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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第五章 覇王の承認と気高き白梅の覚悟
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第31話

 深い深い泥の底へ沈んでいくような息の詰まる悪夢だった。“腐食の毒”を操る久我山の這い寄る百足のような粘着質な声。精神の最も脆い部分を抉り、自己否定の闇へと引きずり込もうとするあの悍ましい感覚がまだ脳髄のどこかにこびりついているようだった。

 だが、その暗く冷たい深淵から鈴の魂をすくい上げたのは、途切れることのない一筋の強烈な“熱”だった。

 五感が最初に取り戻したのは“嗅覚”だった。鼻腔をくすぐるのは上質なリネンの糊の匂いと微かに混じる清潔な消毒薬の匂い。だが、それらを全て覆い尽くすようにして深く静かで途方もなく安心できる香りが漂っていた。高貴な白檀の香り。そして冬の澄んだ夜気のような彼特有の匂い。

(……あ、れ……?)

 次に意識が捉えたのは“触覚”だ。右手。自分の小さな右手が何かにすっぽりと包み込まれている。それは大きくて無骨な手。その手は氷と雷の異能の持ち主であるにも関わらず、ひどく熱かった。まるで自身の命の炎を分け与えようとするかのように力強く、そして壊れ物を扱うように極めて優しく、鈴の手を握りしめている。

 その絶え間ない温もりが脈打つ血管を伝って心臓へと流れ込み、凍りついていた鈴の精神を根本から溶かしていくのがわかった。

(……西園寺、様……?)

 重たい鉛のようだったまぶたが微かに震える。ゆっくりと目を開けると視界の端でぼんやりとした白い光が揺れた。

 窓だ。分厚いベルベットのカーテンが少しだけ開け放たれており、そこから繊細なレースのカーテン越しにすでに高く昇った昼前の明るい陽光が差し込んでいる。

 時刻は十時を回った頃だろうか。あんなにも恐ろしく、凄惨な夜を越えて、世界はまた新しい穏やかな一日を迎えていた。ここは西園寺邸の、鈴が自室として使用している客室のベッドだった。最高級の羽毛布団が冷え切っていた鈴の身体を優しく包み込んでいる。

 鈴はゆっくりと首を巡らせた。シーツの擦れる微かな音が静寂に包まれた部屋に響く。そして右手の温もりの先、ベッドの傍らに置かれたマホガニーの椅子に深く腰掛けたまま、鈴の手を両手で包み込むようにして眠る、一人の男の姿があった。

「…………」

 鈴の口から音にならない吐息が漏れる。

 西園寺景明。帝国陸軍少佐にして、異能特殊部隊を率いる“鬼少佐”。だが、今鈴の目の前でまどろんでいる彼からは軍人としての冷徹な威圧感や他者を寄せ付けない絶対零度の覇気は微塵も感じられなかった。

 彼が身に纏っているのはいつもの窮屈な詰襟の軍服ではない。上質な絹を用いた、肌触りの良さそうな部屋着姿だった。胸元が少しだけはだけており、鍛え上げられたしなやかな筋肉の起伏が柔らかな布地越しにも見て取れる。

 昨夜の凄惨な痕跡、久我山への一方的な制裁で浴びたおびただしい返り血や汚れきっていたはずの彼の姿は今は見違えるほど綺麗に拭い清められていた。おそらく彼が率いる軍の治癒の異能者が所属している医療班によって、彼女の治療の傍らで処置が施されたのだろう。だが、肉体の傷は癒えても精神の凄まじい疲労までは癒えなかったに違いない。

景明の彫刻のように端整な顔には深い疲労の色が色濃く刻まれていた。

 目の下にはうっすらと隈が浮かび、頬のラインは普段よりも少しだけ鋭くこけて見える。

(西園寺様……もしかして、一睡もしていなかったの……?)

 鈴の手を握る彼の指先は眠りの淵にあっても決して力を緩めようとしない。まるで少しでも手を離せば、鈴が再びあの悪夢のような闇の中へ消えてしまうと恐れているかのような無防備な素顔。

 長い睫毛が白い肌に淡い影を落としている。その寝顔は帝都を震え上がらせる冷酷な修羅の顔ではなく、かつて路地裏で鈴を助け、貧乏長屋で共に焦げたお味噌汁を笑い合いながら食べた、あの“不器用で優しい書生・野中みのる”の顔そのものだった。

「……ごめんなさい、西園寺様」

 鈴は掠れた声で小さく呟いた。彼に、こんなにも悲痛な顔をさせてしまった。自分を守るために彼を再び血生臭い修羅の道へと引きずり込んでしまった。

 けれど、後悔よりも先にどうしようもないほどの愛おしさが胸の奥から込み上げてくる。

 鈴は空いている左手をそっと布団から出し、景明の顔にかかった黒髪の束を指先で優しく払いのけた。

「……ん……」

 微かな接触に景明が小さく呻き声を漏らし、眉間に皺を寄せる。

 鈴は驚き、手を引っ込めようとしたが彼は目を覚ますことはなく、ただ鈴の右手をさらに自身の顔へと引き寄せ、その熱い頬をすり寄せてきた。

(ふふ……まるで警戒心を解いた大きな猫みたい)

 鈴の血の気のなかった唇に、自然と柔らかな微笑みが浮かぶ。生かされている。彼に守られ、こうして温かい朝の陽だまりの中で大好きな人の寝顔を見つめることができる。その奇跡のような幸福を鈴は全身で噛み締めていた。

 その時だった、部屋の重厚な扉が音を立てないように極めて慎重な動作で開かれた。

「……失礼いたします、旦那様……お嬢様のお加減は……」

 隙間から顔を覗かせたのはお盆と新しい湯桶を持った若菜とトメだった。二人は抜き足差し足で部屋に入ろうとし、そしてベッドの上で目を開け、こちらを穏やかに見つめている鈴と目が合った。

