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第25話

 帝都の冬は刃物のように鋭い。石畳を叩く馬蹄の音が凍てついた夜気に硬質なリズムを刻んでいる。吐く息さえも白く結晶化しそうな寒空の下、漆塗りの辻馬車がガス灯の淡い光を弾きながら大通りを滑るように駆けていた。

 車窓の向こうには文明開化の象徴である赤煉瓦の街並みが流れていく。だが、その光景は今の小鳥遊鈴の瞳には色彩を持たない幻灯機のようにしか映らなかった。

(……心臓が早鐘を打って止まらない)

 鈴は膝の上で白手袋に包まれた両手をぎゅっと組み合わせた。指先が微かに震えている。それは寒さのせいではない。これから向かう場所、帝国陸軍主催の祝賀舞踏会という、華族や軍の高官が一堂に会する煌びやかな戦場への畏怖と隣に座る人物の圧倒的な存在感によるものだった。

「……寒いのか、鈴」

 ふいに重厚なビロードのような低音が鼓膜を震わせた。鈴がハッとして顔を上げると、そこには夜の闇を凝縮したような瞳が静かに自分を見つめていた。

 西園寺景明。帝国陸軍少佐にして、最強の異能部隊を率いる指揮官。そして鈴の婚約者である。

 今の彼はいつもの軍服姿ではない。今夜の夜会のために仕立てられた、第一種礼装に身を包んでいた。漆黒の生地は上質な羊毛で彼の鍛え上げられた肉体の輪郭をストイックなまでに際立たせている。胸元には金色の飾り紐が幾重にも渡され、肩章の金糸が馬車の中に差し込む僅かな街灯りを拾って、星屑のように煌めいた。

 切れ長の瞳、通った鼻筋、そして意思の強さを物語る薄い唇。その眼光だけで人を射抜く美貌の鬼少佐が今は蕩けるような甘い温度を宿して鈴を見下ろしている。

「いいえ、寒くはありません。ただ……少し、緊張してしまって」

 鈴が正直に告げると景明は口元を緩めた。その仕草だけで車内の空気が華やぐ。彼は長い足を組み替え、自身の纏っていた黒いマントの裾を広げると、それを覆うように鈴の膝元へ掛けた。

「無理もない。君にとってはこれが公式な場での初めての“お披露目”になる」

 景明の手がマントの下で鈴の手をそっと包み込んだ。彼の体温は高い。氷の異能を操るとは思えないほど、その掌は灼けるように熱く、大きく、そして頼もしい。かつて書生、野中みのるとして鈴の前に現れた時と同じ、優しい温もりがそこにあった。

「だが、心配はいらない。……今夜の君は誰よりも美しい」

 景明の視線が鈴の装いをゆっくりとなぞるように下りていく。その熱っぽい視線に鈴は頬が火照るのを感じた。今夜、鈴が身に纏っているのは景明がこの日のために特注で仕立てさせたイブニングドレスだった。

 色は純白ではない。氷の結晶を織り込んだかのような光沢のある銀白。最高級の絹繻子を惜しげもなく使い、胸元から腰にかけては繊細な銀糸の刺繍が施されている。それは鈴の得意とする手芸の技工から見ても、気の遠くなるような職人技だった。

 ふんわりと広がるスカートの裾には微細な硝子ビーズが縫い込まれており、少し動くたびにダイヤモンドダストのように輝く。それはまさに西園寺景明という氷の異能者の隣に立つためにあつらえられた、雪の女王の如き装いだった。

「このドレス……本当に素敵です。私には勿体ないくらい」

「君だからこそ、似合うんだ。私の氷を溶かさず、共に輝いてくれるのは君しかいない」

 景明はそう囁くと手袋越しに鈴の指先に口づけを落とした。蜻蛉との死闘を経て、二人の絆はさらに確固たるものになった。言葉にしなくとも通じ合う信頼。けれど、こうして触れられるたびに鈴の心臓は未だに初心な少女のように跳ね回ってしまう。

「西園寺様こそ……とても、素敵です。その……黒が、よくお似合いで」

 鈴が上目遣いにそう告げると景明は照れ隠しのように視線を逸らし、短く咳払いをした。

「……これは死装束のようなものだと思っていたが。君にそう言われると、悪くないと思えるから不思議だ」

 彼の言葉にはどこか自嘲めいた響きがあった。鈴は小首を傾げる。今日の彼はどこか普段と違う。いつもの揺るぎない自信の奥底に微かな、本当に微かな陰りが見え隠れしているような気がした。

