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第23話

 遠くで時計塔の鐘が鳴った。それは偽りの舞踏会の終わりと、命と尊厳を懸けた殺し合いの始まりを告げる合図だった。

 破裂した巨大水槽から溢れ出した濁流はあっと言う間に大理石のフロアを浅瀬に変えていた。華やかな舞踏会場は一転、湿り気を帯びた沼地のような様相を呈している。足首まで浸かるその液体はただの水ではない。海草が腐ったような甘ったるい死臭。そして足を踏み出すたびに糸を引く、生理的な嫌悪感を催す粘り気。 硝子の破片が散らばる水面にはシャンデリアの光が油膜のように毒々しく反射していた。

「さあ、開演です。私の愛しい観客たち」

 汚濁の水面の上に蜻蛉は優雅に立っていた。  アメンボのように表面張力を操り、革靴の爪先すら濡らしていない。 仕立ての良い漆黒の燕尾服に純白の蝶ネクタイ。その左目に妖しく煌めく片眼鏡だけが彼の異常性を物語っている。彼はまるで指揮者のように白手袋をはめた両手を広げた。

「ひっ、化け物......!」

「逃げろ!出口はあっちだ!」

 パニックに陥った紳士淑女たちが水飛沫を上げて出口へ殺到しようとする。 だがその一歩目は踏み出せても二歩目は永遠に訪れなかった。 悲鳴を上げて床についた手も、膝も、強力な接着剤に触れたかのように離れない。 獲物を捕らえた食虫植物の消化液のように蠢く粘液が、瞬く間にゲル状に硬化し始めていたのだ。

「おやおや。せっかくのショーです、最前列でご覧なさい」

 蜻蛉は片眼鏡の奥で細めた目を三日月のように歪め、恐怖に顔を歪める人質たちをうっとりと眺めている。

「素晴らしい……!その恐怖に濡れた瞳!震える心臓の鼓動!これこそが私の求めていたバックグラウンドミュージックです!」

 異様な熱気と狂気に包まれる会場の中で唯一、冷徹な静寂を保っている空間があった。

「……悪趣味な演奏だ。耳が腐りそうだぞ、下郎」

 絶対零度の声と共に空気が凍てつく。ホールの最奥。そこだけが青白い氷の防壁によって粘液の侵入を徹底的に拒絶していた。景明は氷の結界の中央に立ち、左手で分厚い氷の壁を展開し続けながら右手で鈴の肩を強く抱き寄せている。

「西園寺様……!」

 鈴は景明の胸元に顔を埋め、震えていた。 彼女が纏うドレスはこの薄暗く湿った絶望的な状況下で唯一の希望の光のように見える。だが、そのドレスの裾もまた、床の惨状に触れないよう、景明によって完璧に守られていた。

「あらあら、西園寺少佐。随分と怖い顔をしていらっしゃる。……ですが、その方がずっと素敵ですよ。獲物を食い殺そうとする野獣の目がよく見えますから」

 蜻蛉があざ笑うように水面を滑り、氷の壁の目の前まで迫った。服の裾が翻るたび、腐った水の臭いが鼻孔を突く。

「貴様……。よくも私のデートを台無しにしてくれたな」

「デート?いいえ、これは公開処刑ですよ。……貴方と、その小娘のね」

 蜻蛉が指を鳴らす。瞬間、彼の手のひらから高圧のウォーターカッターが放たれた。

 景明は即座に氷の厚みを増す。甲高い音と共に氷と水が激突し、ダイヤモンドダストのような飛沫が散る。

(チッ……重い!)

 景明は奥歯を噛み締めた。ただの水流ではない。蜻蛉の操る水には得体の知れない“重み”と“粘り”がある。氷で弾こうとしても表面に張り付き、そこから内部へ浸透しようとしてくるのだ。

「西園寺様!あ、足元!」

 鈴の悲鳴に近い警告。見れば、氷壁のわずかな隙間から染み込んだ粘液が蛇のように床を這い、背後で固まっているゲストたちの方へと伸びていた。

「助けてくれぇ!」

「西園寺くん!こっちに来るぞ!」

 逃げ場を失い、床に固定されたままのゲストたちが絶叫する。彼らは今や、単なる観客ではなく、景明の動きを封じるための人質だった。

(……クソッ!)

