第92話 絶対不信( ダレモシンジナイ )
これを受けて――セリアは、根本的な処理アプローチを変更することを決意した。
自らの放った直接的な反論コマンドが、現地住民たちの狂信的なフィルターを通ることで、より一層巨大な不整合データへと全自動で変換されてしまうというのなら。
もう、言葉の定義を言い争う段階は終了だ。これからは、客観的な事実のみを淡々と提示するべきである。物理的な事実に即した実績データであれば、どれほど歪んだ脳内システムであっても、これ以上の誤解や曲解を生み出す余地など1ビットも存在しないはずだ。
彼女はそう冷徹に演算し、覚悟を決めて1歩前へと踏み出した。未だに『万年豊作教会』の正面広場に密集し、至高の訓示を今か今かと待ち侘びている住民たちの群衆と、まっ正面から対峙する。
「ならば……」
セリアは声を整え、極めて明瞭な、過不足のないトーンでゆっくりと言葉を出力した。
「……私の仕様について、100パーセント正確な事実データをここに開示します。正確に受信してください」
広場を満たしていた熱狂的な喧騒が、直ちに水を打ったような静寂へと移行した。教典の編纂を担う書記チームの面々は、待機させていた羽ペンを一斉に構え、漆黒の法衣の女性から出力される新たな言葉を1文字も漏らさず羊皮紙に記録する体制を完璧に整えた。
セリアは深く、長い息を吸い込み、限界まで厳密に仕分けしたテキストを語りかけた。
「私の名前は、セリア。職種は一般の事務職員、すなわち、公文書の仕分けを行うただの行政官です。あなたたちの言う司祭でもなければ、高潔な聖職者でもありません。私はただ、ボスの日常の職務を実務的にサポートしている、ただの労働者です」
彼女はわざと、移動速度を落とすようにゆっくりと発声した。一音一音を明瞭に。余計な修辞や比喩を1文字も挟まず、現地住民たちの歪んだ解釈システムが、勝手にバグデータを変造する隙を完全に遮断したのだ。
しかし――その完璧なインプットに対する彼らの脳内プロセスの挙動は、またしても彼女の予測仕様を宇宙の彼方まで置き去りにしていった。
「……行政官、ですか?」
群衆の最前線にいた1人の農夫が、その難解な専門用語の響きを不審そうになぞった。
「なるほど、そういう仕様だったのか」
「おい、どういう意味なんだ?」
隣の自警団員が、声を潜めてひそひそと情報の共有を求める。
「きっと、こういうことだぜ……『天空の総務部』だ」
「あ……なるほど、そりゃ筋が通るな」
「オレたち人間には計り知れない、神々の住まう最上階の書類を、代々仕分けして管理されてる職務に決まってるだろ」
セリアの理性が、その全自動で生成されたバグデータを検知して激しく首を横に振った。
「違います! 私は今、比喩や大げさな物語の話をしていません。文字通り、一般事務におけるただの書類整理について言及しているのです!」
「書類整理、ですか?」
「はい! 上がってきた報告書を精査し、各種データの不備をチェックし、保管箱へと仕分ける。それが、私の保有するすべての労働実績です!」
数人の農夫たちは互いに顔を見合わせ、それから――何とも深く、崇高な真理に触れたかのように、一斉に深く深く感じ入った。
「素晴らしい……。なんて徹底されたお姿だ……!」
「……一体、何が素晴らしいのですか!?」
セリアは、弱々しくなった声で問い詰めた。
「ボスもいつもそうですが、名門の偉大なお方ほど、いつもオレたちに分かりやすいよう、最も素朴で乾燥した定型文を選択してくださる」
「違います!」
セリアは真っ向から反論した。
「本当に、文字通りのただの日常業務なのです!」
「ええ、よく分かっております」
「本当ですか!?」
「はい。神々の住まう領域であっても、当然、世界の運行に関する膨大な報告書が存在するのでしょう。臨機応変に、その膨大な世界のインフラを裏側で寸分の狂いもなく完全に管理している存在が、目の前にいらっしゃる」
「もしセリア様がその最上階で稼働されているのであれば、それは即ち、貴女様がすべての神々の上に立ち、世界の運命を決裁されているという、議論の余地のない実績の証明ですよ」
