第32話
三月中旬。帝都の空は薄紅色の霞がかかったように柔らかく、肌を刺すような冬の鋭い冷気はとうの昔に鳴りを潜めていた。
西園寺邸の広大な庭では見事な枝ぶりの梅の花が満開を迎え、開け放たれた窓から甘くふくよかな香りが春の風に乗って舞い込んでくる。遠くで囀る小鳥たちの声が新しい季節の訪れを祝福しているかのようだった。
「鈴様……本当にお綺麗です」
若菜が感極まったように鼻を啜りながら呟いた。鏡の前に立つ鈴は自分でも信じられないような面持ちで目の前の姿を見つめていた。
今日、彼女は通い慣れた女学校の卒業式を迎える。身に纏っているのは女学生の象徴でもある海老茶色の袴だ。しかし、その上に合わせられた着物はただの晴れ着ではなかった。景明がこの日のために帝都で一番の腕を持つ職人に特注したという至高の逸品だった。
春の陽だまりをそのまま掬い取って染め上げたような、淡く優しい鴇色の正絹。そこにはこれから咲き誇るであろう枝垂れ桜と可憐な春草たちの姿が繊細な刺繍で描かれている。金糸や銀糸が惜しみなく使われており、鈴がわずかに身じろぎするたびに絹が擦れ合う心地よい音と共に柔らかな光を反射していた。
帯を締められる微かな圧迫感。胸の奥が鳴るようなその苦しさすらも今日という日が特別な記念日であることを鈴の身体に刻み込んでいく。
足元には磨き上げられた革の匂いがする真新しい編み上げのブーツ。
鏡の中にいるのはかつて親の決めた政略結婚に反対し、家を飛び出したあの日の少女ではない。
頬には薄紅がさし、濡れたような髪は美しく結い上げられ、その瞳には揺るぎない光が宿る、一人の大人の女性への階段を上り始めた姿だった。
(……西園寺様が私をここまで導いてくださった)
少し前まで小鳥遊家は深い泥沼の中にあった。“腐食の毒”を操る久我山の這い寄るような悪意。実家を借金で絡め取り、父の命すらも奪おうとしたあの悍ましい日々。精神の最も脆い部分を抉られるような恐怖は今思い出しても肌が粟立つ。
だが、その絶対的な絶望の暗闇を打ち砕いたのは他でもない景明だった。彼は最強の異能者としての圧倒的な力と西園寺家当主としての絶大な財力をもって久我山の企みを根底から叩き潰した。 鈴の実家の借金は彼が一括で返済し、父の身体を蝕んでいた毒も完全に抜け、今ではすっかり快方に向かっている。
家も、家族も、そして鈴自身の心も、もう何も心配することはない。すべては彼がその大きな手で守り抜いてくれたからだ。胸の奥から込み上げてくる熱い感情が鈴の視界を微かに滲ませる。鼻の奥が刺激されるのを誤魔化すように鈴は小さく息を吸い込んだ。上質な白粉の香りと微かに引かれた紅の甘い匂いが肺を満たし、高鳴る鼓動を少しだけ落ち着かせてくれる。
「さあ、鈴様。旦那様が下でお待ちしております。きっと、お嬢様の晴れ姿をご覧になったら、旦那様は言葉を失うに違いありませんわ」
若菜の弾むような声に促され、鈴は「はい」と力強く頷いた。重厚なマホガニーの扉を開け、廊下へと足を踏み出す。階段の踊り場へと向かう道すがら編み上げブーツが硬質な足音を響かせる。 その音が鳴るたび、鈴の胸の鼓動も跳ね上がった。吹き抜けになった一階の広々とした玄関ホール。そこにはすでに出立の準備を整えた景明の姿があった。
正装に身を包み、肩には重厚な外套を羽織っている。背筋を伸ばしたその立ち姿はまるで一流の彫刻家が彫り上げた美術品のように完璧で一切の隙がない。高い鼻梁、鋭くも美しい切れ長の瞳。ただそこに立っているだけで周囲の空気が張り詰め、凡人であれば息をするのすら躊躇ってしまうような、圧倒的な威圧感を放っている。
だが、階段を下りてくる鈴の足音に気づき、彼が顔を上げた瞬間、その纏っていた空気が劇的に変化した。
「……西園寺様、お待たせいたしました」
