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第19話

 音楽が止まっても、二人は離れなかった。重なり合った視線。互いの吐息がかかるほどの距離。 そして鈴の露わになった背中に回された、景明の大きく熱い掌。その温度が薄い手袋越しに肌を焦がすような錯覚を与える。

(......心臓のドキドキが止まらない)

 鈴は頬を上気させ、潤んだ瞳で目の前の婚約者を見上げていた。鬼少佐と恐れられる彼が今はただ一人の男として、熱を孕んだ瞳で自分を見つめている。その事実に全身の血液が沸騰しそうだった。

「西園寺、様......」

 しかし、そのロマンチックな空気は景明の低く、地を這うような囁きによって物理的に凍りつく。

「......鈴。いつまでその無防備な背中を晒しているつもりだ」

 耳元に落ちてきたのは甘い愛の言葉ではなく、ドス黒い独占欲とそして先ほどのバルコニーの男への警戒心に塗れた叱責だった。

「ひゃっ......!?」

「さっさと私の影に入りなさい。周囲の有象無象が君の肌を値踏みするような視線を向けている。......全員の眼球をくり抜いて氷漬けにしてやりたい気分だ」

「ぶ、物騒なことを言わないでください、西園寺様!」

 景明は素早く体の位置を変えると壁になるようにして鈴の背中を完全に隠した。その動きは軍人らしく無駄がなく、かつ獲物を囲い込む猛獣のように隙がない。

 彼がフロアと、そして二階のバルコニーへと鋭い視線を一巡させると遠巻きに見ていた紳士たちが息を呑み、慌てて視線を逸らすのが分かった。同時に誰からともなく拍手が湧き起こる。それは次第に大きくなり、万雷の喝采となって硝子の館を揺らした。

「素晴らしい!なんて優雅なワルツだ!」

「あのドレスを見ろ。まるで夜空そのものを纏っているようだ」

「蓑虫なんて言ったのは誰だ?あれはまさに羽化して飛び立った蝶じゃないか」

 称賛の嵐。 先ほどまで鈴を嘲笑し、遠巻きにしていた人々が今は憧憬の眼差しを向けている。 深紺のベルベットに散りばめられたダイヤモンドの星々。計算し尽くされたドレープは鈴が動くたびに流星群のように煌めき、彼女の本来の美しさを極限まで引き立てていた。

 利益のことしか頭にない厳格な父の下で、ただ息を潜めて生きてきた“じゃじゃ馬な子爵令嬢”という周囲の偏見。そのレッテルは星月夜の魔法によって完全に剥がれ落ち、そこには今宵の主役たる“華”が咲き誇っている。鈴は頭を下げ、景明の腕にしがみついた。

「……夢みたいです。私、ちゃんと踊れていましたか?」

「ああ。完璧だった。君は私の自慢の婚約者だ」

 景明は短く、けれど確信を込めてそう告げた。その瞳の奥には揺るぎない肯定と愛おしさが宿っている。だが、彼の広い背中の向こう側でバルコニーから見下ろす冷たく粘着質な視線とフロアの端で嫉妬に狂う麗華の視線が静かに二人を狙っていた。

 真紅のドレスに身を包んだ彼女の顔は屈辱と嫉妬で醜く歪んでいる。

(何よ、あれ……!何なのよ、あの小娘は!)

 麗華のプライドは無残に引き裂かれていた。

 田舎者の下級華族令嬢だと見下していた。蓑虫のようなショールを被って震えていたはずの小娘が、一瞬にして会場中の視線を独占したのだ。それだけではない。麗華が喉から手が出るほど欲しかった“西園寺景明”という至高の宝石があろうことか、あの小娘を何よりも大切に扱い、守っている。その事実が、麗華の腹の底でドス黒い炎となって燃え上がった。

(許さない。私の舞踏会で私より目立つなんて……絶対に許さない!)

 麗華の脳裏に先ほど蜻蛉と名乗る紳士から授けられた言葉が蘇る。

 “彼女の心さえ折ってしまえば、あの男も貴女のものになりますよ”

 “まずは、その美しいドレスを汚してあげなさい。惨めな姿を晒せば、魔法は解けます”

 麗華は近くの給仕からワイングラスを二つ奪い取ると、口元に張り付いたような笑みを浮かべた。グラスの中には血のように濃い赤ワインが波打っている。

(ええ、そうね。素敵なドレス。でも、それが汚物まみれの雑巾になったら、西園寺様だって幻滅するはずよ)

 ヒールの音を高く響かせ、麗華は人垣を割って進み出た。周囲の空気が変わる。“西園寺景明”と“小鳥遊鈴”、そしてこの屋敷の令嬢である“宝生麗華”。役者が揃った舞台に好奇の視線が集まる。

「まあ、小鳥遊様。西園寺様」

 鈴が肩を震わせる。景明の腕に回された手に力が入るのを、彼は優しくも力強く包み込んだ。

 景明がゆっくりと振り返る。その表情は能面のように冷徹だが纏う空気は絶対零度。

「……何か用かな、宝生令嬢」

「うふふ、そんなに警戒なさらないでくださいませ。私、先ほどのダンスに感動いたしましたの。小鳥遊様のあの素晴らしい変身ぶり……まるで、道端の石ころが磨けば光る宝石だったと知ったような驚きでしたわ」

 褒めているようで言葉の端々に棘がある。鈴は唇を引き結び、毅然とした態度で顔を上げた。これまでの自分なら俯いていただろう。だが、今の自分は一人ではない。隣には最強の味方がいる。

「お褒めに預かり光栄です、宝生様」

「……仲直りの印に乾杯をいたしませんこと?これまでの非礼をお詫びしたくて」

 麗華は殊勝な態度を装い、二つのグラスを差し出した。その目は笑っていない。爬虫類のような冷たい光が鈴のドレスの背中、無防備に開いた白磁の肌と夜空色の布地の境界線を見据えている。

