第29話
静かだが確かな怒りを帯びた誓いが胸の奥で熱く燃え上がる。
景明の短く鋭い合図とともに鋼鉄の車列が一斉に低く唸りを上げた。分厚いタイヤが荒い砂利を容赦なく噛み砕き、夜の闇へと一気に加速していく。その先頭車両で前を見据える景明の瞳は、もはや微塵の迷いもない冷徹にして苛烈な魔王の色へと染まりきっていた。
彼らを迎え入れた帝都の夜はまるで凍てついた硝子細工のように冷たく、そして酷薄だった。
氷の粒を孕んだ木枯らしが赤煉瓦の立ち並ぶ大通りを吹き抜け、鈍い光を放つガス灯の炎を頼りなく揺らしている。普段であれば華やかな夜会へと向かう着飾った紳士淑女たちの笑い声やほろ酔いで家路につく労働者たちの喧騒で満ちているはずの街並み。しかし今夜ばかりはまるで世界から息遣いが消え去ったかのような異様な静寂に包まれていた。
それは嵐の前の静けさか。あるいは巨大な怪物が暗闇に息を潜め、愚かな獲物が自ら罠に飛び込んでくるのを待ち構えているかのような得体の知れない圧迫感が街全体をねっとりと覆い尽くしている。
やがて、その凍りついたような静寂を、石畳を激しく軋ませながら駆け抜ける車列の重低音が無情に引き裂いていった。
漆黒の闇を切り裂くように疾走する車内で、帝国陸軍少佐にして異能特殊部隊を率いる景明は車窓から矢のように流れていく夜景をただ冷徹な眼差しで見つめ続けていた。
(……鈴)
景明は自身の軍服の胸ポケットにそっと手を当てた。厚手の羅紗越しにでもそこに入っている一枚の薄い布の存在を確かに感じ取ることができる。
それは若菜から受け取った千鳥の刺繍が施されたハンカチだ。
彼の無事を祈り、彼の冷え切った心を温めようと紡がれたその刺繍には今、彼女が流した涙の跡がついたまま。
鈴は景明を裏切ったのではなかった。金と平穏な暮らしを選んで彼を捨てたわけでは決してなかった。
新興財閥の実業家という表の顔を持ちながら、その実は帝都の深い闇に蠢く醜悪な百足の化け物、久我山。そのおぞましい毒牙から愛する男を、この景明を守り抜くために彼女は自ら進んで悪役を演じきり、ひとり地獄の底へと身を投じたのである。
その真実を知った瞬間、景明の心を分厚く覆っていた絶望の氷は胸を掻き毟るような激しい後悔とそれを遥かに凌駕する灼熱の愛によって一瞬にして融解し、とめどなく爆発した。
「私は何という愚かなことを……!」
絞り出すような低い声が冷え切った車内に溶けていく。
(あの時の彼女の震える肩……私に向かって無理に作ってみせた、あのひどく冷たい笑顔。その裏側で鈴はどれほどの血の涙を流していたというのか)
愛する女の決死の嘘に気づくことすらできなかった己の不甲斐なさに景明は幾度も幾度も、強く唇を噛み締めた。その代償として口の中には鉄錆のような生温かい血の味が広がっていく。
だが、もう微塵の迷いもない。
軍服の懐には源五郎から直々に託された西園寺家当主の証、家紋入りの通行手形が鈍く、そして確かな重みをもって存在感を放っている。
西園寺家の持つ全権と精鋭なる私兵たち、そして景明自身が手塩にかけて育て上げた最強の異能特殊部隊。今、持てる力のすべてを総動員し、あの忌まわしい白亜の洋館を、久我山という男の存在ごとこの帝都の地図から跡形もなく消し去ってやる。
それが“冷酷無比な鬼”と恐れられた男が、ただ一人愛した女を取り戻すための、最初で最後の壮絶な宣戦布告だった。
「……少佐」
向かいの席から静かな、しかし確かな熱と意志を秘めた声が掛かった。景明の副官であり、唯一無二の腹心でもある氷室である。
軍服の襟を隙間なくきっちりと閉めた氷室は、激しく揺れる車内であっても一切姿勢を崩すことはない。彼は長い指をそっと顔に寄せ、鼻梁に乗った銀縁の眼鏡を中指で押し上げた。
その眼鏡の奥で光る怜悧な瞳が窓の外を流れるガス灯の光を反射し、鋭利な刃のように鋭く煌めいていた。
「西園寺本家の私兵部隊は第一陣から第三陣まですでに目標である久我山邸の周囲を完全に包囲しております。異能特殊部隊も配置につき、結界の設営を完了。物理的にも、霊的にも、あの館から一匹の鼠たりとも逃がすつもりはありません」
「…わかった」
景明は低い、地を這うような声で応えた。彼の内側では暴力的なまでの感情が渦巻いている。だが、その表面は恐ろしいほどに凪いでいた。
「久我山の動きは?」
