第86話 ボス、説明してください
傾きかけた太陽の残光が、西の山嶺の向こう側へとさらに低く、沈み込もうとしていた。
夏の終わりの長い影が街道を縦横に這い回り、木造の民家や納屋の壁を無慈悲に侵食していく。村の中央広場からは、先ほどセリアの精神に決定的な一撃を喰らわせた『万年豊作教会』の青銅の鐘が、定例の集会を告げるように、再びゴーン……ゴーン……と重々しく鳴り響き始めた。
先ほどと同じ、穏やかで美しい音色。
しかし――それを聴覚センサーに受信するたびに、セリアの額の熱はさらに上昇し、激しい混乱のノイズが脳内を駆け巡った。
彼女は、マコトの数歩後ろを付いて歩きながら、その卓越した処理能力を総動員して、現在の手元にあるすべてのデータ(状況)を再検証していた。
あの不条理極まりない巨大な純白の大理石像。
住民たちが家宝のように胸に抱えていた謎の教典。
異常な活気を帯び、定刻の礼拝を執行している巨大な教会。
物理法則を無視して黄金色に輝く奇跡のジャガイモ。
そして、あの人がただの事務報告のつもりで口にした冷徹なロジックを、文字通りの『聖なる戒律』として家の門に掲げている住民たちの異常な生態。
その一枚一枚の不整合なログ(証拠)は、それぞれが単体であれば、まだ一般的な「現地住民の過剰な親切心」として合理的な解釈を適用することができたかもしれない。
しかし――それらすべての仕様書を1つのシステムラインへと結合させたとき、導き出される最終的な結論は、もはや1つしか存在しなかった。
純度100パーセントの新興宗教セクト。
しかも、最悪なことに。その教団が崇める至高の絶対神は、泥のついた枯れ枝をのんびりと持ったまま、自らのあずかり知らぬところで完璧に稼働している精神インフラの存在に、1ビットのバグも気づいていないのだ。
「……ボス」
「何ですか、セリア。バイタルの熱量がさらに上昇していますよ」
「客観的な事実確認としてお尋ねしますが……」
セリアは、脳内の混迷を堪えながら、どうにか凛とした声を絞り出した。
「……現地の住民たちは、一体どのような開発計画(経緯)に基づいて、あの巨大な教会を建立したのですか?」
マコトは歩調を緩めることなく、思考のログをめくるように淡々と言った。
「利便性の向上(インフラの最適化)のためです」
「利便性の、向上……ですか?」
「はい。降雨時(天候不良)などのコンディションにおいて」
マコトは、まるで工場のシフト表を説明するかのように理路整然と告げた。
「屋外でのミーティングは生産性を著しく低下させます。屋根のある巨大な空間を確保しておけば、どのような気候であっても滞りなく人員を招集し、情報共有(集会)を行うことが可能です」
セリアは一時的に、反論のコマンド入力を完全に喪失した。
確かに、建築物という物理的なオブジェクト(筐体)のみにフォーカスを当てれば、彼の言うことは完璧に筋が通っている。屋根があれば雨が降っても濡れない。それは当たり前の仕様だ。
しかし、彼女が尋ねているのは、そのような乾燥したハードウェアの話ではない。
「……私が尋ねているのは、その建築物のハード仕様ではありません。彼らは、あの巨大な空間に密集して、一体どのような『実務』を執行しているのですか?」
「リーディング(読書)です」
「何を、リーディングしているのですか?」
「『ジャガイモの書』です」
セリアはゆっくりと両目を閉じた。
そのアンサーデータは、彼女の脳内に新たな不整合のエラーログを爆発的に増殖させるだけだった。
「なぜ、彼らはそれほどまでにそのテキストの履修(読書)に熱執しているのですか?」
マコトは再び、1秒ほど視線を落として思考を巡らせた。
「おそらく……そのマニュアルの記述内容が、日々の実務において非常に有用(実用的)だからではないでしょうか」
「ボスは、そのマニュアルの内容を、管理者として事前にチェック(閲覧)されたのですか?」
「いいえ、まだ一度も閲覧していません」
「一度も、ですか!?」
