第24話
狂乱の一夜が明け、帝都の朝は重苦しい鉛色の雲に覆われていた。陸軍省の威圧的な煉瓦造りの建物内。その一室にある会議室の空気は外気以上に冷たく、そして澱んでいる。
革靴が床を叩く硬質な音が響き、軍服の衣擦れだけが微かに聞こえる静寂。 長テーブルの上にはインクの匂いが鼻をつく報告書の束に加え、朝からひっきりなしに届く電報と封を切られるのを待つ書簡が山のように積まれていた。
それらはすべて昨夜行われた海上要塞での舞踏会、そして、そこで起きた未曾有のテロ未遂事件に関するものだ。
「西園寺少佐。貴殿の独断専行には目に余るものがある」
白髪の将官が苦虫を噛み潰したような顔で卓を叩いた。だが、その剣幕とは裏腹に彼の声にはいつものような絶対的な響きがない。むしろ、どこか困惑と疲弊が滲んでいる。
視線の先に座る景明。その瞳は今は不遜な光を宿して上官を見返していた。 遮るもののない裸眼の鋭さが将官の弱気を見透かすように細められる。
「独断専行、ですか。...... 私は招待客の安全確保を最優先に行動したまでですが」
景明の声はよく磨かれた氷の刃のように滑らかで、かつ冷たい。
本来ならば、軍法会議にかけられてもおかしくない事態だ。 しかし、先の舞踏会に招かれていた財閥の重鎮や海軍の高官たちは皆、景明の雷と氷を操る神ごとき御業を目撃し、救われたのだ。
『西園寺少佐がいなければ、我々は皆殺しだった』
『彼こそが帝国の守護神だ』
そんな称賛の声が物理的な紙の山となって卓上を埋め尽くしていた。景明を処罰すれば軍部が国民と財界を敵に回すことになる。
「……示しがつかん!よって、今回の件に関する査問会は中止とする。……ただし、形式上の処分は受けてもらうぞ」
将官は咳払いを一つし、わざとらしく重々しい口調で告げた。
「西園寺景明少佐。本日より一週間、自宅謹慎を命ずる。……屋敷から一歩も出るな。反省の色が見えるまで頭を冷やしておけ」
それは処分という名の休暇だった。 事実上の無罪放免。 いや、英雄に対する特別休暇と言い換えてもいいだろう。
「……承知いたしました」
景明は優雅に立ち上がり、軍帽を被り直す。 その口元には隠しきれない嘲笑と別の期待による甘い熱が浮かんでいた。
(一週間。……誰にも邪魔されず、鈴と過ごせる時間が手に入ったか)
それは彼にとって勲章よりも価値のある褒美だった。 一方で地獄の釜の蓋が開いた者が一人。 会議室を出た廊下で氷室が眼鏡の位置を指で押し上げながら呪詛のような低い声を漏らした。
「……少佐。少佐が優雅に自宅で茶を啜っている間、誰がこの山のような始末書を書くと思っているんですか?誰が、あの破壊された要塞の修繕費用の見積もりを出すと?」
氷室は一歩、また一歩と景明に詰め寄る。 普段は冷静沈着な副官の仮面が剥がれ落ちた瞬間だった。
「…これは命令だ、氷室。……私の代わりに完璧にこなしておけ」
「ッ……!」
景明は悪びれもせず、氷室の肩を叩いた。 氷室は奥歯を噛み締め、深く、長く息を吐き出すと、死刑台に向かう囚人のような静けさで告げた。
「……承知いたしました。すべて、この氷室にお任せください。その代わり、少佐」
氷室の眼鏡が廊下の照明を反射して白く光った。
「どうぞ、私の屍の上で優雅な休日をお過ごしください。……私が過労で死んだら墓前には一番高い酒を供えていただきますからね」
「フッ、考えておこう」
景明は氷室の悲痛な叫びを涼しい顔で受け流し、出口へと向かう。 その背中は戦場での鬼神の如き姿とは違い、どこか浮足立っているようにさえ見えた。
残された氷室は抱えた書類の束に顔を埋め、「……畜生」と小さく毒づいた。 その声は廊下の冷たい空気に溶けて消えた。