(そこよ。そこへこのワインを浴びせてやる)

 鈴が戸惑いながらも手を伸ばそうとした、その時だった。

「あっ……!」

 麗華がわざとらしく足をもつれさせた。計算された転倒。彼女の手から離れたグラスが宙を舞う。遠心力に従い、波打つ赤ワインが赤い放物線を描いて鈴へと襲いかかる。狙いは正確。このままでは鈴の背中とドレスは赤黒い染みで汚され、会場中の笑いものになる。

 はずだった。硬質で透明な音が響いた。時間は止まらなかった。だが、物理法則が一部だけ書き換えられたかのような現象が起きた。

 鈴の背中に降りかかるはずだった液体が空中で静止していたのだ。否、静止ではない。それは飛び散った飛沫の一粒一粒に至るまで瞬時にして凍結していた。

 宙に浮かぶ、無数の赤い宝石。ルビーのように結晶化したワインは鈴の肌に触れる寸前でピタリと動きを止め、乾いた音を立てて床へと落下した。ドレスには一滴の染みすら付いていない。

「え……?」

 麗華は目を丸くし、自分の手と床に転がる赤い氷の粒を交互に見た。何が起きたのか理解できない。ただ、肌を刺すような冷気だけがそこにあった。

「……おや。手が滑ったのかな?」

 頭上から降ってきたのは絶対零度の嘲笑だった。

 景明は片手で鈴を抱き寄せた。そして指先からは白い冷気が立ち昇っていた。彼が何をしたのか、凡庸な人間には見えなかっただろう。

 だが、その場にいた全員が本能で悟った。この男が何かをしたのだと。

「西園寺、様……?」

「随分と足元がおぼつかないようだ。舞踏会の主催者がこれでは示しがつかないのではないかな」

 景明の声色は丁寧な敬語だ。しかし、その実態は靴で相手の喉元を踏みつけているに等しい威圧感だった。周囲の客たちは息を殺し、遠巻きに見守るしかない。

 麗華の顔が赤から青、そして白へと変わる。失敗した。防がれた。しかも、あからさまな敵意を向けられている。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。彼女の背後にはあの組織の影がある。失敗すれば自分自身の立場が危ういという焦燥が彼女を更なる愚行へと駆り立てた。

「も、申し訳ありません!私としたことが……!」

 麗華は引きつった笑みを浮かべ、必死に取り繕った。

「ああ、でも大変!小鳥遊様のドレスにほんの少し跳ねてしまったかもしれませんわ!ワインの染みはすぐに落とさないと大変なことになりますのよ!」

「えっ?でも、何も……」

「いいえ、後ろですもの、ご自分では見えなくて当然ですわ!さあ、こちらへ。奥の薔薇の間へご案内します。すぐに処置をいたしましょう!」

 それは明らかな嘘だった。床に落ちた氷を見れば一滴も付着していないことなど明白だ。

 しかし、麗華は強引に鈴の腕を掴んだ。その爪が食い込むほどの強さに鈴は彼女の余裕のなさを感じ取った。

 (この人、焦っている……?どうしてここまで?)

「断る」

 力強く引っ張られる鈴。だが、反対側の腕を万力のような力が引き止めた。

 それは景明だった。彼は麗華の手から鈴を奪い返すように引き寄せ、その鋭い眼光で麗華を射抜く。

「鈴は私の視界から離さない。ドレスの手入れが必要なら、私がここで行う」

「ま、まあ!殿方が何を仰いますの!?薔薇の間は男子禁制、淑女のための化粧室ですわ。西園寺様といえど、立ち入ることは許されません!」

 麗華はここぞとばかりにマナーという盾を構えた。

 社交界において、男女の別は厳格だ。化粧室に男性が押し入るなど、スキャンダル以外の何物でもない。

「私の婚約者を守るのに規則など関係ない」

「館の主として困ります!そのような破廉恥な行為は認められません!」

 ギャラリーがざわめく。「さすがに化粧室までは……」「鬼少佐でもそこまではできないだろう」という囁きが漏れる。

 膠着状態。景明の周囲の空気が音を立てて凍りつき始める。彼がその気になれば、この館のルールどころか、館そのものを氷塊に変えて黙らせることなど造作もないのだ。

(いけない。このままでは西園寺様が悪者になってしまう)

 鈴は意を決して、景明の袖を引いた。

「……西園寺様。大丈夫です」

「鈴?」

「宝生様のご厚意ですもの。それに本当にお化粧直しもしたいのです。……少しだけ、時間をください」

 鈴は景明を見上げ、瞳だけで訴えかけた。

 “私には修復の力があります。何かあっても、自分の身くらいは守れます”と。もちろん、それは景明にとっては何の慰めにもならない。彼にとって鈴は世界で最も守られるべき存在なのだから。

 景明は不満げに眉間の皺を深くし、数秒の沈黙の後、懐から銀時計を取り出した。

 蓋を開ける音がやけに大きく響く。

「……五分だ」

 彼は冷酷な宣告者の声で言った。

「五分待つ。それ以上戻らなければ、私は館のルールごと捻じ曲げて迎えに行く」

「は、はい……!」

「一秒でも過ぎれば、この硝子の館がどうなろうと知ったことではないからな。……肝に銘じておけ」

 後半の言葉は鈴へではなく、明らかに麗華へ向けられた殺害予告だった。

 麗華は息を呑んだが、すぐに気を取り直して鈴の背中を押した。

「さ、さあ参りましょう小鳥遊様!急がないと染みが落ちなくなってしまいますわ!」

 逃げるように、連れ去るように麗華は鈴を伴って、ホールの奥にある重厚な扉の向こうへと消えていった。

 残された景明は閉ざされた扉を睨みつけたまま、銀時計の針を目で追う。

 無機質な秒針の音が彼の苛立ちをカウントダウンしていく。

「……愚かな。自ら虎の尾を踏みに行くとはな」

 景明は誰に聞かせるでもなく呟き、手にしたグラスの中身を一瞬で凍結させた。

 彼が危惧しているのは鈴の身の安全ではない。

 いや、もちろんそれもあるが彼が本当に恐れているのは鈴を傷つけようとする者が自身の逆鱗に触れた結果、この軽井沢の山一つが地図から消え去ることだった。

(行け、鈴。……慈悲深い君のことだ。せいぜい、あの愚か者に引導を渡してやれ)

