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第30話

 豪奢を極めたはずの洋館の広間は今や見る影もない。天井から吊るされていた巨大なシャンデリアは床に叩きつけられて粉々に砕け散り、壁を飾っていた名画の数々は無残に引き裂かれている。

 景明は鋭い視線を広間の最奥へと向けた。彼の心臓は戦闘の興奮とは全く別の焦燥と恐怖で早鐘のように打っていた。帝国最強の鬼と恐れられる彼であっても、たった一人の少女の安否を思うだけでいともたやすく取り乱してしまう。

 小鳥遊鈴。彼の愛する婚約者であり、この薄暗い陰謀の中心に巻き込まれてしまった優しく温かい光。

 景明は軍靴でガラスの破片を踏み砕きながら広間の奥へと歩みを進めた。一歩進むごとに心臓を鷲掴みにされるような不安が押し寄せる。久我山は特殊な“毒”を用いて対象の精神を蝕み、百足の這い回るような幻影を見せて意のままに操る、悪辣な洗脳の異能を持っていた。

 もし、鈴の心にまでその甘く濁った毒が深く回りきっていたら。彼女のあの、ひだまりに咲く花のような笑顔が二度と戻らないのだとしたら。

 奥へ進むにつれ、周囲の空気が異様に静まり返っていくのを感じた。そして瓦礫の陰から一つの部屋が現れた時、景明の足は止まった。

「……鈴……?」

 かすれた声が景明の喉から漏れ出た。そこに彼女はいた。だが、その姿は景明の胸を安堵させるどころか底知れぬ絶望の淵へと突き落とすには十分すぎるほど異様だった。

 鈴は目を射るような豪奢な大振袖を着せられていた。その着物は彼女の華奢な体にはあまりにも重く、まるで美しい鳥を閉じ込める豪奢な鳥籠のように見えた。

 彼女はその重たい衣装を身に纏ったまま、背筋を不自然なほど真っ直ぐに伸ばし、豪奢なベルベットの椅子に腰掛けていた。そして彼女の膝の上には鮮やかな絹の布が広げられていた。

 静寂に包まれた空間に、絹布を鋭い針が貫く微かな音が規則正しく響いている。彼女は刺繍をしていた。彼女の十八番であり、“修復”の異能の媒体でもある針と糸を使い、ただひたすらに機械的な正確さで模様を縫い上げている。

 周囲で凄まじい戦闘が繰り広げられ、建物が半壊し、冷たい夜風が吹き荒れているというのに彼女は一切の反応を示していなかった。ただの一度も顔を上げず、瞬きすら忘れたかのように手元の布だけを見つめている。

(なんだ、この異常な空間は……)

 景明は肺が凍りつくような錯覚に陥った。ゆっくりと彼女を刺激しないように近づく。靴音が近づいても鈴の針を動かす手は全く止まらない。流れるような動きで糸を引き、再び針を刺す。その動作は熟練の職人のようでもあり、同時に命を持たない精巧なからくり人形のようでもあった。

「鈴……無事だったか……」

 景明は彼女の傍らに跪き、震える声でそう呼びかけた。手が届く距離まで近づいて、初めて強烈な違和感が嗅覚を襲った。鈴から彼女本来の陽だまりのような温かい匂いが消え失せている。代わりに漂ってくるのは久我山が彼女の精神を縛り付けるために用いたであろう、脳の髄まで泥のように麻痺させる、甘く淀んだ毒の匂いだった。

 その異能の匂いに景明は激しい嫌悪と怒りを感じ、奥歯を噛み締めた。自分の大切な花に精神を蝕む汚毒を染み込ませやがって、と。

「鈴、私だ、迎えに来た」

 景明は極力優しく、壊れ物に触れるような手つきで鈴の華奢な肩に手を置いた。

 その瞬間だった。針を動かしていた鈴の手が不自然なほど唐突に止まった。ゆっくりと油の切れた機械が動くように鈴が顔を上げる。

 景明は息を呑んだ。月光に照らし出された彼女の顔は血の気が失せ、透き通るように白かった。だが、それ以上に景明の心を抉ったのは彼女の瞳だった。

 いつもなら景明の姿を認めるたびに見開かれたり、恥じらうように伏せられたり、怒って睨みつけてきたりする、感情豊かで美しい瞳。

 それが今は何の光も宿されていない、ただの冷たい“硝子玉”に成り果てていた。焦点が合っているのかすら定かではない。景明という存在が彼女の視界に映っているのかどうかも分からない。ただの物理的な反射鏡のようにそこにあるだけだった。

「鈴……?」

 景明がもう一度、すがるような声で名を呼んだ。すると鈴の桜色の唇が微かに開いた。

「私は久我山様の人形」

 その声には一切の高低差がなかった。喜びも、悲しみも、怒りも、恐怖もない。ただ、プログラムされた音声を再生しているかのように平坦で冷酷な響きだった。

「貴方など知りません」

 その一言はいかなる強力な異能の攻撃よりも深く、景明の心臓を物理的に貫き、抉り取った。呼吸が止まった。指先から急速に体温が奪われていくのがわかる。彼自身が氷の異能を暴走させた時よりも遥かに冷たい絶対零度の絶望が景明の全身を支配した。

(私のことを……忘れた、だと?)

