第27話
翌朝。帝都の朝は硝子の破片を撒き散らしたような鋭い冷気と共に訪れた。
豪奢な天蓋ベッドの上で鈴は浅い眠りから目覚めた。昨夜の光景が焼き鏝を当てられたかのように鮮明に脳裏に蘇る。
(......謝らなきゃ。ちゃんと説明して......)
身支度を整え、長い廊下に出る。食堂の重厚な扉の前に立つと中から微かに食器が触れ合う硬質な音が聞こえた。
鈴は深呼吸をし、震える手でノブを回した。食堂は朝の光に満ちていたがその空気は氷点下のように冷え切っていた。上座に景明の姿があった。彼はすでに皺一つない完璧な軍装に着替えている。
「......おはよう、ございます」
声が震えないように必死で腹に力を入れた。
「......おはよう」
返ってきたのは感情の一切を削ぎ落とした事務的な声だった。景明は手元の英字新聞から目を離さない。
「あの、西園寺様......。昨夜のことですが......その、私......貴方を拒んだわけでは......」
「座りたまえ」
景明が言葉を遮った。彼は新聞を丁寧に折り畳み、ゆっくりと顔を上げた。その瞳を見た瞬間、鈴は息を呑んだ。
(......目が、死んでいる)
「食事の時間だ。冷めてしまう」
景明が手元のベルを鳴らすと給仕が入ってきて焼きたてのトーストとオムレツ、湯気の立つ紅茶を並べていく。バターの甘い香りも今の鈴には砂を噛むような味気なさにしか感じられない。
「西園寺様......お願いです、聞いてください。昨夜、私が身を引いてしまったのは......」
「昨夜の話はもういい」
景明の手が止まった。
「疲れていたのだろう。私こそ配慮が足りなかった。......すまなかったな、不快な思いをさせて」
「ち、違います!不快だなんて、そんなこと一度も思ったことはありません!」
「鈴」
名前を呼ばれた。けれど、その響きにはかつてのような甘い熱量は微塵もなかった。
景明は立ち上がり、椅子を引いた。
「私はもう行く。今日は会議が長引く予定だ。......帰りは遅くなる」
「待ってください!西園寺様!」
鈴は慌てて立ち上がり、彼の元へ駆け寄ろうとした。けれど景明は拒絶するように背を向け、大股で出口へと向かう。一瞬だけ立ち止まった彼から、背中越しに低い声が投げかけられた。
「......忘れてくれ。昨夜のことも。私のことも」
「え......?」
「君にはもっと相応しい平穏があるはずだ。......私のような周囲を縛り付ける血の人間ではなく」
その言葉は鋭利な刃物となって鈴の心臓を貫いた。
「西園寺様......!」
景明はそれ以上何も言わず、扉を開けて出て行った。重い音と共に扉が閉ざされる。
鈴はその場に崩れ落ちた。
“君は西園寺家の重荷だ”、“私なら君を救ってあげられる”
脳裏で久我山のあの粘着質な声がリフレインする。
(私にはこれしかない。......刺繍で想いを形にすれば......きっと西園寺様も......)
錯乱した思考は奇妙な方向へと逃げ道を求めた。鈴は涙を拭うこともせず、氷室が執務室として使用してる書斎へと走り、彼が取り上げていたあの紫色の風呂敷包みを取り戻した。
自室へと逃げ込み、扉を閉める。桐箱を開けると薄暗い部屋の中に眩いばかりの金色の光が溢れ出した。
鈴は懐から白いハンカチを取り出し、金色の糸束を一本引き抜く。
(千鳥を......千鳥を縫おう)
鈴は祈るように針を刺した。彼女の針運びは本来ならば神業と呼べるほど繊細で流れる水のように滑らかだ。決して狙いを外すことも指を刺して血を流すような無様な真似も絶対にしない。
一針、二針。無心で針を進める。針が布を通る微かな音だけが部屋の空気を震わせる。
(もっと、もっと綺麗に......)
しかし、彼女の意思とは裏腹に久我山の毒が染み込んだ金色の糸は布の上で勝手に蠢くように形を変えていく。本来ならば愛らしい小鳥の形になるはずのものが中心から放射状に広がる幾何学的な網となり、その中央に鎮座する多脚の禍々しい百足の影へと歪んでいった。
(あれ......?)