 扉の向こう、廊下の突き当たりにある薔薇の間の扉が重々しい音を立てて閉ざされた瞬間、世界から一切の音が遮断された。

 ワルツの旋律も、人々のざわめきも、シャンパングラスが触れ合う軽やかな音も。分厚い樫の木の板一枚が光あふれる表の世界と今から始まる裏の劇とを無慈悲に分断する。

 密室に残されたのは麝香と薔薇の香油が入り混じった、鼻孔にまとわりつくような甘ったるい匂いだけ。それはどこか、熟れすぎた果実が腐り始めた時の臭気に似ていた。

 麗華が内側から鍵をかけた音が静寂の中で不吉な引き金のように響いた。金属音が鼓膜を刺す。

「……あの、宝生様?鍵をかけなくても……」

「……黙りなさい」

 低く、震える声だった。麗華は扉に背を預けたまま動かない。その背中からは先ほどまでの淑女の気配が霧散し、代わりにどす黒い怨嗟の念がコールタールのように滲み出していた。

「…この薄汚い泥棒猫が!」

 ヒステリックな絶叫が狭い空間に反響して空気を震わせた。

 麗華が振り返る。その顔を見て、鈴は思わず息を呑んだ。整っていたはずの化粧は崩れていない。髪も乱れていない。だというのに彼女の表情筋は醜く引きつり、瞳孔は極限まで開ききり、まるで爬虫類が獲物を威嚇するかのような形相へと変貌していた。

 麗華は床をヒールで蹴りつけるようにして鈴に歩み寄る。その一歩ごとに鈴は後ずさりを余儀なくされ、やがて背後の化粧台に腰をぶつけた。

「痛っ……」

「痛い?被害者ぶらないでよ!そのあざとい声、その上目遣い!そうやって男たちに媚びを売って、哀れな娘を演じてきたんでしょう!?」

 麗華の手が伸びる。鈴の細い首を絞め上げようとして指先が触れる寸前で止まった。

 彼女の視線が鈴の纏うドレスに釘付けになったからだ。深紺のベルベット。散りばめられたダイヤモンド。それは至近距離で見れば見るほど、溜息が出るほど精巧で、美しく、そして残酷なまでに高価だった。

 麗華の手は震えた。汚したい。引き裂きたい。けれど、その圧倒的な格の高さが成金である彼女の劣等感を刺激し、指一本触れることを躊躇わせたのだ。

「ああ……忌々しい!なんて忌々しいの!」

 行き場を失った暴力衝動が近くにあった白粉の缶へと向かう。

 麗華が腕を振り回し、銀色の缶を薙ぎ払った。床に叩きつけられた缶がひしゃげ、白い粉が爆発したように舞い上がる。視界が白濁する。粉っぽい空気が喉に張り付き、鈴はむせ返った。

「……宝生様、落ち着いてください!」

「落ち着けですって!?貴女なんかに私の何が分かるのよ!」

 麗華は白煙の中で、血走った目を剥いて叫んだ。

「お父様は一代で財を成して、強引にこの社交界へ這い上がってきたわ。ええ、そうよ、私たちはただの成り上がりよ!由緒ある華族の連中から、陰で泥臭い成金だと嘲笑われていることくらい知っているわ!だからこそ、私は誰よりも美しく、誰よりも気高く振る舞わなければならなかったの!最高級のドレスを纏い、最高級の宝石を身につけ、血筋しか誇れないあいつらから絶対に見下されない“本物”にならなきゃいけなかったのよ!」

 唾液を飛ばし、髪を振り乱して叫ぶ姿はもはや令嬢ではない。それは承認欲求という名の飢餓に苦しむ、哀れな餓鬼の姿だった。

「なのに……どうして貴女なの!?ただ政略結婚に利用されるだけの子爵令嬢のくせに!華やかな舞台でも息を潜め、自分の意思すら持とうとしない……ただの蓑虫のくせに!」

 麗華は一歩踏み出し、鈴の胸元へと、汚いものを指差すように突きつけた。

「そのドレスも、西園寺様という最高の婚約者も、本来ならすべて努力してのし上がったこの私が手に入れるべき正当な報酬なのよ!貴女のような紛い物がどうして一番いいところを掠め取っていくのよ!」

 鈴は舞い散る白粉の中で悲しげに眉を寄せた。麗華の言葉は刃となって鈴に向けられているが、その実、彼女自身を傷つけているように見えたからだ。

「……宝生様。西園寺様は報酬でも、飾り物でもありません。誰かに選ばれるのを待っている商品ではないのです。彼は心を持った人間です。……それに貴女が本物になろうとする努力は立派ですが他人を見下すことで自分を高めようとするなら、それは」

「黙れェッ!!」

 鈴の声は静かだったが芯の通った響きを持っていた。図星を突かれた麗華が、鼓膜が破れんばかりに絶叫した。

 麗華は鈴を突き飛ばすようにどかし、化粧台の前に立ちふさがり、壁一面を覆う巨大な三面鏡を指差した。

「偉そうな口をきくな!見なさい!鏡に映る自分の姿を!」

 麗華は歪んだ笑みを浮かべる。

「着飾ったところで中身は空っぽ!所詮はメッキが剥がれた石ころよ!鏡に映る価値すらないわ!」

 麗華は勝利を確信したように自らも鏡を覗き込んだ。そこには真紅のドレスを纏った美しい自分と白粉に塗れて惨めに縮こまる鈴の姿が映っている、はずだった。

「……は?」

 麗華の喉から間の抜けた音が漏れた。鏡の中の世界。そこには確かに“二人”が映っていた。しかし、鈴の姿は変わらず美しいまま、凛としてそこに立っている。問題は麗華自身だった。