 景明の脳裏にこれまでの記憶が走馬灯のように駆け巡った。不思議とも呼べる出逢い。“野中”という偽りの名で過ごした甘く温かい日々。彼女の作る手料理の味。恥ずかしそうに頬を染めながら“西園寺様”と呼んでくれた、あの声。互いの気持ちを確かめ合い、不器用ながらも確実に距離を縮めてきたはずの、確かな絆。

 それらがすべて薄汚い泥靴で踏みにじられ、跡形もなく消し飛ばされたような感覚だった。

「……冗談だろう、鈴。私だ……!君の婚約者の西園寺景明だ!」

 景明の感情が限界を超えて決壊した。彼は冷静さを失い、肩に置いていた両手に思わず強い力を込めてしまった。彼女をこの悪夢から引きずり出さなければならない。その一心で彼女の体を自分の方へと無理やり振り向かせようとした。

「目を覚ましてくれ、鈴……!」

 それが決定的な“引き金”だった。

 “刺繍の邪魔をする者は排除しろ”。

 久我山が鈴の深層心理に刻み込んでいた、絶対的な命令。景明が彼女の肩を引き寄せた瞬間、彼女の虚ろな瞳の奥で無機質な赤い光が明滅したように見えた。

 彼女の全身から先ほどまでの静けさが嘘のような殺気とも呼べない無機質な排他衝動が弾けた。

 鈴の右手が凄まじい速度で動いた。それは机の上にあった裁縫箱から分厚い鋼でできた重たい裁ちばさみを掴み取った動きだった。

「な……っ!」

 歴戦の猛者であり、軍でもトップクラスの身体能力と反射神経を誇る景明であれば、ただの少女の攻撃など目を瞑っていても避けることができる。ましてや異能を使えば一瞬で彼女の動きを封じることなど造作もないことだった。だが、攻撃を仕掛けてきた相手が“小鳥遊鈴”であるという事実が景明の脳と体の連結に致命的なコンマ数秒のバグを生じさせた。

 まさか彼女が自分を傷つけようとするとは。その決定的な精神的ショックが景明の回避行動を遅らせた。無意識のうちに彼女に異能をぶつけて傷つけることを体が強烈に拒絶したのだ。

 鋭利な刃先が暗闇の中で銀色の弧を描く。景明は咄嗟に身をよじった。しかし、完全に避けきることはできなかった。

 鈍い音とともに景明の左腕の軍服が切り裂かれ、浅からぬ傷が刻まれた。さらに返す刀で振るわれた刃が彼の端正な頬を掠める。

「……ッ!」

 鋭い痛みが走り、直後に温かい液体が頬を伝って流れ落ちるのを感じた。顎を伝い、軍服の襟を濡らす赤黒い染み。鉄錆の匂いが香木の匂いに混ざって鼻腔を突いた。

 景明は片膝をついた体勢のまま、信じられないものを見る目で鈴を見つめた。自分の血が流れ出ていることへの驚きではない。人を刺し、血を流させたというのに。鈴の顔には一切の動揺も、恐怖も、罪悪感も浮かんでいなかったのだ。

 それどころか、ただ作業の邪魔をする障害物を排除したとでも言わんばかりに無表情のまま再び裁ちばさみを振り上げ、景明の首筋へと狙いを定めている。

 一切の慈悲を持たない完全なる人形。言葉はもう届かない。どれだけ愛を叫ぼうが、どれだけ思い出を語ろうが、今の彼女にはただの雑音に過ぎないのだと景明は悟らざるを得なかった。

 頬から流れ落ちる血が冷たい床に落ちる。その赤い滴を見つめた瞬間、景明の瞳の中に昏く、しかし決して消えることのない苛烈な炎が宿った。

(……ならば、力ずくで引き戻すまでだ)

 言葉が通じないのなら、魂の根底に直接訴えかけるしかない。たとえ彼女に憎まれようとも、乱暴な手段に出ようとも、この虚無の底から彼女を救い出せるのは自分しかいないのだから。

(避けてなるものか)

 己の血が流れることなど、今の彼にとっては些末な問題に過ぎなかった。愛する者が心を奪われ、空虚な人形と成り果ててしまった絶望に比べれば肉体の痛みなど取るに足らない。

 風を切る鋭い音が静寂に支配された広間の空気を引き裂いた。鈴の華奢な腕からは想像もつかないほどの洗脳に燃えさかる無慈悲な力が込められた鈍色の刃が景明の首筋や心臓を狙って容赦なく振り下ろされてくる。

 だが、景明は迫り来る死の刃から視線を逸らさなかった。彼は迷いを捨てた猛禽のように前傾姿勢のまま力強く床を蹴る。刃が己に届くよりも早く、その身を深く前へと踏み込んだのだった。

 鋭い刃先が軍服の厚い生地を突き破り、彼の左肩口に深く食い込む。嫌な音が鳴り、焼けるような痛みが神経を駆け抜けた。新たな鮮血が夜気を舞い、大振袖に黒々とした染みを作る。だが、景明は微塵も怯むことなく、その痛みを推し進めるようにして鈴の懐へと深く踏み込んだ。

「……っ、鈴!」

 激突するような勢いで景明は彼女の体を抱きすくめた。凄まじい衝撃に鈴が座っていたベルベットの椅子が後ろへと傾き、音を立てる。

 景明の鼻腔を再びあの甘ったるく吐き気を催す匂いが突いた。久我山が彼女に染み込ませた、支配の匂い。それを上書きするように景明は自身の全身全霊を懸けて彼女の細い体をホールドした。

「……排除、排除します」

 腕の中で鈴がもがいた。感情の抜け落ちた声で恐ろしい言葉を淡々と口にしながら。彼女は景明の腕から逃れようと信じられないほどの力で暴れ始めた。右手に握られた裁ちばさみを再び振り上げようとし、左手で景明の胸板を力任せに押し退けようとする。その動きは愛らしい鈴のそれではなかった。殺戮をプログラムされた機械そのものだ。

(させるか……!君をこれ以上あの外道の思い通りにはさせない!)