 景明は心の中で毒づいた。自分と鈴だけを守るなら造作もない。だが、ここにいる民間人を見捨てるわけにはいかない。それが帝国軍人としての矜持であり、何より鈴がそれを望まないことを知っているからだ。彼は展開していた氷の領域を、会場全体を覆うドーム状へと強制的に拡張した。

「凍れッ!!」

 空気が軋む音と共に床を這う粘液ごと、ゲストたちの足元を瞬間凍結させる。氷の枷で粘液の進行を止めたのだ。これで彼らが消化されることはない。だが、その代償として景明の演算能力の大半が広域防御に割かれることになった。

「あはは!お優しいですねぇ西園寺少佐!そんなに手広く守って、肝心の手元がお留守になっていませんか?」

 蜻蛉は見透かしたように優雅に一礼すると、両手を天に掲げた。天井に残っていた配水管が破裂し、そこから酸の臭気を放つ緑色の粘液が雨のように降り注ぐ。

「西園寺少佐、貴方は邪魔ですねぇ。その堅苦しい氷の鎧……」

 氷のドームに粘液が触れた瞬間、肉が焼けるような音が響いた。酸だ。それも極めて強力な。

 景明が作り出した氷が飴細工のように溶かされ、黄色い煙を上げて腐食していく。

「ぐっ……!」

 景明の額に脂汗が滲む。氷の生成速度よりも溶解速度の方が速い。

「その腕の中のカナリアだけをそぉっと溶かし出してあげましょう。……私の消化液で服も、皮膚も、トロトロにねぇ」

 蜻蛉の声はまるで愛を囁くように甘く、そして嘔吐くほどに不快だった。

「ふざけるな……ッ!」

 景明は鈴を抱く腕に力を込めた。骨が軋むほどの抱擁。それは恐怖からではなく、絶対に離さないという意志の表れだ。景明の視界には敵の姿が映っている。だが、同時に守るべきものの多さが彼の手足を縛っていた。

「鈴。……耳を塞いでいろ」

「え?」

「私の愛の囁き以外は聞くなと言っている。……こんな下劣な羽虫の羽音など、君の鼓膜に入れる価値もない」

 景明は強がりを言ったがその横顔には余裕がない。広範囲の防御、酸による侵食、そして人質。状況は圧倒的に不利。

(まずはこの“粘り気”をどうにかしなければ……!)

 鈴は景明の胸の中で彼の心臓が早鐘を打っているのを感じていた。タキシード越しに伝わる体温と張り詰めた筋肉の微かな震え。最強の異能者である彼が脂汗を流している。その事実が敵の異常さを物語っていた。

 その静かな胎動をかき消すように頭上では破滅の音が響き続けている。鼓膜にへばりつくような不快なノイズ。それは蜻蛉が天井の配管から降らせた強酸性の粘液が景明の展開した氷のドームを物理的に“捕食”している音だった。

 透明度を誇った氷壁は、いまや黄色く濁った泡を吹き、醜くただれている。

「くっ……!」

 景明の喉から苦悶の唸りが漏れた。彼は左手を高く掲げ、掌から膨大な冷気を放出し続けている。溶かされた端から凍らせ、穴が空く寸前で塞ぐ。その繰り返しだ。だが、それは単なる修復作業ではない。今は床の粘液に足を捕らわれ、恐怖に震える人質たちを覆う広大なドームを維持しながら、同時に鈴を守るための高密度の結界も維持しなければならない。

 脳が焼き切れそうなほどの演算処理。血管を冷たい泥が流れるような、能力枯渇の倦怠感。額から流れ落ちる汗は頬を伝う前に凍りつき、氷の粒となって床に落ちた。

「ふぅん……。随分と粘りますねぇ、西園寺少佐。氷の要塞に閉じこもって、お姫様を守る騎士気取りですか?」

 蜻蛉が氷壁の向こう側でつまらなそうに首を傾げた。燕尾服を濡らすことなく水面に立つその姿は歪んだ鏡に映った紳士のようだ。片眼鏡の奥で赤い瞳が嗜虐的な光を帯びて明滅する。

