第21話
あの一夜の悪夢から数日が経過した。
帝都の冬はある日突然、硝子を砕いたような鋭さを伴ってやってくる。
師走に入り、街がクリスマスの華やぎと年末の慌ただしさに浮き足立つ中、西園寺邸の朝は張り詰めた静寂に包まれていた。 吐く息は白く、庭園の常緑樹には薄っすらと霜が降りている。
鈴は鏡の前で海老茶色の袴の紐を強く結び直した。 絹の擦れる微かな音が冷え切った部屋の空気を震わせる。鏡に映る自分の顔色は数日前の蒼白さに比べれば幾分か血色が戻っていた。 だが、瞳の奥にはまだ拭い去れない影が沈殿している。
(大丈夫。......私は大丈夫)
鈴は心の中で呪文のように繰り返した。
数日前、この屋敷の浴室で起きた悪夢、蜻蛉による襲撃。 けれど、いつまでも部屋に引き籠もっているわけにはいかない。 今日から女学校への登校を再開すると決めたのだ。
この数日、入浴のたびに恐怖で震える鈴のため、景明は浴室の扉一枚を隔てた場所に椅子を置き、上がるまでの間、話し相手になってくれた。
“俺がいる”。 その低く温かい声だけが、鈴を水底の恐怖から繋ぎ止める命綱だった。 だから一歩を踏み出さなくてはいけなかった。
鈴は両手で頬を叩き、気合を入れると部屋を出て階段を降りた。 食堂には香ばしいコーヒーと焼きたてのトーストの香りが漂っていた。
そして上座にはすでに軍服を隙なく着こなした景明の姿があった。
彼は新聞を広げていたが鈴の足音が聞こえた瞬間、その端正な眉が小さく動き、新聞を持つ手が止まる。
「...... おはよう、鈴。よく眠れたか」
新聞を畳みながら向けられた眼差しは冬の湖水のように静かで、けれど底知れない深さを湛えていた。 その瞳に見つめられるだけで鈴の身体の芯がじんわりと熱くなる。
「おはようございます、西園寺様。おかげさまで...... 昨夜は夢も見ずにぐっすりと」
鈴が努めて明るく微笑むと景明は肩の力を抜いたように見えた。 彼は無言でコーヒーを一口啜るとテーブルの端に置かれていた包みを長い指先ですっと押し出した。
濃紺の風呂敷に包まれた、重みのある直方体。結び目は少し歪で何度も結び直したような跡があり、それがかえって愛おしさを誘う。
「これを持っていけ」
「え......?これ、は?」
「昼の糧だ。...... 学食や購買のパンは敵が毒物を混入させるリスクを排除しきれん。私が安全性を確認し、調理工程から監視...... いや、管理した物だけを口にしろ」
硬い口調はまるで作戦物資の配給を命じる上官のようだ。 だが、鈴は気づいてしまった。 彼の左手、人差し指と中指に真新しい絆創膏が巻かれているのを。 そして、その耳の端が暖炉の火に当たったわけでもないのに赤く染まっているのを。
(調理工程を管理、って...... まさか)
「西園寺様......これ、作ってくださったのですか?」
「!……余計な詮索は無用だ。いいか、残さず食え。……以上だ」
図星を突かれた景明は音を立てて椅子から立ち上がった。 帝国陸軍少佐にして、氷と雷を操る最強の異能使い。 そんな彼が早朝の台所でおそらく若菜に無理やり着せられたエプロンをつけ、包丁と格闘していた姿を想像すると鈴の胸は破裂しそうなほどの愛おしさで満たされた。
「ありがとうございます、西園寺様。......私、世界で一番、幸せなお昼休みにします」
「......大袈裟だ。......行ってくる」
景明は逃げるように玄関へと向かう。 その背中はどんな強大な敵に立ち向かう時よりも狼狽えているように見えた。
「ああ、それと」
ドアノブに手をかけたところで彼は振り返らずに言った。
「登下校は田中の車を使え。それから……学校には“手”を回してある。安心しろ」
その言葉の意味を鈴が骨の髄まで理解するのはそれから数十分後のことだった。
西園寺家の重厚な黒塗り車が女学校の正門前に滑り込む。運転席から降りてきたのは初老だが眼光の鋭い運転手の田中だ。彼は恭しく後部座席のドアを開けると同時に周囲三百六十度を一瞬で警戒した。
「お嬢様、到着いたしました。お気をつけて」
「ありがとう、田中さん。行ってきます」
鈴が車を降りると、そこには見慣れた女学校の風景があった。赤煉瓦の校舎、枯れ葉舞う並木道、登校する女学生たちの華やかな笑い声。
一見すれば、平和そのものの冬の朝だ。しかし、鈴の修復の異能に伴う鋭敏な感覚は空気中に漂う微細な違和感を捉えていた。
(……何かが、違う)
まず、校門付近で竹箒を動かしている用務員の男性。普段見かけない顔だ。丸眼鏡をかけ、人の良さそうな笑みを浮かべているがその箒さばきが異常だった。リズミカルな音と共に地面の落ち葉が一塵も残さず掃き清められていくのだが、その動作には一切の無駄がない。重心が常に一定でいついかなる方向から襲われても即座に迎撃できる体勢だ。
彼がふと顔を上げ、眼鏡の奥から鋭い視線を鈴に向けた瞬間、鈴は息を呑んだ。
(あの方は……西園寺家私兵団の山本さん!?)