視界が霞み、目の前の刺繍が歪んで映る。その時、彼女の大きな瞳から溢れ落ちた一滴の涙が純白の布の上に落ちた。
悲痛な祈りのこもったその涙を金色の糸はまるで生き物が水を飲むように吸い込み、さらに妖しく艶やかに輝きを増した。
『......鈴さん、辛いでしょう?西園寺家の圧力は貴女のお父様を確実に追い詰めている』
脳裏に直接響く久我山の声。
『私の糸を使ってごらん。その糸は貴女の望む平穏を手繰り寄せる、魔法の糸だ』
鈴は朦朧と呟いた。景明の冷たい背中。追い詰められた孤独感。その時だった。廊下を走る慌ただしい足音が近づき、扉が開かれた。
「た、大変です!小鳥遊様!ご実家から、緊急の電報が......!」
執事は蒼白な顔で叫んだ。鈴の手から金色の百足が描かれた布が滑り落ちる。
「お父上が...... 小鳥遊子爵が倒れられました!」
「え......?」
鈴の思考が凍りついたように停止した。
「ご本邸の方に西園寺の息がかかった者たちが押し寄せていると......!『事業の権利を明け渡せ』と迫られているそうです!」
西園寺家の圧力。それは、景明の祖父母が鈴という存在を排除するために彼女の厳格な父へ向けた、あまりにも露骨で無慈悲な政治的攻撃だった。
(私が......私が身の丈に合わない夢を見たから、お父様が......?)
鈴の足元から崩壊の音が響き始めていた。
「お父様……お母様……!」
鈴は弾かれたように駆け出した。若菜が“鈴様!”と呼ぶ声も床に落ちた金色の刺繍が不気味に蠢き、その“百足の脚”が獲物を求めて伸びようとしたことにも気づかずに彼女は着の身着のまま洋館の玄関へと走った。
頭の中にはもう、景明のことさえ考える余裕はなかった。ただ、理不尽に崩れ落ちていく自分の世界と家族を守らなければという焦燥感だけが毒のように全身を駆け巡っていた。
床に残されたハンカチの上で金色の糸で描かれた百足の影が怪しく光った。
帝都の空は重たい鉛色の雲に覆われていた。
時折、風花が舞う中を車が泥を跳ね上げて疾走している。後部座席に座る鈴は窓の外を流れる寒々しい景色を焦点の合わない瞳で見つめていた。
「鈴様、しっかりなさってください。もうすぐ着きますから……」
隣で若菜が鈴の背中をさすりながら、悲痛な声をかける。けれど鈴の耳にはその声が遠くの霧の中から響いているようにしか聞こえなかった。
(お父様が倒れた。……家が、事業が奪われる)
その事実だけが冷たい石礫となって頭の中で繰り返し反響している。指先には先ほどまで正確に布を貫いていた針の冷たい感触だけが残っていた。そして網膜にはあの金色の糸で描かれた禍々しい百足の残像が焼き付いて離れない。
“西園寺家は君を縛る檻だ”、“君の存在が、彼を苦しめる”
久我山の呪いの言葉と車のエンジンの振動が共鳴し、鈴の三半規管を狂わせていく。胃の腑が鉛のように重い。吐き気がする。けれど、それ以上に恐ろしいのは心の中に広がる“すべて私のせいだ”という罪悪感だった。
(私が西園寺様の隣にいようとしたから……。その代償としてお父様が久我山様の罠に嵌められ、西園寺家から圧力をかけられているの?)
