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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第二章 覚悟の婚約と忍び寄る幻夢の蝶
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第17話

 帝都の夜は光と闇が入り混じる、巨大な怪物の腹の中のようだ。浅草の空に聳え立つ十二階建ての煉瓦造りの塔、凌雲閣。

 その頂に近い展望台に寒風が吹き荒れている。晩秋の風は鋭い刃物のように冷たく、地上から遥か彼方の高所にへばりつく虫の息を止めようとしていた。

「はぁ…… はぁ……ッ、うう ……」

 手摺に縋りつくようにして、女がひとり、荒い息を吐いている。絢爛な紫色の着物はあちこちが焦げ、裂け、無残な姿を晒していた。かつて帝都の闇を優雅に舞った毒蛾、胡蝶である。

 彼女の背にあったはずの異能の翼は景明の放った雷撃によって根元から焼失し、いまはただの醜い火傷の痕となって背中を激しく焼いている。吉原の遊郭での死闘から、命からがら逃げ出したのだ。

(あの男……化け物よ……!私の繭を、あんな力技で……)

 恐怖で震える指先が鉄の手摺をきしりと掴む。眼下には宝石を散りばめたような帝都の夜景が広がっている。瓦斯灯の明かりが揺らぎ、人々の営みが光の川となって流れているが、今の彼女にはその美しさなど目に入らない。ただ、逃げなければという生存本能だけが、傷ついた体を突き動かしていた。

 その時である。風の音に混じって、硬質な音が響いた。

 それは革靴のヒールが煉瓦を叩く音であり、同時にステッキが床を突くリズムでもあった。

「誰……ッ!?」

 胡蝶が弾かれたように振り返る。展望台の暗がりから、一人の男が音もなく姿を現した。上質なツイードの三つ揃えの背広に襟の立った外套。頭には山高帽を被り、片眼鏡を嵌めている。

「ご機嫌よう。素晴らしい眺めですねえ」

 男は穏やかなバリトンボイスで言った。まるで夜会の知人に挨拶でもするかのような気軽さだ。だが、その片眼鏡の奥にある瞳は笑っていない。

 ガラス玉のように無機質で、一切の感情が削ぎ落とされた瞳。それは人間を見る目ではない。標本箱の中の昆虫を検分する、冷徹な観察者の目だ。

「おまえ、……蜻蛉か……!」

 胡蝶の声が裏返る。組織の掃除屋。始末屋。

 蜻蛉と呼ばれるその男は組織の中でも異質な存在として恐れられていた。彼が動く時、それは“失敗した者”が消える時だ。

「胡蝶君。君の報告書には失望しましたよ。ターゲットの捕獲に失敗し、あろうことか組織の存在を陸軍の狗に露呈させた。……これはいただけない」

 蜻蛉は白い手袋をはめた手で、ステッキの持ち手を愛おしげに撫でた。

「ま、待って!相手は西園寺景明よ!?あの怪物を相手に無傷でいられるわけがない!次は上手くやるわ、だから……!」

「次?ノン、ノン。君に次はありません」

 蜻蛉が微笑んだ。唇だけが吊り上がる、三日月のような冷たい笑み。

「組織が必要としているのは完璧な駒です。ヒビの入った駒は盤面を汚すだけ。それに」

 蜻蛉が一歩、踏み出す。それだけで胡蝶は蛇に睨まれた蛙のように竦み上がった。

 殺気がない。怒りも、殺意も、憎しみもない。ただ“ゴミをゴミ箱に捨てる”という、事務的な遂行意志だけがそこにある。それが何よりも恐ろしかった。

「君は少々、羽音を立てすぎた。静寂を愛する我々にとって騒がしい蛾は害虫でしかないのです」

「いやぁあああああっ!!」

 胡蝶が悲鳴を上げ、残った力を振り絞って毒の鱗粉を撒き散らそうとする。だが、遅い。ただ流れるような動作で懐に入り込み、ステッキの先端で胡蝶の鳩尾を正確に突き上げたのだ。

「がっ……!?」

 呼吸が止まる。体がくの字に折れる。そのバランスが崩れた瞬間、蜻蛉は優雅な手つきでまるでダンスのパートナーをエスコートするかのように胡蝶の背中を手摺の外側へと軽く押すと紫色の着物が宙に舞う。

「あ…」

 胡蝶の体が重力に従って夜の闇へと吸い込まれていく。落下する彼女の視界に最後に映ったのは手摺から身を乗り出し、興味深そうに自分の死を見つめる片眼鏡の男の姿だった。

「さようなら。重力加速度の実験には少々軽すぎましたかね」

 鈍く湿った音が遥か下から微かに聞こえた。蜻蛉は表情一つ変えず、懐から取り出した懐中時計を確認する。

「さて。掃除は完了しました。次は……あの乱暴な“軍人”にご挨拶といきましょうか」

 男は夜景に背を向け、闇の中へと消えていく。その背後で凌雲閣の灯りが一つ、また一つと、不吉な瞬きを繰り返していた。

 それからの二日間は景明にとって記憶すら曖昧になるほどの修羅場であった。意識を失った鈴を氷室に命じて屋敷へと搬送させた直後から彼は一睡もしていない。

 吉原の廃屋に残された膨大な量の毒鱗粉。これを放置すれば夜明けとともに風に乗って帝都中に猛毒が拡散してしまう。景明は疲弊しきった身体に鞭を打ち、異能を行使し続けた。

