第94話 セリアの忍耐の限界
セリアは、一歩も身動きを取ることができなくなっていた。
ほんの数瞬前まで、彼女は管理行政区の職員としてのプライドをどうにか稼働させ、極めて冷静に反論コマンドを入力しようと試みていたのだ。何億年ものキャリアの中で、彼女はあらゆる過酷なトラブルと対峙し、それを淡々とクローズしてきた実績がある。
公文書の致命的な誤記。
魂の不整合な次元転移。
さらには、多重次元の突発的な衝突バグにいたるまで。
ベースにある論理が完璧に筋の通ったものであり、合理的な説明が成立する案件であるならば――それらすべてのシステムエラーは、いつだって美しくデバッグ(解決)することが可能だった。
しかし。
今、自らの目の前に厳然たる仕様として立ちはだかっているこの集落の構成員たちは、最初からいかなる論理のアルゴリズムにも従っていなかった。
「違う」と入力すれば、彼らの受信システムはそれを「はい」と全自動で受信する。
乾燥した物理的な事実を開示すれば、彼らの歪んだ思考回路はそれを「深遠な物語の比喩」へと勝手に変造してしまう。
果てには、最高責任者であるマコト自身が『私たちはあなたたちが仕様定義している夫婦というカテゴリーには属していません』と100パーセントの正論を出力したというのに。
彼らの導き出した不整合な結論は、あろうことか『公式な竣工典礼を迎えていない、暫定的な婚約者のステータスである』という、斜め上の裏仕様への強制書き換えだったのだ。
「……」
セリアは一度、深く、重い息を吸い込んだ。
そして、さらにもう一度。
どうにか自らの思考システムを安定させ、内面の熱量を抑制しようと試みる。感情の起伏を激化させてはならない。もしここで自己管理のコントロールを喪失してしまえば、全体の進行状況はさらに取り返しのつかない最悪のフェーズへと移行してしまう。
「あの、セリア司祭様」
教団の執筆担当であるフィーナが、少し緊張した面持ちで恐る恐る小さな右手を挙げた。
「お気遣いに感謝しますが、私は司祭ありません」
セリアは感情のパラメータを取り払った声で、冷徹に警告した。
「はい、よく分かっております」
「……」
「ですが、その……」
フィーナは、どこか居心地が悪そうに苦笑いを浮かべながら、手元の羊皮紙を気に留めて問いかけた。
「……もし、後日に公式な竣工を終えて仕様が確定した段階になりましたら、教典における貴女様の役職ステータスは、どのようにアップデートすればよろしいでしょうか?」
カチリ、と。
セリアの思考回路の中で、何かが限界を超えて完全に焼き切れる音が響いた。
「私は――ッ!!」
セリアの、これまでにない爆発的な叫び声が、万年豊作教会の正面広場へと轟き渡った。
「――絶対に! 違うと言っているでしょう!!」
広場に密集していた何十人もの村人たちが、その想定外の最大出力の絶叫に、一斉に直立不動になって震え上がった。
「司祭でもなければ! 婚約者でもない! 妻でも! 弟子でも! 聖職者でも! ましてやあなたたちの言う生神の使者なんかでは断じてありません!! 私の公式な仕様定義は、ボスの第一アシスタント、ただの労働者なのです!!」
広場は、吹いた風の音すら完全に消失したかのような、絶望的な静寂に包まれた。教会の真新しい屋根の梁に腰掛けていた数羽の野鳥たちが、その驚異的な声の波形に驚愕し、大慌てで羽を閃かせて空へと退避していく。
しかし、セリアの出力システムは、もう誰にも停止させることはできなかった。彼女の琥珀色の瞳は激しく見開かれ、その声音の熱量はさらに天井知らずに跳ね上がっていく。
「ボスはあなたたちの崇める大農神なんかじゃない! この世界そのものをゼロから設計・竣工した至高の創造神そのものなのよ!! この教会も間違っているし! あの巨大な大理石像もバグだし!『ジャガイモの書』の記述内容にいたっては、1文字の整合性もないデタラメよ!! すべてが、根本的な部分で間違っているの!!」