景明が西園寺邸に戻ったのは昼下がりだった。重厚なマホガニーの扉が開くとそこには軍部の無機質な空気とは対照的な、柔らかく温かい時間が流れていた。吹き抜けのホールは静寂に包まれているが、どこか華やいだ気配が漂っている。
「お帰りなさいませ、西園寺様」
階段の踊り場から降りてきた鈴。彼女は今朝、景明を見送った時と同じ、慎ましい矢絣の着物姿。だが、予定よりも早すぎる帰宅にその大きな瞳を驚きに丸くしている。
「あの……今日はお早いお帰りですね?何か忘れ物でも……?」
不安げに首を傾げる鈴。その愛らしい仕草に景明の胸の奥で愛おしさが爆発した。
景明は歩み寄ると有無を言わさず鈴を強く抱きしめた。
「きゃっ……!?」
「ただいま、鈴」
戦場での硝煙と血の匂い。軍部でのインクと埃の匂い。それらが鈴から漂う甘やかな石鹸の香りと彼女自身が持つ陽だまりのような匂いに上書きされていく。
(……ああ、生きて帰ってきたのだな)
先日の死闘が嘘のようだ。蜻蛉という不快な害虫に愛する者を繭の中に閉じ込められ、汚されかけた悪夢。それを思い出すだけで景明の胸の奥でどす黒い殺意が渦巻くが、腕の中にある鈴の温もりを感じると、その嵐も瞬時に鎮められる。
「さ、西園寺様……?苦しいです……」
「すまない。……少し、充電させてくれ」
景明は鈴の肩に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。しばらくして顔を上げると、いつもの自信に満ちた笑みを浮かべてみせる。
「心配するな。……少しばかり、諸事情で休暇が取れただけだ」
「休暇、ですか?」
「ああ。一週間ほどな。……つまり、今日から七日間、私はずっとこの屋敷にいる」
景明はわざと顔を近づけ、鈴の耳元で囁いた。
「一週間、片時も離れず、君といられるということだ」
「ひゃっ……!」
鈴は驚きと羞恥で飛び上がった。耳まで真っ赤にして、口を開閉させている。その反応が可愛らしくて、景明は喉の奥で低く笑った。
「さあ、着替えてくる。……若菜、茶の用意を。今日はサンルームでいただこう」
「かしこまりました。旦那様」
控えていた若菜が心得たように一礼して下がる。彼女の目元にも主人の無事を祝う安堵の色が浮かんでいた。
数刻後。午後の柔らかい日差しが降り注ぐサンルーム。ガラス張りの窓からは手入れの行き届いた庭園の緑が一望できる。白いレースのカーテンが風に揺れ、紅茶の香ばしい湯気が立ち上っていた。
景明は堅苦しい軍服を脱ぎ捨て、上質な着流しに着替えていた。洋風の猫脚のソファに着物姿で深々と腰掛ける。帯を緩めに締め、胸元を少し開けたその姿は和洋折衷の退廃的な色気を醸し出している。
組んだ足から覗く足袋の白さとソファのベルベット生地の対比が妙に艶めかしい。
「……どうした、鈴。そんなに離れて座って」
「い、いえ……その、西園寺様のお召し物が、あまりに見慣れなくて……」
対面の椅子に座る鈴は照れながらティーカップの縁を指でなぞる。無理もない。鈴が西園寺邸に来てから、景明はずっと軍服か、あるいは外出用のスーツ姿だった。こんな風に“自宅で寛ぐ夫”のような姿を見せるのは初めてのことなのだ。
黒に近い紺色の着物は彼の白い肌と色素の薄い髪を際立たせ、リラックスした表情がいつもより幼く、そして無防備に見える。
(洋室に着物なんて……なんだか、見てはいけないものを見ている気がします……!)
以前、高熱を出した彼を看病した夜の記憶が鮮明に蘇る。あの時の熱、唇の感触、そして絡みつくような舌の動き。
(あ、あの時は事故でしたけれど……今の西園寺様は確信犯です……!)
