第96話 神聖なる試験
広場を揺るがす爆発的な歓呼の嵐は、容易に収まる気配を見せてはいなかった。
「至高の大農神、万歳!!」
「セリア最高位司祭様、万歳――っ!!」
住民たちの熱狂的な声が、夕闇の迫る万年豊作教会の敷地内を完全に支配している。ある者は使い古された鍬を高く掲げ、またある者はあの不吉な『ジャガイモの書』を家宝のように両腕で抱きしめていた。まだ物心もついていない子供たちまでもが、周囲の大人たちの熱狂に同調するように、何の意味も理解せぬまま元気よく小さな手を叩いている。子供たちにとって、現場の大人たちがこれほど満ち足りた表情で喜んでいるのなら、今日という1日は完璧に素晴らしい1日であるという事実に他ならなかった。
セリアはその光景の真ん中で、すべての表情を喪失したまま、幽霊のように立ち尽くしていた。下界へと降臨してわずか数十分。彼女は生涯で最大級の敗北を喫したのだ。そして絶望的なことに、周囲の人間は誰1人としてその深刻な現実に気づいていなかった。彼らの受信システムが導き出した結論は、全くの逆だった。新たなる最高位の司祭が、全信徒からの圧倒的な承認を獲得してここに降臨した。彼らの脳内には、その歪んだ調和のデータしか存在しないのだ。
「司祭様」
リナが真新しい白の法衣の胸元に書籍を強く抱きしめ直しながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「教団の運営において、重大な請願がございます」
セリアは咄嗟に指先を前に突き出し、最大出力の却下コマンドを入力した。
「いいえ! 私はあなたたちからのいかなる請願も受理しません!」
リナは聖母のような穏やかな微笑をその顔に浮かべ、深く頷き返した。
「ええ、よく分かっております。これはオレ個人の私的なお願いではありません」
「では、何なのですか?」
「村の全信徒が公式に提出した、全体の要望です」
セリアは、脳内のリスク管理能力が、過去最大級の不穏なアラートを検知して激しく脈動し始めるのを感じた。
「明日」
リナはどこまでも晴れ晴れとした声調で、完璧な予定表を通達した。
「……教団の公式なイベントとして、神聖なる試験を執行いたします」
セリアの思考回路が、一瞬にして処理落ちを起こした。
「……神聖なる、試験?」
「はい。全信徒の前に司祭様をお迎えし、その最高位の身分を正式にコミュニティへと共有するための竣工典礼です」
セリアはパチパチと無機質に瞬きを繰り返した。
「……待ちなさい。そもそも、私は先ほどから何十回も『自分は司祭ではない』と正確な事実を出力し続けているはずですが?」
「ええ、もちろんその通りです」
リナは深い敬意をその瞳に手向け、優しくその脆弱な反論を粉砕した。
「だからこそ、神聖なる試験が必要なのです」
セリアは、自らの卓越した論理推計を以てしても、眼前の信徒たちの思考アルゴリズムを1割も追いきれなくなっていた。
「……一体、どのような因果関係でその結論が導き出されるのですか?」
「ボスによって全幅の信頼を授けられた最高位の存在でありながら、どこまでも自らの権威を否定される。それは即ち、貴女様が現在、大いなる『テスト』の最中にあられるという事実の証明です」
「テスト、ですか?」
「はい。どれほど全信徒から絶対的な崇拝を授かろうとも、決して傲慢にならず、ボスの示された至高の謙虚さを維持し続けられるか否か。その精神の状態を測定されているのです」
周囲の村人いたちも、リナのその完璧な神学解釈に深く感じ入ったように、一斉に激しく首を縦に振った。
「筋が通りすぎるぜ!」
「間違いない。司祭様は今、ボスの下した最高機密のテストを処理されている最中んだ!」
フィーナが猛烈な速度で羊皮紙に文字を刻みながら、大興奮で叫んだ。
「『至高の謙虚さのテスト』ですね! 完璧なネーミングです!」