「ですが、物理的な身体は守れても……“心”の防壁はどうでしょう?貴方と、その愛しいカナリアの精神は私の体液(みず)で防げますか?」

 蜻蛉が優雅に濡れた指先を鳴らした。乾いた音が湿った空気を裂いた、その瞬間だった。景明と鈴の周囲を取り囲んでいた氷の壁が内側から変質した。否、氷ではない。いつの間にか微細な霧となって結界内に侵入していた蜻蛉の水分が薄い膜となって氷の内側に張り付き、全方位を囲むスクリーンを作り出したのだ。

「水鏡の幻覚。さあ、特等席へご招待しましょう。チケットは不要ですよ」

 世界が反転した。舞踏会場の悲鳴や氷が軋む音が遮断される。代わりに鼓膜を震わせたのは湿っぽく、反響する水音。そして、鼻腔を強烈に刺激する、むせ返るような湯気と石鹸の香り。

「……え?」

 鈴の心臓が早鐘を打った。その光景に見覚えがありすぎたからだ。白く冷たいタイル。無機質で広大な空間。高い天井から滴り落ちる結露。そこは西園寺邸の、あの夜の浴室だった。

(どうして……?私、今、舞踏会に……西園寺様の腕の中にいたはずなのに……)

 混乱する鈴の視界の中で湯気が生き物のように動く。その白い煙の向こうに誰かがいた。湯船に深く浸かり、無防備な背中を晒している少女。それは紛れもない“小鳥遊鈴”自身だった。

 だが、その光景には記憶と決定的な相違があった。あの夜、襲撃を受けた瞬間の鈴はまだ湯船には浸かっていなかったはずだ。それなのに幻影の中の彼女は湯に沈められ、あまつさえその水面は吐き気を催すほど黒く、汚く濁っているのだ。

「いや……っ!」

 鈴の喉から、ひきつけを起こしたような悲鳴が漏れる。幻影の中の鈴は気づいていない。その白磁のような肌に濁った水面から、半透明の触手が無数に音もなく這い寄っていることに。

「見えますか?西園寺少佐。そして愛しい鈴さん」

 幻覚の映像に合わせて、蜻蛉のねっとりとした声が耳元ではなく脳髄に直接響いてくる。まるで脳のシワの隙間にナメクジが入り込んだような、おぞましい感覚。

「あの夜、もしも私が、ただお風呂を覗くだけで満足していなかったら……。もしも、もっと貪欲にその果実を味わっていたら……という“あり得たかもしれない未来”ですよぉ」

 卑猥な水音と共に幻影の中の触手が動いた。一本が鈴の華奢な足首に絡みつく。もう一本が発達途中の膨らみを持つ胸元へと這い上がる。そして太い一本が太ももの内側へと滑り込む。

「ひっ……!?」

 現実の鈴が体を跳ねさせた。幻覚だ。わかっている。けれど感覚がリンクしている。冷たくて粘液の感触がドレスの下の肌にリアルに蘇る。吸盤が肌に吸い付き、這い回るおぞましい感触が全身の鳥肌を立たせる。

「やだ……!やめて……!入ってこないで……!」

 鈴はその場に崩れ落ちそうになりながら、自分の体を抱きしめ、震え出した。あの時の恐怖。誰にも見られていないはずの場所で誰かの視線を感じた時の底冷えするような悪寒。それが何倍にも増幅され、暴力的な接触となって襲いかかってくる。

「いい声で鳴きますねぇ。恐怖に濡れた声は最上の蜜の味がする」

 映像の中の鈴が触手に絡め取られ、力なく濁った水面に沈められていく。もがく手足が水面を叩くが粘りつく水は彼女を逃さない。張り付いた濡れた髪。恐怖に見開かれた瞳。そして乱れた着衣ならぬ裸身。

「ほら少佐、よく見てください。特等席ですよ?貴方の高潔な婚約者が私の体液(みず)に塗れて、こんなにあられもない姿を晒しているんですから!」

 蜻蛉の哄笑が反響する浴室の幻影の中で増幅される。これは単なる攻撃ではない。鈴にとっては“過去の凌辱の具現化”。そして景明にとっては“守るべき者の尊厳を踏みにじられる屈辱”。

