第20章
重厚なドアが閉まる音と共に車が静かに走り出す。 窓の外、遠ざかる洋館の灯りが滲んで見えた。
「......鈴」
耳元で甘く低い声が響く。 先ほどまでの修羅のような気配は消え失せ、そこには粘つくような独占欲を含んだ熱だけがあった。
「......やっと、二人きりになれたな」
その言葉に含まれた意味に気づき、鈴の心臓が早鐘を打ち始める。 自動車は帝都の夜闇を切り裂くように疾走していた。
車内は外界から完全に遮断されたビロードの闇だった。エンジンの低い駆動音だけが胎内の鼓動のような重低音で響き、密室の空気を震わせている。
後部座席に深く沈み込んだ景明は隣に座る鈴の手を片時も離そうとはしなかった。ふと鈴は小さく呟いた。
「……あ。針が、ない」
「針?」
鈴のわずかな声の揺らぎさえ聞き逃さず、景明が反応する。
鈴は眉尻を下げ、困ったように視線を落とした。
「はい。さっき、麗華さんのドレスを直すときに使った針です。薔薇の間にあった化粧台……その引き出しに入っていたお裁縫道具から借りたものだったんですけど」
「……いつ無くした」
「たぶん……西園寺様が私を抱き上げてくださった時だと思います。あの時、急に視界が高くなって、びっくりしたので……」
鈴の言葉に景明は小さく鼻を鳴らした。その表情には呆れと同時にどうしようもない愛おしさが滲む。
「なんだ、そんなものか。ありあわせの道具一本に心を砕くな」
「で、でも、あれのおかげで麗華さんのドレスを直せたんですよ?何故か使いやすくて私の異能とも相性が良くて……」
「ならば、もっと良いものを贈ろう。皇室御用達の針工場ごと買い取ってやる。鈴が望むなら、世界中の針を集めてきてもいい」
「だ、だから極端すぎますってば!」
鈴は慌てて首を振る。この男は鈴に関することとなると金銭感覚と常識が消滅するのだ。
「道具などどうでもいい。代わりはいくらでもある。だが……」
景明の声色が不意に湿度を帯びた。溶けるような熱が言葉に乗って鈴の肌を撫でる。彼は鈴の手首を強く引き、その華奢な体を自身の懐へと強引に引き寄せた。衣擦れの音がして、マントの深紅の裏地が鈴の視界を覆い尽くす。
「確認させろ。……奴の薄汚い水がどこか触れなかったか」
「えっ、あ、大丈夫です!西園寺様が守って……」
「黙っていろ」
甘く、けれど拒絶を許さない低い声。
景明の大きな掌が、鈴の背中に回る。そこはドレスがV字に大きく開いた、最も無防備な素肌だった。
「ひゃっ……!」
熱い掌が露わになった肩甲骨のくぼみを直に撫で上げる。指先が背骨のラインをなぞるように這う。冷たい夜気を含んだ肌に火傷しそうな体温が伝染していく。そのあまりの温度差に鈴の背筋に電流が走った。
「ここは……濡れていないな。だが、冷えている」
「は、はい……っ」
「二の腕は……」
景明はまるで極上の美術品を鑑定するかのように、同時に獲物の味見をするかのように鈴の肌を執拗に目で追い、指で確かめていく。そして、その手は鈴の指先へと伸びた。
「消毒だ」
彼は鈴の指を一本一本、自身の唇へと運んだ。湿った音を立てて、指の腹を吸い上げる。舌先で指の間を割り入れ、敏感な甘皮の部分を歯で甘噛みする。
それは“消毒”という名目を借りた、あまりにも濃厚で背徳的な愛撫だった。
「さ……西園寺、さま……」
鈴の喉から、甘い喘ぎが漏れる。景明の瞳は揺らめく情欲の炎で潤み、獣のように細まっていた。だが彼の中には確固たる誓いがあった。“結婚するまでは清らかな彼女に最後の一線は越えない”。それが彼が自身に課した、紳士としての鉄の掟であり、最後の矜持だ。だが今、その理性の堤防は決壊寸前で軋んでいた。
(……くそ。生きて、私の腕の中にいる。それだけのことがこれほど私を狂わせるとは)
愛おしさが暴走し、破壊衝動にも似た独占欲が喉元までせり上がる。彼は鈴の腰を抱え上げると強引に自身の膝の上に座らせた。
向かい合わせの密着。ドレスとタキシードの布地を隔てて、彼の太ももの筋肉の硬さと下腹部に集まり、どうしようもない熱が鈴の柔らかい臀部に直接伝わる。
「さ、西園寺様っ……た、田中さんが……!」
鈴は顔を真っ赤にして、涙目で訴える。運転手の田中はハンドルにしがみつき、バックミラーを見ないように必死で視線を固定している。額からは滝のような汗が流れ、口元はお経を唱えているようだ。
(アアア、旦那様、ソレハ、ソレハ教育上ヨクナイデス……!私ハ空気、私ハ無機物、私ハ、ハンドルヲ回ス機械……!)
