第18話
季節は晩秋へと移り、帝都の空は高く、どこまでも澄み渡っていた。十一月中旬。大通りを彩る銀杏並木は落陽を浴びて鮮やかな黄金色に燃え立ち、乾いた木枯らしが石畳の上を音を立てて吹き抜けていく。
あの日、胡蝶という名の女が蛾の羽ばたきと共に闇の底へと消えてから、数日が経過していた。
街は平和な活気に満ちているが水面下では新たな火種が燻り始めている。
帝都・赤坂の一角に景明が隊長を務める帝国陸軍・異能特殊部隊の駐屯地がある。異能者の母数自体が極めて少ないため、軍内部でも希少価値が高く、独立した権限を持つ特殊な部署だ。
無骨なコンクリートと赤煉瓦で造られた堅牢な建物の一角。昼なお薄暗い隊長執務室は針が落ちる音さえ響きそうなほどの重苦しい沈黙に支配されていた。本来であれば、鉄格子の嵌まった窓からは晩秋の柔らかな陽光が差し込んでいるはずだった。だが、その光は室内に満ちる絶対零度の緊張感に呑まれ、まるでガラス細工のように冷ややかな輝きを放っている。
景明の放つ張り詰めた冷気によって空気そのものが白く凍りついているのだ。そんな冷気が澱む部屋の中、執務机の上には軍事地図が広げられ、そこへ数枚の写真乾板から焼き付けられたばかりの粒子が荒い白黒写真が無造作に散らばっている。
「報告を続けます。少佐」
副官の氷室が張り詰めた声で静寂を切り裂く。彼は神経質な手つきで眼鏡の位置を直し、指で一枚の写真を叩いた。
そこには深い霧の中に浮かぶ、異様な洋館が写し出されていた。はたから見てもその建物が異質であることは痛いほど伝わってくる。
「これが今回の舞台、宝生家が所有する別邸“硝子の館”です。場所は軽井沢の山中。元々は外国人の貿易商が建てたものを宝生家が買い取り、数年かけて増改築をしたそうです」
革張りの椅子に深く沈み込むように腰掛けた景明は不機嫌そうに眉間の皺を深く刻んでいた。
軍服の襟元をわずかに寛げ、手には冷めきった泥のような珈琲。その瞳は絶対零度の氷のように冷たく、周囲の部下たちが直立不動で震え上がるほどの威圧感を放っている。
(……鈴がいないと調子が出ん)
内心でそんな子供じみた不満を抱えていることなど、部下たちは知る由もない。
ここ数日、事後処理などに追われ、屋敷に帰っても鈴の寝顔しか見られない日々が続いている。今の彼は“鈴成分”が枯渇し、慈悲なき鬼少佐そのものとなっていた。
「硝子の館、か。……あの成金趣味の令嬢が好みそうな話だ」
「ええ。ですが、厄介なのはその構造です。入手した設計図を見る限り、内部は極めて複雑怪奇。部屋と部屋が硝子の回廊で繋がれ、壁一面の鏡や隠し扉が多数設置されているとの情報もあります。光と反射が視界を狂わせる、まさに硝子の迷宮です」
「……それで?胡蝶を始末した掃除屋の正体は掴めたのか」
景明の低い問いに氷室は表情を曇らせ、首を横に振った。
「申し訳ありません。現場に残された痕跡、不自然に円形に濡れた石畳と硝子片のような残留物。これらから推測するに相当な手練れの異能者であることは間違いありませんが、個人の特定には至っておりません。ただ……」
「ただ?」
「組織内でも失敗した幹部を始末するための、さらなる“上位幹部”が存在する。そう考えるのが妥当でしょう」
正体不明の処刑人。姿を見せず、ただ痕跡だけを残して消えた影。景明は写真の一つを苛立ちをぶつけるように指先で弾いた。
「姿を見せぬ敵か。……面白い。どこの誰であろうと私の婚約者に牙を剥くならば、その首をへし折るだけだ」
その言葉には絶対的な自信と底知れぬ殺気が込められていた。二週間後の舞踏会。それはただの煌びやかな社交ではない。愛しい硝子細工の少女を守り、敵の喉元に食らいつくための、鮮血の狩り場なのだ。
◇
一方その頃。学習院下の停留所には昼下がりの柔らかな陽光が降り注いでいた。
レンガ造りの校門から授業を終えた女学生たちが色とりどりの小鳥のように賑やかに下校してくる。その中に鈴も含まれていた。
臙脂色の袴に革の編み上げブーツ。艶やかな長い黒髪をハーフアップにし、大きなリボンで留めている。その姿は清楚さとどこか儚げな美しさを湛えていた。その鈴の足が校門の前でぴたりと止まる。
「お迎えに上がりました、鈴様」
そこに停まっていた西園寺家の黒塗りの自動車の横で若菜が優雅に一礼した。圧倒的な美貌とハイカラな装いに周囲の女学生たちが「まあ、素敵……」「活動写真の女優さんみたい」とため息を漏らす。
「わ、若菜さん!どうしたんですか」
「ふふ、驚かれましたか?さあ、お乗りください。学校での勉強はこれにて終了です。これより先は大人の女性としての特別授業……銀座へ参りますわよ」
「銀座……?」
「ええ。来たるべき決戦に向けて、最強の鎧を手に入れに行くのです」
若菜は悪戯っぽく微笑むと手袋をはめた手で車のドアを開けた。
◇
帝都、銀座。煉瓦造りの建物が並び、ガス灯が並ぶ大通りを路面電車が鐘を鳴らして行き交う。
ショーウィンドウには舶来品の香水や宝石が飾られ、モダンボーイやモダンガールたちが闊歩するこの街は晩秋の冷たい風さえも華やかな活気に変えてしまうようだ。
自動車から降り立った二人は裏通りにある一軒の老舗呉服店へと入っていった。
一階は番頭が帳場に座り、反物が整然と並ぶ伝統的な呉服屋の佇まい。お香と畳の匂いが漂う静謐な空間だ。だが、若菜は慣れた足取りで店の奥へと進み、隠されるように設置された階段を上がっていく。
