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第28話

 帝都の喧騒から隔絶された静寂の地。そこに建つのは新興財閥・久我山家の別邸である。

 西洋の教会を模したような尖塔を持つその不気味な洋館は森の奥深くで巨大な怪物が口を開けて獲物を待っているかのような佇まいを見せていた。

 その最奥、コレクションルームと呼ばれる一室。窓という窓が分厚いベルベットのカーテンで覆われ、琥珀色の人工的な光に満たされている。 部屋の空気は腐った百合の花と古びた書物の黴、そして微かな甘い悪臭で淀んでいた。

 その部屋の中央。豪奢なペルシャ絨毯の上に置かれた椅子に鈴は座っていた。

 彼女が身に纏っているのは、常軌を逸したほどに華美な真紅の正絹に金糸の刺繍がびっしりと施された重厚な大振袖だった。長く垂れ下がった裾は床にまで重々しく広がり、まるで彼女をこの部屋に縛り付ける美しい鎖のようだ。白粉を塗られた肌は陶器のように白く、紅を差された唇だけが血を吸ったように赤くなっていた。

 鈴の手には金色の針が握られていた。彼女の膝の上にはどこまでも広がる真っ白な絹布。

(......縫わなくちゃ)

 鈴の思考は分厚い霧の中にあった。頭の芯が痺れている。

 “縫え。私のために。お前のその手は私を楽しませるためにあるのだから”

 久我山の声が耳の奥で反響する。 鈴の針運びはどんなに精神が摩耗しようとも神業のように正確で一分の狂いもなく絹布を貫いていく。

 しかし、彼女が縫い付けているのはかつて景明のために縫った愛らしい千鳥ではない。それは直線と曲線が狂気のように絡み合い、決して交わることのない平行線が永遠に続く、見る者の精神を蝕むような幾何学模様。そしてその中央には無数の足を持つ百足の影が浮かび上がりつつあった。

「......素晴らしい」

 部屋の隅から、久我山が恍惚とした声を上げた。ワイングラスを揺らしながら、ゆっくりと鈴に近づいてくる。

「見事だよ、鈴。その模様......混沌としていながら、どこか秩序を感じさせる。まるで君の今の心そのものだ」

 久我山は鈴の背後に立つとその華奢な肩に手を回した。

「......久我山、様......」

 鈴は操られるように首を動かし、背後の男を見上げた。

「君のその正確な針運び......私の毒がどれほど心を蝕もうとも、決して乱れることがない。実に美しい芸術だ」

 久我山は鈴の白魚のような指先を愛おしげに撫でた。

(......私、どうしてここにいるんだっけ?)

 ふと、霧の晴れ間のような疑問が鈴の脳裏をよぎった。針を動かしながら混濁した記憶の糸を手繰り寄せる。

(ここは久我山様の洋館。私はお父様たちを守るために......私が選んだの。西園寺様を、一族との争いから解放するために......)

 その時、記憶の淵から浮かび上がってきたのは不器用に歪められた笑顔だった。

『......鈴』

 低く、けれど深い愛情を含んだ声が鼓膜の奥で蘇る。漆黒の髪。切れ長の瞳。不器用な優しさを隠しているあの人。

———————西園寺景明。

 その名前が意識に浮上した瞬間、鈴の胸を張り裂けそうな激痛が襲った。

(私が......私が彼を突き放した。心にもない言葉であの人を傷つけた......!)

 大きく見開かれた鈴の瞳から、透明な涙の雫が零れ落ち、純白の絹布に染みを作った。

「おや、まだあの男の幻影に囚われているのか」

 久我山が冷ややかな声で言い放つ。

「忘れるんだ鈴。彼は君の家族を救えなかった。君を守れるのは力と金を持つ私だけだ」

 久我山の言葉は呪文のように甘く、重く、鈴の心に浸透していく。

(......これで、いいの。西園寺様が私を忘れて新しい幸せを見つけてくれれば......)

 それは自己犠牲という名の悲しい諦めだった。鈴の抵抗する力が急速に萎んでいき、久我山の腐食の毒が諦念という鎖で心を縛り上げた。

「良い子だ」

 久我山は満足げに頷いた。

 鈴は再び、機械的に命じられた図案を縫い続ける。金色の糸が絹布の上を這い回る。それはまるで鈴の人生そのものを閉ざす、黄金の格子のようだった。

(......どうか、私を忘れて。......そして、どうか......幸せに......)