以前、屋敷で一度見かけたことがある。爆発物処理のスペシャリストだ。なぜ爆弾魔対策の専門家が竹箒を持って女子校の門を掃除しているのか。驚愕する鈴の視界に今度は花壇の手入れをする庭師が映り込んだ。
彼は巨大な剪定ばさみを構え、薔薇の棘を整えているがそのハサミを構える角度は完全に“敵の頸動脈を狙う”それだった。枝を一本切るたびに周囲の気配を探るように耳を動かしている。
「ごきげんよう、鈴ちゃん!」
「わっ!ち、千代子!?」
背後から明るい声で呼びかけられ、鈴は飛び上がった。振り返ると親友の千代子が満面の笑みで立っていた。彼女は鈴の親友であり、その朗らかさは太陽のように鈴を照らしてくれる。
「久しぶりね!体調、もういいの?心配してたんだから!」
「うん、もうすっかり元気よ。ごめんね、心配かけて」
「よかったぁ。あ、見て見て鈴ちゃん。今日の用務員さんたち、なんだかキビキビしてて素敵じゃない?新しい人が入ったのかしら」
千代子は無邪気に山本たちの方を見ている。一般人の彼女には彼らが“働き者の用務員さん”にしか見えていないようだ。
鈴はひきつった笑みを浮かべた。
「そ、そうね……。とっても……頼りがいがありそうだわ」
校舎に入っても事態は変わらなかった。廊下ですれ違う清掃員はモップがけをしながら死角を確認している。渡り廊下の窓を拭いている作業員はガラスの向こうの狙撃ポイントをチェックしている。屋上の縁には野鳥観察を装って双眼鏡を構える影が見えた。
(学校が……要塞化されてる……ッ!)
景明の言っていた“手を回した”とは文字通り“軍事力”を投入したということだったようだ。圧倒的な人力と武力による、物理的過剰警備。
西園寺家が誇る精鋭部隊が用務員や購買部のおばちゃんに変装し、鈴一人を守るために配置されているのだ。
(嬉しい……!命懸けで守ってくれてるのは痛いほど分かるけど……これじゃあ学校生活そのものが軍事演習みたいな…)
鈴は冷や汗を拭いながら、千代子と共に教室へと向かった。
一限目、数学。チャイムと同時に教室の引き戸が開き、新たな衝撃が走った。
「着席。……本日より、産休の教員に代わり数学を担当する。氷室だ」
教壇に立ったのは景明の忠実な副官であり、帝国陸軍きっての頭脳派、氷室だった。
仕立ての良い三つ揃えのスーツに身を包み、銀縁眼鏡をかけたその姿は冷徹なインテリ教授そのもの。教室中の空気が一瞬にして華やいだ。
「きゃああ……ッ!なんて素敵な先生!」
「あの冷ややかな目で見下ろされたい……!」
「活動俳優みたいだわ!」
女学生たちの黄色い歓声が波のように広がる。無理もない。氷室の整った容姿と人を寄せ付けないクールな雰囲気は温室育ちのご令嬢たちには刺激的な劇薬だ。
(氷室様まで……!副官なのに、こんなことまでさせてしまって申し訳ないです……!)
しかし、鈴だけは見ていた。黒板にチョークを走らせる氷室の背中が微かに強張っていることを。
そして眼鏡の位置を直すふりをして、彼が教室の窓枠、扉の蝶番、天井裏の通気口を軍事的な視点で冷徹にチェックしていることを。
氷室は黒板に小気味良い音を立てて難解な数式を書き連ねると、くるりと生徒たちに向き直った。
「授業を始める。……なお、窓際の席の者は姿勢を低く保つように」
「えっ?なぜですの?」
「……冬の日差しは目に毒だ。それに外部からの視線……いや、冷気が入りやすい」
苦し紛れの言い訳だったが女生徒たちは「窓際の生徒を気遣ってくださったわ!」と脳内変換し、さらに熱を上げた。
鈴は教科書を立てて顔を隠した。教科書の隙間から、氷室と目が合う。その瞳は『小鳥遊嬢、異常はないか?不審物は?怪しい男はいないか?』と雄弁に語りかけていた。
鈴は小さく首を横に振り『大丈夫です、ありがとうございます』と目線で返す。
氷室は小さく頷くと、何事もなかったかのように授業を続けた。
庭には特殊部隊の用務員。教壇には副官。この異常な空間が今の鈴には何よりも安全で最強の聖域だった。水への恐怖も、蜻蛉の影も、この鉄壁の守りの前では消え失せていくようだった。
そして待ちに待った昼休み。鈴は千代子の手を取り、二人で中庭のベンチへと向かった。教室は氷室ファンの女生徒たちでごった返しており、とても落ち着いて食事をとれる状況ではなかったからだ。
大きな銀杏の木の下、黄金色の落ち葉が絨毯のように敷き詰められたベンチ。冷たい風が吹くが日差しは柔らかい。二人は並んで腰掛け、お弁当を広げた。
「ふふ、今日のお弁当は何かなぁ。母様が昨日の残り物だって言ってたけど」