 右手が感覚を失うほどに冷え切っている。それでも彼は止まらない。建物全体をそして地下に広がる空洞までもを、絶対零度の冷気で封じ込める。毒の粒子の一つ一つを氷の結晶の中に閉じ込め、無害化する作業。それは戦闘における破壊よりも遥かに繊細で精神力を削り取る苦行だった。

(鈴……。無事だろうか)

 作業の間、彼の脳裏を占めるのはただ一人の少女のことばかりだ。雷神の杭で部屋を貫いた時、彼女を傷つけはしなかったか。絶縁結界は完全に彼女を守りきれたのか。救い出した時のあの折れそうなほど細い身体の感触が掌に残って離れない。

(会いたい。今すぐに帰って、その寝顔を確かめたい)

 だが陸軍少佐としての責務がそれを許さない。夜が明ければ警察や憲兵隊への根回し、目撃者の記憶操作に近い情報統制、そして上層部への報告書の作成。

 “正体不明のテロリストによる爆発事故”

 それが今回の事件につけられた公的な仮面だった。すべてが終わったのは事件から丸二日が経過した日の夕刻だった。軍の執務室で景明は投げ出された新聞に目を落とす。

 “凌雲閣下にて変死体発見。身元不明の女性、飛び降りか”

 小さな囲み記事。だが、景明の直感が告げている。これがあの蛾の成れの果てだと。

(……消されたか)

 背筋に冷たいものが走る。自決ではない。あの執念深い女が自ら命を絶つはずがない。組織は失敗した者を躊躇なく切り捨てる。その非情さが底知れない闇の深さを物語っていた。

「少佐」

 氷室が心配そうな面持ちで声をかけてきた。彼の顔色も悪い。胃薬の瓶を握りしめているのが見える。

「事後処理は概ね完了しました。……お帰りください。少佐の顔色は死人よりも酷い」

「……ああ。そうだな」

 景明は重い身体を椅子から引き剥がした。立っているだけで世界が傾く感覚がある。

 頭痛がする。関節が軋む。力の枯渇による反動と極限の疲労。常人ならばとっくに昏倒している状態だが景明を支えているのはただ一つの執着だった。

 “鈴のいる場所へ帰る”

 その一心だけで彼は軍用車に乗り込み、西園寺邸へと向かった。屋敷に到着した頃には空はすっかり茜色から群青色へと染まっていた。

 晩秋の冷気が熱を持った景明の頬を撫でる。車を降り、砂利を踏む自分の足音がやけに遠くに聞こえた。

「旦那様!」

 玄関ホールに入った瞬間、涙声が響いた。トメだ。彼女は景明の姿を見るなり、しわくちゃの顔をさらに歪めて駆け寄ってきた。

「ご無事で……!本当にご無事で……っ!」

「……ああ。心配をかけたな、ばあや」

 景明は強張った表情を緩めようとしたが上手く笑えているかわからない。トメは涙を拭いながら景明の外套を受け取るのも忘れ、弾んだ声で告げた。

「鈴様が!鈴様がお目覚めになられました!」

 その言葉はどんな薬よりも劇的に景明の脳髄を揺さぶった。心臓が早鐘を打つ。

「……目覚めた、か」

「はい、先ほど!お熱も下がって、お粥も少し召し上がって……」

 トメの言葉が終わるのを待たずに景明は走り出していた。疲労など忘れたかのように。重い軍靴の音を廊下に響かせ、階段を駆け上がる。

(鈴。鈴……!)

 理屈ではない。彼女の声が聞きたい。彼女の瞳に自分が映るのを見たい。あの悪夢のような繭の中で彼女がどれほど怯えていたか。それを思うだけで胸が張り裂けそうになる。

 彼女の部屋の前までたどり着き、景明は乱暴にドアノブを掴みかけ、寸前で手を止めた。深呼吸を一つ。乱れた軍服の襟を正し、自分の呼吸を整える。彼女を怖がらせてはいけない。今の自分は、鬼少佐ではない。彼女の婚約者として振る舞わねばならない。

「……入るぞ」

 努めて静かに、扉を開ける。部屋の中は暖かなランプの光に満たされていた。微かに漂う金木犀の香りと、消毒薬の匂い。

 そしてベッドの上。大きな枕に背を預け、白い寝間着に身を包んだ少女がこちらを見ていた。

「……西園寺、様?」

 その声を聞いた瞬間、景明の視界が滲んだ。生きて、そこにいる。透き通るような白い肌も、長い睫毛も、少し痩せてしまった頬も。全てが愛おしく、全てが現実だ。

「鈴……」

 景明は吸い寄せられるようにベッドの傍らへ歩み寄る。鈴の大きな瞳が不安げに揺れ、そして安堵の色に染まっていくのが見えた。

「よかった……。西園寺様、怪我は……?」

 自分の身よりもまず景明を案じるその優しさ。その言葉が張り詰めていた最後の糸を断ち切った。

(ああ……私は、この子を守れたんだな)