「こっちへおいで」
景明が手招きをした。それは命令ではなく、甘い誘惑だった。鈴は逆らえず、立ち上がって彼の隣、ソファの空いたスペースへと腰を下ろす。すると景明は自然な動作で鈴の手を取り、自分の掌に包み込んだ。
「……冷たいな」
「あ、はい……少し、緊張して」
「緊張?私にか?」
景明は意地悪く微笑むと鈴の手を自分の頬に寄せた。男性にしては滑らかな肌だが、そこには確かな体温と骨格の硬さがある。
「慣れてもらわなくては困る。……これからはこれが日常になるのだから」
「日常……」
「そうだ。……氷室には悪いが邪魔者はすべて排除した。電話線も抜いておこうかと思ったくらいだ」
景明の指が鈴の指の隙間に絡まる。所謂、恋人繋ぎだ。その指にはいつもの冷たい白手袋はなく、生身の肌と肌が触れ合う感触だけがある。少し湿り気を帯びた掌の熱が鈴の肌へと伝播し、血管を通じて全身を巡っていく。それは甘い痺れを伴う毒のようだった。
「……あの、氷室様は……?」
「奴なら、今頃書類の山と格闘しているだろう。……“私の屍の上で休め”と言われたのでな、遠慮なくそうさせてもらっている」
景明は悪魔のような台詞を聖人のような穏やかな顔で言った。鈴は『氷室様、ごめんなさい……!今度、何か甘いものでも差し入れしなくては』と心の中で合掌する。
「それより、鈴」
「は、はい!」
「以前、熱を出した私を看病してくれた夜のことだが……その続きをしてもいいか?」
不意打ちだった。景明の瞳がすっと細められる。そこには熱病のような色ではなく、もっと理性的でそれでいて底なしに深い独占欲が渦巻いていた。
「つ、続きとは……?」
「とぼけるな。……私の記憶が混濁していたと思って油断していたのか?確かにあの時は高熱にうなされていたが、君の唇の味は……覚えている」
景明の顔が近づく。逃げ場はない。彼の吐息が鈴の唇にかかる距離。鈴は反射的に目を閉じたがその脳裏をよぎったのは先の舞踏会で回収した“あるもの”の存在だった。
(……いけません、西園寺様。まだ、終わっていないんです)
鈴の視線が無意識に部屋の隅にあるサイドボードの上へと向けられた。そこには美しい切子硝子の瓶が置かれている。一見すると美しい香水瓶のようだがその中身は薬品に漬けられた、赤黒く焼け焦げた肉片。逃亡した蜻蛉が切り落としていった触手の一部だ。それは時折、痙攣するように動き、瓶の内側を舐める仕草をする。まるで本体の居場所を求めて蠢く磁石のように。
(あの男はまだ生きています。……私たちがこうしている間も帝都のどこか暗く、汚い場所で)
鈴の体に緊張が走ったのを景明は見逃さなかった。彼はふと動きを止め、鈴の視線の先、あの瓶を一瞥すると冷ややかな笑みを浮かべた。
「……興ざめだな。あんなゴミ屑のせいで君が強張るとは」
景明は鈴の手を離さず、しかしキスをする代わりにその指先に口付けた。リップ音を立てたそれは敬愛の口付けであり、同時に所有の刻印でもあった。
「安心しろ、鈴。……私の謹慎生活を邪魔する害虫は一匹残らず駆除する」
その声の低さに鈴は背筋が震えた。甘い蜜月。しかしその裏側には研ぎ澄まされた刃が隠されている。西園寺景明という男は愛に溺れているようでいて、決して牙を納めてはいなかったのだ。
「……はい、西園寺様」
鈴は彼を見つめ返し、強く頷いた。守られるだけの自分はもう終わりだ。この人を信じ、共に戦う。そう決めた覚悟が彼女の瞳に強い光を灯していた。サンルームの外では風が吹き始めている。平和で甘美な謹慎生活の裏で水底の悪意は静かに、だが確実に増殖しようとしていた。
◇
翌朝。西園寺邸の朝は香ばしい珈琲の香りとカリカリに焼けたベーコンの匂いで幕を開けた。一階、食堂室。高い天井からはシャンデリアが吊るされ、マホガニーの長テーブルには洋食の朝食が並べられている。
普段は静寂に包まれているこの場所も今朝ばかりは甘く、むず痒い空気が充満していた。
「……鈴。もう少し食べないか?昨夜はあまり眠れなかっただろう」
上座に座る景明が心配そうに鈴の皿にスクランブルエッグを取り分ける。彼は昨日とは別の着流し姿だ。ただし、寝起きで少し着崩れた胸元とかき上げられた前髪が朝の光の中でどうしようもなく艶っぽい。瞳が熱を帯びて鈴を見つめている。
「い、いえ!十分です!お腹いっぱいです!」
対面に座る鈴は真っ赤な顔でミルクを飲み干した。
(眠れなかったのは誰のせいだと思っているんですか……!)