 最後の理性が消え入りそうな灯火となって揺らめく。 黄金の鳥籠の中で、運命の歯車は軋みを上げて回り続けていた。

「良い子だ」

 鈴の瞳が完全に虚ろになったのを確認し、久我山は満足げに頷いた。彼は鈴の頬を撫で、まるでペットを褒めるように言った。

「さあ、続きを。この迷宮が完成すれば君は完全に私のものになる。……私の毒と君の修復。二つの力が混じり合えば、私たちは永遠を手に入れられるんだ」

「……はい、久我山様」

 鈴は再び針を拾い上げた。ただ機械的に命じられた図案を縫い続ける。金色の糸が絹布の上を這い回る。それはまるで鈴の人生そのものを閉ざす、黄金の格子のようだった。外の世界では冬の風が吹き荒れているかもしれない。けれど、この部屋には時が止まったような静寂と死に至る病のような安らぎだけがあった。

(……西園寺様……)

 声に出せない名前を心の中でだけ繰り返す。それは祈りであり、遺言でもあった。

(どうか、私を忘れて。……そして、どうか……幸せに……)

 最後の理性が消え入りそうな灯火となって揺らめく。その光が闇に呑み込まれる寸前、鈴の脳裏に浮かんだのは初めて彼と出会った日の、突き抜けるような青空の色だった。

 だが、今の彼女の視界を埋め尽くしているのは久我山が与えた黄金の天井と出口のない迷宮の模様だけ。部屋の隅にある古時計が重苦しい音を立てて時を刻んだそれはまるで西園寺家と小鳥遊家、二つの名家の終焉を告げる弔鐘のようであった。

 鈴は縫い続ける。自分の心が壊れていく音を聞きながら。愛する人を守るために自分自身を殺し続ける作業に没頭する。その姿はあまりにも痛々しく、そして残酷なほどに美しかった。狂気という名の檻の中で最も美しい蝶がその羽をもがれ、標本にされていく過程を見せつけられているかのような、背徳的な光景。

 久我山はその様子を眺めながらグラスに入ったワインを口に含んだ。その味は勝利の美酒そのものだった。

「……チェックメイトだ、西園寺景明」

 誰にも聞こえない声で彼は呟いた。帝都の闇が一層深く、濃くなっていく。しかし彼らはまだ知らない。この深い絶望の底にこそ、凍てつくような怒りを秘めた本物の怪物が眠っていることを。

 そして、その怪物を呼び覚ます鍵を握るのが主人のために命を懸ける忠実な従者たちであることを。黄金の鳥籠の外で運命の歯車は軋みを上げて逆回転を始めようとしていた。

 帝都の高台に構える西園寺邸。その広大な屋敷の一角にある主人の私室はこの世の終わりのような静寂に包まれていた。

 季節は春の気配が色濃くなる二月末だというのにこの部屋だけは極寒のシベリア、あるいは死者の魂が彷徨う氷地獄の様相を呈していた。窓ガラスは分厚い霜に覆われ、外の景色を完全に遮断している。

 部屋の隅々には鋭利な氷柱が槍のように突き出し、天井からはダイヤモンドダストのような微細な氷の結晶が舞い落ちていた。高価な紫檀の家具も、壁に掛けられた絵画も、すべてが薄い氷の膜に覆われ、白く凍りついている。

 その部屋の中央。氷でできた玉座のように凍てついた執務机に向かい、景明が座っていた。

 かつて帝都最強と謳われ、数多の怪異を葬り去ってきた英雄の姿は見る影もなかった。

 漆黒の髪は整えられることなく乱れ、目の下には濃い隈が刻まれている。剃り忘れた口元にはうっすらと無精髭が影を落とし、陶器のように青白い顔色は彼がこの数日、一睡もせず、水一滴さえ喉を通していないことを物語っていた。

 軍服の襟は寛げ、その身から発せられる冷気は彼の生命力そのものが漏れ出しているかのようだった。

「……」

 景明は凍りついたインク壺を体温で無理やり溶かしながら万年筆を走らせていた。乾いたペン先が紙を削る音が死刑判決を書き記す音のように響く。机の上に置かれているのは二通の書状。

 一通は辞表。帝国陸軍少佐の地位を捨て、軍を退くためのもの。そしてもう一通は婚約破棄届。宛名は小鳥遊鈴。かつて彼が命を懸けて守り、そして生涯を共にすると誓った少女の名前だった。

(……これで、いい)

 景明は万年筆を置き、震える指先で眉間を押さえた。指の冷たさが熱を持った脳味噌を僅かに冷やす。だが、胸の奥で渦巻く焼けるような痛みはどんな氷でも冷やすことができなかった。

(彼女は選んだのだ。私ではなく、あの男を……いや、平穏を)

 瞼を閉じればあの悪夢のような光景が鮮明に蘇る。小鳥遊邸の門前で彼女は冷たい瞳で景明を見下ろしていた。

「疲れました。私は平穏を選びます」

 その声には迷いがなかった。拒絶。完全なる決別。鈴は景明の手を取り払ったのではない。存在そのものを彼女の人生から切り離したのだと、景明は絶望と共に悟った。

「……はは」

 乾いた笑いが喉の奥から漏れた。それは自嘲であり、自分自身の愚かさへの慟哭だった。

(私は……何と傲慢だったのだろう。自分ならば彼女を幸せにできると思っていた。厳格な家と父親の事業の危機に苦しむ彼女を救い、愛を教え、守り抜けると信じていた。だが現実はどうだ。投資話の罠にはまった彼女の家の負債すら肩代わりできず、結果的に彼女を久我山という金持ちに“身売り”させるような真似をさせてしまった。……私の無力さのせいで)

