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第26話

 重厚な樫の扉が軋んだ音を立てて背後で閉ざされると、世界は二つに断絶した。扉の向こう側で渦巻くワルツの旋律や人々のざわめきは分厚い木板と石壁によって遮断され、遠い異国の夢のようにくぐもった残響へと変わる。対して、車寄せには骨の髄まで凍てつくような帝都の冬が横たわっていた。

「......寒いな」

 景明が小さく呟き、隣を歩く鈴の肩を自身のマントで覆うように引き寄せた。マントからは微かに彼自身が持つ凛とした冷気、そして奥底にある陽だまりのような体温が漂ってくる。

「いいえ、西園寺様。......貴方が隣にいらっしゃいますから」

 鈴はマントの裾を握りしめ、彼の見上げるような長身を見つめた。ガス灯の淡い光がガラスの覆いを透かして石畳の上に揺らめく影を落としている。その頼りない明かりの中で景明の横顔は彫像のように美しく、そして痛々しいほどに硬直していた。

「……すまない、鈴。あのような大見得を切った直後に君を一人にするなど」

 景明は足を止め、鈴に向き直り、鈴の小さな両手をまるで壊れ物を包み込むように優しく、そして逃がさないと言わんばかりの強さで握りしめていた。

「謝らないでください。……お祖父様からの呼び出しなのでしょう?断れるはずがありません」

「ああ、断れない。今の私にはまだ、あの老人を無視して君を連れ去るだけの力が足りない」

 景明は自嘲するように唇を歪めた。その表情には陸軍少佐としての威厳はなく、ただ血の宿命に抗おうとする一人の青年の苦悩が滲んでいた。

 車寄せの闇の奥、ガス灯の光さえ届かぬ場所に一台の異様な車が停まっている。艶やかに磨き上げられた黒塗りの車体。車の隣には権藤が枯木のように直立不動で控えている。

 権藤は何も言わない。ただ、その深淵のような瞳でじっとこちらを見据えているだけだ。「早くしろ」とも「無駄だ」とも言わない。その沈黙こそが西園寺家という巨大な怪物の呼吸そのものだった。その車はまるで霊柩車のように静かに主人が自ら棺の中へ入るのを待っている。

「……本当なら」

 景明の声が夜気に震えた。彼は握りしめた鈴の手を自身の胸元、心臓の鼓動が脈打つ場所へと押し当てた。軍服の分厚い生地越しにさえ、彼の鼓動が激しく、早く、高鳴っているのが伝わってくる。

「今すぐにでも、君を連れて逃げ出したい」

「西園寺様……?」

「軍も、家も、異能も……すべて捨てて。誰も我々を知らない土地へ。そこでなら、私はただの“西園寺景明”として、君と慎ましく暮らせるだろうか」

「……ふふ、駄目ですよ、西園寺様。そんなことをしたら氷室様が泣いてしまいます。それに……」

  鈴は泣き出しそうな心を必死に抑え込み、あえて悪戯っぽく微笑んでみせ、彼の手を握り返し、その冷たい指先に自身の体温を伝えた。

「私は西園寺様を心の底からお慕いしているのですから逃げる必要なんてありません。私はどこへも行きませんし、貴方も必ず戻ってきてくださいます」

 鈴の言葉に景明は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。やがて、その瞳の奥に揺らめいていた暗い炎が和らいでいく。彼は諦めたように、しかしどこか救われたように息を吐き出した。

「……ああ。君には敵わないな。いつだって、君の方が私より強く、潔い」

 景明は手袋を外し、素手で鈴の頬に触れた。外気に晒された指先は氷のように冷たかったがそこに込められた愛撫は熱を帯びていた。指の腹が鈴のあごのラインを愛おしげに辿る。ふと、視界の端で白いものが舞った。

「……雪?」

 鈴が空を見上げると夜の闇から剝がれ落ちたような白い欠片が舞い降りてくるところだった。

 ひとつ、ふたつ。街灯の光を受け、輝きながら落ちてくるそれは瞬く間に数を増し、石畳を、馬車の屋根を、そして二人の肩を白く染め上げていく。

「雪か……」

 景明が空を仰ぎ、白い吐息を漏らした。立春を過ぎてなお、帝都の夜空から舞い落ちる名残り雪。それは春の訪れを拒むかのように音もなく世界を白く塗り込めていく。

 周囲の音が雪に吸い込まれて消えていく。すべての音が白い膜の向こう側へと遠ざかっていくようだった。

「冷えますね」

「ああ。……だが、不思議と寒くはない」

 景明は視線を鈴に戻すとその瞳を細めた。彼の長い睫毛に舞い落ちた淡雪が止まり、体温ですぐに溶けて雫となる。それがまるで涙のように見えて、鈴の胸が締め付けられた。

「鈴」

 名前を呼ばれる。それだけで魂が震える。景明はもう片方の手も鈴の頬に添え、両手で彼女の顔を包み込んだ。逃げ場はない。逃げるつもりもない。彼の顔がゆっくりと近づいてくる。整った鼻梁、少し薄い唇、そしてすべてを吸い込むような瞳。