昨夜、サンルームでの出来事の後、結局遅くまで景明に構われ続け、解放されたのは深夜だった。
「ご馳走様でした!私、学校へ行く支度がありますので!」
鈴は逃げるように席を立った。今日は登校日だ。この甘い空気に浸っていたら本当に学校へ行けなくなってしまう。
「ああ、行ってらっしゃい。……玄関まで送ろう」
「えっ、そんな、お見送りなんて結構です!」
「遠慮するな。暇を持て余した謹慎人の、ささやかな楽しみだ」
景明は優雅に立ち上がると当然のように鈴のエスコートをする。遥か遠く、帝都の中心にある屯所の方角から書類の山に埋もれた氷室の「……くそ、この見積もり桁が違うぞ……!」という怨嗟の声が聞こえた気がしたが、二人は綺麗に無視をしてホールへと向かった。
広々とした玄関ホールに鈴の編み上げブーツの音が響く。若菜から通学鞄を受け取り、鈴は振り返って景明に一礼した。
「では、行ってまいります。西園寺様」
「ああ」
景明は腕組みをして、壁に寄りかかっている。着流しの裾から覗く素足が洋館の冷たい空気の中で白く浮き上がっている。彼はふと、何かを思い出したように目を細め、人差し指で自分の頬を軽く叩いた。
「……鈴。忘れ物だ」
「え?ハンカチも教科書も持ちましたが……」
「違う。……“行ってきますの挨拶”が足りない」
景明は顔を近づけ、悪戯っぽく、しかし真剣な眼差しで鈴を見下ろした。
「欧米では夫を送り出す妻はキスをするのが習慣らしいぞ。……逆もまた然り、だ」
「は、はあ!?こ、ここは日本です!しかも朝ですよ!?」
「関係ない。ここは私の屋敷で、君は私の婚約者だ。……減るものでもないだろう?」
景明の顔がさらに近づく。整いすぎた美貌が視界いっぱいに広がり、鈴は思考がショートしそうになった。使用人たちが見ているかもしれない。若菜が奥で笑っている気配もする。
「む、無理です!破廉恥です!!」
「おや、以前はあんなに可愛らしく受け入れてくれたのにか?」
「~~っ!!」
鈴は音が出そうなほど赤面し、鞄を胸に抱えて後ずさった。これ以上ここにいたら、本当に食べられてしまう。鈴は反射的に開いていた玄関の扉から外へと飛び出した。
「い、行ってきます!!」
「……フッ。逃げ足の速いことだ」
勢いよく閉まった扉の向こうへ消えた愛らしい背中を見送りながら、景明は喉の奥で笑った。その瞳から笑意が消え、瞬時に冷徹な狩人の色へと変わったのは鈴の気配が完全に遠ざかってからのことだった。
「……さて。甘い時間は終わりだ」
景明は虚空を睨み、低い声で呟く。そのままホールにある黒電話の受話器を取り上げ、屯所への直通回線を繋いだ。
「氷室。……準備はできているな?」
『は。いつでも』
受話器の向こうから疲労の色は濃いが主と同じく鋭く研ぎ澄まされた氷室の声が響く。
「今夜、掃除を行う。……ドブ川の掃除には骨が折れそうだがな」
◇
「……はぁ、はぁ。心臓が止まるかと思った……」
女学校の校門をくぐりながら、鈴は自身の胸を押さえて深呼吸をした。頬の熱がまだ引かない。景明という男はどうしてあんなに息をするように甘い言葉を吐けるのだろうか。
「あら、鈴さん!ごきげんよう!」
「お久しぶりね。お体はもうよろしいの?」
教室に入るとクラスメイトたちがわっと集まってきた。鈴は笑顔で応えながら席に着くがふと、教室の隅から小声で交わされる奇妙な噂話が耳に入ってきた。
「……ねえ、聞いた?西園寺様のこと」
「ええ。なんでも、夜な夜な屋敷の地下で若い娘の生き血を啜っているらしいわよ」
「きゃあ、怖い!だから鬼少佐なのね……」
「鈴さんも、きっと毎晩……」
(……え?)
鈴は思わず耳を疑った。生き血を啜る。荒唐無稽な噂だが、今朝の景明の獲物を狙うような瞳や首筋に吸い付くような視線を思い出すと、あながち間違いではないような気がしてくる。
(……ある意味、食われていると言えなくもないかも……)
鈴が遠い目をして妙に納得しかけていると千代子が机を叩いて立ち上がった。
「ちょっと貴女たち!何を馬鹿なことを言っているの!西園寺様はそんな野蛮な方じゃなくてよ!」
「千代子……」
「あの方はもっとこう……冷徹で、高貴で、近づく者すべてを氷漬けにするような、孤高の存在なのよ!生き血なんて下品なもの、啜るわけがないわ!」
(……ありがとう、千代子。でも、それはそれで酷い言われようのような気もする)
