第22話
運命の夜が訪れた。骨の髄まで凍てつくような帝都の乾いた冬風。だが今夜、帝都湾の沖合に浮かぶその孤島だけは季節の理を狂わせるほどの熱と光、そして噎せ返るような欲望の匂いに包まれていた。
漆黒の海原に蜃気楼のように揺らめく巨大な影、“海狼城”。かつて帝都防衛の要として建造された鉄とコンクリートの塊は今や一夜限りの夢幻の城へとその姿を変えている。
荒波が打ち付ける岸壁には何十隻もの蒸気船がひしめき合い、吐き出される白煙が夜闇を舐めるように漂っていた。本来なら大砲が睨みを利かせていたはずの砲台跡には巨大な探照灯が据えられ、幾筋もの光の柱が冬の星座を串刺しにするように夜空を薙いでいる。
「...... 眩しい。まるで海の上に落ちた星屑の墓場みたい」
船の甲板で鈴は無意識にそう呟いていた。眼下には宝石箱をひっくり返したような光の洪水。だが、なぜか背筋が粟立つような寒気がする。 海風が容赦なく吹き付け、セットしたばかりの髪を乱そうとするが鈴の身体は凍りついたように動かない。いや、動けないのだ。ドレスの下、コルセットで締め上げられた心臓が早鐘を打って痛い。
(怖い......。足が、すくむ)
今夜の鈴はただ令嬢ではない。帝国陸軍きっての鬼少佐である景明の隣で敵を誘い出す“極上の囮”であり、何より彼と共に死地へ赴く“唯一の相棒”として、この偽りの戦場に立たなければならない。
けれど、本能が冷たい汗となって警鐘を鳴らす。この眩い探照灯の光の先には粘着質で底知れぬ悪意に満ちた“あの男”が確実な死の匂いを孕んで待っているのだと。
「...... 震えているな、鈴」
ふいに耳元で熱が爆ぜた。低く、甘く、それでいて腹の底に響く声。振り返ればそこには夜の闇そのものを切り取って仕立てたような漆黒のタキシードを纏った景明が立っていた。
いつもの軍服姿が放つ、触れれば切れるような鋭利な威圧感はない。代わりに漂うのは芳醇な葡萄酒のような大人の色気。白亜のシャツに結ばれた黒の蝶ネクタイ、そしてその端整な顔立ちを。 露わになった瞳は探照灯の光を受けて氷河のように青く、鋭く輝いている。だが、鈴を見つめるその眼差しだけは狂おしいほどに熱を帯びていた。
「西園寺様......」
「私がいる。...... 誰にも、指一本触れさせない」
それは誓いであり、呪縛のような愛の囁きだった。景明が差し出した腕に鈴は恐る恐る指を絡ませる。白い手袋越しに伝わる、彼の体温。硬く引き締まった腕の筋肉が微かに脈打っているのがわかる。その熱が冷え切っていた鈴の指先を、そして凍えていた心を、ゆっくり溶かしていく。
(......温かい。この人が隣にいてくれるなら私は地獄にだって行ける)
鈴は一度だけ深く息を吸い込み、潮の香りと微かな火薬の匂いを肺腑に満たした。恐怖が消えたわけではない。ただ、それを愛おしさで塗りつぶしただけだ。
二人がタラップを降り、要塞の入り口である巨大な鉄扉をくぐるとそこには暴力的なまでの美が広がっていた。無機質なコンクリートの壁は深紅のベルベットと金糸のタペストリーで覆い隠され、剥き出しだった配管は蔦や薔薇の造花で彩られ、あたかも古城の回廊のような重厚さを演出している。天井からはシャンデリア代わりの無数の瓦斯灯が吊るされ、その揺らめく光が来場者たちの宝石や勲章を毒々しいほどに煌びやかに照らし出していた。
ざわめき。媚びを含んだ笑い声。グラスが触れ合う硬質な音。そして奥のホールから漏れ聞こえる管弦楽の調べ。政財界の重鎮、華族、軍の高官たち。招待された数百名の男女がこの“海上の黄金郷”に酔いしれている。
「……よくぞここまで。悪趣味なほどに豪華にしたものだ」
景明が呆れを隠さずに呟くが、その声色には微かな感嘆も混じっている。
鈴もまた、その光景に言葉を失っていた。これらはすべて麗華がたった数日で準備させたものだ。「どうせ沈むなら、派手にした方が面白いでしょう?」と笑った彼女の底知れぬ財力と狂気にも似た行動力がここにある。だが今夜の華は会場だけではない。
エントランスホールに足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が止まった。視線が一斉に二人に、いや景明の隣に立つ、小柄な少女へと突き刺さる。