「な、なに……これ……?」

 鏡の中にいたのは麗華ではなかった。それは酷く醜く老いさらばえ、皮膚が溶け落ちた腐乱死体のような怪物だった。

 自慢の髪は白髪となって抜け落ち、頭皮には湿疹が広がり、一部からは白い蛆のようなものが這い出している。張り詰めていた肌は土色に濁り、垂れ下がった頬の肉が鏡の中で溶け落ちてドレスを汚していた。

 そして何より恐ろしいのはその目がどす黒いヘドロのような嫉妬の涙を流しながら薄気味悪く笑っていたことだ。

「ひっ……!?」

 麗華は悲鳴を上げて後ずさった。だが、三面鏡の左右の鏡にも、背後の姿見にも、手鏡にも、部屋中に配置された無数の鏡すべてにその醜悪な腐った老婆が映り込んでいた。

「ああ、よく見えているね。それが君の“本性”だよ」

 どこからともなく、甘く、低い男の声が響いた。耳から聞こえるのではない。脳髄に直接、舌で舐め上げられたかのような粘着質な響きを持っていた。蜻蛉の声だ。

「誰!?誰なの!?嫌っ、見ないで!こんなの私じゃない!」

「いいや、君だとも。鏡は正直だ。君の心の醜さ、腐敗したプライド、他人を妬む悪臭漂う魂を余すところなく映し出している」

 その言葉を合図に空間がぐにゃりと歪み、同時に建物の悲鳴のような地響きが鳴り渡る。壁紙の優雅な薔薇の模様が毒々しい人面瘡のように蠢きだす。床が波打ち、天井が遠ざかる。

 ただの化粧室だったはずの空間がゴムのように引き伸ばされ、不気味な奥行きを増していく。

「西園寺様との約束の五分……ううん、もう時間の概念などないわね…」

 鈴が呟く声も遠く水底から聞こえるように霞んでいく。気がつけば、そこは無限回廊と化していた。前後左右、上下に至るまで見渡す限りの合わせ鏡。無限に続く鏡の迷宮の中に数千、数万という腐った麗華が立ち尽くし、一斉に本体の麗華を指差して嘲笑っている。

「キヒヒヒッ!ミジメネ、レイカ!」

「オマエナンテ、ダレニモアイサレナイ!」

「成金!ニセモノ!蛆虫!」

 鏡の中の無数の自分が口々に呪詛を吐き出す。その声は重なり合い、増幅され、サラウンドとなって麗華の鼓膜を蹂躙した。腐臭が鼻をつく。生ゴミと汚物が混ざったような、自己嫌悪の臭い。

「やめて……やめてぇぇぇッ!!」

 麗華は錯乱した。プライドという名の鎧だけで生きてきた彼女にとって、自分の醜さを直視させられることは生きたまま皮を剥がれるよりも耐え難い拷問だった。

 逃げ場はない。どこを向いても醜い自分が笑っている。視線が、声が、臭いが、彼女を押し潰そうと迫ってくる。

「消えろ!消えてなくなれぇッ!私は美しいのよぉぉぉッ!」

 パニックに陥った麗華は手近にあった重厚な銀の手鏡を鷲掴みにした。ずっしりとした銀の重み。柄の装飾が掌に食い込む。

 彼女は狂ったように腕を振り上げ、目の前の三面鏡に映る腐った自分に向かって渾身の力で叩きつけた。

 耳をつんざく激しい破砕音。銀の手鏡が三面鏡の表面を粉砕し、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。だが、悲劇はそこで終わらなかった。叩きつけられた銀の手鏡が硝子の破片と共にあり得ない角度で跳ね返ったのだ。まるで、鏡の中の怪物が「いらない」と投げ返したかのように。

 凶器と化した銀の塊と鋭利な硝子片が麗華の顔面へと飛来した。

「あぐッ……!?」

 嫌な音がした。肉が裂け、硬いものが骨に当たる鈍い音。鋭利な硝子の破片が麗華の自慢の白い額を深々と切り裂き、銀の枠が頬骨を砕く勢いで直撃した。

 一瞬の空白。麗華は何が起きたのか理解できず、呆然と立ち尽くした。やがて、裂けた皮膚からじわりと熱いものが溢れ出す。それは生温かく、鉄錆の匂いを伴って、視界を赤く染め上げた。

「い、いや……?」

 頬を伝う液体の感触に麗華が恐る恐る触れる。指先についたのは鮮やかな、あまりに鮮やかな赤。そして遅れてやってくる激痛。焼けるような熱さと脈打つような痛みが顔面を支配する。

「い、いやぁぁぁぁぁッ!!顔が!私の顔がぁぁぁッ!!」

 麗華は顔を覆ってその場に崩れ落ちた。指の隙間から、鮮血が止めどなく溢れ出る。床に落ちる血液は彼女が着ている真紅のドレスと似た色だったが、ドレスの赤が華やかな“生”の象徴なら、今の彼女が流しているのは惨めな“破滅”の赤だ。

 舞い上がった白粉の雪の上にどす黒い血の花が次々と咲いていく。床に散らばった無数の鏡の破片一つ一つに血まみれで髪を振り乱し、もはや人間としての尊厳を失って泣き叫ぶ麗華の顔が映り込み、万華鏡のような地獄絵図を作り上げていた。

「美しいねえ。やはり赤は、血の色こそが至高だ」

 空間全体から蜻蛉の声が愉快に歪んで響く。彼は最初から麗華を助けるつもりなどなかったのだ。彼女の嫉妬心を煽り、負の感情を増幅させ、この迷宮を完成させるための触媒にしたに過ぎない。