鈴は苦笑しつつ、必死に否定して回る友人の姿に日常が戻ってきた喜びを噛み締めていた。だが、その平穏な日常の裏で確実に非日常が進行していることを鈴は帰宅後に知ることになる。
放課後。西園寺邸に戻った鈴は二階にある自室へと急いだ。制服から普段着に着替えようとクローゼットを開けた瞬間、異変に気づいた。部屋の奥、ドレッサーの引き出しの奥深くに隠しておいた小箱。その中から硬質な音が響いていたのだ。
「……!」
鈴は息を呑み、震える手で箱を開けた。中にあるのは切子硝子の瓶。そしてその中で焼け焦げた蜻蛉の尻尾がまるで何かに呼び寄せられるように激しく暴れ、瓶の壁にぶつかっていた。
肉片から微かな火花のようなものが散り、焦げ臭い匂いが鼻をつく。その動きは明らかに一定の方角、帝都の地下水道が流れる、暗い方角を指し示していた。
(……あの男が近くにいる。)
鈴は瓶を両手で包み込み、その不快な振動を抑え込んだ。恐怖で指先が冷たくなる。浴室での絶望が蘇りそうになる。
「鈴、入ってもいいか?」
景明の声がした。鈴は慌てて小箱を閉め、引き出しの奥へと押し込んだ。そして何事もなかったかのように鏡の前で髪を整え、声を張り上げる。
「は、はい!どうぞ!」
ドアが開き、景明が入ってくる。彼はまだ着流し姿だがその雰囲気は朝とは違い、どこか張り詰めた空気を纏っていた。
「……顔色が悪いな。学校で何かあったか?」
景明の鋭い視線が鈴を射抜く。彼は気づいているのかもしれない。鈴が何かを隠していることも敵の気配が近づいていることも。けれど鈴はあえて微笑んだ。
「いいえ、なんでもありません。……ただ、西園寺様のお顔を見たら、安心してしまって」
「……そうか」
景明はそれ以上追求せず、優しく鈴の頭を撫でた。その手つきはこれから戦場へ向かう男が守るべきものに別れを告げるような、静かで確かな重みがあった。
深夜二時。西園寺邸は深い静寂に包まれていた。廊下の古時計が重苦しい音で時を刻んでいるのが床板を伝って振動として響く。
二階、鈴の部屋。豪奢な天蓋付きのベッドの中で鈴はシーツを胸元まで引き上げ、じっと目を閉じていた。呼吸を整える。あくまで眠っているふりをするために。
(……来た)
微かな衣擦れの音が聞こえた。壁一枚隔てた隣の書斎で誰かが椅子から立ち上がる気配。やがて書斎の扉が開く音がし、廊下を渡ってくる気配が近づいてくる。部屋のドアノブが回される音が、張り詰めた静寂の中で過敏になった鈴の耳には雷鳴のように響いた。
扉が開き、廊下の冷たい空気と共にあの人が入ってくる。足音はしない。軍人として鍛え上げられたその歩法は猫よりも静かだ。けれど、鈴にはわかる。近づくにつれて漂う匂い。湯上がりの石鹸の香りに混じった、微かな火薬と雨上がりのオゾンのような鋭い香り。それは彼がこれから修羅になる合図だ。
ベッドサイドに影が落ちる。鈴は必死に睫毛の震えを抑え、寝息のリズムを崩さないように努めた。心臓が早鐘を打っているのが布団越しに伝わってしまわないか不安だった。
(西園寺様……)
優しく前髪が払われた。大きく、少し骨張った掌が鈴の額に優しく触れる。その手は冷たく、けれど愛しさに溢れていた。
「……行ってくる」
吐息のような囁き。それは誰に向けたものでもない、独り言のような誓いだった。続いて、額に落とされた柔らかい感触。朝の情熱的なそれとは違う、硝子細工に触れるような、慈愛と懺悔に満ちた口づけ。
「汚い仕事は私の役目だ。……君はただ、綺麗な夢を見ていればいい」
その言葉を最後に気配が遠ざかる。扉が閉まり、再び静寂が戻ってきた。鈴は数秒数えてから、ゆっくりと目を開けた。月明かりだけが照らす部屋の中で彼女はベッドから起き上がり、サイドテーブルの引き出しを開ける。
「……綺麗な夢、ですか」
取り出した小箱の中では瓶詰めされた蜻蛉の肉片が、狂ったように暴れていた。紫色の火花を散らしながら、肉片は瓶の硝子を突き破らんばかりの勢いで帝都の下町を流れるドブ川の方角を指し示している。
鈴はその瓶を両手で強く握りしめた。瓶越しに伝わる不快な振動とそこから発せられる吐き気を催すような悪意。もし鈴が普通の令嬢なら、こんな悍ましいものを手元に置くことなどできなかっただろう。けれど、これは彼を守るための羅針盤だ。
鈴は窓辺に立ち、カーテンの隙間から外を見下ろした。洋館の裏口から闇に紛れて出ていく長身の影が見える。インバネスコートの裾を夜風に翻し、一度だけ振り返って鈴の部屋を見上げたその姿。