『愛などというものは金と権力の前では無力な幻想に過ぎない』

 かつて源五郎が吐き捨てた言葉が呪詛のように脳内でリフレインする。

(あの時は反発した。愛こそがすべてだと信じていたのに……)

 けれど鈴は証明してしまった。極限状態に追い詰められた人間が選ぶのは愛という不確かな温もりではなく、家族を救うための金という確かな盾なのだと。

「……すまなかった、鈴」

 景明は婚約破棄届の紙面に小さく呟いた。その声はガラスが砕ける音のように脆かった。

「私が……私ごときが君の人生に関わろうとしたのが間違いだったんだ」

 自分は所詮、人を殺すことしか知らない軍人だ。“鬼少佐”。“歩く災害”。そう呼ばれ、恐れられる存在。家という重圧にすら一人で抗えないそんな男があんなにも繊細で美しい、硝子細工のような少女を包み込もうとしたこと自体が罪だったのだ。

 彼女が久我山を選んだのは必然だったのかもしれない。久我山には莫大な金がある。財閥という巨大な力がある。

 そして何より、彼は鈴を美しい人形として愛でてくれるだろう。鈴も言っていた。「平穏が欲しい」と。血を流して戦い続ける西園寺家を離れ、心を殺して人形として生きるならあの黄金の鳥籠は世界で一番安全な場所なのかもしれない。

(……だが、痛いな)

 景明は左手で胸を強く鷲掴みにした。心臓がまるで氷の杭を打ち込まれたように痛む。呼吸をするたびに肺が凍りつきそうだ。失恋などという生易しい言葉では表現できない。魂の半身をもぎ取られたような喪失感。

 机の隅にはハンカチが置かれていた。職人が舌を巻くほど精緻な刺繍。一分の狂いもなく縫い上げられた美しい柄。その一針一針に彼女の体温が、彼女の純粋な祈りが込められていたはずだった。

「……嘘つき」

 景明はそれに触れようとして、手を止めた。自分の指先から溢れ出る絶望の冷気がそれさえも凍らせてしまいそうだったからだ。

「君は言ったじゃないか。『私が結婚したいのはあなたみたいな人』だと……。『野中みのる』を愛していると……」

 その言葉さえも嘘だったのか。あるいは私が彼女を鳥籠に縛り付け、苦痛の中で嘘をつかせたのか。

『来ないで!これは私の意思です!』

 最後に聞いた彼女の叫び声。あれは私を完全に拒絶する叫びだった。私よりも敵である男を庇い、「お前の顔など二度と見たくない」と告げる、心底からの決別の叫び。

(……ああ、そうだ。私は嫌われたんだ。私の身勝手な愛が彼女を苦しめたのだ)

 そう納得しようとするたびに心のどこかで「違う」と叫ぶ自分がいる。あの時の彼女の瞳。一瞬だけ揺らいだ、泣き出しそうな瞳。あれは本当に決別の色だったのか?

 だが、景明はすぐにその思考を打ち消した。

 これ以上、自分に都合の良い幻想を抱くのは惨めすぎる。彼女は行ったのだ。西園寺の重圧を捨て自分の足で久我山の元へ。それが全ての答えだ。

 部屋の温度がさらに下がる。景明の感情の揺れに呼応して、床から氷の棘が生え、壁を侵食していく。花瓶の水は完全に凍りつき、挿されていた薔薇の花は鮮やかな赤色のまま、氷の結晶となって砕け散った。

「……終わらせよう」

 景明は再び万年筆を握った。最後の一行。署名欄に自分の名前を書き入れる。

 “西園寺景明”

 文字が滲む。インクのせいではない。知らぬ間に瞳から一雫の涙がこぼれ落ちていたからだ。その涙は頬を伝う途中で凍りつき、氷の粒となって紙の上に落ちた。

「……っ、う……」

 景明は机に突っ伏した。肩が激しく震える。押し殺そうとしても嗚咽が漏れる。

「鈴……鈴……!」

 名前を呼ぶことさえ許されない。愛しい人の名前は今は呪いの言葉となって彼自身を傷つける。

(もしも。もしも私が西園寺の人間などではなく……ただのしがない書生として彼女と出会っていたなら……)

 景明の脳裏にあり得ない幸福な幻影が浮かぶ。

(二人で小さな家に住み、ささやかでも笑い合って暮らせたのだろうか。彼女が美しい刺繍をし、私が翻訳の仕事をし、夕飯には彼女の作った少し味の薄い味噌汁を啜る。そんな些細な、けれど奇跡のような幸福が、どこかの世界線にはあったのだろうか)