「若菜さん、ずいぶんとこのお店に詳しいのですね?」
鈴が不思議そうに尋ねると若菜は階段の手すりに手をかけ、懐かしそうに目を細めた。
「ええ、昔馴染みのようなものですわ。ここのご主人、遊郭(店)にもよくお着物を卸しに来ていて……私がまだ向こうにいた頃、商談の際のお茶汲みをよくさせていただいたのです」
(若菜さんの昔のお知り合い……)
鈴の胸に小さな痛みが走る。借金の形に身売りされていたという若菜の過去。その苦界の中でも彼女はこうして人脈を築き、凛として生きてきたのだ。その強さに鈴は改めて敬意を抱いた。
二階に上がると景色は一変した。“洋装部”と書かれた真鍮のプレートの先には分厚い深紅の絨毯が敷き詰められ、天井からはクリスタルのシャンデリアが煌めく、モダンな異空間が広がっていた。
部屋中を満たすのは微かな白粉の香りと真新しい絹の匂い。そしてトルソーに着せられた最新流行のイブニングドレスの数々がまるで夜会を待つ貴婦人のように佇んでいる。
「やあやあ、誰かと思えば夕顔じゃないか!いや、今は西園寺家の若菜さん、だったね」
奥から現れたのはロマンスグレーの髪をポマードで撫でつけた、ダンディな初老の店主だった。仕立ての良い英国製の三つ揃えのスーツを着こなしている。
「お久しぶりです、旦那様。……本日はこちらの、私の大切な主、小鳥遊鈴様のために最高のドレスを見繕っていただきたいのです」
「ほう……」
店主は鈴をじっくりと見つめた。いやらしい視線ではない。宝石の原石を鑑定する職人の鋭く、それでいて温かい眼差しだ。
「……なるほど。これはまた素晴らしい」
「でしょう?自慢の主ですもの」
若菜が我が事のように胸を張る。
「二週間後、宝生家の舞踏会があります。相手はあの宝生麗華。……生半可なドレスではあの派手な孔雀のような女に埋もれてしまいます。鈴様のこの透明感を殺さず、かつ会場の誰よりも格を見せつける一着が必要ですの」
「ふむ、難題だねえ。だが、やりがいがある」
店主の合図で店員たちが次々とドレスを運び込んできた。
◇
「却下です」
若菜の冷徹な声が響く。鈴が試着室から出てきたのは淡い桃色のフリルがふんだんに使われた可愛らしいドレスだった。
「ええっ?で、でもこれ、すごく可愛いですよ?」
「可愛すぎます。それはいわば“守られたいお嬢様”の衣装。今回のテーマは“隣に立つ女”です。それにその色は鈴様の肌を少し幼く見せてしまいます」
次に鈴が着たのは鮮やかな真紅のサテンドレス。
「……色が強すぎますわね」
「お嬢さんの静謐な美しさが色の暴力に負けている。それに赤は、宝生家が好む色だ。向こうとかち合えば、所詮は成金の真似事と笑われかねない」
店主が顎を撫でながら首を振る。その後も水色のシルク、若草色のタフタ、金糸の刺繍入り……次々と試着を繰り返すが若菜と店主の首は縦に振られない。
鈴は少し疲れたように自身の映る鏡を見つめた。
(私に似合うドレスなんて、本当にあるのかな……地味で目立たないのに…。いや、確かに西園寺邸での暮らしのおかげで肌艶は良くなったがそんな私が華やかな舞踏会で輝くなんて、土台無理な話なのかもしれない)
そんな鈴の不安を見透かしたように店主がゆっくりと口を開いた。
「若菜ちゃん。……このお嬢さんの魅力は雪のような肌の白さと濡羽色の髪そして何よりこの硝子細工のような繊細な骨格だ。最近のモダンガールにはない、古き良き大和撫子の品格と西洋の退廃的な美しさが同居している」
「ええ。だからこそ、半端な飾りは不要なのです」
若菜の言葉に店主はニヤリと笑った。
「なら、出し惜しみは無しだ。……“あれ”を持ってきなさい」
店主の指示で店員が奥の厳重な保管庫へと走る。やがて運ばれてきたのは黒いベルベットのカバーがかかった一着のドレスだった。
「あっ」
カバーが外された瞬間、店内の空気が変わった気がした。鈴の喉から、吐息のような声が漏れる。
時間が止まった。
「これは……」
“星月夜”
そう名付けたくなるような、深い深いミッドナイトブルーのベルベット生地。
照明の光を吸い込むような重厚な質感の中に微細なダイヤモンドの粉末のような銀のラメ糸だろうか。角度を変えるたびに、まるで夜空に瞬く星々のように幽玄な輝きを放っている。
「綺麗……」
鈴は吸い寄せられるように歩み寄り、躊躇いながら手を伸ばした。指先に触れた瞬間、ひやりとした感触のあと、とろけるような温もりが伝わってくる。派手なリボンも過剰なレースもない。ただ圧倒的な素材と色の力だけで成立している、至高の一着。
「正面は清楚に首元まで詰まったスタンドカラーだ。長袖の手首に向かってタイトに絞られたシルエットは禁欲的ですらある」
店主が恭しく掲げたそのドレスを鈴はうっとりと見つめた。深い夜色のベルベットは鈴の焦げ茶の髪と白い肌を何よりも美しく引き立てるだろう。
店主の言葉に鈴は瞳を輝かせた。
(スタンドカラーで長袖……。それなら露出も少なくて、私でも安心して着られそう!何より、この色は西園寺様が好きな“夜の色”だ)
「私……これがいいです。このドレスを着たい!これで調整をお願いします」
鈴が試着室へと戻ろうと背を向けた、その時だった。店主が鈴には聞こえないほどの小声で若菜に耳打ちをした。
「……若菜ちゃん。実はこのドレス、背中が腰のくびれまでバックリ開いてるんだがいいのかい?」
若菜の目が驚きで見開かれる。
(清楚な顔をして、背中で男を惑わせる……最高なのでは?!)