「あの方が噂の……」
「なんて愛らしい……まるで春を告げる鳥のようだわ」
「あれが、あの血も涙もない“鬼少佐”の心を溶かしたという令嬢か……」
「信じられん。戦場では容赦なく敵を氷漬けにするというあの西園寺少佐があんなにも甘く、熱を帯びた瞳で女を愛でるなど……」
「だが、あの美しい姿と可憐な微笑み。……彼が狂わされるのも無理はない」
ひそひそとした囁きがさざ波のように広がる。鈴が身に纏っているのは鮮やかで儚げなカナリア色のイブニングドレス。
月見草の花弁を思わせる柔らかなシフォン生地が幾重にも重ねられ、動くたびに生地に織り込まれた極小のラメが砂金のように繊細な光を放つ。デコルテや背中といった肌の露出は精緻なレースによって上品に覆われており、扇情的な色気はない。しかし、その禁欲的なデザインこそが鈴の持つ可憐さと内に秘めた芯の強さを際立たせていた。
ふわりと広がるスカートの裾はまるで彼女自身が発光しているかのような錯覚を見る者に与えるカナリア。あるいは闇夜に咲く月見草。それは血なまぐさい要塞には不釣り合いなほどに無垢で誰もが目を離せない存在感を放っていた。
(見られている……。視線が肌に刺さるみたい)
鈴は羞恥で頬を染めながらも扇子を持つ手に力を込めた。
「顔を上げろ、鈴。今の君はこの会場の誰よりも美しい」
景明が誰にも聞こえないほどの吐息混じりの声で囁く。その言葉は鈴の鼓膜を甘く震わせ、背骨に電流のような痺れを走らせた。
鈴が彼を見上げると景明は独占欲に満ちた瞳で口元だけで笑った。
「君に見惚れて不埒な真似をしようとする輩がいれば私がこの海ごと氷漬けにする。……君を見てもいいのは私だけだ」
「……西園寺様。それだと作戦になりません」
鈴が真っ赤になって小声で窘めると景明は「善処する」と楽しげに喉を鳴らした。その時だった。
「あら、ようやくのお着きですのね!待ちくたびれましたわ!」
人垣が割れ、その向こうから強烈な色彩と香水の匂いが押し寄せてきた。周囲の貴婦人たちが霞むほどの圧倒的な存在感。その中心にいたのは主催者である麗華だった。
彼女が身に纏っているのは目の覚めるような牡丹色のドレス。だが、ただの派手なドレスではない。シャンデリアの光を浴びた瞬間、その生地は見る角度によって黄金色へと複雑に偏光し、まるでオーロラそのものを身に纏っているかのような幻惑的な輝きを放った。
豊満な肢体を惜しげもなく晒し、首元には卵ほどの大きさがある大粒のダイヤモンド。扇子を広げ、胸を張って歩くその姿は女王というよりも女帝の貫禄だ。
「麗華さん……!そのドレス、すごい色ですね。光るたびに黄金に見えます」
「当然ですわ!これはオーロラ織りと言って、西洋の最新技術と我が国の西陣織の技術を融合させた特注品よ!」
周囲の令嬢たちが「最新の特注品……」と絶句し、ドン引きする中、麗華は意に介さずに胸を張る。
「成金?ええ、結構ですわ。お父様が汗水垂らして稼いだ綺麗なお金ですもの。何に使おうと私の勝手。それに…」
麗華は悪戯っぽく瞳を細め、鈴のカナリア色のドレスを愛おしげに眺めた。その瞳の奥には成金の傲慢さは欠片もなく、友人を思う純粋な親愛だけが揺れていた。
「私のこの派手さは今夜の主役を引き立てるための額縁のようなもの。……とっても素敵よ、鈴さん」
そう言ってウィンクする麗華に鈴は胸が熱くなった。このドレスは数日前の“ある騒動”を経て選ばれたものだ。麗華は鈴がどれほどの覚悟でここに立っているかを知っている、数少ない理解者だ。
「はい。……麗華さんが背中を押してくださったおかげです。私、頑張ります」
「ふふ、お礼は作戦が終わった後にカフェーのケーキ一年分で手を打って差し上げますわ。……さあ、景明様も。皆様がお披露目を手ぐすね引いて待っておりますわよ」
麗華に促され、景明がわずかに顎を引いて頷く。その視線がふと鈴のドレスに落ちた。柔らかなイエローの布地が鈴の華奢な体を包み込んでいる。今でこそ鈴はこの可憐なドレスを纏い、覚悟を決めてここに立っているがその装いが決まるまでには血で血を洗うような精神的激戦が存在したのだ。
数日前。場所は西園寺邸の応接間。そこには決戦に向けた張り詰めた緊迫感ではなく、むせ返るような甘い香水の匂いと火花散る殺気が充満していた。