西園寺景明という、帝都で最も高貴で強大な力を持つ男。その隣に立つ資格など最初から自分にはなかったのだ。最近の彼のすれ違い。そして今日の凶報。すべては繋がっているように思えた。運命が“分をわきまえろ”と鈴を鞭打っているのだ。
「着きました!」
運転手の声と共に車が急ブレーキをかけて停止した。
小鳥遊子爵邸。利益を重んじ、政略を駆使して堅実に家を守ってきた父の立派な屋敷は今や異様な空気に包まれていた。鈴にとっては生まれ育った大切な場所であり、家族の温もりが残る唯一の聖域。その門前に威圧的な光景が広がっていた。
「さあ、開けなさい。居留守など無意味ですよ」
「期日を過ぎた負債の代償として事業の権利書を頂こう」
激しく門扉を叩く音。そこにいたのは街のならず者などではない。上質な黒い外套に身を包んだ、氷のように冷徹な目をした男たちだった。西園寺本家の息がかかった者たちだ。彼らが吐き出す白い息と紫煙が寒空の下で冷酷に渦巻いている。
「ひっ……」
若菜は恐怖に息を呑んだ。
鈴は震える足に無理やり力を込め、車を降りた。
「やめ……やめてください!」
鈴の声は寒風にかき消されそうなほど細かった。けれど、男たちの一人がそれに気づき、嘲るような笑みを浮かべて振り返った。
「おや?誰かと思えば……大旦那様の可愛いお孫様をたぶらかした、子爵家の令嬢ではありませんか」
「た、たぶらかしてなどいません!私は西園寺様の婚約者です!」
鈴は気丈に叫んだが男たちは鼻で笑った。
「ええ、存じておりますよ。……ですが、父親が負債で倒れかけているというのに随分と優雅なご身分ですね」
男が顎で屋敷を指す。鈴は男たちの脇をすり抜け、門の中へと駆け込んだ。背後で“逃がすな”という鋭い指示が飛ぶが今は構っていられない。玄関の扉を開けるとそこにはさらなる地獄があった。
土足の跡。磨き上げられていたはずの廊下には無遠慮な靴跡が無数に刻まれている。玄関に飾られていた花瓶は倒され、水が床に広がって活けられていた白梅が無惨に踏みにじられていた。
「お父様!お母様!」
鈴は靴も脱がずに廊下を走った。奥の応接室から母の悲痛な声と男たちの冷酷な声が聞こえてくる。襖を勢いよく開け放つ。
「やめて!お願い、乱暴はしないでください!」
「騒がないでいただきたい。金がないなら、相応の物を頂いていくまでのこと」
視界に飛び込んできたのは地獄絵図だった。部屋の中は荒らされ、高価な調度品が次々と運び出されようとしている。その中央の長椅子で病床から引きずり出された父・小鳥遊子爵が苦しげに咳き込んでいた。その口元は赤く染まっている。過労と心労で喀血したのだ。
そして、その父を庇うように立ちはだかる母の肩を冷酷な目をした男が強引に突き飛ばそうとしていた。
「やめてッ!!」
鈴の口から自分でも驚くような悲鳴がほとばしった。彼女は無我夢中で男と母の間に割って入った。
「なっ……」
不意を突かれた男がわずかに後退する。
「鈴……!鈴なの!?」
「お母様!お父様!」
鈴は母を抱き起こし、父の元へ這い寄った。厳格で威厳に満ちていた父の顔色は蝋のように白く、痩せこけた頬骨が浮き出ている。呼吸は浅い音を立てていた。
「お、父様……しっかりして……」
「……す、ず……」
父が薄く目を開け、震える手を伸ばした。その手はひどく冷たかった。
「すまない……私が、投資話などという甘い罠に……」
「そんなこと言わないで!今、お医者様を……」
「お医者様?無駄な真似はおやめなさい」
ステッキが床を叩く音がした。部屋には三人の男がいた。その中心にいる一際冷ややかな空気を纏った男が懐から数枚の書類を取り出し、見せつけた。
「医者を呼ぶ金があるなら、こちらの返済に回していただきましょう。……久我山様からの莫大な負債、期限はとうに過ぎていますよ」
「負債……?」
鈴は母を抱きしめたまま、男を睨み上げた。
「待ってください。その投資の件なら返済の期限はまだ先のはずです!なぜ急に……」
「おや、ご存知ない?……久我山様が手放したこの債権を我々西園寺本家が買い取らせていただいたのですよ」
男が権利書を鈴の目の前に突きつける。そこには確かに父が押した実印と債権が源五郎へと譲渡された旨が記されていた。
「な……債権の譲渡……!」
「ええ。大旦那様のご意向でしてね。条件を変更し、本日を期限とさせていただいた。……サインをしたのはお父様ご自身ですよ?」
男は冷酷な笑みを浮かべた。嘘だ。利益に聡い父がそんな迂闊な条件を飲むはずがない。これは罠だ。久我山が持ちかけた詐欺まがいの投資話と西園寺の絶対的な権力。誰かが意図的に小鳥遊家を破滅させるために仕組んだ、あまりにも露骨な罠。