「妙なほどに静かです。我々の動きを察知していないはずはありませんが迎撃に出る気配も、逃亡を図る気配もありません。ただ……」
氷室はそこで一度言葉を切り、眉間に深い皺を寄せた。彼の持つ読心術の異能は普段は意識的に封じているものの、強大な邪気や悪意には敏感に反応してしまう。
「館の周辺からひどく淀んだ、吐き気を催すような気が立ち昇っています。腐った土と甘ったるい花の香りが混ざり合ったような……嗅覚というより、魂に直接まとわりついてくるような嫌悪感です」
氷室の報告を聞き、景明の切れ長の瞳がすっと細められた。彼の瞳孔は暗闇の中で獲物を狙う猛禽類のように凄絶な光を宿している。
「……腐食の毒か」
久我山の持つ、あらゆるものを腐らせ、思考さえも泥のように濁らせる恐るべき異能。
鈴は今、あの広大な館のどこかでその猛毒に晒されている。彼女の自慢であった、滑らかな絹糸を操る白魚のような指先が絶望に染まっていく光景を想像するだけで景明の足元から氷の結晶が這い上がりそうになる。
「館の最上階……そこが奴の玉座だ」
景明は誰に言うともなく呟いた。地下の冷暗所などではない。久我山という男の傲慢さは手に入れた美しい蝶を最も高い場所で見せびらかすように飾ることを好むはずだ。
「待っていてくれ、鈴。今、私が……君の作り出した嘘も、君を縛る呪いも、すべて壊しに行く」
やがて、車は急激に速度を落とし、車輪が砂利を擦る耳障りな音とともに停止した。
「到着しました」
氷室の言葉を待たず、景明は乱暴に車の扉を蹴り開けた。吹き込んでくる冷たい夜気はすでに帝都の清廉な冬の匂いではなく、むせ返るような腐臭と死の気配を帯びていた。
景明が軍靴の底で硬い大地を踏み鳴らすと、周囲の闇に同化していた黒ずくめの男たちが音もなく姿を現した。西園寺家の誇る暗殺部隊と帝国陸軍の制服に身を包んだ異能特殊部隊の面々である。
彼らの視線の先には闇夜に不気味なほど白く浮かび上がる広大な洋館が聳え立っていた。西洋の教会を模したような鋭い尖塔を持ち、天を突く威圧的なシルエット。新興財閥の莫大な富を誇示するように建てられたその豪奢な館は、本来であれば権力の象徴として美しく輝いているはずだった。しかし、むせ返るような甘ったるい腐臭と淀んだ空気に包まれた今、眼前にそびえるその姿はまるで森の奥深くで巨大な怪物が口を開けて獲物を待っているかのような、おぞましい毒虫の巣窟にしか見えなかった。
窓という窓からは光が漏れておらず、館全体が死んだように沈黙している。しかし、その静寂は偽りであった。
「……来ます」
氷室が眼鏡の奥の目を鋭く見開き、腰に下げた軍刀の柄に手をかけた。その直後だった。館を囲む広大な庭園、その見事に刈り込まれた西洋芝の下から地鳴りのような不気味な音が響き始めた。
土が盛り上がり、ひび割れ、そこからどす黒い瘴気が間欠泉のように噴き出す。
「構えろッ!」
氷室の号令とともに部隊の面々が一斉に武器を構え、異能の光を掌に灯した。
暗闇を切り裂いて現れたのはかつては人間だったのかもしれない。だが、今土の中から這い出してきたそれらは人間の形を保ちながらも皮膚は甲殻類のように硬質化し、背中からは無数の節足が蠢く、おぞましい蟲の怪人たちだった。
「ギチ……ギチギチ……ッ!」
顎門を打ち鳴らし、黄色く濁った複眼でこちらを睨みつける蟲の群れ。その数、ざっと見積もっても百は下らない。館の主である百足の化け物、久我山の毒によって理性を奪われ、肉体を異形へと作り変えられた哀れな傀儡たちである。
「なるほど。真っ当な喧嘩をする気すらないというわけか。……虫唾が走る」
景明は吐き捨てるように言った。その瞬間、彼の足元から凄まじい冷気が爆発的に放射された。硬質な音を立てて、周囲の地面が瞬く間に分厚い氷の層に覆われていく。
それはただの氷ではない。触れた傍からあらゆるものの熱を奪い、生命活動を強制的に停止させる死の氷だった。
最前列にいた十数匹の蟲たちが跳躍しようとした姿勢のまま、空中で美しい氷像へと変わる。
「ギィイイッ!」
後続の蟲たちが仲間の氷像を踏み砕きながら襲いかかってくるが景明の視線はすでに有象無象の群れには向けられていなかった。
彼の視線は洋館の最上階。ステンドグラスで覆われた、一際大きな窓にのみ固定されている。そこに鈴がいる。
「氷室」
景明の静かな呼びかけに氷室は即座に踵を鳴らして応えた。