「あ……」

「きゃあああああっ!?」

 鈴が小さく声を上げるよりも早く若菜の手から真鍮の湯桶が滑り落ち、床に激突してけたたましい金属音を鳴らし、トメが両手で口を覆いながら悲鳴のような歓声を上げた。水しぶきが床の絨毯を濡らすのも構わず、二人は我を忘れてベッドの傍へと駆け寄ってきた。

「す、鈴様ぁぁぁっ!!」

「お嬢様!お嬢様、目が覚めたのですねっ!ああ、神様、仏様……っ!!」

 普段は冷静沈着でどんな時でも完璧な淑女の仮面を崩さない若菜でさえ、今はその美しい顔をくしゃくしゃに歪ませ、大粒の涙をこぼしている。

 トメに至っては鈴の左手にすがりつき、顔を埋めて子供のように泣き崩れていた。

「若菜さん……ばあやさん……」

「あああ、よかったです、本当によかったです……! 昨夜、あんなにも豪奢なお振袖姿でしたのにひどくお疲れで旦那様の腕の中で気を失ったように深く眠って運ばれてこられた時は私、どうにかなってしまいそうで……っ!」

「旦那様が『この娘に少しでも異能の毒の残滓があれば命に代えても浄化しろ』と軍の治癒班を総動員して、一晩中診させて……それでも今まで目を覚まされなかったので本当に、本当に心配で……っ!」

 二人の温かい涙が鈴の手の甲を濡らしていく。その熱い涙の感触に鈴の目からもまた涙がこぼれ落ちた。

「ごめんなさい、ご心配をおかけしました……。でも、もう大丈夫です。私、どこも痛くありませんから……」

「何事だッ!!」

 鈴が震える声でそう告げた、次の瞬間だった。湯桶の落ちる凄まじい音と若菜たちの泣き声によって、眠りの底にいた景明が弾かれたように跳ね起きた。

 彼が座っていた椅子が後方へ勢いよく倒れ、床を打つ。その瞬間の景明の瞳は完全に戦場の“鬼”のそれだった。敵襲か、あるいは鈴の容態が急変したのか。血走った瞳を瞬時に見開き、装備していないのにも関わらず、腰の軍刀を探るような仕草で部屋の空気を一瞬にして氷点下まで凍てつかせるほどの殺気を爆発させる。

 だが、その鋭い視線がベッドの上で上体を起こし、若菜たちと涙を流しながら微笑んでいる鈴の姿を捉えた瞬間。

「…………っ!!」

 景明の全身の動きが嘘のように停止した。放出されていた絶対零度の殺気が春の陽射しに溶ける雪のように一瞬にして霧散していく。

「す、ず……?」

「西園寺、様。……おはようございま」

 景明の掠れた信じられないものを見るような声。

 鈴が挨拶の言葉を紡ぎ終えるよりも早く、景明の大きな身体が獣のような敏捷さで動いた。

「鈴ッ!!!!」

 シーツが翻り、景明はベッドの上に膝をつくや否や、鈴の華奢な身体を両腕で力強く、それこそ肋骨がきしむほどの強さで抱きしめた。

「きゃっ!?」

「ああっ、鈴……!鈴……っ!!」

「さ、西園寺様……くるしっ……」

 景明は鈴の肩に顔を埋め、まるで迷子になっていた子供が母親を見つけたかのようにその名前を何度も何度も呪文のように呼び続けた。

 彼の広い胸板が激しく上下に震えている。部屋着越しに伝わってくる彼の体温は火傷しそうなほどに熱かった。

「よかった……本当によかった……!目を覚まさないまま、もし君がこのまま私の腕の中からいなくなってしまったらと……私は、私は……っ!」

 景明の声は泣く子も黙る帝国陸軍の鬼少佐とは到底思えないほど、水気を含んで震えていた。

 彼は鈴の身体を少しだけ離すと狂ったような手つきで彼女の顔、首筋、腕、肩と怪我がないかを確認するように触れまくった。

「痛みはないか!?気分は!?吐き気はないか、視界はぼやけていないか!?脈は……少し早いな、やはりまだ毒の影響が……!」

「だ、大丈夫です!どこも痛くありませんし、気分も悪くありません!それに脈が早いのは西園寺様がいきなり飛びついてきたからで……っ!」

 鈴は顔を真っ赤にして弁明するが景明の耳にはまったく届いていなかった。彼は鈴の額に自身の額を押し当て、熱を測る。

 至近距離。互いの吐息が混じり合うほどの距離で彼の漆黒の瞳が鈴を射抜く。

「いや、油断は禁物だ。昨夜の敵は精神を蝕む異能使いだった。外傷は治癒班が治したとはいえ、心への影響は未知数だ。……少しでも寒気がするならすぐに温めなければ」

 そう言うが早いか、景明は鈴の頬に両手で触れ、そのまま自身の顔を鈴の頬にこれでもかと擦り寄せてきた。いわゆる“頬ずり”である。

「ひゃああっ!?な、なにをするんですか西園寺様っ!?」

「君の体温を直接感じなければ、私の精神はもたない。……ああ、温かい。生きている。私の鈴だ……っ」

「ちょ、近いです!近すぎます!おヒゲがジョリって!ジョリってしてます!!」

 心配で一睡もしていなかった景明の顎には無精髭がうっすらと生えていた。それが鈴の柔らかい頬を摩擦する。普段の完璧主義で冷徹な彼からは絶対に考えられない、周囲の目など一切気にしない、なりふり構わぬ異常なまでの溺愛っぷりだった。しかも、この部屋には彼ら二人だけではないのだ。

「西園寺様!ばあやさん達が!ばあやさん達が見てますからぁっ!!」

 鈴は羞恥で全身から火を吹きそうになりながら、景明の広い胸板を両手で叩いて必死に抵抗した。だが、景明は全く意に介さない。

「見させておけ。私が自分の妻を抱きしめて何が悪い。……ばあや!若菜!今すぐ食堂に連絡しろ!鈴のために最も消化に良く、栄養価の高い薬膳粥を作らせろ!それから治癒班の軍医を叩き起こせ!もう一度、鈴の全身を精密検査させる!」