(誰が……? まさか……)
鈴の脳裏に景明の言葉が過ぎる。
“祖父母は私を愛するあまり、私のすべてを己の手の内で管理しようとする”
景明の祖父、西園寺源五郎。彼なら借用の条件を強引に書き換えさせることなど、赤子の手をひねるより容易いだろう。愛する孫を“鳥籠”に連れ戻すために邪魔な女の実家を潰すことなど。
「西園寺様の……お祖父様の差し金なの……?」
鈴が絶望に染まった声で呟くと男はつまらなそうに書類をしまった。
「我々は大旦那様の命令に従っているだけです。……で?どうされますか。今ここで全額払うか、この屋敷と事業の権利書を渡すか。二つに一つです。ま、これらを全て売り払ったところで元金の半分にも満たないでしょうがね。残りは……そうですね、久我山様が貴女を身受けしたいと仰っていましたよ?」
男は土足のまま父の傍らに歩み寄り、視線が鈴の全身を舐めるように這い回る。冷酷で打算に満ちた視線。それはまるであの金色の百足が這い回るような不快感だった。
「やめて……娘を巻き込まないで……っ」
母が叫び、男の足元に縋り付く。
「おやめなさい、みっともない」
「きゃっ!」
男が容赦なく母を振り払った。母の体がよろめき、床に崩れ落ちる。
「お母様ッ!!」
鈴の中で何かが弾けた。恐怖よりも、悲しみよりも、激しい怒りが湧き上がる。けれど、それは無力な怒りだった。
鈴には彼らを止める力がない。軍の権力も、圧倒的な財力も、異能も、何一つ持っていない。
「……いくらですか」
鈴は震える声で問うた。
「いくらお支払いすれば父の事業とこの家を諦めてくださるんですか」
「ほう、威勢がいいですね。……久我山様から譲り受けた投資の負債残金と利息、本日期限の遅延損害金を合わせて……しめて、参萬圓といったところです」
「さ、参萬……圓……!?」
鈴は絶句した。それは現在の価値に換算して数億円にのぼる金額だった。帝都の一等地に豪邸がいくつも建つほどの大金だ。一般の勤め人の月給が数十円というこの時代において、それは想像を絶する金額だった。元の投資の負債がそこまで膨れ上がっていたとは到底思えない。西園寺家の権力で法外な利息と言いがかりのような損害金が意図的に上乗せされているのだ。
「払えるわけがない……そんないわれのない大金……!」
「払えないのであれば約束通り屋敷と事業の全権を明け渡していただきましょう」
冷酷な目をした男が銀の懐中時計を取り出し、蓋を開けた。
「時間は待ってくれませんよ。あと一時間です。それまでに現金をご用意できなければ強制執行となります。過労で倒れたお父様もお母様も、この寒空の下に放り出すことになりますね」
「そんな……父は血を吐いているんです!この寒さの中に放り出されたら、死んでしまいます!」
「それは我々の知ったことではありません。分不相応な投資話に手を出したご自身の責任でしょう」
男は事務的に言い放ち、ステッキを突いて冷たく見下ろした。紫煙が父の顔にかかり、父がさらに激しく咳き込む。
「けほっ、けほっ……鈴……すまない……お前は、逃げなさい……」
父が血の混じった泡を吹きながら、鈴の手を握りしめた。
「景明殿に……助けを求めなさい……彼なら……」
「……っ」
鈴は血の味がするほど唇を噛み締め、俯いた。脳裏に浮かぶのは景明の姿。昨夜、彼女を不器用に拒絶し、今朝「忘れてくれ」と、まるで全てを諦めたような声で言い残して去っていった男。そして何より、この残酷な取り立てを指示した黒幕は、彼を異常なまでに溺愛する祖父なのだ。
(言えない。……西園寺様には言えない)
もし景明に助けを求めれば彼は必ず源五郎と全面衝突することになる。愛する孫を“鳥籠”に連れ戻すためなら手段を選ばないあの狂気的な源五郎と戦えば、景明は一族の中で完全に孤立し、軍人としての輝かしい未来すら潰されるかもしれない。
“君にはもっと相応しい平穏があるはずだ。私のような周囲を縛り付ける血の人間ではなく”
そう告げた彼の痛ましい背中が目に焼き付いている。これ以上、彼を“家”の重圧で苦しめることなど鈴の愛が許さなかった。
(私が……私がなんとかしなきゃいけないの。でも、どうやって?)
参萬圓。屋敷を売っても、父の事業を全て手放しても足りない。自分の着物を売っても、一生かかって刺繍を刺し続けても届かない。
(ああ、神様……)
鈴は音もなく涙を流した。視界が暗くなる。絶望という名の闇が部屋の隅々から浸食してくる。
『……ひどく悲しい顔をしていますね、鈴さん』
その時、声が聞こえた。冷酷な使者たちのものでも、母の泣き声でもない。脳髄に直接甘く溶け込んでくるような、粘着質な声。
(誰……?)