若菜の口元が愉快に歪む。彼女は店主に向かって、無言で親指を立てた。その顔は悪戯を企む子供のように楽しげでそして少しだけ意地悪だ。
「承知しましたわ。……このドレスのお直しが終わりましたら舞踏会の当日の夕方、西園寺家の私の元へ直接届けていただけますか?」
「ほう?ということは……」
「旦那様はもちろん、鈴様ご本人にも完成形は当日まで内緒です。“極秘任務”ですので」
若菜が悪戯っぽくウィンクをすると店主も「相変わらず食えないねえ」と愉快そうに笑い声を上げた。
試着室から顔を出した鈴は二人が何を話しているのか分からず、きょとんとしている。まさか自分が選んだドレスが景明の理性を吹き飛ばす時限爆弾だとは夢にも思っていなかった。
窓の外では夕暮れの鐘が鳴り響いていた。
◇
西園寺邸の夜は深く静かに更けていく。時刻は丑三つ時。屋敷の二階、東側に位置する書斎から景明が姿を現した。
彼は凝り固まった首筋を鳴らし、手にしていた空のコーヒーカップを見た。執務に没頭するあまり、喉が焼けつくように乾いている。
(……鈴はもう寝ただろうか)
彼は隣に位置する、鈴の部屋の扉に視線をやった。明かりは落ち、物音ひとつしない。あどけない寝顔を覗きに行きたい衝動に駆られたが起こしては忍びない。彼はため息を一つ吐くと階段を下り、一階の台所へ向かうことにした。
階段を下りきり、廊下を歩いている時だった。ふと、突き当たりにある大広間の扉の隙間から微かな光が漏れているのに気づいた。本来ならば、この時間は消灯されているはずの場所だ。
そして、耳を澄ませば微かに本当に微かに蓄音機のノイズ混じりの旋律が聞こえてくる。
(……誰だ?)
使用人が消し忘れたのか。あるいは侵入者か。景明の瞳が一瞬にして鋭い狩人のものに変わる。
彼は足音を完全に殺し、扉の隙間から中の様子を窺った。そして、その光景を目にした瞬間、張り詰めた殺気は甘い吐息へと変わった。
◇
大広間は広大な空間だ。普段は晩餐会や来客の応接に使われるその場所で磨き上げられた寄木細工の床が窓から差し込む青白い月光とキャンドルランプの頼りない灯りを反射している。
その光と影の揺らめきの中で鈴がステップを踏んでいた。
昼間の女学生姿とは異なり、動きやすい簡素な白いワンピース姿。足元は室内履きのダンスシューズ。彼女は見えない相手を想定し、虚空に腕を預けて回転を繰り返している。
(ワン、ツー、スリー……。ワン、ツー、スリー……)
鈴の額には玉のような汗が浮かんでいた。昼間は女学校があるため、若菜による淑女教育を受けられる時間は限られている。座学やテーブルマナーはなんとかなっても、体で覚えるダンスだけは一朝一夕にはいかない。ましてや相手はあの鬼少佐の西園寺景明だ。
そして本番の相手は社交界の華、宝生麗華を含む、海千山千の令嬢たち。
(私が転べば西園寺様の顔に泥を塗ることになる。……それだけは絶対に嫌)
彼女のステップには悲壮なほどの決意が滲んでいた。だが、焦りは禁物だ。疲労で足がもつれ、右足が左足に絡まる。
(あっ……!)
世界が傾く。硬い床への衝撃を覚悟し、鈴は固く目を閉じた。だが、痛みは訪れなかった。代わりに彼女を包み込んだのは鋼のような強靭な腕と鼻孔をくすぐる冷涼な香り、白檀と微かなインクの匂い、そして彼特有の凍てつくような冬の気配。
「夜更けに一人で舞踏会か。精が出るな、鈴」
頭上から降ってきたのは低く、重厚な声だった。
鈴が恐る恐る目を開けるとすぐ目の前に景明の端整な顔があった。軍服の上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を無造作に捲り上げた姿。どうやら休憩のために下りてきたらしい。
(さ、西園寺様……!?いつの間に……)
「ご、ごめんなさい!起こしてしまいましたか?」
「いや、珈琲を淹れようと下りてきたら迷子の子猫が暴れているのが見えたのでな。捕獲しに来た」
景明は口の端を意地悪く吊り上げると鈴の体を軽々と立たせた。その手つきは乱暴な言葉とは裏腹に壊れ物を扱うように慎重だ。
「こ、子猫だなんて……。私、必死に練習を……」
「だが、見るに耐えん。そんなへっぴり腰では宝生家の床で雑巾掛けをする羽目になるぞ」
景明は厳しく言い放つと蓄音機の針を戻し、再び曲を流し始めた。そして鈴の前に仁王立ちになり、右手を差し出した。
「手を出せ。私が教える」
「えっ、でも、西園寺様はお疲れじゃ……」
「私の婚約者が恥をかくのは私の不手際だ。それに……」