「必ず戻る。……どんな手を使っても、何が起きても、私は君の元へ帰ってくる」

 それは誓いだった。神への祈りではなく、運命への宣戦布告。

「君は私のものだ。誰にも渡さない。……たとえ、この身がどうなろうとも」

 囁かれた言葉は呪文のように鈴の鼓膜にこびりついた。唇が触れる寸前、二人の吐息が混じり合う。冷たい外気の中でそこだけが灼熱の温度を持っていた。

 景明の唇が鈴の額に押し当てられた。優しく、けれど所有の刻印を押すように長く、深く。触れられた場所から痺れるような熱が全身へと駆け巡る。雪の冷たさなど忘れてしまうほどに彼の存在が鈴のすべてを支配していた。

(ああ、愛しい……)

 鈴は瞼を閉じ、その感触を心に刻み込んだ。もしもこれが今生の別れになるのなら。そんな不吉な予感が頭をよぎり、鈴は慌ててそれを振り払う。

 信じなければ。彼を。自分たちを。唇が離れても景明はすぐには身を引かなかった。額と額を合わせ、互いの視線を絡み合わせる。彼の瞳の中に小さな自分の姿が映っているのが見えた。

「……待っていてくれ」

「はい。……ずっと、待っています」

 二人の間に流れる時間は永遠にも一瞬にも感じられた。雪はさらに激しさを増し、二人を包む白い帳となって降り注ぐ。

「お熱いところ、誠に恐縮ですが」

 不意に雪の静寂を割って、理知的な声が響いた。どこか呆れたようで深い安堵を含んだその声に、二人は弾かれたように身を離した。

「……チッ」

 景明が露骨に舌打ちをし、不機嫌さを隠そうともせずに声の主を睨みつける。そこには雪を踏みしめて歩み寄ってくる一人の軍人がいた。

「氷室……!」

「お呼びでしょうか、少佐。……いえ、今は“ご愁傷様です”と申し上げるべきでしょうか」

 そこに立っていたのは氷室だった。丸眼鏡の奥にある瞳はいつものように冷静沈着だが、その目の下には濃い隈が刻まれている。激務に次ぐ激務。上官である景明が舞踏会で騒ぎを起こすたびにその後始末に奔走させられている苦労の証だ。

 しかし、その軍服の着こなしには乱れ一つなく、背筋は鋼が入ったように伸びている。

「貴様……間というものを知らんのか」

「存じておりますとも。ですが、あそこで控えている方の殺気がそろそろ物理的な凶器となって飛んできそうでしたので。私の命を守るためにも割って入らせていただきました」

 氷室は肩をすくめ、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。その仕草はあまりにも日常的で張り詰めていた空気がふっと緩むのを鈴は感じた。氷室の視線が景明から鈴へと移る。

「小鳥遊嬢。お怪我はありませんか?」

「はい、氷室様。……あ、お疲れなのでは……? 顔色が……」

「お気になさらず。これは私の平常運転ですので。……それに少佐が不在の間、執務室が平和になると思えばこの程度の疲労など保養のようなものです」

 氷室は軽口を叩きながらもその瞳には鈴への温かな気遣いが宿っていた。彼は手に持っていた自身の外套を広げると慣れた手つきで鈴の肩にかけた。

 景明のマントとは違う、少し古びた匂い。インクと書類、そして彼が愛用する安価な珈琲の香りが微かに混じっている。

「風邪を召されます。……お車を回しておりますので、どうぞ」

「ありがとうございます、氷室様……」

 鈴がコートの襟を合わせると景明が不満げに鼻を鳴らした。

「……私のマントをかけてやろうと思っていたのだがな」

「少佐のマントは目立ちすぎます。それにこれからあそこへ向かわれるのでしたら、正装を崩すわけにはいかないでしょう」

 氷室の指摘はもっともだった。

 景明は渋々といった様子で自身の襟元を正し、もう一度だけ鈴を見た。その瞳から先ほどの甘さは消え、戦場に向かう武人の鋭い光が宿り始めていた。

「氷室」

「はッ」

 景明の声色が公的なものに変わる。氷室も即座に背筋を正し、踵を鳴らして敬礼した。

「鈴を頼む。……家まで送り届けろ。道中、鼠一匹たりとも近づけるな」

「承知いたしました。小鳥遊嬢の安全はこの命に代えても」

「命に代えるな。必ず生きて守り抜け。……貴様に死なれては私の仕事が回らなくなる」

「……善処いたします」

 二人の間で交わされる、短くも信頼に満ちたやり取り。上官と部下という関係を超えた、戦友としての絆がそこにはあった。

 景明は頷くと、踵を返した。マントの裾が翻り、雪を巻き上げる。彼は一度も振り返ることなく、闇に沈む黒い馬車へと歩き出した。その背中はどんな敵にも屈しない強さを誇示しているようでいて、どこか孤高の寂しさを漂わせていた。