 麗華は血と涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、震える手で虚空を掻いた。

「助け……て……痛い……誰か……西園寺、さま……」

 その声はあまりに弱々しく、哀れだった。もはや財閥令嬢としての威厳のかけらもない。ただ傷つき、自分の流した血の海で溺れる一人の弱い人間がそこにいた。

 その凄惨な光景を鈴は静かに見下ろしていた。逃げることも、怯えることもなく。血飛沫一つ浴びていないドレスを纏った彼女だけがこの狂った鏡の迷宮の中で唯一汚されることのない凛とした光を放っていた。

(……かわいそうな人)

 鈴の胸に去来したのは恐怖ではなかった。自分の心に巣食う闇に食い殺され、自らの血で溺れていく愚かな蝶への深い、深すぎる憐憫だった。

 ドレスの裾を翻し、鈴は鏡台の引き出しを素早く開けた。そこには淑女の嗜みとして常備されている裁縫道具が入っていた。

 麗華は恐怖と激痛で過呼吸に陥っていた。顔半分を覆う自分の手がぬるりとした温かい液体で濡れている。額から頬にかけて走る熱い痛みは硝子の破片によって美貌が損なわれたことを残酷に告げていた。

「いやぁ……あぁ……顔が、私の顔が……!」

 さらに悪いことに破片は彼女の真紅のドレスの胸元や裾を無残に引き裂いていた。裂け目から覗く肌にも赤い線が走り、まさに満身創痍。

 鏡の中の醜悪な亡霊たちは未だに笑い続けている。その時だった。震える麗華の肩に鈴がそっと手を添えたのは。

「動かないでください」

 凛とした声と共に鈴は自身の胸元からハンカチを取り出し、麗華の額の傷を強く押さえた。

「さわ、触らないで……!私を笑いに来たんでしょう!?」

「いいえ。お直しをしに来ただけです」

「お直し……?」

 鈴は麗華を床に座らせると迷いのない手つきで針に糸を通した。

 選んだ糸は、白。彼女の指先にあるのはただの銀の針。だが、その針先には鈴の魂の輝きとも言える淡い光が宿っていた。

「暴れないで。……刺さりますよ」

 鈴は麗華の胸元、破れたドレスの裂け目に針を突き立てた。布を通る微かな音。

 本来なら、ただ布を縫い合わせるだけの行為。だが、鈴の手にかかればそれは“世界を繋ぎ止める儀式”へと昇華される。

(綺麗に直れ)

 鈴の指先が舞う。一針、また一針。その動きは神速でありながら優雅。まるで指揮者がタクトを振るように、あるいはピアニストが鍵盤を叩くように、リズミカルに針が進んでいく。

 不思議なことが起きた。ドレスの裂け目が縫い合わされるのと同時に麗華の顔の傷口からも痛みが引いていったのだ。

 布と皮膚。物質と肉体。本来は別々のものが鈴の針と糸を通してリンクし、修復されていく。

「あ……?」

 麗華は呆けたように、自分の胸元を見つめた。鈴が縫っているのはただの直線縫いではなかった。

 白かったはずの糸が鈴の力を吸って黄金色に変化し、真紅の生地の上に美しい花の模様を描き出していく。

 白い花弁。黄色い中心。そして力強く伸びる緑の茎。

 それは可憐な野の花の姿をしていた。

「これは……」

「カミツレです」

 鈴は手を休めず、最後の結び目を作りながら静かに答えた。

「花言葉は“逆境に耐える”。そして……“あなたを癒す”」

 糸を切る音が響いた瞬間、部屋中が柔らかな光に包まれた。それは春の陽射しのような温かさだった。光の粒子が麗華を包み込み、時間を巻き戻すように作用する。裂けていた額の傷が塞がり、抉れた頬の肉が盛り上がり、失われた皮膚が再生されていく。

 ドレスの裂け目は跡形もなく消え、裾には黄金に輝くカミツレの刺繍だけが、最初からそこにあったかのように咲き誇っていた。

「……うそ……痛く、ない……」

 麗華は恐る恐る自分の頬に触れた。滑らかな肌の感触。傷跡どころか、以前よりも肌の艶が良い気さえする。

 彼女は信じられないものを見る目で鈴を見上げた。

「あ、貴女……何をしたの……?」

「ほつれた場所を繕っただけです。……私、お針子は得意ですから」

 鈴は何でもないことのように言い、今度は床に散らばった銀の手鏡の残骸を拾い上げた。無残に砕け散った硝子片と歪んだ銀の枠。鈴がそれに針先を触れ、空中で見えない糸を絡ませるように指を動かすと手鏡は音を立てて自ら組み上がり、一瞬で新品同様の輝きを取り戻した。

 麗華は言葉を失った。下級華族令嬢だと馬鹿にしていた。針仕事など女中のやることだと蔑んでいた。だが、目の前の少女はその針仕事一つで奇跡を起こしてみせたのだ。

 鈴は直った手鏡をそっと麗華に差し出した。

「どうぞ」

「……」

 麗華は震える手でそれを受け取った。鏡面には血の汚れは消え去り、傷一つない五体満足な自分の顔が映っている。そして裾には鈴が施した癒しの願いが込められたカミツレの花。

 安堵が押し寄せると同時に、どうしようもない惨めさがこみ上げてくる。一番見下していた相手に一番情けない姿を見せ、一番欲しかった癒しを施されたのだ。

「……なんで」

 麗華は唇を噛み締め、消え入りそうな声で問うた。

「なんで助けたのよ……。私は貴女を陥れようとしたのよ?貴女のドレスを汚して、笑い者にするつもりだったのよ?なのに……どうして……!」

 鈴はゆっくりと立ち上がり、ドレスの埃を払った。

 そして、鏡の中にまだ蠢く腐った幻影たちを一瞥もしないまま、まっすぐに麗華を見下ろした。その瞳は冷たくはないが、決して甘くもない。厳格な教師のような色が宿っていた。

