しい言葉の裏にある微かな歩み寄りを確かに感じ取り、深く頭を下げた。

「甘やかしてはなりません!……第一の試練は不合格です。次は掃除。この本邸の一階廊下、すべてを昼までに雑巾をかけなさい。チリ一つ残すことは許しません!」

 タキの厳しい宣告により、鈴の休む間もなく修業は続いていく。

 第二の試練、掃除。

 西園寺本邸は帝都の中心部にある別宅とは比べ物にならないほど広大だった。果てしなく続くように見える長い廊下は美しい木目の板張りだが冬の冷気で氷のように冷え切っている。

 鈴は袖をまくり上げ、冷水で絞った雑巾を手に四つん這いになって床を拭き始めた。

「いち、に。いち、に……」

 小さく掛け声をかけながら、懸命に腕を動かす。しかし、慣れない姿勢と冷たい水に体力を奪われ、次第に腕は鉛のように重くなっていった。膝は板張りに擦れて赤く腫れ、腰には鈍い痛みが走る。

「ああっ……鈴様、お膝が擦りむけております! もう見ていられません、私が代わります!」

 廊下の端で見守っていた若菜が、たまらずバケツを手に取ろうとする。

「いけません、若菜さん!」

 鈴は荒い息を吐きながら、若菜の手を制した。

「これは私の試練なのです。私が西園寺様にふさわしい妻になるための……。だから、手は出さないでください」

 その真っ直ぐで力強い瞳に若菜は言葉を失い、涙をこぼした。

「……小鳥遊嬢、あんた本当にド根性ッスね。見直したッスよ」

 壁に背を預けて立っていた桜木が感心したように口笛を吹きながら、周囲を見渡した。

「……でもまあ、大奥様も今はここにはいないみたいッスから。ちょっとくらい、俺の“催眠”で床の汚れを見えなくして……痛っ!」

 桜木の言葉が終わる前に若菜の容赦のない踵落としが彼のすねに炸裂した。

「アナタは馬鹿なの!?鈴様がせっかくご立派な覚悟を示されているのに泥を塗る気!?大体、アナタの催眠なんて大奥様の眼力の前じゃ一瞬で見破られるに決まってるでしょ!」

「いってえええ!いや、俺なりの親切心ッスよ!若菜さん、マジで容赦ねえな……」

 痛みに身悶えする桜木と仁王立ちで説教を始める若菜。二人の賑やかなやり取りに鈴は思わず笑ってしまった。彼らがこうして側にいてくれるだけで張り詰めていた心が少しだけ軽くなる。

「二人ともありがとう。でも、大丈夫」

 鈴が再び雑巾に手を伸ばそうとした、その時だった。疲労で足元がふらつき、床に置いてあった水入りのバケツに足を引っ掛けてしまった。

「あっ……!」

 派手な音と共にバケツがひっくり返り、冷たい水がせっかく磨き上げた廊下に勢いよく広がっていく。鈴の前掛けも、着物の裾も、泥水でびしょ濡れになってしまった。

「あ、ああ……」

 鈴は絶望的な表情で水浸しになった廊下を見つめた。あと少しで終わりそうだったのに。また最初からやり直しだ。

「……何をしているのですか。そのような体たらくで、よくもまあ“西園寺の妻になる”などと大口が叩けたものです」

 廊下の向こうからいつの間にか戻ってきていたタキの冷ややかな声が響いた。彼女は扇子で口元を隠し、冷徹な目で水浸しの床とずぶ濡れの鈴を見下ろしている。

「掃除ひとつ満足にできない。段取りも悪く、注意力が散漫。……下級とはいえ、華族の令嬢には西園寺の家風は重すぎたようですね。今すぐ小鳥遊の子爵邸へお帰りなさい。西園寺の妻としての重責は今のあなたには到底負えません」

 タキの冷たくも現実的な宣告が鈴の足元をすくうように響いた。

(帰る……?厳格なお父様のいる、小鳥遊の実家へ……?)

 鈴は微かに肩を震わせた。久我山の手から救い出され、借金の問題も解決して平穏を取り戻したとはいえ、実家に帰るということはこの婚約が完全に白紙に戻ることを意味している。

(あの不器用で誰よりも深く愛してくれる西園寺様のいない、元の生活に戻るなんて……絶対に嫌!)

