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『異世界に飛ばされた神だけど、誰も俺が神だと信じてくれない』  作者:
セリアの介入

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第98話 完敗

 その夜、セリアは一晩中、適切な睡眠プロセスを確保することができずにいた。モレンが提供してくれた、辺境の農村にしては上質なベッドに横たわってはいる。しかし、むき出しの木造の天井が彼女の視野を完全に塞ぎ、網膜の裏では未だに昼間の不条理な熱狂データが明滅を繰り返していた。窓の外からは夏の夜虫たちの騒がしい音声ログが絶え間なく聞こえ、時折吹き抜ける夜風が民家の庭先の青葉をカサカサと不穏に揺らしている。ルナの村の全構成員は、すでに定刻通り活動を一時停止させていた。しかし、彼女の思考システムだけは、過負荷による熱量を帯びたまま、一向にシャットダウンの気配を見せない。


 ゆっくりと両目を閉じる。だが、暗闇のメモリーから自動的にロードされてくるのは、あの広場で平伏していた住民たちの、あまりにも純粋で歪んだ笑顔のグラフィックだった。リナ。レオン。フィーナ。ブルーノ。そして、黄金のジャガイモを抱えて目を輝かせていた子供たち。彼らは全員、完璧に調和した満ち足りた表情で、彼女のことを同じ名で呼んでいた。「セリア司祭様」

「……」


 セリアは寝返りを打ち、細い指先で自らの額を強く圧迫した。自らの論理演算を稼働させ、この巨大なシステムエラーの最初の発生起点を逆算しようと試みる。あの不条理な『万年豊作教会』という筐体を目測した瞬間か。あの純白の巨大な大理石像の仕様を確認した瞬間か。あるいは、全住民の前で実直に自己の身分をアナウンスした瞬間か。それとも、ボスの本質が『至高の創造神』であるという絶対的な真実データを出力した瞬間だろうか。

 いいえ、違った。この不条理なバグの拡大投資は、彼女がこの下界へポップするよりも遥か前、あの事故が発生した段階から、住民たちの手によって全自動で竣工されていたのだ。彼女の降臨は、単なる進捗の遅れに過ぎなかった。そして今や――彼女自身が、その狂信のインフラシステムの内側へと完全にロールインされてしまっている。セリアは片手で自らの顔を覆い隠し、声もなく朧げに呟いた。

「……一体、どのような仕様変更を入力すれば、この暴走をクローズできるというの……?」

 夜の静寂の中に、そのエラー報告へのアンサーが返ってくることはなかった。


 その頃、隣の区画では、マコトもまた稼働を継続していた。彼はハンスから公式に借用した、下界の拙い技術で書かれた農業専門のテキストを、手元のオイルランプの灯火に照らしながら淡々とリーディングしていた。パサリ、と時折羊皮紙を捲る音だけが響く。あるページに差し掛かった瞬間、彼は数秒だけ視線を落とし、満足そうに小さく首を縦に振った。

「なるほど。この一帯の開発担当者たちは、このようなインフラ運用の手法を試みていたのですね」

 マコトはぽつりと乾燥した分析を出力した。マニュアルの余白には、現地の実務担当者たちが書き残したであろう、拙い手書きの数値データがいくつか記録されていた。精査してみれば、その計算ロジックの一部は極めて合理的だったが、また別のセクションには致命的な不整合が検出された。もし明日のシフトの過程で時間的猶予が生まれるならば、この不整合なエラーデータをハンスへとフィードバックしてやるべきだな、とマコトは極めて事務的にタスク表へと書き加えた。