 だが、現実は冷酷にその夢を打ち砕く。

(……ない。そんなものはどこにもない。現実の私は祖父の歪んだ愛に縛られ、氷と雷を操る化物だ。そして彼女は私から逃れるために黄金の鳥籠に囚われた)

「……私は死ぬべきなのかもしれない」

 ふと、そんな暗い思考が鎌首をもたげる。生きる意味を失い、守るべきものを失った。

(このまま、この部屋ごと自分を永遠に凍らせてしまえば、この痛みから解放されるのではないか)

 永遠の眠り。氷の棺の中で彼女との美しい思い出だけを抱いて眠る。それは今の彼にとって、とても甘美な誘惑だった。

 景明の瞳から生気が消えていく。周囲の氷が彼を優しく包み込むように伸びてくる。冷気はもはや苦痛ではなく、母の腕のような安らぎに変わろうとしていた。

 その時だった。

 轟音と共に分厚いオーク材の扉が蝶番ごと吹き飛び、床の上を滑って壁に激突した。舞い上がる氷の粉塵。突然の暴力的な音に景明は弾かれたように顔を上げた。

「……何事だ」

 低く唸るような声で問う。自分の死に場所を邪魔された怒りが周囲の冷気を凶器に変えて渦巻く。だが、立ち込める冷気の中に仁王立ちしていたのは敵兵でも暗殺者でもなかった。

 先頭に立つのは氷室。その隣には小柄だが怒りに満ちた瞳をした若菜。そして最後尾には割烹着姿の老女、トメ。

 彼らは景明の放つ絶対零度の冷気の中に平然と、いや、それ以上の熱量を放って立っていた。それは主の惰眠を叩き起こし、その魂を冥府の縁から引きずり戻そうとする、燃え盛るような怒りと忠義の熱気だった。

「……貴様ら、何の用だ。退れ」

 景明は冷たく言い放ち、万年筆を握る手に力を込めた。指先から放たれた冷気が不可視の刃となって三人へ殺気を飛ばす。だが彼らは動じない。それどころか氷室が革靴の音を高く響かせて、部屋の中へと足を踏み入れた。

 凍りついた絨毯を踏みしめる音が死を望んだ部屋に荒々しい生の鼓動を刻む。机の前に立ちはだかった氷室の眼鏡の奥には、これまで一度も見せたことのない、青白い鬼火のような感情が揺らめいていた。

「退きませんよ、少佐。……いや、今の貴官は私の上官である“西園寺少佐”ではない。ただの“腑抜け”とお呼びすべきでしょうか?」

 氷室の言葉は氷よりも鋭く、景明の鼓膜を刺した。その手には白鞘の刀が握られているわけではない。しかし、その全身から発せられる気迫は抜刀した剣客そのものだった。

「……なんだと?」

 景明の眉が小さく跳ねる。だが氷室は畳み掛けるように机の上に置かれた辞表と婚約破棄届を手に取った。

「これらは何ですか」

「見れば分かるだろう。……ケジメだ」

「ケジメ?」

 氷室は鼻で笑った。冷徹でそして侮蔑を含んだ笑いだった。

「これはケジメではない。……逃げだ。現実から目を背け、悲劇の主人公に浸るための薄汚い逃避行動だ!」

 氷室の両手が無造作に書類を引き裂いた。景明が魂を削って書いた文字が無残な紙吹雪となって宙を舞う。

「き、貴様……ッ!」

 景明が激昂し、立ち上がろうとした瞬間だった。氷室の両手が景明の胸ぐらを力任せに掴み上げた。椅子が後ろに倒れ、派手な音を立てる。副官が上官に手を上げる、軍法会議ものの狼藉。だが氷室の表情に躊躇いは微塵もない。普段の冷静沈着な仮面は剥がれ落ち、そこには友を想う男の必死な形相があった。

「先に、この無礼をお詫びします。……ですが、言わせていただく!貴方はそれでも帝都最強の異能者か!私が背中を預け、生涯従うと決めた“鬼少佐”か!」

 至近距離で浴びせられた怒声。景明の瞳が驚愕に見開かれる。

「……小鳥遊嬢がなぜ去ったと思っているのです。本当に金のためだと?彼女がそんな浅ましい女だと、貴方のその目は節穴になったのですか!」

 氷室の手が震えている。それは恐怖ではない。主のあまりの鈍感さと自分への不甲斐なさに対する憤りだった。

「……彼女は言ったのだ。『金と平穏を選ぶ』と。……私を拒絶したのだ!」

 景明もまた、悲痛な叫びを上げて氷室の手を振り払おうとする。その時、横合いから小さな影が飛び出した。

「違いますッ!!」

 裂帛の気合いと共に若菜が二人の間に割って入った。彼女の頬は涙で濡れているがその瞳は燃えるように赤い。若菜は懐から何かを取り出すと、それを景明の胸に押し付けた。

「これをご覧になってください! これを……鈴様が、ずっと貴方様にお渡ししようと大切に持っていたものを!」

 景明の胸元から滑り落ち、氷の床に落ちたもの。それは一枚の白いハンカチだった。景明の視線が吸い寄せられるようにそれに釘付けになる。刺繍されていたのは寄り添い飛ぶ二羽の千鳥。