鈴が階段の最後の一段を下り、はにかむように微笑みながら声をかけた。だが、景明からの返事はない。
「あの……西園寺様?」
不思議に思い、鈴が小首を傾げる。見ると景明は目を見開いたまま完全にフリーズしていた。瞬きすら忘れ、その瞳は頭の先から足先まで鈴の姿を文字通り穴が空くほど見つめている。彼が微かに息を呑む音が静寂に包まれた玄関ホールに響いた。
彼特有の冬の澄んだ夜気のような凛とした匂いと高貴な白檀の香りが漂ってくる。
(え……? なんだか様子がおかしいわ。やっぱり、私にはこんな上等な着物は似合わなかったんじゃ……)
不安に駆られた鈴が袴の裾を握りしめ、視線を泳がせた時だった。
「…………駄目だ」
地の底から絞り出すような、ひどく低く、そしてどこか切羽詰まった声が落ちた。
「え?」
「駄目だ。……絶対に行かせない」
景明は大きな歩幅で鈴に歩み寄ると、有無を言わさず彼女の華奢な手首をがっしりと掴んだ。手袋越しに伝わってくる彼の手は氷と雷の冷たい異能の持ち主であるにもかかわらず、火傷しそうなほどに熱かった。
「あの、西園寺様……?痛い、です……」
「あっ……す、すまない!」
鈴の微かな声に弾かれたように慌てて手を離すと景明は頭を抱えるようにして天を仰いだ。そして、帝都の悪党たちが聞けば震え上がるであろう“鬼少佐”の口から信じられないほど子供じみた、独占欲にまみれた言葉が飛び出したのである。
「……こんな姿を、他の男に見せるわけにはいかない」
「……はい?」
「卒業式など欠席しろ。いや、いっそ私が学校ごと買い取って、卒業証書だけをここに届けさせよう。そうだ、それが一番安全だ。君は今日一日、この邸から一歩も出るな。いや、私の書斎から出すわけにはいかない。誰の目にも触れさせたくない」
大真面目な顔で本気でそんなことを言い出し、傍らに控えていた部下の氷室に向かって「おい氷室、今すぐ女学校の理事長に連絡を」と指示を出し始めようとする景明に鈴はすっかり呆気を取られてしまった。しかし、すぐに彼がどれほど自分を想って、どれほど不器用なまでに独占欲をこじらせているのかを理解し、吹き出してしまった。
「ふふっ……あははっ!」
「す、鈴……? 何がおかしいんだ。私は至極真面目に君の身を案じて……」
「西園寺様ったら、本当に子供みたいです」
鈴は鈴を転がすように笑いながら、先ほど彼に掴まれていた手で今度は自分から景明の大きな手をそっと包み込んだ。剣ダコや銃ダコのある、無骨で逞しい手。この手がどれほど自分を優しく守り続けてくれたか。その温もりを掌から感じ取りながら、鈴はそっと言葉を紡いだ。
「……一番に見せたかったのは西園寺様です」
鈴は景明の目を真っ直ぐに見つめ、春の陽だまりのような、どこまでも優しく温かい微笑みを浮かべた。
「この美しい着物も、袴も……西園寺様が私のために選んでくださった大切な贈り物です。だから誰よりも先に貴方に見ていただきたかったんです。……似合って、いますか?」
上目遣いに尋ねる鈴の頬は照れくささでほんのりと桜色に染まっていた。その健気で愛らしい姿に景明は完全に打ちのめされたように深い、深いため息を吐いた。彼の瞳から先ほどの危険な独占欲の光が消え去り、代わりに甘く蕩けるような底なしの熱情が灯る。
「……似合うに決まっているだろう。君は本当に……私を狂わせる」
景明は堪えきれないというように息を吐き出すと鈴の腰を引き寄せ、その小さな身体を自身の広い胸板へと強く、けれど壊れ物を扱うように極めて優しく抱きしめた。
耳元で囁かれる重厚な低音。首筋に触れる彼の熱い吐息がくすぐったくて、鈴の身体が震える。軍服の固い生地越しにも伝わってくる彼の力強い心音が鈴の鼓動と重なり合っていく。白檀の高貴な香りと鈴から香る白粉の甘い匂いが溶け合い、玄関ホールは朝からむせ返るほど甘く、親密な空気に満たされていった。