「はい。彼らは現在、私に対してそのテキストの貸出許可を提示していません」
セリアの官給靴が、完全に地面に凍りついた。
「……何、ですって?」
マコトもまた、部下の停止を不審そうに思いながら、足を止めてゆっくりと振り返った。
「現地の実務担当者たちの報告によれば、現在そのテキストは『絶賛コピー(写本)の処理中』であるとのことです。村の全世帯に支給するに足る十分な在庫が確保できた段階で、私への提出を行うという説明を受けました」
セリアは、自分の両手で顔を覆い、天を仰ぎたくなった。
あの『ジャガイモの書』という名の悍ましい教典。
その内容の1文字1文字が、ボスの過去の発言をサンプリングして構築された「神の御言葉」であるというのに、当の『神』本人は、在庫不足を理由に自分の教典を読ませてもらえていないのだ。そして、それを「まあ、仕分けのプロセス中なら仕方がないな」と、完璧に合理的な日常業務として容認してしまっている。
彼女は深く息を吸い込み、どうにか自らの呼吸器システムを安定させようと試みた。
パニックを起こしてはならない。パニックは、行政官としての合理的な思考能力を著しく低下させる最大のエラー要因だ。
「……ボス」
「何ですか、セリア。非常に不安定なバイタルですよ」
「では、あの純白の大理石像についてですが。ボスは、あのオブジェクトの開発計画(建立)に対して、管理者としての拒否権を発動し、直ちにスクラップ(撤去)命令を下されなかったのですか?」
「下しました。私は公式に『非生産的な建造物の開発を却下する』と仕様変更を通達しました」
「それで、彼らはどのような仕様変更を行ったのですか?」
「彼らは私の却下命令を却下しました」
「なぜ、そんな不整合なエラー(反論)が容認されたのですか?」
「現地の実務担当者たちは、揃ってこのような報告書を提示してきたのです」
マコトは当時のログを思い起こしながら、淡々と語った。
「『さすがはボス様だ。これほどの偉業を成し遂げながら、どこまでも謙虚であられる。その一切の権威を拒絶するお姿こそが、真の神の証明だ。俺たちの手でこの偉大さを後世に残さねばならない』……と」
マコトは不思議そうに首を横に振った。
「拒絶のインプットに対して、なぜ崇拝というアウトプットが導き出されたのか、私の論理回路では未だにその不整合を特定できていません。ですが、彼らが『どうしても作りたい』としつこくワークフローを提出してきたため、実務に支障をきたさない範囲であればと、最終的に建造のアプルーバル(許可)を出しました」
セリアは、空っぽになった脳のメモリーを見つめるような目つきで、完全に立ち尽くしていた。
予想していた通りだ。
ボスが誠実であればあるほど、その実直な拒絶のすべてが『至高の謙虚さ』という神聖なステータスへと全自動で変換されてしまう。
「では……あの、教会という施設そのものの建造については?」
「それについても、私は事前に警告を出しました」
「何と、命じたのですか?」
「『教会などという非生産的な空間をゾーニングする予算があるならば、直ちにそれを農産物の品質維持のための『備蓄倉庫』の開発へ投資しなさい』と仕様の変更を命じました」
「それで……彼らは、倉庫を作ったのですか?」
「はい」
マコトは、当然の報告書を受理した時のように、満足そうに小さく頷いた。
「彼らは極めて迅速に資材を集め、完璧な強度の備蓄倉庫を峻工させました」
「よかった……」
セリアの胸に、ほんの一瞬だけ、救出ミッションへの希望の光が灯った。
しかし――。
「そして、その倉庫のクローズ(完成)直後」
マコトは何の感情も宿らない声で、淡々とその後に続く絶望のシステム仕様を付け加えた。
「『資材の在庫と労働力(工数)に、まだ十分な余剰パラメータが存在します』という報告と共に、彼らはその隣に教会を建立しました」
「……」
セリアは、もはや言葉を失うことしかできなかった。