鈴は顔を上げた。玄関の方から新たな足音が聞こえてくる。それは西園寺の使者たちの硬質な靴音とは違う。優雅でリズムが整った、高級な革靴の音。その音は荒れ果てた小鳥遊家の廊下に異様なほど澄んで響き、地獄のような応接室へと近づいてくる。
「……久我山、?」
鈴の声が凍りついた空気に震えて溶けた。そこに立っていたのは凄惨な地獄絵図にはあまりにも不釣り合いな恰幅の良い男だった。ライトグレーのスーツに艶やかな亜麻色の髪。豊かな肉付きの顔の奥で琥珀色の瞳が爬虫類のように細められ、底知れぬ愉悦の光を湛えている。
「おや、久我山様。……これは西園寺本家の差し押さえです。部外者は立ち入らないでいただきたい」
西園寺の使者が不快げに眉をひそめ、久我山を牽制した。
「部外者?……ふふ、それはどうでしょうか。元を正せば、私が小鳥遊子爵にお持ちした投資話ですからね。無関係とは言えませんよ」
久我山は豊かな体を揺らして上品に笑うと、その絶望的な状況を楽しむように口元を歪めた。彼は懐から革張りの小切手帳を取り出し、流麗な手つきで万年筆を走らせた。
そして、その紙片を使者の顔に向かってまるで紙屑のように放り投げた。
「これで足りるかな?」
舞い落ちた小切手を使者が反射的に掴む。金額を見た瞬間、常に冷徹だった男の目が驚愕に見開かれた。
「なっ……!?」
「五萬圓だ。……元金、法外な利息、損害金。そして、この美しい家を土足で汚した不敬に対する慰謝料を含めて、お釣りがいくだろう?」
「ご、五萬……ッ!?」
使者の手が震える。その場にいた他の男たちも小切手を覗き込み、息を呑んだ。それは西園寺本家をもってしても一個人がポケットマネーで即座に切れるような額ではない。
「さあ、用が済んだらさっさと消えたまえ。……西園寺源五郎翁によろしく伝えておいてくれ。小鳥遊家の負債は私が全額肩代わりしたとね」
久我山が冷ややかに告げると使者たちは悔しげに顔を歪めながらも圧倒的な財力の前になす術もなく「……失礼する」と踵を返した。足音が遠ざかり、嵐が去ったような静寂が部屋に戻ってくる。けれど鈴の震えは止まらなかった。むしろ、先ほどよりも深い、底知れぬ恐怖が足元から這い上がってくる。
西園寺家の圧力という嵐は去った。けれど、その後に残ったのは音もなく這い寄る毒の気配だった。久我山がゆっくりと部屋に入ってきた。その重たげな体躯に似合わず、靴音ひとつ立てず、百足のように滑らかに。彼は鈴の目の前まで来ると片膝をつき、汚れた床を厭うこともなく、鈴の手を取った。
「災難でしたね、鈴さん」
その手は爬虫類のように冷たかった。鈴の背筋に生理的な嫌悪感が走る。けれど体は金縛りにあったように動かない。
「間に合ってよかった。……貴女の悲しむ顔など、見たくありませんから」
「どうして……ここへ……?」
鈴が掠れた声で問うと、久我山は瞳を細め、鈴の白魚のような指先を愛おしげに撫でた。
「“糸”が教えてくれたのですよ。貴女が絶望の淵で泣いていると」
背筋が凍る感覚と共に鈴の視界が歪んだ。久我山の背後から無数の金色の糸が伸び、部屋中を埋め尽くしていく幻覚が見える。それは美しくも禍々しい、巨大な百足の影のようだった。
「さあ、立ちなさい。……ここでは貴女の美しい手が汚れてしまう」
彼は鈴を立たせ、耳元で囁いた。その言葉は優しく、甘く、そして逃げ場のない黄金の鳥籠への招待状だった。
「借金は私が消しました。お父様の治療も最高の病院を手配しましょう。……ただし」
久我山の瞳が妖しく光った。
「タダというわけにはいきません。……わかりますね?」
鈴は息を呑んだ。わかっている。彼が何を求めているのか。五萬圓という莫大な金。それを肩代わりした代償。それは鈴自身の人生だ。
「西園寺景明との婚約を破棄し、私の元へ来なさい」
それは命令ではなかった。選択の余地のない、悪魔の契約だった。
「そん、な……」
鈴は首を振った。愛する男と引き裂かれることへの本能的な拒絶。あのような悲しいすれ違いのまま、二度と会えなくなる未来など、彼女の心が受け入れられるはずもなかった。