 御者台の横で権藤が恭しく、慇懃無礼に一礼する。

 景明が車のステップに足をかけ、暗い車内へとその身を沈めた。重い音がして扉が閉ざされる。それはまるで牢獄の錠が下ろされたような音だった。

「……」

 鈴は息を呑んで見守った。重厚な駆動音が夜気を震わせ、車がゆっくりと動き出す。分厚い車輪が雪の積もり始めた石畳を重々しく軋ませながら回転する。遠ざかっていく車体の背面に灯された赤い尾灯が雪の幕に滲んで、まるで血の涙のように揺らめいて見えた。

 車は冷たい排気音を残して闇の向こうへ、鬱蒼とした森の奥にある西園寺家の隠居所へと消えていく。

「……行きましょう、小鳥遊嬢」

 氷室の静かな声が呆然と立ち尽くす鈴を現実に引き戻した。見上げると彼は眼鏡の奥の瞳を細め、遠ざかる主人の背中を見つめていた。その表情には普段の飄々とした態度はなく、友を死地へ送り出すような沈痛な表情が浮かんでいる。

「少佐なら大丈夫です。あの御方は貴女という帰る場所がある限り、決して折れたりはしません」

「……はい」

「さあ、こちらへ」

 氷室に促され、鈴は迎えに来た車へと歩を進めた。武骨だが頑丈そうなその車体は華美な西園寺家の車とは対照的に実用本位で頼もしく見えた。

 後部座席に乗り込むと車内は革の匂いがした。氷室が運転席ではなく、後部座席の反対側のドアを開けて乗り込んでくる。運転は専属の兵士に任せているようだ。

「……出しなさい」

 氷室が短く命じると、エンジンが唸りを上げ、車体が振動した。タイヤが雪を踏みしめ、ゆっくりと走り出す。窓ガラスの向こうで煌びやかな明かりが雪の中に滲んで後方へと流れていく。

 それはひとときの夢の終わりのようだった。車内には重苦しい沈黙が満ちていた。風雪は防げても、冷え切った鉄の車体から底冷えが忍び寄ってくる。厚手の膝掛けに包まれてなお、鈴の指先は氷のように冷たい。

 景明の唇の熱さが残る額だけが痺れている。

「……小鳥遊嬢」

 不意に氷室が口を開いた。彼は懐からハンカチを取り出し、鈴の方へ差し出した。真っ白で丁寧にアイロンがかけられたハンカチだ。

「……え?」

「泣いてもよろしいのですよ。今は誰も見ておりません」

 氷室の言葉に鈴は自分が泣きそうな顔をしていることに初めて気づいた。けれど、涙は出なかった。泣いてしまえば、景明が抱えている重荷を自分も背負えなくなってしまう気がしたからだ。

「いいえ、泣きません。……私は西園寺様の婚約者ですから」

 鈴はハンカチを丁重に押し返し、膝の上で拳を握りしめた。その強がりを見た氷室は眼鏡の奥で目を見開き、やがて小さく、けれど温かく微笑んだ。

「……強くなられましたね」

「強くなんてありません。ただ……彼が戻ってくる場所を守っていたいだけです」

「それが強さです。……少佐が貴女を選んだ理由がよくわかります」

 氷室は視線を窓の外へと戻した。流れる景色は白一色に染まりつつある。帝都の夜は深く、そして冷たい。だが、隣に座る氷室がいる限り、孤独ではないと感じられた。彼は景明の分身であり、二人の絆を守る盾なのだ。

(待っています、西園寺様)

 鈴は曇り始めた窓ガラスに指先を這わせ、心の中で祈りを捧げた。その指先が描いたのは言葉にならない愛の形。

 車は雪煙を上げて、西園寺邸へと続く長い夜道をひた走る。その先で待つのが呪われた贈り物と甘い毒だとはまだ知らずに。

 帝都の煌びやかな明かりが途絶え、車窓の闇が深淵の色を帯び始めた頃、車は鬱蒼とした森の中へと足を踏み入れていた。そこは帝都の郊外にありながら、まるで現世から切り離された異界のようだった。

 樹齢数百年を越える杉や檜が黒い壁となって頭上を覆い、降りしきる雪さえもその枝葉に阻まれて地上には届かない。代わりに漂うのは湿った腐葉土の匂いと何かが朽ちていくような甘ったるい死の気配。

 西園寺家本邸。景明がかつて“鳥籠”と呼んで忌み嫌ったその場所は、歴代の当主たちが晩年を過ごし、そして死を迎えてきた場所だ。祖父母の重すぎる愛と期待によって編まれたその檻は今も大きく口を開けて、西園寺の血を継ぐ最高傑作の帰還を待ちわびている。

「……着きました」

 運転席から権藤の低い声が響く。車が砂利を噛む音を立てて停止した。

 景明は無言で扉を押し開け、冷たい夜気の中へと降り立った。目の前に聳え立つのは奇妙な威容を誇る屋敷だった。母屋は江戸時代から続く純和風の瓦屋根だがその奥に増築された離れだけが異質な洋館となっている。それはこの家の主である西園寺源五郎が足の自由を失って以来、車椅子での生活を余儀なくされたために設けた、歪なバリアフリー建築だった。