 安堵。全身の血液が逆流するような圧倒的な安堵感。それが引き金だった。今まで気力だけで繋ぎ止めていた意識が音を立てて途切れる。

 視界が白く明滅し、天地が逆転する。足の力が抜け、景明の身体は巨大な鉛のように重く沈んでいった。

「西園寺様ッ!?」

 鈴の悲鳴が聞こえる。だが、それは遠い水底からの響きのようだ。景明は膝から崩れ落ち、そのままベッドの端に上半身を投げ出すようにして倒れ込んだ。触れたシーツの感触。そして慌てて伸ばされた鈴の手の温かく柔らかな感触。

(温かい……)

 身体の内側から爆発的な熱が湧き上がってくるのを感じた。氷の異能を使いすぎた代償。そして、二日間の不眠不休による過労が熱となって最強の軍人を襲ったのだ。

「西園寺様!しっかりして!若菜さん!誰かッ!」

 鈴が叫んでいる。その小さな手を景明は無意識のうちに強く握りしめていた。もう二度と離さないと誓うように。意識の闇に落ちる寸前、景明は朦朧とする思考の片隅で酷く場違いなことを考えていた。

(ああ……鈴の匂いがする……)

 そこで思考は完全に途絶えた。

 景明の意識は極寒の吹雪の中にあった。見渡す限りの白。骨まで凍てつく絶対零度の世界。

 幼い頃から異能という氷を魂に飼い、心を鉄の鎧で閉ざしてきた彼にとって、ここは原風景であり、逃れられない呪いのような場所だった。

(寒い……)

 感覚が麻痺し、指先から徐々に命が削ぎ落とされていく。だが、その視界の先に揺らぐ光があった。雪原の真ん中で薪が音を立てて燃える小さな焚き火。それは黄金色に輝き、甘い金木犀の香りを漂わせる奇跡のような温もりだった。

(あれは……鈴か?)

 凍えた身体が本能的に熱を求める。あの光に触れたい。あの熱に溶かされたい。景明は雪を掻き分け、その焚き火へと手を伸ばした。

「西園寺様……?」

 心配そうな鈴を転がすような声が聞こえた。景明の焦点がゆっくりと結ばれる。ベッドの脇に置かれた椅子に座り、濡らした手拭いを景明の額に当てている少女。鈴だ。

 高熱で焼き切れた思考回路は論理的な判断を完全に放棄していた。今の彼にあるのは幼児のような純粋な欲求と獣のような本能的な独占欲だけだ。目の前に愛しい人がいる。景明を拒絶せず、恐れず、ただ慈しむような瞳で見てくれている。

「すず……」

 掠れた声で名を呼ぶと鈴が弾かれたように身を乗り出した。

「気がつかれましたか!?よかった……丸一日、うなされていたんですよ。お水、飲みますか?」

 鈴がサイドテーブルの水差しに手を伸ばそうと立ち上がる。その瞬間、景明の腕が動いた。水を求めるのではない。離れていきそうなその温もりを繋ぎ止めるために。灼熱の手が鈴の華奢な手首を万力のように掴んだ。

「えっ?西園寺様?」

 驚いて振り返ると、高熱に浮かされた景明がまるで救いを求めるような、それでいて獲物を逃さない獣のような瞳でこちらを見上げていた。

 普段の鋭い眼光はどこへやら、そこにいるのは雨に濡れた大型犬のような庇護欲をそそる男だった。

「行くな……」

「い、行きませんよ、お水を取ろうとしただけで……」

「駄目だ、離れるな」

 景明は首を振る。駄々っ子のような拒絶。そして掴んだ手首を強引に引き寄せた。

「あの温もりは……私のものだ」

「さ、西園寺様?何を言って…きゃあッ!?」

 抵抗する間もなく、鈴の身体がベッドの中に引きずり込まれる。世界が反転し、気づけば鈴は背中からマットレスに沈み込み、その上から覆いかぶさるようにして景明がのしかかっていた。

(ち、近い!重い!熱いッ!)

 高熱を発している景明の身体はまるで焼けた鉄の塊のようだ。金木犀の香りが鼻腔を満たす。景明にとってそれはどんな鎮痛剤よりも効く特効薬だった。

(柔らかい……)

 夢の中の彼にとって、腕の中に抱え込んだ鈴こそが凍えた世界で唯一の焚き火なのだ。

 景明は無意識のうちに腕に力を込め、鈴を抱きすくめた。まるで宝物を誰にも奪われないように隠す子供のように。

「あたたかい……」

 景明が鈴の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。くすぐったいような熱い吐息。鈴の心臓が早鐘を打つ。