「はっ」
「ここは任せる。一匹たりとも、私の背後へは通すな」
「御意。……少佐、小鳥遊嬢を必ず」
氷室は深く頭を下げ、そして軍刀を引き抜いた。銀色の刃が月光を反射して煌めく。
「総員、撃てッ!あの不浄の羽虫どもを一匹残らず帝都の土に還せ!」
氷室の号令を皮切りに異能特殊部隊による容赦ない殲滅戦が開始された。炎弾が夜空を焦がし、風の刃が蟲の甲殻を切り裂く。西園寺家の私兵たちもまた、音もなく闇に紛れ、蟲の急所を的確に穿っていく。
血と体液の飛沫が舞い、硝煙と腐臭が入り混じる混沌の戦場。その阿鼻叫喚の中心を景明はただ一人、真っ直ぐに歩を進めていた。彼の周囲だけはまるで別世界のように静謐であった。
近づく蟲は彼の発する冷気に触れた瞬間、悲鳴を上げる間もなく凍りつき、そして砕け散る。ただただ、愛する女を奪われた怒りと彼女を取り戻すという純粋な意志だけが彼の足取りを進めていた。
洋館の顔とも言える重厚なマホガニー製の巨大な両開き扉。景明は歩みを止めることなく、その扉に向けて右手を突き出した。空気が凍る鋭い音が響いた次の瞬間。けたたましい轟音とともに強固なはずの扉が周囲の壁ごと内側へ向かって弾け飛んだ。
粉々になった氷と木片が館の広大なエントランスに降り注ぐ。舞い散る氷の粉の向こう側。そこには一切の光を呑み込む真の闇が巨大な獣の口腔のようにぽっかりと口を開けて待っていた。
景明は一切の躊躇なく、その暗闇の深淵へと足を踏み入れた。
(待っていろ、鈴。今度こそ……私が君をこの手で守り抜く)
絶対零度の怒りを纏う彼の胸ポケットで千鳥のハンカチが微かに脈打つように温もりを放つ。それは凍てついた地獄を歩む彼を導く、ただひとつの道標だった。
館の内側へ足を踏み入れた途端、外の張り詰めた冬の空気とは全く異なる、むせ返るような死の気配と甘ったるい腐臭が景明の鼻腔を突いた。
豪奢なペルシャ絨毯の上に先ほど吹き飛ばした氷の破片が散らばり、無残な暗い染みを作って溶けていく。景明の軍靴がその柔らかな毛足を踏みしめるたび、微かな水音と軋むような重い足音が異様なほど静まり返った館内に響き渡った。
外の庭園では氷室率いる異能特殊部隊と蟲の化け物たちが死闘を繰り広げているはずである。しかし、分厚い壁と久我山の張った淀んだ結界に阻まれているのか、怒号も爆音もここでは遠い嵐のように非現実的な響きに成り果てていた。
一段、また一段となだらかな曲線を描く大理石の階段を上る。目指すはこの巨大な洋館の最上階。階を上がるごとに空気は粘度を増し、呼吸をするだけで肺の奥が粟立つような不快感に襲われた。
高価な香水に腐りかけの果実と泥を混ぜ合わせたような吐き気を催す甘ったるい死の匂い。これが新興財閥の実業家という仮面の下に隠された久我山という男の本当の悪臭なのだ。
(……鈴。無事でいてくれ)
景明は己の胸ポケットに収められたハンカチの存在を意識しながら、冷え切った瞳で前を見据えた。視界は暗がりの中でも一切のブレなく真実を捉える。
廊下に飾られた悪趣味な金細工の調度品も、壁を彩るルネサンス風の絵画も、今の景明にとってはただの障害物でしかない。彼の全身からは周囲の空気を凍てつかせるほどの絶対零度の覇気が立ち昇り、触れるものすべてを白い霜で覆い尽くしていった。最上階へと続く、最後の踊り場に差し掛かった時だった。
「やあ、歓迎するよ。無作法な帝国の番犬殿」
不意に粘り気のある声が頭上から降ってきた。
景明が足を止め、鋭い視線を上階へと向ける。そこには最上階の豪奢な両開き扉を背にして久我山が立っていた。
燕尾服をだらしなく着崩し、手には赤ワインの入ったグラスを揺らしている。その顔には先ほどまでの景明の怒りをせせら笑うかのような、醜悪で余裕めいた笑みが張り付いていた。
彼の周囲だけは光がねじ曲がっているように暗い。粘り気のある紫色の瘴気が彼の足元から生き物のように這い出し、絨毯の模様を腐らせていく。
「他人の家へ土足で踏み込み、自慢の庭を荒らして回るとは。陸軍少佐殿の躾はどうなっているのかね?それとも血の気の多い西園寺家の血筋というやつかな」
「……戯言を」
景明の声は地を這うような吹雪の冷たさを帯びていた。
「貴様の首を刎ねる前に一つだけ聞いておこう。……鈴はどこだ」
「鈴?ああ、私の可愛い小鳥のことか」