「よし、仕様書のタイトルはそれで確定だ」
ブルーノも極めて満足そうに首を縦に振って承認した。
セリアは自らの両手で額を強く押さえた。反論のコマンドを入力する猶予すら与えられぬ間に、新たな教理のアップデートが全自動で完了していく。写本の手を止めていたレオンが、無精髭の顎をさすりながら、実務的な仕様について問いかけた。
「……ハンス、その神聖なる試験とやらは、具体的にどんな内容にするんだい?」
リナは手元の書籍を見つめ、真摯に思考を巡らせた。
「ボスの第一アシスタントとしての累積疲労を考慮し、肉体的な負荷パラメータは極限まで低く設定すべきです」
「確かに、それが合理的な配慮だな」
教団の幹部たちは、セリアの意図など1ビットも気に留める風もなく、極めて真面目な顔で全体のイベント仕様を構築し始めた。セリアはただ泥道に立ち尽くし、自らの意思が介在せぬまま、運命のシステム規約が勝手に決定されていく様子を呆然と観察するしか選択肢がなかった。
「『ジャガイモの書』の全テキストを、1文字の不備もなく暗唱させる内容はどうかしら?」
「いいえ、それは非合理的です。セリア様ほどのハイエンドな処理能力であれば、そんな初期マニュアルなど最初から全データが脳内に記憶されているに決まっています。テストの難易度として低すぎますよ」
その危険な前提を検知したセリアは、大慌てで右手を挙げて異議を唱えた。
「違います! 私はあの不吉なマニュアルを、1文字も閲覧していません!」
広場は一瞬にして静まり返った。すると、リナはどこまでも温かい、慈悲深い笑みをその顔に浮かべて深く頷き返した。
「ああ……なんと素晴らしいお手本か……」
「……へ?」
「司祭様は、オレたち未熟な作業員に対して、真の『学習プロセス』の姿勢を示してくださっているのですね。『どれほど完璧な処理能力を保有していようとも、日々の実務における勉強に終わりはない。現状維持はエラーの始まりである』という、無言の教育です!」
「その通りだ! さすがは司祭様だぜ!」
レオンも深く深く感じ入ったように激しく首を縦に振った。
「最高位の存在でありながら、未だに自分は『未履修』であると仕様定義されるなんて……オレたち一般の作業員は、ますます襟を正して職務に励まなきゃダメだな」
セリアは弱々しく、挙げた右手を下ろした。まただ。また、この不条理なバグの無限ループが全自動で稼働している。彼女が出力した100パーセントの実直な真実が、現地住民たちの歪んだ解釈システムを通過した瞬間、すべてが完璧な『崇高な教義』へと全自動で変換されてしまうのだ。
ブルーノが、深い皺の刻まれた顎を摩りながら、新たな提案を提示した。
「ならば――神聖なる試験の内容は、テキストの暗記ではありません」
「では、どのような内容にするのですか?」
「全信徒から提出される業務質問に対して、セリア様が直接回答を出力し、その処理能力の正確性を証明していただくという仕様です」
「素晴らしい!」「承認します!」
「ボスと共に40億年もの長きにわたり過酷な公文書処理を共有してきたお方だ。ボスの提示する正論の真意を、世界で誰よりも完璧に解説してくださるに違いありません!」
セリアは咄嗟に叫び、相手の前提を根底から突き崩そうとした。
「いいえ! 私はあなたたちの言う教義なんか1ビットも理解していません! 私が理解しているのは、ボス個人における事務的な行動則だけです!」
「完璧な一致です!」
フィーナが猛烈な速度で羊皮紙に文字を刻みながら、大興奮で叫んだ。
「『最高位司祭は、乾燥した二次データを学ぶのではない。至高の大農神というメインサーバーそのものを、直接システムにコミットされているのだ』……と。これほどまでに崇高なステータスの証明が、他にあるでしょうか!?」
セリアはゆっくりと顔を上げ、教会の真新しい木造の天井を、虚ろな目で見つめた。彼女には、もう彼らの歪んだ解釈を1文字ずつ修正する気気力など、1ビットも残されてはいなかった。
