第9章 四十億年の職務ログ
集会所の執務室を、本日何度目か分からぬ完璧な静寂が支配していた。
村長であり、この村の統治実務を統括する初老の男――モーレンは、手元の手書きの羊皮紙台帳をじっと見つめていた。それからゆっくりと視線を上げ、正面に座る青年、マコトを見る。そして再び、台帳へと視線を戻した。
あたかも、そうして何度も往復すれば、羊皮紙の上に刻まれた文字列が自動的に「常識的なデータ」へと書き換わってくれるのではないかと、そう切望しているかのような挙動であった。
しかし無情なことに、事象のログは微動だにしない。
「……前職、創世神」
モーレンは、そのあまりにも荒唐無稽な役職名を、噛み締めるようにゆっくりと復唱した。
「ええ、その通りです」
マコトは至って生真面目なトーンで肯定した。
「あんた、大真面目に言ってるんだね?」
「当然です」
「からかっているわけじゃないんだな?」
「私は雇用面接という公式な実務交渉の場で、ジョーク(虚偽データ)を出力するような非論理的な真似はしません」
隣の席で、ハンツが深く深く頭を垂れた。
非常に腹立たしいことに、このマコトと名乗る奇妙な青年の声には、尋常ではない説得力が宿っていたのだ。一切の揺らぎも、やましさもない、純度百パーセントの確信。だからこそ、聞いている側としては事態の不条理さが何倍にも増幅され、精神的なスタミナを削られることになる。
モーレンは、きつくこめかみを指先で揉みほぐした。
彼はこの村の統治者として、これまでに数多くの労働志望者を面接してきた経験がある。
実直な農民、血気盛んな猟師、油断のならない行商人、頑固な職人。時には、血生臭い大斧を堂々と持ち込んで実務経験をアピールしてきた、元傭兵の荒くれ者と対面したことすらあった。
しかし、その悠久の面接ログを探索してみても、「これまでに宇宙をゼロから設計した経験がある」と平然と言い放つ個体は、ただの一名として存在しなかった。
「……よろしい。別の切り口から検証を試みよう」
モーレンが声を絞り出す。
マコトの論理的な見解によれば、先ほどの初期プロセスの時点で状況の仕様はすでに確定しているはずであった。しかし、人間という生命体は、自身の受け入れたい予測データと現実のファクトが衝突した際、納得がいくまで何度も検証メソッドを切り替える習性があるらしい。マコトは静かに、次の質問を待った。
「あんたは今、それが『前職』だと言ったね」
「はい」
「では、その職務にどれほどの期間、従事していたのかね?」
マコトは数秒、思考の処理速度を調整した。
彼の本質的な生存ログを参照すれば、正確な時間パラメータを秒単位で出力することは容易だった。しかし、一般的な人間に向かって宇宙規模の巨大すぎる数値をそのまま提示すると、相手側の認知回路に過大な負荷がかかるというアラート(警告)が脳内で鳴り響いた。
ゆえに彼は、数値を限界まで丸めて、最も簡潔に表記することにした。
「およそ、四十億年ほどですね」
パキリ、と執務室の静寂を切り裂いて、硬い木が割れる不吉な音が響いた。
モーレンは、自らの手のひらの中で無残に真っ二つへと破断した、お気に入りの羽根ペンを見つめていた。
隣の席では、ハンツがもはや何も見たくないと言わんばかりに、天井の木目を虚ろな目で見つめ続けている。
マコトは、その両者の生体反応を冷静に観察していた。
人間の肉体というシステムは、やはり環境情報に対する耐性が著しく低く設定されているようだ。僅かなデータの過負荷によって、これほど容易に実務ツールが破損し、個体の精神格がフリーズしてしまうのだから。
「……そんなことは、論理的にあり得ない」
モーレンが、割れたペンを机に置きながら、低い声で事実を拒絶した。
「人間側の視点から見れば、確かにそう聴こえるでしょうね」
「人間側も何も、あり得ないものは、あり得ないんだよ!」
マコトは、わずかに首を傾げた。
「客観的な事実と、個人の認知限界による不可能の主張は、システム上の定義が異なる別個のセグメントのはずですが」
ハンツは、己の脳細胞の奥底がズキズキと物理的な悲鳴を上げ始めるのを感じていた。
「――その無駄に長い数字の検証は一旦、凍結しよう」
モーレンが、事態の泥沼化を防ぐために素早く言葉を挟んだ。
「ふむ。適切な一時処理だね」
「仮にだ。仮にあたしが、あんたのその世迷言を百パーセント信用したとしよう」
「それは好ましい。対話の実務スピードが飛躍的に向上する」
「向上しないよ!」
モーレンは即座に一喝し、それからすぐに、その非論理的な大声を出したこと自体を後悔するように深い溜息を吐いた。正面に座るこの若者は、嫌がらせではなく、本当に純粋な善意と実直さに基づいて「面接をサポートしている」つもりなのだ。それが分かっているからこそ、逃げ場がない。
「あんたは、全宇宙を実務管理していたと言ったね」
モーレンが、諦め混じりに確認する。
「はい」
「ということはだ、あんたの下には、当然ながら命令を聞く部下がいたわけだ?」
「当然、存在していました」
「どれくらいの規模の組織だったんだい?」
マコトは脳内のデータベースを探索した。
それは、質問のスコープに対して出力すべきデータ量が多すぎる事案であった。知らないのではなく、組織図の階層が深すぎるのだ。
