第10章 却下という名の論理
村長の執務室を、本日何度目か分からぬ完璧な静寂が満たしていた。
モーレンは未だに、正面に座る青年――マコトの姿を凝視したままである。隣に立つハンツもまた、一微ミクロンも視線を逸らそうとはしなかった。
当の最高神マコト自身には、なぜ彼らがこれほどまでに己を凝視し続けているのか、その倫理的な理由が全く理解できなかった。
彼の精緻な演算によれば、提示された適性検査はすでに完璧な形で完了しているはずだったからだ。結果のログも、これ以上ないほど明快に出力されている。
モーレンは村の実務記録台帳の不具合を検出するよう求めた。
マコトはそれに応じて、エラーを検出した。
それも、彼らが今日まで見過ごしてきた致命的な計算ミスや転記エラーを、数え切れぬほど大量にサルベージしてみせたのだ。
したがって、この「雇用面接」という選考シークエンスは、すでに最終評価のフェーズへと移行しているのが因果律として正常な流れであった。
極めてシンプルで、論理的なシステム。
しかし不運なことに、この三次元空間の「人間」という生命体は、往々にしてどの仕様書にも記載されていない非効率な追加手順を発生させる習性があるようだった。
モーレンはようやく、分厚い革表紙の台帳をパタンと静かに閉じた。その重々しい音が、一連の技能デバッグの終了を告げる。
「――よし。あんた、合格だよ」
マコトは表情を一つ変えることなく、静かに首を縦に振った。
「ふむ。私の算出した予測値通りのリザルト(結果)だね」
ハンツが弾かれたようにマコトの顔を見た。モーレンもまた、怪訝そうに眉をひそめる。
「随分と自信たっぷりじゃないか、あんた」
ハンツが呆れ混じりに口を挟む。
「私はただ、客観的な観測事実をそのまま出力しているに過ぎないよ。誇張や虚偽を付け加える理由はどこにもない」
マコトは至って実直に回答した。彼には世俗的な傲慢さなど微塵もなかったが、その完璧な平然さこそが、かえって住民たちの認知回路を混乱させる燃料となっていた。
モーレンは太い掌で乱暴に己の顔を擦りむいた。
「……あんたがどこでそんな恐ろしい事務処理のスペックを仕込まれたのかは、もう敢えて追及しないことにするよ」
「ええ、私のいた天界の輪廻転生管理事務局での日常業務に比べれば――」
「その話はアーカイブ(凍結)しただろ!」
村長は声を荒らげ、それからすぐに己の非論理的な感情の表出を後悔するように、深く重い溜息を吐き出した。もはや、この青年の前職に突っ込むだけの精神的スタミナは残されていないのだ。
いま彼にとって重要なのは、目の前にある厳然たる事実だけであった。
この目の前の青年は、完璧に文字の読み書きができる。
算術の計算も、寸分の狂いなく執行できる。
それどころか、この村の最高統治者である自分自身すら気付いていなかった、数ヶ月前の納税台帳の計算バグを、一瞥しただけで瞬時に修正してみせたのだ。
これほどのオフィススペックを持った個体は、この辺境の開拓村においては極めて希少価値が高い。というより、著しく過剰なまでの高スペック(オーバースペック)であった。
モーレンは太い指先で、トントン、と規則的に木製の机を叩き始めた。
一度、二度、三度。
統治者としての論理回路が、激しく火花を散らしている証拠だった。
マコトは無表情のまま、次のコマンドを待ち続けた。隣のハンツは、急速に居心地の悪そうな表情へとパラメータを変化させていく。長年の付き合いから、村長がこの挙動を示すときは、常に解決困難な致命的バグ(問題)に直面している時であることを熟知していたからだ。
やがて初老の統治者は、肺の底から搾り出すような長い溜息を吐き出した。
そして、静かに宣告したのだ。
「――だがね、マコト。あたしはあんたを、この村の実務に採用することはできないよ」
執務室の中に、再び冷酷な静寂が沈み込んだ。
ハンツが驚きに目を見開き、マコトもまた、瞬きを二度繰り返した。
もっとも、両者のフリーズの理由は全く異なるセグメントに位置していたが。ハンツは村長の予測不可能な判断に驚愕し、マコトは提示された新たなデータ(不採用)の因果関係を脳内で精緻に処理していただけだった。
「……理由を尋ねてもよろしいかな?」
マコトは問いかけた。実務的な観点から見て、極めて真っ当で不可避な質問であった。
モーレンは、机の上にうずたかく積まれた粗末な書類の山を指し示した。
「理由は単純さ。この仕事が、一文の貨幣も生み出さないからだよ」
マコトはわずかに首を傾げた。
「それは、著しく論理的なコンフリクト(矛盾)を孕んだ発言だね。労働には対価が発生するのが、君たちの布いた経済システムの基本ルール(レギュレーション)のはずだが」
「それが、この辺境の現実なんだよ」
モーレンは力なく肩を落とし、窓の外へと視線を転じた。
「この村の規模を見てみなさい。村の事務処理なんてものは、臨時の、それもボランティアに近い雑務に過ぎないんだ。まっとうな常勤のポスト(仕事)じゃない」