千代子が楽しそうに包みを開ける。鈴も膝の上に置いた紺色の風呂敷に手をかけた。まだ、ほんのりと温かい。景明が持たせてくれた昼の糧。あの不器用な彼が鈴のためだけに作ったお弁当。
(…いただきます)
心の中で呟き、鈴はそっと風呂敷を解いた。現れたのは無骨な黒塗りの曲げわっぱ。質実剛健なその見た目はいかにも“男の弁当箱”という風情だ。
鈴は少しドキドキしながら蓋を持ち上げた。甘い卵焼きの香りと、香ばしい醤油の匂いが、冬の冷気の中に広がった。
「わあ……っ!」
中身を見た瞬間、鈴は息を呑み、隣の千代子は目を丸くした。
「すごい!鈴ちゃん、これ……!」
そこには景明の不器用さが溢れんばかりの愛情が詰め込まれていた。
まず目を引くのは鮮やかな赤色。タコの形をしたウインナーだ。それもただのタコではない。足が八本、均等にまるで幾何学的な美しさを持って反り返っている。一つ一つに黒ゴマで目がつけられており、何とも言えない愛嬌のある表情で鈴を見つめているのだ。その数、なんと六匹。一小隊だ。
隣には少し焦げ目のついた厚焼き玉子。形は少し歪だが鮮やかな黄色が食欲をそそる。さらにほうれん草の胡麻和え、恐らく桜の飾り切りをしたかったのだろうか、少し手裏剣に近い形の人参、そして真っ白なご飯の上には海苔で大きく二重丸が描かれている。
「え、えっ?鈴ちゃん、そのご飯の二重丸は何?“合格”ってこと?」
千代子が不思議そうに首を傾げる。鈴は思わず、笑ってしまった。
「ううん……きっと“安全”って意味よ」
あるいは“ここを食え”という彼なりのメッセージか。
西園寺景明。冷酷無比な軍人。そんな男が台所で背中を丸め、ウインナーにゴマ粒をつける作業に没頭していた姿を想像すると胸の奥が締め付けられる。
「へぇ〜、面白いお弁当!鈴ちゃんの家の料理人さん、ユニークね」
「ふふ、そうね。……とっても一生懸命な人なの」
鈴は箸を取り、ウインナー隊長らしき一匹を摘み上げ、口に運ぶ。皮の弾ける音と共に肉の旨味が広がる。少し炒めすぎたのか、香ばしさが強い。だが、それがかえって家庭的な温かさを感じさせた。
次に卵焼き。一口齧ると甘い出汁が染み出した。砂糖が多めの甘い甘い卵焼き。疲れた体と恐怖に強張っていた心にその甘さが優しく染み渡っていく。
(……おいしい)
涙が出そうだった。トメや料理長の作る完璧な料亭の味ではない。けれど、これは世界で一番贅沢な味だ。噛みしめるたびに景明の“食え”、“俺が守る”という声が聞こえるようだった。
「鈴ちゃん?どうしたの、泣きそうな顔して」
千代子が心配そうに覗き込んでくる。鈴は慌てて瞬きをし、涙を引っ込めて満面の笑みを向けた。
「ううん、なんでもないの。ただ……すっごく美味しくて」
「そっか!よかったね。私も卵焼き一個ちょうだい!」
「えっ、あ、これは……!」
「えー、ケチ!じゃあ私の唐揚げと交換!」
千代子の箸が伸びてくる。鈴は慌ててお弁当箱をガードした。これは景明が鈴のためだけに作ってくれた特別な卵焼きなのだ。誰にも渡せない。
そんな子供じみた攻防をしていると遠くの校舎の屋上、給水塔の陰からキラリと何かが光った。おそらく氷室か、あるいはどこかの部屋から景明自身が双眼鏡でこちらを見ているのかもしれない。
鈴は千代子にバレないようにその光の方角に向かって小さくピースサインを送った。
(ありがとう)
言葉にしなくてもきっと届く。二人の間には今、確かに目には見えないけれど、鋼鉄よりも強固な絆が繋がっていた。
冷たい風が吹く冬の空の下だが鈴の心はポカポカと温かい。タコ型のウインナーと甘い卵焼き、そして親友の笑い声。これ以上の幸せがどこにあるだろうか。
◇
冬の日は釣瓶落としと言うが西園寺邸に帰着した頃には帝都の空はすでに紫紺の帳に覆われていた。
車から降りた鈴は吐く息の白さに身を震わせながら玄関の重厚な扉をくぐる。暖炉の薪が爆ぜる音と木の温かな香りが冷え切った頬を優しく包み込んだ。
「おかえりなさいませ、鈴様」
出迎えた若菜は鈴の肩にかかったショールを受け取りながら、安堵の色を浮かべた瞳で微笑んだ。
「お疲れではありませんか?学校はいかがでした?」
「ただいま、若菜さん。とっても賑やかで驚くほど安全だったわ」
鈴は苦笑交じりに答える。脳裏に浮かぶのは用務員に変装した爆発物処理班や教壇に立つ副官殿の姿だ。あの鉄壁の守りのおかげで蜻蛉の影に怯えることなく一日を過ごすことができた。けれど、やはり気疲れは否めない。泥のように眠りたい気分だったが運命はそれを許さなかった。
屋敷の外、砂利道を噛む豪奢なエンジン音が響き渡ったのだ。それもただの車ではない。輸入車特有の腹の底に響くような重低音。
鈴と若菜が顔を見合わせた次の瞬間、玄関のベルがけたたましく鳴り響いた。
