第89話 新たなる不整合
広場を埋め尽くした群衆の誰一人として、言葉を発する者は決していなかった。
夏の終わりの夕暮れの風が、万年豊作教会の正面広場をサラサラと音を立てて通り抜けていく。切り出されたばかりの真新しい白石の床の上を、数枚の枯れ葉が気まぐれに転がり、マコトの姿を穴があくほど凝視したまま硬直している住民たちの足元を通り過ぎていった。
「……よ、40……」
教典の執筆を担う書記チームの一人が、まるで劇薬の成分を復唱するかのように、か細い声でその数値をなぞった。
「……億、年……ですか?」
マコトは泥のついた枯れ枝を持ったまま、いつも通り、抑揚のない事務的なトーンで短く頷いた。
「はい。私と彼女が同じ執務室で職務を共有してきた、大まかな累積稼働時間(勤続年数)のデータです」
このルナの村において、ボスが虚偽の報告(嘘)を口にしていると疑う者など、最初から1人も存在しなかった。
そして不条理なことに、まさにその「ボスは絶対に嘘をつかない」という強固な前提条件こそが、この空間のシステムを決定的にバグらせる要因となっていたのだ。
住民たちはこの数ヶ月間の共同生活を通じて、すでに骨の髄まで理解していた。ボスは決して他愛のない冗談を口にしない。あの人が何らかの数値を出力したならば、その裏側には必ず、自分たちが読み解くべき深遠な仕様(意図)が隠されているはずだ、と。
しかし――40億年。
その物理的な質量は、下界の素朴な農民たちの拙い処理容量を遥かに超越して巨大すぎた。
沈黙の耐えかねて、写本の手を止めたレオンが、無精髭の生えた顎をさすりながら恐る恐る口を開いた。
「……あの、ボス」
「何ですか、レオン」
「それって……何かの比喩とか、文学的な表現ってやつですか?」
「いいえ、違います。純然たる実績データです」
「じゃあ……一体、何が40億なんですか?」
「年です」
マコトは当然の収支報告を行うように、極めて平然と告げた。
「私が以前の職場(神界)において適用していた、不変の時間軸の計算規格に基づいた数値です」
周囲に、再び絶望的な静寂が訪れた。
その「計算規格」という難解な専門用語のインプットは、住民たちの混乱を何一つデバッグ(解決)しなかった。むしろ、事態をより一層、理解不能な領域へと押し上げていく。
一人の若い農夫が、隣に立つ自警団の仲間に向かって、声を潜めてひそひそとログを共有し始めた。
「……おい、きっとこういう意味だぜ。ボスの『家系』の話をしてるんだ」
「あ……なるほど、そりゃ筋が通るな」
「ボスのご先祖様たちが、代々40億年も前からこの農業の実務を続けてきたってことだろ」
「間違いない。つまりボスは、その気の遠くなるような歴史を持つ名門の職務(血筋)を、直系として完璧に継承されてるってわけだ」
セリアの理性が、その勝手なデータ変造を検知して激しく弾けた。
「違います!」
彼女は鋭い声を上げ、一歩前に踏み出した。広場のすべての視線のベクトルが、大慌てで漆黒の法衣の女性へと転換される。
セリアは自らの処理能力が一時的なパニックを起こし、通常業務の仕様を逸脱した速度で反応してしまった事実に気づいたが、もうロールバック(取り消し)は不可能だった。彼女は額の熱を堪えながら、どうにか声を整えてログを修正しようと試みた。
「……私の言葉を、仕様通りに受信してください。ボスは今、ご先祖様の話などしていません。文字通り、ご自身の『単体の稼働実績』について言及されているのです」
村人たちは互いに顔を見合わせ、それから――何とも深く、感じ入ったように一斉に首を縦に振った。
「なるほどな……!」
「さすがはボスだ。どこまでも徹底してあられるぜ」
「自分の血筋や家族の手柄を、一切ひけらかそうとしないんだな」
「ああ。ご先祖様たちが積み上げてきた膨大な手柄を、すべて『自分一人の職務』として内包し、その責任を一人で背負う覚悟を示してらっしゃるんだ」
「なんて崇高な管理哲学だ。オレ、ますますボスのファンになっちまったよ」
セリアは、両手をだらりと下げたまま、その場で完全に硬直した。
「……え?」
彼女は良かれと思って、完璧な事実の解説を入力したはずだった。
しかし――不条理なことに、彼女のその実直な説明そのものが、現地住民たちの歪んだ解釈システムによって、より一層深い『ボスの神聖なる精神』という新たな家訓へと全自動で強制アップデート(誤解)されてしまったのだ。
マコトは泥のついた枯れ枝を持ったまま、少し不思議そうに眉根をひそめた。
「あなたたちの認識は、根本的な部分で不整合を起こしています」
彼はいつも通り、感情の波を一切排した声で冷徹に否定した。
「先祖の代からの累積データではありません。私個人の、純然たる勤続年数です」
広場はみたび、静まり返った。
すると、リナが真新しい白の法衣の胸元に教典を強く抱きしめ直しながら、どこまでも穏やかで、慈悲深い笑みをその顔に浮かべた。
「ボス」
「何ですか、リナ」
「もし、他の凡百の不審な部外者がそんな言葉を口にしたなら、私たちは単なる大言壮語のバグ(妄言)として切り捨てていたでしょう。ですが――ボスがそれを語る時、そこには一分の虚飾もないことを、私たちは誰よりも理解しています」
マコトは、自分の誠実さが正当に評価されたと判断し、小さく頷いた。