「西園寺様……皆が見ています……っ」
腕の中で小さく抗議する鈴の言葉を景明は気にも留めない。
「見させておけばいい。君が私の婚約者であるということを、帝都中の人間に知らしめてやりたいくらいだ」
「もう……」
呆れたように呟きながらも鈴の腕は自然と景明の背中に回り、その温もりを抱きしめ返していた。
(この方の側にいられるのなら、私はどんな試練だって乗り越えていける)
窓の外から吹き込む春風が二人の門出を祝福するように優しく通り抜けていく。
◇
厳かで、けれど温かな空気に包まれた女学校の卒業式が無事に終わり、鈴は晴れて学び舎に別れを告げた。
式典の間中、保護者席の最後列で誰よりも鋭い視線を壇上に送り続け、校長ですら冷や汗を拭いながら証書を読み上げていたのはここだけの話である。
式を終えた二人は迎えの車には乗らず、春の気配に満ちた帝都の街を並んで歩いていた。柔らかな春の陽差しが赤煉瓦の立ち並ぶ通りを優しく照らしている。時折吹き抜ける風は冷たさを失い、代わりにどこからか梅の甘い香りを運んできた。
外套を羽織った長身の景明と鴇色の美しい着物に海老茶色の袴を合わせた鈴。すれ違う人々が皆、見惚れたように足を止め、ため息をつくほど非の打ちどころのない男女の姿だった。
「歩き疲れてはいないか?普段の着物とは勝手が違うだろう。足元が冷えたりしていないか」
景明は歩幅を鈴に合わせるようにゆっくりと歩きながら、ひっきりなしに彼女の体調を気遣う。その重厚な声には周囲の人間を威圧する“鬼少佐”の欠片もなく、ただ愛する婚約者を案じる過保護な男の響きしかなかった。
「ふふっ、大丈夫です。このブーツ、とても柔らかくて歩きやすいですから」
鈴は笑いながら、隣を歩く景明を見上げた。彼の気遣いが嬉しくて、自然と足取りも軽くなる。
「そうか……。なら良いのだが。無理はするなよ」
「はい。……あ、西園寺様。あそこ……」
鈴がふと足を止め、通りの一角を指差した。そこにあったのは瀟洒な西洋建築の構えを見せる喫茶店、カフェ・パウリスタだった。以前、過保護な彼に鈴が「嘘つき」とわがままを言い、無理を言って連れてきてもらった思い出のカフェである。扉を開けると郷愁を誘うベルの音が鳴り、芳醇で深い焙煎珈琲の香りが鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃい……おや」
カウンターの奥から顔を出したのは白髪をオールバックに撫でつけ、立派なカイゼル髭を蓄えた老紳士だった。職人気質で無愛想なことで知られるこの店主は、入ってきた客の顔を見るなり動きを止めた。
鋭い眼光を放つ軍人と春の妖精のように愛らしい女学生の組み合わせ。だが、店主の目を引いたのは二人の容姿の美しさだけではない。二人の間に流れる、触れれば溶けてしまいそうなほど甘く、そして絶対的な信頼で結ばれた親密な空気だった。
店主はかつてこの二人が店を訪れた時のことをよく覚えていた。少女を守ろうとするあまり異常なほど過保護になり、店ごと貸し切ろうとまでした不器用な男。
そして、そんな彼を半ば強引に引っ張ってきた様子の愛らしい少女。あの時はどこか張り詰めた空気が漂っていたがそれが今や、どうだ。男が纏っていた殺気立つような警戒心はすっかり甘く蕩け、その瞳はただ熱烈に少女だけを映し出している。少女もまた、自分のわがままを丸ごと包み込んでくれる男に全幅の信頼を寄せて微笑んでいた。
「……奥のサンルームが空いている。そちらへどうぞ」
普段は特別な贔屓客にしか通さない特等席を店主は無愛想な声のまま、しかし口元には微かな笑みを浮かべて勧めた。
「よろしいのか?感謝する」
