第88話 信徒たちとの謁見
翌朝、ルナの村はいつもと変わらぬ原始的な日常の律動を始めていた。
夏の終わりのひんやりとした朝霧が畑の全域をぼんやりと覆い隠し、民家の庭先からは朝の到来を告げる野鳥たちの泥臭い鳴き声がせわしなく交わされている。今日の職務にあたる数人の農夫たちは、すでに使い古された鍬を肩に担ぎ、朝露に濡れた泥道をトボトボと歩き始めていた。
マコトにとって、その朝の始まりは過去数ヶ月間の運用実績と何ら変わりのない、ただのルーティンに過ぎなかった。彼が畑の境界線に立ち、引き直された給水路の流量と浸透率のデータを真摯に精査していたその時、自警団の古株であるハンスが、少し緊張した面持ちで歩み寄ってきた。
「ボス」
「何ですか、ハンス。実務の進捗に不整合でも発生しましたか」
「いや、そうじゃねえんだが……リナ司祭がボスを探してるぜ」
マコトは水流から視線を外し、感情の起伏を排した声で短く応じた。
「どのような要件ですか」
「オレに訊かれても分からねえよ。ただ、何でも遠方からの客人が来ているらしくてな」
マコトは当然の報告書を受理するように、小さく頷いた。
「分かりました。すぐに向かいます」
彼は手の平に付着した泥を軽く叩いて落とすと、集落の中央区画へと向かって淡々と歩き始めた。
セリアはその数歩後ろを、重い足取りで付いていくしかなかった。
昨日から彼女の脳内システムを占拠している無数の不整合データ――あの巨大な純白の大理石像や、万年豊作教会という名の不条理の結晶――に対する解決策は、一晩中どれほど長考を巡らせても、ただの1つとして導き出されてはいなかった。
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そして、最高位行政官としての卓越したリスク管理能力が、彼女の胸の奥で不穏な警鐘を鳴らし続けていた。今日の太陽が天頂に達するよりも前に、この村の住民たちの暴走は、さらに取り返しのつかないフェーズへと移行するであろう、と。
辿り着いた『万年豊作教会』の正面広場は、昨日の夕暮れ時を遥かに領駕するほどの異様な過密状態を呈していた。
すでに何十人もの村人たちが密集し、広場全体が熱狂的な活気に包まれている。ある者は例の不吉な教典を大切そうに胸へと抱きしめ、またある者はその日に収穫したばかりの瑞々しい大麦や野菜の詰まった籠を慎重に背負っていた。
しかし――マコトの漆黒の法衣がその場に出現した瞬間、押し寄せていた群衆が、まるでモーセの奇跡のように全自動で左右へと割れ、完璧な一本の動線を切り開いたのだ。
「ボス、おはようございます!」
「ボス、今日の畑のコンディションは最高です!」
「今年の豊作は間違いなしだな, ボス!」
マコトは歩調を一切緩めることなく、左右の住民たちに対して事務的な会釈を返した。
「おはようございます。引き続き良好な実務を維持してください」
それはいつも通り、上司が部下に向けて放つような、何の中毒性もない定型文だった。過不足のない、ただの業務連絡。
それなのに、その一言を受信した村人たちの顔は、まるで至高の訓示を授かった精鋭のようにパッと晴れやかに輝き、最敬礼の角度で深く深く腰を折るのだった。セリアはその熱狂の変換効率の異常さに、眩暈を堪えて額を押さえるしかなかった。
教会の重厚な正面扉から、真新しい白の法衣を身に纏った若い女性――リナが、1冊の極めて分厚い書籍を両腕で抱えて厳かに出てきた。彼女はマコトの姿を視界に捉えた瞬間、その瞳に崇高な歓喜の光を宿して居住まいを正した。
「ボス、お待ちしておりました」
「何ですか、リナ。修復業務やカリキュラムの進捗にエラーでも?」
「いいえ、本日はボスの大いなる御意志について、教団としての最終決裁を仰ぎたく、こうして参集いたしました」
「決裁、ですか?」
「はい」
リナは恭しくその分厚い書籍を開いた。いくつかのページには、一縷の綻びもない小さな紐がインデックスとして丁寧に挟み込まれている。
「昨晩の定例集会の直前、畑の管理を行っている子供たちが、私の元へ素晴らしい報告を持ち帰ってきたのです」
マコトは数秒だけ視線を落とし、過去の対話データを検索した。
「ああ。あの、物理法則を無視した黄金色のジャガイモのことですね」
リナは深く、敬虔に頷いた。
「はい。子供たちの説明によれば、ボスは最高の品質を持つ成果物を、安易に消費してクローズさせてはならない。それを再び聖なる土壌というサーバーへ再投資し、次世代の増殖プロセスへと回しなさいという、極めて深遠な新たなる指針を授けてくださった、と」
マコトは、当然の規約を説明するように短く頷いた。
「ええ、その通りです。それが最も栽培効率において合理的だからです。再投資を行わなければ、全体のクリティカルな生産量は目減りしてしまいます」
リナは、大いなる慈悲の真理を授かったかのように、満面の笑みを浮かべて深く感じ入った。
「ああ……やはり、私たちの解釈に不整合はありませんでした。ボスは常に、形式的な儀礼よりも、この地を生きる労働者たちの生存維持を最優先される。これぞ真の至高大農神の叡智です」
マコトは、彼女が口にした「叡智」という不穏な単語の因果関係について、その脳内の論理回路をフル稼働させて分析を試みた。しかし、どれほど逆算を繰り返しても両者の数式は完全に破綻しており、結ばれることはなかった。
「私は、単に栽培の最適解を……」
「ええ、分かっております、ボス! その大いなる御意志に従い、私たちは直ちに規約の変更を執行いたします」