 鈴は海老茶色の袴の裾を固く握りしめ、伽羅の香りが漂う冷たい空気の中で真っ直ぐにタキの目を見つめ返した。

「……帰りません」

 鈴は震える声で呟いた。

「え?」

 タキが怪訝そうに眉をひそめる。

 鈴は冷たい水で濡れた前髪を掻き上げ、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には涙は一滴もなかった。代わりに激しく燃え盛るような、強靭な意志の炎が宿っていた。

「帰りません。私は逃げません!」

 鈴は床から立ち上がり、濡れた着物の裾を強く握りしめ、タキを真っ直ぐに見据えた。

「料理を焦がそうが、水をひっくり返そうが、何度失敗しても、何度でもやり直します!景明様のふさわしい妻になるためなら、泥水でも這って進んでみせます!私は彼が帰る場所を守る女になりたいのです!」

 そのあまりにも気迫に満ちた叫びに廊下は水を打ったように静まり返った。

 若菜は両手で口を覆い、涙を流しながら「鈴様……!」と嗚咽を漏らしている。桜木も飄々とした笑みを消し、真剣な眼差しで鈴を見つめていた。

 権藤は感極まったように何度も力強く頷き、物陰でこっそり見守っていた源五郎は満足そうにしている。

 タキはしばらくの間、微動だにせず鈴を見つめ返していた。その冷徹な般若の面のような表情の奥底でほんのわずかに何かが揺らいだように見えた。

「……口先だけなら、誰でも言えます。ならば、そのド根性とやら、最後まで見せてもらいましょうか」

 タキは扇子を閉じ、冷たく言い放った。

「急いで廊下を拭き直しなさい。その後は休む間もなく、第三の試練です。……書斎へ来なさい」

 踵を返して歩き去るタキの背中に向かって、鈴は「はい!」と力強く返事をした。

 第三の試練、家計管理。

 洋館の二階にある重厚な革張りの本棚に囲まれた書斎。そこに案内された鈴の目の前に置かれたのは辞書のように分厚い、西園寺家の数ヶ月分の帳簿と山のような領収書の束だった。

「西園寺家は帝国陸軍の要であると同時に数多くの事業を束ねる財閥でもあります。当主の留守を守る妻にとって、金銭の管理は最も重要な責務。……さあ、今月の収支の計算に狂いがないか、この算盤を使って一厘の単位まで正確に計算し直しなさい」

 タキの指示に鈴は眩暈がするのを感じた。小鳥遊家は体裁を重んじる子爵家であり、金銭の管理はすべて厳格な父や執事が取り仕切っていたため、鈴自身が家計の数字と向き合う機会は皆無だった。

 女学校で算盤の基礎は習ったものの、鈴は元来、数字の計算が大の苦手なのである。ましてや目の前にあるのは帝国の経済を動かす西園寺家の膨大な帳簿。扱う金額の桁数からして次元が違った。

「あの……大奥様。私、女学校の授業程度しか算盤の経験がなく、このような複雑な帳簿は……」

「言い訳は不要です。やりながら実践で覚えなさい。それが西園寺の流儀です」

 言い訳は撥ね付けられ、鈴は途方に暮れた。しかし、先ほど自ら“何度でもやる”と宣言した手前、泣き言は言えない。鈴は震える手で算盤に触れ、見慣れない膨大な数字の羅列と格闘を始めた。

 一時間経過。二時間経過。

 書斎にはたどたどしい算盤の音と鈴の苦しげな吐息だけが響いていた。

「ええと、この桁が繰り上がって……ああっ、また最初から計算が合わない!」

 鈴の額からは脂汗が滲み出し、顔は知恵熱で林檎のように真っ赤に茹で上がっている。途方もない数字の海で溺れかけ、脳内は完全にショート寸前だった。

「だーっ!もう見てらんねえッス!」

 ついに限界を迎えたのか、背後で控えていた桜木が頭を掻きむしりながら前に出てきた。

「ちょっと失礼しますよ、小鳥遊嬢」

 桜木は鈴の横にしゃがみ込むと、彼女の代わりに算盤を弾き始めると目にも留まらぬ速さで玉が弾かれ、あっという間に帳簿の計算が終わっていく。

「さ、桜木さん!?だめよ、大奥様に見つかったら……!」

「いいんスよ!あのおっかない大奥様は今、爺さんのところにお茶飲みに行ってるッスから!今のうちに俺がサクッと終わらせて、小鳥遊嬢の手柄にしちまえばいいんスよ!」

「そんな誤魔化し、いけません!」

「鈴様、ここは桜木に任せましょう!使えるものは軍人でも使うのが賢い妻というものです!」

 若菜までが桜木に加勢し、領収書の仕分けを凄まじい手際で手伝い始めた。二人の呆れつつも全力のサポートに鈴は目頭が熱くなった。

「二人とも……ありがとう」

「お礼なんていいッスから!その代わり、隊長殿が無事に帰ってきたら、俺に特別ボーナス出すように口利きしてくださいよ!」

 桜木がウインクをすると若菜が「現金な奴!」と笑いながら彼の背中を叩いた。窓の外を見るといつの間にか空は夕茜色に染まり始めていた。過酷な花嫁修業の第一日目はボロボロになりながらも、彼らの温かいサポートによってなんとか乗り越えようとしていた。

 しかし、鈴の本当の才能が爆発し、タキを驚愕させることになる最後の試練、裁縫が明日に待ち受けていることをこの時の鈴はまだ知らなかった。

 増築された華やかな洋館から渡り廊下を抜けた先。純和風の母屋の最奥には広大で静謐な座敷が広がっていた。

 真新しい井草の青々とした香りが鼻腔をくすぐり、雪見障子越しに差し込む春先の柔らかな西日が畳の目を黄金色に染め上げている。大きな真鍮の火鉢からは上質な炭がはぜる微かな音とほのかな温もりが立ち上っていた。

