第87話 「私にも分かりません」
セリアは、もはやその場で直接的な反論コマンドを入力することを完全に諦めていた。
ボスの隣に並んで泥道を進むこの短い時間の中で、彼女は1つの残酷な真実を完全に理解させられていた。この目の前で起きている異常事態の全貌を、そのままボスに説明したところで、問題は何一つ解決しないのだ。
なぜなら、あの人の脳内システムにおいて、これはそもそも「問題」としてカウントされていないからだ。あの人は常に、提示されたインプットに対して100パーセント客観的な事実を出力しているに過ぎない。
shadowのように何の悪意もないただの乾燥した正論こそが、現地住民たちの歪んだ神学的な思考システムによって全く別の『神聖なる教義』へと全自動で変換されてしまうのだ。
2人は歩みを止めず、さらに集落の奥へと進んでいく。
夏の終わりの夕暮れは瞬く間にその色彩を濃くし、黄金色から深い紫色のグラデーションへと空の仕様を変更しつつあった。遠くの路地からは、未だに他愛のない遊びに熱中している子供たちの無邪気な歓声のログが聞こえてくる。今日の職務を完璧に完了させた数人の農夫たちが、使い古された農具を丁寧に清掃し、またある者は民家の軒先に腰掛けて呑気な世間話を交わしていた。
マコトの漆黒の法衣がその脇を通過する際、住民たちはいつも通り、ごく自然な動作で親しげに手を挙げた。
「ボス、お疲れさん!」
マコトは歩調を一切変えることなく、ただ短く頷いた。
「お疲れ様です。良好な作業実績でしたね」
その感情の起伏を取り払った事務的な一言を授かった瞬間、農夫の顔が、まるで本物の至高の御光を浴びたかのように、パッと劇的に輝いた。
「ありがとうございます、ボス!」
セリアはその光景のすべてを、網膜の解像度を限界まで上げて、瞬きすら忘れてスキャンし続けていた。
ボスは決して、下界の凡百の宗教家のように大仰な甘言を弄しているわけではない。次回の栽培サイクルにおける爆発的な大収穫を約束したわけでもない。信徒の魂の救済や、病を癒やす奇跡の祝福を提示したわけでもない。
あの人はただ、上司が部下に向けて放つような最低限の労いの定型文――「良好な作業実績でしたね」と出力しただけなのだ。それなのに――その過不足のない一言だけで、現地住民たちはまるで人生のすべての帳尻が合ったかのような、極上の幸福に満ちた表情を浮かべて拝礼する。その熱狂の変換効率の高さが、セリアの脳内に耐え難い拒絶のノイズを響かせていた。
「……ボス」
「何ですか、セリア。バイタルの数値が著しく不安定ですよ」
「客観的な事実の照合として、いくつかの項目について最終確認をさせてください」
「提示してください。即座に処理します」
「ボスはこれまでに、現地住民に対して何らかの宗教的教義を教授されたことはありますか?」
「いいえ、ありません」
「彼らに対して、自らを至高の存在として崇拝するよう、何らかの仕様変更を命じたことは?」
「いいえ、ありません」
「あの巨大な万年豊作教会の建立を、自らの職務権限で要請されたことは?」
「いいえ、ありません。先ほども説明した通り、私は倉庫の開発を推奨しました」
「あの純白の大理石像のモデリングを、公式に承認されたことは?」
「いいえ、ありません。私は計画を却下しました」
「最後に、あの『ジャガイモの書』という名のテキストの執筆を、誰かに命令されたことは?」
「いいえ、ありません」
アンサーは、1秒の処理遅延もなく返ってきた。どこまでも平坦で、どこまでも確固たる、不変の音声データ。
そしてセリアは、そのすべての回答が「100パーセント純然たる事実」であることを完全に認知していた。あのマコトという管理者が、そのような非生産的で非合理的なセクト活動にリソースを割くはずがない。それは数億年を共に過ごしてきた彼女が、誰よりも保証できる。
では――なぜ、それらすべての「拒絶」の果てに、これほど完璧な狂信のインフラが峻工してしまっているのか。その決定的な因果関係の欠落が、彼女の脳内で解けない不条理な数式のようにぐるぐると回り続け、額の奥を激しく痛めつけていた。