「田中は空気だ」
景明は冷酷に切り捨てた。
「だ、ダメです!それに……私、重いし……こんな格好……」
「軽い。羽毛のようだ」
景明は鈴を逃がさないように背中の開いた部分に腕を回し、肌と肌を密着させた。タキシードのボタンが、鈴の薄い胸元に食い込む。
「それに……言い出したのは君だろう?“本番のリハーサル”がしたいと」
「い、いましたけど…そういう意味じゃ…」
敵の罠かもしれない招待状。それを逆手に取り、「どうせ二ヶ月後に軍主催の本番があるなら予行演習だと思って乗り込みましょう!」と提案したのは他ならぬ鈴だった。
「あと数ヶ月……。それまで私の精神が保つかどうか」
景明は鈴の肩口に顔を埋め、深く、長く、飢えたように息を吸い込んだ。
鈴の髪から漂う石鹸の香りと彼女自身の甘い匂いが景明の脳髄を痺れさせる。
スタンドカラーの繊細なレース越しに熱い唇が這い、そのまま無防備に露出している耳たぶから耳の後ろにかけて、キスマークを残すかのような強い吸引が与えられた。
首元を覆う布越しに伝わる火傷しそうな熱と耳元への直接的な甘い刺激。さらに大きく開いた背中の素肌を這う彼の手の感触に鈴の身体から力が抜け、彼女は弾むような吐息を漏らして彼の広い肩にすがりつくしかなかった。さらに耳元で漏れる鈴の吐息が最後の引き金を引こうとする。
景明は奥歯を噛み締め、血の滲むような思いで衝動をねじ伏せた。ここで彼女を押し倒してしまえば、自分はただの獣に成り下がる。だが離すことができず、彼は鈴を抱きすくめる腕に万力の力を込めた。
「君は勇敢だ。……だが、私の心臓は止まりかけたぞ」
「……ごめんなさい」
「謝るな。……ただ、二度と危険な真似はしないでくれ…」
低く、地を這うような独占欲の塊。鈴は観念して彼の胸に頬を寄せた。タキシードの下、景明の心臓が早鐘を打っているのが聞こえる。それは冷徹な“鬼少佐”のものではなく、恋に落ち、愛欲に悶える一人の男の鼓動だった。
車窓の外を流れる街灯の光が、重なり合う二人の影を断続的に照らし出す。密室の熱気は最高潮に達し、硝子は白く曇り始めていた。
その曇ったガラスに一瞬だけ奇妙な影が映ったことに気づいた者はまだ誰もいなかった。
◇
帝都の喧騒から遠く離れた、持ち主を失った豪奢な洋館の一室。
かつて貴族が愛したであろうその空間はむせ返るような白百合の甘い香りと蓄音機からノイズ混じりに流れる優雅なワルツの旋律に支配されていた。
部屋の中央にはアンティークの大理石で作られた水盤が鎮座し、どこから引かれているのか、澄み切った水が静かに満たされている。
その水盤の縁に男が優雅に腰掛けていた。仕立ての良い漆黒の燕尾服に純白の蝶ネクタイ。左目には怪しく煌めく片眼鏡を嵌め、一見すれば夜会を抜け出してきた完璧な紳士のようにも見えるその男、蜻蛉は手にした薄張りのクリスタルグラスの水をまるで極上のワインでも味わうかのようにうっとりと見つめていた。
水面には鮮明な映像が映し出されている。それは彼の異能、水鏡による遠隔視だ。帝都中に張り巡らされた水道管や地下水脈、その全てが彼の目となる。
水鏡の中で黒塗りの自動車が走っている。後部座席で密着する二人の男女。景明と鈴だ。
「……ああ、美しい」
蜻蛉は細く長い舌で唇を舐めた。その視線は最強の異能者である景明には向いていない。彼が執着して見つめているのは、か弱い少女の方だった。