「西園寺様?」

 鈴が呼びかけると景明は長く息を吐き出した。彼は思考を整理する時にこめかみを指で押さえる癖がある。

「……すまない。少し、昔のことを思い出していた」

 景明は窓の外、流れる闇を見つめながら独り言のように呟いた。

「今夜の夜会には私の祖父……西園寺源五郎の名代が来ているかもしれないと思ってな」

「お祖父様、ですか?」

 鈴は瞬きをした。西園寺家といえば帝都でも指折りの名門軍閥だ。景明が当主であることは知っていたが彼が家族について語ることは今までほとんどなかった。

「ああ。……私の父は戦死し、母も私が幼い頃に病で逝った。私は祖父母に引き取られ、育てられたんだ」

 景明の声は淡々としていたが、そこには深い敬愛と、少しの息苦しさが滲んでいた。

「祖父母は私を溺愛した。軍の重鎮であった祖父は非常に厳格な人だが、同時に私を……死んだ息子の唯一の忘れ形見である私を、まるで壊れ物のように大切に育てた」

 自動車の振動が景明の言葉をより重く響かせた。

「だからこそ、私が父と同じ軍人になることを猛反対したんだ。『あの子のように死なせたくない』とね。……彼らの愛情は本物だ。だが、その過保護すぎる愛は時に私の羽を捥ごうとした。だから私は家を出たんだ。彼らの温かくも重い庇護下から抜け出し、自分の足で歩くために」

 景明の瞳に鋭い氷の光が宿る。それはかつて鈴が彼を“冷酷な鬼少佐”だと誤解していた頃に見せた、人を寄せ付けない瞳だった。けれど今はわかる。それは誰かを傷つけるためではなく、自立するために張り詰めた、不器用な盾なのだと。

(西園寺様も戦っていらしたのね……。ご自身の運命と)

 鈴は繋がれた手に力を込めた。利益と政略を重んじる厳格な父の決めた結婚に従うしかなかった自分。名門の跡取りとして、過剰なまでの愛情と期待を一身に背負いながらも、抗い続けた彼。形は違えど、二人は“家”という枠組みの中で、それでも自分らしく在ろうともがいてきた同志なのだ。

「……祖父母はまだ、私を手元に置くことを諦めていない。今夜の夜会も、彼らにとっては私の選んだ相手を値踏みし、連れ戻す口実を探す好機なのだろう」

 景明は視線を戻し、鈴を真っ直ぐに見つめた。その瞳には謝罪の色が浮かんでいた。

「鈴、君を巻き込むことになる。彼らは私を愛するがゆえに、私の婚約者である君を容赦なく品定めするだろう。時には心ない言葉を投げつけられることもあるかもしれない」

 彼は痛ましげに眉を寄せ、鈴の手を痛いほどに握り締めた。

「だが、これだけは誓う。……何があっても私は君を守る。たとえ相手が誰であろうと西園寺の家そのものであろうと、君を傷つける者は私が許さない」

 その言葉は甘い愛の囁きというよりは血の滲むような決意表明だった。

 鈴は彼の瞳の奥に揺れる不安を感じ取った。最強の異能者である彼が唯一恐れているもの。それは“愛する者を自分の血縁によって傷つけられること”なのかもしれない。

 鈴は吸い込まれるように景明の方へと身を乗り出した。そして、空いている方の手をそっと彼の頬に添えた。

「西園寺様」

 鈴の声は不思議なほど落ち着いていた。腹の底に一本の芯が通ったような感覚がある。

(この人は私を守ると言ってくれた。なら、私はその守りに甘えるだけの“守られるお姫様”ではいられない)

「私、平気です。だって私は貴方が選んでくださった婚約者ですから」

 鈴は微笑んだ。それは愛を知り、覚悟を決めた一人の女性の顔だった。

「どんな方がきても、胸を張って挨拶いたします。“私が西園寺景明様の心を射止めた小鳥遊鈴です”って。……貴方の隣に立っても恥ずかしくないように背筋を伸ばします!」

 景明が驚いたように目を見開く。やがて、その瞳から氷が溶け出し、心からの安堵と燃えるような愛しさが溢れ出した。

「……ああ。そうだったな。君は誰よりも芯の強い女性だった」

 景明は愛おしげに目を細めると鈴の頬に添えられた自分の手に自身の頬を擦り寄せた。猫が甘えるようなその仕草に鈴の心臓が再び跳ね上がる。

「ありがとう、鈴。……君がいれば私は最強でいられる」

 その時、自動車の速度が緩んだ。窓の外が一際明るく輝き出した。目的の場所、鹿鳴館の流れを汲む、帝都最大級の社交場華族会館に到着したのだ。

 重厚な扉が開かれる。冷たく乾いた夜気と共にオーケストラの調べと人々のざわめきがどっと押し寄せてきた。

「行こうか、私の婚約者殿」

 景明が先に車を降り、恭しく手を差し伸べる。

 鈴はその手を取り、深呼吸を一つしてタラップへと足をかけた。会館の大広間はまさに光の洪水だった。天井には巨大なシャンデリアが幾つも吊り下がっており、クリスタルガラスが虹色の光を撒き散らしている。

 壁際には豪奢な料理が並び、燕尾服の紳士たちと色とりどりのドレスを纏った淑女たちが扇子を片手に談笑していた。

 紫煙と香水の入り混じった甘く重たい匂い。グラスが触れ合う軽やかな音。ワルツの旋律。その喧騒が静かに止まった。大階段の頂上に二つの影が現れた瞬間だった。

 一人は夜の闇を纏ったような長身の軍人。その冷徹な美貌と全身から発せられる圧倒的な威圧感は見る者を畏縮させる魔王の如き風格がある。

 そして、その腕に寄り添う一人の少女。彼女が身に纏うのは会場のどんな宝石よりも純粋で鋭い輝きを放つ銀白のドレス。髪は艶やかに結い上げられ、銀の髪飾りが星のように瞬いている。