久我山は芝居がかった手つきで大げさに肩をすくめ、グラスのワインを一口含んだ。
「彼女なら私の寝室で大人しく待っているよ。今頃は私が贈った豪奢な振袖に身を包み、私のためだけの美しい刺繍を縫い上げている頃だろう。……ああ、実に見事な手際だったよ。投資に失敗したとはいえ、腐っても華族の娘だ」
景明の奥歯が鳴った。同時に彼の手のひらから紫電を帯びた吹雪が舞い上がり、階段の手すりを一瞬にして氷の彫刻へと変えた。
「貴様のような蛆虫が彼女の名を口にするな」
「怖い怖い。さすがは“鬼少佐”と恐れられるだけのことはある」
久我山は薄ら笑いを崩さない。
「だがね、西園寺景明。君は根本的な勘違いをしているんじゃないかな?彼女は君から逃げ出したんだ。君のその、人を凍らせるような冷たさと恐ろしい異能に怯えてね」
「……」
「彼女は自らの意志で私の富と平穏を選んだ。君のような血生臭い軍人よりも私のような実業家のほうが女を幸せにできると悟ったんだよ。それを無理やり連れ戻そうなど、男の嫉妬にしては少々見苦しいのではないかね?」
久我山の言葉は景明の心を抉るための安直な刃だった。普段の景明であれば、そのような三流の挑発に乗ることはない。彼女が自分を守るために悪役を演じてくれたことは胸のポケットのハンカチが証明している。
「……ッ!?」
景明の視界がふいに大きく揺れた。久我山の足元から溢れ出た紫色の瘴気がいつの間にか階段の踊り場全体を覆い尽くしていたのだ。それはただの毒ではない。人間の心の最も脆い部分、最も暗い恐怖や後悔を増幅させる、精神汚染の作用を持つ特殊な毒霧だった。
『……西園寺様』
背後から鈴を転がすような愛おしい声が聞こえた気がした。
景明が弾かれたように振り返る。そこにいたのは幻影だった。しかし、あまりにも生々しい鈴の姿。いつか彼女が着ていた矢絣の着物ではなく、純白の着物を纏った鈴が虚ろな瞳で景明を見つめていた。
『私は……貴方が恐ろしかったの』
幻影の鈴が小さく呟く。その言葉は景明が心の底にひた隠しにしてきた最も恐れていた感情そのものだった。
(違う、彼女はそんなことは言っていない……!)
頭では理解している。これが久我山の異能が生み出した悪辣な幻術であることも。しかし景明の異能は氷と雷。物理的な破壊には絶対の力を誇るが自らの精神の内側に直接入り込んでくる腐食の毒の幻影に対しては防壁を張るのが一瞬遅れた。
『貴方の手はいつも氷のように冷たい……。私に触れないで。貴方の側にいると私も凍えて死んでしまうわ……』
幻影の鈴の目から赤い血の涙がこぼれ落ちた。
「鈴……!」
思わず、景明の喉から掠れた声が漏れた。手を伸ばしかけ、その指先が空を切る。自分が彼女を傷つけたのだと、不器用な愛し方しかできなかったからこそ、彼女をあのような地獄へ一人で歩ませてしまったのだと、激しい自責の念が彼を打ちのめす。
軍人としての責務に縛られ、言葉を尽くさず、ただ守ろうとするだけの傲慢さが結果として彼女から笑顔を奪ったのだ。
「私が……彼女を、不幸にした……」
その瞬間、景明の心に生じた針の穴ほどの小さな決定的な“隙”を久我山の濁った瞳が獲物を狙う百足のように凶悪に細められた。
「その通りだよ。冷血漢の化け物め!」
歓喜の叫びと共に久我山の手のひらから、極限まで圧縮された真っ黒な毒の塊が射出された。それは空気を腐らせ、音すらも溶かしながら凄まじい速度で景明の胸元へと迫る。
「ッ……!」
景明が己の失態に気づき、防御の氷結を展開しようとした時にはすでに遅かった。鋭い槍のように形成された最高濃度の腐食の毒は景明の分厚い軍服を容易く貫き、その強靭な肉体へと深々と突き刺さった。
「が……ぁッ!!」
景明の口から苦悶の絶叫が迸った。突き刺さった胸の中心から爆発的な痛みが全身の血管を駆け巡る。それは熱湯を血管に流し込まれたような、あるいは無数の虫に内臓を食い破られているような、凄絶な激痛だった。
景明の長身が大きく揺らぐ。膝から力が抜け、彼は大理石の床に力なく両膝をついた。
「はははははっ!傑作だ!帝国の、最強の異能者がこんな安い幻影に引っかかって無様に膝をつくとはな!」
久我山が階段を下りながら腹を抱えて笑う。
「どんな強固な氷も内側から腐らせてしまえば脆いものだ。私の最高濃度の腐食は肉体だけでなく、魂までをも溶かす。君のその誇り高い精神も、今頃は泥のようにドロドロに溶け始めているだろう?」