「さあ鈴様!敵の懐に飛び込む囮となるからにはこのくらいの覚悟は見せていただきませんと!」
勢いよく広げられたのは目が眩むほど艶めかしい、アメジスト色のシルクドレスを若菜が得意満面で鈴の身体に当てる。その瞬間、若菜から漂う白粉の香りが鈴を包み込んだ。
「ひっ……!わ、若菜さん!?布が……布が物理的に足りません!」
鈴は鏡に映り、自分に当てがわれた凶器を見て悲鳴を上げた。確かに色は深みのある紫で美しい。だが、デザインが凶悪すぎた。背中は腰のくびれまで大胆にカットされ、スカートには太腿の付け根あたりまで鋭いスリットが入っている。歩くたびに白磁のような美脚が露わになる、まさに男殺しの一着だ。
「あら、足りないくらいが丁度よい時もございますよ?今回の相手はあの粘着質なストーカー男なのでしょ?あのような手合いは清純な獲物がふとした瞬間に見せる隙に弱いのです」
若菜は妖艶な流し目を送りながら、鈴の耳元に唇を寄せた。吐息が産毛を撫でる。
「名付けて“美心計特攻服”ですわ!男なんてね、隠されれば隠されるほど、その奥を見たくなる生き物なんですの」
「却下だ」
その場の空気が一瞬にして氷点下まで凍りついた。革張りのソファで腕を組んでいた景明が地獄の底から響くような声で告げる。その端整な顔立ちにある鋭い瞳は絶対零度の冷気を放ち、若菜の持つドレスを汚物でも見るような目で見下ろしていた。
「……若菜。その布切れを今すぐ焼却炉へ放り込め。そんな姿で戦場に出せるか」
「あらぁ、旦那様ったら。戦術的には理にかなっておりますよ?敵の目を釘付けにすれば、それだけ旦那様が攻撃する隙も生まれるというもの」
「敵の目が釘付けになる前に私がその眼球をくり抜くことになる。……それに」
景明は不機嫌そうに眉間の皺を深め、指先で自身のこめかみを指で叩きながら、どす黒い本音を漏らした。
(……私以外の男にその肌を一ミリたりとも見せる気はない。鈴の背中のラインも、足の白さも、すべて私の管理下にあるべきだ。大衆の目に晒すなど言語道断)
「旦那様?心の声が聞こえましたよ!独占欲がお強いこと!」
若菜が屈託なく笑い、鈴が狼狽える中、応接間の重厚な扉が乱暴に開け放たれた。
「お待ちなさい!なんですの!?その貧相な紫色は!」
台風のような突風と共に現れたのは大量の生地見本を抱えた使用人たちを引き連れた、麗華だった。彼女は仁王立ちになり、若菜のドレスを閉じた扇子で指し示す。
「地味!暗い!貧乏くさい!鈴さんはこれから数百人の視線を独り占めにする“舞踏会の華”になるんですのよ!?そんな影みたいな色でどうしますの!会場の壁と同化してしまいますわ!」
「あら宝生様、これは大人の色気というものですわ。成金趣味の金ピカとは格が違いますの」
「なんですってぇ!?これを見なさい!私が用意したのはこれですわ!」
麗華が指を鳴らすと使用人たちが一斉に布を広げる。途端に応接間が黄金の輝きに包まれた。金糸をふんだんに織り込んだ真紅、孔雀の羽をあしらったエメラルドグリーン、そして眩いばかりのロイヤルブルー。どれもこれも、照明がなくとも自ら発光しそうなほど主張が激しい。
「主役は輝いてナンボ!敵の目をおびき寄せるなら、網膜を焼き尽くすくらいのインパクトが必要ですわ!さあ鈴さん、この“黄金の孔雀柄”なんてどうかしら!?」
「れ、麗華さん……素敵ですけど、これだと私が布に着られているというか、歩くミラーボールみたいに……」
鈴の抗議も虚しく、麗華と若菜の間で色気と派手の戦争が勃発する。原色の布と紫の布が空中で交錯し、香水と火薬のような緊張感が混ざり合う。その横で景明はこめかみを小刻みに痙攣させ、自身の選んだドレスを使用人に持ってこさせた。
それは首元から足首まで完全に覆われた、濃紺のベルベット素材のロングドレスだった。露出など皆無。修道女の制服よりもガードが堅い。
「これなら文句あるまい」
(……本音を言えば全身を覆う鎖帷子を着せたいくらいだが、それでは踊れないか……いや、いっそ私が鈴を背負って戦えば……)
三者三様の欲望と主張が飛び交い、応接間はカオスと化していた。
鈴は頭を抱えた。このままでは当日に半裸で金ピカの鎖帷子というキメラのような姿で会場に行くことになってしまう。
(誰か……誰か、この状況を止めて……!)