 夫婦円満の象徴であるその図案は針運びの達人である鈴らしく、一分の狂いもない神業のように美しく仕上げられていた。

 そして何より、その純白の布の端にはぽつりと一滴の丸い染みが広がっていた。

「……これは」

 景明の手が震え、それを拾い上げる。指先が刺繍に触れた瞬間、彼の眉間が苦痛に歪んだ。

(……温かい。そして、どうしようもなく深い、祈り……)

 布に残った残留思念が指先から流れ込んでくるようだった。

「あの日、鈴様はご実家へ向かわれる直前、久我山から送りつけられた禍々しい金糸で何かに操られるように不気味な百足を縫わされていました。でも、その手にはずっと、この千鳥のハンカチが握りしめられていたんです!」

 若菜が泣きじゃくりながら訴える。

「お裁縫が十八番の鈴様が針運びを誤るなんてあり得ないことです。……ですが、あの日。鈴様は『さようなら、西園寺様』と呟きながら、大粒の涙を零されました。この染みは鈴様の涙の跡です!これでもまだ、あの方が金のために旦那様を捨てたとおっしゃるのですか!」

 さらに若菜は涙を拭うこともせず、あの日、鈴が最後に残した言葉を叫んだ。

「鈴様は私に言いました。『若菜さんは逃げて』と。『私は西園寺様を一族の争いと重圧から守るために悪役になるから』と……!」

 “悪役になる”。

 その言葉を聞いた瞬間、景明の瞳が見開かれ、呼吸が止まった。バラバラだったパズルのピースが恐ろしいほどの整合性を持って嵌まっていく。

(あの冷たい言葉……。あの拒絶の態度……。「来ないで!」という叫び……。すべては私を久我山の毒牙と祖父母の重圧から遠ざけるための演技だったというのか……?父親の莫大な負債のカタに自分が犠牲となり、私には“愛想を尽かされた”と思わせることで私の未練を断ち切ろうとしたのか……ッ!)

「鈴様は……あんなに弱くて、優しい鈴様はたった一人で……旦那様の未来を守るために地獄へ行かれたのです!それなのに……それなのに、旦那様は!」

 若菜はその場に崩れ落ち、氷の床を拳で叩いて号泣した。

「『利益を選んだ』だなんて……鈴様を侮辱しないでください……ッ!」

 景明は言葉を失い、立ち尽くした。手の中にある、涙の染みた千鳥の刺繍を強く握りしめる。

(熱い……。まるで脈打っているようだ。彼女の涙が、彼女の祈りが、掌を通して直接心臓に流れ込んでくる……。私は……私は何という勘違いを……)

 絶望などしている場合ではなかった。彼女は裏切ったのではない。彼女こそが最も深く私を愛し、守ろうとしてくれていたのだ。その事実が歓喜よりも先に激しい自己嫌悪となって景明を襲う。その時だった。乾いた破裂音が凍てついた室内に響き渡った。

 景明の頬に焼きつくような熱い衝撃が走る。首が横に弾かれ、口の中が切れ、鉄の味が広がった。叩かれたのだ。

「……目を覚ましなさい、坊っちゃん!!」

 凛とした、腹の底から響く叱責の声。ゆっくりと顔を戻すとそこには鬼の形相をしたトメが立っていた。その皺だらけの手のひらは赤く腫れ上がり、肩は怒りで激しく上下している。

「ばあ、や……」

「情けない! なんと情けないお姿ですか!」

 トメは一歩踏み出し、景明を睨みつけた。彼女は亡き両親に代わり、幼い頃から景明を育ててきた乳母である。その瞳には親としての悲しみと厳しい愛情が溢れていた。

「過保護な大旦那様たちに逆らってまで家を出た貴方様が女一人守れずにめそめそと泣き寝入りするような、そんな軟弱者に育てた覚えはありません! 亡きご両親が草葉の陰でお嘆きになりますよ!」

「……」

「あの娘は命がけです。か細い身体で化け物の巣窟へ飛び込んだのです。……それに引き換え、貴方様は何をしているのですか!部屋に閉じこもり、氷のお城を作って、悲劇に酔っているだけではありませんか!」

 トメの言葉は氷室や若菜の言葉以上に景明の幼心を直撃した。

「思い出しなさい、坊っちゃん。貴方様は誇り高き西園寺の当主でしょう!愛する女が攫われたのなら、たとえ地獄の底だろうと追いかけて、力ずくで奪い返してくるのが男の甲斐性というものです!」

