月の宮
その日、月の宮は忙しかった。
前日から来ている炎嘉もそうだが、維心が維月について突然に来ていたのだ。いくら公式に来ているのではないとは言って、放って置くわけにも行かないので、そこにまで侍女を割いて、皆大忙しだったのだ。
当日、謁見の間に居るのは炎嘉と蒼だけだが、それでも維心とも偶然を装うように会わせようというので、段取りが面倒だった。
夜明け前からバタバタとしてやっともろもろのことを終えて、蒼が疲れ切ってどっかりと玉座に腰を下ろすと、十六夜の声が横からした。
「よう、蒼。何だか疲れてるじゃねぇか。まだ夜明け前だってぇのに。」
蒼は、がばと顔を上げた。そして、横に十六夜が立っているのを見て、抗議するように言った。
「十六夜!少しは手伝ってくれよ、いくら碧黎様が心配だからってさ!あっちはおとなしく地の宮の本体へ戻ってらっしゃるんだから、問題ないだろうが!」
十六夜は、息をついて肩をすくめた。
「オレに何が出来るってんだ。せいぜいお前の愚痴を聞くぐらいだろうが。維月が帰ってるから、余計に親父を見ておかなきゃならなかったんでぇ。ここで思いもしないのに出くわしたりしたら、また面倒なことになるかもしれねぇじゃねぇか。ま、親父はこっちを見もしてないようだがな。」
蒼は、それを聞いて少し心配になった。
「え…碧黎様、本当に神世には目を向けてないの?」
十六夜は、珍しく神妙な顔で頷いた。
「意識はあるんだが、どうやら何か考え事をしてるみたいで、ずっと低い位置の波動が一定に感じられるだけだ。やっぱ、心配でな…親なんだからよ。」
蒼には、その気持ちが分かった。今生は、育ててもらってそれは近くに過ごして来たのだ。その親が塞ぎ込んでいるかもしれなかったら、それは心配だろう。
「そうか…ごめん。だってさ、鷲が来るんだよ?わざわざ月の宮を選んで。だから、十六夜には居て欲しいんだ。月なんだし。」
十六夜は、笑って蒼の頭をぽんぽんと叩いた。
「わかってるさ。だから来たじゃねぇか。あいつらが、夜明けには宮を出るのは知ってるしな。」
蒼は、ちゃんと考えて来てくれたんだと、ホッとした。
「そうなんだ。きっと、もう一時間もしない間に着くよ。」
十六夜は、頷いて窓の外の、空を見上げた。
「…あー、一時間もないな。もう着きそうだ。その焔ってやつは、よっぽどここへ来たかったんだろう。すぐ側まで来てるぞ。」
蒼も、空を見上げた。
「ほんとだ!」と、侍女を見た。「炎嘉様を呼んで来てくれ!」
侍女は、慌ててそこを出て行った。十六夜は、息をついて側の椅子へと座った。
「面倒だなーファーストコンタクトってやつぁよぉ。」と、伸びをした。「維月はまだ寝てるみたいなのにさー。同じ月でも、気楽なもんだ。」
維月は、いつも日が昇るまで寝ているのだ。前世から、それは全く変わっていなかった。蒼は、十六夜を見た。
「十六夜も、月なんだしそんな着の身着のままじゃなくて、着替えて!着物出させてあるから!」
十六夜は、それを聞いてだるそうに立ち上がった。
「ええ~?いいじゃねぇか、格好なんてよ~。」
そう言いながらも、トボトボと歩いて出て行く。蒼は、その背に叫んだ。
「急いで!もう着くって自分が言ったんじゃないか!」
十六夜は、振り返りもせず手を振った。
「はいはい。」
十六夜は、謁見の間を出て横の控え室へと入って行く。
蒼は、こんな土壇場まで自分以外が揃っていない今度の対面に、不安を感じていた。
焔は、月の宮上空に到着した。
今日は、対面に来ただけなので、友好の意思を示すためにも弦のほか数人の軍神しか連れては来なかった。そして、その強固な結界を初めて間近に見て、思わずため息を漏らした。
「何とのう…これは我でもちょっとやそっとでは破れぬな。どう思う?弦。」
隣りに浮く弦に話を振ると、弦はじっと目を凝らしてその結界を見て言った。
「…刻々と変化する結界で、その上強い。これは、波長を合わせられる神でも容易には破れませぬな。こんなものを張ってしまう、月の宮王とはどんな神なのかと。」
焔は、しかし苦笑した。
「確かにそうであるが、これは月が張っておるな。王ではないわ。」と、表情を引き締めた。「そら…参ったぞ。」
結界の中から、青銀の甲冑を身に付けた軍神達が出て来るのが見えた。自分達の迎えに来たのだと、弦は思いながら先頭を来る金髪の軍神を見て、表情を険しくした…あれは、我より気が大きい。
じっと警戒して見ていると、その軍神が焔に頭を下げた。
「焔様でございましょうか。」
焔は、頷いた。
「出迎えご苦労であるな。」
その金髪の軍神は、顔を上げた。
「我は、月の宮筆頭軍神嘉韻と申しまする。これより、宮へとお連れ致します。どうぞこちらへ。」