その時、部屋の隅で気配を消して控えていた人影が鈴の視界に入った。それは氷室だった。常に冷静沈着な彼はこの騒ぎの中でも眉一つ動かさず、直立不動で待機している。
「……ひ、氷室様!」
鈴は藁にもすがる思いで声を上げた。三人の怪獣たちが動きを止め、視線を氷室に集中させる。
「氷室様なら客観的に見てくださいますよね!?私に……何が一番似合うと思いますか?」
突然の指名。だが、氷室は動じなかった。眼鏡の位置を人差し指で直し、手元の資料に目を落とすことなく口を開く。
「……作戦の性質、および小鳥遊嬢の特性を鑑みるに最適解はあちらかと」
彼が指差したのは部屋の片隅にひっそりと置かれていた一着のドレスだった。それは淡く、優しい色合いのイエローのドレスだった。派手な装飾は控えめだが上質なシフォン生地が幾重にも重なり、窓から差し込む陽の光を受けると柔らかく輝く。
それは決して主張しすぎず、けれど見る者の心を温かく包み込むような春の陽だまりを思わせる一着だった。
「理由は?」
「今回の敵、蜻蛉は水を操る陰湿な性質。暗く、湿った場所を好みます。対して小鳥遊嬢のイメージは闇を照らす光であり、希望です。……過度な露出による挑発や威圧的な色彩はかえって敵の警戒心を強める恐れがあります」
景明が低い声で問う。氷室は淡々と自信に満ちた声で答え、鈴の方を真っ直ぐに見据えた。その瞳には彼らしい生真面目な敬意と隠しきれない優しさが宿っていた。
「何より……その色は小鳥遊嬢の持つ無垢な愛らしさを最も引き立てます。まるで、さえずるカナリアのように。……守りたくなる存在こそがサディスティックな敵の嗜虐心を煽り、最強の囮となり得るのではないでしょうか」
静寂。その完璧な論理武装と最後に添えられた不意打ちの褒め言葉に近い、殺し文句。
若菜が「あらぁ……言うじゃない」と頬を染め、手のひらで口元を隠し、麗華が「……悔しいけど、一理ありますわね。素材の良さを生かすのもコーディネートですわ」と引き下がった。
そして景明は不機嫌そうに鼻を鳴らしながらもそのイエローのドレスを見つめた。
「……悪くない」
短く、そう吐き捨てた。だが、その視線が背中とデコルテが繊細なレースで上品に隠されており、露出が少ないことを確認し、安堵の色を浮かべているのを鈴は見逃さなかった。
(……氷室に選ばれたのは癪だが。確かにこれなら鈴の可憐さが際立つ。それにレース越しとはいえ、肌が直接見えないのであればギリギリ許容範囲か……)
心の声がダダ漏れである。
「……ありがとうございます、氷室様。私、これが着たいです」
鈴がドレスを胸に抱きしめると氷室は「恐縮です」と深く頭を下げた。こうして西園寺邸を揺るがしたドレス戦争は意外な伏兵の一撃によって幕を閉じたのである。
現在。大広間の入り口で鈴はふと当時のことを思い出し、小さく微笑んだ。あの時、氷室が選んでくれたこのドレス。それを纏い、本気の景明の隣に立っている。
「どうした、思い出し笑いなどして」
景明が怪訝そうに眉を寄せる。その整った顔立ちが至近距離にあることに鈴は胸を高鳴らせながら、愛しい婚約者の腕に身を寄せた。
「いいえ。……ただ、このドレスを選んでよかったな、って思っただけです」
「……フン。氷室の奴、後で査定を上げてやらんといかんな」
素直じゃない彼の言葉に鈴は小さく笑った。二人が大階段を降りきり、巨大なダンスホールの中央へ進み出ると指揮者がタクトを振り下ろした瞬間、重厚な弦楽器の音色がホールの大気を震わせた。
優雅でありながら、どこか退廃的な甘さを孕んだその旋律は今夜の狂った舞踏会にはあまりにも相応しい。