 景明は奥歯を噛み締め、彼女の抵抗を力でねじ伏せた。強靭な右腕で彼女の背中から腰にかけて強く抱き込み、自分の体へと密着させる。分厚い大振袖の布越しでも、彼女の体が芯から冷え切っているのがわかった。

 そして、空いた左手を素早く動かし、凶器を振り上げようとしていた鈴の右手を払いのけるとそのまま彼女の細い顎を鷲掴みにした。

「……!」

 声にならない微かな息が鈴の唇から漏れる。景明の大きく無骨な手が彼女の柔らかな顎から頬にかけてをきつく固定した。決して乱暴に扱うつもりはなかったが、今の彼女の異常な力を抑え込むためには容赦はできなかった。彼女の顔が無理やり上へと向けられる。

 月光に照らされた硝子玉のような虚ろな瞳が景明のすぐ目の前にあった。焦点を結ばないその瞳の奥に自分の姿は映っていない。

「私を見てくれ。……西園寺景明を、君の婚約者を思い出してくれ!」

 言葉はもう届かない。理屈や説得では深く根を下ろした洗脳の呪縛は解けない。ならば、どうするか。答えは一つしかなかった。五感。理性を飛び越え、本能と魂の最も深い部分に直接訴えかける強烈な刺激。

 景明は躊躇うことなく顔を近づけ、鈴の桜色の唇を己の唇で塞いだ。逃げ場を完全に奪い、有無を言わさず相手のすべてを貪り尽くすような、深く強引で圧倒的な熱量を伴った接吻。大切な彼女をこんな乱暴な形で扱うことへの躊躇いや罪悪感すら抱く余裕はなく、今は何としてでも彼女の魂をこの虚無から引きずり出すという、悲壮な決意だけが彼を突き動かしていた。

 触れた瞬間の鈴の唇は氷のように冷たかった。生命力を感じさせないその冷たさに景明の心臓が痛みを訴える。だが、彼はひるまなかった。固定した顎をさらに強くホールドし、彼女のわずかに開いた唇の隙間をこじ開けるようにして、己の熱を注ぎ込む。

 その時だった。景明の頬に負った切り傷から流れ出ていた血が二人の重なる唇の端へと伝い落ちたのだ。生温かい液体の感触。そして舌先に触れた瞬間に弾けた、強烈な鉄錆の味。

 血の味だ。その鮮烈な味覚は鈴の口内から脳髄へと電撃のように駆け抜けた。同時に二人の吐息が混ざり合う至近距離で景明の軍服から漂う硝煙の匂い、そして微かなオゾンの匂い、何より彼自身から発せられる、冷たくもどこか安心させるような独特の香りが久我山の匂いを完全に駆逐して鈴の嗅覚を支配した。

「……ん、んんっ……!」

 鈴の喉の奥からくぐもった声が漏れた。それは先ほどまでの機械的な音声とは違う、明らかな動揺と苦痛を含んだ人間らしい声だった。

 血の味。それは“修復”の異能を持つ鈴にとって最も強烈に生と死を実感させるもの。その鮮烈な味覚は鈴の口内から脳髄へと電撃のように駆け抜けた。

 鈴の脳内で分厚い氷にヒビが入るような、鋭い音が響いた。久我山によって塗り込められていた漆黒の泥が、鉄錆の味と馴染みのある体温、そして愛しい匂いによって急速に洗い流されていく。

 嘘つきで冷徹な鬼少佐で、けれど誰よりも優しく、不器用に愛を伝えてくれた人。鈴がこの世界でただ一人、心を許し共に生きていくと誓った人。

「……西、園寺……さま……」

 鈴の口唇から、無意識のうちにその名が紡がれた。塞がれていた唇の隙間から漏れ出たその震える声は景明の鼓膜を確かに震わせた。

(鈴……!)

 景明の胸の中で大きく安堵の鐘が鳴り響いた。彼を押し退けようと暴れていた鈴の腕から急速に力が抜けていく。彼女の右手に握られていた分厚い裁ちばさみが床の瓦礫の上に滑り落ち、鋭い金属音を立てた。

 それが洗脳という名の見えない鎖が完全に砕け散った合図だった。虚ろだった瞳に急速に光が灯っていく。焦点が合い、目の前にいる男の顔をはっきりと認識した瞬間、鈴の瞳は限界まで見開かれた。

「んっ、んんーーーッ!」

 洗脳から解放された途端、鈴は強烈な息苦しさに襲われた。景明のキスがあまりにも深く、強引だったため、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。彼女はパニックになり、今度は彼を傷つけるためではなく、空気を求めて景明の厚い胸板を叩き始めた。

(ああ、戻ってきてくれた……。私の、鈴が……)

 景明は彼女の必死な抵抗を感じながらも、すぐには唇を離すことができなかった。ようやく手の中に温かい命を取り戻せた歓喜。もし一歩間違えていれば、永遠に彼女を失っていたかもしれないという恐怖の余韻。それらが混ざり合い、彼の理性を溶かしていたのだ。