「見ましたよ、ええ、見ましたとも。あの素晴らしい修復を」
先ほどの舞踏会場での光景が蜻蛉の脳裏に焼き付いている。
麗華の裂けたドレス。鉄くず同然の針。彼女はそれを握り、白色の光を纏わせた瞬間、それは神具へと変貌した。
裂けた布地がまるで時間を巻き戻したかのように繋がり、そこへ新たな命を吹き込む。その手際の鮮やかさ、その力の特異性。
「“壊れたものを直す”……。それはエントロピーの増大という宇宙の法則への反逆。神への冒涜」
蜻蛉は水面に指先を突っ込んだ。水面が揺らぎ、映っていた鈴の顔が歪む。
「欲しい。……どうしても欲しい」
彼の欲望は単純な戦力増強などという即物的なものではなかった。もっと粘着質で、学術的で、そして変質的な探究心だ。
彼は懐からホルマリン漬けにされた昆虫の標本を取り出した。それはまだ生きているかのように美しい蝶だ。
「私のコレクションに加えたい。……いいえ、標本にしてはつまらないですね」
蜻蛉は喉の奥で笑った。
「彼女は生きたままがいい。四肢を切り落とし、内臓を少しずつ引きずり出し……どこまで壊せば死ぬのか。そして、どこからなら修復できるのか。その境界線をこの手で確かめたい」
永遠に続く実験。壊しては直し、直しては壊す。彼女の修復の異能があれば、死なせることなく、無限の苦痛と再生の輪舞曲を踊らせることができるだろう。
想像するだけで蜻蛉は震え、股間が熱く疼くのを感じた。
「西園寺景明、貴方は彼女を“守る”と言いましたね?」
蜻蛉は立ち上がり、汚水が流れる暗渠を見下ろした。
景明の氷と雷の結界は確かに鉄壁だ。正面から挑めば、組織の幹部総出でも突破は困難だろう。先ほどの雷撃の威力を見れば明らかだ。
だが、どんなに強固な城壁にも必ず穴はある。
「貴方の屋敷は要塞そのもの。壁も、窓も、空も、貴方の監視下にあるでしょう。ですが……」
蜻蛉は水盤の澄み切った水面に向かって愛おしげに指先を滑らせながら語りかけた。
「水はどこにでも入り込むのですよ」
人間が人間である限り、水を断つことはできない。飲み水、手洗い、洗濯、そして入浴。
帝都の地下深くに張り巡らされた水道管は血管のように全ての家々と繋がっている。それは強固な結界を誇る西園寺邸とて例外ではない。
「壁をいくら厚くしても、日常生活の隙間までは塞げない。……蛇口をひねればそこはもう私の領域なのですよ」
蜻蛉の身体が崩れ始めた。骨も肉も、仕立ての良い燕尾服も、すべてが透明な液体へと変化し、音もなく水盤の中へと溶け込んでいく。それは人間という形を捨てた、純粋で粘着質な悪意の流動体。
(待っていてくださいね、私の可愛い実験動物。……今夜は特にお風呂が気持ち良いはずですよ)
微かな水音と波紋だけを残し、液状化した蜻蛉は水盤の底、帝都の水脈へと直結する配管の奥深くへと吸い込まれていった。
目指すは一点。厳重な警備に守られた西園寺邸の最もプライベートで、最も無防備になる場所、浴室へ。二ヶ月後の本番を待たずして、日常のすぐ足元から、冷たく滴るような恐怖が這い上がろうとしていることを、二人はまだ知らない。
◇
西園寺邸に到着した頃、帝都はすでに丑三つ時を迎えようとしていた。
車内での濃密な時間の余韻を無理やり振り払うように鈴はふらつく足取りで屋敷の廊下を歩いていた。