「さ、西園寺様!?ちょ、ちょっと、近いです!お顔が近いですっ!病人が無理をしては……」

 鈴が真っ赤になって藻掻くが、高熱の病人とは思えない怪力でホールドされているため、びくともしない。

 景明は熱い吐息を鈴の首筋に吹きかけながら夢うつつで呟いた。

「怖かった……。お前がいなくなる夢を見た……」

「え……」

 弱々しい吐露のような言葉。その響きに含まれた切実な響きに鈴の動きが止まる。彼女は恐る恐る、景明の顔を覗き込んだ。端正な顔立ちが熱で赤く染まり、苦しげに歪んでいる。いつもなら絶対に弱音など吐かない鬼少佐が今はただの、傷ついた一人の青年としてそこにいた。

(この人は……こんなになるまで、私を……)

 鈴の胸が締め付けられる。彼がどれほどの覚悟でどれほどの無理をして自分を救い出してくれたのか。

「……私は、どこにも行きませんよ」

 鈴は抵抗をやめ、そっと景明の背中に手を回した。あやすように優しく叩く。

「ここにいます。あなたのそばに」

 その言葉は景明の理性の留め金を完全に破壊する呪文となった。そばにいてくれる。受け入れてくれる。ならば、もっと。もっと深く、この存在を確かめたい。

「……愛している」

「えっ」

「愛しているんだ、鈴。誰にも渡さない」

 景明の腕がさらに強く鈴を締め上げる。鈴の背骨が悲鳴を上げそうになるほどの抱擁。

「ぐ、苦し……っ、西園寺様、力が強すぎ……っ!」

「私のものだと言ってくれ。一生、私のそばにいると」

「い、言います!言いますから、まずは力を緩めてください死にます!」

 鈴の懇願も熱暴走した景明の耳には届かない。彼の瞳が不意に怪しく光った。獲物を見つけた肉食獣のような、砂糖菓子を見つけた子供のような甘く危険な光。

「口約束じゃ、足りない」

「は?」

「刻印が欲しい」

「し、しるし……?」

 景明の手が鈴の顎をくい、と持ち上げる。至近距離で絡み合う視線。景明の唇がゆっくりと、逃げ場をなくすように確信を持って近づいてくる。

「っ!?」

 鈴の頭が真っ白になった。近い。睫毛の一本一本まで数えられそうな距離。熱い吐息が唇にかかる。これは接吻の体勢だ。それもおでことか頬とかいう可愛いものではない。もっと濃厚で深い場所への侵略。

(む、無理無理無理っ!まだ心の準備が!というか病人のくせになんでこんなに色気があるの!?)

 鈴は大パニックに陥った。だが身体が動かない。蛇に睨まれたなんとやらで景明の美貌と熱気に当てられ、金縛りのようになってしまったのだ。

「ん……」

 景明の唇が鈴の唇を塞いだ。

「ッ!?」

 触れるだけの挨拶ではない。渇いた旅人が泉の水を貪るような深く、濃厚な接吻。

 景明の舌が強引に唇をこじ開け、絡みついてくる。慣れない感覚、圧倒的な雄の気配に鈴の思考は白く弾け飛んだ。

「ん……っ、ぁ……!」

 息ができない。酸素が奪われ、代わりに甘く痺れるような熱だけが注入されていく。

「ぷはっ……!はぁ、はぁ……っ!」

 一瞬、唇が離れる。鈴が酸素を求めて喘ぐが景明は逃がさない。

「鈴……」

 夢現の瞳が至近距離で鈴を捉える。愛おしさと独占欲が溶け合ったとろけるような視線。

「鈴……私の、鈴……」

「ぁ、西園寺、さま……」

「愛してる……」

 再び、唇が塞がれる。今度は角度を変え、より深くより執拗に水音が部屋に響くたび、鈴の羞恥心は限界を超えて跳ね上がった。

(し、死ぬ!息が止まって死んじゃう!)

 名前を呼ばれるたびに唇を奪われる。その甘い呪縛に鈴の身体から力が抜けていく。抵抗しようとした手もいつしか景明の背中に回り、彼の熱を受け入れてしまいそうになる。だが、何度目かの長い接吻のあと、景明の唇がゆっくりと離れた。

(あ……終わっ、た……?)

 鈴が安堵の息を吐こうとした、その時だ。景明の唇が滑るように顎のラインをなぞり、無防備に晒された首筋へと移動した。そして、そこにある柔らかい肉に印を刻み込むように吸い付いたのだ。

 背筋を稲妻のような痺れが駆け抜けた。それは明らかに所有を意味する行為。

(そ、そこはダメッ!!)