「……踊れるな、鈴」
問いかけではない。それは絶対的な命令であり、同時に逃げ場のない誘いだった。
景明が差し出した左手に鈴は自身の右手を重ねる。スエードの白手袋越しに伝わる、彼の掌の熱。それが導火線となり、鈴の全身に微弱な電流が駆け巡った。
「は、はい……特訓、しましたから」
「なら、身を委ねろ。私の鼓動が聞こえる距離まで」
景明が鈴の腰に回した腕に力を込めるとドレスが揺れ、二人の身体が隙間なく密着した。
(近……っ!)
鈴は息を呑んだ。公衆の面前でのダンスは初めてではない。だが、今夜の景明は何かが決定的に違う。いつもの氷のような冷静さは鳴りを潜め、代わりに燻るような熱情がその碧眼の奥で揺らめいている。その瞳はあまりにも無防備に、そして暴力的なまでに鈴だけを映し出していた。
リズムに合わせ、二人は滑るように大理石の上を舞う。周囲の色彩が流れる光の帯となり、世界にはただ、目の前の男の匂いと体温だけが残る。
「……硬いぞ。もっと力を抜け」
「む、無理です……!こんなに、皆さんが見ていますし……」
「見せてやればいい。我々がどれほど深く愛し合っているかを」
耳元で囁かれる吐息が鼓膜を直接撫でるようで鈴の背筋が跳ねた。そんな鈴の腰を這うように景明が指で愛撫する。それはダンスのリードを装った明白な所有の主張だった。背中のレース越しに彼の手の熱さが焼き印のようにしみてくる。
「……蜻蛉が見ているはずだ。奴は千里眼をも持つ。この会場のどこか、あるいは壁の向こうから、獲物(鈴)を狙っている」
景明の声色が甘さを残したまま冷徹な軍人のものへと変わる。
「奴を誘い出すには餌は極上でなければならない。……私に恋焦がれ、他の男など目に入らないという顔をしろ。もっと私に依存し、私だけを求めろ」
「それは……演技、ですよね?」
鈴が潤んだ瞳で見上げると景明は一瞬だけ言葉を詰まらせた。至近距離で見上げる鈴の瞳。上気した頬。震える唇。その無防備な愛らしさに景明は苦しげに目を細めた。
「……半分は、な」
次の瞬間、景明は鈴の身体を独楽のように回転させた。遠心力で広がるカナリア色の裾。世界が回る。天井のシャンデリアが流星のように尾を引く。バランスを崩しかけた鈴を景明の強靭な腕が抱き留める。その勢いのまま、鈴の顔が彼の胸元に埋もれた。
「ひゃうっ……!」
思わず漏れた甘い悲鳴。顔を上げれば、そこには鼻先が触れ合うほどの距離に景明の顔があった。整った唇がすぐそこにある。吐息が混じり合う。彼の瞳孔が開き、獲物を狙う獣のように鋭く収縮するのが見えた。
(た、食べられる……っ)
本能的な危機感とそれに勝る甘美な期待。鈴は反射的に身を引こうとした。恥ずかしさで顔が沸騰しそうだ。
「……逃げるな」
低く唸るような声。鈴が後退しようとした分だけ、景明はさらに強く腰を引き寄せる。逃げ場はない。彼の腕の中こそが鈴に許された唯一の世界だった。
「耳まで……真っ赤だぞ、鈴」
「…だ、だって…西園寺様がいじめるから……」
景明の視線が鈴の紅潮した頬から熱を持った耳朶へと這う。その視線の熱量だけで火傷しそうだった。
鈴は堪えきれずに視線を逸らし、か細い声で抗議する。その言葉は景明の理性を繋ぎ止めていた最後の糸を焼き切った。
景明が奥歯を噛み締める音が聞こえた。彼は一瞬、天井を仰ぎ、大きく息を吐き出すと、苦悶と恍惚が入り混じった表情で鈴を見下ろした。
(……可愛い。食い殺してしまいたいくらいだ)
心の声が暴走している。以前までの、守護者としての理性的な思考ではない。もっと根本的な雄としての渇望。この可憐なカナリアを自分だけの鳥籠に閉じ込め、一生愛で尽くしたいという昏い独占欲。