景明は玄関ホールで待ち構えていた氷室に捕獲され、主に会場破壊の損害賠償と麗華への根回しについての緊急報告のため、後ろ髪を引かれる思いで書庫へと連行されていった。
「……お風呂。早く、お風呂に入らなきゃ」
鈴は自身の頬を両手で叩いた。今夜は処理能力の域を超えている。蜻蛉の襲撃、麗華との共闘、そして車内での景明の、あの、魂ごと吸い尽くすような愛撫。肌に残る彼の手の熱さを洗い流さなければ、今夜は知恵熱を出して倒れてしまいそうだった。
西園寺邸の浴室は大正モダンを象徴する白亜の聖域だ。猫足のバスタブには若菜の手によって適温の湯が張られ、薬草の独特な香りを漂わせてい。立ち込める湯気が視界を白く染め、外の世界の汚れを全て遮断してくれているようだった。
(よかった……。ここなら誰も入ってこれない)
若菜に手伝ってもらって窮屈なドレスとコルセットから解放された鈴は最後に残った薄絹のシュミーズとドロワーズをふわりと滑り落とし、生まれたままの姿になった。
鏡に映る自分の肌はまだ少し上気している。特に景明に執拗に愛撫された指先や、熱い唇を這わせられたうなじから背中にかけての素肌が微熱を持ったように火照っていた。
その甘い痺れの余韻を指先でそっとなぞり、車内での密室の出来事を思い出してまた赤面しながら鈴はバスタブへと足を向けた。
その時だった。水音にしてはあまりにも粘着質な音が響き、鈴は足を止める。
「……?」
気のせいだろうか。排水溝の奥で何かが詰まっているような音。だが、違和感はそれだけではなかった。蛇口の先から垂れる水滴が重力に逆らうように戻ったのだ。落ちかけた水がまるで生き物のように蛇口の中へと引っ込んでいく。
そして鏡が曇った。湯気の白さではない。鏡面の内側からどす黒いヘドロのような染みが広がる。曇った鏡の表面に無数の水滴が文字を描くように這い回る。
“ミ”、“ツ”、“ケ”、“タ”。
「……ああ、素晴らしい裸体だ」
声は耳ではなく湿った空気そのものが鼓膜を舐めるように響いた。バスタブの湯面が沸騰したように盛り上がる。
薬草の香りが一瞬にして消え失せ、代わりに腐った藻の臭いと鉄錆の生臭さが浴室に充満した。
「ひっ……!」
鈴は息を呑み、後ずさる。背中が冷たいタイルに張り付く。湯が急速に黄ばんだ粘液へと変わっていく。その中から液体の手が無数にまるで触手のように伸びてきた。
「見せておくれ、君の“中身”を!壊れた細胞が再生する瞬間の、あの生命の活気を!ああっ、想像するだけで脳漿が沸騰しそうだァ!」
蜻蛉の声は完全に恍惚に達していた。液体の手は鈴の足首、太ももに這うように絡みつこうとする。その先端には無数の眼球と舌が形成されていた。
「さあ、融合しようじゃないか。私の全てで君を犯し、分解し、再構築してあげる……。痛みなんてすぐに快感に変わるさ。私の水で満たしてあげるからねぇ」
「い……」
鈴の喉が引きつる。恐怖とかそういう次元ではない。“生理的に無理”という感情が限界突破し、全身の鳥肌が総立ちした。
恐怖が限界を超え、思考回路が焼き切れた。羞恥心も理屈もない。ただ、“この変態から逃げなければ貞操以前に人間としての尊厳が終わる”という本能だけが彼女を突き動かす。
「いやあああああああああああああああっ!!無理いぃぃぃぃぃ!!!」
鈴の絶叫が白亜の浴室を震わせた。彼女は脱衣所の扉を蹴破る勢いで飛び出し、濡れた足のまま廊下へとスライディング気味に駆け出した。もちろん一糸纏わぬ姿で。