(嫌……。西園寺様と離れたくない……ッ)
「西園寺様は……私を……」
「貴女を愛していると?守ってくれるとでも?」
久我山は憐れむように鈴を見つめた。その太い指先が鈴のこめかみを撫でる。そこから腐食の毒が染み込み、鈴の不安と罪悪感を爆発的に増幅させていく。
「彼は今朝、貴女になんと言いましたか? 『忘れてくれ』と言ったのではありませんか?」
「っ!」
図星だった。鈴の顔色が蒼白になる。
「彼は貴女を遠ざけた。……無理もありません。彼は西園寺という巨大な運命を背負う男。彼を溺愛する祖父から目をつけられた貴女の存在は、彼を縛る足枷以外の何物でもない」
「ちが……違います……」
「違わない。現に彼のお祖父様がこうして動いたのでしょう?これが西園寺家の狂気です。貴女が彼のそばにいる限り、ご家族は何度でも狙われる。彼もまた、祖父との板挟みで血を流し続ける。……貴女のその独りよがりな愛が大切な人たちを殺すことになるのですよ?」
「……っ、ああ……」
鈴は崩れ落ちそうになる体を必死で支えた。久我山の言葉は彼女の最も脆い部分を的確に貫く残酷な真実のように響いた。自分が景明の隣にいる限り、両親も、そして景明自身も一族の圧力で苦しみ続けるという因果。
(私が……私が西園寺様を愛したから、こんなことに……?)
視界が明滅する。金色の糸の幻覚が鈴の首に、手首に、足首に絡みついてくる。それは締め付けられる苦しみではなく、妙に温かく、思考を奪い去る安らかな拘束感だった。
「楽になりなさい、鈴さん」
久我山の声が脳内に直接響く。
「西園寺家という茨の檻に自ら入る必要はない。私の元へ来れば、もう誰も傷つかない。ご家族の事業も守られ、西園寺少佐も血を流す運命から解放される。……ご自分が悪役になって身を引くこと。それが貴女ができる唯一の“愛”の形ではありませんか?」
「唯一の……愛……」
鈴の瞳から光が消えていく。判断力が麻痺し、思考が毒に塗り替えられていく。
景明のために。彼を深く愛しているからこそ、彼から離れなければならない。自分が身を引けば彼は自由になれるのだ。呪いによって誘導された歪んだ自己犠牲の論理が彼女の精神を完全に支配し始めた。
(そう……だわ。私が悪役になって消えれば、全て丸く収まるのね)
それは、最愛の人を裏切る狂気の決断だった。けれど、久我山の毒に蝕まれた今の鈴には、それが彼を守るための崇高な自己犠牲のように思えてしまったのだ。
鈴の目には今、目の前の久我山が醜悪な百足ではなく、光り輝く黄金の救世主に見えていた。彼が差し出した手が泥沼から家族を引き上げてくれる唯一の蜘蛛の糸に見えたのだ。
「……わかり、ました」
鈴は虚ろな瞳で呟いた。その言葉を聞いた瞬間、久我山の口元が裂けんばかりに吊り上がった。
「賢明な判断です。……さあ、その手を取りなさい。私の愛しいカナリア」
久我山が手を差し出す。鈴は震える手でその手を取ろうとした。
「鈴……行くな……!」
長椅子の上で父が必死に声を絞り出した。血の泡を吐きながら鈴の着物の裾を掴む。
「その男は……いけない……悪魔だ……」
「お父様……」
鈴は悲しげに微笑み、父の手をそっと外した。
「ごめんなさい。……でも、これでお父様の事業もお母様も助かるの。西園寺様も自由になれるの」
「違う……鈴、目を覚ませ……ッ!」
父の叫びは届かない。鈴はゆっくりと久我山の手のひらに自分の指を重ねた。爬虫類のように冷たい手と手が触れ合った瞬間、鈴の体内で何かが決定的に書き換わった音がした。
契約成立。黄金の鳥籠の鍵が閉ざされた音。
「いい子だ」
久我山は満足げに鈴の手を引き寄せ、その腰を抱いた。彼の背後で金色の糸が狂喜乱舞するように蠢き、鈴を繭のように包み込んでいく。
「行きましょう。貴女の新しい城へ」
久我山にエスコートされ、鈴は応接室を出た。母の泣き叫ぶ声も、父の慟哭も、もう遠い世界の出来事のようだった。頭の中にあるのはただ一つの歪んだ信念だけ。
(さようなら、西園寺様。……これが私なりの愛し方です)
玄関を出ると外は雪に変わっていた。白い雪が降りしきる中、久我山の用意した高級車が黒い獣のように待ち構えている。後部座席のドアが開けられた。
