7. 掃除
朝、冷蔵庫に一枚の紙が貼られていた。
『家事分担表』
美咲の字で、大きくそう書いてある。
その下に、二つの名前と、それぞれの仕事が並んでいた。
美咲:料理、買い物、ゴミ出し
お姉ちゃん:洗濯、掃除
「美咲。これは何だ」
「見ての通りだよ。お姉ちゃんにも家のこと手伝ってもらうから」
美咲は鞄に教科書を詰めながら、こちらを見ずに言った。
「カップ麺の塔、片付けたの誰だと思ってるの。私だよ。一時間かかったんだよ」
それを言われると弱い。
私は紙をもう一度見た。
洗濯。掃除。
どちらも、孤児院にいた頃に嫌というほどやらされたことだ。
だが、これは美咲からの正式な任命だ。
任務とあらば、勇者は断らない。
「承知した。この任務、必ず果たしてみせよう」
「大げさだなあ。洗濯機の使い方、紙の裏に書いといたから。ちゃんと読んでね」
そう言い残して、美咲は大学へ出かけていった。
紙の裏には、細かい字でびっしりと何かが書いてあった。
私は表に戻した。
読まなくても、なんとかなるだろう。
◇ ◇ ◇
洗面所の隅に、白くて四角い箱があった。
正面に丸い窓がついている。
中を覗くと、空っぽの筒が見えた。
蓋を開け、籠に溜まっていた服を全部放り込む。
私の服も、美咲の服も、まとめて。
扉を閉め、一番大きなボタンを押した。
ピッ。
ごぽごぽと音がして、筒の中に水が流れ込んできた。
やがて筒がゆっくりと回り始め、水と服が渦を巻く。
「これは……」
私は丸い窓に顔を近づけた。
「水の精霊を閉じ込めた箱か……!」
孤児院では、洗濯は裏の川でするものだった。
冷たい水に手を突っ込み、子どもたち全員分の服を石に叩きつける。
冬は指がちぎれそうに痛かった。
それを、この箱は精霊の力で勝手にやってくれるのだ。
ふと、箱の横に置かれた袋が目に入った。
白い粉が詰まっている。
袋には、泡に包まれた服の絵が描かれていた。
清めの粉だ。間違いない。
精霊にはきっと、捧げ物が必要なのだろう。
私は箱の上の小さな口を開け、粉を袋の半分ほど注ぎ込んだ。
多ければ多いほど、精霊も喜ぶはずだ。
◇ ◇ ◇
三十分後。
洗面所は、泡の海になっていた。
箱の隙間という隙間から、白い泡がもこもこと溢れ出し、床を覆い、廊下にまで押し寄せている。
「精霊が……暴走している……!」
私は泡をかき分けながら、箱に向かって叫んだ。
「鎮まれ! 私が悪かった! 捧げ物が多すぎたのだな!」
精霊は鎮まらなかった。
泡は、私の膝の高さまで来ていた。
結局、私はバスタオルを全部使って泡を拭き取った。
そのバスタオルも、洗濯しなければならなくなった。
◇ ◇ ◇
二回目の洗濯は、粉を少しだけにした。
泡は溢れなかった。
私は丸い窓の前に座り、腕を組んで、渦を巻く服をじっと見張った。
見張りは得意だ。
魔王軍の砦の前で、三日三晩見張りを続けたこともある。
やがて、ピーピーと音が鳴り、精霊が静かになった。
任務完了だ。
意気揚々と扉を開けて、私は固まった。
美咲の白いシャツが、淡い桃色に染まっていた。
一緒に入れた私の赤い靴下が、何食わぬ顔で絡みついている。
「……」
私は靴下を見た。
靴下は何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
気を取り直して、次の任務。掃除だ。
物置から、長い棒の先に箱がついた道具を引っ張り出す。
美咲がこれで床を掃除しているのを、何度か見たことがある。
コードを壁の穴に差し、ボタンを押した。
ブオオオオオオオ!