「ごめんあそばせ!私よ、宝生麗華ですわ!」
嵐の到来である。執事が扉を開けるや否や、冷たい夜風と共に華やかな薔薇の香水が玄関ホールに雪崩れ込んできた。
「麗華さん!?」
そこに立っていたのは麗華だった。
今日の装いは深紅のベルベットのワンピースに純白のファーをあしらったモダンなスタイル。足元は編み上げのブーツで手には大きなバスケットを提げている。その背後には山のような贈答品を抱えた使用人たちが控えていた。
「鈴さん!無事ですの!?顔色は……まあ、少し青白いけれど、思ったより元気そうですわね!」
麗華は我が物顔だが洗練された所作でホールに入ってくると鈴の手を両手で握りしめた。その手は冷たい外気で冷えていたが、掌の奥からは熱いほどの体温が伝わってくる。
「急にごめんなさい。でも、居ても立ってもいられなくて。……お見舞いに参りましたの」
「お見舞い……?」
「ええ。これ、召し上がって」
麗華が目配せをすると、使用人がうやうやしくバスケットの蓋を開けた。途端に甘く濃厚な芳香が広がる。麝香のような気品ある香り。そこに鎮座していたのは桐箱に収められた最高級のマスクメロンだった。網目が芸術的なまでに均一で頂にはT字の蔓が誇らしげに残されている。
「こ、これは……もしかして萬果堂の……!」
「美容は心の栄養ですわ。さあ、すぐにカットしてもらいましょう!私、鈴さんと積もる話がたくさんありますのよ!」
有無を言わせぬ勢いだった。若菜は「はい、ただいま」と楽しげに笑い、メロンを受け取って厨房へと下がっていく。
鈴は麗華に手を引かれ、一階の応接間へと連行された。応接間の暖炉には赤々と火が燃え、ビロードのソファには深々と身を沈めることができる。やがて運ばれてきたのは瑞々しいメロンと若菜特製のロイヤルミルクティーだ。
湯気とともに立ち上る紅茶とミルクの香り。そしてエメラルドグリーンの果肉から滴る甘い蜜。
「いただきます……んっ」
鈴がフォークで果肉を口に運ぶと、舌の上でとろりと溶けた。強烈な甘みなのに後味は清流のように爽やかだ。強張っていた神経が果汁と共にほどけていくのがわかる。
「おいしい……生き返るみたい」
「でしょう? 私が厳選しましたのよ」
麗華は満足げに頷き、自身も優雅に紅茶を啜った。そして、カップをソーサーに戻すと真剣な瞳で鈴を見つめた。
「それで?……あの後、どうでしたの?」
あの後。浴室での襲撃事件、そしてその後の混乱。鈴は一瞬、言葉に詰まった。敵の正体、異能の恐怖、西園寺家が敷いている厳戒態勢。話すべきことは山ほどある。軍事的な報告も含めて、共有しなければならない情報は多いはずだ。だが、麗華は瞳を細め、悪戯っぽく笑った。
「なーんて、野暮なことは聞きませんわ。私が知りたいのはもっと重要なこと」
「重要なこと?」
「ええ。……たとえば、“愛妻弁当”の味とか」
「ぶっ!!」
鈴は危うく高級メロンを喉に詰まらせるところだった。咳き込む鈴の背中をさすりながら、麗華は楽しそうに笑う。
「あら、ご存知ないと思って?私の情報網を甘く見ないでくださいまし。景明様が早朝四時に起きて台所に立ち、タコ型のウインナーと格闘していたという情報はすでに把握済みですわ」
「ど、どこからその情報を……!?」
「ふふん。……それで?お味はいかがでしたの?あの鉄仮面の少佐が作った卵焼きは」
鈴は頬を真っ赤に染め、俯いた。湯気の向こうにあの不器用な二重丸のご飯が浮かぶ。
「……甘かったです。……すごく、甘くて、優しくて」
「あら、ごちそうさま。メロンより甘いですわね」
麗華はからかうように言ったがその声色は驚くほど慈愛に満ちていた。そこからは怒涛の女子会だった。
異能の話も、軍の話も、敵の話も一切なし。話題はもっぱら、銀座に新しくできたカフェのオムライスのこと、流行りの銘仙の柄のこと、そして女学校に赴任してきた“氷室先生”の人気ぶりについてだ。
「まさか氷室様が教壇に立つなんて、傑作ですわね!数学教師?似合いすぎて怖いくらいだわ。きっと女生徒たちはあの方の冷徹な眼差しに射抜かれたくて、わざと間違った答えを書くのではありませんこと?」
「あはは!ありそう!でもね、麗華さん、氷室先生ったら授業中にずっと窓枠とか天井裏をチェックしてるのよ。真面目な顔で」
「まあ!職業病というやつね。……でも、それが鈴さんのためだということが何よりも尊いですわ」
たわいない会話。笑い声が客間に響く。鈴は気づけば、心の底から笑っていた。浴室での恐怖も、水音へのトラウマも、この瞬間だけは遠い彼方の出来事のように思える。