鈴は息を呑んで身を隠した。彼に見つかってはいけない。彼が「君に知られたくない」と思っているなら、騙されたふりをするのが今の鈴にできる愛の形だからだ。
「……ご武運を、西園寺様」
鈴は胸の前で手を組み、祈るように呟いた。その瞳は恐怖ではなく、彼への信頼で揺るぎなく輝いていた。
帝都の最下層。華やかな銀座の裏通りを抜け、貧民窟に近い運河のほとりにそのマンホールはあった。あたりには腐った水と泥、そして生ゴミが混ざり合った強烈な腐臭が漂っている。野良犬さえ寄り付かないような不浄の場所。そこに場違いなほど仕立ての良いスーツを着た男が一人、腕組みをして立っていた。
「……遅いですよ、少佐」
氷室だ。彼は鼻をハンカチで覆いながら、眼鏡の奥の瞳で冷ややかに景明を見据えた。その足元には無骨なジュラルミンケースと軍用の強力な懐中電灯が置かれている。
「三分の遅刻です。貴方にしては珍しい」
「すまん。……寝顔に見惚れていた」
景明は悪びれもせず、インバネスコートの襟を立てて現れた。その顔には先ほどまでの甘い表情の欠片もない。あるのは獲物を前にした捕食者の冷徹な笑みだけだ。
「……はぁ。そうですか。それは重畳。おかげで私はこの悪臭の中で三分間も余計に鼻呼吸を止める羽目になりました」
「鍛錬の一環だと思え。……で、状況は?」
氷室はため息交じりにハンカチをポケットにしまうと足元のマンホールを顎でしゃくった。
「間違いありません。例の肉片の反応、この地下から強力な妖気が漏れ出しています。……おそらく、下水道の奥深くに巣食っているかと」
「なるほど。ネズミのようにお似合いの場所だ」
景明は懐から白手袋を取り出し、ゆっくりと装着する。その指の動き一つ一つが優雅でありながら殺傷力を予感させた。
「しかし少佐。……よろしかったのですか?小鳥遊嬢を置いてきて」
氷室がふと、真面目なトーンで問いかけた。今回の敵、蜻蛉は鈴にとってトラウマの元凶とも言える相手だ。本来なら彼女自身の手で決着をつけさせるという選択肢もあったはずだ。だが、景明は鼻で笑った。
「この悪臭だぞ、氷室」
「は?」
「こんなヘドロと汚物まみれの場所に鈴の美しい着物の裾を触れさせろと言うのか?……それにあいつの再生しようとする姿はおそらく吐き気を催すほど醜悪だ」
景明はマンホールの蓋に手をかざすと冷気を走らせた。鉄塊の表面に氷の結晶が凝固し、頑丈な取っ手を形成する。彼はそれを掴むと、重い蓋を苦もなく引き剥がした。すると濃厚な下水の臭気が立ち上る。
「……相変わらず、便利ですね。引越しの時に借りたいくらいです」
氷室が鼻を覆いながら、呆れたように呟く。景明は眉一つ動かさず、暗い穴を見下ろした。
「美しいものは美しいままにしておくのが私の流儀だ。……汚れ役は、私たちだけでいい」
「……まったく。過保護な上官を持ちました」
氷室は肩をすくめたがその口元には微かな笑みが浮かんでいた。あのような純粋な少女にこれ以上の地獄を見せたくはない。その点において、二人の意思は一致している。
「行きましょう、少佐。……明日の朝食が美味しく食べられるよう、さっさと片付けますよ」
「ああ。……一匹残らず、凍らせて砕く」
二人の男は暗い穴の中へと身を躍らせた。地下水道は地上の華やかさが嘘のような異界だった。壁面には苔とカビがびっしりと張り付き、足元を流れる汚水は黒く濁っている。天井から滴る水音が、不気味に反響していた。
「……本当に不気味ですね」
氷室が懐中電灯で闇を照らしながら、冷静に報告する。
景明は無言で頷き、歩を進める。彼の周囲だけ、空気が凍てついていた。漂う悪臭さえも彼の放つ冷気によって凍結し、地面に落ちていくようだ。
「……見つけたぞ」
景明が足を止めた。その視線の先。下水道が大きく開いた貯水槽のような空間。そこの壁面にそれは張り付いていた。
かつて舞踏会で見た、紳士の姿をした蜻蛉の面影はない。そこにあるのは無数の人間の腕や足、そしてネズミや野良猫の死骸を取り込み、膨れ上がった肉の塊だった。中央にはモノクルをつけた顔だけが埋め込まれている。
「ギギ……ギ……ニク……新鮮ナ、ニク……」
肉塊が蠢き、濁った声を発した。トカゲの尻尾切りのように逃げ延びた本体はここで都市の汚物を啜り、何とか形を保っていたのだ。あまりにも惨めであまりにも醜い姿。
「……オエッ。これは酷い。夢に出そうです」
氷室が本気で顔をしかめる。景明は氷のように冷たい瞳でその汚物を見下ろした。
