第97話 ついに敗北するセリア
ルナの村に、ゆっくりと夜の帳が下り始めていた。
万年豊作教会の正面広場からは、今日のタスクを完了した村人たちが、一様に明日への期待に満ちた表情を浮かべて帰宅ルートへとついていく。彼らの口からは、明日に予定されている神聖なる試験の仕様について、絶え間なく熱狂的なログが共有されていた。
「司祭様なら、間違いなくすべての試験をクローズ(合格)されるだろうな」
「当然だ。ボスと約40億年も一緒に働いてこられたお方なんだからな」
「もし、司祭様にも処理できないような質問が飛び出したら……」
「それはオレたちの知識レベルが、その深遠な回答を受信できるコンディションに達していないという意味の証明だな」
住民たちの話し声は、夏の夜風に引かれて次第に遠ざかっていった。
セリアは教会の前に佇んだまま、動けずにいた。その琥珀色の瞳は、完全に生気を失って虚空を見つめている。
そこへ、真新しい白の法衣を纏ったリナが、音を立てずに静かな歩調で近づいてきた。
「セリア様」
声をかけられ、セリアは錆びついた人形のようにゆっくりと首を巡らせた。
「……はい。何でしょうか、リナ司祭」
「本当に、申し訳ございませんでした」
「……何に対する謝罪ですか?」
「オレたちがあまりにも拙速に全体のワークフローを進行させてしまったことです」
セリアの思考システムに、ほんの一瞬だけ、微小な救いのシグナルが灯った。
(……よかった。ようやく、この村の住民たちも自らの不整合な暴走に気づき、処理をロールバックする気になったのね)
しかし――リナの口から出力された追加の仕様解釈は、その脆弱な希望を無慈悲にデリート(粉砕)するものだった。
「セリア様ほどの最高位の存在であれば、下界へ降臨された直後の現段階においては、まず何よりも適切な休憩時間を確保していただくのが絶対的な規約でした。それを無視して、式典の準備を強行してしまったことを反省しています」
「違います」
セリアは力なく頭を横に振り、か細い声で訂正のコマンドを入力した。
「……ボトルネックは、私の労働環境(寝不足)の話ではありません」
「何も問題はありませんよ」
リナはどこまでも穏やかな、崇高な微笑みを浮かべて深く頷き返した。
「明日の神聖なる試験は、トータルの所要時間が長期化しないよう、スケジュールを完全に最適化してありますから」
「あなたたちは……本当に、あれを執行するつもりなのですか?」
「はい、もちろんです。教団の歴史において、これ以上ないほど重要な1日(リリース日)になりますから」
「誰にとって、重要なのですか?」
「全信徒にとって、です」
セリアは、静かに自らの両目を閉じた。
そのアンサーデータを受信した瞬間、彼女の脳内で稼働していたすべての反論システムが、沈黙のまま機能を完全停止した。もはや、この空間にこれ以上正確なテキストデータ(事実)を出力したところで、何の実務的な意味も持たない。
彼女はゆっくりと体の向きを反転させた。
「……ボス」
夏の夜空に浮かぶ星々の配置データ(夜空)を淡々と見つめていたマコトが、そちらへ首を巡らせた。
「何ですか、セリア」
「……拠点(我が家)へ帰りましょう」
「はい。現時刻を以て、本日の全タスクを終了とします」
2人は教会の広場を離れ、静まり返った泥道をマイペースに歩み始めた。
そこにはもう、余計な対話のログは1文字も存在しなかった。ただ2人の靴が湿った地面を踏みしめる、規則正しい足音だけが夜の集落に響いている。
街道の途中で家路につく数人の村人たちとすれ違ったが、彼らはマコトの漆黒の法衣とセリアの姿を視界に捉えた瞬間、大慌てでその場に直立不動になり、深く頭を垂れ下げた。
「ボス、おやすみなさいませ!」
「セリア司祭様、おやすみなさいませ!」
セリアは、もうその言葉に対して「私は司祭ではない」という異議のコマンドを入力しなかった。
それは彼らの不整合を容認したからでは、断じてない。
ただ純然たる事実として――これ以上のデバッグ(突っ込み)を継続するだけのエネルギー(気力)が、彼女のシステム内に1ビットも残されていなかったからだ。あまりにも、疲れ果てていた。
マコトは隣を歩くセリアの横顔を、波一つ立たない瞳でしばらくの間、無言でサンプリングした。
「セリア、発話の出力が停止していますよ」
「……はい」
「未だ脳内の処理落ち(頭痛)は長期化していますか?」
「……ええ、ほんの、少しだけ」
マコトは満足そうに小さく頷いた。
「明日の日の出以降(休憩後)には、コンディションは正常値へと復旧するはずです」
セリアの口元に、哀れなほどに引きつった苦笑が浮かび上がった。
「……そうだと、良いのですが」
しかし――彼女自身の脳内システムは、自らが出力したその希望のテキストデータを、最初から1ビットも信じてはいなかった。
2人は、モレンの家へと到着した。
木造の応接室の机の上では、素朴なオイルランプの灯火が静かに揺らめき、室内のグラフィックをぼんやりと照らし出していた。
驚くべきことに、部屋の内部には村長であるモレン、自警団のハンス、レオン、そしてリナの4人が、すでに通常業務のクローズ後に先回りして密集していたのだ。彼らは玄関の扉が開き、セリアが室内に足を踏み入れたその瞬間、軍隊の精鋭のような素早さで一斉に直立不動になり、深く深く腰を折った。
「お帰りなさいませ、セリア司祭様!」
セリアはドアノブを握ったまま、玄関の境界線でピタリと停止した。
