仄かな想い
「何と申した?!燐?!」
焔は、目の前で頭を下げる河に叫んで立ち上がった。河は、慌てて頭を下げ直した。
「申し訳ありませぬ!王族の庭に、侍女達がお連れしたようで…そこで、燐様とお会いになられたとか。しかし、日暮れまでそちらでコケの話をしておっただけで、決して王が案じられるようなことは…!」
焔は、荒々しく椅子へと座り直すと、横を向いた。王族の庭は、燐が大切に育てているコケがそれは美しい庭。つまりは、そこは燐が気に入って手入れしている、毎日訪れる庭なのだ。なのであそこは殊に美しいが、焔は今日、維織をそこへ連れて行かなかった。突然に、燐が来る可能性があったからだ。
「…我がわざとそこへ案内せなんだものを。だがしかし、起こったことはしようがない。明日には維織も月の宮へ戻る。この上は、それまで部屋から出ぬように、維織に申しておくように。」
河は、顔を上げることも出来ず、また頭を下げ直した。
「ははー!必ず、これ以上の不都合などないように!」
そうして、河は下がって行った。焔は、燐が維織に本格的に懸想などしてはいないかと案じた。あれは、本当は月と龍王の妃。あんなものを愛しても、諍いにこそなっても決して報われることなどないのだ。
とにかくは、早く維月を返して、西の宮での茶会で綾の相手を見つけて嫁がせてしまわなければ、焔も動きようがなかった。綾を嫁がせさえすれば、維織が実は維月であり、龍王と月の妃であると皆に明かして手が届かぬものなのだと知らせることが出来る。早く進めなければ、維月に惹かれた神の屍が宮に溢れることになってしまうやもしれぬ…。
焔は、それを思って焦っていた。
燐は、維織のような女神に初めて出会った。
自分の目を真っ直ぐに見て、ひるむ事もなく、こちらの問いに己の考えをしっかりと述べる。今まで顔を見れば赤面し、話しかければ気を失う女に遠巻きに囲まれていた燐にとって、初めて対等に話が出来る女だったのだ。
焔の許婚だと思うと、燐の胸は騒いだ。だがしかし、自分は王座を奪ってまで、維織を手元に置こうなどとは思わなかった。今の、気楽な地位に満足していたのだ。本来争うことは好まず、庭などで植物を育てる事の方が好きな燐は、母が意地になって縋っていた王座にも、全く興味はなかったのだ。
維織には、好意を持っていた。だが、きっと神世は広く、あちらの女神達は明るく快活な者が多いのだろうと、前向きに考えて、維織のことは考えないようにしていたのだ。
茶会はひと月後と聞いていた。燐は、それが待ち遠しかった。燐とて、落ち着いて共に庭を愛でたり、共に生きて行く相手が欲しいと、思い始めていたのだ。
今日、普段は一人で歩く庭で、自分の好きな植物の話を興味深げにずっと聞いては微笑んでいた維織を思い出して、燐は湧き上がる熱を感じて慌てて抑えていた。あれは、弟の妃。弟でありながら、王である焔の…。自分は、自分の運命の女を、捜しに参るのだ。
燐は、そう自分に言い聞かせていた。
まさか維織が維月であり、この世で唯一の月の片割れであるなど、燐は知る由も無かったのだ。
維月は、焔から一切部屋から出てはならぬと言い渡され、最後の夜を仕方なく部屋で過ごしていた。
明日には、維心に会える…。
維月は、月を見上げて思いを馳せていた。
すると、十六夜の声が言った。
《焔は、お前の危険性に気付いたようじゃないか、ええ?》
からかうような言葉に、維月はぷうと頬を膨らませた。
「危険性ってなあに?」
十六夜は、笑った。
《ああ、前のお前なら分かったんだろうが、今は仕方ねぇなあ。その、珍しい陰の月の気のことだ。それは誰彼構わず惹き付けてしまうから、前の維月はかなり気をつけてたんだけどな。お前も、せいぜい一人にならねぇように気をつけな。維心の心臓がもたねぇからよ。一緒に庭を歩いたり、話したりしただけでももう、なかなか離れることが出来ないほど、その気の影響力は強い。それが高じてせっかく王に従順だった臣下達だって、お前を手に入れるために叛意を持つなんてことにもなり兼ねないんだ。》
維月は、驚いたように口を押さえた。
「え…そんな。我はそんなことは望まないのに。」
十六夜の声は頷いたようだった。
《分かってる。だからこそ、気をつけろって言ってるんだよ。明日龍の宮へ戻るまで、そこに篭ってな。》
維月は、息をついて頷いた。