景明の瞳が月光を受けて妖しく光った。
「本番で君の手を握るのは私だ。今のうちに私のリズムを体に叩き込んでおく必要がある」
それはスパルタ指導の始まりだった。景明の指導は軍隊の調練さながらに厳格で容赦がなかった。
「背筋が曲がっている!顎を引け、視線は私の目を見ろ!」
「はいっ!」
「足元を見るな!敵の動きを予測しろと言ったはずだ。ダンスも同じだ、次の私の重心移動を筋肉の動きで察知しろ!」
「む、無理ですっ!」
鈴は必死に食らいつくが緊張で体が強張っていた。目の前にいるのは愛しい婚約者であると同時に帝国陸軍の鬼少佐。
その威圧感に飲まれ、ステップは乱れ、呼吸は浅くなるばかりだ。
(怖い……。上官に怒られてる新兵になった気分……)
鈴の動きがぎこちなくなるのを景明は見逃さなかった。彼は小さく舌打ちをすると唐突に足を止めた。音楽だけが空しく回り続ける。
「……駄目だ。まるで錆びついたブリキ人形だな」
景明の冷たい言葉に鈴は唇を噛み締め、うつむいた。情けない。悔しい。彼のために強くなりたいのに空回りばかりしてしまう自分が嫌になる。
「すみません……私、やっぱり……」
涙が滲みそうになった、その時だった。景明の大きな手が鈴の頬を包み込んだ。先ほどまでの指導者の手ではない。熱を持った優しい感触。
「すまない。少し、厳しくしすぎた」
鈴が驚いて顔を上げるとそこには鬼の形相はなかった。眉尻を下げ、困ったように微笑む、あの懐かしい表情。かつて鈴が恋した書生、野中みのるの顔がそこにあった。
「西園寺……様?」
「今は、ただの男として君と踊りたい。……肩の力を抜いて。私に全て預けてくれればいいから」
景明は鈴の左手を取ると右手で彼女の腰をぐいと引き寄せた。先程よりもずっと近い。互いの吐息がかかるほどの距離。彼の体温が薄いシャツ越しに鈴の腹部に伝わってくる。
「……はい」
鈴の強張りが嘘のように溶けていく。音楽が再び二人を包み込む。
「ワン、ツー、スリー……そう、その調子だ」
景明のリードは先ほどとは打って変わって流れる水のように滑らかだった。鈴が次に足を出す場所へ自然と体が導かれる。まるで魔法にかけられたかのように足がもつれない。
(すごい……。体が軽い。西園寺様に操られているみたい)
月光の下、二人の影が重なり合い、一つになって回る。景明の瞳は今はただ鈴だけを映していた。その熱っぽい視線に射抜かれ、鈴の心臓が早鐘を打つ。
「硝子の館は敵の罠だらけだ」
踊りながら景明が鈴の耳元で甘く囁く。愛の言葉のような声色で語られるのは冷徹な作戦だった。
「だが、君は何も心配しなくていい。君が見るべきなのは敵の刃じゃない。……私の瞳だけだ」
「……はい」
「君が私を見ている限り、いかなる傷も負わせない。私が君の盾になり、剣になる」
ターンを決める瞬間、景明の腕に力がこもる。鈴の体がふわりと宙に浮き、再び彼の腕の中へと着地する。その瞬間、鈴は悟った。この人は私を守るためにわざと厳しくして、私の限界を見極めようとしてくれたのだ。
死地へ連れて行くことへの恐怖と責任。それを一番感じているのは彼自身なのだ。
(愛されている……。この人のこういう不器用な優しさがたまらなく好き)
その確信が鈴に勇気を与えた。彼女は景明の肩に手を回し、その瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「西園寺様。……私、貴方の隣で胸を張って踊ってみせます。誰よりも美しく、貴方にふさわしい婚約者として」
鈴の瞳に宿る強い光を見て、景明は満足げに目を細めた。そして、曲が終わると同時に鈴の腰を強く抱き寄せ、その額に唇を落とした。
「……ああ。期待しているよ。だが、あまり他の男を魅了しすぎるな。嫉妬で私が会場を氷漬けにしてしまうかもしれないからな」
「もう、すぐそうやって……」
鈴が小さく笑う。張り詰めていた空気が甘やかな夜の静寂へと変わる。
「さて、今日の授業はここまでだ。明日も学校だろう?早く休みなさい」
「はい。……おやすみなさい、西園寺様」
鈴が名残惜しそうに離れようとした時、景明が不意に彼女の手首を掴んだ。その目がふと細められる。
「待て」
「はい?」
「……若菜から聞いたぞ。何やら“とんでもないドレス”を用意したそうだな。若菜が笑いながら『旦那様への挑戦状です』などと言っていたが」
景明の探るような視線に鈴はきょとんとした。
(えっ?若菜さん、そんなことを?)