「……後悔するなよ、鈴。私を煽ったのは君だ」
「えっ……?」
「その華奢な足が動かなくなるまで離さない」
宣言と共に曲調が変わった。テンポが上がる。激しいダンス。
景明は鈴を振り回すように、それでいて宝石を扱うように繊細にフロアを疾走し始めた。
鈴が上げた悲鳴は歓喜の旋律へと変わる。二人のステップはもはやダンスの枠を超えていた。互いの呼吸を読み合い、重心を預け合い、一つの生命体のように躍動する。
氷と雷を操る最強の異能者がその身体能力の全てを求愛のためだけに使っているのだ。その圧倒的な美しさと迫力に周囲の恋人たちは次々と道を開け、ただ呆然と二人を見つめるしかなかった。
「西園寺、様……!目が、回ります……!」
「私だけを見ていればいい。そうすれば世界など止まって見える」
(嘘つき。貴方を見れば見るほど、私の世界は加速していくのに)
鈴は必死に彼にしがみついた。その指先が彼の背中の筋肉を掴む。応えるように景明の手が鈴の背中のレース越しに熱を伝える。
(愛している。誰にも渡さない)
声にならぬ想いが回転の遠心力と共に増幅し、二人の間に不可視の磁場を形成していく。その光景は誰の目にも明らかだった。
これは囮作戦の演技などではない。魂と魂が惹かれ合い、互いを貪り合うような、純粋で狂気的な愛の形。曲がクライマックスを迎え、激しい和音と共に景明は鈴を抱き抱えるようにしてフィニッシュを決めた。
鈴の身体は海老反りになり、その喉元が艶めかしく露わになる。
景明の顔が近づく。唇が触れるか触れないかの距離で止まる。会場中が息を呑み、静寂が支配したその刹那、硝子が割れる様な硬質音がワルツの余韻を無惨に断ち切った。
それは最初、誰かがシャンパングラスを落とした程度の小さな音だった。だが次の瞬間、ホールの壁一面を覆う巨大な観賞用水槽の強化硝子に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。悲鳴を上げる硝子。中を泳いでいた極彩色の熱帯魚たちが異常を察知して狂ったように暴れ回る。
「伏せろッ!!」
景明の鋭い咆哮が轟くのと硝子が爆散したのは同時だった。鼓膜を劈く破砕音。数トンにも及ぶ大量の真水が決壊したダムのようにホールへ雪崩れ込む。
悲鳴を上げて逃げ惑う紳士淑女たち。濁流は高価な絨毯を瞬く間に泥濘へと変え、美しい調度品を呑み込んでいく。
「ぁ……っ!」
水飛沫が霧のように舞い、鈴の頬を濡らす。その生温かい液体の感触が肌に張り付いた瞬間、鈴の全身が跳ねた。
重力を無視して蛇のような触手となった濁水が鈴の足首に絡みついた。それは意思を持つ生き物のように蠢き、膝下からさらに上へと這い上がって柔肌を蹂躙しようと、執拗に濡れた先端を伸ばしてくる。そのまま見えない舌で全身を嘗め回されそうになった悍ましい恐怖。
鈴の喉の奥から短い悲鳴が漏れた。息ができない恐怖ではない。自分の尊厳を汚された生理的な嫌悪感が胃の腑から込み上げてくる。ドレスの上からでも、まるで無数のナメクジが這っているような幻覚に襲われる。
(怖い。気持ち悪い)
鈴は大きく震えだし、自分の二の腕を強く抱きしめて蹲りそうになった。だが、その震える華奢な身体は即座に強固で温かな壁によって遮断された。
景明だ。彼は鈴を強く抱き寄せると自身の広い背中で水流と硝子の破片をすべて受け止めたのだ。
「……っ、西園寺、様……!」
「目を開けていろ、鈴。……私の背中に隠れていれば、あの汚らわしい水は一滴たりとも君には触れさせない」