 黒と白。闇と光。氷と雪。あまりにも完成されたその対比は息を呑むほどに美しく、そしてどこか触れてはならない神聖さを帯びていた。

「あれが……噂の“鬼少佐”か……」

「なんと、美しい……隣のあの方は……?」

 誰かの囁きが静まり返ったホールに波紋のように広がっていく。無数の視線が好奇心、羨望、嫉妬、そして畏怖をないまぜにして二人へと突き刺さる。だが、景明はそんな視線など意に介さず、悠然と鈴のエスコートを続けた。彼のエスコートは完璧で鈴の歩幅に合わせ、まるで氷の上を滑るかのように優雅に階段を下りていく。

 鈴は景明の腕に回した指先に力を込めた。

(大丈夫。私には西園寺様がいる)

 彼女は顎を少し上げ、毅然とした眼差しで会場を見渡した。銀白のドレスがシャンデリアの光を受けて眩いばかりに輝き、彼女は帝都で最も高潔で最も美しい氷の華として咲き誇っていた。

 ワルツの旋律。そして圧倒的な視線の奔流。景明に手を引かれ、大広間の中心へと進む鈴の全身はかつてないほどの緊張に強張っていた。肌を刺すような視線の正体は単なる好奇心だけではない。そこには明確な値踏みと隠しきれない嫉妬の色が混じり合っている。

(……すごい。皆さまの視線がまるで物理的な重さを持って圧し掛かってくるみたい)

 鈴は無意識に景明の腕にしがみつきそうになるのを必死の理性で押し留めた。今夜の自分はただの小鳥遊鈴ではない。西園寺景明の婚約者として、その隣に立つことを許された唯一の女性なのだ。怯えた小動物のように縮こまっていては彼の名に泥を塗ることになる。

「……顔色が優れないな。気分が悪いか?」

 ふと、耳元で景明の低い声がした。彼が足を止め、心配そうに鈴の顔を覗き込んでいる。その瞳には周囲の喧騒を一切遮断し、鈴だけを映す静かな水面のような安らぎがあった。

「いいえ、大丈夫です。ただ、あまりにも華やかで……少し圧倒されてしまって」

「無理もない。ここは魔窟だ。……美しい花には毒があるように着飾った人間にも毒がある」

 景明は皮肉げに唇の端を吊り上げ、周囲を一瞥した。その鋭い眼光が走った瞬間、近くで小さく話をしていた数名の令嬢たちが悲鳴に近い声を上げて扇子で顔を隠した。氷の異能者である彼が放つ冷気は言葉を発さずとも周囲を威圧する。

「私の側にいればいい。そうすれば、誰も君に手出しはできない」

 その言葉は何よりも強固な結界のように思えた。彼の腕の中にいれば、どんな悪意も氷結し、砕け散る。鈴は安堵の息を吐き、小さく頷いた。しかし、その安寧は唐突に破られた。

「おや、西園寺くんではないか!まさか貴公がこのような浮ついた場に顔を出すとは!明日は槍でも降るかと思ったよ」

 豪快な笑い声と共に現れたのは胸元に勲章を贅沢にぶら下げた、恰幅の良い初老の軍人だった。 白髪交じりの髭を蓄え、赤ら顔でワイングラスを傾けている。その背後には副官らしき数名の将校が控えていた。

 景明の眉がわずかに動く。彼は鈴に向けられていた甘い表情を瞬時に消し去り、硬質な軍人の顔へと戻った。

「……お久しぶりです、伊集院中将閣下。祝賀の席とあれば、末席を汚さぬわけには参りません」

 景明は流れるような所作で踵を揃え、敬礼をした。その動きには一分の隙もない。伊集院と呼ばれた中将は興味深そうに景明の隣に立つ鈴へと視線を移した。

「ほほう。して、そちらの可愛らしいお嬢さんが噂の……?」

「……私の婚約者、小鳥遊鈴です」

 景明の声に微かな警戒の色が滲む。鈴は慌ててスカートの裾をつまみ、膝を折って最敬礼をした。

「お、お初にお目にかかります。小鳥遊……いえ、西園寺景明様の婚約者の、小鳥遊鈴と申します」

「うむ、うむ!いやはや、可憐な花だ。あの堅物の西園寺が骨抜きになるのも頷ける。……して少佐、積もる話もある。少しあちらで戦況の報告と今後の異能部隊の運用について意見を聞きたいのだがな」

 中将は親しげに景明の肩を叩いたがその目は笑っていない。軍内部の派閥争い、あるいは腹の探り合い。そんなきな臭い気配が漂う。

 景明は僅かに逡巡した。視線が迷うように鈴へと向けられる。

(……行ってあげて、西園寺様)