「わかったわ。我もまだ、自分の力がよく分かっておらぬから…おとなしくしておるわ。でも、明日の朝にはここを発つのだし、今日はもう、寝るだけよ。」
十六夜は穏やかな声で答えた。
《そうだな。おやすみ、維月。》
維月は、微笑んで空を見上げて頷いた。
「おやすみなさい、十六夜。」
そうして、維月は奥へと引っ込んだ。
だが十六夜は、その夜、月から寝ずの番をしたのだった。
もちろん、何としても姿だけでもと忍んで来る鷲達には、月の結界で弾いて中には絶対に入れなかったのだった。
そんなこととは露ほども知らない維月は、次の日の朝機嫌良く目を覚ました。
そして朝の恒例で窓の外を見て十六夜におはよう、と挨拶をし、早々に迎えに来た侍女達と共に、焔に挨拶をするために謁見の間へと向かった。
焔は、夜明け前から起きていた。
早く維月を帰してしまわなければ、落ち着かなかったからだ。
何しろ昨晩は、トチ狂った臣下が維月に近付こうとするたびに目を覚まし、そうして十六夜の結界に阻まれたのを感じ取ってホッとするのを、繰り返してろくに眠れなかったのだ。
維月が無事に機嫌よく謁見の間に現れた時、なので心底ホッとした…これで、宮は落ち着くだろう。
そう思った時、本当に維月をここへ迎えることになっていたなら、宮がどれほどに荒れていたかということに思い当たって、焔はゾッとした。
龍の宮があれほどに穏やかに済んでいるのも驚くべきことだが、あれは維心が絶対的な王として君臨しているために可能であったことで、自分の統治はまだまだなのだと言われているような気になってしまって、複雑だった。
ここでは、とても穏やかには済みそうにないからだ。
維月が進み出て、焔に頭を下げた。
「焔様。月の宮からの迎えも参っておるようでございます。それでは、此度はこれでお暇致しまする。」
焔は、冷静を装って重々しく頷いた。
「大儀であったの、維織。月の宮の喪が明けるのを、心待ちにしておるゆえに。」
維月は、また深々と頭を下げた。
「はい。では、今はこれまで。焔様にも、何卒ご自愛くださいませ。」
そうして、焔は玉座から降り、維月の手を取ると、何やら物欲しそうな顔をしながら見送る臣下達の間を歩きぬけ、宮の出発口へと向かったのだった。
そうして、維月は維織としての務めを終え、一度月の宮へと戻った後、維心が待つ龍の宮へと飛んだ。
維心は、到着口まで出て来て維月を迎えると、手を差し出した。
「よう戻ったの、維月。十六夜から聞いておる。あちらでは、その気にいろいろな神が惹かれて大変であったとか。我も落ち着かなんだ。」
維月は、微笑んで維心の手を取りながら、三日ぶりに見るその美しく凛々しい顔に見とれた。やっぱり、維心様に勝る殿方など居らぬわ…。
「お会いしとうございました。あちらでは、焔様のお兄君の燐様という、大変に美しいかたがいらしたのですけれど、やはり維心様に勝る殿方など居られぬと、帰って参ってお見上げ致して実感しましてございます。」
維心は、苦笑しながら維月を引き寄せ、奥へと歩き出しながら言った。
「我の姿か。主は昔からそのように申すのよ。記憶を失っておっても変わらぬの。」
維月は、驚いたように袖で口を押さえた。
「まあ、以前の我も維心様のお姿を好んでおったのですか?」
維心は、頷いた。
「もちろん、それだけではないと常、申してはおったが、たまに我を見てため息をついておったりして…そんな時は、訊ねると決まって我を美しいと褒めたものよ。主は我の、この瞳を殊に好むのだと申しておったの。」
維月は、歩きながらその瞳をじっと見つめた。確かに美しい色…本当に、我はこの色が大好きで、落ち着くのだわ。
「…赤子の頃から見ておったからでしょうか。今の我も、その瞳を見ると安心して身を任せようと気が致します。」
維心は、それを聞いて少し驚いたような顔をしたが、ふふんと笑った。
「このように昼日中からそのように。だが、良いぞ?奥へ戻るか、維月。」
話しながら歩いていると、そこはもう居間だった。維月は、真っ赤になって首を振った。
「まあ。そのような意味で申したのではありませぬの。あの、お話したいことが、まだたくさんございます。それはまた、夕刻にでも…。」
維心は、正面の椅子へと向かいながら残念そうに息を付いたが、頷いて微笑んだ。
「そうよな。では、話を聞こうぞ。」と、維月の肩を抱いて、並んで椅子へと腰掛けた。「さて、何から話すか?燐とは、焔の兄と。どのような男か?」
維月は、頷いて思い出しながら言った。