鈴にはなぜ若菜がそんな言い方をしたのか心当たりがない。何故なら、あのドレスは露出も少なく、とても上品なもの。だから鈴は満面の笑みで自信満々に答えた。
「はい!とっても素敵なドレスですよ!首元も詰まっていて長袖で、とっても上品で清楚なんです!」
鈴の言葉に嘘の色はない。澄み切った瞳でそう断言され、景明は拍子抜けしたように瞬きをした。
「……なんだ、そうか。若菜のことだから、また際どい衣装でも用意したのかと警戒したが……君がそう言うなら間違いはないか」
景明は安堵したように息を吐いた。鈴の天然さを知っている彼だからこそ、彼女がこうも屈託なく言うのなら、本当に“清楚なドレス”なのだろうと信じてしまったのだ。
まさか鈴自身が背中の仕掛けを知らないだけだとは夢にも思っていなかった。
「ええ!当日のお楽しみにしていてくださいね!」
鈴は嬉しそうに手を振り、軽やかな足取りで部屋を出て行った。音を立てて、扉が閉まる。残された景明は自分の手を、鈴の腰の感触が残る掌を見つめ、ふっと小さく笑った。
「……やれやれ。私も焼きが回ったか」
月明かりの下、最強の軍人はただの恋する男の顔をしていた。だが、その平穏も長くは続かない。硝子の迷宮への招待状は刻一刻と時を刻んでいる。
時は流れ、運命の夜が訪れた。十二月一日。帝都の空は凍てつくような漆黒の闇に覆われている。今夜は新月。星々だけが鋭く瞬く、まさしく星月夜だ。
西園寺邸、二階にある鈴の自室。重厚なカーテンが閉め切られた室内には白粉の甘い香りと熱せられたヘアアイロンの香ばしい匂いが充満している。
そこは男たちが決して立ち入れない聖域であり、戦場へ赴く乙女のための武器庫だった。
「動かないでくださいませ、鈴様。ここが正念場です」
若菜の声は外科手術に臨む医師のように真剣だった。鏡台の前に座らされた鈴はされるがままだ。
若菜の手によって、鈴の濡羽色の髪は複雑に編み込まれ、白いうなじを露わにした夜会巻きに結い上げられていく。
「若菜さん、そんなにピンを刺して……い、痛くはないですか?」
「戦場では髪の一筋の乱れが命取りになります。……さあ、仕上げです」
若菜は紅筆を取り、鮮やかな紅をすくい取った。鈴の唇に色が乗せられていく。鏡の中に映るのはいつもの素朴な女学生ではない。
雪のような肌に切れ長の瞳を強調したアイライン、そして血が滲むように鮮烈な唇。それは魔性の魅力を秘めた“大人の女”の顔だった。
「……これが、私?」
「ええ。美しいですわ。これなら、どんな妖怪変化が相手でも視線だけで殺せます」
若菜は満足げに頷くと部屋の隅に鎮座していたトルソーの方へと向き直った。
そこには純白の布で覆われた例のドレスが掛けられている。あの日、銀座の呉服店で採寸して以来、鈴は一度もその完成形を見ていない。若菜が「着用までのお楽しみです」と言って、頑として見せてくれなかったからだ。
「さあ、着替えましょう。旦那様が首を長くしてお待ちですよ」
「はい……!」
鈴は高鳴る胸を押さえ、立ち上がった。ついにこの時が来た。愛する人の隣に立つための最強の鎧。
(西園寺様、喜んでくれるかな。清楚で上品だって言ったし、きっと褒めてくれるはず……)
若菜の手伝いを受けながら鈴はドレスに袖を通した。ベルベットの冷たく滑らかな感触が素肌を滑り落ちていく。サイズは驚くほど完璧だった。まるで第二の皮膚のように鈴の華奢な体に吸い付き、その曲線を浮き彫りにする。
「……うん、ぴったりです!首元も詰まっていて暖かいですし、これなら西園寺様も……」
鈴は微笑みながら、全身を確認するために姿見の方へと振り返った。そして自分の背中が鏡に映った瞬間。
「ひゃっ!?!?」
鈴の口から素っ頓狂な悲鳴が上がった。彼女は自分の目を疑い、何度も鏡を見直した。ない。布が、ない。
「わ、わ、若菜さん!?なんですかこれ!?背中が丸見えじゃないですかぁ!!」
鏡の中の自分は首の後ろから腰のくびれにかけて美しいV字を描いて肌を晒していた。
白い背骨のラインがあらわになり、肩甲骨が浮き上がっている。清楚な正面からは想像もつかない、あまりにも大胆で無防備な後ろ姿。
「あら、素敵。鈴様の美しい背中が映えますわ」
「素敵じゃないです!無理無理無理!こんな格好で外に出られません!西園寺様に怒られちゃいます!」
「あら?旦那様は“清楚で上品”がお好きなのでしょう?ご安心ください、正面から見れば誰よりも聖女のように清らかです」
若菜は涼しい顔で鈴の首筋に仕上げの香水を吹き付けた。
「さ、詐欺です……!若菜さんの嘘つき……!」
「嘘ではありません。戦略です。……鈴様、もう時間はありません。それに一度袖を通した以上、後戻りはできませんよ?」
若菜の言葉と共に部屋の外から重厚な足音が聞こえてきた。革靴の音だ。景明が痺れを切らして階段下まで来ているのだ。
「ひぃっ……!」
「さあ、行きましょう。背中は見えなければいいのです。壁を背にして歩けば問題ありません」
「そんな無茶な……!」
鈴は涙目になりながら若菜に背中を押され、部屋を後にした。心臓が破裂しそうになっている。別の意味で戦いの火蓋が切って落とされた。
◇
西園寺邸、一階のエントランスホール。吹き抜けの天井から下がる巨大なシャンデリアが今夜ばかりは煌々と輝き、磨き上げられた大理石の床を照らし出している。その中央に二人の男が立っていた。
一人は副官の氷室。彼は仕事が残っているのだろう、軍服のまま、懐中時計を気にしていた。
そしてもう一人が西園寺景明。今夜の彼はいつもの軍服ではない。夜会用の礼装で黒一色のタキシードに深紅の裏地がついたマントを羽織っている。胸元には勲章が光り、腰には儀礼用のサーベル。その姿は闇の貴公子そのものだった。
「……遅い」
景明が低い声で唸る。彼は苛立ちを隠せない様子で革手袋をはめた指でサーベルの柄を叩いていた。
「予定より十五分遅れています。若菜さんのことですから気合を入れすぎているのでしょう」
「まったく……。鈴は素材がいいのだから、余計な飾りなどいらんと言うのに」
景明はまだ見ぬ鈴の姿を想像し、落ち着かない様子で階段を見上げた。
(清楚で上品なドレスと言っていたな。……きっと雪の精のように愛らしいに違いない)
そう自分に言い聞かせ、緩みそうになる頬を引き締める。その時。階段の上から衣擦れの音とヒールの音が聞こえてきた。
「お待たせいたしました、旦那様」
若菜の声が響く。そして階段の踊り場に鈴が姿を現した。
「っ」
景明の呼吸が止まった。そこにいたのは彼が知る少女ではなかった。深い夜空の色を纏った女神だった。体に吸い付くようなベルベットが彼女の成長途中だが、確かに女性らしい曲線を艶めかしく描き出している。ライトを浴びて生地に織り込まれたダイヤモンドダストが歩くたびに星屑のように煌めく。
「西園寺、様……お待たせ、しました」
鈴がゆっくりと階段を下りてくる。その表情は恥じらいに染まり、頬は林檎のように赤い。だがその瞳だけは景明を真っ直ぐに射抜いていた。
“美しい”。ただ、その一言に尽きた。
景明は言葉を失い、ただ呆然と自分の婚約者が階段を下りてくる様を見つめていた。
「少佐。……口が開いています」
「……うるさい」
氷室の囁きに景明は我に返った。
(いかん。見惚れすぎて、出迎えすら忘れていた)
彼は慌てて階段の下へと歩み寄り、最後の一段を下りようとする鈴に恭しく手を差し出した。
「……あ、ありがとうございます」
「ああ。……とても、綺麗だ。鈴」
景明の声は熱を帯びて掠れていた。鈴の手を取り、その指先に口づけを落とす。
「そのドレス、よく似合っている。星月夜か。……私が想像していた通り、いや、それ以上に清楚で品がある」
(よかった……!まだバレてない……!)