 鈴はその視線の意味を悟り、小さく頷いてみせた。公務なのだ。自分が彼の足枷になってはいけない。

「……承知いたしました」

 景明は短く答え、鈴の方を向いた。そして誰にも聞こえないほどの低い声で早口に囁いた。

「すまない、鈴。すぐに戻る。……いいか、絶対にこの場を動くな。誰に何を言われても取り合う必要はない。何かあれば氷室を呼べ。彼は会場の警備に当たっているはずだ」

「はい。……お気になさらないでください。ここでお待ちしております」

 景明は名残惜しそうに鈴の手を離すと、一度だけ強く彼女の瞳を見つめ、翻って中将たちの輪の中へと消えていった。

 彼の黒い背中が見えなくなった瞬間。鈴の周りの空気が変わった。今まで景明という防波堤によって遮られていた波が一気に押し寄せてくる感覚。暖房の効いた会場のはずなのに急に肌寒さを感じる。

 鈴は無防備な背中を晒さぬよう、壁際の柱の陰へと半歩下がった。手にはウェイターから受け取った葡萄色の液体が入ったグラスが一つ。それが唯一の命綱であるかのように指先が白くなるほど強く握りしめる。

「あら、見て。……あの方よ」

「西園寺様の婚約者?まさか。あんな子供みたいな娘が?」

「ええ、本当よ。小鳥遊家の……」

「まあ、西園寺様も物好きね。もっとふさわしい方がいらっしゃるでしょうに」

 甘ったるい、けれど棘を含んだ声が風に乗って聞こえてきた。極彩色のドレスを纏った令嬢たちが扇子で口元を隠しながら、あからさまに鈴の方を見ていた。

 その視線はショーケースの中の商品を値踏みする客のようだ。いや、もっと残酷な“自分たちより劣るもの”を見つけて安心しようとする優越感に浸った視線。

「聞いたことあるわ。なんでも西園寺様を異能で誑かしたって」

「異能?小鳥遊家にそんな力があったかしら」

「あら、あるじゃない。色仕掛けという異能が」

 品のない忍び笑いがさざ波のように広がる。鈴の耳が熱くなる。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。

(……違う。私はそんなこと……!)

 反論したい言葉が喉元まで出かかるがそれを飲み込む。ここで感情的になれば、それこそ彼女たちの思う壺だ。“やっぱり育ちが悪い”と笑われるだけだ。

「それにあのドレス……見て、銀白よ」

「西園寺様の氷の色を意識したのかしら?厚かましいこと」

「自分の肌の色も考えずに。まるで雪女ね。……あの方の隣に立つなら、もっと華やかな牡丹や薔薇のような方でなくては」

 言葉の礫が容赦なく鈴の心を削り取っていく。彼女たちが言っていることはある意味で正しかった。

 鈴は絶世の美女でもなければ、莫大な持参金を持つ令嬢でもない。誇れるものなど何一つない。

(……帰り、たい)

 ふと、弱気な虫が顔を出す。路地裏の長屋で継ぎ接ぎだらけの着物を着て、野中と質素な食事をしていたあの日々の方がどれほど幸せだっただろう。こんな煌びやかな牢獄で見えないギロチンに怯えるよりも、ずっと。

 鈴は視線を落とし、グラスの水面を見つめた。揺れる液体の中に今にも泣き出しそうな自分の顔が映っている。

『……今夜の君は誰よりも美しい。私の氷を溶かさず、共に輝いてくれるのは君しかいない』

 その時、景明の声が脳裏に蘇った。あの熱い掌の感触。真摯な眼差し。彼がくれた言葉の一つ一つが凍えかけた心に灯をともす。

(……ううん。違う)

 鈴は顔を上げた。自分がここで俯いてしまったら、それは景明の言葉を彼の選んだ眼を否定することになる。彼は“君が私の誇りだ”と言ってくれた。ならば、その誇りを守らなければならない。たとえ針の筵の上であっても、血を流しながら微笑んでみせなければ。

 鈴は深く息を吸い込み、背筋を伸ばした。そして自分を嘲笑っていた令嬢たちの方へゆっくりと視線を向けた。睨みつけるのではない。あくまで優雅に微笑みを湛えて。

「……ごきげんよう」

 鈴の口から紡がれたのは澄んだ鈴の音のような挨拶だった。予想外の反応に令嬢たちの笑い声が止まる。

「皆様、本日の舞踏会は楽しんでいらっしゃいますか? ……その扇子、とても素敵な刺繍ですね。雉の羽のグラデーションが今の季節の夕暮れを思わせて」

 鈴は先ほど一番大きな声で悪口を言っていた令嬢の持つ扇子を褒めた。皮肉ではない。純粋な審美眼からの言葉だ。鈴にとって刺繍や装飾品は言葉以上に雄弁な作品なのだから。

「え……あ、ありがとう……ございます……?」

 毒気を抜かれたように令嬢がたじろぐ。鈴はさらに言葉を続ける。

「西園寺様は今、公務でお忙しくされておりますけれど……戻られましたら、皆様のような華やかな方々がいらしたこと、お伝えしておきます。帝国の未来を憂う殿方にとって、美しい花々の笑顔こそが一番の慰めになりますもの」