「天界の管理事務室に常駐している、コアな実務担当の神職員だけで限定するなら、数百万名というデータになりますね」
ハンツが静かに、両手で己の顔面を完全に遮断した。
モーレンは、完全に焦点を失った虚ろな瞳で、空間の何もない一点を見つめたまま硬直していた。
マコトは相手側のフリーズ挙動を気にすることなく、ログの正確性を期すために淡々とデータを追加した。
「もし、各世界線に配置されている末端の管理局や、地域ごとの管理神、災害監視員、輪廻転生局の全職員、およびそれらをサポートする外部の精霊スタッフまで含めるなら、その総数は数階層上の桁になります」
再び、執務室の中に重苦しい静寂が沈み込んだ。
モーレンは、手の中に残されていた割れたペンの残骸を、諦めたようにそっと木製の机の上へと設置した。彼はもはや、羊皮紙の台帳に記録を書き込もうという実務的な意思を完全に喪失していた。長年の統治者としての本能が、これ以上ペンを動かしても事態の解決には一微ミクロンも寄与しないと警告していたからだ。
「いいかい、創世神の若者よ。あたしの言葉をよく聞きなさい」
「ええ、ログの受信準備は完了しています」
「あんたね、一般的な雇用の台帳に、自分の職務経歴は『宇宙の運行管理』でしたなんて書き込むことは絶対に不可能なんだよ」
「なぜですか? それが私の直近の正確な職歴なのですが」
「理由は単純さ。そんなデータを、この世の誰一人として『事実』として受容しやしないからだよ」
マコトは、その指摘を脳内で検証した。
極めて合理的で、反論の余地のない、この世界線における冷酷な基本ルール(レギュレーション)であった。事実、今日この村に漂着して以来遭遇したすべての生命体が、彼の提示した「真実」に対して爆笑という情動のエラーを返してきた。物証はすでに十分に積み上がっている。
「なるほど。つまりこの世界のレギュレーションにおいては、真実の申告がかえって実務上のバグ(問題)を誘発するというわけだね」
「話が早くて助かるよ(白目)」
「しかし、前職であることは揺るぎのないファクト(事実)です」
「そこから離れなさい!」
ハンツの喉から、もはや人生のすべての義務を放棄したかのような、奇妙で哀れな呻き声が漏れ聞こえた。
モーレンは数秒間、きつく目を閉じて自らの理性をメンテナンスしたのち、引き出しの奥へと手を伸ばした。そこから、何一つ汚れのない、まっさらな新しい羊皮紙のシートを一枚、無造作に机の上へと設置した。
「よし」
彼は新しい羽根ペンを手に取り、インク壺へと浸した。
「初期化だ。もう一度、最も安全な基本データからやり直す」
マコトは首を縦に振った。
「適切な処置ですね。私のいた輪廻転生局でも、処理待ちのエラーログが許容量を超えた際には、しばしばその一括自動初期化の術式ボタンが実行されていましたから」
「……何だって?」
「いえ、こちらの事務手続きの話です。継続してください」
モーレンは、それ以上の論理的な追求を行うのは精神の安寧にとって極めて危険であると判断し、聞こえなかったことにした。今日の短い面接実務から、この青年の発言のディテールを深追いすると、状況のログが泥沼化するという法則を完璧に学習していたからだ。
「あんたは、文字の読み書きができるね?」
「できます」
「算術の計算もできる」
「できます」
「事務処理の経験は?」
マコトは躊躇なく、即座に頷いた。
「当然、完璧に執行できます」
雇用面接の開始以来初めて、モーレンの耳に「この世界の常識的な基準」に完全に合致する、極めて正常なステータスの回答が返ってきた。村長の表情に、ようやく人間らしい安堵の光が宿る。
「ほう、具体的にはどんな事務処理を扱っていたんだい?」
マコトは、偽らざる客観的事実をそのまま実直に出力した。
「全マルチバースにおける、因果律の二重帳簿の監査、および多次元データの整合性チェック(管理事務)ですね」
パキリ、と本日二度目となる、硬い木が真っ二つに割れる不吉な音が響いた。
モーレンは、自らの手の中で再び無残に破断した二本目のペンの残骸を、呆然と見つめていた。
その隣の席では、ハンツがもはや声を発することすらなく、ゾンビのような虚ろな足取りで立ち上がると、最も近くにある執務室の頑丈な壁に向かって、自らの額を「ゴン……ゴン……」と規則的に打ち付け始めていた。脳内の認知エラーを、物理的な衝撃によってパッチ(修正)しようとしているようだった。
マコトは、その両者の奇妙な挙動を静かに静観していた。
そして、緩やかに、ひとつの冷酷な論理的帰結へと達しつつあった。
なるほど、どうやら。
この「人間」という知的生命体と、私の保有する全知のデータベースとの間には、正常という言葉の定義そのものに、数階層にわたる決定的な仕様バグ(すれ違い)が存在しているらしい。
そしてそのバグは、これからの彼の世俗的な漂流生活において、著しく巨大で、過酷な障壁として牙を剥くことになるに違いない――。
最高神は、壁に頭を打ち付け続ける男と、二本のペンを失って硬直する統治者の姿を前に、自らの前途に待ち受ける磨り減るような日常の予感を、妙に冷めた思考で噛み締めていたのだった。
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ー橘レイ