「見ないで……!西園寺様、見ないでぇっ!」

 鈴は泣き叫び、景明の胸に顔を押し付けた。よりによって、一番愛する人に一番見られたくない汚れた姿を見せつけられている。その事実が鈴の心をガラス細工のように砕いていく。

 その時、鈴の頭上で大気が爆ぜるような音がした。雷鳴ではない。それは景明の理性が焼き切れ、激情が沸点を超えた音だった。

「……貴様」

 地獄の底、否、奈落のさらに奥底から響くような、低く、重い声。

 景明は震える鈴の頭を大きな手で覆い、彼女の顔を自身の胸に埋め込ませた。その視界を、聴覚を、物理的に遮断するために。

「私の鈴を……薄汚い妄想で汚すな」

 景明が顔を上げた。双眸が見開かれている。その瞳孔は収縮し、白目の部分には無数の血管が浮き出ていた。普段の怜悧な知性は消え失せ、そこにあるのは自らのテリトリーを侵された雄の原初的な殺意のみ。

 景明の全身から青白い雷光が舞った。制御されていない純粋な怒りのエネルギーが周囲の氷壁に亀裂を入れる。氷が溶けるのではない。景明の放つ熱量で昇華しているのだ。

「趣味が悪いなどという次元ではない。……貴様という存在はこの世界の虫だ。その腐った眼球ごと脳髄まで焼き尽くし、魂の欠片すら残さず消滅させてやる」

 景明の全身から放たれる殺気が物理的な圧力となって大気を揺らす。そのあまりの激昂に蜻蛉が作り出した精緻な幻覚映像すらもノイズが走り、映像が歪み始めた。

「おや、怖い怖い。……ですが、怒りに我を忘れて大丈夫ですか?そんなに感情的になっては氷のコントロールが乱れますよ?ほら、あの大勢の客の上に酸の雨が落ちてしまうかもしれませんねぇ」

 蜻蛉は笑い、余裕たっぷりに肩をすくめた。人質を盾にした卑劣な脅し。だが、景明はもう、守勢に回るつもりは微塵もなかった。彼の背後で龍の顎のように雷が鎌首をもたげる。

「鈴」

 景明は鈴の耳元で短く囁いた。怒りで震える声ではなく、嵐の前の静けさのような、恐ろしいほど静謐でそれでいて限りなく優しい声で。

「目を閉じていろ。……今の私は君に見せられる顔をしていない」

 鈴が小さく頷くのを確認すると景明は彼女を抱き寄せる腕に力を込めたまま、もう片方の手で空間を握り潰すように構えた。

 景明の右手に青白いプラズマが収束していく。それは単なる放電現象ではない。大気中の電子を無理やり凝縮させ、物理的な質量を持つほどのエネルギー球体へと練り上げている音だ。

 高密度の魔力が溢れ出し、周囲の空間を焼き焦がす。オゾン特有の生臭さと金属が焼け付くような鋭い匂い。呼吸をするたびに肺の中まで痺れるような静電気が入り込んでくる。

「消えろ。その穢れごと分子レベルで弾け飛びやがれッ!!」

 景明の喉から雷鳴をも凌駕する咆哮が迸った。普段の彼ならば、これほどまでに感情を露わにすることはあり得ない。氷のように冷徹で機械のように正確な指揮官。それが西園寺景明という男の本質だ。

 だが、今の彼は違った。鈴に対する卑劣極まりない精神的凌辱。その事実が彼の中にある理性のブレーキを完全に焼き切っていたのだ。今の彼の視界には防御などという概念はない。ただ目の前の害虫、蜻蛉をこの世から消滅させること。細胞の一片、魂の残滓すら残さず、徹底的に破壊し尽くすこと。

 その殺意のみが彼を突き動かす原動力となっていた。いわゆる捨て身の攻撃一辺倒。だが、それこそが狡猾な策士である蜻蛉が待ち望んでいた最大の好機だった。

(……ククッ、単純な男だ。怒りで視野が狭くなっていますよ?)