彼女は、怒りに震える細い指先で、あの威風堂々とそびえ立つ『万年豊作教会』の筐体をまっ正面から指し示した。
「それなのにあなたたちは……! なぜ、私の提示する100パーセント正確な仕様書を、1ビットも受信しようとしないのよ!?」
群衆の誰一人として、アンサーを返す者は存在しなかった。
それは恐怖による思考停止ではない。彼らは数ヶ月間の共同生活の中で、これほどまでに感情のパラメータを限界まで爆発させ、限界を超えて激昂している存在を、ただの一度も目撃したことがなかったからだ。
彼女の豊かな胸元は激しく上下し、その呼吸の律動は完全に無秩序に狂っていた。
下界へと降臨し、数百年ぶりの再会を果たして以降――彼女が自らのシステムに必死に溜め込み、隠蔽し続けていたすべての過労と、困惑の不条理データが、今この瞬間を以て、完全に限界突破して爆発したのだ。
「私は……私は、時空崩壊事故に巻き込まれた最高責任者を、一刻も早く安全な元の執務室へと連れ戻すために、ここまで稼働してきたのよ!! あなたたちの狂信的なセクトに就任するためでもなければ、典礼を挙げるためでもない! 教団のロジスティクスを管理するためなんかじゃ、断じてないわ!! ましてや――大いなる大農神の婚約者なんていう不条理な仕様に収まるためなんかでは、絶対にないのよ――っ!!」
空間は、依然として音を立てて凍りついたままだった。
マコトは泥のついた枯れ枝を握ったまま、しばらくの間、完全に自己管理能力を喪失して激昂している部下のバイタルを、ただ淡々と、客観的に観察していた。
そして――しばらくの沈黙の後、いつもの波一つ立たない、あまりにも落ち着いたトーンでアンサーを出力した。
「セリア」
「……何ですか、ボス」
「あなたの処理能力は、現在著しく低下しています」
「私は過労なんかしていません!!」
「いいえ、事実です」
マコトは静かに首を横に振った。
「あなたはこの数日間、一晩も適切なインターバルを確保していません。そのような不完全な過労状態が長期化すれば、脳の論理演算に深刻なバグが発生し、感情の波形を正確にコントロールできなくなるのは当然の因果関係です」
セリアは、小さな口を半開きにしたまま、次の反論コマンドを入力する気力すら完全に失いかけていた。
あの人は、決して彼女の激昂を責めているわけではなかった。ただ純然たる無自覚のまま、100パーセントの実績データに基づいて、彼女の労働環境の悪化を心配し、冷徹に事務報告を行っているだけなのだ。
正式に、その「数日間一睡もしていない」という指摘データは、純度100パーセントの客観的事実そのものだった。
セリアが言葉のログを失ってその場に立ち尽くすのを見て、リナは恭しく、しかしその瞳に深い、深い同情の色を漲らせながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「セリア様……本当に、申し訳ございませんでした」
セリアはすぐさま顔を上げ、毅然とした態度を維持しようと声を絞り出した。
「……お気遣いは無用です。私はあなたたちの謝罪など要請していません」
「いいえ、オレたちはあまりにも、貴女様の処理能力に甘えすぎていました」
「……へ?」
「これまでの気の遠くなるような永劫の時間の中……貴女様は、ボスの大いなる御意志のすべてを、たった一人でその背に背負い、孤独な稼働を継続してこられたのですね」
「違います、それは通常の合同プロジェクトの仕様であって――」
「ボスはどこまでも至高の謙虚さを貫かれるお方。だからこそ、その裏側で、セリア様だけがボスの真の偉大さを守るために、誰にも理解されない孤独な管理業務を処理し続けてこられた。それが、どれほど過酷で、どれほど摩耗する職務であったか……」
セリアは無機質に、パチリ、パチリと瞬きを繰り返した。