 木製の扉が、ギィ……と小さな音を立てて緩やかに開いた。現れたのは、目元に色濃い疲弊の陰影を刻んだセリアのグラフィックだった。

「ボス」

「何ですか、セリア。未だスリープモードへの移行が執行されていませんよ」

「……ボスこそ、未だ職務を継続されているのですか?」

「はい」

 マコトはリーディングしていた書籍をパタンと事務的に閉じた。「何か、報告すべきエラーでも発生しましたか?」

 セリアは部屋の入り口でしばらくの間、直立不動のまま佇んでいたが、やがて諦めたようにマコトの対面の木製椅子へと移動し、だらりと腰を下ろした。彼女はすぐには次の音声データを出力しなかった。下界へ降臨して以降、彼女は幾度となく100パーセントの正論を提示して事態をデバッグしようと試みてきた。そしてその都度、すべての入力コマンドが最悪の燃料へと変換され、壊滅的なエラーを起こして終了してきたのだ。だからこそ、今の彼女にはもう、あの教会について言い争う気力も、司祭という役職を否定するエネルギーも、1ビットも残されてはいなかった。彼女が今、管理者として唯一確認しておきたかったのは、極めて単純な1つの事実データだけだった。


「ボス」

「何ですか」

「……客観的な意思確認としてお尋ねしますが、ボスは一刻も早く、本来の第一執務室へと帰還されることを希望されているのですか?」

 マコトは何の発声の遅延もなく、波一つ立たない瞳のまま、乾燥した声調で即答した。

「はい。当然の仕様です」

「理由を提示してください」

「未処理の公文書が山積しているからです。管理職としての職務をこれ以上ペンディングにすることは、組織の運用効率を著しく低下させます」


 セリアの唇に、ようやくかすかな、しかし確かな苦笑が浮かび上がった。変わらない。この人のメインシステムは、どれほどの次元の断絶に巻き込まれようとも、1ビットの変質も起こしていない。数億年の間、彼女が常に一歩後ろから見つめ続けてきた、あの冷徹で実直な最高責任者のロジックそのものだった。

「ならば……」

 セリアは居住まいを正し、凛としたトーンをどうにか絞り出した。

「……私は管理者としての初期の仕様書に従い、ボスの帰還ルートを確保するための捜索タスクを継続します」

 マコトは満足そうに小さく頷いた。

「はい。良好な進捗報告を期待しています」

「お気遣いは無用です」

 セリアはか細い声で応じた。「……それが、私の保有する絶対的な規約ですから」


 室内に、再び静まり返った日常の標準規格が戻ってきた。下界へ降臨して以降、彼女の処理システムが、初めてわずかな小康状態を受信していた。少なくとも――未だにこの世界の裏側で、たった1つだけ、1ミリの不整合も起こしていない確固たる事実が稼働している。彼らの目的だ。彼女がこの地の果てへと降臨したのは、新興の集落教団と議論を交わすためでは、断じてない。最高位の司祭職を受諾するためでもなければ、ましてや至高の大農神の令妃という不条理な仕様に収まるためなんかでも絶対にない。彼女の保有する唯一の絶対的なタスクは、最初から何一つ変わっていない。――ボスを、元の我が家へと連れ戻すこと。それだけだ。


 翌朝――。夏の終わりの東の地平線から、薄明のログが静かにポップし始めたその瞬間、モレンの家の外壁を通じて、無数の無秩序な足音の波形が室内の聴覚センサーへと伝播してきた。1人や2人の規模ではない。何何十人、いや、何百人という、過密状態を呈した人口パラメータの移動を物語る轟音だった。

 セリアはベッドの上で弾かれたように上体を起こし、すぐさま窓の筐体を開け放った。そして――直後に、彼女の全機能が再び完全フリーズした。

「……嘘、でしょ……」

 彼女の青白い顔から、完全に血の気が引いていく。ルナの村のメインストリートは、すでに足の踏み場もないほどの圧倒的な群衆によって、過密状態を引き起こしていたのだ。


 見れば、そこに密集しているのは、この村の聞き慣れた住民たちだけではなかった。見たこともない衣服の規格を身に纏った、明らかに別の集落から流入してきたであろう、無数の部外者のグラフィック。ある者は、その日の豊作を祈念するかのような瑞々しい野の花の束を大切そうに抱え、またある者は、あの不吉な『ジャガイモの書』を胸へと強く強く抱きしめている。遥か街道の彼方からは、何台もの無骨な木造の荷車がガタゴトと音を立てて村の境界線を突破してくる姿が目測できた。彼らの進行ベクトルの終着点は、例外なくただ1箇所――あの、不条理の結晶たる『万年豊作教会』の正面広場だった。