「誰か!誰かあああっ!お風呂に変な汁男がぁぁぁ!!」
パニック状態の鈴は自分が全裸であることなど忘れ、とにかく“景明のいる場所”を目指して爆走した。廊下の角をドリフト走行で曲がる。その瞬間だった。
「鈴!?」
「小鳥遊嬢!?」
二つの影が廊下の向こうから疾風のように現れた。鈴の悲鳴を敵襲と判断し、執務室から神速で駆けつけた景明と報告書の束を抱えて必死に追従してきた氷室だ。
廊下の真ん中で三人が正面衝突する。鈴は真っ裸だ。隠すものなど何もない。風呂場の温度でほんのり桜色に染まった白磁の肌、発育途中の胸の膨らみ、くびれた腰、そしてあられもない秘部まで。
「あ……」
時が止まった。鈴の脳内で“終わった”という文字が走馬灯のように流れる。恐怖が一瞬で吹き飛び、代わりに核爆発級の羞恥心が炸裂した。彼女はその場に「ひゃうっ!」と奇妙な声を上げてしゃがみ込み、両手両足で自身の体を隠そうとした。だが当然隠しきることはできず、涙目で震えた。
「お、お嫁に……お嫁に行けないぃぃ……!」
その光景を前に男たちの反応はコンマ一秒で分岐した。後方にいた氷室は眼鏡の奥の目をカッと見開き、条件反射で身を乗り出した。
「え、何!?白!?ピンク!?桃源郷……ぶべらっ!?」
鈍く致命的な音が響いた。氷室の網膜にその絶景が焼き付けられるより早く、景明の大きな掌が氷室の顔面を鷲掴みにし、そのまま壁へとスマッシュしたのだ。
アイアンクローなどという生易しいものではない。顔面粉砕待ったなしの握力である。
「見 る な ァ ッ !!」
地獄の底から響くような、咆哮。景明は氷室の顔面を壁にめり込ませたまま、さらにねじり上げた。
「貴様……殺すぞ。……いや、網膜を焼き切って記憶野を破壊してから殺す!!」
「しょ、少佐ぁ!?理不尽!まだ何も……輪郭しか……あががが!」
「輪郭もアウトだッ!!」
景明は氷室をゴミのように放り捨てると自身のマントを広げようとして硬直した。彼自身の顔もまた、耳の先まで真っ赤に茹で上がっていたのだ。
彼は見てしまった。一瞬とはいえ、愛する女性の、あまりにも無防備で、神々しいまでの全裸を。その焼き付いた残像が彼の脳内で極彩色の刺激となって暴れ回り、鼻血が出そうなほどの興奮物質を分泌させている。
「くっ……!」
景明は紳士としての理性と男としての本能の狭間で壊れたような反応を見せ、直角に背を向けて仁王立ちになった。
「す、鈴!か、隠れろ!いや、動くな!私も動かん!決して振り返らんぞ!……たぶん!」
「自信なさげに言わないでくださいぃぃぃ!」
「あらあら、まあまあ!なんて痴態!」
そこへ真の救世主が現れた。騒ぎを聞きつけた若菜がバスタオルを広げてムササビのように飛んできたのだ。
彼女は手際よく鈴の体を包み込むとまるで雛鳥を守る親鳥のように抱きしめた。
「鈴様、大丈夫ですよー。さあ、若菜お姉様が守ってあげますからねー。……はい、そこの殿方たち!鼻の下伸ばさない!」
その一言で廊下のパニックは強制終了した。残されたのは壁に人型にめり込んだ氷室と赤面したまま壁に向かってお経を高速で唱え始めた“最強の軍人”だけであった。
騒動から一時間後。厳重な警戒態勢が敷かれた西園寺邸。蜻蛉の気配は景明が浴室ごと氷漬けにして粉砕したため、完全に消滅していたが念のため鈴は景明の寝室に避難していた。