 蜻蛉は仮面の奥で三日月のように目を細めた。

 景明の強大な魔力が攻撃に回された分、足元を守る氷の結界が薄氷のように脆くなっていることに気づいていないはずがない。いや、気づいていても“撃たれる前に撃ち滅ぼせばいい”という傲慢な過信が彼の判断を鈍らせているのだ。

「頂きっ!」

 蜻蛉の燕尾服の背中が音もなく裂けた。そこから射出されたのは半透明の粘液で構成された触手。だが、それは景明の心臓を狙ったものではない。触手は空中で軌道を変え、

 汚濁の水面に音もなく潜り込んだ。視界の悪い泥水の中を海蛇のような滑らかさで滑走する。

 目指すは景明の死角。彼が背中で守っているつもりになっている、か弱き少女の足元だ。

 鈴は震えていた。景明の背中越しに伝わってくる、灼熱のような怒りの波動。そして足元の水面から漂ってくる腐った沼のような冷気。相反する二つの温度が彼女の感覚を掻き乱す。

(西園寺様が……あんなに怒っていらっしゃる)

 それは恐怖でもあったが同時に胸が締め付けられるような切なさでもあった。彼は鈴のために怒っている。自分の尊厳を守るためにその身を焦がすほどの熱量を発している。けれど、そのせいで彼は隙だらけだ。

 不自然な水音が、鈴の耳元で小さく響いた。激しい雷鳴にかき消されそうな、微かな音。だが、神経を研ぎ澄ませていた鈴だけがその違和感を捉えた。

 視線を落とす。景明の足元の氷が溶け出し、黒い水溜まりができている。その水面が大きく泡立っていた。

(……来る!)

 直感が警鐘を鳴らす。以前の鈴なら、ただ悲鳴を上げて景明にしがみついていただろう。だが、今の彼女は違う。繭の中での悪夢を乗り越え、“守られるだけの存在にはならない”と誓ったのだ。

 予測通り、水面が爆発した。鈴のすぐ背後から、太い触手が鎌首をもたげた。それは先程の幻覚のような不確かなものではない。圧倒的な質量と骨をも砕く締め付け力を持った、凶悪な捕食器官だ。先端がヌラリと開き、無数の牙のような突起が鈴の細い足首へと喰らいつこうと迫る。

「しまっ」

 景明が気づき、雷撃を中止して振り返ろうとする。だが、遅い。攻撃のために能力を放出しすぎた彼の反応速度ではコンマ一秒、間に合わない。

 絶望的な距離。しかし、その瞬間、動いたのは最強の軍人ではなかった。

「お願い!西園寺様を!彼を守って!」

 鈴の声が戦場に凛と響いた。それは助けを求める悲鳴ではない。自身の力に命じた、明確な起動の声。

「え……?」

 景明の目の前で鮮やかなカナリア色が翻った。

 鈴は逃げなかった。怯えて縮こまるどころか、迫りくる触手に対して、自ら一歩、力強く踏み込んだのだ。重厚なドレスのスカートが闘牛士のマントのように大きく舞う。

 鈴は計算していたわけではない。ただ、本能が告げていたのだ。このまま景明が無理な体勢で防御に戻れば、彼は魔力の逆流で傷つく。

 ならば鈴自身が動くしかない。己の身は自分で守る。そして、彼の剣となるのだ。彼女は襲いかかる触手の鼻先へ、自身のドレスの裾を叩きつけるように広げた。

(いける……!私が一針一針に込めた、あの願いなら!)

 脳裏に浮かぶのは、数日前の夜。西園寺邸の一室で祈りを込めるように、熟練した指先を舞うように走らせ、一心不乱に針を動かしていた自分の姿だ。これは華やかなパーティーのためのドレスではない。これは、戦装束だ。彼が傷つかないように。彼に仇なすものが近づかないように。そんな祈りにも似た念を込め、金色の糸で編み上げた幾何学模様。瞬間。薄暗い舞踏会場に黄金の閃光が舞った。

 鈴のドレスの裏地、そこに隠されていた模様が一斉に発光したのだ。正三角形を上下に組み合わせた六芒星。びっしりと隙間なく縫い込まれた数千、数万の縫い目。その一本一本の糸が鈴の異能、修復の力を帯びた導線となり、強力な退魔の結界となって顕現した。触手がドレスの裏地に触れた瞬間、生肉を灼熱の鉄板に押し付けたような激しい音が響いた。