「鈴の目に触れさせなくて正解だったな。……存在そのものが公害だ」
景明が右手を軽く掲げる。一瞬にして周囲の湿気が氷の結晶へと変わった。薄暗い地下空間にダイヤモンドダストのような美しい輝きが舞う。
「ヒッ……!?ソ、ソノ冷気ハ……!!」
肉塊の眼が恐怖に見開かれた。本能が告げているのだ。目の前に立つ男が自分にとっての死そのものであると。
「久しぶりだな、蜻蛉。……いや、今はただの蛆虫か?」
景明は優雅に微笑んだ。それは慈悲など欠片もない処刑宣告の笑みだった。
「私の甘い休暇を邪魔した罪と私の婚約者に不快な記憶を植え付けた罪。……償ってもらうぞ」
「ソ、ソコノ、オ前……!助ケテクレ……!オ前ナラ、話ガ通ジルダロウ……!?」
蜻蛉は狂乱し、かつて取引をしたことのある氷室に救いを求めた。だが、氷室は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷淡に言い放った。
「お断りします。……貴方のせいで増えた書類仕事の恨み、たっぷりと晴らせていただきますよ」
氷室がジュラルミンケースを開く。中には呪符が貼られた特殊な杭が並んでいた。
「……掃除の時間です」
氷室の宣告と共に地下空間の空気が凍りついた。それは比喩ではない。景明を中心として、絶対零度の冷気が爆発的に膨張したのだ。ねっとりと流れていた汚水が一瞬で凍結し、壁面の苔やカビが真っ白な霜に覆われる。吐き気を催すような腐臭さえもが冷気によって物理的に封じ込められていく。
「ヒッ、ア……アァッ!?」
肉塊と化した蜻蛉が悲鳴を上げようとする。だがその声は喉の奥で凍りつき、白い吐息となって虚しく霧散した。美しくも残酷な音が地下水道に反響する。それは腐敗した世界を浄化する聖なる音色であり、死へのカウントダウンだった。
「貴様は私の愛する世界を汚した」
景明が一歩、また一歩と氷の床を踏みしめて近づく。革靴の音が硬質に無慈悲に響く。黒曜石のような瞳はダイヤモンドダストの彼方から氷像となりつつある蜻蛉を見据えていた。そこには軍人としての使命感などない。あるのはただ一人の男としての底なしの憤怒だ。
「私の婚約者が貴様ごときに恐怖し、涙を流したという事実。……それだけで貴様がこの世に存在する理由は消滅した」
「タ……助……」
完全に凍りつく直前、蜻蛉の眼が最期の命乞いを訴える。だが、景明は冷淡にその視線を切り捨てた。むしろ、その恐怖に歪んだ顔を見て嗜虐的な笑みさえ浮かべる。
「あの世で悔いるがいい。……西園寺景明の女に手を出した愚かさをな」
景明が右手をかざす。そこに収束するのは青白い雷光。氷で動きを封じ、細胞レベルで脆くし、雷で粉砕する。それは彼の最も得意とする慈悲なき処刑の形式。
「氷雷葬、砕け散れ」
閃光が闇を切り裂いた。鼓膜を揺らす轟音と共に極限まで圧縮された雷撃が氷像を直撃する。瞬きする間もなかった。
蜻蛉だったものは断末魔を上げる暇もなく、細胞の一つ一つに至るまで粉々に砕け散り、プラズマの熱で蒸発した。後に残ったのは舞い落ちるダイヤモンドダストと完全に浄化され、ガラスのように透明になった壁面だけ。悪臭すらも焼き尽くされ、そこには無機質な冬の匂いとオゾンと氷の清冽な香りだけが漂っていた。
「……ふぅ。相変わらず、容赦がないですね」
氷室が呆れたように眼鏡の曇りを指で拭った。彼の足元まで氷が迫っていたがギリギリのところで制御されていたようだ。
「加減はしたつもりだ。……これ以上やると地上のマンホールが吹き飛び、帝都中が停電する」
「十分吹き飛びそうでしたよ。……ですが、これで完全に終わりましたね」
氷室がジュラルミンケースを閉じる。景明は白手袋を脱ぎ捨てると残った雷の余波でそれを灰にして捨てた。汚れた空気に触れたものなど、一ミリたりとも屋敷には持ち帰れない。
「ああ。……帰るぞ、氷室」
「おや、事後処理は?」
「貴様に任せる。……私には待っている人がいるのでな」
景明は踵を返すと迷いのない足取りで出口へと向かう。その背中は憑き物が落ちたように晴れやかで早くも帰宅後のことを考えているような甘い熱を帯び始めていた。
「……はいはい。どうぞ、愛の巣へお帰りください。私はここでネズミの死骸と戯れてから帰りますよ……ちくしょう」
氷室の憎まれ口を背中で受け止めながら、景明は梯子に手をかけた。頭上のマンホールの隙間からは微かに朝の光が漏れ始めていた。