「……」
彼女の口から、アンサーの音声データがポップすることはなかった。その生気のない佇まいに、モレンが少し不審そうな表情をのぞかせて問いかけた。
「……あの、司祭様? システムに何か不整合なエラーでも発生しましたかい?」
「いいえ、何も」
セリアは弱々しく首を横に振り、掠れたトーンで報告した。
「……ただ、累積疲労が限界に達しているだけです」
「ああ、そりゃそうだ!」
モレンは、完璧に納得したという表情で深く頷いた。
「何しろ、明日は教団にとって最大級のリリース日(大仕事)ですからね!」
セリアはゆっくりと首を巡らせ、琥珀色の瞳で老人を見つめた。
「大仕事……ですか?」
「はい! 村の全信徒が、総力を挙げて新たな最高位の司祭様をコミュニティへと歓迎する準備を進めております!」
レオンも確固たる確信をその瞳に宿して、激しく首を縦に振った。
「それだけじゃないぜ、セリア様。すでに近隣のいくつかの他の集落( faksi )の担当者たちも、この最高位の神託(噂)を完全に受信してるんだ」
セリアはパチパチと無機質に瞬きを繰り返した。
「……近隣の、集落?」
「ああ! あいつら、明日の朝一番のログ(夜明け)と共に、このルナの村の万年豊作教会へと向かって、大挙して移動を開始する予定らしいぜ!」
セリアは自らの額を、細い指先で強く強く押さえた。
明日。神聖なる試験。
その式典の執行コマンドが入力されるよりも遥か手前の現段階において――この不条理なバグの噂は、すでに村の境界線を突破し、下界の広大な外部ネットワーク(他の領地)へと向かって爆発的な勢いで拡散されてしまっていたのだ。
マコトはいつも通り、お気に入りの木製椅子へ移動すると、ごく自然な動作でそこに腰を下ろした。
「過密状態(賑やか)ですね」
彼がぽつりと乾燥した分析を出力すると、ハンスが豪快に笑声を漏らした。
「ハハッ、全くだぜボス! このルナの村のサーバー(人口密度)が、これほど過密状態になるなんて、オレたちの歴史データ(過去の記憶)をいくら捲っても一度もねえや!」
マコトは当然の収支報告を受理した時のように、満足そうに小さく頷いた。
「ならば――良好な環境要因です」
その至高のボスの決裁(一言)を聞いて、室内の住民たちは一斉に、破顔して満面の笑みを浮かべた。
しかし不条理なことに、その完璧な調和の空間の中で、ただの1人として笑うことのできない職員がそこにいた。
セリアは部屋の隅に位置する古びた椅子へと弱々しく移動し、そこへだらりと身体を沈めた。彼女の細い指先は、未だに思考の限界を告げる熱を帯びた額を強く押さえたままだ。
これまでの数千年のキャリアの中で、彼女は常に『すべてのシステムエラー(難題)には、必ず合理的な解決策(デバッグ仕様)が存在する』と盲信し、それを自らの絶対的な規約として職務に励んできたのだ。
公文書の記述に不備があれば、その文字列を正確に修正すればいい。
収支の数値に不整合が検出されれば、差分データを精査して検品すればいい。
魂の次元転移にエラーが発生し、誤った世界へとポップしてしまった一般職員がいるのなら、正しい仕様書を作成し、メインサーバー(神界)へと安全に帰還させれば、それですべてのタスクは完璧にクローズするはずだった。
しかし――このルナの村で発生している狂信のシステムバグは、そのすべての日常規格を根本から突破していた。
彼女が良かれと思って100パーセントの実直な反論コマンドを入力すればするほど、不整合なエラーはより巨大に、より強固にアップデートされてしまう。
彼女が寸分の虚飾もない客観的な事実を開示すればするほど、現地住民たちの歪んだ解釈システムはそれを全自動で狂信の燃料へと変換し、より一層多くの信徒の人口パラメータを爆発的に増殖させて峻工(完成)させてしまうのだ。
彼女は、机に向かってモレンが用意した温かい大麦茶のコップ(水分)をのんびりと手に取っている、最高責任者の横顔を見つめた。
あの人の顔は、いつも通り波一つ立たない、穏やかな水面のようだった。
あの人は未だに、明日の日の出以降、自らの全幅の信頼を寄せる第一アシスタントが、万年豊作教会の最高位司祭(至高の大農神の婚約者)としての強制アップデート式典を執行されるという、目の前にある最大級の大火災の仕様に――1ビットの猜疑心すら抱いていないのだ。
セリアは、自らの胸の空気をすべて吐き出すように、長い、長い、絶望の溜息を吐き出した。
そして――下界へと降臨し、数百年ぶりの再会を果たして以降、彼女は初めて、自らの内面のメインサーバー(心の中)において、議論の余地のない絶対的な決裁(事実の承認)を執行したのだった。
(……私の、負けだわ)
それは、特定の有能な他部署のライバルに負けたわけではなかった。
教団という名の特定の組織に、合理的な議論で論破されたわけでもなかった。
ただ――神の無自覚な正論と、人間の実直すぎる狂信の隙間で、誰の許可を得るでもなく、全自動で独立稼働し、天井知らずに自己増殖を継続し続ける『不条理な誤解の無限ループ』という名の悍ましい怪物の前に。
神界の最高位管理官たる彼女の卓越した論理回路は、現時刻を以て、完膚なきまでに敗北を認めるしかなかったのだ。セリアは迫り来る世界の理そのものの書き換えへの果てしない大いなる困惑に、ただただ夜の静寂の中で、声もなく、絶望の椅子の上で震え続けることしかできなかった。