久我山の言葉通り、景明の視界はどす黒い紫色の泥に沈んでいくようだった。呼吸をするたびに口から血の混じった黒い飛沫がこぼれ落ちる。
五感が急速に奪われていく。大理石の冷たさも、自身の血の匂いも、次第に遠ざかっていく。その代わりに頭の中を支配するのは終わりのない絶望の泥沼だった。
(私が、悪いのだ……)
薄れゆく意識の中、景明は冷たい大理石の床に両膝をつき、荒い息を吐いた。辛うじて上体を支えているものの、腕からはとうに感覚が失われている。指先はどす黒く変色し、床の表面を掻き毟るように震えていた。
「が、はっ……、ぁ……」
咳き込むたびに鉄錆と泥水を混ぜ合わせたような不快な味の血が景明の薄い唇からこぼれ落ちる。肺が焼け焦げるように痛む。呼吸をするたびに毒の瘴気が五臓六腑をヤスリで削り取っていくかのような凄絶な苦痛が走る。
久我山の放った最高濃度の腐食の毒は物理的な肉体を破壊するだけではない。血液という川を伝って全身を巡り、神経を焼き切り、何よりも“心”そのものを内側から腐らせていくのだ。
(……鈴。ああ、私の、愛しい人)
閉じかけた視界の端で紫色の瘴気が揺らめき、幻影を作り出す。純白の着物を纏った鈴の幻影。彼女は悲しげに瞳を伏せ、その目から痛ましい血の涙を流しながら、景明を拒絶する言葉を紡ぎ続ける。
『貴方の手は、氷のように冷たい……。私に触れないで。貴方の側にいると私も凍えて死んでしまうわ』
その言葉は景明の心に打ち込まれた太い楔だった。どんな強固な氷の防壁も己の深層心理から湧き上がる後悔と自己嫌悪を切り裂くことはできない。
結局のところ、西園寺景明という男は敵を討ち、凍てついた血の海を歩くことしかできない“鬼”なのだ。
野中みのるという偽りの姿で偶然彼女と出会ったあの日。冷え切った暗闇の中でひだまりのように温かく美しい絹糸を紡ぐ彼女の純白の指先に身の程を知らずに縋り付いてしまった。
偶然触れたその光を手放せず、不器用な愛で自分の側に繋ぎ止めたこと自体が全ての悲劇の始まりだったのではないか。
結果として彼女をこの暗くおぞましい洋館に縛り付け、その輝くような笑顔を永遠に奪ってしまったのだと激しい自責の念が彼を完膚なきまでに打ちのめす。
「あ……ぁ……」
景明の瞳から光が失われていく。最強の異能を誇る彼が力ではなく、己自身の内なる絶望によって敗北しようとしていた。
「さあ、死にたまえ、西園寺景明」
久我山が景明の顔を覗き込み、残酷な宣告を下す。その手にはとどめを刺すための新たな毒の刃が形成されていた。
「君の死体は庭の肥料にしてあげよう。そして君の愛した小鳥は私が死ぬまで籠の中で可愛がってやる。彼女のすべては私のものだ」
久我山の歪んだ笑い声が、絶望の泥沼の底に沈む景明の耳に遠く、遠く、響く。
冷たい。果てしなく、暗く、ただひたすらに冷たい。鬼と呼ばれた男の命の灯火が今まさに腐肉を食らう蟲の猛毒によって吹き消されようとしていた。
「くっ、くくく……ははははははっ!」
頭上から粘着質で耳障りな笑い声が降り注ぐ。
久我山はグラスに残っていた赤ワインを大理石の床、景明のすぐ目の前に無造作にぶち撒けた。赤い液体が血痕のように飛び散り、景明の軍服の裾を汚す。
「いやあ、実に痛快だ!帝都を震え上がらせた最強の異能者が泥水啜る野良犬のように這いつくばっている!これほどの見世物はないね」
久我山は革靴の爪先で景明の肩を小突いた。もはや反撃する力すら残っていないことを確認し、その醜悪な笑みをさらに深くする。
「君の心はもう、腐り落ちて泥になっている頃だろう?愛する女に拒絶され、己の不甲斐なさを呪いながら死んでいく気分はどうだい?……安心したまえ。君が死んだ後、小鳥遊鈴は私が責任を持って愛してやろう」
久我山はまるで宝物を自慢する子供のように恍惚とした表情で両手を広げた。
「彼女のあの美しい顔が絶望に歪む瞬間……たまらないね。彼女には毎日違う豪奢な振袖を着せてやろう。金糸や銀糸をふんだんに使った鳥籠の鳥にふさわしい極彩色の着物だ。そして私のために、私だけのために、永遠に呪いの刺繍を縫わせ続ける」
「き、さま……ッ」
景明は喉の奥から絞り出すように唸り声を上げたがそれはひどく掠れ、威嚇の体をなしていなかった。