「ギ、ギャアアアアアッ!?」

 蜻蛉の口から、紳士にあるまじき絶叫が迸る。触手の先端が高熱に焼かれたように白く変色し、沸騰している。だが、これは単なる熱ではない。鈴の持つ修復の力、それは“あるべき姿に戻す”力だ。

 蜻蛉が魔力で無理やり維持している粘液という不自然な形態をただの水へと強制的に還元しているのだ。

「な、なんですかこの不快な布はァ!?熱い!痛い!私の美しい流体ボディが、ただの真水に戻されていくぅ!?」

 蜻蛉は慌てて触手を引き戻そうとするが籠目の光は鎖のように絡みつき、邪悪な魔力を中和し続ける。白煙を上げ、触手が無残に崩れ落ちていく。残ったのはただの水たまりだけ。

「この刺繍は……ただの飾りじゃありません!」

 鈴はドレスの裾を両手でしっかりと掴み、蜻蛉の触手を睨み据えた。その瞳にはもう涙はない。愛する人を守るために戦う、強き女性の瞳だった。カナリア色のドレスは今や黄金の鎧のように輝いている。

「貴方が見せた幻覚なんて怖くない。……だって、今の私は一人じゃないもの。このドレスには西園寺様への想いが全部、詰まっているんですから!」

 光の粒子が舞う中、鈴の背中は以前よりもずっと大きく、頼もしく見えた。それはか弱いヒロインの姿ではない。共に戦場を駆ける、戦乙女の姿だ。

「鈴……」

 景明は呆然とその光景を見ていた。守るべき対象だと思っていた。硝子細工のように脆く、自分の背中に隠れていればいい存在だと思っていた。だが、違った。彼女は今、自分の隣に立ち、敵の攻撃を受け止めている。しかも自分の異能ではなく、彼女自身の努力と想いによって。

 景明の胸の内で燻っていたドス黒い怒りが急速に冷えていくのを感じた。それは怒りが消えたのではない。不純物が取り除かれ、より純粋で鋭利な殺意へと昇華されたのだ。

 暴走寸前だった力が再び彼の支配下に戻り、整然と循環し始める。信頼できる相棒を得た指揮官の冷徹な判断力への回帰。

「……ははっ」

 景明は短く笑った。獰猛でそれでいて最高に楽しげな笑みを浮かべて。

「よくやった、鈴!……まさか、君に背中を預ける日が来るとはな」

 景明の手から迷いが消えた。防御のためのリソースを割く必要はない。なぜなら彼の最愛の婚約者は最強の盾を持っているのだから。

「蜻蛉。貴様は致命的なミスを犯した」

 景明が一歩、前へ出る。その足元の氷が音を立てて広がり、濁った水を侵食していく。彼の背後には鈴が背中合わせに立っている気配がある。その温もりが彼に無限の力を与えていた。

「彼女はただのカナリアではない。……私の魂を繋ぎ止める、唯一の“錨”だ」

 右手に滞留していた雷撃が、形を変える。無秩序な拡散から、一点集中の貫通形態へ。青白い雷光が螺旋を描き、巨大な雷槍となって景明の腕に形成された。

「さあ、攻守交代だ。……そのふざけた触手を二度と伸ばせないよう、根元から断ち切ってやる」

 空気が熱膨張を起こし、低く唸る。そのエネルギー量は直視すれば網膜が焼けるほどの輝きを放ち、周囲の空間が熱で揺らいで見えるほどだ。肌を刺すような高密度の静電気が舞踏会場の空気を極限まで張り詰めさせる。髪の毛が逆立つような不快感と喉元にナイフを突きつけられたような緊迫感。

「ひぃっ……!?」

 蜻蛉は本能的な恐怖に後ずさった。先程までの余裕ある紳士の仮面は剥がれ落ち、複眼のマスクの下から覗く唇が引きつったように震えている。

 鈴の刺繍によって武器を焼かれ、景明という雷神にロックオンされた今、彼にあるのは死の予感のみ。

「ま、待ちなさい!西園寺景明!ここでそんな高出力の雷を放てば、貴方の足元の水、つまり会場全体に電気が伝導して、人質たちも黒焦げですよぉ!?」

 蜻蛉は必死に叫んだ。床は彼の粘液と破壊された水槽の水で浸水している。水は電気を通す。景明が攻撃すれば、動けないゲストたちも巻き添えになる。それが彼の最後の命綱だった。だが。景明は嗤った。