景明が短く礼を言い、鈴の背中にそっと手を添えて奥へとエスコートする。案内されたサンルームは店の喧騒から切り離された静かな空間だった。天井と壁の半分がガラス張りになっており、春の暖かな陽光がさんさんと降り注いでいる。真新しい純白のテーブルクロスが眩しく光り、卓上に飾られた一輪のフリージアが甘く爽やかな香りを漂わせていた。
席につくと程なくして注文した品が運ばれてきた。
景明の前には漆黒の液面から立ち昇る湯気が美しい、淹れたての珈琲。そして鈴の前にはたっぷりのミルクが注がれた温かい紅茶と大正ハイカラの象徴とも言える洋菓子、シベリアが品よく銀の皿に盛られていた。
「わあ……っ」
鈴の瞳がたちまち星を散らしたように輝きを放つ。ふんわりと焼き上げられた黄金色のカステラに漆黒の羊羹が美しく真っ直ぐに挟み込まれている。その地層のような美しい断面は見ているだけで心が躍る芸術品のようだった。
「以前来た時は君は緊張して味も分からなかっただろうからな。今日は心ゆくまで楽しむといい」
景明が珈琲のカップを傾けながら、目尻を下げて微笑む。
鈴は「いただきます」と両手を合わせると銀の小さなフォークでシベリアを切り分けた。一口サイズのシベリアを口に運ぶ。ふんわりとしたカステラの卵の優しい風味としっとりとした羊羹の濃厚な小豆の甘さが口の中で絶妙に絡み合い、とろけていく。
「んんっ……美味しいです……!」
思わず頬に手を当て、至福の吐息を漏らす鈴。そのあまりにも幸せそうな顔を見て、景明の喉の奥から低い笑い声がこぼれた。
「そんなに美味しいか」
「はい! カステラはフワフワで、羊羹はしっとりしていて……甘くて、本当に美味しいです。西園寺様も一口いかがですか?」
鈴はそう言うと、フォークで切り分けたシベリアを無意識に景明の口元へと差し出していた。直後、鈴は自分の大胆な行動に気づき、顔を赤くする。
(し、しまった……!いくらなんでも、はしたなかったわ……!)
慌てて手を引っ込めようとした鈴だったが景明の大きな手が鈴の小さな手をそっと包み込むようにして止めた。
「あ……」
「……いただくよ」
景明は鈴から視線を外さず、差し出されたフォークから直接シベリアを口へと含んだ。咀嚼し、嚥下するまでの間、彼の漆黒の瞳は獲物を捕らえるかのように熱く鈴を見据えている。その視線に射抜かれ、鈴の心臓が大きく跳ねた。
「……ああ。確かに信じられないほど甘いな」
低い声で囁かれたその言葉は果たして菓子の味を指しているのか、それとも鈴自身に向けられたものなのか。微かに開かれた景明の唇の色気が凄まじく、鈴は恥ずかしさのあまり俯いてしまった。
「あ、あのっ……私、一人で食べますから……!」
「鈴」
「ひゃいっ!?」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げた瞬間、景明の顔がすぐ目の前まで迫っていた。彼から漂う白檀の香りと微かな珈琲の苦い匂いが鈴の嗅覚を支配する。
「口元にカステラの欠片がついている」
そう言うや否や、景明の長い指先が鈴のふっくらとした唇の端にそっと触れた。軍の訓練で鍛え上げられた指の硬い感触。しかし、肌をなぞるその動きは羽毛のように優しく、ひどく扇情的だった。指先が触れた部分から熱が全身に広がっていくのが分かる。
「っ……、あ、ありがとうございます……」
顔から火が出そうになりながら、鈴は小さく身を縮こまらせた。このサンルームの空間だけがまるで真夏のように熱く感じられる。
甘い菓子とそれ以上に甘い時間。シベリアを食べ終え、紅茶で一息ついた頃合いを見計らい、景明は居住まいを正した。
「鈴」
先ほどまでの甘やかな響きとは違う、真摯で少しだけ緊張を孕んだ低い声。
景明は懐から上質な桐箱を取り出し、テーブルの上で静かに蓋を開けた。
「あっ……」
鈴は小さく息を呑んだ。白紅絹の布の上に鎮座していたのは息を呑むほどに美しい簪と櫛だった。