「こちらへ。大旦那様がお待ちです」

 権藤が洋館の方へと誘う。

 景明は礼装の襟を正し、覚悟を決めてその背中を追った。洋館の重い扉が開かれると途端に噎せ返るような熱気と独特の匂いが鼻をついた。

 それは高価な舶来の薬の匂いと古い革、そして線香の香りが混じり合った、病人と権力者の部屋特有の澱んだ空気だった。廊下にはペルシャ絨毯が敷き詰められている。革靴の音を殺して進む景明の視界に最奥にある書斎の扉が見えてきた。

「お入りください」

 権藤が扉を開け放つ。その瞬間、肌を刺すような重圧が景明を襲った。異能による物理的な圧力ではない。絶対的な家長が放つ、精神を摩耗させる“血の支配”だ。

 書斎は広かった。壁一面の本棚には洋書と和書がぎっしりと詰まり、暖炉では薪が赤々と燃えている。その中央、巨大なマホガニーの執務机の向こうにその老人はいた。

 西園寺源五郎。かつて帝国陸軍の重鎮として権勢を振るい、当主の座を景明に退いた今も、一部の絶大な権限を握って離さない前当主。戦場の過酷さを知るがゆえに唯一の跡取りである現当主の孫を己の手元で厳重に保護しようとする絶対的支配者。

「遅い」

 しわがれた、しかし腹の底に響くような声が放たれた。

 源五郎は車椅子に深く体を沈めている。その膝には上質な毛布がかけられ、顔には深い皺が刻まれ、まるで枯れ木のようだがその奥にある瞳だけは獲物を狙う猛禽類のようにぎらりと濡れた光を放っている。

「公務がありましたので。……お久しぶりです、祖父様」

 景明は部屋の中央まで進み、軍人としての礼をとった。だが、源五郎は鼻を鳴らしただけで孫の挨拶を無視した。

「公務だと?……ふん、あのふしだらな舞踏会のことか。あそこで痴態を晒すことがいつから帝國軍人の務めになった」

「痴態ではありません。私はただ、自身の婚約者を紹介したまでです」

「婚約者? ……あの、小鳥遊の娘のことか」

 源五郎は侮蔑を隠そうともせず、言葉を吐き捨てた。

「利益ばかりを追う、あの浅ましい子爵家の娘だ。父親は久我山の持ちかけた投資話に見事に騙され、今や多額の負債を抱え込んでいる。……あのような打算にまみれた家へ、私の愛するお前を関わらせるつもりか」

「鈴はそのような打算で動く女性ではありません!」

 景明は反射的に声を荒らげていた。拳を握りしめ、源五郎を睨みつける。

「彼女の異能、修復は私の暴走を止めることができる唯一の力です。それに何より、彼女は私の……」

「お前の、なんだと言うのだ?愛している、とでも?」

 源五郎は口元を歪め、鼻で笑った。その笑顔は孫を危険から遠ざけるためなら他人がどうなろうと知ったことではないという、独善的な愛情に満ちていた。

「愛などという不確かなもので、お前自身を守れると思うてか。……景明よ。お前はまだ、自分がどれほど尊く、危うい存在かを理解しておらんようだな」

 車椅子の車輪が微かな音を立てて回った。源五郎が机の引き出しから、一束の書類を取り出し、無造作に放り投げた。書類が散らばる。そこには小鳥遊家の事業関係の束や久我山が仕掛けた投資の負債証明、さらには子爵家の窮状を記した詳細な調査報告書までもが含まれていた。

「これは……!」

「小鳥遊家の命綱だ。……罠にはまり首の回らなくなったあの強欲な父親は今や風前の灯火だ。私が指を一本動かせば、明日にもあの家は完全に破滅する」

 景明の背筋に冷たいものが走る。この老人は本気だ。愛する孫を自分だけの安全な鳥籠に閉じ込めるためならば、他人の家を一つ潰すことなど、雑草を抜く程度のこととしか思っていない。

「……卑怯な」

「卑怯?笑わせるな。お前を守るためならば、私はどんな泥でも被る。……いいか、景明。お前は私の誇りであり、西園寺の最高傑作だ。その清らかな羽をあのような薄汚い揉め事で汚すことは絶対に許さん」

 源五郎の瞳が狂気じみた光を帯びる。そこにあるのは自身の血統、そしてただ一人の愛孫を外界の危険から守り抜くことへの病的なまでの執着だ。

「危険な軍など今すぐ辞め、私の用意した安全な温室の中でただ美しく生きていればいいのだ。……あの利益目当ての子爵の娘など、お前の人生には不要なノイズに過ぎん」

「彼女はノイズなどではない!彼女は鳥籠の中で息を潜めるだけだった私に自分の足で歩く強さを教えてくれた……!」

「だから軍などに身を置くのだ!!」

 源五郎の怒号が雷鳴のように轟いた。源五郎は激昂し、車椅子から身を乗り出すようにして叫んだ。

「お前の父親も国への愛などという大義名分に殉じて、戦場で無残に散った!……私はもう二度と愛する家族を失いたくはないのだ!お前まであのような目に遭わせるわけにはいかんのだ!」