「宝生様。勘違いなさらないでください」

 鈴の声が静寂の空間に凛と響く。

「私は貴女を許したわけではありません。貴女のしたことは卑劣で浅はかで、恥ずべきことです」

「っ……」

「ですが目の前で破れたものがあれば直す。怪我をした人がいれば繕う。……それが私という人間だからです」

 鈴は一歩、麗華に近づいた。

「手鏡は直せました。お顔の傷も、ドレスも繕えました」

 鈴はそこで言葉を区切り、哀れむように目を細めた。

「ですが歪んでしまったその心根までは私の針でも縫い合わせられません」

「え……?」

「鏡に映る怪物が怖いのですか?でもそれは貴女自身が作り出したもの。他人を見下し、妬み、自分を飾ることでしか価値を見出せない……そんな貴女自身の心のほつれです」

 鈴の言葉は鋭い針となって麗華の胸に突き刺さった。

「それはご自身で直すものです。誰かに繕ってもらうものではありません」

 頭を殴られたような衝撃だった。麗華は呆然と鈴を見上げた。逆光の中に立つ鈴の姿がやけに大きく、眩しく見える。

 成金というコンプレックスを埋めるために必死でブランド品や宝石で武装してきた麗華。けれど、目の前の少女は違う。どれだけ厳格な家だろうが関係ない。彼女の魂はダイヤモンドよりも気高く輝いている。

(ああ……勝てない)

 麗華の心の中で、何かが音を立てて折れた。それは空っぽのプライドを支えていた最後の支柱だった。ドレスの値段でも家の格でもない。魂の格が決定的に違うのだ。

 麗華の手から修復された手鏡が滑り落ちる。乾いた音がした瞬間、周囲を取り囲んでいた腐った麗華の幻影たちが一斉に動きを止めた。

 胸のカミツレの刺繍が放つ清浄な空気に浄化されるように幻覚を維持する淀んだエネルギーが霧散していく。

 無限に続いていた鏡の回廊が音を立てて崩れ去っていく。歪んだ空間が元の化粧室へと戻ろうとする揺らぎの中で鈴はふと、何かの気配を感じて扉の方を振り返った。

(あ、五分……)

 その時、壁掛け時計が告げる数度目の鐘の音は断罪の合図のように重く、腹の底に響いた。その余韻が消えるよりも早く、部屋の空気が一変した。肌を刺すような寒気ではない。呼吸さえも凍りつくような、絶対的な死の冷気。

 不吉な破砕音が扉からではなく、壁全体から鳴り響く。薔薇の間を包み込んでいた優美な壁紙が急速に白く染まっていく。それは霜ではない。壁を構成する分子運動そのものが強制的に停止させられ、極限まで冷却された結果の白化現象だった。

「ひっ……!?」

 麗華が短く悲鳴を上げ、身をすくませる。次の瞬間。分厚い樫の木の扉とその周囲の壁がまるで繊細な砂糖菓子のように音もなく粉々に砕け散った。

 爆発音はない。代わりにダイヤモンドダストのような美しい氷の微粒子が爆風となって舞い込み、部屋の温度を一気に氷点下へと叩き落とした。

 白銀の煙幕。その奥から革靴の音が死神の足音のように近づいてくる。現れたのは、黒い軍服を纏った長身の影。景明だ。その瞳は青白い鬼火のように揺らめき、この世の全てを見下ろすかのような冷徹さを湛えていた。

「遅いぞ、鈴」

 低く、甘く、そして恐ろしい声。彼は部屋の惨状を一瞥した。血の匂い。散乱した鏡の破片。そして、床にへたり込む麗華とその傍らに立つ鈴。

 彼の表情筋は動かない。だが、彼を中心に渦巻く冷気が怒りの沸点をとっくに超えていることを雄弁に物語っていた。

「さ、西園寺様……!あ、あの、壁が……」

「約束の五分だ。鍵を探す手間が惜しかったのて扉ごと凍結粉砕させてもらった」

「そ、そんな無茶な……!」

「無茶ではない。君を待たせること以上に重い罪など、この世にはない」

 景明は平然と言い放ち、氷の床を踏みしめて鈴の元へ歩み寄る。その進路上にある鏡の破片や血溜まりは彼が踏む前に全て凍りつき、美しい氷の結晶へと上書きされていく。汚れたものを愛しい婚約者の靴底にさえ触れさせないための徹底した結界だった。

 彼は鈴の目前まで迫るとその細い腰を強引に引き寄せた。触れられた場所から景明の体温が伝わってくる。周囲は極寒なのに彼の手だけが火傷しそうなほど熱い。

「怪我はないか。……髪の毛一本でも損なわれていたら、この山ごと消し飛ばす」

「は、はい、私は無事です!……ただ、宝生様が少し」

 鈴が視線を落とす。景明は氷のような瞳で見下ろした。そこには茫然自失となり、ドレスのスカートを握りしめて震える麗華の姿があった。

 真紅のドレスの裾には不釣り合いなほど可憐なカミツレの刺繍が“金色”の糸で施されている。

「……ふん。自業自得だ」

「西園寺様!」

「と言いたいところだが。……鈴、その手」

 景明が鈴の手を取る。指先にはまだ銀の針が握られていた。彼はその指先を愛おしそうに親指で撫でた。

「また、つまらないものに“命”を吹き込んだな?」

「……つまらなくはありません。お洋服もお顔も繕えばまた輝けますから」

「お人好しめ。……だが、それが君か」

 景明は呆れたように吐息を漏らし、鈴の額に自分の額を押し付けた。至近距離で絡み合う視線。

 鈴の心臓が早鐘を打つ。怖いほどの冷気と甘い熱情。そのアンバランスさが鈴の思考を溶かしていく。だが、その甘い時間を引き裂くように、無粋な音が響いた。

 砕け散った壁の向こう、闇の奥から、乾いた拍手の音が響いてきた。同時に部屋の隅に漂っていた澱んだ空気、麗華が吐き出した嫉妬の残穢や鏡の迷宮を構成していた魔力の残滓が嫌な音を立てて一箇所に吸い寄せられていく。

「ブラボー。いやはや、素晴らしい。感動しましたよ」

 黒い霧が人の形を成す。現れたのは燕尾服を隙なく着こなし、片眼鏡を嵌めた紳士だった。

 手にはステッキ。口元には三日月のような笑み。その風貌は優雅そのものだが彼から放たれる気配は美しい花畑の下に埋まった腐乱死体のような、強烈な腐臭と湿気を帯びていた。

 鈴の背筋に生理的な悪寒が走る。

 (この声、さっきの人!)