「予算の範囲内で2つのインフラが同時に峻工したのですから、プロジェクトの費用対効果という意味では、極めて良好な実績データだと言えます」
マコトは、何の冗談の成分も含まれていない、どこまでも澄み切った声でそう言い切った。
彼にとっては、もうその問題は「倉庫が手に入った」という段階で完璧に解決しているのだ。必要としていた倉庫は稼働している。ならば、その後に住民たちが独自の余剰リソースを用いて何を作ろうが、それは彼らの「私的なコミュニティの自由」の領域であり、自分が管理すべき仕様の範囲外である。それがマコトの冷徹な不変のロジックだった。
しかし――セリアにとって、最大のシステムバグは、まさにその「責任の分離」の中にこそ存在していた。
ボスは常に、自らの職務権限と、他者の自主的な判断を完璧に区別して処理しようとする。
しかし、このルナの村の狂信者たちは――自らが行うすべての意思決定(教会の建立)を、ボスの大いなる御意志の『正当な継続』であると盲信して、全自動で執行してしまっているのだ。
因果関係のベクトルが、完全に180度反転してしまっている。そして、その決定的なエラーの進行に――当の『神』本人は、未だに1ビットの猜疑心すら抱いていない。
セリアは耐えかねたように、自らの額を両手で強く押さえた。割れそうなほどの頭痛と、処理落ち寸前の混乱が、彼女の理性を限界まで磨耗させていく。
「……ボス」
「何ですか、セリア。顔色が一段と青白いですよ」
「……お願いですから、客観的な説明を提示してください」
「どのデータについてですか」
「なぜ……私がこの下界の集落を見渡すたびに、衣服の規格も、門のプレートも、石像も、子供たちの会話のログも、そのすべての構成要素が、理不尽なまでにボスの影に直結してしまっているのですか?」
マコトは泥のついた枯れ枝を持ったまま、沈黙した。
彼は、セリアから提示されたその業務質問(エラー報告)に対して、非常に真摯に、かつ厳密にその脳内の論理回路を稼働させ、処理を巡らせた。
そして――しばらくの長考の後、夕闇の黄金色の光の中で、いつもの波一つ立たない、あまりにも落ち着いたトーンでアンサー(回答)を出力した。
「それはおそらく……この集落の規模が、極めて小さいからではないでしょうか」
「……へ?」
「総人口、およびコミュニティの物理的な空間パラメータ(面積)が限定的である場合、1つの合理的なインフラ改善が全体へと波及する速度は劇的に向上します。長期間、同じ閉鎖空間で実務(共同生活)を共有していれば、構成員同士の仕様(認知)が均一化(相互理解)していくのは、組織論において極めて合理的かつ当然の環境要因です」
セリアは、ゆっくりと額から両手を下ろした。
そのアンサーは。
またしても。
――あまりにも、完璧に筋が通っていた。
ボスの個人的なシステム(視点)から見れば、それは何一つバグのない、完璧な「組織環境の分析報告」なのだ。
そして――それがあまりにも理路整然とした正論であるからこそ。
セリアは、自分が一体「どのプロセスの不整合(誤解)」から順番に説明を組み立てるべきなのか、そのデバッグの開始地点すら完全に完全に見失ってしまっていた。
下界へ降臨し、数百年ぶりの再会を果たして以降、彼女は初めて、心の中で強く、藁にもすがるような祈りを捧げていた。
(お願いですから、ボス……一度くらい、私の論理回路が『それは絶対にバグです!』と即座に却下(指摘)できるような、不条理でめちゃくちゃな回答を出力してください……!)
なぜなら、この人があまりにも『完璧に筋の通った正論』を実直に出力し続ければし続けるほど――このルナの村の伝統は、その正論をエネルギーにして、神界の存亡に関わるレベルの、さらに巨大で、取り返しのつかない大火災(狂信のすれ違い)をジェネレートしていくことが、書類をめくるよりも簡単に予見できたからだ。
セリアは迫り来る不条理な未来への果てしない混乱に、ただただ夕暮れの街道で、声もなく立ち尽くすことしかできなかった。