「ぬおっ!?」
轟音が部屋中に響き渡った。
私は反射的に棒を構え、後ろに跳んだ。
「魔物の咆哮か……!」
だが、魔物はどこにもいない。
吼えているのは、手の中の棒だった。
しかも、先端が床のゴミをすさまじい勢いで吸い込んでいる。
埃も、ポテトチップスのかけらも、美咲のヘアピンも。
「ヘアピンは食うな!」
私は棒を振り回しながら、部屋から部屋へと進んだ。
奥の部屋まで来たところで、ぐいっと何かに引き戻された。
コードが、もう伸びない。
「この程度で私を止められると思うな!」
全力で引っ張った。
ぶちっ。
壁の穴からコードが抜け、魔物は静かになった。
ついでに、廊下の小さな棚が倒れていた。
◇ ◇ ◇
倒れた棚を戻そうとして、私はその奥の物置に、平たい箱がしまってあるのに気づいた。
箱には「桐生玲奈様」と書かれた紙が貼られていて、封のテープもそのままだった。
誰かが届けたまま、一度も開けていないらしい。
開けてみると、中から丸くて平べったい円盤が出てきた。
大きさは、盾くらいだろうか。
真ん中に、ボタンが一つだけついている。
押してみた。
ピロリン、と軽やかな音が鳴った。
そして円盤は、ひとりでに動き出した。
「なっ……!」
円盤は床の上をすうっと滑り、壁にぶつかると向きを変え、また進む。
家具の脚をよけ、こたつの周りをぐるりと回り、通ったあとの床からは埃が消えていた。
私は膝をついた。
「使い魔か……!」
前の世界でも、高位の魔術師は使い魔を従えていた。
だが、命令もなしに主の家を清める使い魔など、見たことがない。
円盤は迷いなく部屋を回っていく。
同じ場所を二度通らず、端から端まで、まるで地図を頭に入れているかのようだ。
その動きを見ていて、思い出した。
作戦書を何枚も書き、どの道をどう進むか、いつも完璧に計算していた男。
私がそのすべてを無視して突っ込むたびに、頭を抱えていた男。
「……ガルド」
円盤が、ちょうど私の足元でくるりと向きを変えた。
「よし。今日からお前の名は、ガルドだ」
ガルドは返事をしなかった。
少しだけ、うなずいたように見えた。
その直後、ガルドはこたつの布団の裾に頭から突っ込み、動けなくなった。
ピロロロ……と、悲しげな音が鳴る。
「ガルド! 今助ける!」
私はこたつの布団を全力でめくり上げ、ガルドを救出した。
本物のガルドも、作戦は完璧なのに、肝心なところでよく転んでいた。
◇ ◇ ◇
夕方。
乾いた洗濯物を畳み終えた私は、それを部屋ごとに片付けて回った。
玲奈の部屋のクローゼットを開ける。
中には、白いシャツがずらりと並んでいた。
一枚一枚、まっすぐにアイロンがかけられている。
しわ一つない。
その隣には、黒や紺の硬い上着が、同じように整然と吊るされていた。
毎朝、これを着て、あの戦場へ向かっていたのか。
私は、自分が畳んだ洗濯物の山を見下ろした。
袖は曲がり、裾は折れ、美咲の桃色のシャツが一番上でくしゃくしゃになっている。
玲奈なら、きっともっと上手くやったのだろう。
私はクローゼットの扉を、そっと閉めた。
◇ ◇ ◇
夜。
大学から帰ってきた美咲は、リビングに入るなり立ち止まった。
床は、ガルドのおかげでぴかぴかだった。
ソファの上には、ぐちゃぐちゃに畳まれた洗濯物の山がある。
その一番上に、桃色のシャツ。
「……お姉ちゃん。これ、私の白いシャツだよね」
「精霊の気まぐれだ」
「靴下でしょ。赤いの一緒に入れたでしょ」
なぜばれた。
美咲はため息をついて、シャツを手に取った。
それから、山になった洗濯物をしばらく見つめて、小さく笑った。
「……ありがと」
「うむ」
「畳み方、明日教えてあげるね」
そのとき、廊下からピロリンと音がして、ガルドが滑り込んできた。
「あれ、それ……」
美咲が目を丸くした。
「お姉ちゃんが前に買ったやつだ。掃除する時間もないからって通販で頼んだのに、箱から出す時間もなかったんだよね」
美咲は、足元を回るガルドを見下ろして、少しだけ笑った。
「やっと出番が来たんだ、この子」
◇ ◇ ◇
翌朝。
美咲がリビングに入ってくると、私はこたつの中にいた。
その周りを、ガルドが静かに回っている。
「ガルド、次は廊下だ。出撃せよ」
ピロリン。
ガルドは廊下へと滑っていった。
「使い魔に任せるのも、主の務めだ」
「結局こたつから一歩も出てないじゃん!!」
世界を救った最強の勇者。
今日、頼れる仲間ができました。
床を走る、丸いやつです。