麗華は知っているのだ。今の鈴に必要なのは同情でも作戦会議でもなく、この日常の空気だということを。変哲のない普通の女学生として笑い合う時間こそが傷ついた心を癒やす特効薬なのだと。
(麗華さん……ありがとう)
一時間ほど話し込んだ頃、柱時計が時を告げた。麗華は時計を見上げ、名残惜しそうに立ち上がった。
「いけない、もうこんな時間。……長居をしてしまいましたわね」
「そんな……もっとゆっくりしていって」
「いいえ、今日はこれくらいにしておきますわ。鈴さんも、まだ病み上がりなのですから」
麗華はショールを羽織り、玄関へと向かう。
鈴は名残惜しさを感じながら、その後ろ姿を見送った。車に乗り込む直前、麗華は振り返り、夜空に輝く月を見上げながら、独り言のように呟いた。
「……ねえ、鈴さん」
「はい」
「私、楽しみにしておりますのよ」
「え?」
麗華は月明かりの下、凛とした表情で鈴を見つめた。その瞳には揺るぎない信頼と覚悟を決めた者だけが宿す強い光があった。
「二ヶ月後、あるのでしょ?軍主催の舞踏会が。そこであなたが景明様の隣で一番輝く瞬間を」
それはこれから行われる過酷な戦い囮作戦と敵の殲滅戦を乗り越えた先にある未来の話だ。
麗華は「もし負けたら」とか「気をつけて」とは言わない。“勝った後の未来”を当たり前のこととして口にしたのだ。
「……そのために私も全力を尽くしますわ。……出資者、としてね」
最後にウインクを決め、彼女は車へと乗り込んだ。エンジン音が遠ざかっていく。赤いテールランプが見えなくなるまで鈴はその場に立ち尽くしていた。
「……はい。私も楽しみです。麗華さん」
鈴は夜風の中で拳を握りしめた。冷たい風が吹いているはずなのに体の中はほんのり温かい。
メロンの甘さと友人の温もりが恐怖に凍りついていた心の最後の欠片を溶かしてくれたようだった。
「さて……」
鈴は屋敷の方へ振り返った。窓からは温かな光が漏れている。日常は取り戻した。心も癒やされた。次は前に進む番だ。
(守られるだけじゃ嫌。……私だって戦いたい)
夜の西園寺邸は深海のような静寂に包まれていた。
鈴は脱衣所と浴室を隔てる扉の前で足を止めた。目の前にあるのは曇りガラスの嵌め込まれた木製の扉。その向こうには湯気が立ち込める浴室がある。
日常の象徴であるはずの場所。しかし今の鈴にとって、そこは数日前の悪夢を想起させる断崖でもあった。
(……やっぱり、少し怖い)
無意識のうちに身体が震える。先刻は麗華のおかげで笑っていられたが、夜の静けさは心の隙間に冷たい水を流し込んでくるようだ。蛇口から滴る水滴の音が鼓膜を打つハンマーのように響く。
鈴が意を決して扉に手をかけようとした、その時だった。足音が廊下の向こうから近づいてくる。正確無比なリズム。けれど、そこにはいつもの威圧感はなく、どこか鈴を気遣うような優しい響きがあった。
「……鈴。入るのか」
低い声と共に現れたのは部屋着姿の景明だった。湯上がりなのか、濡れた黒髪を無造作にかき上げている。その露わになった額と全てを見透かすような鋭く美しい瞳がガス灯の光を受けて妖艶に輝いていた。
彼の手には一脚の椅子が提げられていた。
「西園寺様……」
「……一人で水音に耐える必要はない」
景明は短く告げると浴室の扉のすぐ横、廊下の壁際に椅子を置いた。そして鈴に背を向けるようにして、慣れた様子でその椅子に深く腰掛けた。
ここ数日、毎晩繰り返されている光景だ。水への恐怖が消えない鈴のために彼はこうして入浴中ずっと、ドアの外で番犬をしてくれているのだ。
「俺はここにいる。ドア一枚隔てた、この場所に。……お前が上がるまで一歩も動かない」
彼は組んだ脚の上に文庫本を広げたがその視線は虚空を漂っている。背中で語っているのだ。“俺が背後を守る。どんな敵も、一滴の水さえもお前に害はなさせない”と。
繰り返されるその儀式のおかげか、彼の背中はどこかリラックスしていて、それでいて頼もしさは日増しに強くなっていた。
「……何かあれば、すぐに呼べ。すぐに突入する。……いや、何もなくても、私が声をかけ続ける」
「ふふ、はい。……昨日もそう言ってくださいましたね」
「……ああ。何度でも言うさ」
ぶっきらぼうな物言い、けれど、その提案が今の鈴には何よりもありがたく、そして胸を締め付けるほど愛おしかった。
「……お願いします、西園寺様」
鈴は小さく頷き、服を脱いで浴室の扉を開けた。白い湯気が顔を覆う。檜の香りと湿った空気。一瞬、足がすくみそうになったが、すぐ後ろに彼がいるという事実が鈴の背中を支えてくれた。
鈴が中へ入ったのを見届けると景明は静かに廊下から脱衣所へと足を踏み入れた。そして浴室を隔てる扉のすぐ横に椅子を置き、鈴に背を向けるようにして深く腰掛けた。