上質な鼈甲で作られたその品には緻密な透かし彫りが施されている。簪には鈴の着物の柄と同じ枝垂れ桜が。櫛には途切れることのない永遠の絆を意味する“七宝繋ぎ”の文様が職人の神業によって立体的かつ繊細に彫り込まれていた。それはサンルームの光を受けて、飴色の鼈甲が潤んだような艶めきを放っている。
「卒業、おめでとう」
景明の深く響く声がサンルームの静寂に落ちた。
「西園寺様、これは……」
「私からの卒業祝いの品だ。君が学生という肩書きを下ろし、大人の女性として……そして、私の妻として、新たな道を歩き始めるための守り刀の代わりだ」
妻として。その言葉の重みと響きに鈴の胸の奥が締め付けられるように熱くなった。
景明は席を立ち、鈴の背後へと回った。
「動かないでくれ」
耳元で囁かれる重厚な声。
景明の大きく温かい手が鈴の結い上げられた髪にそっと触れる。彼の指先が髪を梳くたびに甘い痺れが背筋を駆け上がった。そして、ゆっくりと桜の簪が鈴の横顔を彩るように丁寧に飾られた。
「……完璧だ」
景明の声は感嘆の溜息と共に吐き出された。彼は鈴の肩越しに顔を寄せ、その髪飾りが似合う愛おしい横顔を見つめる。
「君は私の誇りだ。君がどんな困難にも負けず、美しく咲き誇る姿を見るのが……私の何よりの喜びだ」
景明の顔が近づき、彼の唇が鈴の髪の生え際に微かに触れた。それは言葉以上に雄弁な、彼からの深く重い愛情の証明。
「西園寺様……ありがとうございます。私、この簪と櫛を一生大切にします。貴方の妻として恥じないように……」
振り返り、景明を見つめ返す鈴の瞳にはうっすらと感動の涙が浮かんでいた。
サンルームに差し込む春の光が簪の桜を輝かせる。それは凄惨な闇を抜け出し、ようやく掴み取った“初恋”が確かな未来へと結実していく、甘く尊い時間だった。
カフェ・パウリスタの重厚な扉を開けると郷愁を誘う真鍮のベルの音が鳴り響き、背後で深く豊かな焙煎珈琲の香りがふわりと見送ってくれた。
一歩外へ踏み出せば、そこは春の活気に満ちた帝都の街並みだ。赤煉瓦の建物の間を吹き抜ける風はどこまでも柔らかく、すれ違う人々の話し声や遠くで響く路面電車のレールを擦る音が心地よい生活の音楽となって鈴の耳に届く。
鈴の髪には先ほど景明から直接挿してもらった枝垂れ桜の簪が歩くたびに微かな重みをもって揺れている。そして彼女の両手にはもう一つの贈り物である美しい鼈甲の櫛がまるで宝物のように大切に握りしめられていた。
髪越しに伝わる簪の冷たく滑らかな感触と、掌の熱を帯びていく櫛の温もり。その二つが景明の深い愛情の証であるという事実が胸の奥で反響し、陽だまりのような温もりを生み出していく。
「どうかしたのか? 先ほどから自分の髪と手元の櫛ばかり気にしているようだが」
隣を歩く景明が鈴の様子に気づいて低く優しい声をかけた。彼を見上げるとその黒曜石のような瞳が愛おしいものを眺めるように細められている。
「あ、いえ……。なんだか、まだ夢を見ているみたいです。私の髪にこんなに素敵な飾りがついていて、手には貴方からいただいた立派な櫛があるなんて……信じられなくて」
頬を染め、恥ずかしそうに手元の櫛を握り直す鈴。その初々しい反応に景明は喉の奥で低く笑い、鈴の肩をそっと抱き寄せて自分の隣へと引き寄せた。
「夢ではない。君は今、紛れもない現実を生きている。そして君の隣には私がいる。……簪、とてもよく似合っているぞ。その櫛もそうして君に大事に抱えてもらえて本望だろう」
「西園寺様……」
軍服越しに伝わってくる彼の体温。冬の澄んだ夜気のような凛とした匂いにかすかに混じる白檀の香りが鈴の嗅覚を優しく支配する。
二人は互いの体温を感じ合いながら、帝都の喧騒を抜けて、広大な敷地を持つ公園へと足を踏み入れた。