2人が、いくつかの大きな穀物袋を丁寧に積み上げている作業場の脇へと差し掛かった、その時だった。
1人の若い農夫がマコトの姿を視界に捉え、大慌てでその作業の手を止めて駆け寄ってきた。
「あ、ボス!」
「何ですか。物資のストレージ搬入業務の最中ですか」
「はい! 報告させてください! 昨日ボスに授かった『大いなる教え』に従って作業を執行してみたら、完璧な成果データが出ました!」
マコトは泥のついた枯れ枝を持ったまま、ほんの数秒だけ視センスを落として思考を巡らせた。
「……教え、とは具体的にどの仕様変更のことを指しているのですか?」
「給水路に僅かな湾曲を連続して持たせる、あの聖なる公式のことですよ!」
「ああ」
マコトは納得のログを受理し、感情の起伏を排した声で冷徹に訂正した。
「あれは『教え』ではありません。流体力学の基本原則に基づいた、単なるインフラ運用の効率化です」
若い農夫は、ボスのその木で鼻をくくったような態度を見て、クスクスと嬉しそうに破顔した。
「ハハッ、ボスはいつもそうやってオレたちを試すんだから! でも、オレたちにはちゃんと分かってますよ」
「何を、理解したというのですか」
「それこそが、ボスの偉大なる『教え』そのものだってことです!」
マコトは泥のついた枯れ枝を握ったまま、静かに首を振った。
「違います。それは単に、液体が傾斜を流動する際の摩擦係数と浸透率の因果関係を説明しただけです。宗教的な属性は何一つ付与されていません」
「ええ、その通りです、ボス!」
農夫は、至高の神託を全身で受信したかのように、その場に激しく平伏した。
「自然の理をそのまま語り、自らの権威を一切誇示しない! それこそが、オレたちが生涯を捧げて遵守すべき『ボスの教え』の真髄です!」
「……」
マコトは、完全に沈黙した。
彼は、自らが出力した「液体が傾斜を流動する際の摩擦係数」という乾燥したインプットに対して、なぜ目の前の現地作業員が「生涯を捧げて遵守すべき教え」という、全く不整合なアウトプットを全自動で導き出したのか――その論理的な分岐点を特定しようと、脳内の論理回路を限界までフル稼働させて精査していた。しかし、どれほどデバッグを試みても、両者の数式は完全に破綻しており、結ばれることはなかった。
「……もし、あなたのその主張が客観的な事実であるならば」
マコトはしばらくの沈黙の後、ひどく朧気な声で、ゆっくりと言葉を出力した。
「……あなたたちが適用している『教え』という単語の定義規格は、私が保有している辞書データと、根本的な部分で致命的な不整合を起こしていると言わざるを得ません」
若い農夫は、大いなる慈悲の神託を授かったかのように、深い感動の涙を浮かべて満面の笑みを浮かべた。
「まったくその通りです、ボス! ボスの深遠なる智慧は、オレたち愚かな人間の拙い言葉の枠組みなんかには、到底収まりきらないってことですね! これぞ真の御言葉だ!」
マコトは、パチリと1回、無機質に瞬きをした。
「私は、自らの智慧について言及しているのではありません。単なる言語的なシステムエラーを指摘しているだけです」
「ああ、なんと謙虚であられるお姿か……!」
農夫は深く深く、泥に頭を擦りつけるように拝礼すると、この上ない充実感をその全身に漲らせて、再び作業へと戻っていった。
マコトは、その男の理解不能な後ろ姿を、しばらくの間不審そうに見つめ続けていた。そして、おもむろに首を巡らせ、背後に控えるセリアの方へと視線を向けた。
「不条理ですね」
セリアは両手で自らの顔を覆い、限界を迎えた脳の熱を吐き出すように、深い、深い溜息を漏らした。
「……はい。完璧な集落の暴走です、ボス」
「私の出した指摘に対して、彼は何一つ合理的なアンサーを返しませんでした」
「ええ、その通りです。彼らはボスの言葉を、最初から議論の対象として受信していないのですから」
2人は再び、静まり返った夕闇の泥道を進み始めた。
数歩の間、不穏な沈黙が空間を支配していたが、やがてマコトが、感情の波を一切排したトーンのまま、ぽつりと新しいログを提示した。
「セリア」
「はい、ボス。何でしょうか」