「しかし、現に君はその統治実務を毎日執行しているようだが」
「あたしは村長だからだよ!」
「役職名が変わったところで、執行されているタスクの本質が『労働』であることに相違ないはずだがね」
ハンツは、己の脳細胞が再びズキズキと物理的な悲鳴を上げ始めるのを感じていた。
モーレンは、このマコトという青年の徹底的に生真面目な等式論理を、これ以上正面から受容するのは危険であると判断し、聞こえなかったことにした。
「要するにだ」
村長は声をワントーン落とし、現実のデータを突きつけた。
「あたしがどれほどあんたのその圧倒的なスペックを欲していようとも、この村の財政(予算)のインベントリには、あんたに支払うべき給与の枠が、銅貨一枚すら残されていないんだよ」
マコトは沈黙した。
提示された新しい財政データを脳内で解析し、瞬時にシステム上の論理的帰結へと達した。
「なるほど。つまり問題の本質は、私の実務能力の不足ではなく――」
「ああ、不足どころか過剰さね」
「――システムを駆動させるための、エネルギーソース(貨幣)の枯渇というわけだね」
「そういうことだ」
マコトは納得し、深く首を縦に振った。
結局のところ、またしても「貨幣」というバグであった。この異世界線に漂着して以来、発生するすべての問題の根本には、常にこの不完全な記号媒体が立ちはだかっている。
モーレンは言葉を継続した。
「もしこの村がもっと大規模な街か、あるいは領主様の直轄地であれば、別のシナリオもあったんだろうがね」
「しかし現実は、この開拓村の規模は著しく極小であると」
「そうだ」
「それは確かに、実務上の運用が困難なバグ(仕様)だね」
雇用面接の開始以来初めて、マコトとモーレンという両の知的生命体が、ひとつの共通の論理的結論へと到達した瞬間であった。
隣の席で、ハンツはあまりの安堵から、ついに目尻に涙を浮かべて虚空を仰いでいた。ほんの数十秒の短い間ではあったが、この世界線の常識に基づく「正常な会話」が成立したことに、涙が出るほどの感動を覚えていたのだ。
モーレンは椅子の背もたれに深く身を沈め、心の底から苦渋の情動を滲ませていた。
実務的な観点から見て、これほど惜しい事案はなかった。目の前に座るこの奇妙な青年は、これまでに彼の執務机の前に就いたどの労働者よりも、圧倒的で、非の打ち所のない「最高の実務能力」を現実に証明してみせたのだ。
しかし不運なことに、能力の高さが自動的に予算を生成するわけではない。スペックの高さが、空虚な金庫の中に銅貨を複製してくれるわけでもないのだ。そして、どれほど優れた人材であれ、貧困な開拓村を一瞬にして富裕な都市へと書き換える魔術など持ち合わせてはいない。
「だからこそ、あたしは断腸の思いであんたを却下せざるを得ないんだ」
村長は、自らの決断を冷酷に出力した。
マコトは小さく首を縦に振った。
彼には、怒りや失望、あるいは憤怒といった世俗的な情動は一切発生していなかった。なぜなら、モーレンから提示された「予算不足」という不採用の理由は、システム設計の観点から見て完璧にロジカルであったからだ。駆動エネルギーが不足しているシステムにおいて、新規プログラム(人員)を追加起動することは不可能である。極めて単純明快な事実だ。
しかし、そのエラーの承認に伴い、新たな内的バグが浮上することになる。
「ふむ。となると私は現在、再び『貨幣の保持量がゼロ』という初期の初期化状態に逆戻りしたわけだね」
マコトは、自らの衣服の空虚な隙間を見つめながら淡々と指摘した。
ハンツはきつく目を閉じ、モーレンは再び己のこめかみを指先で揉みほぐし始めた。
両の人間の脳細胞は、全く同じ不都合な現実のデータを検出していた。
この「マコト」と名乗る青年は、不採用という冷酷な現実を、あまりにも健全に、著しく実直に受容してみせた。しかし受容したところで、彼が「無一文のくせにスープを平らげ、ハンツに銅貨三枚の債務(借金)を負ったまま、行き場を失ってこの部屋に留まっている」という、局所的な緊急エラーは何一つとして解決していないのである。
執務室の中に、しばしの間の重苦しい沈黙が流れた。
やがてハンツが、人生のすべての義務を運命の因果律へと委ねたかのような、深く、長い諦念の溜息を吐き出した。
「――だったら、よ」
男は力なく声を絞り出し、村長へと視線を向けた。
「こいつをこのまま荒野へ放り出すわけにもいかねえ。別の、こいつのその無駄に高いスペックを金に換えられるような、別のレイヤーの仕事を考えてやるしかねえだろ」
モーレンは無言のまま、ゆっくりと首を縦に振った。
この不毛な雇用面接の終焉ののち、最高神マコトの漂流生活に、全く新しい可能性のシナリオが浮上しつつあった。
そしてその可能性のベクトルは、この小さな開拓村の境界線を遥かに越えた、外側の世界へと向いていたのである。