 鈴の理性のブレーカーが音を立てて落ちた。羞恥心が頂点に達し、火事場の馬鹿力という名の異能が発動する。

「こ、こん、ぜ、ん、ですッ!!!」

 鈴の絶叫が屋敷を揺らした。鈴の両腕が砲弾のような勢いで景明の胸板を突き飛ばす。いや、それはもう“突き飛ばす”というより“投げ飛ばす”に近い一撃だった。

「がはっ!?」

 不意を突かれた最強の軍人は枯れ葉のように宙を舞った。美しい放物線を描き、ベッドから弾き出され、床の上を転がっていく。

「はっ……はぁ、はぁ……っ!」

 鈴は乱れた着物を必死にかき合わせ、ベッドの上で肩で息をする。顔は茹で蛸のように真っ赤だ。唇は腫れ、瞳は潤み、誰がどう見ても“事後”のような色香を漂わせているが本人はそれどころではない。

「さ、西園寺様……!?」

 恐る恐る床を覗き込むと景明は大の字になって天井を仰いでいた。だが、その表情はなぜか幸せそうだ。夢の中の彼は焚き火の温もりを全身に浴びて満足したのか、衝撃で完全に気絶したのか、口元に微かな笑みを浮かべて寝息を立てている。

「あ……気絶、してる……」

 安堵と罪悪感が入り混じり、鈴が座り込みかけたその時、部屋のドアが勢いよく開かれた。

「敵襲ですか!鈴様ッ!?」

 飛び込んできたのは若菜である。その手にはピカピカに磨かれた銀のお盆が盾のように構えられていた。

 輝く銀盆を構え、臨戦態勢で室内を見回す若菜。そして、その後ろから青ざめた顔で氷室が続く。

「小鳥遊嬢!?今の悲鳴は……!」

 二人の視線が室内の惨状に釘付けになる。床に転がり、幸せそうに眠る主。ベッドの上で乱れ髪のまま、顔を赤らめて荒い息を吐く令嬢。そして部屋に充満する、むせ返るような甘い熱気。

「……」

「……」

 沈黙が落ちた。若菜は素早くお盆を下ろし、真顔で一礼した。その目は“見てはいけないものを見た”というより、“若者の情熱にはついていけません”と語っていた。

「……お邪魔しました。お熱いようで」

「ち、違います!違います若菜さん!そのお盆で防御しないで!誤解です!」

「失礼しました。少佐も床がお好きなようで何よりです」

 氷室も冷静に眼鏡の位置を直し、そっとドアを閉めようとする。

「待って!氷室様も見捨てないでくださーい!違うんです、これは不可抗力で……!」

 鈴の悲痛な叫び声が秋の夜長に虚しく響き渡る。平和で、騒がしく、そして何よりも幸せな時間がそこには確かに流れていた。

 だが、そのドタバタ劇を窓の外の闇からじっと見つめる視線があったことに誰も気づいてはいなかった。

 庭の木立の影。片眼鏡の男、蜻蛉が枝にとまったフクロウのように静かに佇んでいる。

「ふむ……。あれが修復の使い手、小鳥遊鈴ですか」

 蜻蛉は指先で宙に何かを描くような仕草をした。彼の片眼鏡のレンズが微かに赤く発光し、回転する。それはまるでカメラのレンズがピントを合わせるような、昆虫の複眼が獲物を多角的に解析するかのような、異様な動きだった。

「“器”としての強度は十分。……しかし、あの鬼があそこまで骨抜きにされているとは。精神的な依存度が計算外ですね」

 彼は懐から手帳を取り出し、何かを書き込む。

 “観測対象:小鳥遊鈴。西園寺景明との接触により、異能の波長に変化あり。要継続監視”

「さて。次の実験には少々刺激が必要かもしれませんね」

 蜻蛉は手帳を閉じ、笑った。その瞬間、彼の姿がブレて闇の中に溶けるように消滅した。後に残ったのは冷たい風に揺れる枯れ葉の音だけだった。

 翌朝。西園寺邸の寝室に穏やかな晩秋の陽光が差し込んでいる。レースのカーテン越しに透ける光はミルクを溶かしたように白く柔らかく、昨夜までの血と毒に塗れた修羅場が嘘のような平穏さだった。

 小鳥たちのさえずりと遠くから聞こえる庭師の竹箒が落ち葉を掃く音が朝の訪れを告げている。

 ベッドの上で景明はゆっくりと瞼を持ち上げた。

(……朝か)

 視界がクリアだ。昨夜まで鉛のように重かった四肢は驚くほど軽くなっている。体内に澱んでいた熱も引き、異能の使いすぎによる倦怠感も消え失せていた。

 熟睡した、という確かな実感がある。これほど深く、泥のように眠ったのはいつ以来だろうか。

 景明はシーツの感触を確かめるように拳を握り、そして、ふと眉を顰めた。

「……?」

 身体の前面、特に胸板と背中に鈍い痛みがある。それも病気の痛みではない。まるでダンプカーに跳ねられたか、柔道の達人に一本背負いを決められた時のような、物理的な衝撃による打撲痛だ。

(おかしいな。昨夜は熱で倒れこんだだけのはずだが……)

 記憶を辿ろうとするが、意識が途切れる直前の光景には靄がかかっている。覚えているのは圧倒的な寒さとそれを溶かすような極上の温もり。そして甘い金木犀の香りととろけるような蜜の味。

(……いい夢、だったな)