「ッ……」

 景明の呼吸が詰まった。父の戦死。それは祖父の心を永遠に壊し、景明に対する異常な過保護の根源となった悲しい呪いだ。

「……父の誇り高い死を後悔で汚さないでください」

 景明の周囲の空気が急激に冷え込んだ。怒りと悲しみで制御を失いかけた異能が漏れ出し、書斎の窓ガラスに霜が走り始める。だが源五郎は怯むどころか、冷徹な声で告げた。

「選択肢をやろう。……今すぐ軍を辞め、あの娘と別れて私が選んだ安全な名家の娘と結婚しろ。そうすれば、小鳥遊家の負債は西園寺が肩代わりし、一生安泰に暮らせるよう計らってやる」

 それは悪魔の取引だった。鈴の家族の命運を人質に取り、景明の自由と愛を奪う。

「……断ると言ったら?」

「ならば、あの娘の父親が被った負債の債権を西園寺で買い叩き、明日をもって破産させる。あの娘が借金取りに追われ、久我山の元へ身売りすることになっても知らんぞ」

「貴様ッ……!!」

 景明の手から青白い雷光が迸った。一瞬、本気で源五郎の理不尽な愛を力でねじ伏せてしまおうかという昏い衝動が湧き上がる。だが、それはできない。源五郎を傷つければ西園寺家全体が混乱し、その余波は確実に鈴たちを巻き込む。

「……くっ」

 景明は唇を噛み切り、溢れ出る雷光を無理やりねじ伏せた。口の中に鉄錆の味が広がる。握りしめた拳から血が滲み、革手袋を黒く染めた。

「……賢明な判断だ」

 源五郎は深く息を吐き、再び車椅子の背もたれに体を預けた。

「返事は急がん。……だが、時間はあまりないぞ。あの久我山の倅も随分とあの娘にご執心のようだからな」

「……久我山だと?」

「奴から打診が来ている。『小鳥遊の借金を肩代わりする代わりに娘を私の手元へ譲ってほしい』とな」

 景明の脳裏にあの男の粘着質な笑顔が浮かんだ。鈴があんな男の手に落ちる?想像しただけで臓腑が煮えくり返るような嘔吐感に襲われた。

「……ありえない」

「ならば、お前がどう動くべきか分かるな。……西園寺の当主として、私の可愛い孫として、正しい振る舞いを期待しているぞ」

 源五郎は手元のベルを鳴らした。澄んだ音が空気を切り裂く。すぐに扉が開き、権藤が音もなく現れた。

「お話はお済みでしょうか」

「ああ。……景明、下がれ。頭を冷やせ」

 源五郎は車椅子を回転させ、景明に背を向けた。その背中はどんな武力をもってしても壊せない、重く息苦しい愛情という名の巨大な壁となって立ちはだかっていた。

 景明は無言で一礼し、踵を返した。足取りは重い。鉛を詰め込まれたように体が動かない。廊下に出ると扉が閉ざされ、再び静寂が戻ってきた。だが、その静寂は先ほどまでとは違う。逃げ場のない鳥籠の中に完全に閉じ込められたような、絶望的な閉塞感に満ちた静けさだった。

(私は……どうすればいい)

 景明は壁に手をつき、荒い呼吸を繰り返した。鈴を守りたい。その想いに偽りはない。だが、守るためには力を、権力を、この呪われた家の力を利用するしかない。そしてそれを使えば使うほど、鈴の望む姿から遠ざかっていく。

 窓の外では雪が激しく降り続いていた。その白さはすべてを覆い隠してくれる救いのようでもあり、すべてを凍てつかせる死の象徴のようでもあった。

 景明はふらつく足取りで玄関へと向かう。その背後には洋館の窓から漏れる明かりがまるで監視者の目のように光り続けていた。古き血の呪いはどこまでも深く、冷たく、彼を逃がそうとはしなかった。

 雪道を切り裂いて走る車のエンジン音が止んだ。西園寺邸の巨大な鉄門が重々しい音を立てて開かれる。車はその威容に飲み込まれるようにして、白砂の敷き詰められた前庭へと滑り込んだ。

「……着きましたよ、小鳥遊嬢」

 氷室の静かな声で鈴は顔を上げた。車窓の向こうには闇夜に浮かぶ西園寺邸が聳え立っている。洋風の壮麗な建築だが主である景明が不在のせいか、あるいは降りしきる雪のせいか、その佇まいはどこか冷たく、人を拒絶するような静寂に包まれていた。

「……ありがとうございます、氷室様」

「礼には及びません。さあ、中へ。温かいお茶を用意させましょう」

 氷室が先に降り、恭しくドアを開ける。冷たい夜気が足元を攫うがすぐに氷室のエスコートによって屋敷の中へと導かれた。

 磨き上げられた大理石の床に靴音が硬質に反響する。出迎えた使用人たちは恭しく頭を下げる。その中には若菜の姿もあり、彼女は不安げに眉を寄せ、主人の不在を案じるような視線を鈴に向けていた。皆、景明が鳥籠へ呼び出されたことへの緊張を肌で感じ取っているのだ。