ここ数日、毎晩繰り返されている光景だ。水への恐怖が消えない鈴のために、彼はこうして入浴中ずっと、ドア一枚隔てた場所で番犬をしてくれているのだ。
「……鈴、今日の湯加減はどうだ」
「は、はい……。ちょうど、良いです」
「そうか。……明日は今日よりも冷えるらしい。いつもより長めに浸かれ」
他愛のない会話。けれど、それが今の二人には命綱のような大切な儀式となっていた。
鈴は震えながらも湯船に身を沈めた。温かいお湯が爪先から腰、そして肩へと染み渡る。張り詰めた糸を解くように息を吐くと、強張っていた筋肉が少しずつほどけていった。
「西園寺様」
「なんだ」
「……昨日の続き、お話ししてくださいますか」
「……ああ。何を話せばいい」
扉越しに気配を感じる。おそらく彼は本を閉じて、扉の方へわずかに耳を傾けているはずだ。
「そうですね……西園寺様の、お好きなものの話とか。昨日は昔の失敗談でしたから」
「私の好きなもの……?」
沈黙が落ちた。浴室には水滴の音だけが響く。やがて、景明が独り言のように語り始めた。
「……昔、幼い頃にな。ばあやによく、百人一首を読まされた」
「百人一首、ですか?意外です。西園寺様は軍事教本ばかり読んでいらしたのかと」
「ああ。最初は退屈だった。……だが、ある時期をきっかけに一つだけ歌が響いて、その意味が何故か分かる気がしたんだ」
景明の声が湯気に溶けるように優しく響く。
「“忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は”……平兼盛の歌だ」
鈴は湯船の中で膝を抱え、その言葉を反芻した。“隠そうとしても、顔色に出てしまった。私の恋心は”という意味の歌だ。
「軍人として、感情を殺す術を叩き込まれてきた。氷のように冷徹であれと、自分に言い聞かせてきた。……だが、どうしても隠しきれない熱があることを、私はお前に出会って知った」
鈴は再び心臓が跳ねる音がした。それは遠回しな、けれどこれ以上ないほどの愛の告白だった。顔は見えない。扉一枚が隔てている。だからこそ、彼は素直になれるのかもしれない。
「……“ものや思ふと 人の問ふまで”」
鈴はその歌の下の句をそっと口ずさんだ。“物思いをしているのですかと、人が尋ねるほどに”という意味の歌を。
「……そうだ。正解だ」
景明の声に微かな笑みが混じる。鈴は胸の奥が熱くなるのを感じた。お湯の温度のせいではない。この扉の向こうにいる不器用で、嘘つきで、けれど誰よりも誠実な男の体温が言葉に乗って伝わってくるようだ。
「……私、西園寺様の声を聞いていると安心します」
「……そうか」
「水音も怖くなくなりました。……西園寺様がそこにいてくださるから」
鈴はお湯をすくい、顔を洗った。もう、水は怖くない。ただの温かいお湯だ。守られている。最強の盾にそして最愛の人の魂に。
「鈴」
「はい」
「…私もだ」
景明の声がかすれ気味に響いた。
「君がそこにいて、生きている。……その水音を聞いているだけで私のほうが救われているんだ。……胡蝶の時、君を失いかけた恐怖は私のほうが深かったのかもしれない」
弱音とも取れる言葉。鬼少佐が決して他人には見せない、脆弱な心の内側。
鈴は浴槽から立ち上がり、扉の方へ手を伸ばした。曇りガラス越しにぼんやりと彼の影が見える。
鈴はその影にそっと掌を重ねた。
「……待っていてくださいね」
「ああ」
「すぐに出ますから。……出たら、また」
“あなたの隣で笑いますから”。
「……分かった。湯冷めするなよ。廊下で待っている」
衣擦れと足音がして、景明が椅子を持って脱衣所から出て行く気配がした。着替えの邪魔をしないための、彼なりの紳士的な配慮だ。
一人になった脱衣所で鈴は身体を拭き、新しい着替えに袖を通した。石鹸の香りと、湯上がりの火照り。鏡に映る自分の顔は、もう青白くない。薔薇色に染まった頬と強い意志を宿した瞳がそこにあった。
廊下へと続く扉を開ける。そこには壁際に椅子を置き、少し眠そうに目を細めていた景明がいた。
鈴の姿を見た瞬間、彼は静かに立ち上がり、その鋭い眼光を和らげて鈴を見つめた。湯気と共に現れた鈴の姿に彼は一瞬言葉を失い、それから不器用に視線を逸らした。
「……湯冷めするぞ。早く部屋へ戻れ」
「はい。……ありがとうございました、西園寺様」
鈴は満面の笑みで礼を言うと景明の横を通り過ぎる。その時、すれ違いざまに鈴は彼の服の袖を摘んだ。
「あの……この後、少しお時間いただけますか?」
「?構わんが……夜食か?まだ食べ足りないのか?」
「いいえ」