天蓋付きのキングサイズベッドの中で鈴は毛布を鼻まで引き上げてミノムシのように丸まっている。
ベッドの脇の椅子に景明が座っていた。彼はタキシードの上着を脱ぎ、ベスト姿になっていたがその背中は酷く強張っていた。
「……飲めるか」
「……はい」
鈴は毛布から手だけを出して、ホットミルクの入ったマグカップを受け取った。
一口飲み、鈴は恐る恐る景明を見上げた。彼は足を組み、本を読んでいる。がそれはフリだった。ページをめくる景明の手は震え、そもそも上下逆さまだった。
「あの……西園寺様」
「なんだ」
「……見ました、よね?」
核心を突く質問。景明の肩が大きく跳ねた。彼は書類を置き、鈴の方を向いた。その表情は鉄仮面のように無表情を作ろうとして、引きつっている。
「何のことだ」
「だから……その。廊下で私が……その……」
鈴は言葉に詰まり、顔を真っ赤にして俯いた。思い出しても恥ずかしい。
景明は長く熱い息を吐いた。そして鈴の頭に優しく大きな手を置く。その手つきはどこか切羽詰まった熱があった。
「廊下も湯気で白く煙っていたからな。君が飛び出してきて、ぶつかってはきたが……それだけだ。視界は完全に塞がれていたからな。何も見えていないし、記憶にもない」
それは明らかな嘘だ。廊下に湯気など届いていなかった。最強の異能者である彼の動体視力なら、一瞬であっても肌のキメ一つまで見えていたはずだ。それにぶつかった時の肌の柔らかな感触で着衣がなかったことくらい嫌でも気づいたに違いない。
けれど、彼は真顔で帝国軍人としての威厳を総動員して言い切った。最愛の婚約者の尊厳を守る最強の盾として。
「……そうですか」
鈴は小さく笑った。その強引な嘘が彼なりの必死で不器用な優しさだと知っているから。
「よかった……。見えてなかったんですね」
「ああ。……安心しろ」
景明は鈴に背を向け、窓際へと歩いていった。
「今日はもう眠れ。私がここで見張っている」
「はい……おやすみなさい、西園寺様」
鈴は安心して目を閉じた。寝息が聞こえ始めるまで景明は微動だにしなかった。
(……見えないわけ、あるかァァァッ!!)
窓の外、月を見上げる景明の心は活火山のように噴火していた。瞼を閉じれば鮮明にあまりにも鮮明に蘇るヴィーナスの姿。
白い肌。柔らかな曲線。桜色のトップ。そして恥じらって潤んだ瞳。その映像が脳内でエンドレスリピート再生されている。
(くそッ!くそッ!なぜ私の記憶力はこんなに良いんだ!忘れようとすればするほど鮮明になる!)
下腹部に集まる熱が痛いほどだ。
彼は窓枠を掴んだ。軋む様な音がして、堅牢な樫の木の枠に指が食い込む。襲いたい。今すぐあのベッドに飛び込んで、あの柔らかな体を蹂躙し、己の刻印を刻み込みたい。
だが、そんなことをすれば彼女は怯え、二度と笑いかけてくれないかもしれない。何より“結婚するまでは手を出さない”という誓いが最後の最後で彼の理性を繋ぎ止めている。
(……こんな状態で寝れるか)
景明は額を冷たい窓ガラスに押し当てた。ズボンがきつい。全身の血が沸騰しているようだ。
蜻蛉への殺意と、鈴への愛欲と、紳士としての矜持が綯い交ぜ(ないまぜ)になり、彼は深い深い苦悶のため息をついた。
帝都の夜は長い。 最強の盾にして、最強のムッツリ紳士の戦いは朝まで続くのであった。