 それは“私は西園寺様と対等に会話ができる立場にあります”という、控えめながらも強烈な牽制だった。そして同時に“貴女たちの悪意など私には届いていません”という宣言でもあった。

 令嬢たちが顔を見合わせ、気まずそうに視線を逸らす。勝った、と思ったわけではない。ただ、自分の尊厳を守れたことに鈴の胸の奥で小さな誇りが芽生えた。

(私は西園寺様の婚約者。……ただ守られるだけのお人形じゃない)

 鈴はグラスを口に運び、乾いた喉を潤した。葡萄の酸味が少しだけ甘く感じられた。だが、その小さな勝利の余韻に浸る間もなく、新たな影が忍び寄る。それは先ほどの令嬢たちのような、わかりやすい嫉妬や悪意とは違う。もっと粘着質で底知れない闇を孕んだ気配。

「……見事だね。まさに泥中の蓮というべきか」

 背後からかけられた声は絹糸のように滑らかで、それでいて背筋を這うような冷たさを秘めていた。

 鈴が振り返るとそこには一人の男性が立っていた。年の頃は景明と同じくらいか、少し上だろうか。裕福さを誇示するような恰幅の良い体を仕立ての良い燕尾服に上品に包み込んでいる。亜麻色の髪をオールバックに撫でつけ、顔立ちは整っているがたっぷりとした頬の肉の奥で細められた琥珀色の瞳には爬虫類を思わせる冷酷な光が宿っていた。

 男性はその重たげな体躯に似合わず音もなく滑るように近づき、鈴との距離を詰めすぎず、しかしパーソナルスペースを絶妙に侵食する位置で立ち止まった。

「失礼。あまりにも君が……いや、貴女がこの会場の誰よりも気高く、そして寂しげに見えたものでね」

 彼は胸に手を当て、芝居がかった仕草で一礼した。

「初めまして、美しいお嬢さん。……私の名は久我山。しがない実業家です」

 その名を聞いた瞬間、鈴の本能が警鐘を鳴らした。

 久我山。最近、帝都で急速に勢力を伸ばしている新興財閥の名前だ。軍需産業にも手を広げていると景明から聞いた。だが、鈴が恐怖を感じたのはその肩書きではない。彼がまとう空気。それは蜻蛉と同じ異能者のそれも決して善なるものではない禍々しい気配だった。

「久我山、様……?」

「ああ、ご存じないかな?無理もありません。私は軍人殿のように華々しい武勲もありませんから」

 久我山は自嘲気味に笑い、一歩、また一歩と鈴に近づく。その足音はカーペットの上とはいえ、不気味なほどに音がしない。まるで無数の足をくねらせて這い寄る百足のように。

「ですが……私は知っていますよ。小鳥遊鈴さん。貴女が持つ、“素晴らしい才能”のこともね」

 心臓が大きく跳ねた。才能。それは刺繍の腕のことか、それとも修復の異能のことか。

 久我山は鈴の反応を楽しむように目を細め、懐から一枚の名刺を取り出した。その指先は白く、まるで死人のように血の気がなかった。

「単刀直入に言いましょう。……西園寺家という籠は貴女には狭すぎる。そして重すぎる」

 彼は囁く。それは勧誘の言葉でありながら、鈴の心の最も脆い部分“自分は西園寺家に相応しいのか”という不安の裂け目に腐食性の毒液を垂らすような響きを持っていた。

「貴女はもっと自由に羽ばたける。……私ならその翼を折らずに愛でてあげられるのですがね」

 久我山の毒牙が銀白の乙女の喉元へとゆっくりと向けられた。その声は耳から入ったはずなのに脳髄を直接撫でられたかのような不快な甘さを伴っていた。

 鈴は反射的に身を引き、久我山から距離を取ろうとした。だが、背後は冷たい大理石の壁。逃げ場はない。目の前の久我山は瞳を細め、唇の端を吊り上げている。一見すれば紳士的な笑みだ。しかし、鈴の肌はその笑顔の裏にある、何か湿った無数の足音のような気配を感じ取っていた。

「……私のことを、ご存じなのですか?」

 鈴は努めて冷静を装い、扇子を持つ手に力を込めた。指先が震えないように、必死で押さえつける。

「ええ、よく存じていますとも」

 久我山はさらに一歩踏み出した。その動きは滑らかすぎて、関節が存在しないかのようだった。

「小鳥遊鈴さん、子爵家のご令嬢。……そして、稀有な修復の異能を持つ、美しきお針子さん」

 鈴の喉が鳴った。異能のことは西園寺家と軍の一部しか知らないはずの機密事項だ。それをなぜ一介の実業家が知っているのか。久我山は鈴の動揺を見透かしたように愉悦の色を深めた。

「ああ、驚かせてすみません。私は美術商としての顔も持っていましてね。美しいもの、珍しいものには目がないのです。以前、貴女が施した刺繍小物を拝見したことがあります。実に素晴らしかった。一針一針に祈りが込められていましたから」