「誰だ」

 景明が鈴を背に隠す。その背中はどんな城壁よりも頼もしく、大きかった。

「お初にお目にかかります、西園寺景明殿。そして麗しの修復師、小鳥遊鈴様」

 紳士は舞台俳優のように大げさに一礼した。

「私の名は蜻蛉。組織の末席を汚す者です。……以前の、胡蝶の一件では我が同胞が大変お世話になりました」

「ほう。害虫の仲間が殺虫剤を浴びにわざわざ出てきたか」

 景明の右手に青白い雷光が躍る。だが、蜻蛉は余裕の笑みを崩さない。

「いえいえ、滅相もない。私は争い事は好みません。ただ、本日はご挨拶に伺っただけです。……それと、そこの彼女」

 蜻蛉の視線が床の麗華に向けられた。

「素晴らしい絶望の苗床でしたよ、宝生麗華さん。君のドロドロとした嫉妬心は実に美味だった。おかげで良いデータが取れました」

「な……?」

「ですが、最後はいけませんね。あんな美しい修復の光を見せられては私の可愛い鏡の魔物たちも浄化されてしまう」

 蜻蛉は残念そうに首を振り、ステッキを軽く振り、風が唸る。すると、虚空から無数の蛾の幻影が湧き出した。

 羽音。何百、何千という羽音が重なり合い、耳障りなノイズとなる。蛾たちは毒々しい鱗粉を撒き散らしながら、黒い竜巻となって二人に襲いかかった。

「きゃっ……!」

「挨拶代わりです。少し遊んで…」

 鈴が反射的に身を竦めた、その瞬間だった。世界が、青く染まった。景明が片手を無造作に薙ぎ払っただけ。たったそれだけの動作で空間の物理法則が書き換えられた。

 雷撃ではない。風でもない。それは視界に映る原子の動きを強制的に停止させる、絶対的な停滞の波動。

 空を舞う数百の蛾。舞い散る鱗粉の一粒一粒。そして得意げに笑っていた蜻蛉の表情。

 すべてがコマ送りを止めたように空中で静止した。否、氷像と化したのだ。

「……私の前で羽虫を飛ばすな」

 景明が冷酷に吐き捨てる。次の瞬間、凍りついた蛾たちは自重に耐えきれず、粉微塵に砕け散った。キラキラと輝く氷の塵となって消えていく様は皮肉なほど幻想的だった。

 あまりにも圧倒的な力の差。これが帝国最強の軍人の実力。だが、氷像となった蜻蛉の体だけは砕けることなく解を始めた。

 氷が溶けるのではない。彼の体そのものが粘着質な液体、水となって崩れ落ちていく。

「……ククッ、流石は“最強”。背筋が凍るとはまさにこのこと」

 床に広がった水溜まりから蜻蛉の声が響く。本体ではない。これは水分で作られた分身だったのだ。

「今日のところは引き上げましょう。ですが、覚えておいてください。我々の目的はその娘……小鳥遊鈴、貴女のその“力”だ」

「……!」

「壊れたものを直す力。それは、世界の(ことわり)に逆らう禁忌。……いずれ我々が、有効活用して差し上げますよ」

 嘲笑を残し、水は床の隙間へと染み込むように消え失せた。後に残ったのは冷え切った空気と不快な湿り気だけ。

「逃したか。……水使いとは厄介な」

 景明は舌打ちをし、雷を収めた。深追いはしない。今の最優先事項は鈴の安全と彼女の精神的なケアだ。

「鈴」

「は、はい」

「帰るぞ。こんな欠陥住宅に君を長居させてはおけん」

 言うが早いか、景明は鈴の体を軽々と抱き上げた。体が浮く浮遊感。いわゆるお姫様抱っこだ。その弾みで鈴は針を落とした。

「ひゃっ!さ、西園寺様!?自分で歩けます!」

「却下だ。床が汚れている。ドレスの裾を汚したくないのだろう?」

「それはそうですけど……!」

「それに、私が君を抱いていたい」

 後半は耳元で甘く掠れた声で囁かれた。鈴の顔が赤く染まる。心臓の音がうるさい。彼の逞しい腕の感触、鼻をくすぐる白檀の残り香、自分を見つめる熱い視線。全てが鈴の許容量を超えている。

 (もう……この人には敵わない……!)