 トメは景明の両肩を掴んで力強く揺さぶった。

「行きなさい。……行って、あの娘を連れ戻してきなさい。ばあやはあの娘の作ったお食事がまた食べたいのです」

 その言葉の最後は微かに震えていた。厳格な家政婦長の目尻にも光るものが浮かんでいる。

 景明は三人の顔を順に見回した。涙を流しながらも睨みつける若菜。眼鏡の奥で静かに覚悟を決めている氷室。そして母のように厳しく、温かく見守るトメ。

 彼らの熱が部屋の氷を溶かしていく。いや、溶かすのではない。景明自身の内側からもっと強大な熱量が氷さえも焼き尽くすほどの蒼い炎が噴き上がり始めていた。

 止まっていた時間が再び動き始める。血液が循環し、指先の冷たさが消え、代わりに痺れるような力が漲ってくる。

(そうだ。……私は何をしていたんだ)

 彼女は待っているはずだ。あの黄金の鳥籠の中でたった一人、孤独と戦いながら。

(私の助けを信じて……。いや、信じていなくてもいい)

 景明の瞳に揺るぎない光が宿る。

(私が彼女を愛しているという事実は何一つ変わらないのだから)

「……氷室」

 景明が口を開く。その声からは先ほどまでの弱々しさは消え失せていた。低く、深く、そして絶対的な自信に満ちた魔王の声だった。

「はっ」

 氷室が反射的に背筋を伸ばし、敬礼の姿勢を取る。

「出発の用意をしろ」

 景明は立ち上がった。その動作に合わせて、部屋中を覆っていた分厚い氷が一瞬にして砕け散り、輝くダイヤモンドダストとなって空中に霧散した。

「若菜。……この刺繍は私が預かる。必ず、鈴に返してやるからな」

 景明は千鳥の刺繍を軍服の胸ポケットに大切にしまった。そして若菜の頭を優しく撫でる。

「はい……っ、はい……旦那様……っ!」

 若菜は涙でぐしゃぐしゃになった顔で何度も頷いた。

「ばあや。……痛かったぞ」

 最後にトメに向き直り、景明は微かに口の端を吊り上げた。それは久しぶりに見せる、傲岸不遜で、けれどどこか少年のような笑みだった。

「戻ったら、鈴と一緒に説教を聞いてやる。……覚悟しておけ」

「……ふん。楽しみにしておりますよ、坊っちゃん」

 トメは鼻をすすりながら、満足げに微笑んだ。

 景明は窓際へ歩み寄ると凍りついたカーテンを乱暴に引き裂いた。窓ガラスが粉砕され、冷たい外気が流れ込む。だが、今の景明にとって、その寒さは心地よいだけだった。眼下には帝都の街並みが広がっている。

 その遥か彼方、深い森の奥に禍々しい気配を放つ久我山の屋敷があるはずだ。

 景明の瞳に蒼い雷光が走る。最強と呼ばれた異能の力が主人の覚醒に呼応して暴れ出そうとしていた。

「待っていろ、鈴。君が私を守るために悪役になったのなら、私はその上を行く魔王になろう。……神も悪魔も私の行く手を阻むものはすべて氷漬けにして、君を迎えに行く」

 景明は誰にともなく呟いた。振り返った景明の背後で砕けた氷が逆光を浴びて後光のように輝いた。

「氷室、総員に伝達!これより西園寺家は非常時態勢へ移行する!」

「ハッ!命令を!」

「目標、久我山邸!……まずは手始めに私の家を汚したネズミの親玉に挨拶に行くぞ!」

「了解しました!」

 氷室が踵を返して走り出す。若菜とトメが深々と頭を下げる中、景明は外套を翻して部屋を出た。

 その背中にはもう迷いなど微塵もない。愛する女を奪還するためなら帝都そのものを敵に回しても構わない。狂気すら孕んだ純粋で暴力的な愛の化身が今ここに復活したのである。

(待っていろ、久我山。……貴様に絶望という言葉の意味を教えてやる)

 廊下を歩く景明の足元から霜が広がる。それは、久我山への死の宣告の始まりだった。

 西園寺邸から車で一刻、そこには景明が鳥籠と呼ぶ、西園寺本邸があった。普段であれば枯れ木のような静寂に包まれているはずのその場所は今、異様な瘴気に満ちていた。

 屋敷の周囲には目に見えない粘着質な蜘蛛の巣が張り巡らされたように空気が淀み、鳥の声一つしない。ただ、湿った風が不気味な唸り声を上げて吹き抜けていくだけだった。

「……臭うな」

 車を降りた景明はハンカチで鼻を覆った。腐った果実と焦げた砂糖を煮詰めたような、あの久我山特有の甘ったるい悪臭。それがこの神聖な隠居場所から漏れ出している。

「少佐、これは……」

 氷室が眼鏡の奥で不快げに顔をしかめる。普段はあえて使わずにいる読心の異能を持つ彼にとって、この場所に充満する邪気は名状しがたい無数の悪意のノイズとなって直接脳髄を撫で回し、吐き気を催させるほどだった。