 住み慣れてきたはずの屋敷だが景明がいないというだけでその空気は凍てついたように重い。彼が自嘲気味に呼ぶ氷の城という言葉が今夜は殊更に真実味を帯びて感じられた。

「小鳥遊嬢。今夜はご自身の部屋ではなく、少佐の私室でお待ちください。あそこがこの屋敷で一番安全です」

「はい。……あの、氷室様は?」

「私は別室で持ち帰った書類の整理を片付けつつ待機します。……少佐が戻られるまでは一睡もするつもりはありませんのでご安心を」

 氷室は丸眼鏡の奥で安心させるように微笑んだ。その笑顔に少しだけ救われた思いで鈴は廊下を進んだ。けれど、景明の私室の扉の前に立った時、鈴の足が止まった。重厚なマホガニーの扉。そのノブに手をかけようとした瞬間、脳裏に鮮烈な記憶が蘇ったのだ。

 胡蝶の一件があったあの夜、この部屋で彼に抱きすくめられ、息ができなくなるほど激しく唇を奪われた記憶が。

(……駄目。今は、ここには入れない)

 今の心細い状態であの濃厚な熱の名残に触れてしまえば、心が持ちそうになかった。彼の匂い、彼の体温、彼が放つ圧倒的な雄の色気。それらに飲み込まれてしまいそうで怖くなったのだ。

 鈴は逃げるようにその扉を通り過ぎ、向かえにある書斎へと足を向けた。ここなら彼が仕事をする場所だ。幾分か、冷静でいられる気がした。

 扉を開け、静謐な空間へと足を踏み入れる。飾り気はないが景明の理知的な気配が整然と残る場所。壁際の書棚には戦術書や洋書が並び、執務机の上には万年筆とインク壺が置かれている。

 鈴は主のいない革張りの椅子にそっと手を触れた。冷たい革の感触。けれど、そこからも微かに残る彼の匂い、甘く痺れるような雷と清潔な石鹸の香りが漂い、結局は彼の存在に包まれてしまうのだった。

(西園寺様……。今頃、お祖父様と……)

 想像するだけで胸が痛む。彼は今、たった一人で血の宿命と戦っている。自分を守るために。何もできない無力感に鈴は唇を噛み締めた。

「失礼いたします、鈴様」

 不意に控えめなノックの音と共に若菜が入室してきた。銀盆の上には湯気の立つ紅茶と見慣れない包みが載せられている。

「若菜さん……?」

「夜分に申し訳ありません。……その、先ほど鈴様宛にこちらのお荷物が届きまして」

 若菜の声はどこか曇っている。

「荷物……? 私に?」

 鈴は怪訝そうに眉を寄せた。

「差出人は書かれておりませんでしたが……使いの者が『小鳥遊鈴様へ、至急お渡し願いたい』と」

 若菜は恭しく、しかしどこか忌々しげにその紫色の風呂敷包みをテーブルに置いた。彼女の勘がその荷物から漂う不穏な気配を感じ取っているのかもしれない。

「……お茶をお入れしました。温かいうちにどうぞ。……あの、何かあればすぐに呼んでくださいね」

 若菜は心配そうに一瞬だけ鈴を見つめると、深々と一礼して退室していった。残されたのは鈴と湯気を立てる紅茶、そして紫色の風呂敷に包まれた、正体不明の小包だけ。

 部屋の空気が急に重苦しく澱んだ気がした。背筋を這い上がるような悪寒が止まらない。

 鈴は恐る恐る、その包みに手を伸ばした。風呂敷の結び目は不気味なほどにするりと解けた。中から現れたのは豪奢な桐箱だった。蓋には何の装飾もない。ただ、木目の美しさだけが際立つ、最高級の品だ。

(……開けてはいけない気がする)

 本能が警鐘を鳴らす。けれど、指先は何かに操られるように吸い寄せられていく。鈴は震える手で桐箱の蓋をゆっくりと持ち上げた。

「っ」

 息を呑んだ。時が止まったかのように鈴の全身が硬直した。箱の中に納められていたのは二つの品。

 一つは妖しく艶やかな光沢を放つ、金色の刺繍糸の束。

「……うそ」

 鈴の声が掠れて消えた。そしてもう一つは鼈甲の櫛だった。飴色の中に黒褐色の斑点が美しく散りばめられた、本鼈甲の飾り櫛。その背には繊細な透かし彫りで千鳥と波の文様が施されている。

 見間違うはずがなかった。それは母が鏡台の引き出しの奥に大切にしまい込み、ハレの日にだけ身につけていた小鳥遊家の誇りの欠片だ。実家の屋敷にあるはずのそれがなぜここにあるのか。

 鈴は震える手で櫛を取り上げた。ひやりとした感触。独特の有機的な温かみ。そして微かに香る、母が愛用していた椿油の残り香。間違いなく本物だ。

「どうして……」

 混乱する鈴の視線が箱の底に落ちていた一枚のカードに吸い寄せられた。厚手の上質な紙に流麗な万年筆の文字でこう記されていた。

『大切なものはあるべき場所へ。お父様の投資の失敗と莫大な負債に苦しむ小鳥遊家の悲しみを癒やしたい。質素に流されていたこの美しい櫛は私が買い戻しました。……そしてこの金糸は貴女の神業とも呼べる美しい手仕事のために。K』

「……ッ!」

 鈴は弾かれたようにカードを取り落とした。

 “K”。

 そのイニシャルを見た瞬間、鈴の脳裏に先日の舞踏会でまとわりつくような視線を向けてきた男の顔が浮かんだ。

 久我山。新興財閥の当主であり、西園寺家を敵対視するあの恰幅の良い、百足のような男だ。

(お父様の投資が失敗……?莫大な負債……?)