「……セリア司祭様は、もう起動されているかしら?」

「静かにしなさい。最高位の御前で無秩序なノイズを出力するのは、管理規約における致命的なエラー行為よ」

「すぐに、教団の公式なイベントが執行されるはずだわ」

「近隣の faksi から大挙して移動してきた甲斐があったぜ。朝一番のログに到着しておいて正解だったな」

 セリアは、ガタガタと震える細い指先で、ゆっくりと窓の筐体を閉じ、外界からのインプットを遮断した。彼女の網膜は、完全に解像度を失って白濁していた。

「……あ、あの人たち……」

 その唇から、絶望の音声データが漏れ出る。「……まだ仕様変更の通達すら執行されていない現段階において、なぜ、外部ネットワークからこれほどまでの余剰リソースが全自動で招集されてしまっているの……?」


 トントン、と。部屋の木製の扉が、極めて礼儀正しい規則的なテンポでノックされた。

「セリア司祭様」

 扉の向こう側から、リナの崇高な歓喜を孕んだ声調が通達された。

「すでに、教会の正面広場は全信徒の密集によって、完璧な過密状態を完了しております。もし、司祭様のご準備のパラメータが上限値に達しておりましたら……これより、教団の公式アップデートを執行させていただきたく存じます」


 セリアは、ゆっくりと自らの両目を閉じた。そこにはもう、反論コマンドを入力するための空白のメモリーなど、1ビットも存在しなかった。客観的な事実を開示して、システムを正常値へとロールバックさせるチャンスなど、最初から1度も給えられてはいなかったのだ。彼女がこの個室の境界線を越えて外へとポップするよりも遥か手前の段階において――この下界の集落教団のロジスティクスは、すべてのリリース準備を完璧に確定させてしまっていた。


 彼女は首を巡らせ、対面の椅子を見つめた。マコトは、今しがた自分に割り当てられていた素朴な毛布を、1ミリのズレもない完璧な直線の幾何学フォントで丁寧に折り畳み、本日の最初のタスクをクローズさせたところだった。

「ずいぶんと、賑やかな環境要因ですね」

 彼がいつもの抑揚のない声で、ぽつりと乾燥した分析を出力した。

「……はい、ボス」

 セリアは弱々しく口元を綻ばせ、もはや引きつった苦笑すら失われた、完全に魂の抜けたような表情でアンサーを返した。そして――昨晩の内面のメインサーバーで下した決裁よりも、遥かに深い、完膚なきまでの絶望の事実を、その胸の奥へと厳酷に記録するのだった。


(……私の、完敗だわ)


 隣に立つ当の『絶対神』本人は、泥のついた枯れ枝の仕様をのんびりと点検しながら、未だに自らが引き起こした超巨大な大火災の全貌に1ビットも気づかぬまま、ただ住民たちと「ごく当たり前の日常会話」を終えただけだと完璧に誤認し続けている。

 神の無自覚な正論と、人間の実直すぎる狂信、そして完璧に仕分けされたはずの拒絶のコマンドが調和した瞬間――下界へ救出に赴いたはずの最高位管理官が、自身の存在そのものを選ばぬ最悪の燃料にして、教団の絶対的な「最高位指導者」へと全自動で強制ロールインさせられてしまうという、不条理の極み。セリアは迫り来る世界の理そのものの強制書き換えへの果てしない大いなる困惑に、ただただ声もなく、朝の光が差し込む部屋の真ん中で、ただただ震え続けることしかできなかった。


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2026/09/09 公開予定

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