「誰が“このまま”撃つと言った?」

「え?」

「時間だ。……カーテンコールの準備はいいか?支援者殿」

 景明が天井の一角、VIP席があるバルコニーへ向けて視線を投げた。そこには真紅のカーテンの隙間から、冷ややかな視線で戦況を見下ろす一人の令嬢の姿があった。

 麗華は手元にある真鍮製のレバーに手をかけ、優雅に微笑んだ。

「ええ。……私の会場を汚した清掃代、高くつきますわよ?」

 重厚な金属音が要塞全体に響き渡った。次の瞬間。会場の四方にある巨大な給水口が一斉に開放された。怒涛の勢いで流れ込んできたのは生ぬるい粘液でも、穏やかな真水でもない。鉄錆のような匂いと荒々しい潮の香りを纏った大量の海水だった。

「な、なんですってぇぇぇ!?」

 蜻蛉が素っ頓狂な悲鳴を上げる。奔流となった海水は床の粘液を洗い流しながら水位を上げ、瞬く間に蜻蛉の膝元まで到達した。

「い、痛い!痛い痛い痛いッ!!肌が、私の純粋な水分がキシキシするぅぅ!」

 蜻蛉がまるで熱湯を浴びせられたかのように身をよじった。彼は真水を自在に操る異能者。不純物を含まない水こそが彼の身体であり、力そのものだ。だが、海水は違う。塩分、プランクトン、無数のミネラル。彼にとっての不純物が大量に含まれた海水は彼の流体ボディの結合を阻害し、神経をやすりで削るような激痛を与える猛毒なのだ。

「貴様が嫌う不純物たっぷりの海水浴だ。楽しめ」

 景明の声は冷酷だった。海水が満ちたことで粘着質だった床の拘束力が弱まる。同時に彼は左手で床を叩いた。

「凍れ」

 海水が触れた端からゲストたちの足元だけをピンポイントで凍結させていく。絶縁体である氷の靴を履かせることで感電のリスクをゼロにしたのだ。枷は外れた。

「あ、あぁ……あぁぁ……」

 蜻蛉は絶望した。海水による弱体化。人質の保護完了。そして目の前には臨界点を超えた雷撃。詰みだ。

「鈴、君の刺繍が作った道、無駄にはしない」

「はい……!決めてください、西園寺様!」

 景明は背中合わせの婚約者に声をかけた。鈴もまた力強く肯定した。それを合図に景明は右手の雷槍を蜻蛉の足元、海水が渦巻く水面へと突き立てた。

「雷光一閃!!」

 世界が白一色に染まった。鼓膜を破壊するほどの轟音と共に数億ボルトの電流が海水を伝導し、逃げ場のない蜻蛉の身体へと殺到する。

 塩水は真水よりも遥かに電気を通しやすい。今の蜻蛉は電気椅子ならぬ“電気プール”の中心に立たされているも同然だった。

「ギョエエエエエエエエエッ!?!?熱いッ!痺れるぅぅ!私の、私の美しい細胞がぁぁぁ!!」

 断末魔の叫び。だが、それも一瞬で掻き消える。蜻蛉の身体を構成する水分が超高熱の雷撃によって瞬時に沸騰したのだ。内側から水蒸気爆発を起こし、蜻蛉の四肢が風船のように膨れ上がり、そして弾け飛んだ。