セリアは小さな口を半開きにしたまま、言葉のログを完全に失った。そのアンサーデータは、客観的に見て何一つ間違っていなかった。なぜなら、彼女の本来の職務仕様は、まさにその通り「多重次元の変動データを精査し、公文書として決裁する」ことそのものだからだ。
しかし――問題のボトルネックは、そこではなかった。彼女が必死に説明しようとしていたのは、自分の仕事がこのような現地住民たちの熱狂的な傾倒とは何ら因果関係を持たない、ただの事務的な労働であるという、冷徹な区別だったのだ。だが不条理なことに、彼女が事実を提示すればするほど、現地住民たちの畏怖と熱狂のステータスは、天井知らずに跳ね上がっていく。
リナは真新しい白の法衣の胸元に教典を抱きしめ直すと、もはや言葉を失った深い敬意をその瞳に漲らせて、セリアを見つめた。
「セリア司祭様。オレたちは、本当に貴女様の偉大さを1ミリも理解できていませんでした」
「……なぜ、そのようなエラー報告になるのですか?」
「オレたちはてっきり、貴女様がボスの大いなる智慧を学ぶために付き従っている、ただの一番弟子なのだと誤認していたのです。ですが、現実は違いました」
「はい、根本的な部分で属性が異なります!」
「ええ。貴女様は、ボスの傍らで40億年もの間、世界の運命そのものを完全に管理してこられた、真の共同統治者であられたのですね……!」
セリアは自らの両手で額を強く押さえた。限界を超えた混迷のノイズが、脳内システムを激しく揺さぶる。
「ボス……っ」
彼女は掠れた声を絞り出し、隣の最高責任者を振り返った。
「何ですか、セリア。バイタルの熱量が著しく上限値へ接近していますよ」
「お願いですから……管理者としての公式なアナウンスを、彼らの受信システムへと出力してください……!」
マコトは泥のついた枯れ枝を持ったまま、少し不思議そうにほんの少しだけ首を傾げたが、やがて、部下の実直な請願を受理し、静かに頷いた。
「分かりました。仕様の不整合を修正します」
彼は1歩前に踏み出し、広場の全住民を見据えた。あなたたちの脳内プロセスの挙動は、根本的な部分で事実データと致命的なエラーを起こしています。
広場を満たしていた熱狂的な視線のベクトルが、一瞬にして至高のボスの御前へと収束し、空間が音を立てて凍りついた。マコトはいつも通り、感情の起伏を一切排した声で冷徹に通達した。
「セリアは、私が以前の職場で共に職務を執行していた有能なアシスタントですが、あなたたちが仕様定義している司祭職ではありません」
セリアの胸に、ようやく一縷の救いの光が灯った。さすがはボスだ。彼が公式に却下した以上、このバグはここで収束するはずだ。
――しかし、マコトはその後に続く、彼にとっては100パーセント客観的な事実データの補足説明を平然と付け加えた。
「彼女はただの行政官です。もしこの世界に新たな次元が創造された場合、その初期データをミリ単位で精査するのは彼女のタスクです。もし夜空に新たな天体が配置された場合、その変動ログを公文書館へ記録するのも彼女の実務です。もし世界に新たな生命の律動が誕生した場合、そのすべての収支報告書は、彼女のデスクを経由して決裁クローズされます」
セリアは、静かに自らの両目を閉じた。
「……ボス。処理の限界です」
あの人が出力したテキストデータは、1ミリの嘘偽りもない、純度100パーセントの客観的事実だった。
しかし不条理なことに――このルナの村の住民たちの中に、目の前でのんびりと泥のついた枯れ枝を持っているあの青年が、本当に世界そのものをゼロから設計・竣工した『至高の創造神』であるという、桁違いの物理的な事実を知っている者など、最初からただの1人も存在しなかった。その結果、マコトの放ったあまりにもスケールの大きすぎる実績の事実は、住民たちの思考回路を通過した瞬間、すべてが完璧な『深遠なる神話の比喩』へと全自動で変換されてしまったのだ。
写本の手を止めたレオンが、深く感じ入ったようにゆっくりと首を縦に振った。