 鈴は観念して、彼の首にそっと腕を回し、その広い胸板に顔を埋めた。そこは世界で一番安全で、温かい場所だった。

 景明は踵を返し、破壊された壁の向こう、月明かりの差し込む廊下へと歩き出す。冷たい夜風が吹き抜ける中、取り残された麗華は呆然と二人の背中を見送っていた。

 圧倒的な力。 圧倒的な愛。 そして、圧倒的な高潔さ。 自分が勝てるはずがなかったのだと、麗華は痛感していた。

(......完敗ね)

 麗華はドレスの裾に触れた。 鋭利な鏡の破片によって切り裂かれたはずの真紅の生地には金色の糸で丁寧に刺繍されたカミツレの花が咲いている。 “逆境に耐える”、“あなたを癒す”。 指先でなぞると糸の凹凸が優しく指に触れた。 鏡の破片でズタズタにされたはずの心は不思議なほど凪いでいる。

「......ふん。次は負けないんですから」

 麗華は涙で濡れた顔を拭い、月光の下で微かに笑うと、背後を振り返った。

 背後の舞踏会場は大気を焦がすような轟音の余韻とパニックに支配されていた。 帝都の夜空を貫いた雷光が穿った大穴からは冷たい夜風が吹き込み、舞い上がった漆喰の粉塵がシャンデリアの光を乱反射して、ダイヤモンドダストのように宙を舞っている。 鼻につくのは焦げ付いたオゾンの臭いと建材が焼け焦げた刺激臭。

「きゃあああああっ! な、何事ですの!?」

「爆発だ! テロか!?」

 逃げ惑う紳士淑女たちの絶叫が優雅なワルツの旋律を完全にかき消していた。 麗華は手にした扇子をゆっくりと開き、乾いた音を鋭く響き渡らせた。

「皆様!お静かに願いますわ!」

よく通るソプラノの声。生まれながらにして人の上に立つ者の響きに逃げ惑っていた人々が何事かと足を止める。

「これは当家が用意いたしました...... 余興の演出にございます!」

 会場が静まり返った。 あまりにも堂々とした嘘。

「本日のテーマは“真夏の夜の夢”ならぬ“極寒の幻影”。 西園寺公爵のご協力を得て、最新鋭の幻灯技術と...... 少々火薬を使いすぎた特殊効果をご覧いただきましたの。 いかが? 肝が冷えるような涼を感じていただけましたかしら?」

 麗華が艶然と微笑んでみせると、訓練された宝生家の使用人たちが瞬時に意図を汲み取り、「さあさあ、皆様、演出の後は中庭にて冷たいシャンパンをご用意しております」と客の誘導を始めた。

 人々の視線が逸れた一瞬の隙を突き、麗華はドレスの裾を翻して薄暗い使用人用の通路へと駆け出した。 ヒールの音が焦燥を物語る。

「......へえ、あの状況で即座にハッタリか。肝が据わっているな、成金令嬢」

 少し先の薄暗い廊下で、鈴を抱きかかえたまま足を止めていた景明が感心したように喉を鳴らした。

「......西園寺様、言い方」

 景明の腕の中で鈴が小声でたしなめる。 追いついた麗華は息を切らしながら扇子を突きつけた。

「何感心しているんですの!早くこちらへ!警察や憲兵が来る前に裏口からお帰り遊ばせ!」

「ああ。恩に着る」

「お、お礼なんて結構ですわ!勘違いしないでくださいませ!」

 麗華は顔を真っ赤にして叫ぶ。

「わ、私はただ...... 私のドレスを扱える“唯一の職人”を警察沙汰にしたくないだけですのよ!ご覧になって?この繊細な刺繍、この縫製......並の針子に触らせたら台無しですわ!来月の天長節の夜会で私が誰よりも輝くためにはどうしてもこの子の腕が必要なんですの!そう、全ては私の完璧な美しさのため!あなた様たちのためではありません!」

「......ふっ」

 景明の腕の中で鈴が小さく吹き出した。

(宝生様......素直じゃないなぁ)

 その不器用な優しさが今はたまらなく愛おしい。 鈴は景明の首に回した腕に少しだけ力を込め、麗華を見た。

「ありがとうございます、宝生様。...... そのドレス、似合ってます」

「......っ!」

 麗華が息を呑み、自身のドレスの裾、鈴が縫い付けたカミツレの刺繍へと視線を落とす。

「......ふん。デザインとしては少々野暮ったいですけれど」

 顔を背けた麗華だったが、その手は愛おしそうに刺繍の上を撫でていた。彼女の先導で裏口の重い鉄扉が開かれると、むせ返るような熱気と硝煙の臭いから一転、外気は驚くほど澄んで冷たかった。

 駐車場にはすでに西園寺家の自動車が主人の帰還を待ってエンジンを暖めていた。

「......ここまでくれば大丈夫ですわね」

 麗華が立ち止まり、夜風に真紅のドレスを揺らす。カミツレの白い花が月光を浴びて淡く光った。景明は鈴を抱きかかえたまま、軽く頭を下げた。

「手間をかけた。宝生」

「......ふん。貸しにしておきますわ。......高いわよ、私の貸しは」

 麗華は不敵に笑うと景明の腕の中にいる鈴へと真剣な瞳を向けた。

「小鳥遊様」

「はい」

「......いいえ」

 麗華は少し躊躇いながら、けれどはっきりと言い直した。

「......鈴さん」

 今まで距離を置いた呼び方しかしてこなかった彼女が初めて名前を呼び、鈴の目が大きく見開かれる。麗華は一歩近づき、鈴の頬にうっすらと残る煤をハンカチでそっと拭った。

「貴女のその力......。それは壊れたものを直すだけではありませんわ。きっと人の縁や強情な心さえも...... 繋ぎ止める力がおありなのね。今日のところは貴女に譲って差し上げます。......ですが」

 そこで麗華は扇子越しに鋭い視線を景明へと飛ばした。

「西園寺様。もし、この方を泣かせるようなことがあれば...... その時は容赦しませんわよ」

「ほう?どうするつもりだ?」

「決まっていますわ」

 麗華は夜の闇よりも深く、薔薇よりも鮮烈な笑みを浮かべた。

「今度こそ私が鈴さんを奪いますから。...... お覚悟なさいな!」

 それは最大の賛辞であり、最強の牽制だった。 鈴は胸がいっぱいになり、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。

「......肝に銘じておこう」

 景明は短く答え、自動車へと歩き出した。車内へと滑り込む直前、鈴はもう一度だけ振り返った。鉄扉の前に佇む真紅のドレスはもうこちらを見てはおらず、背筋をピンと伸ばして、再びあの喧騒の渦巻く舞踏会場へと戻ろうとしていた。 矜持という名の鎧を纏って。


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