「私が彼女のすべてを支配する。彼女の記憶から西園寺景明という男の存在など、毒で完全に溶かして消し去ってやる。彼女が最後に縋り付くのはこの私だけになるのだよ!」
久我山の手のひらに再びどす黒い紫色の瘴気が集束し始めた。今度こそ、西園寺景明という存在をこの世から完全に消し去るための、必殺の毒の刃。
「さようならだ、悲しき鬼の少佐殿。永遠の地獄で自分の愚かさを悔いるがいい」
振り下ろされる毒の刃。景明は静かに瞳を閉じた。
(……すまない、鈴。君を迎えに行くと言ったのに)
抗う力は残っていない。思考すらも甘ったるい死の匂いの中に溶け落ちようとしていた。冷たい闇が完全に彼を飲み込もうとした、その瞬間だった。
胸の奥深くで何かが小さな鼓動を打った。それは景明自身の心臓の音ではなかった。もっと外側。軍服の左胸、心臓のすぐ上に位置する胸ポケットの中からその微かな脈動は発せられていた。
「……?」
死を覚悟していた景明の意識がほんのわずかに水面へと浮上する。冷たき絶望の泥沼の中でそこだけがまるで春の陽だまりのように温かかったのだ。
(これは……)
景明の閉じかけた瞼の裏に一枚の布の感触が蘇る。千鳥の刺繍のハンカチだ。
『千鳥は夫婦円満の象徴だから』
若菜から聞かされた彼女の言葉が脳裏に蘇り、温かな鼓動が響く。次の瞬間、景明の胸ポケットから凄まじい光が溢れ出した。
「な、なんだッ!?」
頭上から久我山の狼狽した叫び声が響く。それは太陽の光のような暴力的な輝きではなく、真珠のように柔らかく、それでいてどんな暗闇をも切り裂く絶対的な純白の光。
軍服の厚い生地を透かして放たれたその光は景明の胸から全身へとまるで光の毛細血管が伸びていくように急速に広がっていった。
(温かい……)
景明は目を見開いた。彼の眼に映し出されたのは自身を覆い尽くしていた紫色の瘴気がその純白の光に触れた瞬間、悲鳴を上げるように蒸発していく光景だった。光の中心にあるのは間違いなくあの千鳥のハンカチだった。
『西園寺様』
光の中から声が聞こえた。それは先ほどまで景明を苦しめていた、久我山の毒が作り出した冷たい幻影の声ではない。もっと柔らかく、どこか不器用だけれど芯の強さを秘めた本物の彼女の声だった。
『今度は私が守りします』
その声を聞いた瞬間、景明の心の奥底にこびりついていた真っ黒な絶望の泥が嘘のように崩れ落ちていった。
(鈴……!)
幻影ではない。彼女の真なる魂が紡いだ愛と祈りがハンカチを通して景明の魂に直接流れ込んでくる。
彼女の異能は壊れた器物を元に戻すだけにとどまらない。傷ついた肉体を癒し、毒された血液を浄化し、そして引き裂かれ、千切れかけた精神すらも元の気高き形へと繋ぎ直す。それこそが彼女の異能の真骨頂であった。
景明の体内を荒らし回っていた腐食の毒が光の奔流に呑み込まれ、みるみるうちに浄化されていく。黒く変色していた指先から色が戻る。焼け焦げたように痛んでいた肺に清浄な空気が満ちる。口の中に広がっていた鉄錆と泥の味は消え去り、代わりに日向で干したての手拭いのような、あるいは春の野に咲く名もなき花のような、鈴のそばにいる時にしか感じられない、あの愛おしい匂いが景明の五感を満たしていった。
「ば、馬鹿なッ!?私の最高濃度の毒が……消えていく!?なんだ、その光はッ!」
久我山は後ずさりし、顔を醜く引き攣らせた。彼が周囲に張り巡らせていた精神汚染の霧も、床を腐らせていた瘴気も、景明の胸から放たれる純白の光に触れた端から音を立てて消滅していく。
悪意と絶望で塗り固められた久我山の異能は鈴の無償の愛と自己犠牲によって発現した修復の光の前では太陽の前に晒された朝露のごとく無力であった。
「あ、あり得ない!私の毒は絶対だ!あらゆるものを腐らせるはずだッ!」
パニックに陥った久我山は両手から無数の毒の槍を生み出し、狂ったように景明へと放ち続けた。しかし、その毒の槍は景明の身体に触れる寸前で彼を包み込む光の障壁に阻まれ、霧散してしまう。
光の中で景明はゆっくりと力強く立ち上がった。もはや、足の震えはない。胸を貫かれていた激痛もすべて嘘だったかのように消え去っている。ただ、彼の心の中には途方もない温もりとそれを与えてくれた少女への身を焦がすような愛しさだけが満ち溢れていた。
(ああ、私は……本当に底抜けの愚か者だ)