「は、はいっ!直ちに!」

 トメが涙と鼻水を拭いながら、満面の笑みで部屋を飛び出していく。若菜は床の湯桶を拾い上げることも忘れ「ふふふ……朝からご馳走様です」と肩を揺らして面白そうに笑っていた。

「もうっ!若菜さんまで笑わないでください!西園寺様、本当に大丈夫ですから、離してっ……ああっ、こら、首筋に顔を埋めないでくださいーっ!」

「駄目だ。君をこの腕から離すとまた幻となって消えてしまいそうで怖いんだ。……頼む、もう少し、あと一時間はこのままでいさせてくれ」

「い、一時間!?」

「ああ。君の匂いを肺の奥まで吸い込んで私の細胞一つ一つに“鈴は生きている”と刻み込まなければならない」

 景明は鈴の首筋に顔を埋めたまま、深く、長い深呼吸を繰り返す。その度に彼の大きな身体から力が抜け、限界まで張り詰めていた緊張の糸が解けていくのがわかった。

 鈴は必死に抵抗していた手をゆっくりと下ろし、ため息を一つ吐いた。

(……もう。本当に大袈裟なんだから)

 言葉では文句を言いながらも鈴の瞳は優しさに溢れていた。彼がどれほど自分を失うことを恐れていたのか。あの冷酷無比な鬼少佐が一人の少女の生死に心を乱し、なりふり構わずすがりついてくる。その愛情の深さと恐怖の残り香がこの痛いほどの抱擁から伝わってくる。

 鈴は景明の背中にそっと腕を回し、少しだけ乱れた彼の黒髪を撫でながら、子供をあやすように優しく叩いた。

「……はいはい。私はここにいますよ、西園寺様。どこにも行きません」

「……ああ。君は私のものだ。誰にも、指一本触れさせない」

 景明の低く甘い声が鈴の耳元を震わせる。窓の外からは高く昇り始めた太陽の光を喜ぶかのように小鳥たちの囀りが平和な旋律を奏でていた。

 時刻は午前十一時を回り、西園寺邸にある鈴の自室には昼前の明るい陽光がたっぷりと差し込んでいる。先ほどまでの凄惨な夜の記憶をすっかり塗り替えてしまうほど、甘く、そしていささか過剰なほどに過保護な時間が流れていた。

「さあ、鈴。口を開けなさい。あーん、だ」

「…………西園寺様。私、腕は怪我しておりませんし、右も左も自由に動かせるのですけれど」

 最高級の羽毛布団に背中を預け、上体を起こした鈴は目の前に突きつけられた銀色のスプーンを前にひきつった笑いを浮かべていた。

 トメと若菜が慌ただしく厨房へ走ってからわずか数十分後。部屋に運ばれてきたのは料理長特製の薬膳粥だった。透き通るような鶏の出汁が上品に香り、ほのかに生姜と胡麻油の匂いが鼻腔をくすぐる。白く炊き上げられた米の上には赤いクコの実や鮮やかな緑の三つ葉が散らされており、見ているだけで空っぽの胃袋が鳴りそうなほど食欲をそそる一品だ。

 しかし、問題はそれの“食べ方”である。部屋着姿のまま、ベッドの縁に腰掛けた景明は漆塗りの豪奢なお盆を片手に持ち、もう片方の手でスプーンにたっぷりと熱々のお粥をすくい、念入りに息を吹きかけて冷ましている。

 そして、まるで赤子に離乳食を与えるかのような真剣極まりない表情で鈴の口元へとスプーンを運んできているのだ。

「君は昨夜、“腐食”の異能使いによって精神に多大な負荷をかけられたのだ。治癒班の必死の治療で異能の毒が完全に抜けきったとはいえ、身体の奥底にはまだ尋常ではない疲労が蓄積しているはずだ。これ以上、君の細い腕に少しでも負担をかけるわけにはいかない」

「お粥の入ったスプーンを持ったくらいで負担なんてかかりませんっ!お願いですから、自分で食べさせてください……っ」

「駄目だ。もしスプーンを落として熱い粥が君の白い肌にこぼれでもしたら、私は自分自身を許せない。それに、こうして私が直接君に食べさせることで君の生存をより確固たるものとして実感できるのだ」

「どんな理屈ですかそれはっ!?」

 鈴は顔を真っ赤にして抗議するが景明の意志は鋼のように固かった。彼の瞳は純粋な心配と隠しきれない独占欲に満ち溢れている。

「ほら、冷めてしまうぞ。口を開けなさい」

「む、むりです……っ。恥ずかしくて、味がわかりません……」

「恥ずかしがる必要がどこにある?私たちは正式な婚約者であり、いずれ夫婦となるのだぞ。夫が体調の優れない妻を介抱するのは帝国軍人として、いや、一人の男として当然の義務だ」

 大真面目な顔でとんでもなく甘い台詞を平然と言ってのける。彼の放つ特有の、冷涼な白檀の香りが至近距離から漂ってくるたびに鈴の心臓は早鐘のように激しく脈打ってしまう。

(もう……っ! この人、一歩間違えたらただの過保護な変態です!)