 鈴の全身から血の気が引いていく。蜻蛉の襲撃事件からこの二ヶ月間、実家からの手紙にはいつも『変わりなく過ごしている』としか書かれていなかった。利益を重んじる厳格な父も、優しい母も、西園寺家との婚約を控えた鈴に心配をかけまいと家の危機を必死に隠し通していたのだ。母が一番大切にしていた宝物を借金のカタに質屋へ流さなければならないほど追い詰められていたというのに。

(あいつ……!)

 鈴の全身に凄まじい悪寒が走った。彼は知っているのだ。父を罠に嵌めたのも、小鳥遊家が負債で首が回らなくなっていることも。すべては彼が裏で糸を引き、そして今、その財力に物を言わせて買い戻した櫛を突きつけることで鈴に“絶望的な現実”を暴露したのだ。

「……気持ち悪い」

 鈴は思わず口元を押さえた。戻ってきた櫛は確かに大切な品だ。だが、あの男の粘着質な手を経由したというだけでそれはおぞましい呪物へと変わり果てていた。

 そして添えられた金色の刺繍糸。それを見た瞬間、舞踏会での彼の言葉が呪いのように蘇った。

『貴女のその素晴らしい裁縫の腕を、芸術のためだけに使える場所を用意してあげる』

(口先だけじゃなかった……)

 彼は本気だ。この最高級の金糸は“私の元へ来れば小鳥遊家の借金などすぐに肩代わりしてやる”、“才能を存分に発揮させてやる”という具体的な誘惑であり、鈴を縛り付けるための黄金の鎖そのものだった。

 『私なら、君の欲しいものを全て買い戻してあげられる。西園寺家の圧力は君の家族をさらに苦しめるだけだ。……さあ、こちらへおいで』

 幻聴のように久我山の声が脳裏に響いた。そして、それは悪魔の誘惑だった。

 西園寺景明という男は重すぎる愛という名の巨大な檻と戦い、血を流しながら鈴を守ろうとしてくれている。対して久我山は金という暴力でいとも容易く、失ったものを取り戻して見せたのだ。

「……違う。こんなの、違う」

 鈴は首を激しく振った。櫛を箱に戻そうとするが指が震えてうまくいかない。その時、部屋の重厚な扉がノックもなく開かれた。

「小鳥遊嬢、こちらに……って、どうされましたか?顔色が……」

 入ってきたのは氷室だった。彼は異変を察知し、すぐに駆け寄ってきた。そして机の上の桐箱とその中身を見て、眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。

「……これは」

「氷室様……。久我山から……。お父様が大変なことに……」

 鈴は縋るような目で氷室を見上げた。氷室は白手袋をした手でカードを拾い上げ、一読すると吐き捨てるように呟いた。

「……趣味の悪い男だ。どこまで嗅ぎ回れば気が済む」

 氷室の声には普段の冷静さを欠いた怒りが滲んでいた。彼はすぐに桐箱の蓋を閉じ、鈴の視界から櫛と禍々しい金糸を遮断した。

「見なくていい。……こんなものはただの毒です」

「でも……それは母の……。家が、私の知らない間に……」

「わかっています。ですが今は触れてはいけません。……心が蝕まれます」

 氷室は鈴の肩に手を置き、力強く言った。その手の確かな温もりが、冷え切った鈴の心を少しだけ現実に引き戻した。

「少佐が戻られるまで私が預かります。……決して、あの男の思惑通りにはさせません」

「……はい」

 鈴は小さく頷いた。だが、一度見てしまった櫛の残像は網膜に焼き付いて離れなかった。飴色の櫛。毒々しいまでに美しい金色の糸。それは鈴が心の奥底で抱えている“西園寺様に負担をかけたくない”、“家族のために何かしたい”という弱みに的確に突き刺さっていた。

(西園寺様は命がけで戦ってくださっているのに……。私は実家の危機さえ知らずに、ただ守られていただけだったなんて)

 自己嫌悪と得体の知れない恐怖が混じり合い、黒い澱となって胸の奥に沈殿していく。

 西園寺家の堅牢な壁でさえ、あの男の執念と財力を防ぐことはできないのか。見えない蜘蛛の糸がゆっくりと鈴の周りに張り巡らされていくのを感じた。

 氷室が桐箱を持ち去ってから、どれほどの時が流れただろうか。壁に掛けられた古時計が重苦しい音で時を刻んでいる。その規則正しいリズムが鈴の焦燥感を煽り立てる。洋館の広い書斎にある暖炉の火は薪が尽きかけて熾火となり、頼りない赤い光を放っていた。

 部屋は深い影に沈み、鈴はソファに深く身を埋めて、自身の両手をきつく抱きしめていた。

 氷室が持ち去ったはずの桐箱の感触が未だ指先に残っている。飴色の櫛の滑らかさと金糸の冷ややかな輝き。それらは網膜に焼き付き、目を閉じても消えることがなかった。

 “悲しみを癒やしたい”