 数秒ののち、鈴が本気で酸欠になりかけていることに気づき、景明はようやく名残惜しそうに唇を離した。銀色の糸が二人の唇の間に艶かしく引かれ、闇に溶けていく。

「ぷはっ、ぁっ、はぁ、はぁっ……!」

 鈴は景明の胸にすがりつくようにして、大きく新鮮な空気を肺に吸い込んだ。肩で息をしながら彼女の目は潤み、戸惑いと混乱に揺れている。

「鈴……」

 景明は彼女を包み込んでいた腕の力を少し緩め、今度は壊れ物を扱うような、この上なく優しい手つきで彼女の背中を撫でた。彼の低い声は情けないほどに震えていた。

 景明は彼女を包み込んでいた腕の力を少し緩め、今度は壊れ物を扱うような、この上なく優しい手つきで彼女の背中を撫でた。

 彼の低い声は情けないほどに震えていた。愛する女を失いかけた恐怖と再び腕の中にその温もりを取り戻せた安堵。それらが入り混じり、景明の瞳の奥は熱く焼けるように疼いている。血と硝煙の中で生きてきた彼にとって、己の涙腺が緩むなど前代未聞のことだったが今ばかりは溢れ出しそうになる感情を制御することなど不可能だった。

「……西園寺、様……?」

 息を整えた鈴が恐る恐る彼の顔を見上げた。そこで彼女の視界に飛び込んできたのは景明の頬に刻まれた生々しい切り傷と軍服の肩口から滲み出す赤黒い血だった。そして自分の右手に残る、硬い金属を握りしめていた感覚。床に落ちた、血塗られた裁ちばさみ。自分の口内に残る、生温かい鉄錆の味。すべてがひとつの恐ろしい事実を物語っていた。

「あ……」

 鈴の喉から空気が漏れる音がした。血の気が一気に引き、先ほどまでキスの熱で赤く染まっていた頬が蒼白に染まっていく。

「私……私が、西園寺様を……?刺した……?」

 彼女の大きな瞳から大粒の涙が零れ落ちた。自分が操られていた間の記憶は深い霧に包まれたように曖昧だった。だが、自分が手に持っていた刃物で愛する人を傷つけたという結果だけが残酷な現実として目の前に突きつけられている。

「違う、鈴!これは私が勝手に……」

「嫌っ……!私、なんで……あんなこと……っ」

 景明が慌てて否定しようとするが鈴の耳には届かない。彼女は完全なパニック状態に陥っていた。小刻みに震える両手で自身の頭を抱え、後ずさろうとする。“修復”の力を持つ彼女にとって他者を、それも最愛の存在を自らの手で“破壊”し、傷つけたという事実は精神を崩壊させかねないほどのトラウマになりえた。

「鈴、落ち着け!私を見てくれ!」

 景明は後ずさろうとする鈴の腰を再び力強く抱き寄せた。彼女がこれ以上、自責の念という底なし沼に沈んでしまわないように。

「離して……!私、西園寺様を傷つけた……私の手が……!」

「鈴!」

 狂乱して暴れる鈴を鎮めるため、景明は再び強硬手段に出た。ただし、今度は力でねじ伏せるのではない。短い水音が響いた。

 景明は涙と後悔に塗れた鈴の唇に今度は触れるだけの甘く優しいキスを落としたのだ。

「……ぇ?」

 鈴の動きが止まった。大きく見開かれた瞳から涙の雫がこぼれ落ちる。再びキスが落とされる。今度は涙に濡れた頬へ。次は赤くなった目尻へと次々に触れるだけのキスを落としていく。

「西、園寺様……?」

「私は無事だ。この程度の傷はかすり傷にも満たない。そんなことよりも……」

 景明は鈴の涙に濡れた顔を両手で優しく包み込んだ。そして月光を背に受けて、彼本来の酷薄さなど微塵もない、不器用でけれどどこまでも甘く、底抜けに優しい微笑みを浮かべた。

「君が私の腕の中に戻ってきてくれた。……それだけで私は十分だ。よかった……本当に無事でよかった」

 その声には彼女を心から愛おしむ、深い深い愛情が込められていた。自分が傷つけられたことへの恨み言など一切ない。ただ、彼女が存在してくれていることへの純粋な感謝だけがそこにあった。

「っ……うぅ……西園寺様の、ばかぁ……」

 鈴は緊張の糸が完全に切れたように景明の胸に顔を埋めて声を上げて泣き始めた。申し訳なさと、安堵と、彼の圧倒的な優しさに触れたことで感情のダムが決壊したのだ。

 景明は軍服が彼女の涙で濡れるのも構わず、愛おしそうに彼女の頭を撫で続けた。ひとしきり泣いて、ようやくしゃくりあげる声が小さくなった頃。鈴は勢いよく顔を上げ、彼の肩口の傷を見た。

「……血が、止まっていません。手当てをしないと……っ」

 涙目で鼻を啜りながらも彼女は“修復”の担い手としての使命感を取り戻していた。視線を落とせば、先ほどまで自分が操られて使っていた針と糸が瓦礫の上に転がっている。だが、それに手を伸ばそうとして、鈴は咄嗟に指を引っ込めた。