 彼は白い手袋を外すと素手を鈴の顔の横、壁へと添えた。いわゆる壁ドンの形だがそこにときめきなど微塵もない。彼の手から立ち上る見えない瘴気が鈴を閉じ込める檻となる。

「軍人の妻、ましてやあの“破壊の化身”である西園寺景明の妻になるということは……その美しい指で血塗られた軍服を繕い続けるということですよ?」

「っ……!」

「貴女の才能は“生み出す”ことにある。破壊しか知らない彼とは本質的に相容れない。……水と油だ」

 久我山の言葉が黒いインクの雫となって、鈴の心という水面に落ち、黒い染みが広がる。

 破壊と再生。相容れない。それは鈴自身が心のどこかでずっと抱えていた小さな小さな不安の種でもあった。

(西園寺様は国を守るために戦う方。私は壊れたものを直すだけの女)

 久我山の異能、“腐食の毒”。それは言葉を媒介にし、相手が隠している心の綻びや自己否定を強制的に広げ、精神を腐らせる力。

「貴女は優しい人だ。だからこそ、西園寺家の業は重すぎる。……ごらんなさい、あちらを」

 久我山が視線だけで会場の一角を示す。そこには談笑する礼装の男たちがいた。彼らは笑いながら「次の戦場ではどこの国を焼くか」「新型の兵器の威力は」と物騒な話題を肴に酒を飲んでいる。

「彼らにとって、命は数字だ。彼も例外ではない。彼は鬼と恐れられる男。……いつかその冷たさが貴女のその温かい心を凍傷にさせてしまうかもしれない」

「ちが……違います……っ」

 鈴は首を振った。

(違う。西園寺様はそんな冷酷なだけのひとじゃない。不器用だけど本当は誰よりも優しくて、温かい人だ。あの硝子の迷宮で約束の五分きっかりに扉を粉砕して私を迎えに来てくれたこと。長屋で食べた焦げた朝食をご馳走だと言って笑い合った日々。それらは全部、嘘じゃない)

 けれど、久我山の言葉を聞くたびに胸の奥が痛み、視界が明滅する。まるで毒が血管を巡り、思考を麻痺させていくようだ。会場のシャンデリアの光が歪んで見える。ワルツの音が不協和音となって頭痛を誘う。

「……う、ぅ……」

 鈴は胸元を押さえ、苦しげに喘いだ。立っているのがやっとだ。足元の床が泥沼のように沈み込んでいく錯覚に陥る。

「可哀想に。……辛いでしょう?無理をして背伸びをするのは」

 久我山の手が鈴の肩に触れた。その冷たさは氷の清潔な冷たさとは違う。濡れた落ち葉の下に潜む、爬虫類の体表のようなぬめり気を帯びた冷たさだった。全身の鳥肌が立つ。

「私なら貴女をそんな修羅の道から解放してあげられる」

 久我山が顔を寄せ、鈴の耳元で囁く。その吐息には甘く腐った果実のような匂いが混じっていた。

「私のところへ来なさい。私が貴女のパトロンになりましょう。……貴女のその才能を芸術のためだけに使える場所を用意してあげる。血の臭いも、火薬の臭いもしない、静かで美しい世界へ」

 甘美な誘惑。戦わなくていい。傷つかなくていい。ただ、好きな刺繍をして、守られていればいい。それはかつて鈴が望んでいた平穏そのものだったかもしれない。

 久我山の瞳の奥で無数の影が蠢いているように見えた。それは何十、何百という百足の足が鈴の魂に絡みつこうとしている幻影。

(……いや。……いやだ)

 鈴の視界が暗く染まっていく中で一点の光を探す。黒曜石のような光。あの人の瞳の色。あの人の、不器用な愛の言葉。

『君は私の誇りだ、私の氷を溶かさず、共に輝いてくれるのは君しかいない』

(私は……お人形になりたいんじゃない)

 鈴は歯を食いしばり、鉄の味がするほど唇を噛んだ。その痛みが毒に侵されかけた意識を強引に引き戻す。

「……離、して……ください……ッ!」

 鈴は渾身の力を振り絞り、久我山の手を振り払った。その拍子に手に持っていたグラスが床に落ち、けたたましい音を立てて砕け散った。硝子の破片が、シャンデリアの光を反射してキラキラと飛び散る。その音に周囲の人々が振り返った。

 久我山は一瞬、驚いたように目を丸くしたがすぐにその表情を憐憫の色に変えた。

「おや、大丈夫ですか? ……やはり、無理をされていたようだ。顔色が真っ青ですよ」

 彼は周囲の視線を意識し、あくまで“体調を崩した令嬢を介抱する紳士”を演じ続ける。そして再び、その毒塗れの手を鈴へと伸ばした。

「さあ、あちらで休みましょう。……私が連れて行ってあげます」

(こないで……!西園寺様……っ!)