 無意識に指先で自身の唇に触れる。夢の中で味わった感触はあまりにも生々しく、そして甘美だった。それが現実のものだとは露ほども思わず、景明は微かに口元を緩めた。

 その時である。控えめなノックの音が響き、ドアがそっと開かれた。

「失礼します……。西園寺様、お目覚めですか?」

 お盆を手に入ってきたのは鈴だった。湯気を立てる白粥と梅干しの香りがふわりと部屋に流れ込む。いつもの朝の光景。だが、今日の彼女はどこか様子がおかしい。

「……あ、おはよう、鈴」

 景明が上体を起こして声をかけると鈴は大きく肩を震わせ、顔を真っ赤にして視線を泳がせた。

「お、お、おはようございますっ!ご気分はいかがですかっ!?」

 声が裏返っている。それに彼女の服装も違和感がある。

 いつもなら室内ではもう少しラフな格好をしていることもあるが今日は喉元までしっかりとボタンの留まった、ガードの固いハイネックのブラウスを着込んでいる。まるで首筋を絶対に見せないという鉄の意志を感じさせる装いだ。

(顔が赤いな。看病疲れだろうか)

 景明は心配になり、ベッドから降りて彼女に近づこうとした。

「熱は下がったようだ。昨晩はすまなかったな、ずっと看病させてしまっ」

「ひゃっ!こ、来ないでください!」

 鈴が素早く数歩下がる。まるで猛獣との間合いを測るような警戒心だ。

「……鈴?」

「い、いえ!なんでもありません!お元気そうで何よりです!さあ、朝食を!冷めないうちに!」

 鈴は逃げるようにお盆をサイドテーブルに置き、部屋の隅へと避難した。その挙動不審ぶりに景明は首を傾げるしかない。だが、彼女が自分を拒絶しているわけではないことはその潤んだ瞳を見ればわかった。拒絶ではなく、これは羞恥だ。

 景明は椅子に腰を下ろし、出された白粥を一口啜る。優しい出汁の味が空っぽの胃袋に染み渡る。

「……美味い」

「よ、よかったです。ばあやさんが、胃に優しいものをと」

「ああ。生き返る心地だ」

 木匙を動かしながら、景明はふと気になっていたことを尋ねた。

「そういえば、鈴。私は昨夜、何か……変なことをしなかったか?」

 鈴が椅子に膝をぶつけた。

「へ、変なこと!?どどど、どうしてですか!?」

「いや……ひどく幸せな夢を見た気がしてな。それになぜか全身が打撲痛で痛むんだ。まるで高い所から落ちたような……」

 景明が首を回して音を鳴らすと鈴の顔色が一瞬で青ざめ、また赤くなったりと忙しなく変化した。

(お、覚えてないんだ……!よかった、あんな濃厚な口づけのこと覚えてたら、私もうお嫁に行けない……いや、お嫁に行く相手はこの人なんだけども!)

 鈴は心の中で神に感謝しつつ、必死に作り笑いを浮かべた。

「そ、そうですね!西園寺様はその、熱にうなされて……ベッドから転がり落ちたんです!豪快に!ドンガラガッシャンと!」

「……ベッドから?」

「はい!かなり激しく!だから身体が痛いんですよ、きっと!」

「そうか……。無様だな」

 最強の軍人が寝相でベッドから転落したという事実に景明は少し落ち込んだ様子を見せた。その姿が鈴の知る“野中みのる”の姿と重なり、胸が締め付けられる。

(……この人は、本当に)

 昨夜の獣のような男と今の穏やかな青年。どちらも西園寺景明という一人の男性なのだ。

 鈴はお茶を淹れ、景明の向かいに座り直した。冗談めかした空気は霧散し、朝の光の中で二人の視線が静かに交差する。

「……鈴」

 景明が木匙を置き、真剣な眼差しを向けた。その瞳の色は先ほどまでの穏やかさとは違う。戦場を潜り抜けてきた男の深く、重い色だ。

「昨日のこと……まだ、礼を言っていなかった」

「礼、ですか?」

「ああ。一晩中、私のそばにいて看病してくれただろう。目が覚めた時、君の顔を見て安心した。……ありがとう」

 景明の真っ直ぐな感謝の言葉。それに鈴は小さく首を振った。

「いいえ……お礼を言うのは私の方です」

 鈴は俯き、膝の上で拳を握りしめた。胡蝶の恐怖と救われた瞬間の安堵が蘇る。

「胡蝶との戦いで……西園寺様が助けに来てくれなかったら、私はどうなっていたか……。本当にありがとうございました」

「当然のことをしたまでだ。君は私の婚約者だからな」

 景明は優しく微笑んだが鈴の表情は晴れない。彼女は意を決したように顔を上げ、震える声で告白した。

「……私、弱かったんです」

「え?」

「あの繭の中で大切な記憶が溶かされそうになって……苦しくて、怖くて。もう楽になりたい、何もかも終わらせてほしいとあなたに“殺して”と願ってしまいました」

 鈴の瞳から涙がこぼれ落ちる。誰にも言えなかった罪悪感。命懸けで救おうとしてくれた彼に対して、死を懇願した自分が許せなかったのだ。

「あんなにも必死に手を伸ばしてくれた西園寺様に私はなんて酷いことを……」

「鈴」

 景明が立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出して、鈴の涙を指先で拭った。その手つきは壊れ物を扱うように優しい。