 久我山が用意したその色鮮やかな糸には彼の精神を蝕む甘く淀んだ毒の匂いがべっとりと染み付いていたのだ。こんな汚染された道具で愛しい彼の血肉を縫い合わせれば、最悪の場合、毒が西園寺様の体内へ侵入してしまうかもしれない。

 自身の異能が使えないもどかしさに強く唇を噛み締め、鈴は悲痛な声を上げた。

「ここでは手当てができません……!外に出て、早く軍の衛生兵の方に診てもらいましょう!」  焦って景明の背中を押そうとする鈴。だが、景明は微動だにしない。それどころか、彼女の腰を抱く腕の力をさらに強め、自分の体へと密着させてきた。

「西園寺様?」

「……いや、もう少しこのままでいさせてくれ」

 景明は鈴の首筋に顔を埋め、まるで甘える子供のように低く掠れた声で呟いた。その体勢は最強の鬼少佐の姿からは想像もつかないほど無防備で依存的だった。

「な、何を言っているんですか!傷口からばい菌が入ったらどうするんですか!破傷風になったら大変です!早く立ってください!」

 鈴は顔を真っ赤にして怒った。心配しているのに当の本人はこの緊迫感のない態度である。しかも首筋に押し当てられた彼の吐息が熱く、変な声が出そうになるのを必死で堪えなければならない。

「私の異能で傷口は凍らせて塞ぐことができる。ばい菌など死滅する。だから問題ない」

「そういう問題じゃありません!大体、氷で塞いだら後で治りにくくなるっていつも……!」

「鈴の体温が心地いいんだ。……もう少しだけ。君を失いかけた恐怖がまだ骨の髄に残っている。君の温もりを感じていないと、私は……」

 それは彼が本当に心を開いた相手にしか見せない素の彼の言葉だった。そんなことを言われてしまっては鈴もこれ以上強く拒絶することはできない。

「……もう。本当に我儘なんですから……」

 鈴は文句を言いながらも彼を押し退けようとしていた手を止め、代わりに彼の広い背中にそっと腕を回した。彼の力強い心音が伝わってくる。それが自分が彼を殺さずに済んだという、何よりの証拠だった。

 数分間、死闘の余波で窓ガラスが砕け散った奥の部屋で二人はただ無言で抱き合っていた。容赦なく冷たい夜風が吹き込んでくる中、互いに身を寄せ合い、その体温を感じることだけが今の彼らにとって唯一の救いであった。

「……よし。すまない、鈴。取り乱した」

 やがて、景明がゆっくりと顔を上げた。いつもの冷静沈着な軍人の顔に戻ろうとしているのがわかる。だが、その耳の裏が微かに赤くなっているのを至近距離にいる鈴は見逃さなかった。

「歩けるか?」

「はい。大丈夫です……きゃっ!?」

 鈴が頷いて彼の胸から身を離し、瓦礫を避けて一歩を踏み出そうとした瞬間、視界がぐらりと反転した。彼女は景明の力強い腕の中に軽々と横抱きにされていた。いわゆる、姫抱きである。「さ、西園寺様!?歩けると言ったのに!」

「足元にはガラスの破片が散乱している。君に怪我をさせるわけにはいかない」

「で、でも、重いでしょうし、その、傷が……」

「これくらいで私が参ると思っているのか?それとも私の腕の中は不満か?」

「不満だなんて、言ってませんけど……恥ずかしいです……」

 豪奢な大振袖を着た自分を血まみれの軍人が軽々と抱きかかえている。端から見れば、なんという過剰なメロドラマだろうか。

 鈴は顔から火が出そうになり、景明の胸元に顔を隠すように縮こまった。

「私の大切な婚約者を運んでいるんだ。誰にも文句は言わせない」

 景明は全く恥じる様子もなく、むしろ誇らしげに胸を張り、鈴を抱いたまま洋館の出口へと向かって歩き出した。

 崩落の危険が伴う半壊した屋敷の中を、彼は迷いのない足取りで進んでいく。力強い両腕の中にすっぽりと収まった鈴は、揺れる視界の中で変わり果てた広間の惨状を改めて目の当たりにした。

 豪奢だったはずの壁は焼け焦げ、床には無数のガラス片や瓦礫が散乱している。もし一人で歩いていたら、この分厚く重たい真紅の大振袖の裾を取られ、怪我をしていたことは想像に難くない。

(本当に西園寺様が助けに来てくれた……)

 鈴は景明の首元に回した腕に力を込めた。

 分厚い軍服越しに伝わってくる規則正しく力強い心音。鼻腔をくすぐる、彼特有の冷たくも清潔な香りと微かに混じる血と硝煙の匂い。それらすべてが自分が今、紛れもなく現実の世界に引き戻されたのだという確かな安堵感を満たしていく。久我山が精神を縛るために用いたあの甘く淀んだ毒の匂いは吹き込む冷たい夜風と共にもう完全に押し流されていた。

(……この人のためなら私はどんな運命でも乗り越えられる)

 硝子のように冷たく砕け散りそうだった心は彼の不器用で熱い愛によって完全な形を取り戻している。外で待機しているであろう部下たちにこの恥ずかしい姿を見られるのかと思うと胃が痛み始めたが、景明の力強い腕の中は、悔しいほどに心地よかった。

 やがて、蝶番からひしゃげて吹き飛んだ巨大な両開きの玄関扉の跡が見えてきた。そこから外へ出た瞬間、二月の終わり特有の肌を刺すような鋭い夜気が二人の体を包み込んだ。空には冴え冴えとした冬の月が浮かび、瓦礫の山と化した久我山の邸宅を冷ややかに照らし出している。