公園内は見頃を迎えた梅の花が咲き乱れていた。視界の端から端まで白や薄紅色、そして鮮やかな紅色の花びらが幾重にも重なり合い、まるで春の霞がそのまま地上に降り立ったかのような幻想的な景色が広がっている。
梅の木々の間を縫うように歩を進めると咽せ返るほどの甘くふくよかな香りが全身を包み込んだ。足元の柔らかい土と春草を踏みしめる音が二人の心臓の鼓動と静かに重なり合っていく。
(ずっと、こんな風に……穏やかな時間が続けばいいのに)
鈴は景明の横顔を見つめながら、心の中でそっと祈るように呟いた。借金と毒の恐怖に怯えていたあの暗闇の日々が嘘のように今の彼女の世界は光と色彩に満ち溢れている。
だが、その甘く幸福な時間は唐突にそして暴力的なまでに断ち切られた。
「…………ッ!」
景明の革靴が土を強く擦り、彼の長身が動きを止めた。彼に寄り添うように歩いていた鈴も慌てて足を止める。
「西園寺様……?」
不思議に思い、彼を見上げた鈴は一瞬にして全身の血の気が引くのを感じた。先ほどまで鈴を愛おしげに見つめ、甘く蕩けるような微笑みを浮かべていた婚約者の顔はそこにはなかった。
瞳孔は針のように細く収縮し、口元は冷酷な一直線に結ばれている。背筋を貫くような絶対零度の殺気。それは数多の戦場を駆け抜け、帝都の闇に潜む敵を容赦なく叩き潰してきた帝国陸軍の修羅、“鬼少佐”としての冷徹な横顔だった。
「西園寺、様……?」
鈴の声が微かに震える。
景明は鈴の呼びかけには答えず、ただ無言で彼女の華奢な肩を強く掴むと有無を言わさず自身の広い背中へと隠した。
重厚な軍の外套が翻り、鈴の視界が景明の大きな背中によって遮られる。彼から発せられる空気が春の暖かさを瞬時に凍りつかせるような極寒の異能の波動へと変貌していくのが分かった。
「……下がっていろ、鈴。決して私から離れるな」
地の底から響くような低く、重い声。帝都最強の異能者である彼にしか感知できない、研ぎ澄まされた“闘争の本能”。彼の細胞一つ一つが空間に生じた微かな“歪み”に対して警鐘を鳴らしていたのだ。
何かがおかしい。空気が軋み、不協和音を立てている。
景明の鋭い視線の先。公園の少し奥まった場所にある、ひときわ大きく枝を張った一本の古い梅の木。風に揺れる満開の花弁の只中に“それ”は異物として存在していた。
「……あれは、なんだ……?」
景明の喉から微かな警戒を含んだ声が漏れる。
鈴も景明の背中越しにそっと視線を向けて、息を呑んだ。梅の枝に止まっていたのは 一匹の異様な蜂だった。だが、それは自然界に生きる生命体では決してない。丸みを帯びた胴体も、背中に生えた羽も、すべてが教会のステンドグラスのように透き通った硬質な物質で構成されていた。
ガラス細工のようにも見えるその表面には自然の造形とはかけ離れた、冷たく無機質な“幾何学模様”が緻密に刻み込まれている。春の陽光を浴びたその姿は周囲の景色を不気味に乱反射し、虹色の歪んだ光を散らしていた。
まるで壊れた機械がショートしているような、耳障りな異音が空間に響く。その不気味な蜂が透き通った幾何学模様の羽を細かく震わせた、その時だった。羽の先端がすぐ隣で咲き誇っていた美しい薄紅色の梅の花に触れた瞬間、柔らかく、瑞々しい命の温もりに満ちていたはずの花弁が不自然な速度で色を失い、白く透き通っていく。
水分が奪われ、細胞が瞬時に別の物質へと書き換えられていくような悍ましい光景。薄紅色の梅の花は瞬きする間に硬質なガラスの結晶体へと変化してしまった。
硝子が砕け散るような、高く無機質な絶望の音が鳴り響いた。結晶化した梅の花は蜂が羽ばたく風圧に耐えきれず、粉々に砕け散った。無数の鋭い欠片となって宙を舞い、地面に落ちる前に光の粒子となって虚空に消滅していく。
(……命あるものがガラスになって……砕けた……!?)