その暗い車内は一度入れば二度と出られない奈落の入り口のように見えた。鈴が足をかけようとした、その時。耳をつんざくようなブレーキ音と共に一台の軍用車が猛スピードで滑り込んできた。砂利を跳ね上げ、久我山の車の進路を塞ぐように停車し、ドアが乱暴に蹴り開けられた。
怒号と共に飛び出してきたのは軍服に身を包んだ景明だった。
「その手を離せ、久我山ァッ!!」
景明の咆哮が雪空を切り裂いた。それは怒りなどという生易しいものではない。愛する女を奪われかけた男の、魂の絶叫そのものだった。
そこにいる彼は今朝の冷徹な仮面をかなぐり捨てていた。整えられていた黒髪は風に乱れ、肩で荒い息をしている。その背後からは目に見えるほどの冷気が噴き出し、彼が地面を踏みしめるたび、足元の雪が一瞬にして氷結し、放射状に霜が走った。
「西園寺、様……?」
鈴は呆然と彼を見つめた。そこにいるのは今朝「忘れてくれ」と冷たく背を向けた男とはまるで別人だった。その瞳には血走った焦燥と狂気じみた執着だけが燃え盛っている。
「……その男から離れろ!」
景明はなりふり構わず走り寄り、久我山と鈴の間に強引に割り込んだ。そして鈴の肩を掴み、自身の背中へと庇う。その手は痛いほど強く、震えていた。
「無事か!?何かされたのか!?」
「あ……」
鈴は困惑した。なぜ、彼はこんなに必死なのだろう。彼は鈴の存在が重荷だと言ったはずだ。一族からの圧力で苦しんでいるはずだ。それなのになぜ今さら、こんなにも熱い手で私に触れるのか。
「……おやおや。野蛮ですねえ、少佐殿」
久我山がわざとらしく肩をすくめた。彼は景明の殺気を受けても怯むどころか、その琥珀色の瞳を細めて愉悦に浸っている。
「いきなりレディの手を引くとは。……これだから軍人は無粋だと言われるのですよ」
「黙れッ!!」
景明の周りの空気が音を立てて凍りつく。無数の氷の礫が空中に生成され、その全てが久我山の喉元へと切っ先を向けていた。
「貴様……よくも私の留守にこんな真似を……! 鈴に何を吹き込んだ!?」
「何も?私はただ、困っている彼女に救いの手を差し伸べただけですよ」
久我山は余裕の笑みで小切手の半券を見せびらかした。
「彼女のご実家には少々厄介な負債がありましてね。五萬圓ほど。……それを私が肩代わりさせていただいた。それだけのことです」
「五萬……圓……?」
景明が息を呑む。その莫大な金額の意味を彼なら理解できる。それがただの負債ではなく、源五郎による露骨な経済的制裁であることを。
「卑劣な……!祖父と通じていたのか!」
「人聞きが悪い。私はただ、美しい花が泥にまみれるのを見ていられなかっただけです。……西園寺家が泥の中に突き落とした花をね」
久我山の言葉は的確に景明の急所を突いた。景明の表情が歪む。罪悪感と無力感が怒りの炎に水を差す。
「……鈴」
景明は振り返り、鈴の顔を覗き込んだ。その瞳は縋るように揺れていた。
「すまない。私が……私が不甲斐ないばかりに君の家まで巻き込んでしまった。……だが、金のことなら心配するな。私がなんとかする。どんな手を使っても必ず。だから……」
景明は鈴の手を両手で包み込んだ。その手は氷のように冷たかったが必死の体温が伝わってくる。
「行くな。……あんな男の手を取るな。君は私の婚約者だろう?」
それは懇願だった。帝国最強の異能者がプライドも何もかもかなぐり捨てて、ただ一人の少女に愛を乞うている。けれど。鈴の目にはその景明の姿が歪んで見えていた。久我山の呪いが鈴の認知を書き換えていく。
景明の必死な表情は“責任感に縛られた苦痛の表情”に見え、彼が差し出した手は“鈴を茨の檻に引き戻す鎖”に見える。
(……ああ。西園寺様は無理をしていらっしゃる)
鈴の心に悲しい納得が落ちた。彼は優しいから。責任感が強いから。だから本当は足枷である鈴を見捨てられないだけなのだ。鈴がそばにいれば彼は一生、源五郎と戦い続け、血を流し続けなければならない。
(私が……断ち切ってあげなきゃ)