 その月光の下、洋館の前庭には黒々とした人影が幾重にも列をなして待機していた。帝国陸軍・異能特殊部隊の精鋭たちである。

 彼らは皆、隊長である景明が一人で敵の懐へと飛び込んでからというもの、息を潜めて外周を固め、今か今かとその帰還を待ちわびていたのだ。久我山が雇っていた私兵たちはすでに部隊の者たちによって制圧された後だった。

 静まり返った前庭に景明の重い軍靴の音が響き渡る。暗闇の中から現れた景明の姿、そしてその腕の中に大切に抱き抱えられた鈴の姿を認めた瞬間。

「……っ、隊長!」

「少佐は無事だ!小鳥遊のお嬢さんもご無事だぞ!」

 誰かの弾んだ声を皮切りに水を打ったような静寂は一瞬にして破られた。

「うおおおおおっ!!」

「万歳!隊長万歳!!」

 待機していた数十名の屈強な隊員たちが一斉に歓喜の雄叫びを上げたのだ。軍帽を振りかざす者、隣の肩を叩き合って喜ぶ者、感極まって涙ぐむ者。夜空を震わせるほどの野太い歓声が冷たい空気を一気に熱気へと変えていく。

「ひゃっ……!?」

 突然の爆音のような歓声に鈴は肩を跳ねさせた。何事かと顔を向ければ、大勢の屈強な軍人たちが一斉にこちらを見て満面の笑みを浮かべているではないか。しかも、その視線の中心には彼らの敬愛する鬼少佐に“姫抱き”されている大振袖姿の自分がいる。

(こ、公開処刑……!?)

 鈴の顔が瞬く間に林檎のように真っ赤に染まった。ただでさえ、こんな派手な着物を着せられて恥ずかしいというのに大勢の男たちの前で恋人に抱き抱えられている姿を見られるなど羞恥の極みである。

「さ、西園寺様っ、皆様見ていらっしゃいます!降ろしてください、私、自分で歩けますから!」

「駄目だ。足元が暗くて危ない。それに君はひどく疲労しているはずだ」

 鈴が小声で抗議しながら身をよじるが景明のホールドはビクともしない。彼は全く恥じる様子もなく、むしろ“私の婚約者を見ろ”と言わんばかりに堂々と胸を張って歩き続けている。

「お前たち、騒ぐな。夜陰に乗じて近隣の迷惑になる」

 景明が低く威厳のある声で一喝すると隊員たちは「はっ!」と姿勢を正し、一瞬で静まり返った。さすがは最強の部隊を率いる指揮官である。 その凛々しい横顔に鈴は不覚にもまた胸を高鳴らせてしまう。だが、鈴は知らなかった。彼のその威厳ある態度の裏でとんでもない思考が繰り広げられているということを。

(あぁ、私の腕の中で恥ずかしそうに小さくなっている鈴が世界で一番可愛い。赤くなった頬も、抗議する小さな唇も、すべてが愛おしい。誰の目にも触れさせたくない。このまま誰にも見つからない自分だけの秘密の場所に閉じ込めてしまいたい……)

「……っ、痛つっ……」

 群衆の最前列で一人、頭を抱えてしゃがみ込みそうになっている氷室がいた。

 生真面目さを絵に描いたような端正な顔立ちの彼は今、顔面を蒼白にさせ、こめかみを指で強く揉み解していた。彼の異能は読心術。普段は他人の雑音を拾わないように強力な制御をかけているのだが、今日は違った。単身で敵地に乗り込んだ上官の安否が気がかりで、精神の波長を探るために異能を全開にしたまま、閉じるのを忘れていたのだ。

 その結果、無表情で部下をたしなめる景明の顔面からは想像もつかない、砂糖を煮詰めたような甘ったるく重たい心の声がダイレクトに氷室の脳髄に流れ込んでしまったのである。

(少佐……無事なのは何よりですが頼むからその顔でそんな破廉恥なことを考えないでください……。私の胃と頭が爆発しそうです……)

 氷室は深いため息をつき、軍服のポケットから素早く常備薬の胃薬の瓶を取り出し、喉に流し込んだ。苦い味が口の中に広がるが上官の甘すぎる妄想を中和するにはちょうどよかった。

「氷室様……!」

 景明の腕の中から、鈴が縋るような声で氷室を呼んだ。彼女の視界にいつも冷静沈着な氷室の姿が映っていたからだ。この恥ずかしい状況から抜け出すには理知的な彼に助けを求めるしかない。

 氷室は頭痛を堪えながら、胃薬の瓶をしまって二人の前へと進み出た。そして景明の顔、正確には彼の頬に刻まれた血の滲む傷と軍服の左肩口から滴る生々しい血の跡を見て、わずかに眉をひそめた。

「少佐。ご無事で何よりですが……その傷は?」

「かすり傷だ。気にするな」

「かすり傷なんかじゃありません!氷室様、早く西園寺様の手当てをしてください!私のせいで……私が西園寺様をはさみで……っ」

 景明は短く答えたが鈴はたまらず身を乗り出した。再び自責の念がぶり返し、鈴の大きな瞳に大粒の涙が浮かび上がる。自分の手で彼を傷つけてしまったという事実は何度思い返しても彼女の心を抉った。