鈴は恐怖のあまり、無意識に景明の外套の裾を握りしめた。それは単なる毒や物理的な破壊ではない。現実世界の“法則”そのものを書き換え、命を無機物へと変質させて消滅させるという神の領域を侵すような冒涜的な現象だった。
「……人工的に造られた幾何学の怪異……」
景明の唇から呪いのような言葉が紡がれる。久我山の背後に潜んでいた謎の組織“赫夜”。他者に異能を与え、人の精神を弄ぶだけでは飽き足らず、ついには現実の法則すらも歪めようとしているのか。甘く優しい初恋の余韻は完全に吹き飛んでいた。
梅の木に止まった幾何学の蜂が不気味な複眼をゆっくりと景明と鈴の方へと向け、再び羽を震わせ始めた。
狂った歯車が空回りするような、耳を劈く異音。梅の木に止まっていた幾何学の蜂が透明な羽を限界まで震わせ、空中に浮かび上がった。その無機質な複眼が一直線に景明の背後に隠れる鈴を捉えているのがわかる。
(来る……っ!)
鈴の全身が恐怖で強張り、息が喉の奥で凍りついた。命あるものを一瞬にしてガラスの結晶へと変え、粉々に砕き散らす冒涜的な力。もしあれが自分や景明の身体に触れたらどうなるのか。想像するだけで心臓が冷たい手で鷲掴みにされたような悪寒が背筋を駆け上がる。
だが、その絶望が形を成すより早く、鈴の目の前に立つ最強の庇護者が動いた。
「……私の婚約者にその汚らわしい羽音を向けるな」
地獄の底から響き渡るような、絶対零度の怒りを孕んだ声。
景明は外套を翻し、鈴を背中で完全に庇いながら、右手の人差し指を前方へ突き出した。瞬間、彼の指先を中心にして周囲の空気が急激に収縮した。空気が焼け焦げるような鋭い匂いと共に景明の指先から、青白く眩い光の束が生まれ出た。それは彼が操る雷の異能。しかし、戦場で敵を薙ぎ払うような荒れ狂う雷鳴ではない。
極限まで圧縮され、針のように細く研ぎ澄まされた、極小にして精密極まりない一撃。公園の木々や周囲にいるかもしれない人々に一切の被害を出さないための、神業とも言える異能の制御だった。
「消え失せろ」
短い詠唱の代わりのような、冷酷な宣告。刹那、景明の指先から放たれた青白い閃光が音を置き去りにして虚空を切り裂いた。閃光は鈴たちに向かって突進してこようとしていた幾何学の蜂の眉間、その極小の核と思われる部分を寸分の狂いもなく射抜いた。
ガラスの塊が内部から爆発したような、甲高く無機質な悲鳴が空間に響き渡る。閃光に貫かれた蜂は空中でピタリと動きを止めた。
次いでその透き通った身体の内側から青白い雷光を溢れさせ、乾いた破裂音が鳴り、蜂の身体が文字通り粉々に粉砕される。飛び散る無数の破片。しかし、それらが地面に落ちることはなかった。
「……あれは……?」
景明の背中越しにその光景を見つめていた鈴は、信じられないものを見るように目を丸くした。空中で砕け散った蜂の残骸。その破片がチリとなって消滅していく直前、空中に一瞬だけ、焼け焦げたような紋章が浮かび上がったのだ。
それは幾つもの線と円が複雑に絡み合った冷たく無機質な“幾何学模様のエンブレム”。かつて久我山を操り、彼に腐食の毒という異能を与えた謎の組織、赫夜の象徴。
そのエンブレムはまるで自らの存在を誇示するかのように一瞬だけ虚空に焼き付き、すぐに黒い灰となって春の風に吹き流され、完全に消滅した。辺りにはただ満開の梅の甘い香りと微かな焦げ臭さだけが残された。
静寂を取り戻した公園。しかし二人の間に流れる空気は、先ほどまでの春の陽だまりのような暖かさとは無縁の凍てつくような緊張感に支配されていた。
「……お怪我はありませんか、少佐。それに小鳥遊嬢様も」
不意に二人の背後の空間が揺らぎ、影の中から滑り出るようにして氷室が姿を現した。彼の切れ長の瞳は眼鏡の奥で鋭く光り、普段の冷静沈着な態度の中にも隠しきれない焦燥の色が滲んでいる。
「氷室……。遅かったな」
「申し訳ありません。周囲の結界と一般人の認識阻害に少々手間取りました。それよりも……」
氷室は先ほど蜂が消滅した虚空へと鋭い視線を向けた。
「今のが、例の……」