「過去の運用実績について、1つ照合したいデータがあります。私たちが神界管理行政区の第一執務室において、職務を執行していた頃のことです」
「はい」
「私が業務の仕様についてあなた方にレクチャーを行った際、あなた方も、今の現地住民と同じような処理プロセスを起こしていたのですか?」
セリアは、その質問に対して即座に、確固たる意志を込めて首を横に振った。
「いいえ、断じてそのようなエラーは起こしていません」
「なぜですか?」
「あの時、ボスが私たちに提示してくださったのは、公文書処理における厳格なプロシージャであり、業務の命令則に過ぎなかったからです。そこに、個人的な信仰を付与する余地など、1ビットも存在しませんでした」
「なるほど」
マコトは、満足そうに短く頷いた。
「まさに、その通りです。私が下界で行っていることも、それと全く同じ『環境の最適化』に過ぎません」
彼は、数百年ぶりに自らのロジックを完璧に理解してくれる「有能な部下」が目の前にいるという事実に、内心のシステムを深く安堵させている様子だった。
「ならば――なぜ、この下界の集落という環境においてのみ、これほどまでに仕様の異なるエラーデータが全自動で生成されてしまうのですか?」
セリアは、完全に言葉のログを失った。彼女は小さな口を半開きにしたまま、ボスの波一つ立たない瞳をただじっと見つめ返した。
どうにかして、最高位行政官としての卓越した論理的思考を稼働させ、この世界の因果関係を美しく整えた回答を作成しようと試みた。しかし――考えれば考えるほど、精査すればするほど、このルナの村の住民たちが起こしている暴走のエネルギーは、神界のいかなる数式や組織論を以てしても、合理的な枠組みに収めることができなかった。彼らの純粋すぎる狂信は、すでに独自の伝統として完成してしまっている。
彼女はゆっくりと自らの口を閉じ、それから、諦めたように弱々しく首を振った。
「……私にも、分かりません、ボス」
その唇から漏れ出たのは、一切の虚飾を取り払った、純然たる真実の告白だった。数千年のキャリアの中で、あらゆる次元のエラーを淡々と処理し、ボスのあらゆる難解な質問に対して常に完璧な進捗報告を提示し続けてきた「最強のアシスタント」である彼女が――その生涯において初めて、明確に回答不能のログを出力した瞬間だった。
マコトは彼女のそのアンサーデータを受信し、感情の起伏のない声で、静かに頷いた。
「そうですか。あなたにもバグの特定が不可能な領域ですか」
彼はそれ以上の追求を終了させた。マコトにとって、セリアという優秀な管理官が「分からない」と報告した以上、それは現時点での手持ちのリソースでは解析不能な「未実装の事象」であるという純然たる事実の確定を意味するからだ。
しかし――マコトが平然と歩みを進めるその後ろ姿を見つめながら、セリアの胸中に渦巻く焦燥と混迷のパラメータは、天井知らずに跳ね上がり続けていた。
数億年もの長きにわたる共同執務の中で、この「ボス」という絶対神に対して、合理的な説明が成立しなかった案件など、ただの1つとして存在しなかった。それなのに、今。こののどかで、泥臭い、下界の小さな辺境の村の食卓を前にして、彼女は「なぜボスがここで生きた神として崇め奉られているのか」という、目の前にある最大の不条理のメカニズムを、何一つ説明できずにいるのだ。
そして、最高位管理官である彼女の直感は、額の奥を駆ける混迷のノイズと共に、冷酷な未来のログを網膜の裏へと点滅させていた。この説明不能なバグの進行は、決してここで小康状態を維持するわけではない。今まさに、黄金のジャガイモを抱えた子供たちが教会へと到達し、さらなる教義の強制アップデートが全自動で執行されようとしている。
神の無自覚な正論と、人間の実直すぎる狂信が噛み合った瞬間――この小さな村で静かに峻工を終えた教団のシステムが、これからどれほど爆発的な規模へと肥大化し、世界の理そのものを震撼させる大火災へと発展していくか。
セリアは、夕闇の完全に没した街道の真ん中で、手に持った事務杖をミシミシと音を立てるほど強く握り締めながら、ただただ、底の知れない恐怖の予感に震えることしかできなかった。