鈴は心の中で安堵の溜息をついた。正面から見る限り、このドレスは鉄壁だ。首元も隠れ、肌の露出は手首と顔だけ。これなら、なんとか誤魔化せるかもしれない。
「若菜もたまには良い仕事をするな。これなら私も安心してエスコート……」
言いながら景明が鈴の肩に手を回し、エスコートのために横に並ぼうとした、その時だった。若菜が満面の笑みで、鈴に手渡すべき小さなクラッチバッグをわざとらしく落とした。
「あら、失礼しました!手が滑りましたわ」
「あっ、私が拾います!」
鈴が反射的に落ちたバッグを拾おうと体を捻り、振り返ってしまった。その瞬間。景明の視界にとんでもないものが飛び込んできた。
夜色のベルベットに切り取られた、雪のように白い無防備な背中。背骨のライン。腰のくびれ。あまりにも滑らかであまりにも無防備な、素肌の輝き。時が凍りついた。
「…………は?」
景明の喉から低い音が漏れた。彼は自分の目を疑い、二度、三度と鈴の背中を凝視した。幻覚ではない。確かにそこには布が存在しない。
「わ、か、なァァァァァッ!!!!」
屋敷中に雷鳴のような怒号が轟いた。景明の全身から青白い電気が迸る。
「き、貴様!これはどういう了見だ!布が足りなかったのか!?それとも製作途中で持ってきたのか!?」
「あら、人聞きが悪い。これが最新のモードですわ」
「こんな……こんな破廉恥な格好で他の男の前に出せるかッ!今すぐ私のマントで……!」
若菜は悪びれもせず、手で口元を隠した。景明は顔を真っ赤にして、自分のマントを脱ぎ捨てようと肩に手をかけた。だが、その手がマントを外すより一瞬早く若菜がどこに隠し持っていたのか、分厚い純白のファーショールを広げ、鈴の肩から背中をすっぽりと覆い隠した。
「はい、どうぞ。鈴様」
「あ、あったかい……」
それは露出を完全に遮断する、完璧な防御壁だった。
「旦那様、早まってはいけません。せっかくの礼装を崩しては西園寺家の品位に関わります」
若菜は何食わぬ顔でショールの前を留めながら言った。
「それにもう十二月ですもの。外は冷えますから、このくらいの厚手のショールが必要でしょう?……これなら誰も鈴様の背中を見られませんわ」
「ぐっ……」
景明は半分脱ぎかけたマントの襟を掴んだまま、言葉に詰まった。確かに若菜の言うことは正論だ。防寒という名目のもと、完璧な隠蔽工作が行われたのだから。彼のマントを奪うことなく、鈴の露出も防ぐ。完全に若菜の手のひらの上だった。
「……チッ。手回しのいいことだ」
景明は忌々しげに舌打ちをするとマントを正し直した。そして、マシュマロのようになった鈴の腰を強く引き寄せた。
「……いいだろう。だが、会場に入ってもそのショールは脱ぐなよ。絶対にだ」
「は、はい!脱ぎません!」
「もし誤って脱げそうになったら、私がその瞬間に会場ごと凍らせて視界を遮る」
「そんな物騒な……!」
景明の瞳には暗く、重い独占欲の炎が宿る。彼は鈴の耳元に唇を寄せ、低く囁いた。
「今夜は一秒たりとも私から離れるな。私の背中と君の背中が磁石でくっついていると思え。……他の男が君に近づくことすら許さん」
鈴は赤くなった顔で頷いた。その様子を見て氷室がやれやれと眼鏡を押し上げる。
「少佐。出発の時間です。……若菜さん、あなたの勝ちですね」
「ふふ。女の武装は時には男の剣よりも強いのですわ」
冷たい夜風が吹き込む中、一行を乗せた車は月明かりの下を走り出した。
◇
帝都から車を走らせること数時間。文明の灯りが途絶え、深い闇が支配する避暑地、軽井沢。
標高千メートルの山中は吐く息も凍るような冷気と針葉樹の鋭い香りに満ちていた。その霧の向こうに目的の館が姿を現した。
「……あれが」
車の窓から外を見つめていた鈴が思わず息を呑む。漆黒の闇の中に浮かび上がっていたのは不気味なほどに美しい巨大な発光体だった。