 久我山の指先が鈴の頬に触れようとした、その刹那。空気が鳴った。それは物理的な音ではない。空間そのものが凍りつき、悲鳴を上げた音だった。

「……私の婚約者にその薄汚い手を伸ばすな」

 地獄の底から響いてくるような、絶対零度の怒声。会場のざわめきが一瞬にして消滅した。温度が急激に下がり、吐く息が白く変わる。

 鈴が顔を上げると人垣を割って歩いてくる黒い人影があった。

 西園寺景明。その全身から立ち上るのは青白い冷気。漆黒の礼服は怒りで波打ち、美しい顔は能面のように感情を削ぎ落としているがその瞳だけが蒼炎のように燃え盛っていた。

「さ、いおんじ……さま……」

 鈴の目から堰を切ったように涙が溢れた。安堵と恐怖からの解放で膝から力が抜ける。崩れ落ちそうになったその体を景明は滑り込むように抱き留めた。

「遅くなってすまない、鈴」

 耳元で聞こえた声は先ほどの怒声とは打って変わって、痛いほどに優しかった。彼の腕から伝わる体温が久我山の毒で冷え切った鈴の心を急速に溶かしていく。

 景明は鈴を抱き寄せたまま、氷の刃のような視線を久我山へと突き刺した。

「……久我山、だったか。貴様、今すぐその手を切り落として詫びるか、この場で氷像になりたいか。……選ばせてやる」

 周囲の空気が音を立てて凍結を始める。祝賀ムードは一変し、一触即発の戦場と化した。

「……選べ」

 景明の声は低く、地を這うような重低音で響いた。その背後には物理的な冷気が揺らぎとなって立ち昇り、天井のシャンデリアさえも微かに震わせている。

 会場中の視線が一点に集中していた。鬼少佐の本気がここにある。一歩でも間違えれば、この華やかな舞踏会場が氷の墓標に変わりかねない。そんな原始的な恐怖が着飾った紳士淑女たちの足を縫い止めていた。

 対する久我山は瞳を細め、口元に張り付いたような笑みを浮かべたまま動じない。しかし、その額には冷や汗が一筋、小さく滲んでいた。彼はゆっくりと両手を挙げ、降参のポーズを取った。

「……いやはや。噂以上の愛妻家だ。これほど熱烈な歓迎を受けるとは思いませんでしたよ、西園寺少佐」

 久我山は肩をすくめ、視線を鈴へと流した。その瞳の奥には獲物を逃した悔しさとそれ以上に濃い粘着質な執着が渦巻いている。

「今日のところは退散しましょう。……素晴らしい“芸術品”に傷をつけるのは私の本意ではありませんからね」

 彼は恭しく一礼すると音もなく踵を返した。その去り際、鈴とすれ違う瞬間にだけ聞こえる声量で彼は再び毒を残した。

(……いつでも待っていますよ。貴女の心がその重荷に耐え切れなくなる時を)

 鈴の背筋に悪寒が走る。だが、その寒さはすぐに温かな熱によって上書きされた。

「鈴」

 景明が鈴の肩を強く抱き寄せたのだ。久我山の姿が人混みの中に消えると同時に張り詰めていた殺気は霧散し、周囲の温度がふわりと戻った。

「……怖かったな。すまない、私が目を離したばかりに」

 景明は鈴の顔を覗き込み、痛ましげに眉を寄せた。その瞳は先ほどの修羅の形相が嘘のように蜂蜜が溶けたような甘い色を湛えている。

 鈴は彼の胸元、勲章が輝く黒い礼服に額を預け、震える息を吐き出した。微かに香る、彼特有の冷涼さと石鹸の匂い。それが鈴にとっての現実だった。

「いいえ……。西園寺様が来てくださると信じてましたから」

「ああ。……君のピンチには地の果てからでも駆けつける」

 景明はそう囁くと、懐から真っ白なハンカチを取り出し、鈴の目元に浮かんだ涙を優しく拭った。その指先が触れるたび、久我山によって植え付けられた自己否定の毒が浄化されていくようだ。

「……立てるか?」

「はい」

「なら、行こう。……まだ、終わっていない」

 景明は力強く頷くと鈴の手を取り、会場の中央へと歩き出した。人々が、海が割れるように道を開ける。好奇の目、畏怖の目、そして嫉妬の目。それら全ての視線が降り注ぐ中、景明は悠然とそして誇らしげに鈴をエスコートした。

 楽団の指揮者が景明の視線を受けてハッとし、タクトを振り下ろす。流れ出したのは優雅で荘厳なワルツ。

「踊ろう、私の愛しい婚約者」

 景明が臣下が女王に傅くように手を差し伸べる。鈴はその手を取り、深く膝を折って礼を返した。

「……喜んで、西園寺様」

 二人の手が重なり、ステップが踏み出される。その瞬間、世界が回転した。ドレスが大きく翻り、縫い込まれた硝子ビーズがシャンデリアの光を弾いて、星屑を撒き散らしたように煌めく。漆黒の礼服に身を包んだ景明がその光を優しく、力強く受け止める。まるで夜空と銀河が踊っているかのような光景だった。

(……ああ)

 鈴は夢見心地で景明を見上げた。彼のリードは完璧だった。無骨な軍人の手とは思えないほど繊細に鈴の背中を支え、次の動きを導いてくれる。 鈴はただ、彼に身を委ね、音楽に身を任せるだけでよかった。