 鈴がシーツを握りしめ、首を横に振って抵抗を続けていると部屋の分厚い扉の向こうから、控えめだが規則正しいノックの音が三度、響いた。

「失礼いたします。少佐、氷室です」

 くぐもった、ひどく事務的でしかしどこか深い疲労を滲ませた声。

 景明の有能な部下であり、“読心術”の異能を持つ氷室だった。

「入れ」

 景明が短く応じると重々しい音を立てて扉が開いた。そこに立っていたのはいつもの隙のない軍服姿の氷室なのだが、その顔色は幽鬼のように青白く、目の下には景明よりもさらに濃い、墨を塗ったような立派な隈が刻まれていた。

 彼の手には分厚い革張りの報告書の束が握られている。

「昨夜の久我山邸での一件及び、関連する事後処理の第一報をお持ちしました。……って、少佐」

 部屋に足を踏み入れた瞬間、氷室の動きが止まった。彼の視線の先にはベッドに寝転がる鈴とその傍らでスプーンを構えたまま彼女に「あーん」を強要している最強の鬼少佐の姿がある。

「…………何をやっているんですか、貴方は」

 氷室の声は文字通り地の底から響くような低さだった。彼は片手で自分の額を押さえ、深いため息を一つ吐き出した。

「見ればわかるだろう。鈴に食事をとらせている。治癒班からの報告によれば、彼女は極度の栄養不足と精神的疲弊に陥っている。一刻も早く滋養のあるものを胃に入れさせねばならんのだ」

「で、ですから自分で食べられますってば!氷室様、おはようございます……こんな格好ですみません……」

 鈴は真っ赤になった顔を両手で覆い隠し、シーツの下に潜り込みたい衝動に駆られていた。

 しかし、氷室が直面している“地獄”は単に上官の過保護な振る舞いを見せつけられることだけではなかった。

 氷室は普段から自身の異能を固く制限して日常を送っている。だが、そんな力など一切使う必要がないほど、今の景明からは凄まじい大音量の“心の声”が物理的な圧力となって押し寄せていたのだ。

 景明の鋭い鳶色の瞳が氷室を射抜くように睨みつけている。彼の周囲だけ急激に温度が下がり、肌を刺すような氷と雷の気配が漂っていた。

(……少佐は絶対にこう思っているはずだ。『鈴の柔らかな髪、潤んだ瞳、その全ては私だけのものだ。氷室といえど、三秒以上見つめたら眼球をくり抜いてやる』……と)

 長年副官を務めてきた氷室には上官の常軌を逸した独占欲が手に取るように分かってしまう。

「ッ……! 少佐、頼みますからその物騒な殺気を収めてください。肌が凍りそうです」

 氷室は報告書を持ったまま、もう片方の手でこめかみを強く押さえつけ、わざとらしく深いため息をついた。

「……ん? 私は一言も発していないが?」

 景明が不機嫌そうに眉を寄せる。

「声に出していなくてもダダ漏れなんですよ!! 貴方のその、小鳥遊嬢に対する常軌を逸した溺愛と無駄に物騒な独占欲が!貴方の全身から発せられる圧で一目瞭然です!」

 氷室は叫びながら軍服のポケットから素早く茶色い小瓶を取り出すと中の液体を飲み込んだ。

「……また胃薬ですか?氷室様」

 鈴が申し訳なさそうに尋ねると氷室は小さく顔で頷いた。

「ええ。昨夜からこれで五本目です。小鳥遊嬢が無事に救出されたのは心底喜ばしいことですがその後のこの人の暴走っぷりを抑え込むのに私の胃粘膜はもはや限界を突破しています」

 氷室は痛む胃をさすりながら、ベッドの足元付近まで進み出た。

「少佐。婚約者の介抱を邪魔して申し訳ありませんが急ぎ耳に入れておくべき事項があります。……小鳥遊家の件です」

 その言葉が出た瞬間、部屋の空気が一変した。先ほどまで漂っていた甘く緩い空気が霧散し、微かな緊張感が場を支配する。

 景明は持っていたお盆をサイドテーブルに静かに置き、スプーンを置くと鈴へと向けていた甘い表情を引き締め、帝国陸軍少佐としての冷徹な顔つきに戻った。

「……報告しろ。氷室」

「はっ。昨夜、少佐と小鳥遊嬢がこの邸へ戻られた後、我々部隊は残された久我山邸の制圧と関連施設の捜索を行いました。同時に小鳥遊子爵……つまり、小鳥遊嬢の御尊父が倒れられたという小鳥遊邸へも軍の医療班と調査員を急行させました」

「っ……!氷室様、お父様は……!無事なのですか!?」

 鈴は思わず身を乗り出し、切羽詰まった声で尋ねた。危篤状態だった父の安否は洗脳が解けた今でも気がかりだった。

 そんな鈴の悲痛な問いに氷室は少しだけ声のトーンを和らげて答えた。

「ご安心ください、小鳥遊嬢。子爵の命に別状はありません。現在、我々隊の優秀な治癒の異能者が付きっ切りで処置に当たり、容体はすっかり安定しています。あと数日もすれば後遺症もなく起き上がれるようになるでしょう」

 鈴は胸の前で両手を組み、深く、深く安堵の息を吐き出した。張り詰めていた肩の力が抜け、目頭が熱くなる。父の強引なやり方には今でも納得していないし、許せない部分もある。それでも最悪の事態は免れたという事実に安堵の涙が滲みそうになった。だが、氷室の報告はそれだけで終わらなかった。彼の眼鏡の奥の瞳が鋭い光を帯びて光る。

「しかし……小鳥遊嬢。子爵が倒れられたのは決して自然な病によるものではありませんでした」

「え……?」

「……久我山の仕業だな」

「ご明察の通りです」

 鈴が顔を上げると景明が静かにだが地を這うような低い声で言葉を引き継いだ。

 氷室は手元の報告書を一枚めくり、冷ややかな声で事実を告げた。

「治癒班の精密な検査の結果、子爵の体内から微量の“毒”が検出されました。それは通常の医療機関では到底発見できない、異能の力が込められた特殊な“遅効性の毒”です」

「毒……!? お父様に毒を盛ったというの……!?」

「はい。おそらく久我山は小鳥遊家に持ちかけた投資話を強引、かつ自身の優位に進めるために以前から少しずつ子爵の食事や飲み物にその毒を混入させていたのでしょう。時間をかけて徐々に体を衰弱させて正しい判断力を奪い、最終的には病死に見せかけて小鳥遊家の全権を握るつもりだったのだと思われます」