「泣くことはない、鈴。私が避けなかっただけだ。氷室、私の傷など後でいい。それよりも鈴を診てくれ。久我山の洗脳を受けていたんだ。後遺症や精神的な負荷がかかっていないか心配だ。早く医療班を!」

 景明は鈴の言葉を遮り、鋭い口調で氷室に命じた。自分の肩から血が流れているというのに彼の意識は完全に鈴の安否のみに向いている。

「駄目です!西園寺様の方が血を流しているじゃありませんか!私なんかより、西園寺様が先です!」

「君の身に何かあってからでは遅いんだ。私の傷など、氷で血流を止めているからこれ以上は悪化しない。君の安全が最優先だ」

「そんなの無茶苦茶です!氷室様、早く西園寺様の治療を!」

「氷室、鈴が先だ!」

 夜の冷気が立ち込める前庭で血まみれの軍人と彼に抱えられた豪奢な着物の少女が互いを思いやるあまりに一歩も譲らない口論を始めた。

 周囲の隊員たちは「隊長も熱いなぁ」「お嬢さんも愛が深い」と、どこか微笑ましいものを見るような温かい視線を向けている。

 しかし、その中心で板挟みになっている氷室だけは胃の痛みが限界に達しようとしていた。言葉で言い争っている裏で氷室の脳内には景明の『鈴が私の身を案じて泣いている。あぁ、なんて健気で愛しいんだ。いますぐこの口を塞いで慰めてやりたいのが部下の前だ。我慢しろ』という、さらに甘さの増した心の声が容赦なく響き渡っているのだ。限界だった。

「……お二人とも」

 氷室は絶対零度を思わせる冷ややかな声で二人の言い争いを一刀両断した。

 景明と鈴が口を閉じる。

「その痴話喧嘩はどうか車の中でやってください。周囲の隊員たちの気も緩みます。……それに私の胃が持ちません」

 氷室は眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、深々と溜め息をついた。

「怪我の具合ですがどちらが先などと揉める必要はありません。私が同時に診ます。小鳥遊嬢の精神状態のチェックも、少佐の応急処置も、並行して行えますので。ですから少佐、さっさと小鳥遊嬢を連れて後方の車へ向かってください」

 優秀な副官の一切の反論を許さない正論。これにはさすがの景明も、そして鈴も、それ以上何も言うことができなかった。

「……すまない、氷室」

 景明は小さく咳払いをして威厳を取り繕おうとしたがその耳の裏がまたしても微かに赤く染まっているのを氷室は見逃さなかった。

「承知いたしました。……ただ少佐、一つだけ苦言を呈してもよろしいでしょうか」

「なんだ」

 氷室は少しだけ顔を近づけ、周囲には聞こえないような小声で、しかしはっきりとした怒気を孕んだ声で囁いた。

「いくら愛しいからといって、脳内で小鳥遊嬢を撫で回すのはやめてください。読心術を開きっぱなしにしていた私も悪いですが少佐の心の声が甘すぎて、本当に吐き気がします。……次やったら、小鳥遊嬢にすべて暴露しますからね」

 その瞬間、最強の鬼少佐の顔面がわかりやすく引きつった。

「……善処しよう」

「善処ではなく、今すぐやめてください」

 氷室の冷たい視線から逃げるように景明は鈴を抱き抱えたまま、足早に待機している黒塗りの大型軍用車両へと向かい始めた。

 鈴は二人が何をこそこそと話していたのか聞こえなかったが、突然歩みを早めた景明の胸の中でただ首を傾げることしかできなかった。

 指定された車両に辿り着き、部下が慌てて後部座席の重厚なドアを開ける。景明は鈴を己の腕の中から降ろそうとはせず、そのまま開け放たれた後部座席のシートに深く腰を下ろした。長い両足はまだ外の石畳に投げ出されたままだが、その安定した膝の上には、すっぽりと鈴が収まっている。

 そこへすぐさま二人の後を追ってきた氷室が到着し、迅速な応急処置が始まった。

 部下が手際よく医療鞄を開くと、冷たい夜気の中に消毒液の独特な匂いが立ち込める。その匂いは先ほどまで彼らを包んでいた血と硝煙の匂いを僅かに上書きし、鈴の強張っていた神経を少しだけ現実に引き戻した。

「少佐、軍服のままでは処置ができません。上着を脱いでください」

 氷室が淡々とした声で促すと、景明はシートに腰掛けた姿勢のまま、片腕で鈴の腰をしっかりと抱き寄せ、空いた手で不満げに漆黒の軍服とシャツのボタンを外していった。氷室も補助し、鍛え上げられた分厚い上半身が夜気の中に露わになる。

 あらわになった左肩には鋭利な刃物で深く抉られた生々しい傷口が赤い血を滲ませており、鈴は痛ましさに息を呑んだ。

 氷室は容赦なく消毒液を含ませた白いガーゼをその傷口に押し当て、手早く純白の包帯をきつく巻いていく。

「全く……無茶をなさる」

 氷室は深い溜め息混じりに言いながら景明の頬に刻まれた一筋の切り傷にもガーゼを当て、医療用テープで固定した。端正な顔立ちと逞しい肩に巻かれた痛々しい純白が目を引くが景明本人は傷の痛みなど全く意に介する様子もなく、ただ空いている右腕で愛しい少女の温もりを確かめるように鈴をきつく抱きしめていた。