「謝る必要はない。あんな状況で心が折れない人間などいない」

「でも……っ」

「それに君は最後には応えてくれた。“生きたい”と。……その声が聞けただけで私にとっては十分だ」

 景明の手が鈴の頬を包み込む。

「君が生きていてくれること。それだけで私の世界は光を取り戻す。……生きていてくれて、ありがとう」

「西園寺様……」

 鈴の胸の奥にあった黒い澱がその一言で一瞬で溶けていく。この人のそばなら、何度でも立ち上がれる。そう確信できた。

「……はい。私も西園寺様がご無事で本当によかったです」

 鈴は涙を拭い、濡れた瞳で景明を見つめ返した。穏やかで鋼のように強い絆が二人の間に流れていた。

 だが、そんな二人の世界を無粋な現実が切り裂いた。事務的で硬質なノック音。返事を待たずにドアが開かれ、冷ややかな空気を纏った氷室が入室してきた。

「失礼します。少佐、お目覚めのところ恐縮ですが緊急の報告があります」

 彼の手には分厚い書類の束と一通の封書が握られている。その表情はいつになく険しく、胃痛に堪えるように眉間に深い皺が刻まれていた。

「……氷室か。なんだ、朝から陰気な顔をして」

 景明が瞬時に“鬼少佐”の顔に戻る。鈴も慌てて姿勢を正した。

「胡蝶の件、および組織の動きについて、新たな情報が入りました」

 氷室は眼鏡の位置を押し上げ、部屋の空気を凍らせるような事実を告げた。

「昨晩、凌雲閣の下で発見された遺体……胡蝶と思しき女性ですが死因は全身打撲による脳挫傷および内臓破裂。……つまり、高所からの落下死です」

「落下……?自決か?」

「いえ、状況から見て突き落とされた可能性が高いかと。それと……検死において、奇妙な痕跡が見つかりました」

 氷室が一枚の報告書をテーブルに置く。そこには遺体の胸部が詳細に記載されていた。

「鳩尾です。ここだけ落下による衝撃とは異なる、鋭利かつ強力な一点集中の打撃痕が残っています。……まるで鉄の杭か何かで正確に急所を突かれたような」

「……」

 景明の目が鋭く細められる。鈴も息を呑んだ。あの胡蝶を一撃で無力化し、塔から突き落とすほどの何者か。組織の内輪揉めか、それとも。

「それと、もう一つ」

 氷室は一通の封書を取り出し、テーブルの上に置いた。それは漆黒の封筒に金色のインクで優雅な筆記体が記された招待状だった。

「今朝、屋敷のポストに投函されていました。……差出人の名を見て、驚かないでください」

「差出人?」

 景明が怪訝そうに眉を寄せる。氷室は重々しく、その名を告げた。

「宛名は小鳥遊鈴様。そして差出人は宝生麗華嬢です」

 その意外すぎる名前に鈴と景明は顔を見合わせた。上質な紙には確かに金色のインクで“宝生麗華”と記されていた。その名前を見た瞬間、景明が露骨に嫌そうな顔をし、鈴は「あ……」と声を漏らした。

 宝生麗華。成金として急成長中の宝生財閥の令嬢であり、かつて景明との縁談を持ちかけられ、鈴に対して一方的なライバル心を燃やしていた女性だ。

 以前、景明の氷のような一瞥に恐れをなし、捨て台詞を吐いて逃げ出したはずだった。

「あの喧ましい女か。……凝りもせず、何故、私たちに?」

 景明が不機嫌そうに封筒を指先で弾く。氷室が淡々と説明を加えた。

「宝生家は先日完成したばかりの西洋館で舞踏会を開催するそうです。表向きは洋風文化を取り入れた社交の場ですが実態は宝生財閥の勢力を誇示するための派手なパーティーでしょう」

「興味がない。捨て置け」

「……そう申し上げたいところですが問題は中身です」

 氷室が封筒を裏返す。そこにあったのは宝生家の家紋ではない。封蝋に刻印された不気味な紋章。それは線と線が複雑に絡み合い、どこが出口かもわからない迷宮のような無数の瞳が重なり合ったような怪しげな幾何学模様だった。

「……なんだ、この悪趣味な図案は」

 景明が眉を顰める。見ただけで精神が不安になるような歪なデザイン。それはこれまで戦ってきたどの敵とも異なる、底知れぬ組織の深淵を覗かせるものだった。

「招待状には宝生嬢の筆跡でこう書かれています。『お父様に頼んで最高の舞台を用意しましたわ!逃げずにいらして?』と。……しかし、その下には別の筆跡で追伸があります」

 氷室が読み上げる声が低く沈む。

「“迷宮の奥にて、貴女の覚醒をお待ちしております”」

「……宝生様を利用しようしている…」

 鈴が静かに呟いた。あの高飛車だがどこか抜けている令嬢が組織の黒幕だとは考えにくい。おそらく、父親の事業か何かに組織が入り込み、彼女の虚栄心を煽ってこの舞踏会を企画させたのだ。