「そんな……!酷い……!」

 鈴は息を呑み、血の気を失った。全身が怒りと恐怖で小刻みに震え始めた。

 久我山は口では甘い言葉を並べ立てながら、その裏では鈴の大切な家族を静かに殺そうとしていたのだ。

 自分の欲望を満たすためだけに他人の命を、家族の絆を、まるで虫けらのように踏み乱す。その底知れぬ悪意の深さに鈴は吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えた。

 もし、景明が助けに来てくれなかったら。もし、あのまま久我山の洗脳に屈して彼の言いなりになっていたら。父は確実に殺され、鈴は真実を知らないまま、父を殺した男の人形として一生を日陰で生きることになっていたのだ。

「……っ!」

 鈴が恐怖に唇を噛み締めたその時、冷たくなっていた彼女の両手を温かく大きな手が力強く包み込んだ。

「西園寺、様……」

「もう大丈夫だ、鈴。安心しろ。その毒は我が隊の医療班が完全に“浄化”した」

 景明は鈴を安心させるように深く、落ち着いた声で語りかけた。

「氷室の言う通り、異能絡みの毒は通常の医者では治せない。だが、私の部隊に所属する治癒の異能者たちは帝都でも最高峰の力を持っている。子爵の体内に巣食っていた毒素は一滴残らず抽出され、破壊された細胞も修復された。お義父上は完全に元の健康な体に戻る」

 彼の言葉には微塵も揺るぎない絶対的な自信が満ちていた。その力強い響きと包み込んでくれる手のひらの熱が、鈴の心に渦巻いていた暗い恐怖を溶かしていく。

「……ありがとうございます、西園寺様。氷室様も……医療班の皆様にもなんとお礼を言えばいいか……」

「礼など不要だ。君の家族を救うのは私の当然の責務だからな」

 景明は事も無げに言い放ち、鈴の手の甲にそっと口づけを落とした。その自然すぎる愛情表現に鈴はまたしても顔を赤くするが今はその温もりが心底ありがたかった。

「……さて。子爵の命が助かったことは何よりですが問題はそれだけではありません」

 氷室がわざとらしく咳払いを一つして、甘い空気を断ち切った。

「小鳥遊家を苦しめていた根本的な原因……つまり、“借金問題”についてです。こちらに関しても非常に興味深い事実が判明しました」

 氷室の言葉に鈴は顔を上げた。小鳥遊家は景明の祖父・源五郎の策略により、突発的に五萬圓という莫大な借金を背負わされていた。その借金の肩代わりに、鈴は自ら悪役を演じて久我山の元に行ったのだ。

「借金……。あの男が立て替えてくださるという……?」

「ええ。その件に関して、少佐の命により、久我山の裏帳簿や関連する金融業者の内偵を徹底的に進めました」

 氷室は眼鏡を中指で押し上げ、報告書の束を軽く叩いた。

「久我山という男の、あまりにも浅ましく卑劣な“手口”でした」

 氷室の静かで冷ややかな声が陽光に満ちた部屋に重く響き渡る。

 鈴は無意識のうちに景明に握られている右手に力を込めた。その小さな強張りを逃さず、景明は彼女の手を大きな両手でさらに優しく包み込み、強張った筋肉を解すように親指で優しく手の甲を撫でた。その規則正しい温かい摩擦が鈴の波立つ心を少しだけ落ち着かせてくれる。

「小鳥遊家は本来、財盤の安定した子爵家です。しかし、そこに少佐の祖父君が裏で手を回し、久我山の投資詐欺を利用して意図的に五萬圓もの負債を負わせた。久我山はそこに便乗したのです」

 氷室は手元の分厚い報告書を捲った。乾燥した紙の擦れる音が耳に届き、微かにインクと埃の匂いが空気に混じる。

「久我山は自身の持つ表向きの財力と異能を使った裏工作で小鳥遊家の債権を秘密裏に買い叩き、ひとまとめにしました。さらに帝都の暗がりに巣食う非合法な高利貸しと結託し、契約書を巧妙に改ざんすることで雪だるま式に法外な利子が膨れ上がるよう仕組んでいたのです」

「そんな……契約書の改ざんだなんて……」

 鈴の血の気の引いた唇から、掠れた声が漏れ出た。

(お父様はそんな裏があったことなど少しも知らずに……)

 久我山は自らが放った火で小鳥遊家を燃やしながら、さも救世主であるかのように水桶を持って現れたのだ。全ては目当てである鈴を借金のカタとして合法的に手に入れるための、巧妙で悪辣な自作自演。

 自分がどれほど恐ろしい蜘蛛の巣に絡め取られていたのかを改めて突きつけられ、鈴の背筋に氷の刃を滑らせるような悪寒が走った。

「怯えることはない。もう終わったことだ」

 景明の深く、岩盤のように揺るぎない声が落ちた。彼は鈴の手を握ったまま、鋭い鷹のような視線を氷室へと向ける。

「結果を言え、氷室」

「はっ。昨夜、少佐が小鳥遊嬢の救出に向かわれた裏で我々異能特殊部隊の別働隊と憲兵隊を動かし、久我山邸の地下金庫および関連する非合法組織の拠点を一斉に強制捜査しました。結果、改ざんされた契約書や裏帳簿は全て押収。久我山の悪事は白日の下に晒されました。現在、久我山の持つ全ての財産と権限は軍によって凍結・差し押さえられています。当然、久我山が不当に押し付けていた“偽の借金”は全て白紙、無効となりました」

「……白紙……」

 鈴は呆然と呟いた。これまで小鳥遊家を、そして鈴自身の運命をがんじがらめに縛り付けていた真っ黒な鉄の鎖が音を立てて砕け散っていくような感覚だった。視界を覆っていた重苦しい靄が晴れ、肺の奥まで新鮮な朝の空気が流れ込んでくる。

「よかった……本当によかった……っ」

 安堵のあまり、鈴の大きな瞳からふたたび大粒の涙が溢れ落ちた。悪辣な罠が消えたのなら厳格な父が無理をして誰かに頭を下げる必要はない。小鳥遊家はまた静かな暮らしを取り戻せるのだ。