「母君の綾様によう似ておられる整ったお顔で、ですがご性質は穏やかなご様子。王族の庭にて、コケなどを栽培なさるのが、楽しみのようでございました。それは見事なコケの園で…こちらには、あのような景色はありませぬけれど。」
維心は、意外なことに、興味を持った。
「ほう、コケと?燐は植物を育てるのを好む男か。」
維月は、頷いた。
「はい。我には、コケのことを詳しくお教えくださいました。侍女達が申すのには、今度西の島である婚姻の茶会に、母君の綾様と共に燐様もいらっしゃるのだとか。燐様があのご様子なので、恐らく茶会は大変であろうと、侍女達は妬み半分な様で申しておりました。」
維心は、片眉を上げた。
「そうか、燐も来るか。では、我もその顔を拝むことが出来ような。」
維月は、頷いた。
「そういえば、燐様も維心様に会いたいとおっしゃっておったから、きっとお喜びに…」とそこまで言ってから、何かに気付いて、維心を見上げた。「え、維心様は、西の島の茶会へ、いらっしゃるのですか?」
維心は、頷いた。
「参る。此度は炎嘉も志心も箔翔も参るようで、公青とも長くゆっくり話しておらぬし、参るかと…」すると、維月は、急に黙って、すっと立ち上がった。維心は、維月を見上げた。「…維月?」
維心は、維月の顔を見て驚いた。
維月は、あの、怒った時の維月の表情になっていたのだ。
維心は、椅子から跳び上がるように立ち上がると、慌てて言った。
「維月、誤解をしておる。我は、別に見合いに参るわけでは…」
維月は、維心にくるりと背を向けると、言った。
「維心様には龍王様でいらっしゃいまするし、妃も我一人と決まったわけでもありませぬ。ですがまさか、婚姻からほんの4、5日ほどで見合いの茶会へ参加なさることをお決めになるなんて、よほど我がお気に召さなかったのでしょう。」と、すっと維心に美しく非の打ち所のない所作で頭を下げた。「戻ったばかりで、疲れておりまするので。あちらへ参っておる間、十六夜にも大変に世話になりましたのに、まだお礼も申しておりませぬし。御前失礼致しまする。」
維心は、焦って維月の腕を掴んだ。
「維月、違う!本当に我は、見合いなどと思うてあちらへ行こうと思うたのではない!」
維心は、維心の手を振り払って、まるで見たくもない物を見ているような視線で維心をキッと睨んだ。
「殿方が申されることなど、信じることなど出来ませぬわ!維心様に嫁ぐと決めたこと、間違いであったと思うておりまする!」
維心は、その視線にショックを受けた。維月が…前のかなり気の強い維月でも、このような目で我を見たことなどなかった。
維月はその隙に、さっと身を翻すと窓へと走った。
「十六夜!戻るわ!」
見ていたのだろう、十六夜の声がすぐに答えた。
《おい~お前ほんと、覚えてなくても変わらねぇなあ。知らねぇぞ?》
しかし、そうは言っていても、十六夜に維月の求めを断ることなど出来ない。
十六夜の力は維月を捉え、まだ未熟な維月が光に戻るのを助けて、空へと打ち上がった。
「待て、維月!」維心は、窓へと駆け寄って空を見上げた。「十六夜、我は無実ぞ!」
維月の光が、月へと到達する。
十六夜の声が、言った。
《無実ったって、お前が茶会へ行くのは確かなんだろう?オレや蒼は行かねぇのに。》
維心は、言い訳がましく口ごもった。
「それは…皆が参ると申すゆえ、では茶会に出ずに参るかと、兆加に申しつけたばかりで…。」
十六夜の声が、呆れたように言った。
《まあなあ、お前も前世ではあんなだったけど。今生では性格も明るくなって来てるんだし。いろいろ女達を見ておいてもいいかって、思うのは自由だ。だが、分からないようにしろよ。維月に見つかったら、大変だって前世今生で身に沁みてるだろうが。とにかく、今の維月は何も覚えてねぇ維月だし、何を言っても今度ばかりは駄目だ。元へ戻るのを待ちな。そしたら、そのうちに元へ戻って、言い訳だって聞いてくれるさ。この維月には、そこまで大きな包容力はまだないみたいだなあ。》
維月の声が、言った。
《十六夜!何を話しておるの、我は月の宮へ降りる!》
十六夜が急いで言った。
《はいはい、わがままなところは前のままだな。じゃあな、維心!》
維心は、慌てて月へと叫んだ。
「十六夜!待て、違うのだと申すのに!」
しかし、遠く月の宮の辺りに、光が二つ降りて行くのが見えた。
維心は、頭を抱えた。