 汚れた水が蒸発し、白い煙となって虚空へ消えていく。燕尾服も片眼鏡もその中の肉体ごともろともに分子レベルで分解され、焼き尽くされていく。

「おのれぇぇぇ!西園寺景明ィィィィ……!!」

 怨嗟の声が爆音の中に溶けて消えた。後にはもうもうと立ち込める水蒸気と鼻をつく焦げ臭い匂いだけが残された。

 しばらくして放電の残滓音が止むと会場には静寂が戻ってきた。海水は排水溝へと引いていき、ゲストたちの足元を固めていた粘液も主を失ったことで崩れ去っていた。

「……終わった、のか?」

 誰かが呟いた。その言葉を皮切りに会場全体から安堵の溜息と歓声が爆発した。

「助かった……!」

「西園寺くんがやってくれたぞ!」

 拍手が巻き起こる中、景明はゆっくりと息を吐き、乱れた呼吸を整えた。右手の雷光を霧散させ、疲労した瞳で隣に立つ少女を見る。

「鈴。……怪我はないか?」

 第一声は勝利の宣言ではなく、彼女への気遣いだった。鈴は少し煤で汚れたドレスの裾を払い、誇らしげに微笑んだ。

「はい。……だって、西園寺様が守ってくださいましたから」

「……逆だ。君が私を守ったんだ」

 景明は鈴のドレスの裏地、金色の籠目の刺繍に指先で触れた。その指は戦いの高揚感からか、まだ微かに震えている。彼は愛おしそうに、そして懺悔するように、鈴の体を抱き寄せた。

「すまない。……あんな、汚らわしいものを見せた」

 耳元で囁かれる声には深い後悔が滲んでいた。幻覚とはいえ、過去の傷をえぐられた鈴の心を彼は何よりも案じていたのだ。

 鈴は景明の背中に腕を回し、その広い背中を優しく叩いた。

「大丈夫です。……今の私にはこの刺繍があります。何より、今の私は“あの日”の無力な私じゃありません!貴方が隣にいてくれる限り、私はもう、何があっても折れません」

 彼女は景明の胸から顔を上げ、凛とした瞳で彼を見つめた。その言葉に景明は目を見張った。かつて路地裏で震えていた小鳥のような少女はいつの間にか、嵐の中でも歌い続ける強きカナリアへと成長していたのだ。

「……ああ。君の勝ちだ、鈴」

 景明は屈服したように微笑むと、鈴の額に恭しく口づけを落とした。それは心からの敬愛と誓いのキスだった。と、その時、鈴の視線が床の片隅に向けられた。 排水溝の入り口に何か黒いものが引っかかっている。

「あれは……」

 鈴が駆け寄る。そこにあったのは焼け焦げて炭化した、蜻蛉の触手の一部だった。鼻をつく焦げ臭い匂い。だが、奇妙なことに本体が消滅したはずが、その肉片はまだ痙攣を続けている。

「……生きているのか?いや、逃げられたか。トカゲの尻尾切りだな」

 景明が眉を顰めて近づく。彼は鋭い視線で排水溝の奥、暗い海へと続く闇を見据えた。あの爆発の瞬間、蜻蛉は自らの肉体の大半を囮にして沸騰させ、その隙に核となる部分だけを切り離して排水溝から海へ逃亡したのだ。海水によるダメージと雷撃による消耗。おそらく瀕死の状態だろうが完全に仕留めるには至らなかった。

「チッ……。詰めが甘かったか」

 景明が悔しげに拳を握る。だが鈴は意外にも冷静だった。彼女はその気味の悪い尻尾を見つめ、静かに、確信に満ちた声で言った。

「いいえ、西園寺様。……これはチャンスです」

「チャンス?」

「はい。この肉片にはまだ彼の力が残っています。これを辿れば……逃げた本体の居場所が分かるはずです」

 逃亡を許したのではない。敵の本拠地へと繋がる、確実な糸を手に入れたのだ。

 景明は頼もしすぎる婚約者の提案に思わず吹き出しそうになり、そして満足げに頷く。

「……なるほど。地獄の果てまで追いかけて、今度こそ完全に焼き払うか」

「はい。私たちの平穏を脅かすものは許しません」

 二人は顔を見合わせ、共犯者のように微笑み合った。舞踏会は台無しになったが得たものは大きい。確固たる信頼と、反撃の狼煙。

「帰ろう、鈴。……今夜は君の刺繍の話をたっぷりと聞かせてくれ」

「ふふ、長くなりますよ? 覚悟してくださいね」

 景明は鈴を横抱きに抱き上げると、歓声に包まれる会場を後にした。その背中にはもう迷いも、恐怖もない。ただ、未来を切り拓くための強固な意志だけがあった。



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