「だが、氷室。それだけでは小鳥遊家の根本的な解決にはなっていないだろう」

 涙を拭う鈴の隣で景明が至極冷静な声で指摘した。氷室は「ええ」と一つ頷き、報告書の最後の頁を開く。

「少佐の仰る通りです。久我山の不当な契約は白紙になりましたが子爵が投資詐欺で実際に失った“五萬圓の損失”が戻ってくるわけではありません。当面の事業の立て直しや生活を考慮すれば、依然として小鳥遊家の財政が厳しい状況であることに変わりは……」

「それについてはすでに手配済みだ」

「へ……?」

 景明が氷室の言葉を切り捨てた。

 鈴が涙で潤んだ目を瞬かせて景明を見上げると彼は何でもないことのように優雅に微笑んだ。

「小鳥遊家が被った五萬圓の損失分は今朝一番で私の個人資産から全額補填し、事業への無条件の出資として処理を完了させている。祖父が二度と手出しできないよう、完璧な防壁も構築した」

「…………は?」

 鈴の口から間の抜けた声が出た。氷室もまた、持っていた報告書を取り落としそうになるのを必死で堪え、目を限界まで見開いている。

「しょ、少佐……!?全額補填って五萬圓ですよ!?いくら西園寺家が帝都屈指の財力を誇るとはいえ、一個人の裁量でポンと出していい金額では!」

「何も問題はない。私が私の金庫から、私の未来の妻のために端金を出しただけのこと。誰に文句を言われる筋合いもない」

「端金って……帝都の一等地で豪邸が建つ額ですよ!?」

 氷室が胃のあたりを押さえながら悲鳴のような声を上げるが、景明は微風すら感じていないかのように涼しい顔をしている。

「さ、西園寺様……!そ、そんな莫大なお金を……駄目です、返せません!私がこれから一生かけて働いたとしても、到底お返しできるような額では……っ!」

 鈴は慌てふためき、握られていた手を引き抜こうとした。しかし景明はそれを許さず、逆に鈴の身体を優しく抱き寄せ、自身の広い胸の中に閉じ込めてしまった。

「返済など一切求めていない。そもそも私の財産はすでに君のものと同義だ。私の妻となる女性の生家を守るのは夫として当然の義務だろう?」

「つ、妻って……っ!」

 鈴の顔が一瞬にして林檎のように真っ赤に染め上がった。鼓膜のすぐ近くで響く、彼の低く甘い声。“妻”という甘美な響きを持つ単語がこれでもかというほどの独占欲と溺愛の熱を帯びて鈴の脳を溶かしにかかる。

「あの“婚姻予約誓約書”に署名した日から、君は法的にも魂の結びつきにおいても私の婚約者だ。それに先日の軍主催の夜会でも、帝都中の前で君を私の正式な婚約者だと公に宣言しただろう。……それともあの宣言はただの口出まかせだとでも思っているのか?」

 景明は鈴の耳元に顔を寄せ、わざと拗ねたような、ひどく色気のある声で囁いた。

「ひゃっ……! そ、そういうわけでは……っ」

 鈴は彼の腕の中で小さく縮こまり、両手で真っ赤になった顔を覆うことしかできない。彼の規格外の愛情と全てを強引に平伏させる圧倒的な行動力。それは時に暴力的ですらあるがその根底にあるのは鈴を一切の危険と不安から遠ざけようとする純粋で重たすぎるほどの“愛”だった。

「……君がこれ以上、生家のことで涙を流す必要はない。君の過去も、現在も、未来も、全て私が背負う。だから君はただ、私の腕の中で笑って、甘えていればいいんだ」

 景明の大きな手が鈴の背中を優しく、愛おしげに撫でる。その温もりに包まれながら鈴はもう抗うことを諦めた。この底なしの溺愛の海に溺れることが、今の自分にとって何よりも幸福なのだと細胞の隅々までが理解してしまっていたからだ。

「……ありがとうございます、西園寺様。……私、貴方に出会えて……本当に幸せです」

 顔を覆っていた指の隙間から鈴が消え入りそうな声で呟く。その破壊力抜群の一言が景明の理性のストッパーを完全に粉砕した。

「ッ!!」

 景明は無言のまま天を仰ぎ、その後、鈴の身体をベッドごと押し潰しそうな勢いで強く、激しく抱きしめた。

「ああっ、鈴……!なんて愛らしい……!今すぐ君を軍の最高機密金庫に閉じ込めて、私以外の誰の目にも触れさせないようにしたい……っ!氷室!婚姻届の準備はどうなっている!?今日、いや、今すぐ役所に行け!」

「少佐!落ち着いてください!そもそも小鳥遊嬢はまだ女学生です!物理的に金庫に閉じ込めるのは犯罪です!!」

 大暴走を始めた上官を前に氷室はふらつく足で立ち上がり、ポケットから再び胃薬を取り出して飲み込んだ。

(ああっ、もう駄目だ……。小鳥遊嬢のあの笑顔と素直な愛の言葉が少佐の脳内麻薬を限界まで分泌させている……!私の脳内にも少佐の『鈴可愛い鈴愛してる鈴と結婚する』という極彩色の妄想が洪水のようになだれ込んできて……っ、吐き気が……!)