嘉韻は、他の軍神達と共に踵を返すと、前を飛ぶ。
焔は、その背を追って月の結界を通った。
そこは、浄化された清々しい気で満ちた、まるで神にとっての桃源郷のような場所だった。入った途端、自分の中をその清らかな気が流れて行くのを感じて、そこに何とも言えない癒しを感じて焔も他の軍神達も戸惑った。
こんな場所で、住んでいる月の王とはどんな男なのか…。
焔は、更に興味が湧いた。そのうちに、正面に大きな宮が見えて来た。
斜面に上に向かって沿うように建てられたその宮は、白い石造りで、大きく美しかった。側には、円形の競技場のような場所がある。恐らくは、そこで軍の訓練などしているのだろう。
まだ建てられてそれほど経っていないようなその宮へ、嘉韻達月の宮の軍神達は降りて行く。焔は、その後を追って、その宮の到着口へと降り立った。
「ここより、謁見の間へご案内致します。」
嘉韻が言う。軍神達は、それを聞いてこちらへ頭を下げるとサッと奥へ向かった。恐らく先触れだろう。焔が黙っていると、嘉韻は事務的に頭を下げて、先をサッサと歩き出した。
宮には、薄い青色の、少し毛足が長い毛氈が敷かれてあって、踏みしめると柔らかい弾力を返して少し沈んだ。その上を歩きながら、焔はこの宮の力を計っていた。この質の毛氈を下へ敷けるということは、ここは財政には困っていない。何しろ、この生地は見たことがない。
「…変わった感触よな。」
焔が、足元を見ながら不意に言う。嘉韻は、少し驚いたように振り返った。そして、焔がじっと嘉韻が何かしら返すのを待っているのを見てとると、慌てて答えた。
「これは、人が開発したベルベットという生地でございまする。月の宮ではその機械を持っておりますので、人世からの帰還者達で動かし、生産しております。」
焔は、感心したように頷いた。
「面白い。見たことがない。」
どう答えたものかと嘉韻は首をかしげたが、それでもそれが答えを求めているようでもなかったので、早く謁見の間へと先を急いだ。これ以上、王がお話になる前にこの、鷲であるらしい男と話してしまってはならぬ。
そんな嘉韻の気持ちには気付かずについて歩きながら、焔はあまりにいろいろと珍しいので、礼儀を忘れてあちこちキョロキョロと見回しながら歩いていた。まるで子供のように目を輝かせている。
弦は、そんな王を案じて見ていた。自分はずっと、焔の子供の頃から着いているが、この王は、大変に活発で新しい物が好きな子供だった。まだ若かった弦は、その焔を追い回すのにそれは大変な思いをしたものだった。
そして、いつも父王に出てはならぬと言われていた結界を、いとも簡単に出ては外の世界を見て歩いていた。普通なら父王の結界を抜けるなど、皇子には絶対に出来ないものだが、焔はそれを子供の頃からやってのけた。
ある日、いつものように結界を抜け出して外へと出ていた焔を、弦は必死に追って探していた。たった一人で居るところを、他の神にでも見つかって捕らえられてしまったら…。
しかし、焔は結界近くの、山の頂上の木の上に膝を抱えて座るようにして浮いていた。何やら、遠くを見ているようだった。弦は、ホッとして急いで焔の側に膝を付いた。
「焔様、父王に気取られてしまいまする。さあ、宮へ。」
それでも、焔は動こうとしない。弦が何と言って説得しようかと思っていると、まだ人で言うところの小学校高学年から中学生ぐらいの大きさの焔は、ぽつりと、言った。
「…なぜに、ここへ篭ってしもうたことか。」
弦は、焔の顔を覗き込んだ。焔は、何かを後悔しているような顔をしている。弦は、言った。
「篭ってしもうたとは…焔様が、でございまするか?」
焔は、頷いた。
「我ぞ。我の責。全ては、我が決断したことだった。」と、弦を見た。「こんな狭い場所に押し込められておるのは我慢がならぬ。」
弦は、訳が分からなかった。何のことを指して言っているのかが、分からない。時間も全てが曖昧で、弦には答えることが出来なかった。
そのうちに、焔はフッと表情を緩めると、立ち上がった。
「帰ろうぞ。」そしてまだ戸惑っている弦を見て、笑った。「こら弦。なんて顔をしておるのだ。さっさと帰らねば、父上がお怒りになるのだろう?」
そうして、相変らず子供とは思えない速さで飛んで行く焔を急いで追って宮へと戻ったが、しかしその出来事は、弦の心になぜか強く残っていたのだった。
不意に、先頭を行く嘉韻が足を止めた。弦は慌てて足を止め、前を行く焔に激突せずに済んだ。
目の前には、大きな扉がある…それが、謁見の間であることは、鷲の宮の設えとよく似ているので理解出来た。
「焔様、ご到着でございまする。」
嘉韻の声と共に、その大扉が音を立てて開いた。