 久我山の言葉が毒のように思考を巡る。あの男は西園寺家という巨大な壁の前で無力な鈴の心を正確に見透かしていた。

(……西園寺様は今、たったお一人で戦っていらっしゃるのに)

 あの息苦しい“鳥籠”で、彼を溺愛する恐ろしい祖父と対峙し、鈴を守るために傷ついている。それなのに自分はどうだ。何も知らぬ間に実家は危機に陥り、母の宝物を敵である男に買い戻されるという屈辱。“金さえあれば解決する”という久我山の無言のマウントは、鈴が抱える負い目を残酷なまでに抉り出していた。

(私は……足手まといなだけではないの?)

 もし、久我山の言う通りにすれば。西園寺様は一族との軋轢から解放され、軍人としての輝かしい未来を失わずに済むのではないか。父の事業も救われ、誰も傷つかずに済むのではないか。呪いに誘導された悪い想像ばかりが膨れ上がる。

 窓の外では、雪が激しく硝子を叩いていた。その音はまるで、無数の白い指が部屋の中に侵入しようと爪を立てている音のように聞こえた。

「……西園寺様……早く、帰ってきて……」

 鈴は祈るように呟き、自身の膝に顔を埋めた。その声は広すぎる洋室の中で虚しく反響し、雪の夜に吸い込まれていった。

「……っ、いけない」

 鈴は頭を振った。そんな自己犠牲を考えれば、景明の不器用で真っ直ぐな愛を裏切ることになる。わかっている。わかっているのに、心の亀裂から滲み出した黒い水が止まらない。

 重厚なマホガニーの扉が何の前触れもなく、音もなく開いた。

「......鈴」

 低く、枯れたような声が響いた。鈴は弾かれたように顔を上げた。そこに立っていたのは景明だった。だが、その姿は数時間前、雪の中で別れた時の彼とはまるで違っていた。漆黒の礼装には皺が寄り、肩には溶けかけた雪が重くのしかかっている。

 何より変わっていたのはその瞳だ。常に鋭い光を宿していた双眸は今は光を失い、深い疲労と徒労感に塗りつぶされていた。

 祖父・源五郎からの呼び出し。それは彼に対する憎悪や虐待などではない。むしろその逆、西園寺の血を継ぐ最高傑作への、異常なまでの執着と溺愛である。彼らは景明を鳥籠に閉じ込めようとし、利益と政略を重んじる厳格な子爵である鈴の父へとその強大な権力をもって容赦ない政治的・経済的な圧力をかけ始めたのだ。

 景明は夢遊病者のようにふらりと歩み寄り、右手を差し出した。白い手袋は外されている。露わになったその手は、凍えるように白く震えていた。

 彼はただ、鈴に触れたかったのだ。冷え切った魂を彼女の温もりで癒やしたかった。

 しかし、その瞬間、鈴の脳裏に久我山のあの粘着質な笑顔と送りつけられた禍々しい金色の糸がフラッシュバックした。

(私なんかが触れていいの?利益を重んじる厳しい父でさえ、西園寺家の圧力の前では苦境に立たされている。私が彼の隣にいる限り、彼は一族からの異常な愛と、私の家族への責任の板挟みになって傷つき続ける。......私は彼を縛り付けるだけの、呪いなのではないか)

 罪悪感が反射的に体を支配した。

 景明の指が触れる寸前。鈴は無意識に肩を震わせ、ほんの数ミリだけ顔を背けてしまった。

 拒絶の意思などなかった。ただ、自分自身の存在が彼を苦しめているのだと恥じるあまりの、萎縮だった。だが、その僅かな動きは、極限状態にあった景明にとって決定的な拒絶として映った。

 空中で景明の手が止まった。テラスへと続く窓の外で唸る風の音さえも消え失せ、絶対零度の静寂が二人を包み込む。景明の瞳から安堵の色が急速に失われていく。

「......西園寺、様......? あの、私......」

 鈴は自分の過ちに気づき、青ざめた。違うんです、と叫びたかった。けれど、彼の傷ついた瞳を見て言葉が凍りついてしまった。

 景明は何も言わなかった。責めることも、怒ることもせず、差し出していた手をするりと下ろした。

「......すまない」

 乾いた言葉が落ちた。

「......休もう。今日は疲れた」

 感情の一切に蓋をした事務的な声。景明は鈴に背を向けた。その背中はどんな言葉も受け付けない頑強な拒絶の壁となっていた。

「西園寺様......待って......」

 鈴は震える手を伸ばした。けれど、その指先は彼の礼装にかすることさえできなかった。彼が寝室へと姿を消し、扉が閉まる音が鈴の心臓を打ち砕くように響いた。

「......ごめんなさい......ごめんなさい......」

 取り残された広い部屋で鈴はその場に崩れ落ちた。一番傷ついている彼を一番近くで支えるべき自分が彼を傷つけてしまった。久我山の毒は確実に二人の絆を侵蝕し、見えない亀裂を生んでいたのだ。


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