「氷室、お前たちは外で待機していろ。……中の毒を抜くには少し手荒な真似をする必要がある」

「はっ。……お気をつけて。先代様は現役を退いたとはいえ怪物です」

「分かっている。だが、今の私は虫の居所が悪い」

 景明は鳥籠の門をくぐった。その足元から霜が広がり、庭の枯れ草を一瞬にして氷の花へと変えていく。

 屋敷の中に入ると腐臭はさらに強さを増した。廊下には高価そうな壺や掛け軸、置物が所狭しと並べられている。それらは全て、ここ数ヶ月の間に“新興財閥の若造”から贈られたものだった。

(……やはりか。お祖父様ともあろうお人があんな男の接近を許すはずがないと思っていたが)

 景明は確信した。これらの骨董品一つ一つが微弱な精神干渉を行う呪物なのだ。

 久我山は鈴だけでなく、西園寺家の屋台骨である源五郎さえも時間をかけて毒に侵していたのだ。

「……誰だ。騒々しい」

 最奥の部屋から、しわがれた、しかし岩のように重い声が響いた。

 景明が重厚なマホガニーの扉を開け放つと、そこには異様な光景が広がっていた。薄暗い洋館の書斎の中央。車椅子の上に痩せこけた源五郎が深く腰掛けていた。

 彼は濁った瞳で虚空を見つめ、手には禍々しい細工が施された骨董の茶碗を弄んでいた。その周囲を黄金色に輝く小さな百足の幻影が何匹も這い回っている。

「景明か。……何の用だ。ワシは今、久我山殿から贈られたこの茶碗を愛でるのに忙しい」

 源五郎の声にはかつての覇気がない。代わりに強欲さと、どこか夢見心地な陶酔が含まれていた。

「……お祖父様。目を覚ましてください」

 景明は静かに言った。だが、源五郎は聞く耳を持たない。

「久我山殿は良い男だ。金がある。力がある。……西園寺の血もそろそろ新しい金の色に染まるべき時かもしれん。あの娘……鈴と言ったか。あれを彼に譲ったのは正解だったな。高く売れただろう?」

「……ッ」

 景明のこめかみに青筋が浮かぶ。尊敬する祖父の口から最も聞きたくない言葉を聞かされた。いや、これは祖父の言葉ではない。祖父の喉を使って喋っているあの百足男の言葉だ。

「……黙れ」

「なんじゃと?」

「黙れと言っている!!」

 景明の咆哮と共に凄まじい冷気が爆発した。部屋中の窓ガラスが悲鳴を上げてひび割れ、分厚いペルシャ絨毯が波打つ。

「貴様……私に牙を剥く気か!」

 源五郎が車椅子の肘掛けを激しく叩き、身を乗り出す。その背後から、どす黒い闘気が立ち昇る。

 腐っても前当主。その力は衰えていない。だが、今の景明はその程度の威圧感になど怯みはしなかった。

「牙を剥くのではない。……治療だ」

 景明は右手を掲げた。その掌に蒼白い雷光と冷気が収束していく。部屋の温度が急激に下がり、這い回っていた百足の幻影たちが動きを鈍らせる。

「……氷牢、絶」

 閃光が奔った。それは攻撃のための雷ではない。邪悪な気配だけを焼き切り、凍てつかせる浄化の蒼雷。

「ぐ、おぉぉぉぉぉッ!?」

 源五郎が苦悶の声を上げる。部屋に飾られていた壺や西洋彫刻が次々と音を立てて砕け散った。そこから黒い煙、毒の実が噴き出し、断末魔のような悲鳴を上げて逃げ惑う。

「逃がすか」

 景明は逃げようとする黒煙を絶対零度の冷気で瞬時に凍結させた。黒い氷塊となって床に落ちた毒は景明の軍靴の下で粉々に踏み砕かれた。嵐が去った後には清浄な、しかし肺が痛くなるほど冷たい空気が残された。

「……げほっ、ごほっ、ごほっ!」

 源五郎が車椅子からずり落ちそうになりながら、どす黒い血を吐き出した。体内に蓄積していた毒素が全て排出されたのだ。

「……お祖父様」

 景明が駆け寄り、背中をさする。源五郎は肩で息をしながら、しばらく床の血を見つめていたがやがてゆっくりと顔を上げた。その瞳からは濁りが消えていた。代わりに宿っていたのは獲物を狙う老いた鷲のような、鋭く強烈な眼光だった。