景明はハンカチが収められている場所を愛おしげに右手でそっと押さえた。彼女は私を恐れてなどいなかった。
彼女は自分の身がどうなろうとも彼を生かそうとしてくれた。自分が彼女を守るつもりでいたのに実は最初から最後まで彼女の深く温かい愛に守られていたのは景明の方だったのだ。
「……鈴」
景明の口から無意識のうちにその名がこぼれ落ちた。感情の波が押し寄せるがそれを抑え込む。彼はもう迷わない。自分が血塗られた鬼であろうと、人を殺める手を持っていようと、関係ない。
彼女がこの手を必要としてくれている。この温かい光で自分という存在を全肯定し、修復してくれたのだ。ならば自分は彼女のためだけにこの力を振るう。彼女を悲しませるすべてのものをこの手で永遠に凍らせ、破壊し尽くすのだと景明は固く決意した。
「ひぃッ……!」
久我山が短い悲鳴を上げて腰を抜かした。立ち上がった景明の姿を見て、本能的な恐怖が彼の全身を支配したのだ。先ほどまで泥水を啜るように苦しんでいた男の面影はそこには微塵もなかった。
純白の修復の光を纏ったまま、景明は静かに久我山を見下ろした。その瞳にはもはや怒りすら浮かんでいない。あるのは路傍の小石を見るような絶対的な無関心と背筋が凍るほどの冷徹な殺意だけだった。
「久我山」
景明の声は静寂に包まれた広大なホールに氷の刃のように冷たく響き渡った。
「貴様の毒は確かに私の肉体を削り、心を蝕んだ。……だが、それだけだ」
景明が一歩、踏み出す。彼の軍靴に触れた大理石の床から凄まじい勢いで氷結が広がっていく。それは先ほどまでの、ただ対象を凍らせるだけの暴力的な氷ではない。彼の怒りと意志を完璧に統制した美しくも恐ろしい絶対零度の結晶化だった。
「私の婚約者が仕上げた刺繍の祈りがある限り。……私は二度と貴様の穢れた毒などに屈することはない。彼女に流させた涙の代償……貴様の安い命でたっぷりと払ってもらおうか」
景明は己の胸で温かく光り続けるハンカチの鼓動を感じながら、静かにそして残酷に宣告した。
洋館の最上階。豪奢なシャンデリアが照らす広間は今や純白の光と絶対零度の吹雪が支配する、神聖なる処刑場へと変貌していた。帝都を裏から支配しようと目論んだ百足の化け物は今、真に覚醒した最強の鬼を前に絶望の淵へと立たされている。
「くるな……来るなァッ!!」
部屋の隅へ這いつくばるようにして後ずさる久我山。その顔は恐怖と混乱で無残に引き裂かれ、額からは滝のような冷や汗が流れ落ちていた。逃げようともがくが、すでに周囲の床は完全に凍りつき、革靴が張り付いて身動きが取れない。
追い詰められた彼は最後の抵抗とばかりに手のひらから“腐食の毒”の槍を何本も放った。空気を腐らせ、触れるものすべてを泥に変えるはずの必殺の瘴気。
しかし、その毒牙が景明の身体に届くことは、二度となかった。
景明の胸元、千鳥のハンカチが収められている胸ポケットから放たれる真珠のような光の結界に触れた瞬間、久我山の毒は不快な蒸発音を立てて、ただの無害な水蒸気へと還元されていく。
鈴の持つ“修復”の異能。それは物理的な傷を癒すだけでなく、景明の魂を繋ぎ止め、彼を害するあらゆる穢れを浄化する“破邪の光”として彼を完璧に守護していた。
「ひぃッ……!ば、化け物めッ!なぜだ、なぜ私の毒が効かないッ!」
「化け物は貴様の方だろう、久我山」
大理石の床を分厚く覆い尽くした氷の上を景明はゆっくりと歩を進める。
軍靴が氷を踏み砕き、硬質な音が死の秒針のように久我山の鼓膜を打った。
景明の纏う空気は先ほどまでの絶望に沈んだ暗いものではない。一切の淀みがない、恐ろしいまでに研ぎ澄まされた冷徹な殺意。それは彼がかつて戦場において単騎で敵陣を壊滅させた“鬼”と呼ばれた時代の顔そのものだった。
「ひ、ヒィィッ!」
壁際まで追い詰められた久我山は自らの異能が通じないという絶対的な絶望を前についに狂乱した。
「死ね!死ねェッ!」
両手を振り回し、今度は毒の霧ではなく、物理的な質量を持った瘴気の塊を無差別に投げつける。だが、景明はその歩みを一切止めない。氷の防壁を展開することすらしなかった。
景明の長身が吹雪の中でブレたように見えた。
「……え?」
久我山が間の抜けた声を漏らした次の瞬間。彼の目の前に暗い影が落ちた。
「な……ッ!?」
「貴様のような蛆虫に私の異能を使うことすらもったいない」