硝子の館。その名の通り、外壁のほぼ全てがガラス張りで構成された洋館。内部のシャンデリアの光を透過し、まるで森の奥深くに不時着した巨大な水晶か、あるいは獲物を誘き寄せる深海の発光魚のように妖しく白い光を放っている。
「到着しました」
運転席の氷室が静かに告げ、車をエントランスに横付けした。周囲にはすでに財界の大物や軍の高官たちを乗せた高級車がずらりと並んでいる。
ドアが開くとナイフのように鋭い冷気が車内になだれ込んでくる。だが、鈴の体は温かかった。
若菜が着せてくれた分厚い純白のファーショールと隣に座る景明の体温が彼女を守っていたからだ。
「降りるぞ。……足元に気をつけろ」
景明が先に降り、鈴に手を差し伸べる。鈴はその大きな手に自分の手を重ね、霜が降りた石畳の上へと降り立った。
景明は鈴の腰、分厚いショールの上からでも分かる華奢なラインを所有印を押すように強く抱き寄せた。
「行くぞ。……私の手を離すなよ」
「はい」
重厚な扉が開かれた瞬間、色彩と音の奔流が二人を襲った。そこは鏡とガラスの迷宮だった。床も、壁も、そして天井までもが鏡張り。
無数に吊るされたクリスタル・シャンデリアが乱反射し、どこまでが実像でどこからが虚像なのか、平衡感覚が狂いそうになる。
「うわぁ……」
鈴は眩しさに目を細めた。ホールには既に多くの招待客が溢れている。色とりどりのドレスを纏った令嬢たち、燕尾服の紳士たち。その目は値踏みするような好奇心と淫靡な熱気に満ちている。
その中で、二人の登場は異質だった。黒い死神のような男と真っ白な毛玉のような少女。
「見て、あの方……西園寺少佐じゃない?」
「隣の女性は誰?見たことがないわ」
「なんて真っ白なショール……。まるで雪ん子ね。中はどうなっているのかしら」
ざわめきがさざ波のように広がる。露出を競い合う派手な令嬢たちの中で首元までファーに埋もれた鈴の姿は逆に目立っていた。
見えないからこそ見たくなる。隠されているからこそ、想像を掻き立てられる。若菜の策は意図せずして鈴の神秘性を高めていたのだ。だが、その空気を切り裂くように甲高い声が響いた。
「あら、あらあら!どこの田舎娘かと思えば小鳥遊様じゃなくて?」
人垣がモーゼの海のように割れ、一人の女性が姿を現した。この夜会の主催者、宝生麗華である。彼女が纏っているのは目の覚めるような真紅のドレス。ふんだんに使われた金糸の刺繍とこれでもかとあしらわれたルビーの装飾がシャンデリアの光を浴びて攻撃的に輝いている。
扇子で口元を隠しているがその目は明らかに鈴を見下していた。
「ごきげんよう、宝生様。お招きいただき光栄です」
鈴は動じることなく、優雅にカーテシーをした。
「フン、相変わらず地味ねえ。せっかくの舞踏会だというのにそんなショールでぐるぐる巻きにしてまるで……蓑虫みたい」
麗華の言葉に取り巻きの令嬢たちが「ふふふ、蓑虫ですって」「本当、枯れ木にぶら下がっているのがお似合いですわ」と意地悪な笑い声を上げる。
「それに小鳥遊様、マナーをご存じないの?室内に入ったら、外套やショールを預けるのが淑女のたしなみですわ。それとも……」
麗華は扇子を音を立てて閉じ、鈴の鼻先へと突きつけた。
「中にお見せできるようなドレスをお召しでないのかしら?下級華族の小鳥遊家には最新のモードを買う余裕なんてありませんものねえ。もしかして、中身は女学校の制服?それともツギハギだらけの寝間着かしら?」
嘲笑が広がる。景明のこめかみに青筋が浮かび、彼が一步踏み出そうとした、その時だった。
(……蓑虫、ですって?)
その瞬間、鈴の中で何かが切れた音がした。自分自身への侮辱ならば、何を言われても平気だった。だが若菜が必死に選んでくれたこのコーディネートを、そして景明が綺麗だと言ってくれたこの姿を馬鹿にされるのだけは断じて許せなかった。
下級華族だからといって、心まで貧しくなった覚えはなかった。鈴の瞳に確かな反骨の炎が宿る。
(女学校の校訓は“質実剛健”。……そして西園寺家の家訓は“売られた喧嘩は買え”だったはず!)