鈴は首を横に振った。その瞳には先ほどの甘い熱とは違う、鋭く澄んだ光が宿っていた。
「お願いがあります。……私に戦い方を教えてください」
「……何?」
「守られるだけのお姫様は卒業です。……私、西園寺様の背中を守れるくらい、強くなりたいんです」
景明は驚いたように目を見開いた。だが、すぐにその口元に獰猛でそれでいて嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……ほう。言うようになったな、我が婚約者は」
夜はまだ終わらない。西園寺邸の裏庭は蒼白い月光に晒され、まるで海底の神殿のような静寂に包まれていた。
霜が降り始めた芝生が踏みしめるたびに微かな音を立てる。肌を刺すような十二月の夜気が湯上がりの火照った身体には心地よい。
鈴は稽古着に着替えて庭に立っていた。海老茶色の袴の裾を短めに着付け、白衣の袖をたすき掛けにしている。その手には一本の薙刀。刃引きされた稽古用とはいえ、ずしりとした樫の木の重みが掌に冷たく馴染んでいた。
その彼女の姿を洋館から庭へと続く白い石張りのテラスから見つめる視線があった。
錬鉄製のガーデンチェアに深く腰掛けた景明が湯気の立つハーブティーのカップを傍らのテーブルに置き、真剣な眼差しを向けている。
彼は湯冷めしないよう、室内用のガウンの上に厚手の軍用コートを無造作に羽織っていたが冬の冷たい外気に晒されてなお、その身から放たれる冷たく鋭利な気迫は間違いなく血生臭い戦場のそれだった。
「鈴、本気か?」
「はい。ただの素振りでは意味がありません。……西園寺様の異能を私に向けてください」
「怪我をするぞ」
「手加減はお得意でしょう?」
鈴が挑発的に微笑むと景明は一瞬驚いた顔をし、やがて獰猛で楽しげな笑みを浮かべた。彼は静かに立ち上がり、右手を夜空にかざす。
「いいだろう。……ならば、これならどうだ」
空気が凍る音が響いた。景明の指先から放たれた冷気が中空で凝固し、鋭利な氷の礫を無数に形成する。それはダイヤモンドダストのように美しく、そして凶器のように鋭い。
「氷は水の眷属だ。蜻蛉の水流だと思って捌いてみせろ。……行くぞ!」
景明が指を振るうと同時に氷の礫が弾丸となって鈴へ襲いかかった。速い。女学生の動体視力で追える速度ではない。だが、鈴の目は死線を潜り抜けて覚醒しつつあった。
(来る……ッ!)
鈴は右足を踏み込み、大きく息を吐き出した。身体が勝手に動く。女学校で何千回と繰り返した型が思考より先に筋肉を駆動させる。
「はぁっ!」
薙刀の石突きが正確に氷を弾いた。衝撃が腕に走る。重い。ただの氷ではない、異能で圧縮された高密度の質量だ。だが、怯んでいる暇はない。次弾、三弾が迫る。
「右、次は上だ!」
景明の声と共に軌道を変えて氷が迫る。鈴は薙刀を風車のように回転させた。遠心力を乗せた刃が氷を粉砕する。砕け散った氷の欠片が月光を反射して舞い落ちる。それはまるで鈴がトラウマそのものを打ち砕いているようだった。
「悪くない。……だが、これならどうだ!」
景明の左手から今度は紫電が迸った。雷撃。それは質量を持たない光の速さだ。直撃すれば黒焦げだが景明は巧みに威力を調整し、鈴の足元や頬を掠める威嚇射撃へと放つ。オゾンの焦げた匂いが鼻をつく。
「きゃっ……!?」
「止まるな!戦場では一瞬の停止が死を招く!動き続けろ!」
叱咤が飛ぶ。鈴は袴の裾を翻し、雷光を避けてステップを踏んだ。熱い。頬を掠める電流の熱が恐怖を呼び覚まそうとする。だが、鈴は薙刀を構え直し、雷の残滓を切り裂くように踏み込んだ。
「私は……もう、逃げません!」
鈴渾身の一撃が景明が防御のために展開した氷の盾を捉えた。微かな亀裂が走る。最強の異能使いが作った盾に傷をつけたのだ。
「……!」
景明が目を見開く。静寂が戻った庭で鈴の荒い息遣いだけが響いていた。汗が額を伝い、白い頬が紅潮している。その瞳は月よりも強く輝いていた。
「……見事だ」
景明は氷を霧散させ、ゆっくりと拍手をした。彼は鈴の元へ歩み寄ると震える手から薙刀を受け取り、そのまま鈴の身体を強く抱きしめた。
「合格だ、鈴。…君は強い」
「……西園寺、様……」
「君が隣にいてくれるなら私は背中を預けられる。……最強の盾を得た気分だ」
汗ばんだ身体が冷たい外気の中で触れ合う。景明の鼓動が速くなっているのが伝わってきた。それは運動のせいか、それとも。
ひとしきりの特訓を終え、二人はテラスに置かれた、錬鉄製の長椅子に並んで腰掛けた。
若菜が気を利かせて用意してくれていた厚手の毛布を二人で肩からすっぽりと被り、身を寄せ合う。まるで一つの温かい繭に入っているかのようだ。