景明は地獄の底から響くような低音でゆっくりと近づく。異能を使えば久我山など、一瞬で微塵に砕き散らすことができる。しかし、それでは気が済まなかった。
彼女の指先を血に染めさせ、あのような酷い嘘をつかせてまで一人で地獄を歩ませたこの男には一瞬の死などという慈悲は与えられない。
彼自身の肉体で、彼自身の拳で、生身の痛みというものを骨の髄まで叩き込んでやらねばならなかった。
景明の右腕が鞭のようになった。帝国陸軍において、最強の異能者でありながら、同時に徒手空拳においても誰一人として敵う者のいなかった完成された軍隊式の体術。
「が、はァッ……!!?」
久我山の鳩尾に景明の革手袋に包まれた重い拳が容赦なく深々と突き刺さった。内臓が破裂するかのような凄まじい衝撃。久我山の両目が見開き、口から大量の胃液と血の混じった唾液が噴き出した。肺から酸素が完全に絞り出され、声にならない悲鳴を上げる。
「これは彼女の怯えの分だ」
景明は胃を押さえて崩れ落ちようとする久我山の燕尾服の胸ぐらを左手で乱暴に掴み上げ、強引に立たせた。
「あ、が……っ、ごふッ……」
「そしてこれは」
今度は景明の膝が久我山の顔面に容赦なく叩き込まれた。
「あぎゃァァァッ!!」
鼻骨が砕け散る嫌な音。久我山の鼻から鮮血が噴き出し、高級な燕尾服をどす黒く染め上げる。これまで己の強力な異能にあぐらをかき、安全な場所から他人を操り、傷つけることしかしてこなかった実業家。体術の訓練など一度たりともしたことのない軟弱な肉体にとって、百戦錬磨の軍人の一撃はまさに天災そのものだった。
「彼女に涙を流させた代償だ」
景明の瞳には一切の憐憫がない。右ストレートが久我山の頬肉を打ち据え、顎の骨を軋ませる。たまらず床に倒れ込んだ久我山の腹部を今度は軍靴の硬い爪先が蹴り上げた。
「ごぁッ!あ……ァ……、許、ゆるし……」
絨毯の上を無様に転がり、自分の血と吐瀉物に塗れながら、久我山は涙と鼻水を垂らして命乞いをした。先ほどまでの人を嘲笑っていた傲慢な支配者の面影は見る影もなく粉砕されていた。
「ま、待て……!私を殺せば政府が黙って……ぐあァッ!!」
言い訳を紡ごうとした久我山の口を景明の軍靴が上から無慈悲に踏みつけた。
「政府だと?勘違いするな、久我山。これは帝国陸軍としての任務ではない。西園寺家当主としての、極めて私的な“喧嘩”だ」
景明は踏みつけた靴底に体重をかけながら、冷酷に言い放つ。
「我が祖父、源五郎からの言伝だ、『西園寺に喧嘩を売った代償は高くつく』とな。……安心しろ、命までは取らん。貴様には一生日の当たらない地下牢で己の罪の重さと痛みを反芻しながら生き地獄を味わってもらう」
「あ、あぁ……ぁ……」
もはや言葉も発せられず、白目を剥きかけている久我山を見下ろし、景明はやれやれと短く息を吐いた。そして踏みつけていた足をどけると、懐から鈍い銀色に光る重厚な金属の輪を取り出した。
それは異能特殊部隊で用いられる、罪人の異能を強制的に封じ込めるための呪具だ。表面にはびっしりと梵字のような呪符が刻み込まれている。
景明は抵抗する力すら失った久我山の両手首にその冷たいそれを容赦なく嵌め込み、施錠した。途端に久我山の身体から微かに漏れ出ていた紫色の瘴気が完全に霧散して消え去った。これで彼は二度と異能を使うことはできない。ただの惨めで無力な罪人となったのだ。
(……終わったな)
景明は血と泥に塗れた革手袋を外し、床に投げ捨てた。そして乱れた軍服の襟を正し、深く、静かな呼吸を一つする。
胸の奥でまだ温かい脈動を続けている千鳥のハンカチの感触。それは激しい戦闘の後でも彼に確かな安らぎを与えてくれていた。
「待たせたな、鈴」
景明は床に転がる久我山を一瞥すらすることなく、振り返った。彼の視線の先には最上階のさらに奥へと続く、重厚なマホガニー製の扉がある。
そこに彼女がいる。自分を助けるために一人で毒牙に身を投じ、今も呪いの刺繍を縫い続けている愛しい人が。
景明の瞳の奥に再び熱い炎が灯った。今度は敵を焼き尽くすための殺意ではない。愛する者を包み込み、決して離さないと誓う、強烈な愛情の炎。
「……私の花嫁を迎えに行く」
誰に聞かせるでもない。己の魂と胸に抱いた彼女の祈りに対する絶対の誓い。鬼と恐れられた帝国陸軍少佐は一切の迷いなく、愛するただ一人の少女が待つ扉へとその力強い歩みを進めた。




