第93話 大農神の神妃(ツマ)
万年豊作教会の正面広場を満たしていた不条理な熱気は、表面上だけは穏やかな波長へと収束しつつあった。しかし、それは単なる一次的な静観に過ぎない。教典の編纂を担当する書記チームの脳内システムでは、今しがた入力された「40億年のキャリア」という物理的な不条理データを基にして、新たな神学解釈の可能性が爆発的な勢いで処理され始めていたのだ。ボス、セリア司祭、40億年という天文学的な稼働時間、印刷前の教典、端数のない整然とした運用実績、そして、世界の運命を決裁する最上階のデスク。彼らはこれら散乱する機密ログをどうにか1つの完璧な調和へと結合させようと、必死にデバッグを試みていた。
一方で、セリアの脳内システムが出力していた唯一のコマンドは「直ちに対象区域からの離脱」だった。これ以上、この狂信のインフラに身を置き続ければ――さらに取り返しのつかない致命的なシステムエラーが全自動でジェネレートされてしまう。そのリスクを、最高位行政官としての卓越した直感が冷酷に警告していたのだ。
「……ボス」
セリアは声を潜め、掠れたトーンで告げた。
「休憩時間はとっくに終了しています。直ちに拠点へとロールバックしましょう」
マコトは泥のついた枯れ枝を持ったまま、淡々と短く頷いた。
「そうですね。これ以上、この区画に滞在して執行すべきタスクは存在しません」
彼にとっても、ここはただの「村の公共スペース」だ。用件がクローズした以上、長居する合理的な理由は1つもない。
2人がまさに反転し、泥道へと白い官給靴を踏み出しようとした、その時だった。群衆の後方から、1人の小さな少女が、大慌てでリナ司祭の元へと小走りで駆け寄ってきた。
「リナ様、リナ様!」
「何ですか、業務の最中ですよ」
少女は無邪気な瞳を輝かせながら、小さな人差し指で、並んで歩くマコトとセリアのグラフィックをまっ正面から指し示した。
「あのね! この前、お父さんとお母さんが街のフェスティバルに行ったときも、あんな風にぴったりお隣同士で歩いてたの!」
リナはパチパチと瞬きを繰り返した。
「……それが、実務とどう関係しているのですか?」
「だからね! ボスと、あの綺麗な銀髪の司祭様も、お父さんたちとまったく同じ仕様をしてるんだよ!」
セリアの全身の全機能が、一瞬にして完全に凍結した。心臓の脈動システムが、最大級のエラーアラートを狂ったように点滅させ始める。
リナはしばらくの間、その子供の無垢なインプットについて真摯に思考を巡らせ、ゆっくりとマコトたちの背中へと視線を巡らせた。確かに、2人は寸分の狂いもない一定の距離感を保ちながら、完璧な並列の動線で歩を進めていた。なぜなら、彼らは業務上の対話を継続していたからだ。ただの環境要因に過ぎない。
しかし――現地住民たちの歪んだ解釈システムを通過した瞬間、その乾燥した物理データは、全く別の不穏な色調を帯びて再構築され始めたのだ。よくよく考えてみれば、ボスはこれまでに、他の作業員に対してこれほど近接したポジショニングを容認した形跡は一度もない。常に一定の区画を維持していたはずだ。それが、あの銀髪の管理官に対してだけは、最初からメインサーバーの接続を許可しているかのように、あまりにも自然に隣を歩かせている。
「……確かに、筋が通りすぎるぜ」
自警団の古株であるハンスが、無精髭の顎をさすりながら、深く感じ入ったように呟いた。写本の手を止めたレオンも、木製椅子の陰からじっと2人を観察し、納得のログを出力した。
「客観的な視点から精査しても……ボスはセリア様に対してだけ、明らかに親密度のパラメータが異常値を示しているな」
「ええ、その通りです」
入れ替わりに、教団の執筆担当の一人であるフィーナが、猛烈な速度で羽ペンを閃かせながら、興奮のあまり職務的な鼻息を荒くした。
「ボスは、彼女が下界へポップした瞬間、何の処理遅延もなく即座にそのアイデンティティを認証されました。これは過去の実績ログを考慮しても、極めて異例の処理速度です」
自警団のジョルトも、深く頷いて後に続いた。
「ああ。それに、ボスは彼女を真っ先に自分の憩いの場へと同行させ、食事の休憩を公式に要請した。それだけじゃねえ、先ほどはオレたちの請願を却下してまで、彼女の処理能力を全面的に擁護されたんだぜ」
セリアは大慌てで両手を前に突き出し、限界を超えた却下コマンドを入力した。
「待ちなさい! あなたたちの受信プロセスは根本的な部分でバグを起こしています!」