「ああ。間違いない。久我山を操っていたあの組織の差し金だろう」
景明は右手の中にある残熱を握り潰すようにゆっくりと拳を固めた。その横顔は愛する婚約者との穏やかな時間を穢された激しい怒りと見えざる敵への警戒に満ちている。
「あれはただの異能者ではない。あいつらは現実の法則すら書き換えようとしている。先ほど、あの蜂が触れた梅の花がガラスの結晶に変わって砕け散った」
「命あるものを無機物へと変質させる……。神への冒涜も甚だしいですね」
氷室は苦々しげに顔を顰めると手にした軍用の手帳をパラリと開いた。
「少佐。事態は我々が想定していたよりも遥かに深刻かもしれません。……先ほど、本部から緊急の暗号通信が入りました」
「何があった」
「帝都のあちらこちらで先ほどの蜂と同じような“人工的に造られた幾何学の怪異”が突如として羽化し始めているとのことです」
その報告に、鈴は息を呑んだ。“帝都のあちらこちらで”。つまり、あの恐ろしい、触れるものすべてをガラスに変えてしまう蜂やそれに類する怪異たちが大勢の人々が暮らすこの帝都の空を飛び回り始めているということか。
「……数は?」
「現時点で確認されているだけで数十。しかし、水面下で羽化を待っている“蛹”のような状態のものがどれだけ潜んでいるか見当もつきません。本部からは直ちに部隊を再編成し、怪異の駆除と赫夜の手がかりを追うよう命令が下っています」
氷室の報告を聞きながら、景明の纏う空気がさらに一段と冷たく、鋭く研ぎ澄まされていく。彼から漂う白檀の香りが今はどこか血の匂いと硝煙の匂いを纏っているように感じられ、鈴は無意識に自分の肩を抱いた。
(赫夜……。彼らは一体、何を企んでいるの?)
久我山に異能を与え、小鳥遊家を乗っ取ろうとしたのはほんの序の口に過ぎなかった。彼らの真の目的は単なる金銭や権力の簒奪ではない。現実世界の法則そのものを自分たちの手で書き換え、この帝都を、いや、世界そのものを彼らの狂った幾何学の盤上に作り変えること。
その底知れない不気味さと圧倒的なスケールの悪意が春のうららかな陽光の下で深淵の口を開けて待っていた。
「……鈴」
不意に景明が振り返り、鈴の肩を両手でしっかりと掴んだ。その瞳には帝都を守る軍人としての冷徹な意志と、一人の女性を愛し抜く男としての狂おしいほどの情熱が入り混じっていた。
「怖い思いをさせてすまない。だが、聞いてくれ」
景明の大きく温かい手が鈴の頬を優しく包み込む。先ほどの雷を放った恐ろしい手と同じものとは到底思えない、とろけるような優しさがそこにあった。髪に挿された桜の簪が彼の手の動きに合わせて微かな音を立てる。
「帝都で何が起きようと、たとえ世界がひっくり返ろうと……私だけは絶対に君を守り抜く。君の髪の毛一本、あの幾何学の化け物たちには触れさせない」
「西園寺様……」
「君は私の婚約者だ。私が命に代えても守る、たった一人の女性だ。だから……どうか、私を信じて側にいてほしい」
切実な、祈るようなその言葉に鈴の胸の奥に渦巻いていた恐怖の暗雲が晴れていくのを感じた。
(……そうだ。私にはこの方がいる。帝都最強の、そして誰よりも私を愛してくださる、私の旦那様が)
鈴は景明の手に自分の手を重ね、力強く頷いた。
「はい。私はもう、逃げません。貴方の婚約者として、いいえ、妻として貴方と共に……この試練に立ち向かいます」
その凛とした鈴の瞳に景明は深く安堵したように微笑み、彼女をもう一度強く抱きしめた。
春の陽気に包まれた、甘く幸せな初恋デート。しかし、その美しい花霞の裏側では、世界を書き換えようとする悍ましい怪異の羽音が確実に帝都の空を侵食し始めていた。
彼らの真の戦いが幕を開けたその瞬間、今までうららかな春の光を落としていた三月の空が、急にその色を失ったように見えた。
女学校を無事に卒業し、厳しい冬の寒さも緩んでようやく柔らかな春の訪れを感じ始めていた帝都。しかし、今の空は花曇りというにはあまりにも重く、まるで巨大な無機質の硝子の蓋が、街全体を暗く冷たく押し潰そうとしているかのようだ。