マコトは泥のついた枯れ枝をのんびりと持ったまま、しばらくの間その対話のログを観察していたが、やがて、いつもの波一つ立たないトーンで口を開いた。
「セリア」
「……何ですか、ボス。私にはもう処理の限界です……」
「彼らはあなたに対して、業務上の質問を行いたいようですね」
「はい、そのようですが……」
「ならば――もし明日の実務において、自らの保有していないデータ、あるいは未実装の事象について質問された場合は、自己判断せず、ただ淡々と『分かりません』と出力しなさい」
セリアは、隣に立つ最高責任者の横顔を、しばらくの間じっと見つめ返した。
その指示データは。どこまでも彼らしい、完璧な職務の正論だった。もし組織の運行において、手元に正確な事実が存在しない案件に直面したならば、虚偽のデータを捏造してはならない。ただありのままに「未実装」とエラー報告を出力し、次の決裁を待つ。それは組織を構成する人間として、あまりにも当たり前の日常の標準規格だ。嘘を嫌うあの人にとって、それ以外の行動則など存在しない。
「……はい」
セリアは、弱々しく口元を綻ばせ、掠れたトーンで応じた。
「……ええ、ボスの言う通りです。私は明日、彼らのすべての不整合な質問に対して、100パーセントの真実である『分かりません』というテキストデータだけを出力します」
マコトは、部下が規約を正確に理解したと判断し、満足そうに小さく頷いた。
「はい。それでこのタスクは完璧に解決です」
マコトにとっては、ただそれだけの、極めて単純な「業務の仕分け」に過ぎなかった。しかし――その何の悪意もないただの乾燥した正論こそが、目の前で深く深く平伏している信徒たちの神学フィルターを通過した瞬間、最悪のフェーズへと全自動で強制書き換えされてしまったのだ。
リナは、もはや言葉を失った深い感動の涙をその瞳に溢れさせ、ゆっくりと、極めて敬虔にその頭を深く深く垂れ下げた。
「……ああ、なんと深遠なる御言葉か……」
レオンも、その無精髭の生えた顔に最大級の畏怖の念を漲らせながら、激しく首を縦に振った。
「ボスは今、セリア様に対して、明日執行すべき『至高の回答』を直接アナウンスされたんだ……!『己の無知を平然と認め、足るを知る。それこそが、すべての環境最適化の原点である』……と!」
フィーナが、興奮のあまり鼻息を荒くしながら、猛烈な速度で羊皮紙に文字を刻み始めた。
「書記長!追加セクションのネーミングはどうしますか!?"
「決まっているだろう!『セリア司祭の第一の教え――無知のシステムアライメント』だ! ボスの謙虚な否定のログも、寸分の狂いもなく注釈として書き加えるんだぞ!」
「了解です!」
ブルーノも、その不整合な結論に対して完璧に調和した笑みを浮かべ、満足そうに頷いた。
「明日、この原点を拝領する全信徒たちは、間違いなく深い感動の涙を流して震え上がるだろうな。完璧な仕様書だ」
セリアは、万年豊作教会の中で、ただただ言葉を失ったまま虚空を見つめ続けていた。明日。神聖なる試験。彼女は未だ、管理者としての公式な受諾を1ビットも提示していない。それなのに――このルナの村の狂信的な教団員たちは、すでに全体のイベント仕様を完璧に確定させ、全自動で式典の準備を開始してしまっているのだ。
そして何より、最も致命的なバグは――隣に立つ当の『絶対神』本人が、未だに自らが引き起こした超巨大なトラブルの全貌に1ビットも気づかぬまま、ただ優秀な部下の正確なタスク配置を完了し、現地の作業員たちと「ごく当たり前の日常会話」を終えただけだと完璧に誤認し続けているという、不条理極まりない現実そのものだった。セリアは迫り来る世界の理そのものの強制書き換えへの果てしない大いなる困惑に、ただただ声もなく、広場で立ち尽くすことしかできなかった。