「ええ、その通りです。私は事実しか出力していません」
「はい、よく分かっております」
リナは聖母のような微笑みを浮かべ、深く頷き返した。
「ボスは常に、時間の長さや年齢の多寡などという表面的なパラメータには、何の意味もないと教えてくださっているのですね。これぞ真のボスの教えです」
マコトは静かに首を振った。
「いいえ、違います。私は単に、自分の物理的な年齢を正確に報告しただけです」
「ええ、ええ。その徹底した『謙虚さ(拒絶)』こそが、オレたちの生涯を導く光です!」
セリアは、静かに自らの両目を閉じた。
まただ。また、この不条理なバグの無限ループが稼働している。
ボスが100パーセントの実直な真実を口にするたびに、リナはそのすべての事実を『崇高な道徳レッスン(教義)』へと全自動で変換(誤解)していく。そして最悪なことに、広場のすべての住民たちが、その不整合な結論に対して完璧に納得し、熱狂のステータスを爆発させているのだ。
「素晴らしい……!」
「ボスは、オレたちに分かりやすく伝えるために、あえて40億年という巨大な物語の器( perlambang )を用意してくださったんだな!」
「よし、今の御言葉を完璧に記録するんだ!」
教団の書記たちが、興奮のあまり鼻息を荒くしながら、猛烈な速度で羽ペンを闪かせ始めた。
「書記長、記述の仕様はどうしますか!?」
「決まっているだろう!『40億年の智慧の継承』だ! ボスの謙虚な否定のログも、寸分の狂いもなく注釈として書き加えるんだぞ!」
「了解です!」
マコトは泥のついた枯れ枝を握ったまま、沈黙した。
彼は、自らが出力した「個人の勤続年数」という乾燥した事実データに対して、なぜ目の前の住民たちが「智慧の継承という物語」という、全く不整合なアウトプットを導き出したのか――その論理的なバグを特定しようと、真摯に思考を巡らせていた。
しかし、数秒の長考の後、彼は自らの処理能力ではこの不整合をデバッグしきれないと判断し、おもむろに首を巡らせて背後のセリアへと視線を向けた。
「セリア」
「……はい、ボス。何でしょうか」
「私は……客観的な事実を出力しているはずなのですが。彼らの受信システムは、私のコマンドを正確に処理していないような気がします」
セリアは限界を迎えた脳の熱を吐き出すように、ひどく引きつった、硬い苦笑を浮かべた。
「……ようやく、ボスもそのエラー(現実)に気づいてくださいましたか」
彼女は声を潜め、掠れたトーンでバグの全貌を報告した。
「仕様が根本的に異なるのです、ボス。彼らはボスの言葉のデータ(中身)を受信しているわけではありません。彼らは……最初から『自分たちが受信したい神託』だけを、全自動でフィルタリングして処理しているのですから」
マコトは再び、広場を埋め尽くす住民たちの方へと視線を戻した。
彼らは未だに、ボスの新たなる教義の解釈について、熱狂的なディスカッション(議論)を交わしている。ある者は羊皮紙に文字を刻み、またある者は互いの神学解釈をぶつけ合っていた。
住民たちの瞳の構成要素に、ボスの発言を猜疑するようなノイズは1ビットも存在しない。なぜなら、彼らの脳内において、回答はすでに「完璧な真実」として決定しており、現在はその真実が持つ『深遠な意味の解析』という次のタスクフェーズへ移行しているだけだからだ。
マコトは、満足そうに小さく頷いた。
「なるほど。状況(バグの原因)を完全に把握しました」
彼は、セリアからのエラー報告を完璧に理解したかのような態度を示した。
「ならば――管理職としての責任に基づき、より明瞭かつ誤解の余地のない、確定的なデータ(補足説明)を出力すべきですね」
セリアの琥珀色の瞳が、驚愕のあまり限界まで見開かれた。
「え……? ちょっと、ボス、お待ちくだ――」
彼女の制止コマンド(拒絶)が空間に入力されるよりも早く、マコトはすでに広場の全住民を見据え、その凛とした、波一つ立たない声で、絶対的な事実の追加通達を執行していた。
「補足します。そもそも、この世界における太陽のインフラシステム(天体配置)を設計・峻工したのは私自身ですから。その開発実績から逆算すれば、40億年という稼働時間は、私のキャリアにおいて決して長期に属するものではありません」
万年豊作教会の正面広場が、文字通り――音を立てて、完全に凍結(完全なる沈黙)した。
セリアはゆっくりと、自らの額を両手で覆い隠し、泥道へと向かってその頭を深く深く垂れ下げた。彼女は、もはや周囲の住民たちの顔が、一体どのような次元の狂信へとアップデートされてしまったのか、そのグラフィックを確認する勇気すら完全に喪失していた。
最高位行政官としての卓越したリスク管理能力が、彼女の脳内で、これまでで最大級の赤い警告アラートを狂ったように点滅させていた。
確信した。
今、この瞬間を以て――このルナの村に竣工した狂信的な教団のシステムは、単なる地方の農業 faksi の枠組みを完全に突破し、世界の理そのものを根底から強制書き換え(アップデート)してしまうような、取り返しのつかない超巨大な大火災へと肥大化してしまったのだ、と。
セリアは迫り来る不条理な未来への底知れない恐怖に、ただただ夕暮れの広場で、声もなく震え続けることしかできなかった。