同時刻。西園寺邸、鈴の部屋。カーテンの隙間から白々とした朝の光が差し込んでいた。鈴は一睡もせず、窓辺の安楽椅子に座り続けていた。その膝の上にはあの小箱が乗せられている。不快な音を立てていた瓶の中の肉片。
それが突如、大きく跳ね上がり、音もなく、灰のように崩れ去った。赤黒かった肉塊は乾燥した砂のような残骸となり、瓶の底に静かに沈殿した。同時に部屋の中に漂っていた微かな不快感、肌にまとわりつくような湿度が嘘のように消え去る。まるで最初から悪夢など存在しなかったかのように。
「……終わったのですね」
鈴は深く、安堵の息を吐き出した。張り詰めていた緊張の糸が切れ、体の力が抜けていく。涙が滲んだ。悲しいからではない。守られたことへの感謝と彼が無事であるという確信が胸いっぱいに広がったからだ。
鈴は立ち上がり、鏡の前へ向かった。徹夜のせいで少し顔色は白いが瞳の輝きは失われていない。乱れた着物の襟を直し、髪を整える。
(お出迎えしなくては)
彼が帰ってくる。勝利を携えて、愛する婚約者が帰ってくるのだ。鈴は小走りで部屋を出て、階段を駆け下りる。すると重厚なマホガニーの扉が音もなく開く。朝霧を纏って入ってきたのはインバネスコート姿の景明だ。
夜の冷気と朝の清冽な空気を身に纏い、その表情は少し疲れているがどこまでも美しく、そして色気が増している。彼はホールに足を踏み入れた瞬間、階段の上に立つ人影に気づき、動きを止めた。
「……鈴」
鈴は階段の踊り場で手すりに身を乗り出すようにして彼を見下ろしていた。朝の光が彼女の矢絣の着物を柔らかく照らしている。
「……お帰りなさい、西園寺様」
鈴の声は震えていた。けれど、それは恐怖ではない。万感の思いを込めた、温かい響きだった。その言葉を聞いた瞬間、景明の瞳から鬼の色が完全に消え去った。
「ああ……ただいま。鈴」
景明はホールの中央へと歩み寄る。鈴もまた階段を駆け下り、彼のもとへと飛び込んだ。冷たいコートの感触。けれど、その奥にある彼の体温は火傷しそうなほど熱い。
景明は鈴を強く抱きしめ、その髪に顔を埋めた。消毒液でも火薬でもない、鈴だけの陽だまりの匂いを貪るように吸い込む。
「……起きていたのか」
「はい。……だって、西園寺様が悪い虫を退治してくださるのを待っていましたから」
鈴は彼の背中に腕を回し、恥ずかしなりながらも誇らしげに告げた。その言葉に景明はハッとして顔を上げた。
「……気づいていたのか」
「もちろんです。……私は貴方の婚約者ですから」
「……フッ、そうか。敵わないな」
景明は観念したように苦笑し、鈴の頬を両手で包み込んだ。隠し事をしていた自分が滑稽に思えるほど、彼女の瞳は全てを見透かし、そして受け入れてくれている。その信頼がどんな勲章よりも心地よかった。
「全て終わらせてきた。……もう二度と君を脅かすものは何もない」
「はい。……信じておりました」
見つめ合う二人。言葉はいらなかった。ただ、互いの鼓動と体温を感じ合うだけで魂が溶け合うような充足感があった。大理石の床に伸びる二つの影が朝日に照らされて一つに重なる。
「……さて」
不意に景明が鈴を軽々と抱き上げた。所謂、お姫様抱っこである。
「きゃっ!?さ、西園寺様!?」
「徹夜をさせた詫びをしなくてはな。……少し、一緒に眠ろうか」
景明は悪戯っぽく微笑み、そのまま二階の彼自身の寝室の方へと歩き出す。鈴の心臓が早鐘を打つ。彼の腕の中は逃げられない檻であり、世界で一番安全な場所でもあった。
「それに忘れていないだろう?私の謹慎期間はあと五日もある」
「あ……」
「遅れた分を取り戻すくらい、君を甘やかしてもバチは当たらないだろう?」
その声は砂糖菓子よりも甘く、そして逃れられない蜜の粘り気を帯びていた。景明の顔が近づく。今度はもう、逃げる隙など与えてくれない。
「……安心しろ。何もしない。ただ、君が眠るまで抱きしめているだけだ。……だが、腕の中から逃がすつもりはないぞ?」
鈴は顔を真っ赤にして、彼の胸に顔を隠した。けれど、その服の裾を掴む手は拒絶ではなく、確かな同意を示していた。
「……し、心臓が持ちませんので……お手柔らかにお願いします……」
消え入りそうな声で呟く鈴に景明は喉を鳴らして笑い、愛しさを込めてその額にキスを落とした。
「善処しよう。……だが、君の可愛らしさ次第だな」
朝日が二人を祝福するように包み込む。長かった戦いの夜は明け、硝子の迷宮は砕け散った。ここから始まるのは誰も邪魔できない、二人きりの甘美な檻の中での生活だ。