「……筋が通りすぎるぜ。完璧なロジックだ」
「ええ、その通りです、レオン」
リナはどこまでも穏やかな微笑を浮か、深く深く頷き返した。
「ボスがこの地を導く至高の大農神であられるならば、当然、神々の住まう領域にも、膨大な書類を仕分けるためのインフラシステムが存在する。そして――セリア司祭様は、その最上階のデスクで、すべての世界の収穫と運命を決裁されているという、完璧な仕様の証明です」
セリアは大慌てで首を横に振り、相手の前提を根底から突き崩すために、最後の真実を叫んだ。
「違います! 仕様が根本的に間違っています! ボスはあなたたちの言う大農神なんかではありません! あの人は――この世界そのものをゼロから設計・竣工した『至高の創造神』そのものなのです!」
万年豊作教会の正面広場が、突如として、音を立てて静まり返った。何十人もの村人たちが、パチパチと呆気にとられたように瞬きを繰り返す。
すると、群衆の最前線にいた小さな子供が、1人、無邪気に小さな右手を挙げた。
「あの、セリア司祭様」
「……はい。何でしょうか」
「ボスもいつも、畑の朝礼でそうやってオレたちに冗談を言うんだよ」
「え……?」
「『オレはただの平民の会計士だ』とか、『世界を直しただけだ』とか。だけどさ、ボスはどこまでも謙虚なお方だから、自分の偉大さを絶対に認めない仕様なんだって、リナ司祭様が教えてくれたもん! だから、何も問題はないよ!」
セリアは、その子供の無垢な瞳を、幽霊でも見るかのような目で見つめた。それから、ゆっくりと首を巡らせ、隣のリナへと視線を向けた。
リナはどこまでも温かい、慈悲深い笑みをその顔に浮かべて、優しく頷起き返した。
「どうぞご安心ください、セリア司祭様。オレたちの受信システムに不整合はありませんから。ボスのその徹底された至高の謙虚さを、オレたちは誰よりも深く拝領しています」
「……あ、ああ……」
セリアの唇から、力なく掠れた、乾いた失笑が漏れ出た。リナはさらに、どこまでも晴れ晴れとした声調で、完璧な神学の結論を付け加えた。
「オレたちには、ちゃんと分かっています。ボスは自らを創造神などという大仰なカテゴリーで誇示するようなお方ではありません。あの人は、ただ淡々とこの地に奇跡の豊作をもたらしてくださる、唯一無二の至高大農神。専門家として、その大いなる御意志のすべてを最上階のデスクから管理し、オレたち信徒を正しい実務へと導いてくださる、教団の最高位司祭様です!」
セリアは、広場を埋め尽くす住民たちの顔を、ただただ言葉を失ったまま見渡した。そこには、1ビットの猜疑心も存在しなかった。誰一人として不審に思わず、誰一人として疑う者はいない。後ろの列に並んでいる小さな子供たちにいたるまで、全員が「これが完璧な日常仕様だ」と信じて疑わない、確固たる、満ち足りた表情を浮かべて深く深く頷いていたのだ。
下界へと降臨し、数百年ぶりの再会を果たして以降――セリアは、この瞬間に至って初めて、このルナの村に構築された最大級のデッドロックの正体を完全に理解させられていた。
問題のボトルネックは、彼らが未だに客観的な真実を受信していないことでは、断じてなかった。彼らはすでに、真実を聞いていたのだ。それも、一度や二度ではない。あの人が、そして自分自身が、100パーセントの実直な真実を、幾度となく、文字通りのテキストデータとして、彼らの耳へと直接出力し続けていたのだ。
彼らは、ただ――。
――その真実のデータを、最初から1ビットも『信じていない』だけなのだ。
神の無自覚な正論と、人間の実直すぎる狂信、そして完璧に仕分けされた物理的な真実が噛み合った瞬間――下界へ救出に赴いたはずの最高位管理官が、自身の放った100パーセントの真実そのものを最悪の燃料にして、教団の絶対的な最高位司祭へと完全に強制アップデートさせられてしまうという、不条理の極み。セリアは迫り来る世界の理そのものの強制書き換えへの果てしない大いなる困惑に、ただただ声もなく、夕暮れの広場で立ち尽くすことしかできなかった。