(……温かい。西園寺様の体温がすぐ隣に……)
冷え切った夜気の中で、毛布の下で触れ合う互いの体温だけが、唯一の確かな熱源だった。
鈴が無意識に少しだけ彼の方へ身をすり寄せると景明の大きな手が毛布の中でそっと鈴の肩を抱き寄せた。
翌日、昼下がり。柔らかな冬の日差しが差し込む屋敷の書斎で景明は重厚な執務机の上に一枚の地図を広げた。湯気の立つコーヒーの香りが漂う中、彼の表情は昨夜の甘い雰囲気から一転し、軍師の顔に戻っていた。
「さて……ここからは作戦会議だ」
彼が指し示したのは帝都近郊の精細な海図だった。
「敵幹部・蜻蛉は水がある場所ならどこへでも現れる。帝都の地下水脈に潜伏している以上、陸地での索敵は困難だ」
「じゃあ、どうやって見つけるんですか?」
「誘い出す。……奴の狙いはお前の修復の異能だ。ならば、最高の餌を用意してやる必要がある」
景明の指が地図上のある一点を叩いた。帝都湾にぽつりと浮かぶ、孤立した人工島だ。
「場所はここ。“海狼城”。……かつて軍が帝都防衛のために建設した海上要塞だ」
「要塞……ですか?そんな軍事施設を私たちが使えるのですか?」
「今は違う。軍縮の影響で払い下げられたこの島をある資産家が道楽で買い取り、莫大な資金を投じて会員制の社交場に改装したのだ」
景明はそこで一度言葉を切り、呆れたと感心を含めた苦笑を漏らした。
「その持ち主こそが宝生家だ」
「ええっ!?麗華さんが……島を持っているんですか!?」
「ああ。さすがは飛ぶ鳥を落とす勢いの宝生財閥だ。『お父様にねだって買ってもらいましたの。海上の別荘なんて素敵でしょう?』と言っていたが……まさか要塞一つを丸ごと私物化するとはな」
(すごい……さすが麗華さん、桁が違うわ……!)
鈴は驚愕しつつも、妙に納得してしまった。成金と陰口を叩かれてもその圧倒的な資金力で誰もが羨む城を手に入れてしまう。それこそが彼女の強さなのだ。
「構造は堅牢な要塞そのもの、だが内装は豪華絢爛な舞踏会場。……四方を海に囲まれた逃げ場のない監獄だ」
「海……でも、敵は水を操るのに有利になりませんか?」
「逆だ。海水は真水と違って不純物が多い。奴の繊細な制御は鈍る。それに何より……」
景明は悪党のような凶悪な笑みを浮かべた。
「周りが海なら、私が海ごと凍らせてしまえば奴は袋の鼠だ」
「……西園寺様、発想が災害レベルです」
鈴は呆れつつも、その頼もしさに胸が高鳴る。景明は続けた。
「ここで大規模な“舞踏会”を開催する。……名目は宝生家と西園寺家が共催するチャリティ・ガラだ。宝生にはすでに話を通してある」
「麗華さんに?」
「ああ。あの令嬢は話が早い。『面白そうですわね、うちの島をお貸ししますわ。ついでに全額出資もして差し上げます』と即答だった」
昨日の夕方、「楽しみにしていますわ」と言っていたのはこのことだったのか。彼女はすでにこの作戦の最強の出資者として動いていたのだ。
「この舞踏会は囮だ。……奴は必ず来る。華やかな舞台、逃げ場のない海上、そして無防備に見える私たち。ストーカーの心理を突くには絶好の場所だ」
景明は地図を畳み、机越しに鈴の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には揺るぎない決意と、深い愛が宿っている。
「鈴。……この作戦が終わった二ヶ月後。軍が主催する本物の戦勝記念舞踏会が開かれる」
景明はそこで言葉を切り、鈴の左手を取った。薬指を親指で愛おしげに撫でる。
「私たちはすでに書類上は正式な婚約者だ。法的には何の問題もない夫婦になる約束ができている。……だが、これまで君の安全のためにと公表を避けてきた」
「……はい」
「だが、もう隠すのは終わりだ。……蜻蛉を葬り去ったその時こそ、私は全軍、いや全世界に向けて発表する」
景明の声が熱を帯びる。
「小鳥遊鈴こそが西園寺景明の唯一無二の婚約者であると。……お前を誰憚ることなく“私のもの”だと公言したい」
鈴の胸が早鐘を打った。それは実質的なプロポーズのやり直しであり、未来への宣戦布告だった。影の婚約者から、光の中の伴侶へ。この戦いはその輝かしい場所へ辿り着くための最後の試練なのだ。
「......はい。......必ず、勝ちましょう。西園寺様」
「ああ。......勝つぞ、鈴」
二人は柔らかな日差しの中、固く指を絡ませ合った。 窓の外では冬の風が吹いている。 だが二人の瞳に灯った炎は決して揺らぐことはなかった。
決戦の舞台は整った。 海上の要塞、偽りの舞踏会、そして迫りくる水の悪魔。 恋と硝煙の混じる、最後の戦いが幕を開けようとしている。