その声は低く、そして絶対的な自信に満ちていた。けれど鈴の震えは止まらない。景明のジャケットを握りしめる指は白く変色し、その瞳には涙が溜まっている。
景明はそれを察し、痛ましいものを見る目で鈴を一瞥すると溢れ出した水へ殺意の視線を向けた。床に広がった水は重力を無視して鎌首をもたげ、まるで生き物のように蠢き始めていた。
粘着質な音を立てて集まる水塊。それは透明な軟体動物のように脈打ち、やがて一人の男の形を成していく。水の膜を内側から突き破るようにして現れたのは滴一つ垂らさぬ完璧な燕尾服を纏った、痩身の男だった。片眼鏡と整えられた髪。そしてその顔には恍惚のあまり白目を剥きかけた、絶頂寸前のような表情が張り付いていた。
「あァ……ッ!ブラボォォォォ……ッ!!」
蜻蛉は自身の身体を抱きしめ、腰を揺すりながら絶叫した。
「素晴らしい!その震え、その怯え!先日のお風呂場での戯れを思い出して頂けましたかぁ!?私の愛の感触をぉぉッ!!」
蜻蛉は荒い息を吐きながら、濡れた舌で自身の唇を舐め上げた。その瞳孔は開ききり、焦点が合っているのかも怪しい。
「水槽の中で私はずっと貴女を見ていましたよ……。ああ、そのカナリア色のドレス!なんて邪魔な布切れだ!今すぐ私の水(愛)で濡らして透けさせ、肌に張り付かせたい!あの夜のように貴女の秘めやかな場所まで私の水で埋め尽くして差し上げたいィィッ!」
「ひっ……!い、いや……っ!」
鈴はあまりの悍ましさと羞恥に小さな悲鳴を上げて景明の背中に顔を埋めた。涙が零れる。変態という言葉では生温い。この男の存在そのものが鈴にとっては精神的な暴力だった。
「さあ、こちらへいらっしゃい。悪い羽虫など捨てて、私とbaiser(接吻)の舐め合いをしましょう?貴女の全てを私の粘液(愛)でドロドロに溶かしてあげますからぁ……!」
会場の空気が恐怖を通り越してドン引きで凍りついた。貴族的な言葉遣いに隠そうともしない、剥き出しの性欲と狂気。もはや悪役というカテゴリーすら生温く、汚物を見るような視線が彼に集中する。
「……随分と消毒が必要な客が迷い込んだものだ」
景明が地獄の底から響くような声で言った。その声のトーンは先ほどまでの愛を囁く甘いものではない。彼がゆっくりと鈴を背後に庇い、白い手袋の端を噛んで引き抜く。露わになった左手が青白く発光し始める。
「私の婚約者の肌をその薄汚い妄想で汚した罪……万死に値する」
景明の瞳が絶対零度の青い炎で燃え上がった。その背中から立ち上る冷気はただの攻撃ではない。泣き濡れ、震える最愛の少女を守るための慈悲なき断罪の刃だ。だが蜻蛉はその殺気を受けてすら身を震わせて喜悦の声を漏らした。
「ああっ!いい目だ!ゾクゾクしますねぇ、その私をゴミ虫のように見る蔑みの目!堪らない!いっそその冷徹な氷で私を責め苛んでくださいよぉ!その痛みすら、私にとっては愛の鞭!」
「……貴様。本当に気持ち悪いな」
景明は本気で嫌そうな顔をした。最強の軍人が生理的嫌悪感で一歩引くほどの変態力。だが、景明はすぐに冷徹な殺意を取り戻し、右手に雷を纏わせた。
「ダンスの相手が代わったようだなお客様。......その腐りきった性根ごと、永久凍土の底へ沈めてやる」
「フフフ……!光栄ですねぇ!では、とろけるような地獄の愛欲ワルツと洒落込みましょうかあああ!!」
蜻蛉が指を鳴らすと床の濁水が爆発的に噴き出し、無数の触手のような形状となってのたうち回る。対する景明の周囲にはダイヤモンドダストが舞い、鋭利な氷の剣が無数に生成された。