「……あの男に何を言われた?」

 回転の遠心力に身を任せながら、景明が耳元で問いかける。

「……私が貴方の重荷になると。……西園寺家は私には重すぎると」

 鈴が正直に告げると景明は鼻で笑った。

「馬鹿げている。……重いのは私の方だ。君という光が眩しすぎて、時々、自分がその光に相応しいのか不安になるくらいにな」

「西園寺様……」

「誰が何と言おうと関係ない。君は西園寺景明(私)が魂を懸けて選んだ女性だ。……君が隣にいてくれることこそが私の最大の誇りだ」

 その言葉はどんな宝石よりも鈴の胸を輝かせた。周囲の雑音などもう聞こえない。“下級華族”、“釣り合わない”。そんな心ない陰口は二人が作り出す圧倒的な美の前では塵のように吹き飛んでしまう。

 景明が鈴の腰を引き寄せ、リフトした。ふわりと体が宙に浮く。会場中から感嘆のため息が漏れた。着地した鈴を景明は抱き留め、そのまま最後のポーズを決める。

 静寂。そして、一拍置いてから、会場を揺るがすような拍手喝采が巻き起こった。それは彼らの美しさと絆が周囲の悪意をねじ伏せ、賞賛へと変えた瞬間だった。

「……愛している、鈴」

 拍手の轟音に紛れて、景明が唇の動きだけでそう告げた。鈴の顔が一瞬にして薔薇色に染まる。

 彼女は言葉にならず、ただ涙ぐんだ瞳で微笑み返すことしかできなかった。幸せの絶頂。この時間が永遠に続けばいい。そう願った、その時だった。

「お戯れが過ぎますぞ、若様」

 水を打ったような静けさを纏った声が拍手の波を断ち切った。枯れ木のように乾いているが決して無視できない威厳を含んだ声。

 人垣の向こうから、一人の初老の男が現れた。背筋は定規が入っているかのように伸び、仕立ての良い黒の燕尾服を非の打ち所なく着こなしている。白髪は一本の乱れもなく撫でつけられ、深く刻まれた皺の奥にある瞳は古井戸のように底知れない。

「……爺か」

 鈴は息を呑んだ。その男はただの執事ではない。西園寺家に代々仕え、景明の祖父・源五郎の影として恐れられている家宰、権藤(ごんどう)だった。

 権藤は鈴の方を一瞥もしない。彼にとって、鈴など存在しないかのような扱いだ。彼は景明の前に進み出ると恭しく、しかし慇懃無礼に頭を下げた。

「祝賀のめでたい席、お楽しみのところ恐縮ですが……お迎えに上がりました」

「迎えだと?私はまだ公務中だ」

「大旦那様は貴方様のご動静に関する報告をお受けになり、いたくご立腹のご様子。……『利益ばかりを追う子爵家の娘との“おままごと”はいつまで続けるつもりか』と」

「……ッ」

 権藤の一言が景明の反論を封じた。景明が奥歯を噛み締める音が聞こえた。

 “おままごと”。それは鈴と出会い、甘味処で特製パフェを囲みながら互いの不器用な心を交わし合った、何よりも尊い日々のことだ。それを単なる“遊び”だと切り捨てた怒りが彼の周りの空気をピリつかせる。

「……すぐに、隠居場所へ来いとの仰せです。拒否なされば……」

 権藤はそこで初めて鈴の方へと視線を向けた。その目は路傍の石を見るような感情のない冷たい目だった。

「……そちらのお嬢様の身に何が起きても知らぬぞ、と」

「貴様……!」

 景明が激昂し、一歩踏み出す。床が音を立てて凍結し、氷の蔦が権藤の足元へと伸びる。だが権藤は眉一つ動かさない。

「若様。貴方様は西園寺の血を継ぐ唯一の“器”。……そのような娘との遊びはもう終わりでございます」

 その言葉は死刑宣告のように重く響いた。華やかな舞踏会の光は急速に色あせていく。鈴は震える手で景明の服の袖を掴んだ。“行かないで”と言いたかった。けれど、自分が彼を止めることで彼が窮地に立たされることもわかっている。

 景明は袖を掴む鈴の手の上に自分の手を重ねた。その手は悔しさで微かに震えていた。

「……わかった。行く」

 苦渋の決断。景明は鈴に向き直り、悲痛な瞳で彼女を見つめた。

「鈴。……すまない。今日はここまでだ」

「西園寺様……」

「必ず戻る。……だから、待っていてくれ」

 それは約束というより、祈りに近かった。景明は権藤を睨みつけると荒々しくマントを翻し、出口へと歩き出した。

 権藤はその背中を追う前にもう一度、鈴を見た。そして、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。

「……分をわきまえなさいませ、お嬢様。……あれは貴女が飼いならせるような生き物ではないのです」

 そう言い残し、権藤は闇の中へと消えていった。残された鈴は広いホールの真ん中で一人立ち尽くしていた。銀白のドレスは主を失った雪のように冷たく、白く輝いているだけだった。

 遠くで、次の曲が始まる。だが、その旋律はもう、鈴の耳には届かない。

 煌びやかな祝祭の裏で古き血の断絶が大きな口を開けて二人を飲み込もうとしていた。


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