彼の優しさに甘えてはいけない。彼を自由にするために鈴が悪役にならなければ。
「……離して、ください」
鈴は景明の手を振り払った。
「ッ!?」
景明の手が空を切る。彼は信じられないものを見るように大きく目を見開いた。
「す、ず……?」
「西園寺様。……感謝いたします。今まで夢のような時間をありがとうございました」
鈴は一歩、後ずさった。その動きは景明から逃れ、久我山の隣に並び立つための動きだった。
「でも、もう……疲れました」
「疲れた……?何を言っているんだ……?」
「西園寺家の方々と戦うのも、父の事業が潰されるのに怯えるのも、もう嫌なんです」
久我山が満足げに笑い、鈴の肩に手を回す。その手からは鈴にしか見えない金色の糸が溢れ出し、鈴の全身を温かく包み込んでいく。
「久我山様は私を救ってくださいました。父の負債も、家のことも、全て解決してくださると約束してくださいました」
鈴は虚ろな瞳で景明を見つめた。その瞳にはかつてのような愛の光はなく、ただ深い諦念と呪いによる混濁だけがあった。
「私は……平穏が欲しいのです。愛だけでは生きていけませんから」
その言葉は決定的な引き金だった。何かが砕ける音がした。それは氷の割れる音か、それとも景明の心臓が壊れた音か。
景明の表情から色が引いた。焦燥も、懇願も、愛しさも。全てが凍りつき、剥がれ落ちていく。
「……そうか」
低く、温度のない声が響いた。
「君も……利益の方がいいか」
「え……?」
「祖父の言った通りだったな。……愛などというものは金と権力の前では無力な幻想に過ぎない」
景明はゆっくりと顔を上げた。その瞳は深淵のような漆黒に染まっていた。光がない。感情がない。あるのは世界そのものを呪うような絶対零度の虚無だけ。
「ち、違います西園寺様!私は貴方を……!」
鈴が叫ぼうとした時、久我山がわざとらしく景明を制した。
「おや、往生際が悪いですよ少佐。彼女は選んだのです。西園寺家の重圧ではなく、私を」
久我山が鈴の腰を引き寄せ、これ見よがしに密着する。
「さあ、行こうか鈴。こんな野暮な男の相手をしている暇はない」
「待て」
景明の声が地響きのように轟いた。次の瞬間、景明の足元から巨大な氷の棘が爆発的に隆起した。それは鋭い槍となって久我山と鈴の目の前の地面を穿ち、二人の退路を断った。
「ひっ!?」
鈴が悲鳴を上げ、久我山にしがみつく。久我山もさすがに顔色を変え、舌打ちをした。
「……力尽くで奪うつもりですか?野蛮人は話が通じない」
「奪う?……違うな」
景明はゆっくりと一歩踏み出した。その背後から、次々と巨大な氷柱が出現する。大気中の水分が瞬時に凍結し、ダイヤモンドダストが舞う。
美しい。けれど、それは触れるもの全てを死に至らしめる破壊の輝きだった。
「私は……壊すと言ったんだ」
景明が右手を掲げた。その手には青白い雷光が迸っている。
「私のものにならないなら……いっそ、この手で」
「西園寺様……!?」
鈴は戦慄した。彼の目は本気だ。彼は今、久我山ごと、あるいは鈴ごと、この世界を凍らせて砕こうとしている。愛が深すぎたがゆえの反転した憎悪。制御不能の暴走。
「やめて!西園寺様!お願いだから……っ!」
鈴は叫び、久我山を庇うように両手を広げて立ちふさがった。
「来ないでッ!!これは私の意思です!!」
その瞬間、景明の動きが止まった。愛する女が自分ではなく、憎き敵を庇って立ちはだかる。その構図。その拒絶。
「……あ、あ……」
景明の喉から壊れた笛のような音が漏れた。彼の中で辛うじて残っていた理性の最後の糸が切れた。
「……そうか。それが君の意思か」
景明が笑った。泣いているようにも、嗤っているようにも見える、凄惨な笑顔だった。
「なら……もういい」
地面が鳴動する。景明を中心にして世界が急速に白く染まっていく。屋敷の門も、庭木も、久我山の高級車も。全てが分厚い氷に覆われ、時を止められていく。
「全て……消えてなくなればいい」
暴走する氷の魔力が吹雪となって吹き荒れる。視界がホワイトアウトする中、鈴が見た最後の光景は涙を流しながら雷光を放つ、美しくも悲しい鬼の姿だった。




