6. ラーメン
「今日から、ウーバーイーツは禁止ね」
朝食のトーストをかじりながら、美咲が言った。
「なっ……!」
私はこたつの中で凍りついた。
こたつの中なのに凍りついた。
「昨日、履歴を見たの。一週間で三万円使ってた」
「あれは必要な補給だ。兵站を軽んじる者は戦に負ける」
「戦ってないでしょ。こたつにいるだけでしょ」
正論だった。
勇者は正論に弱い。
「お昼は家にあるもので何とかしてね。行ってきます」
扉が閉まる。
私は一人、静かなリビングに取り残された。
◇ ◇ ◇
昼。
腹が鳴った。
冷蔵庫を開ける。
卵と、しなびたネギと、謎の茶色い液体の瓶。
卵は割ればいいのだろうか。
前の世界では焚き火に放り込んでいたが、この家には焚き火がない。
途方に暮れて台所の戸棚を漁っていると、奥から丸い器がいくつも出てきた。
紙でできた、手のひらほどの筒だ。
蓋に、湯気の立つ料理の絵が描いてある。
「これは……」
側面の小さな文字を、指でなぞりながら読む。
――お湯を注いで、三分待つ。
「三分?」
たった三分で、料理ができるというのか。
宿屋の主人ですら、スープ一杯に半刻はかけていた。
「三分で料理を生み出す錬金術……! この世界の魔法技術、底が知れない……!」
私は湯沸かしの魔道具(美咲いわく「ケトル」)に水を入れ、ボタンを押した。
これは家電禁止令の前に覚えた数少ない魔道具だ。
湯を注ぎ、蓋を閉じる。
あとは三分待つだけだ。
…………
一分経った。
長い。
三分とは、こんなに長いものだったか。
魔王を倒すのに三秒しかかからなかった私にとって、三分は永遠に等しい。
「待てん!」
蓋を開けた。
麺は、まだ石のように固かった。
ばりっ。
「……硬い」
だが、食べられなくはない。
むしろ、野営で食べていた干し肉より柔らかい。
私はそのまま、ばりばりと完食した。
◇ ◇ ◇
翌日。
今度こそ三分待つと決めて、湯を注いだ。
待っている間に、スマホで動画を一本見ることにした。
猫が箱に入る動画だった。
次の動画が勝手に始まった。
また猫だった。
気がつくと、四十分が経っていた。
蓋を開けると、麺が器いっぱいに膨らみ、汁は一滴も残っていなかった。
「……増えている」
麺は、待てば待つほど増えるらしい。
つまりこれは、食料を増殖させる魔法でもあるのか。
私はふやけた麺を食べながら、深く頷いた。
おいしくはなかった。
◇ ◇ ◇
三日目。
ついに私は、ちょうど三分を計ることに成功した。
スマホのタイマーという機能を使えば、板が時間を教えてくれるのだ。
蓋を開ける。
湯気と一緒に、濃い香りが立ちのぼった。
麺をすする。
「――っ!」
うまい。
塩気の効いたスープ。
ほどよく柔らかい麺。
小さな肉のかけらと、乾いた野菜。
これが、三分で。
しかも、銀貨二枚で。
私は器を両手で抱えたまま、しばらく動けなかった。
その日の夕方、私はスマホに向かって話しかけた。
「この器を、百個手に入れる方法を教えろ」
板は親切に、まとめて家に届けてくれる店を教えてくれた。
◇ ◇ ◇
一週間後。
大学から帰ってきた美咲が、リビングの入口で固まった。
こたつの周りに、空のカップが塔のように積み上がっていた。
醤油、味噌、塩、とんこつ、カレー、シーフード。
その頂上で、私は最後の一つをすすっていた。
「お姉ちゃん……何これ」
「戦果だ」
「戦果じゃないよ! ゴミだよ!」
「美咲、聞いてくれ。この世界のカップラーメンは素晴らしい。安い、早い、うまい。食料の革命だ。これがあれば、前の世界の飢饉は全て救えた」
「毎日これは体に悪いの! 塩分とか、すごいんだから!」
美咲は空のカップを一つ拾い上げ、ため息をついた。
そして、ふと何かを思いついたように顔を上げた。