 そこは歴代の西園寺家当主やその妻たちが心を静め、精神を統一するために使われてきた神聖な空間だった。

「これが、あなたに課す最後の試練です」

 上座に正座したタキの前に桐の箱が恭しく置かれた。

 彼女の細く白い指が真田紐を解き、蓋を開けると中から古い防虫香の匂いと共に一着の着物が姿を現した。

「これは……」

 下座に控えていた鈴は思わず息を呑んだ。それは漆黒の上質な絹地に西園寺家の家紋が金糸で誇り高く刺繍された、豪奢で格式高い男性用の着物だった。しかし、その状態は目を覆いたくなるほどに酷かった。

 長い年月の経過による生地の劣化はもちろんのこと、刀で斬り裂かれたような無数の痛々しい裂け目、黒く変色した血の痕、そして袖口や裾は無惨にほつれ、金糸の刺繍も半分以上が千切れてしまっている。

「西園寺家は代々帝都の闇と戦い続けてきた武門の家系。この着物は景明さんの曽祖父にあたる先々代当主がかつて凄惨な死闘の末に命を落とした際に身に纏っていたものです。……以来、誰の手にも負えず、修繕されることもなく、西園寺家の悲痛な歴史としてこの箱に封印されてきました」

 タキの声は冷たく、そしてどこか悲哀を帯びていた。

「料理も、掃除も、家計の計算も、あなたは西園寺の妻としての合格点には遠く及びませんでした。……しかし、その不器用な手で泥水にまみれながらも、決して諦めようとしなかったド根性だけは認めてあげましょう。ですが気力だけで当主を支えることはできません」

 タキは扇子を閉じ、鋭い眼光で鈴を射抜いた。

「西園寺の女は過去の傷を癒やし、未来へ紡ぐ強さを持たねばならない。……さあ、小鳥遊の令嬢。あなたのその手でこの西園寺家の誇りとも言える遺品を見事元通りに修繕してみせなさい。それができなければ、あなたはただの威勢の良い小娘。景明さんの隣に立つ資格はありません」

 それはあまりにも無謀な要求だった。ただのほつれ直しではない。生地そのものが限界を迎え、物理的に縫い合わせることすら困難なほど原型を留めていないのだ。一流の職人であっても匙を投げるに違いない代物だった。

 廊下で控えていた若菜と桜木がたまらず障子の隙間から身を乗り出した。

「お、大奥様!いくらなんでも無茶苦茶です! あんなボロ布……いえ、あのように傷み切ったお召し物を直すなど、神業でもない限り不可能です!」

 若菜が悲鳴のような声を上げる。

「そうッスよ!俺たちの隊長殿の嫁さんになるためのテストだってのに意地悪が過ぎるんじゃないッスか!?俺の異能で新品に見せかけちゃいましょうか!?」

 桜木が本気で袖をまくり上げようとするが鈴は彼らを振り返ることなく、静かに、けれど凜とした声で告げた。

「若菜さん、桜木さん。……大丈夫です。心配はいりません」

 鈴の横顔を見た瞬間、二人は息を呑んで動きを止めた。先ほどまで料理を焦がして灰まみれになり、雑巾がけで膝をすりむき、算盤の前で知恵熱を出して涙目になっていた、あのポンコツで危なっかしい令嬢の姿はそこにはなかった。

 鈴の瞳には一切の迷いがない。静かで、深く、それでいて揺るぎない自信に満ちた天才職人の眼差しがそこにあった。

「大奥様。……この修繕、謹んでお受けいたします」

 鈴は深く一礼すると桐の箱の前に進み出た。彼女は裁縫箱を開き、銀色の絹針と極細の黒糸、そして金糸を取り出した。

 そして白く小さな両手でそっと古い着物の生地に触れる。

(……痛かったでしょう。恐ろしかったでしょう。でも、貴方は最後まで愛する家族と帝都を護り抜いたのね)

 鈴の指先から着物に刻まれた過去の痛みと戦い抜いた者の誇りが伝わってくる。彼女は目を閉じ、生地の繊維一本一本の構造、かつてそこにあったはずの完璧な姿を脳内に鮮明に描き出した。

「……ふうっ」

 鈴が静かに息を吐き出した瞬間、座敷の空気が変わった。彼女の指先に挟まれた一本の銀針が春先の柔らかな西日を反射して鋭く光る。

 次の瞬間、鈴の手が目にも留まらぬ速さで動き始めた。静寂に包まれた和室に絹布を針が通る、心地よくも小気味良い音が響き渡り始める。

 それは彼女が愛する人を支えるために挑む静かで誇り高い戦いの音だった。

 彼女の紡ぐ温かな糸が古い着物の傷跡を優しく塞いでいたその頃、日が落ちた帝都の空の下では、彼女が帰りを待つ男もまた、己の死闘の幕を静かに下ろしていた。


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