「……景明」

「はい」

「ワシは……何をしていた」

「悪い夢を見ておられたのです。……たちの悪い百足の夢を」

 景明は短く答えた。源五郎は周囲を見回し、砕け散った骨董品の残骸と踏み砕かれた黒い氷を見て、全てを悟ったようだった。

 源五郎の拳が音を立てて握りしめられる。全身から先ほどとは比べ物にならない純粋な怒りのオーラが噴き出した。

「あの若造が……ッ!!」

 源五郎の怒声が洋館を揺るがした。それは異能によるものではない。西園寺という誇り高き血族の長として自身の尊厳を、家名を、泥靴で踏みにじられたことへの根源的な激怒だった。

「西園寺源五郎を傀儡にしたと……?若造ごときが私を操り、西園寺の威光を利用しようとしたのか……!」

 その怒りは凄まじく、景明でさえ一歩後ずさりそうになるほどだった。

「景明ッ!!」

「はッ!」

「貴様、何をしている!自分の女を奪われ、祖父を愚弄され、それでもおめおめと生きて帰ってきたのか!」

「いいえ。……これからケジメをつけに行きます。私が率いる全部隊を動かします。相手は財閥、事を構えればタダでは済みませんが……構いませんね?」

 景明は背筋を伸ばし、毅然と言い放った。源五郎は鼻を鳴らし、凶悪な笑みを浮かべた。それはかつて魔王と呼ばれた時代の顔だった。

「構わん。……西園寺家に喧嘩を売った代償は高くつくぞ。屋敷ごと更地にしてこい。責任は全て私が取る」

 そして源五郎は懐から古びた印籠のようなものを取り出し、景明に投げ渡した。それは西園寺家当主の証である家紋入りの通行手形。これがあれば軍の一部さえも私兵として動かせる、絶対的な権力の象徴。

「……あの娘もだ、西園寺の嫁になる女があんな趣味の悪い成金趣味の屋敷にいるのは我慢ならん。……さっさと連れ戻してこい。茶の一杯も淹れさせてやる」

 源五郎は顔を背け、ぶっきらぼうに言った。それは頑固な祖父の精一杯の、結婚の許可だった。

「……感謝します、お祖父様」

 景明は深く一礼し、手形を握りしめた。手の中に熱い力が漲る。西園寺家の全権限と祖父の誇り。そして何より、自分自身の愛。全ての武器が揃った。

「行って参ります」

 景明は踵を返し、部屋を出た。背後で源五郎が「派手にやれよ」と呟くのが聞こえた。

 祖父から全権限を託された景明は鳥籠から急ぎ異能特殊部隊の屯所へと帰還した。到着した屯所の広場には既に異様な光景が広がっていた。氷室が事前に手配していたのか、景明直属の精鋭たちが完全武装で整列していたのである。

 黒塗りの軍用車両が数台、エンジン音を低く唸らせている。その数、およそ数十名。街を一つ焼き払えるほどの戦力が主の帰還を待っていた。

「……準備が良いな、氷室」

「当然です。少佐が戻ってくることは分かっていましたから。……なお、西園寺家の私兵集団は既に久我山邸の包囲に向けて先行出撃させております」

 氷室が恭しく敬礼する。その眼鏡の奥の瞳はこれからの戦いへの高揚感で燃えていた。

 景明は部隊の前に立った。夕闇が迫る空の下、彼の纏う空気は以前のような冷たいだけの氷ではなかった。内側に激しい情熱の炎を秘めた、触れれば魂ごと凍てつかせる青い氷。

「総員、聞け!これより、我々は久我山邸へカチコミをかける。先行している私兵たちと合流し、一気に制圧する。名目は……ない。これは軍事行動ではない。私的な喧嘩だ」

 景明の声は拡声器を使わずとも全員の腹の底に響いた。隊員たちの間にざわめきではなく、悪巧みの笑みが広がる。彼らもまた、堅苦しい軍律よりも主のための無法な戦いを好む荒くれ者たちだった。

「だが、相手は私の大切なものを奪った。……それだけで滅ぼす理由は十分だ」

 景明は腰の軍刀を抜き放った。澄んだ金属音が開戦の合図として夜空に響き渡る。刀身が蒼く輝き、周囲の空気が一瞬で凍結する。

「邪魔をする者は人だろうが異能者だろうが、神だろうが構わん。……一匹残らず叩き潰せ」

 景明は刀を掲げ、宣言した。

「総員、抜刀」

「「「オオオオオオオッ!!!」」」

 野太い歓声が上がり、数十の殺気が一つになった。

 景明は重厚な車の扉を開け、黒塗りの後部座席へと乗り込んだ。

 目指すは久我山邸。その奥底で待っているのは忌まわしき最狂の毒使いと囚われの身となった愛しき姫君だ。

 革張りのシートに深く背を預けると車内の冷え切った空気が刃のように肺を刺す。

(待っていろ、鈴。今、君を縛る全ての鎖を断ち切りに行く)


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