「罠だな」

 景明が断言する。室内の気温が下がり、窓ガラスに氷の結晶が走る。

「本来、我々の公式な婚約発表は二月後に開催される帝国陸軍主催・戦勝記念舞踏会で行う予定だ。……奴らは、その前に仕掛けてきた、というわけか」

「ええ。軍の厳重な警備下にある公式舞踏会では手が出しにくい。だからこそ、警備の甘い民間の、それも仮面舞踏会という“顔を隠せる舞台”を選んだのでしょう」

「くだらん。氷室、欠席の返事を出せ。そんな三文芝居に付き合う必要はない」

 景明が封筒を握りつぶそうとした、その時だ。

「……行きます」

 凛とした声が響いた。鈴だ。彼女は景明の手をそっと抑え、その瞳を真っ直ぐに見上げた。

「鈴?何を言う、これは明らかな罠だぞ」

「わかっています。でも、逃げても彼らは追ってきます。……それに来週の陸軍舞踏会は西園寺様にとって大切な“本番”ですよね?多くの高官や外国の大使もいらっしゃると聞いています」

 鈴の言葉に景明が眉をひそめる。確かに来週の舞踏会は西園寺家にとっても陸軍にとっても重要な外交の場だ。そこで騒ぎを起こされることこそ、最も避けたい事態である。

「この宝生家の舞踏会を捨て石にするつもりはありません。……むしろ“予行演習”にしましょう」

「予行練習?」

「はい。敵がどんな手を使ってくるのか、そして私が今の力でどこまで戦えるのか。……来週の本番を無事に成功させるためにまずはこの仮面舞踏会で悪い虫たちを駆除しておきたいんです」

 鈴の瞳にはもう以前のような怯えはなかった。胡蝶の繭の中で見た地獄。そして、それを乗り越えて掴んだ生への執着。守られるだけの自分にはもう戻らない。修復の力は壊れたものを治すだけではない。歪められた運命さえも正してみせる。

 その覚悟に景明は息を呑んだ。かつて嘘つきな書生を愛した少女は今や鬼少佐の隣に立つにふさわしい、強き伴侶へと成長しようとしている。

(……ああ。私は、この強さに惹かれたんだったな)

 景明は深いため息を一つ吐き、纏っていた冷気を霧散させた。そして鈴の前に立ち、その小さな肩に手を置く。

「……わかった。君がそう望むなら、私は止めない」

「西園寺様……!」

「ただし」

 景明の瞳が鋭い剣のような光を帯びる。それは甘い婚約者の目ではなく、戦場に立つ修羅の目だった。

「私のそばを片時も離れるな。ダンスの一曲、グラス一杯の水に至るまで全て私が管理する。……その幾何学模様の手先が君に指一本でも触れようとした瞬間、会場ごと氷漬けにしてやる」

「ふふ、会場ごと氷漬けは困りますけど……。はい、離れません」

 鈴は破顔した。その笑顔は朝の光よりも眩しく、景明の心に深く刻み込まれた。

「やれやれ……。では麗華嬢への返事と、衣装の手配を急がねばなりませんね」

 氷室が諦めたように眼鏡を拭き、手帳を取り出す。その背後で銀のお盆を持ったまま気配を消していた若菜が目を輝かせて一歩前に出た。

 彼女の手には最新流行のドレスカタログと化粧道具の箱が握られている。

「旦那様、氷室様。鈴様の“武装”に関してはこの若菜にお任せください」

 若菜が胸を張る。元花魁として吉原の頂点に君臨した彼女にとって“美”こそが最大の武器であり、鎧である。

「敵が罠を張っているというなら、それをねじ伏せるほどの美貌で蹂躙して差し上げましょう。……宝生のお嬢様が霞んで見えるほどの極上の化粧を施してみせますわ」

「頼もしいな。だが、あまり派手にしすぎるなよ?私以外の男が寄ってくるのは困る」

 景明が冗談めかして言うと若菜は艶やかに微笑んだ。

「ご心配なく。……あまりに美しすぎて、誰も直視できないレベルに仕上げますので」

「それはそれで問題だが……まあいい。頼んだぞ」

 こうして方針は決まった。軍主催舞踏会という晴れ舞台を守るための、攻撃的な前哨戦。

 敵は因縁の令嬢・宝生麗華とその背後に潜む正体不明の組織。窓の外、どんよりとした雲の隙間から一筋の光が差し込む。

 だが、その光の届かない庭の木陰には片眼鏡をかけた一人の紳士が静かに佇んでいた。

 彼は懐中時計を確認し、誰にともなく語りかけるように呟いた。

「幾何学の庭へようこそ。……さて、壊れかけの蝶とは違う、美しい踊りを見せていただけますかね?」

 彼が指先を鳴らすと、庭の植え込みから数匹の小さな虫たちが一斉に飛び立った。

 季節は冬へと向かう。ドレスとタキシード、そして嘘と殺意が交錯する仮面舞踏会の夜が静かに幕を開けようとしていた。


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