広場全体の熱狂的な視線が、再び漆黒の法衣の女性へと一斉にコミットされる。セリアは額にじっとりと冷や汗が伝うのを感じながら、過不足のない客観的事実の補足説明を叫んだ。
「私たちはただの、以前の職場における実務上のパートナーです! それ以上の余計な属性は1ビットも付与されていません!」
村の書記官であるブルーノが、深い皺の刻まれた顎を摩りながら、仕様書を監査するように冷徹に問いかけた。
「実務上の、パートナー……ですか?」
「はい、そうです!」
「その稼働実績は、約40億年であると?」
「はい!」
「では、その永劫に等しいプロジェクト期間中、常に同じ執務室を共有していたのですね?」
「……はい。大半のタスクはそうでした」
「互いに対する信頼度のアプルーバルは、100パーセント稼働していると?」
「はい、業務上は当然です!」
「互いのボトルネックを補い、常に実務をサポートし合ってきた、と?」
「はい!」
「ボスは貴女様の処理能力を、自分を優に超越するハイエンドなものであると公式に評価されたのですね?」
「……はい」
「そして、職務のクローズ後には当然のように同行し、食事の時間を共有する間柄である、と?」
「はい!」
ブルーノは満足そうに短く頷くと、完璧な決裁を下すかのように平然と言い放った。
「すべてを理解いたしました」
セリアの脳内システムで、最悪のバグが竣工した事実を告げる赤いアラートがけたたましく鳴り響いた。
「いいえ! あなたたちの思考回路は、客観的なデータを何一つ処理できていません!」
ブルーノは、確固たる確信をその瞳に宿して、敬虔に頭を下げた。
「貴女様方の因果関係が、すでにこの世界のいかなる規約をも超越して完璧であるという、議論の余地のない事実データですよ」
「そういう意味で出力したテキストではないわ!」
レオンが、その不整合な熱狂の渦に拍車をかけるように、マコトに向かって業務質問を入力した。
「……あの、ボス」
「何ですか、レオン」
「ボスにとって、そのセリア様というお方は……客観的に見て、ご自身の生涯において、著しくプライリティの高い、極めて重要な存在なのですか?」
マコトは泥のついた枯れ枝を右手に握ったまま、1秒ほど視線を落として、彼の保有する実績ログを厳密に精査した。そして、何の虚飾もない100パーセント純度100パーセントの「客観的な事実」を出力した。
「はい。極めて重要な存在です」
セリアは、その場で呼吸器のシステムが一時的に停止した。マコトにとっては、ただの事実の報告だった。数億年もの長きにわたる過酷な公文書処理において、セリアという最強のアシスタントがどれほど自分の実務の負担をマイナスにしてくれていたか。もし彼女というリソースが存在しなければ、神界のインフラはとうの昔にメルトダウンを起こしていた。それは、彼のキャリアにおける絶対的な「実績の事実」なのだ。しかし――その何の悪意もないただの乾燥した正論こそが、広場を埋め尽くす信徒たちの神学フィルターを通過した瞬間、最悪のフェーズへと全自動で強制書き換えされてしまった。
リナは、もはや崇高な歓喜の涙をその瞳に溢れさせ、満面の微笑みを浮かべた。
「すべてを理解いたしました」
セリアは、弱々しくなった声で、絶望の表情のまま問い詰めた。
「……一体、何を不整合に納得されたのですか、リナ司祭」
「ボスは、自らのプライベートな感情を表現するスキルは未実装であられます。ですが――あの人は、客観的な事実しか出力されないお方です」
「ええ、その通りです、リナ様!」
フィーナが猛烈な速度で羊皮紙に文字を刻みながら、大興奮で叫んだ。
「ボスが『極めて重要である』と公式に承認された以上、そこには一分の虚偽も存在しない純然たる真実です!」
セリアは完全にパニックを起こしていた。
「待ちなさい! 私が言っているのは、あくまで『業務上の同僚』としての重要性であって――」
「『生涯を共にする至高の伴侶』ですね」
フィーナが呟きながら、教典の下書きの文字列を鋭くアップデートした。
「違います!」
セリアは、もはや叫び声を上げるしかなかった。
「ただの、肉体労働のパートナーです!」
ジョルトがフィーナの手元のメモを覗き込み、満足そうに頷いた。
「『生涯を共にする至高の伴侶』か。なるほど、神々の言語表現としては、極めて洗練された美しい仕様定義だな。文句なしだ」
「承認します」
ブルーノも深く、確固たる笑みを浮かべて首を縦に振った。