鈴の瞳に負けん気の炎が宿る。彼女は一歩前に出ると完璧な営業スマイルを浮かべた。
「まあ、宝生様。ご親切にありがとうございます。私、社交界には不慣れなもので気が付きませんで……大変失礼いたしました」
「あら、分かればよろしいのよ。……さあ、給仕にそのボロ……いいえ、ショールをお渡しなさいな」
麗華が勝ち誇った顔をする。鈴は「はい」と素直に頷くとショールの留め具に手をかけた。
「おい、鈴!?待て、脱ぐ必要はない!私は許可しない!そのままでいい!」
隣で聞いていた景明が止めようとする。だが、鈴の動きは早かった。
「いえ西園寺様!郷に入っては郷に従え、です!西園寺家の婚約者として、恥ずかしい真似はできません!」
彼女はショールを脱ぎ捨てると通りがかった給仕にそれを押し付けた。
「お願いします!」
「は、はい!」
その瞬間。蓑虫の殻が破れ、中から宝石のような蝶が羽化した。
「っ!?」
会場中の視線が一点に集中した。時がスローモーションのように流れる。現れたのは、星月夜。深い夜色のベルベットが鈴の透き通るような白い肌と見事なコントラストを描き、生地に織り込まれたダイヤモンドダストがシャンデリアの光を吸い込んで星屑のように瞬く。
清楚で禁欲的な正面のデザイン。だが、鈴が給仕に向かって背を向けた、次の瞬間。
「…………え?」
麗華の目が点になった。扇子が手から滑り落ちる。会場の紳士たちの目が釘付けになった。そこには大胆に、あまりにも大胆にV字にカットされた雪のような背中があった。
肩甲骨の天使の羽のようなライン。腰のくびれへと続く、滑らかで無防備な背骨の曲線。清楚な正面との凄まじいギャップが見る者の理性を揺さぶる。それはまさに聖女の皮を被った魔性の姿だった。
「う、美しすぎる……」
「なんと大胆な……。あれが噂の西園寺少佐の婚約者か」
称賛と羨望のため息がさざ波のように広がる。麗華は音もなく口を開閉させ、顔を真っ赤にして言葉を失っていた。自分が蓑虫と馬鹿にした相手が自分よりも遥かに洗練された、最先端のドレスを着こなしていたのだから。
「ど、どうですか?宝生様。これならマナー違反ではありませんわよね?」
鈴が振り返り、小首を傾げて微笑む。その笑顔は可憐だがどこか“ざまぁみろ”という勝利の響きが含まれていた。
「ぐ、ぐぬぬぬぬ……ッ!」
麗華は落ちた扇子を拾うことも忘れ、震えている。完全勝利だ。鈴が心の中でガッツポーズをした、その時。
「……す、ず……」
地獄の底から響くような、怨嗟の声がした。恐る恐る横を見ると景明が額に青筋を浮かべ、鬼のような形相で仁王立ちしていた。その瞳は周囲の男たちを全員射殺させんばかりの殺気を放っている。
「……やってくれたな……」
「えっ?西園寺様、私、頑張って言い返しましたよ!褒めてください!」
「そうじゃない!背中だ!背中が丸見えだと言っているんだ!」
「あっ……!」
鈴はハッとして自分の肩越しに背後を振り返り、顔を青ざめさせた。
(しまった……!宝生様に言い返すのに必死で背中のことすっかり忘れてた!)
「ご、ごめんなさい!若菜さんにはショールで絶対に隠しておけって言われてたんですけど、ついカッとなってしまって……!」
「君も知っていて黙っていたのか!若菜の奴、私だけでなく君まで丸め込んでいたとは……!」
彼は頭を抱え、慌てて自分のマントを脱ごうとしたが時すでに遅し。楽団が指揮棒を振り上げ、ワルツの旋律が流れ始めてしまった。
「チッ……!こうなれば、踊るしかないか!」
彼はもはやヤケクソ気味に鈴の手を引いた。そして、周囲の視線を遮断するように鈴の腰に大きな手を回し、ガッチリとホールドした。
「い、痛いです西園寺様!」
「我慢しろ!私の手で隠すしかないんだ!離れるなよ、一ミリたりとも!」
こうして、半ば強引に二人はフロアの中央へと連れ出された。
喧騒が遠のき、世界が二人だけのものになる。
景明の右手が鈴の露わになった背中に直接触れている。薄い手袋越しに伝わる、彼の掌の熱。その熱が鈴の背筋を駆け上がり、とろけるような感覚をもたらす。
(ワン、ツー、スリー......)
ワルツの旋律に合わせて、ステップを踏み出す。 特訓の成果か、それともこの星月夜の魔法か。 鈴の体は羽毛のように軽く、水の上を滑るように優雅に動いた。 ターンをするたびにドレスの裾が夜空の一部を切り取ったように翻る。
「......綺麗だ」
踊りながら景明は不機嫌そうだが、熱を帯びた声で囁く。
「悔しいが認めよう。......今の君は会場のどの女よりも美しい。私だけのものにしておきたいくらいにな」
(私だけのもの......)
その言葉に鈴の胸が高鳴る。 彼女は今、この人の隣にいる。 ただ守られているだけではない。 蓑虫の殻を破り、こうして同じ歩幅で、同じ音楽の中で、共に回っているのだ。
「......西園寺様」
「ん?」
「私、今......とっても幸せです」
鈴の言葉に景明が目を見張り、そして優しく、どうしようもなく愛おしそうに微笑んだ。 その笑顔を見た瞬間、鈴は確信した。“この人のためなら、どんな敵とも戦える”と。
だが、甘い時間は不穏な気配によって塗り替えられる。 ターンをし、二人の位置が入れ替わった瞬間。 景明の視線が会場の片隅、二階のバルコニーへと向けられ、鋭く細められた。
(......見つけたぞ)
景明の声色が一瞬にして氷点下へと変わる。 鈴にも伝わる、筋肉の緊張。 彼の背中に添えた手から微弱な冷気が伝わってくる。
「西園寺様......? どうか、なさいましたか?」
鈴が不安げに見上げると景明は微かに首を振った。彼が見つめる先。硝子の手すりの向こうに人影があった。燕尾服の紳士。一見するとただの招待客だが、その目は明らかに異質な光を宿し、じっとこちらを、いや、鈴を見下ろしていた。
(... 間違いない。......血の匂いがする。“掃除屋”の類か)
まだ、その正体が幹部、蜻蛉であるとは知らず、その男が放つ底知れぬ圧迫感は胡蝶の比ではなかった。音楽は優雅な長調のまま。だが、二人の間には見えない火花が散り始めていた。
「気にすることはない。......そのまま、私だけを見ていなさい」
景明はそう囁くとワルツのステップはそのままに鈴の背中をさらに強く抱き寄せ、バルコニーからの視線を遮るように自分の体で彼女を隠すように位置を変えた。
「踊り続けろ、鈴。...... こちらの“準備”は整っている」
景明の手が鈴の素肌に食い込むほど強く、彼女を守るように抱きしめる。それは愛撫であり、絶対防御であり、敵への宣戦布告だった。
やがて、最後の旋律が夜空へと溶け、静寂が訪れる。ワルツの余韻は甘美な痺れとなってフロアを支配していた。煌びやかな光の迷宮の中で命を懸けた死の舞踏が今、静かに始まろうとしている。