 氷室の顔色はもはや白を通り越して土気色になっていた。平和で甘く、そして氷室の胃粘膜を容赦なく削り取る朝の陽だまり。

 小鳥遊家を襲った最悪の危機は最強の鬼少佐の“規格外の過保護と財力”によって、文字通り跡形もなく握り潰されたのだった。だが、光が強ければ強いほど、そこに落ちる影はどこまでも濃く、深く沈む。

 鈴が景明の温かく甘い過保護に包まれ、昼前の陽だまりの中で安堵の涙を流していた頃。その圧倒的な光の裏側に位置する帝都の奥底、冷たく淀んだ地下牢では決して目を逸らしてはならない“真の闇”の尋問が繰り広げられていた。

 時間軸はそこから数時間ほど遡る。帝国陸軍本部、そのさらに地下深く。かつては凶悪な怪異や国家に対する重篤な反逆を企てた異能犯罪者たちを収容するために造られた、特別地下牢である。

太陽の光など永遠に届かないこの場所は一年を通して分厚い氷室の中にいるような底冷えがする。 空気は酷く淀み、肺に吸い込むたびにカビと湿った土、そして何百年も前から染み付いているような錆と古い血の匂いがべっとりと粘膜に張り付いてくる。

「……はぁ……っ、はぁ……っ、あ……」

 静寂を支配するのは天井のひび割れから不規則に落ちる冷たい水滴の音と鎖で縛り付けられた男の、ひどく掠れた呼吸音だけだった。

 分厚い石造りの独房の中央。床に固定された無骨な鉄の椅子に太い拘束衣と鎖で何重にも縛り付けられているのはつい昨夜まで、小鳥遊家を意のままに操り、高慢な笑みを浮かべていた久我山である。

 だが、今の彼に新興財閥としての気品や己の欲望のままに他者を踏みにじっていた傲慢さは微塵も残っていなかった。彼の姿は凄惨の一言に尽きた。最高級の仕立てであったはずの洋装は見る影もなく引き裂かれ、赤黒い血と泥で汚れきっている。

 景明は昨夜、最愛の鈴を傷つけられたことへの怒りを爆発させ、久我山に対して軍の規定など完全に無視した、文字通りの“物理的な制裁”を下したのだ。骨という骨が砕け、内臓が破裂し、顔の原型すら留めないほどの圧倒的な暴力。

 もちろん、そのまま死なせては情報が引き出せないため、軍の優秀な治癒の異能者によって、最低限の治療だけは施されている。折れた骨は強制的に接合され、裂けた皮膚は縫い合わされ、破裂した内臓も無理やり機能するように“修復”された。

 しかし、それはあくまで“尋問に耐えうるように、思考と会話ができる状態を維持する”ための、極めて事務的で冷酷な処置に過ぎない。

 肉体的な傷は塞がっていても全身の神経を焼き尽くすような“激痛の記憶”までは消し去られておらず、久我山はただ椅子に縛り付けられたまま、痙攣するように小刻みに震え続けていた。

「酷い有様ですね。まあ、少佐の逆鱗……それも最も触れてはならない逆鱗に触れたのですから、命があるだけ感謝すべきでしょうが」

 冷たい石畳を叩く規則正しい軍靴の音が響き、鉄格子の向こうから氷室が姿を現した。

 彼の纏う帝国陸軍の軍服には一糸の乱れも一滴の汚れもない。鈴の部屋で見せていた、上官の過剰な溺愛っぷりに胃を痛める苦労人の顔はそこには一切なかった。

 薄暗い瓦斯灯のオレンジ色の光を反射して、彼の銀縁眼鏡が冷ややかに光る。そこに立っているのは帝都の闇に蠢く国家の敵を容赦なく追い詰め、その脳髄からあらゆる秘密を暴き出す、“読心術”の異能を持つ冷徹な情報将校だった。

 氷室は鉄格子を開け、ゆっくりと久我山の正面に立った。冷たい空気がさらに一段階、凍てつくように温度を下げる。

「ひ……っ!や、やめろ……来ないでくれ……っ!私を、私を誰だと思っている!新興財閥だぞ!貴様らのような下級の軍人が、私にこんな真似をしてタダで済むと……!」

 久我山は血走った目をひん剥き、恐怖で震える口元からかろうじて残っていた貴族の矜持という名の虚勢を絞り出した。鎖が耳障りな音を立てる。だが、氷室はその言葉に微塵も動揺することなく、冷ややかな視線で久我山を見下ろした。

「財閥、ですか。昨夜の強制捜査により、あなたの悪辣な裏工作や非合法な高利貸しとの癒着、公文書偽造の証拠は全て押収されています。あなたの爵位が剥奪されるのは時間の問題ですよ」

「なっ……!」

「それに」と氷室は手袋をはめた指先で自身の眼鏡のブリッジを押し上げた。

「あなたが小鳥遊子爵に異能絡みの“遅効性の毒”を盛っていたこともすでに割れています。軍の治癒班が全て解毒しましたが……殺人未遂。しかも異能を使ったとなれば、あなたはもう二度とこの地下から地上へ戻ることはできない」

「あ……あぁ……っ」

 久我山の喉から絶望の音が漏れた。自分が絶対的な優位に立って築き上げたはずの盤石な計画が一夜にして全て粉々に打ち砕かれた事実を突きつけられ、彼の虚勢は完全に崩れ去った。

「さて。状況が理解できたなら、本題に入りましょう。あなたが小鳥遊家を陥れた動機や手口は、もはやどうでもいい。軍が知りたいのはただ一つです」

 氷室は感情の乗らない淡々とした声で告げた。瞳が刃のように鋭く細められる。

「あなたが操っていた、あの異能。あれはあなたが生まれつき持っていたものではないですね?」

「……っ!?」

 久我山の身体が弾かれたように大きく跳ねた。

「異能というものは血筋と深い関わりがある。我々が事前に調べたあなたの家系図に異能の血は一滴も混ざっていなかった。それどころか、あなた自身、数ヶ月前までは何の力も持たない、ただの無力な人間だったはずです。誰から手に入れたのですか?あの忌まわしい異能を。……どこで、誰と取引をした?」

「し、知らない……っ!私の力だ!私が選ばれた人間だから……っ!」 

 氷室は一歩、久我山へと歩み寄る。

 久我山は顔を激しく横に振り、必死で否定した。だが、その目は尋常ではないほど泳ぎ、歯の根が合わずに鳴っている。

 彼が恐れているのは目の前の氷室や景明だけではない。その後ろにいる“何か”に対して本能的な恐怖を抱いているのは明白だった。

「そうですか。口を割る気はないと」

 氷室は小さくため息を吐くと右手を持ち上げた。

「結構です。無理に喋っていただく必要はありません。……あなたの脳髄が、全てを雄弁に語ってくれますから」

次の瞬間、氷室の指先が久我山の額に触れた。

「っ!!?」

 久我山の両目が見開かれ、声にならない絶叫が地下牢に木霊した。それは物理的な痛みではない。氷室の“読心術”の異能が最大出力で久我山の精神の防壁を突き破り、脳髄の奥底へと直接侵入したのだ。

(やめろ! 入ってくるな! 見るなァァァッ!!)