「いいえ! それは根本的な属性が180度違います!」
セリアは大慌てで彼らの手元から羊皮紙を回収しようと試みたが、教団の書記チームは、まるで訓練された兵士のような見事なロジスティクスで、素早くそのデータを背後へとロールバックさせてしまった。
リナは聖母のような穏やかな微笑みを浮かべ、優しく諭すように語りかけた。
「どうぞご安心ください、セリア様。何も恥じる必要はございませんよ」
「恥じてなどいません! 私は、管理者としての公式な『意義』を入力しているのです!」
「ええ、ええ。このような至高のプライベートに関する仕様は、通常、公式にアナウンスされないのが当たり前の規約ですから」
「そのような裏仕様は存在しません!」
マコトは泥のついた枯れ枝を握ったまま、静かに首を傾げた。
「セリア」
「……はい、ボス。何でしょうか、もう私には処理の限界です……」
「あなたたちの認識は、またしても根本的な部分で不整合を起こしています。私たちは、あなたたちが仕様定義している『夫婦』というカテゴリーには属していません」
セリアは、マコトのその冷徹な正論を聞いて、大慌てで首を激しく縦に振った。
「そうです! ボスの言う通りです! 私が今しがた出力した反論と、完全に一致しています!」
リナは恭しくその場で深く深く腰を折り、最敬礼の動作を捧げた。
「大変な非礼をいたしましたことを、深くお詫び申し上げます」
セリアは、どうにか胸の呼吸器システムを安定させ、深い、深い安堵の溜息を吐き出した。よかった。ようやく、最高責任者の一言によって、この不条理なバグの無限ループがクローズされた。
――しかし、リナの口から飛び出したその後に続く「追加の仕様解釈」は、セリアの理性を木っ端微塵に粉砕する、最大級の爆発だった。
「私たちは、あまりにも拙速な仕様変更を執行してしまいました。ボスのご指摘通りです。未だ公式な典礼を終えていない現段階において、セリア様をすでに『確定した令妃』として教典に記録してしまうのは、管理規約における致命的なエラーデータでした」
「……え?」
「ならば――」
リナは晴れやかな顔を上げ、この上ない敬意をその全身から漲らせて、完璧な神学の結論を出力した。
「……公式な竣工を迎えるまでの『暫定的な仕様』として、これより教典における貴女様のステータスを――『至高大農神の婚約者』として登録いたします!」
フィーナが直ちに、手元の羊皮紙のデータを鋭い手つきで修正し始めた。
「了解です!『令妃』の文字データをデリートし、即座に『婚約者』へと強制書き換えを執行します。これで仕様の整合性は完璧に確保されました!」
ジョルトが満足そうに深く頷いた。
「さすがはボスだ。どんな微小なディテールであっても、絶対に1ビットの妥協も許さねえんだな。感服したぜ」
ブルーノも、その不整合な結論に対して完璧に調和した注釈を付け加えた。
「『至高大農神の婚約者たるその御方は、あまりにも謙虚であられるため、公式の竣工を迎えるその日まで、決して自らのステータスを認めようとはされない。そのお姿こそが、教団が遵守すべき真の原点である』……と。完璧な注釈だ」
セリアは、泥道の上に文字通り完全に凍結していた。彼女には、もはや住民たちの暴走を止めるための反論コマンドを入力する気力など、1ビットも残されてはいなかった。
隣では、マコトが泥のついた枯れ枝をのんびりと見つめながら、今回の処理結果に対して、未だかつてないほど不審そうに眉根をひそめていた。
「不条理ですね……」
彼は感情の起伏を排した声で、ぽつりと漏らした。
「私は先ほど、明確に『違う』と却下のコマンドを出力したはずなのですが」
セリアはゆっくりと顔を上げ、虚ろな、魂の抜けたような目で夕闇の空を見つめ返した。
「……はい、ボス。あの人たちの受信システムは……ボスの『違う』という拒絶のテキストを、全自動で『まだ』という神託にアップデートしてしまうのですから……。ここでは、それが日常の標準規格なのです、ボス……」
神の無自覚な正論と、人間の実直すぎる狂信、物理的な事実に即した完璧な反論が調和した瞬間――下界へ救出に赴いたはずの最高位管理官が、自身の放った真っ当な異議そのものを最悪の燃料にして、教団の絶対的な「至高大農神の婚約者」へと全自動で強制アップデートさせられてしまうという、不条理の極み。セリアは迫り来る世界の理そのものの強制書き換えへの果てしない大いなる困惑に、ただただ声もなく、夕暮れの広場で立ち尽くすことしかできなかった。