彼女は、今しがた限界最大の叫び声を出力したはずだった。
しかし――不条理なことに、この下界の狂信者たちの思考システムが受信したのは、彼女の激しい怒りではなかったのだ。彼らが脳内変換したのは、至高の主を誰よりも深く愛し、その影を支え続けてきた『最高位聖職者の、気の遠くなるような職務の累積疲労』そのものだった。
レオンが、その不整合な調和の結論に深く感じ入ったように、ゆっくりと首を縦に振った。
「……オレも、ようやく合点がいったぜ。なぜ、セリア様がこれほどまでに感情のパラメータを爆発させて、激しく反論されていたのか」
セリアは、もはや生気のない瞳で、ただ淡々と彼を見つめ返した。
「あれはただの怒りじゃない。……いや、怒りではあるんだが、そのベースにあるのは……」
レオンは、その無精髭の生えた顔に深い敬意の念を漲らせながら、確固たる笑みを浮かべた。
「……ボスに対する、あまりにも巨大すぎる心配の念ですよ」
「な……ッ」
「ボスがあまりにも自分の偉大さを否定し、周囲に誤解され続けるその姿を、一番近くで見守ってきたんだ。誰だって、自分の最も大切にしている存在が正当に評価されなきゃ、我慢の許容量を超えてパニックを起こしちまう。当然のロジックだ」
「まったくその通りだ!」
ブルーノも、その歪んだ神学の結論を、極めて満足そうに首を縦に振って承認した。
「ボスを愛するが故に、ボスの謙虚な拒絶のログに対して異議を唱え、オレたちの前で涙を流してまでボスの真実を証明しようとされた。なんという崇高な、愛の行動則か……! オレ、涙が止まらねえよ」
「よし、今の最高のログを完璧に記録するんだ!」
フィーナが、興奮のあまり鼻息を荒くしながら、猛烈な速度で羊皮紙に文字を刻み始めた。
「書記長!追加セクションのネーミングはどうしますか!?」
「決まっているだろう!『聖なる司祭、至高の大農神のために落涙す』だ! 彼女の徹底的な自己否定の反論ログも、寸分の狂いもなく注釈として書き加えるんだぞ!」
「了解です!」
「泣いてなんかいないわよ――っ!!」
セリアは最後の気力を振り絞って叫んだ。
確かに、彼女の琥珀色の瞳の端からは、堪えきれない熱い液体がポロポロと零れ落ちそうになっていた。しかしそれは、リナたちの言うような崇高な「愛の落涙」などでは断じてなく、どれほど客観的な事実を出力しても1ビットも噛み合わないという、人生最大級の絶望とフラストレーションの果てに漏れ出た、不条理のバグ涙だった。
しかし――目の前で深く深く拝礼している住民たちの瞳の中に、そのフラストレーションのデータを見分けられる者など、最初からただの1人も存在しなかった。
彼らの目に映るその姿は、ただ、泥臭くも愛おしい至高の大農神を誰よりも深く愛し、その栄誉のためにすべてを投げ打って激しく落涙している、この上なく健気で、美しい『最高位の婚約者様』そのものだったのだ。
マコトは泥のついた枯れ枝をのんびりと持ったまま、しばらくの間セリアの顔を見つめ、やがていつも通りの平坦な、波一つ立たないトーンで新しいコマンドを実行した。
「セリア」
「……はい、ボス」
「同行してください」
「なぜですか」
「このままこの区画に滞在し続ければ、あなたの過労状態を解決するための適切な休憩を確保することが不可能です。直ちに食堂、あるいは寝床へと移動しなさい」
セリアは、ゆっくりと両目を閉じ、心の中で深く、深い溜息を吐き出した。
「……はい、ボス。分かりました……」
おそらく。
今日という職務において。
彼女の最高位行政官としての卓越した論理回路は、この下界の圧倒的な不条理の前に――完全に、完膚なきまでに敗北してしまったのだ。
彼女は手に持った事務杖を弱々しく泥に突き、ただただ引きつった苦笑を浮かべながら、どこまでも実直で、どこまでも噛み合わない絶対神の隣で、夕闇の没した街道をトボトボと家路へとついていくのだった。