 久我山の心の声が暴風雨のように氷室の脳内へとなだれ込んでくる。だが、氷室は冷徹な表情を崩さない。彼の精神は数多の修羅場を潜り抜けてきた強固な要塞だ。久我山程度の薄っぺらな抵抗など、硝子細工を素手で粉砕するよりも容易い。

 氷室は久我山の記憶の海を強引に掻き分けていく。表層に浮かぶ、鈴に対するおぞましい執着や小鳥遊家を陥れた卑劣な優越感などという汚泥のような記憶は全て払い除け、もっと深く、最も暗い深淵へと潜っていく。

 やがて氷室の脳裏に一つの鮮明な光景が再生された。それはどこかの豪奢な、しかし全く光の差し込まない密室の記憶だった。

 怯えた様子の久我山の前に一人の人物が立っている。顔は深いフードに覆われており、性別すら定かではない。だが、その人物の胸元に異様な存在感を放つ紋章が鈍く光っていた。

 複雑に絡み合う、直線と曲線の奇妙な羅列。見る者の精神を不安に陥れるような、歪な幾何学模様のエンブレム。

(……! 出たな、“幾何学模様”……!)

 景明と鈴を襲った怪異の背後に見え隠れしていた、あの不気味な影と同じものだ。記憶の中のフードの人物が黒い小瓶を久我山へと差し出す。

「これを飲めば、お前は望む力を得られる。邪魔な者たちを静かに排除できる、特別な“異能”を」

 久我山は震える手で小瓶を受け取り、中身を飲み干した。その瞬間、彼の細胞が悍ましい熱を帯び、異能が“植え付けられる”感覚。

「ただし、忘れるな。お前の命はすでに我々の手の中にある。一度でも我々を裏切れば、その毒は即座にお前自身を食い破るだろう」

(……なるほど。異能を他者に“付与”する技術、あるいは薬品が存在するということか……)

 氷室が低い声で呟く。もしそれが事実なら、これは帝都の根幹を揺るがす重大な脅威だ。人工的に異能者を作り出すことができる組織が存在するのだから。

 氷室はさらに記憶の奥底へ、その組織の名前やアジトの場所を探ろうと精神の楔を深く打ち込んだ。その瞬間だった。

「あ……あぁぁぁぁっ!!」

 現実世界の久我山が突然、全身を弓なりに反らせて激しく痙攣し始めた。彼の両目からは血の涙が溢れ出し、口からは白い泡を吹き始める。

(見つかる!見つかってしまう!言ってない、私は何も言ってないぞ!だから殺さないでくれぇっ!)

 彼の脳内が極限の恐怖で真っ白に染め上げられていく。氷室の探りが“触れてはならない絶対的なタブー”に到達しようとしていることに久我山の本能が発狂寸前の悲鳴を上げていたのだ。

「消される……! 奴らに……“カグヤ”に消されるッ!!」

 久我山の裂けた唇から絶叫と共にその単語が飛び出した。

「カグヤ……?」

 氷室はわずかに眉をひそめた。竹取物語の、美しい月の姫の名か?だが、久我山の脳髄から直接伝わってくるその言葉のイメージは決してそんな美しく幻想的なものではなかった。

 氷室の脳裏にどす黒い怨念と鮮血で塗りつぶされた、おぞましい二つの漢字が焼き付けられる。

 “赫夜”。

 赤を通り越し、血が黒く凝り固まったような色を示す“赫”という文字。そして、全てを呑み込む絶対的な“夜”。

 その名前が脳裏に浮かんだ瞬間、氷室は背筋に冷たい氷の刃を突き立てられたような、強烈な悪寒を感じた。

(……ただの犯罪組織ではない。これはもっと根深く、途方もなく巨大な……)

 突如、久我山の脳内に残されていた“防衛機構”が作動したのか、強制的に精神のリンクが弾き飛ばされた。

「……くっ!」

 氷室は数歩後ずさり、額を押さえた。

「あ、が……っ、ひゅぅ……カグヤ……赫夜が、くる……」

 椅子に縛り付けられた久我山は完全に白目を剥き、首を垂れて意識を失っていた。精神の限界を超えた恐怖により、完全に心が壊れてしまったのだろう。これ以上、彼から有用な情報を引き出すことは不可能だった。

「……赫夜、か」

 氷室は荒くなった呼吸を整えながら、冷たい石畳の上に視線を落とした。地下牢の床に落ちる薄暗い瓦斯灯の影が一瞬、あの不気味な幾何学模様の形に蠢いたような気がした。

 帝都の平和な日常の裏側ですでに何かが動き出している。小鳥遊家を襲った悲劇は単なる没落華族の借金問題などではなく、この赫夜という巨大な闇が仕掛けた、ほんの些細な実験の一つに過ぎなかったのかもしれない。

「……少佐に急ぎ報告しなければなりませんね。胃薬の減るスピードがさらに加速しそうだ」

 氷室は大げさに肩をすくめ、自嘲気味に呟いた。冷たく重い鉄格子が再び音を立てて閉められる。外の世界で景明と鈴が穏やかな陽光の中で愛を確かめ合っている頃。地下の底から這い出ようとする“赫き影”はすぐそこまで、静かに、そして確実に忍び寄っていた。


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