リナは確確たる声調で告げると、手元の分厚い書籍のページをさらに捲った。
「教団の開発チームと協議した結果、従来の奉納の章に重大な不備があると判断しました。ボスの最新の指針に基づき、このテキストを公式に強制アップデートいたします」
マコトは、少し眉根を不審そうにひそめた。
「なぜ、マニュアルの改訂を行う必要があるのですか?」
「ボスの最新の教えの方が、より実用的で、完璧に正しいからです!」
「ですから、あれは教えではありません」
マコトは感情の起伏を取り払った冷徹な声で、静かに首を振った。
「単に、最も品質の優れた個体を種芋として残すという、品種改良の基本原則をテキストとして説明しただけです。独自の属性は何一つ付与されていません」
リナは、ボスのその木で鼻をくくったような徹底的な拒絶を見て、さらに一層深く深く、その瞳を熱狂に潤ませて破顔した。
「……やはり、どこまでも謙虚であられる。自らの権威を一切誇示せず、ただ世界の理として淡々と語る。そのお姿こそが、オレたちの生涯を捧げるに値するボスの教えの真髄です!」
「……」
マコトは、完全に沈黙した。「品種改良の基本原則」という乾燥したインプットに対して、なぜ目の前のリナが「生涯を捧げるに値する教え」という、全く不整合なアウトプットを導き出したのか、彼の論理回路では未だにそのバグを特定できなかった。
「私はただ、植えた方が増えると……」
「はい! その御言葉通りに記録いたします!」
リナが力強く応じると、彼女の背後に控えていた教団の執筆担当の数人が、一斉に鋭い手つきで羽ペンを閃かせた。彼らはすでに、白紙の羊皮紙のページを開いて待機していた。
「追加のチャプターですね!」
一人の書記が、大興奮の面持ちで羽ペンを走らせる。
「タイトルは――『黄金のジャガイモの啓示』。完璧なネーミングです!」
「よし、ボスの謙虚な拒絶のログも、寸分の狂いもなく注釈として書き加えるんだぞ!」
「了解です!」
セリアは、その光景をただただ空っぽになった脳のメモリーを見つめるような目つきで、完全に言葉を失ったまま注視していた。彼らは……本当に、書いてしまっている。単なる村の噂話として消費するのではない。他愛のない世間話として忘却するのではない。厳然たる教団のシステム仕様として、ボスの何気ない一言を、全自動で教理へと組み込んでしまっているのだ。
「――あの、失礼いたします」
ついにその不条理なデッドロックに耐えかねて、セリアは1歩、前へと踏み出した。広場を満たしていた熱狂的な視線のベクトルが、一斉に、突如として現れた漆黒 of 法衣の女性へと転換される。
リナはそこで初めて、ボスのすぐ後ろに控えていた見慣れぬ最高位の神聖な佇まいに気づいたようだった。彼女は大慌てで手元の書籍を胸に抱きしめ直すと、最敬礼の角度で深く腰を折った。
「あ……これは大変な失礼いたしました。公式な歓迎のご挨拶が遅れましたことを、深くお詫び申し上げます。ルナの村へようこそおいでくださいました、遠方のお客人。私はこの万年豊作教会で司祭職をお預かりしております、リナと申します」
セリアは、神界の最高位行政官としての卓越したプライドをどうにか稼働させ、極めて優雅に、しかし事務的なトーンで一礼を返した。
「お気遣いに感謝いたします。私は神界管理行政区、第一執務室に所属する管理官……セリアと申します。ただのセリアとお呼びください」
「セリア管理官様、ですね。了解いたしました」
リナは居住まいを正し、少しだけ緊張した面持ちで、しかし極めて真摯にマコトの方へと視線を巡らせた。
「ボス。お尋ねいたしますが……こちらのセリア様も、ボスの以前の職場における実務担当者なのですか?」
マコトは感情の波一つ立たない瞳で、短く頷いた。
「はい。私たちは非常に長きにわたり、同じ執務室で職務を共有してきた間柄です」
広場に集まっていた数人の村人たちの瞳が、その一言を聞いた瞬間、一斉に爆発的な驚愕の色を帯びて大きく見開かれた。
「……長きにわたり、だと?」
「一体、どれほどの期間、ボスと共に働いていたんだ……?」
周囲から漏れ出たその不審な請願に対し、マコトは何の処理遅延もなく、彼の手持ちの正確な運用実績データに基いて、いつもの抑揚のない声で即答した。
「概算ですが――約40億年です」
万年豊作教会の正面広場が、文字通り、完全に凍りついた。吹いた風の音すら、1ビットの遅延も許されぬ絶望的な静寂へと瞬時にクローズされる。
セリアは、静かに、自らの両手で顔を完全に覆い隠した。
(……終わったわ。システムが完全にメルトダウンしたわ)
ボスは、またしても。1ミリの嘘偽りなく、100パーセントの客観的な真実を出力したのだ。あの神界の不変の時間軸に基いた、完璧に正しい勤続年数のデータを。
しかし――目の前で泥人形のように硬直している現地住民たちの、完全に容量を超えて処理落ちを起こしている表情を見るだけで、セリアには容易に逆算することができた。
この下界の狂信的な教団員たちの脳内システムにおいて、この「40億年」という物理的な不条理データが、一体どのような神話的エピソードへと全自動で強制アップデートされてしまうのかを。
衣服の規格も、門の家訓も、純白の巨像も、すべてを超越した、本当の意味での「絶対的な先導者」の降臨。その悍ましい崇拝の第2段階が、ボスのたった一言の実直な正論によって、今まさに最悪の形で幕を開けようとしていた。セリアは迫り来る不条理の嵐に、ただただ額の熱を堪えながら、声もなく震え続けることしかできなかった。