「お姉ちゃん。本物のラーメン、食べたことある?」
「本物?」
私は手元のカップを見た。
「これは偽物なのか?」
「偽物じゃないけど……ちゃんとお店で作ってるやつ。行こう。今から」
「今から? 外にか?」
「外にだよ。何日出てないと思ってるの」
私は指を折って数え始めた。
両手の指を使い切ったところで、数えるのをやめた。
◇ ◇ ◇
駅前の路地に、その店はあった。
赤い暖簾。
古びた木の看板。
扉を開けた瞬間、むわっとした湯気と、獣の骨を煮込んだような濃い匂いが押し寄せてきた。
私は思わず、腰の剣に手をやった。
剣はなかった。
「……ここは、戦場だな」
「ラーメン屋だよ」
入口の横に、光るボタンがずらりと並んだ箱があった。
「美咲、これは何だ」
「券売機。ここでお金を入れて、食べたいもののボタンを押すの」
「先に金を払うのか。……なるほど、契約の儀式だな」
私は千円札を入れ、一番大きく書かれたボタンを押した。
小さな紙が出てきた。
契約書だ。
カウンター席に座ると、店主らしき無口な男が、ちらりとこちらを見た。
「麺の硬さ、味の濃さ、油の量は」
呪文の詠唱を求められている。
私は一瞬で察した。
隣の客が、迷いなく唱えていた言葉を思い出す。
私は背筋を伸ばし、店主の目をまっすぐ見て、腹の底から言った。
「麺かため! 味こいめ! 油多めッ!!」
店内が静まり返った。
店主が、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「……あいよ」
美咲は顔を両手で覆っていた。
◇ ◇ ◇
やがて、湯気の立つ丼が目の前に置かれた。
白く濁ったスープ。
その上に、厚く切られた肉が三枚。
半分に切った煮卵。
緑のネギと、黒い海苔。
カップラーメンとは、まるで違う。
私は箸を取り、麺を持ち上げた。
隣の客にならって、勢いよくすする。
ずるずるっ。
「……」
言葉が出なかった。
濃い。熱い。うまい。
けれど、それだけではなかった。
舌の上に広がった獣の骨の味が、ふいに記憶を連れてきた。
雪の夜の野営。
凍えた指で鍋をかき混ぜた仲間の背中。
ガルドが文句を言いながら、骨と野草だけで作ってくれた薄いスープ。
あのとき、私は思った。
いつか世界が平和になったら、みんなで腹いっぱい、温かいものを食べたいと。
私は黙って、麺をすすり続けた。
スープを一滴残らず飲み干し、丼を置いた。
「……これは、民を救える味だ」
店主が、無言で親指を立てた。
◇ ◇ ◇
店を出ると、外はもう暗くなっていた。
冷たい風が、ラーメンで火照った頬に気持ちいい。
並んで歩きながら、美咲がぽつりと言った。
「お姉ちゃんとラーメン食べに来たの、すごい久しぶり」
「そうなのか?」
「うん。お姉ちゃん、ずっと仕事で忙しかったから。帰ってくるのも、いつも夜中だったし」
美咲はそう言って、少しだけ笑った。
その横顔が、なんだか寂しそうに見えた。
私には、玲奈の記憶がない。
玲奈が妹とどう過ごしてきたのか、私は何も知らない。
だから、何と言えばいいのかわからなかった。
わからなかったので、思ったことをそのまま言った。
「また来よう」
美咲は少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「……うん」
◇ ◇ ◇
帰り道。
私たちはコンビニに寄った。
美咲がアイスを選んでいる間、私はカップ麺の棚の前で足を止めた。
『有名店の味を再現! 本格とんこつラーメン』
私はそれを、そっと五つカゴに入れた。
「お姉ちゃん!?」
「研究だ。本物の味を知った今、再現度を確かめねばならない」
「さっきの感動はどこ行ったの!」
魔王を三秒で倒した最強の勇者。
カップ麺の誘惑には、一秒で負ける。