「小鳥遊嬢、次は貴女の番です。失礼します」

 氷室が携帯用電灯を取り出し、鈴の瞳孔の開き具合を確認する。眩しい光に鈴が目を瞬かせると、氷室は手首に指を当てて脈を測った。

「……脈拍はやや早いですが瞳孔の反応は正常。久我山の異能による洗脳の残滓は完全に消え去っているようです。外傷も見当たりません。ただ、極度の精神的負荷がかかっていますから今日はもう何も考えずに眠ることです」

「氷室様……ありがとうございます。あの、氷室様もずっと外で待機してくださって……寒かったでしょうに」

「私は仕事をしたまでです。それに少佐の“うるさい声”のおかげで寒さを感じる余裕もありませんでしたから」

 氷室が眼鏡の奥で景明を睨むと、景明は気まずそうに視線を逸らした。鈴にはその意味がわからず、ただ不思議そうに首を傾げるだけだった。

「さあ、完全に中へ。夜風に当たりすぎると、今度こそ熱を出します」

 氷室の言葉に頷き、景明は鈴を抱きかかえたまま、長い脚を車内へと引き入れた。分厚いドアが閉められると、外の喧騒や夜風の音が一気に遮断され、完全な密室空間が生まれた。

 鋭い外気が遮断された車内は互いの体温も相まって幾分か暖かく感じられ、高級な革張りの座席の匂いが漂っていた。

 鈴は当然、自分が隣の座席に降ろされるものと思っていた。だが、景明は彼女を横抱きにしたまま、自分の膝の上から一向に降ろそうとしない。

「あ、あの、西園寺様……もう車の中ですし、降ろしていただかないと……。それに私が乗っていたら、傷口に触れて痛むんじゃ……」

「痛まない。それにまだ駄目だ」

 景明は鈴の腰に回した腕の力を微塵も緩めず、むしろさらに自分の胸へと引き寄せた。

「君を自分の体から離すとまた君が暗闇の中に消えてしまいそうな気がするんだ。……頼むから、もう少しこのまま、私の腕の中にいてくれ」

 その声は泣く子も黙る鬼少佐とは思えないほど切実で、どこか怯えを含んでいた。彼がどれほど自分を失うことを恐れていたのか。その深い愛情と恐怖の残り香に触れ、鈴はそれ以上抗議の言葉を紡ぐことができなくなった。

「……はい。西園寺様がそうおっしゃるなら」

 鈴は観念したように小さく息を吐くと大振袖の重たい袖を畳み、彼の広い胸板にそっと頭を預けた。

 やがて、運転席に乗り込んだ部下がエンジンをかけると低い駆動音が足元から伝わってきた。車がゆっくりと動き出し、石畳の上を滑るように走り始める。

 規則正しい車の揺れ。暖かな空気。そして何より耳元で聞こえる景明の力強く、穏やかな心音。

 それらが子守唄のように鈴の五感を包み込んでいく。洗脳から解放された反動と極度の緊張が解けたことによる凄まじい疲労感が一気に彼女の全身を襲ってきた。

(ああ……終わったんだわ。本当に……)

 まぶたが鉛のように重くなる。張り詰めていた糸が切れ、鈴の意識は急速に微睡みの底へと沈み始めた。

「……若菜さん……心配、してる、よね…」

「ああ。すでに氷室が連絡を入れているはずだ。邸に帰れば、いつものように小言を言いながらも温かい茶を淹れてくれるさ」

 景明の低く優しい声が頭上から降ってくる。その言葉に安心して鈴は口元を綻ばせた。

「……よかった。西園寺様……助けに来てくださって……ありがとう、ございます……」

 最後の言葉は半分寝言のように溶けて消えた。

 鈴の規則正しい寝息が静かな車内に響き始める。完全に脱力し、己のすべてを委ねるように景明の肩に頬を擦り寄せて眠るその姿は痛々しいほどに無防備で愛らしかった。

(……鈴)

 景明は自分の胸元で眠る彼女の頭を壊れ物に触れるようにそっと撫でた。絹糸のように滑らかな黒髪の感触。頬を撫でる温かい吐息。

 先ほどまで虚無の硝子玉になっていた彼女がこうして再び生命の温もりを取り戻し、自分の腕の中で息づいている。

 景明は、そっと彼女の右手を手に取った。プロ顔負けの腕前になるまで日々熱心に刺繍の針を握り続けてきた証である、指先の微かな硬さ。先ほど、自分を傷つけるために無慈悲な刃物を握らされていた、その小さな手。

 彼はその手を両手で包み込み、そっと引き寄せると彼女の細い指先に深く、祈るような口づけを落とした。

(もう二度と君のこの手を、君の望まないことには使わせない)

 心の中で強く誓う。この温かく優しい光を泥に塗れた暗闇へと引きずり込もうとする者がいるならば、己がすべて盾となり、氷の刃となってそいつを完膚なきまでに滅ぼし尽くす。

 たとえこの手がどれほど血に塗れようとも、彼女の世界だけは永遠に美しく、温かいままで守り抜く。

(私は君のためだけにこの力を使おう。私のすべては君のものだ)

 月明かりが車窓を通り抜け、眠る鈴の横顔を白く照らし出している。

 景明は彼女の冷え切った指先を己の大きな手で包み込み、その温もりを確かなものにするようにきつく、きつく握りしめた。

 深い夜の闇を切り裂いて走る車の中で最強の鬼はただ一人の少女へ向けた、狂おしいほどの永遠の愛と守護を静かに誓い続けていた。



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